銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第33話 「狐と人形師と赤面症。」

 

 

 

 

 

 元地蔵現閻魔な女性、四季映姫との騒がしい再会からしばし。

 慧音への挨拶を終えた月見が、人里を離れてやってきたのは、魔法の森の入口に立つ小さく寂れた古道具屋だった。今より二日前、紅魔館から人里に向かう道中で見つけたこの道具屋、どのような店なのか確かめるのは今だと思った。うららな日差しが注ぐ青空の下と、おどろおどろしい瘴気が渦を巻く森の境界線で、月見は静かにその建物を前にする。

 店には見えない。正面にはなんてことのない背の低い一軒家があって、左手には大きな蔵があって、あたりには商品なのかゴミなのかよくわからない道具たちが散乱している。入口の上で堂々と自己主張する『香霖堂』の看板がなければ、店だと思って近寄ることもなかっただろう。もう少し道具が貯まればそれこそ、魔理沙が言った通り『廃屋』となってしまいそうだ。

 

「……ふむ」

 

 外の世界ではこういうのが意外にも隠れた名店だったりするのだが、果たしてどうか。月見は、ここが本当にお店なのかをいまひとつ量り切れないまま、異界の扉を開ける心地でドアノブへと手を掛けた。

 質素な佇まいに反して西洋風のドアであり、カランカラン、と小洒落た音色を響かすドアベルまでついている。けれど店の中へと一歩足を踏み入れてみれば、ベルの小気味よい音色が詐欺だったと思えるほどに雑多な光景が広がっていた。

 床以外で置けるところはすべてに物を置いた、とでも言うかの如く、目算すら利かないほどの商品たちであふれかえった店だった。棚の中、長机の上、壁、或いは天井と、商品を飾れる場所はどこもかしこも満員で、中には商品の上に商品が積み重ねられ塔を成しているところもある。品揃え豊富、といえば響きはいいけれど、これでは物置小屋に迷い込んだのとそう変わりはなかった。

 ふと、似たような光景をどこかで見たな、と月見は思う。しばらくの間黙して考え、それからようやく思い出す。

 そうだ。ここは、霧雨魔法店に似ているのだ。

 

「……」

 

 なぜそう思ったのかはわからない。霧雨魔法店の惨状に比べれば、ここはとても綺麗に片付いている方だ。足の踏み場だってしっかりと整えられている。けれどなぜか、脳裏にあの白黒魔法使いの姿が霞んで仕方がない。

 向かって正面奥には会計を行う帳場があるが、店員の姿は見られない。……ここで突然奥から魔理沙が現れたとしても、月見はまったく驚かないだろう。

 とりあえず帳場の方へと歩を進めながら、月見は周囲の商品を観察してみる。すると、外の世界ではもう見る機会のなくなった懐かしい道具たちに交じって、電力を必要とする比較的最近のものがあることに気づいた。

 

「ほう……?」

 

 どうやら、ただ雑多なだけの古道具屋ではないらしい。興味深く思っていると、帳場の奥の暖簾をかき分けて一人の男が現れた。

 

「いらっしゃい。ようこそ、香霖堂へ」

 

 声は若い。見た目は月見とほぼ同年代の、店の主人を名乗るにはまだ年若い青年だ。髪はやや灰色がかった銀髪で、眼鏡の奥で光を映す金の瞳は柔らかい。身長は高めだが、一方で体の線は細く、ともすれば優男といった印象を受け得る。

 この店の店員だろうか。青年は月見を見て、意外そうに中指で眼鏡を持ち上げていた。

 

「おや……どうやら一見さんみたいだね」

「はじめまして。……ここの店員さんかな?」

「いいや、店主だよ。一応ね」

 

 ほう、と月見は感心の吐息を一つ。外の世界の道具が置かれているのはもちろん、彼ほど年若い青年に取り仕切られているという点でも、この古道具屋はかなり珍しい部類に入りそうだ。

 ……とその時は思ったけれど、よくよく注意深く見てみれば、どうやらこの店主は慧音と同じで半人半妖らしい。感じる気配に、うっすらと妖怪のものが混じっている。

 

「半人半妖の古道具屋さん……ね」

「そういう君は……狐かな。銀狐なんて、珍しいね」

 

 品定めするような目で、青年が月見の尻尾を観察する。それからふと、喉になにか引っかかったように、眉根を寄せて考え込む素振りをした。

 

「……もしかして君は、月見という名前だったりするかい?」

「そうだけど……どこでそれを?」

 

 月見が問い返せば、青年は苦笑して眉間の皺を解いた。

 

「やっぱりそうなんだね。……昨日、この店に魔理沙がやってきてね。彼女から聞いたよ」

「ああ……」

 

 月見にこの古道具屋のことを教えてくれたのは魔理沙だ。それを考えれば、彼女がここの店主と知り合いだったとしてもなんらおかしなことはないし、ここが霧雨魔法店に似ているのにも納得がいく。

 

「君のこと、大分楽しそうに話していってくれたよ。面白そうなやつがやってきた、ってね。魔理沙の家を掃除してくれたんだって?」

「ごちゃごちゃだったからね、ちょっとだけだったけど。……魔理沙とはどういう?」

「まあ……家族みたいなものかな。一時期、子守りを任されていたことがあってね」

 

 懐かしそうに微笑んだ青年は、けれどふいに、明後日の空を見つめてふっと目を細めた。

 

「昔は素直でいい子だったのに……どうしてあんなことに」

「……」

 

 そんなことないぞ、とっても素直でいい子じゃないか――とは、さすがに、言えなかった。月見がどうコメントしたものかと悩んでいると、青年は低く笑って、静かに首を横に振った。

 

「すまない。こんなこと言っても、困らせてしまうだけだね」

「……お前も大変なんだなあ」

 

 反骨の塊みたいな彼女に振り回されているのは、なにもパチュリーだけに限った話ではないらしい。

 

「お気遣い痛み入るよ。……ともかく、せっかく香霖堂に来てくれたんだ。ゆっくりしていってくれ」

 

 そう言って、青年は己の佇まいを整えた。襟元を正して、声は朗々と、表情には柔らかい営業スマイルを。

 小さく寂れた古道具屋であっても、それは確かに、気骨のある商売人の佇まい。

 

「僕は森近霖之助。この香霖堂と、末永いお付き合いをお願いできれば、これ以上はないよ」

 

 一営業主としての年季を感じさせる堂に入った挨拶だったが、それにしても、『この香霖堂と』の部分に微妙にアクセントが入っていたように聞こえたのは、気のせいだろうか。

 彼の浮かべる営業スマイルが、なんだか月見に釘を刺そうとしているようだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 森近霖之助。この幻想郷で百数十年を生きた半人半妖。魔理沙の実家である『霧雨店』で修行したのち、この香霖堂を開いて独立。魔理沙とは彼女が赤子の頃から家族同然の付き合い。古道具屋を経営する通り道具というものに強い関心を持っていて、更には外の世界についても――おや君は最近まで外で生活していたのかい、じゃあ少し教えてほしいことがあるんだけど――と、云々。

 霖之助は物静かな印象を受ける青年だが、やはり商売人だけあって根は会話好きらしかった。ゆっくりしていってくれ、なんて言いつつも、放つ言葉は運河さながらに絶えず月見を休ませないのだから、まずゆっくりすべきなのは霖之助の方だろう。ふとしたところから話題が外の世界へと移れば、霖之助は本当に止まらなくなってしまったものだから、お陰で彼の人柄を判断するのは容易かった。

 古道具屋の経営者ではあるが、その実、学者や評論家を思わせる思考派のようだ。外の世界に対していかに並々ならぬ興味関心を持ち、いかに考察と探究を繰り返しているのかは、その語りに耳を傾けるだけで容易に察することができる。店に外の道具を置いているのはその延長線でもあるようで、しばしば気に入った物を拾ってきては、飽きるまで適当にいじくり倒したのち店の棚に並べるか、懐にしまって門外不出の非売品にするらしい。

 なるほど、魔理沙の蒐集癖は、もしかすると霖之助に影響されたものなのかもしれない。

 

「外といえば……店に並んでる外の道具は、どこから?」

 

 霖之助に道具や外の世界について喋らせていると日が暮れてしまいそうなので、月見はさりげなく話題を逸らすことで、会話のイニシアチブを取ろうとする。

 

「ああ、それは無縁塚だよ」

「無縁塚?」

 

 けれど予想以上に興味深い答えが返ってきたので、ついオウム返しで訊き返してしまった。月見がかつて生活していた500年前の幻想郷にはなかった土地だ。

 話題が切り替わったことで、熱の入っていた霖之助の口調が多少冷静になる。

 

「魔法の森を山奥に抜けて、『再思の道』という道を進んだ先にある。そこは、幻想郷と冥界を仕切る結界と、博麗大結界とが重なっている場所でね。そのせいで結界が綻んでいて、冥界とつながったり、外の世界の道具が流れ着いたりすることがあるんだよ」

「ほう、それはまた……」

 

 興味深い場所だね、と月見は頷きかけたけれど、ふと喉に小骨が引っかかる違和感を覚えて思い留まった。

 結界が綻んでいる、と霖之助は言った。時には、本来ならば隔絶されているはずの冥界にすらつながってしまうほどに。

 それほどまで不安定な綻びを、紫が修復していないのはなぜだろうか。

 

「……」

 

 外の世界の道具が流れ込む、と霖之助は言った。……では、道具以外のものは?

 500年振りにこの幻想郷へ戻ってきて、今の人里が紫の結界で守護されていると聞いて。それからずっと、頭の片隅で、表に出さないまま考えていたことがある。言葉にして紫に問うのは酷だろうからと、気づかぬふりをしていたことがある。

 もしも、月見の憶測が当たっているならば。

 まさか、『無縁塚』という名は――

 

「――お邪魔するわよ、霖之助さん」

 

 ふいに響くドアベルの音が、月見の思考を遮った。振り向き見れば、ちょうどドアを開けて、店に入ってきたばかりの少女がいた。

 蒼い、と月見は思った。瞳だ。広大な蒼海を極限まで凝縮して作り上げたような、強いコバルトブルーの色をしている。薄く白妙を被せた肌の上で、二つの蒼は大きすぎるくらいで、まるで吸い込まれてしまいそうな心地がした。

 その錯覚を振り払って全身を見てみれば、肩に掛かる程度の金髪をバンド代わりのリボンでまとめて、ドアノブに手を掛けた体勢のままロングスカートをぴくりともさせずに固まっている様は、まさに西洋のドールを思い起こさせる――

 

 ――パタン。

 

「……」

 

 少女が静かにあとずさってドアの向こう側に消えた。

 来店した瞬間に退店するという、斬新な冷やかしだった。

 

「こら、アリス……」

 

 月見が言葉を失っていると、すぐに霖之助が苦笑しながら帳場を離れ、少女が消えていったドアを引き開けた。外に顔を出して彼女を呼び止め、そこから何事か、小さな声で一言二言言葉を交わす。

 一方の月見は、先ほど霖之助が口にした名前を聞いて、過日の魔理沙との会話を思い出していた。魔理沙の友人である、アリスという名の人形師。出会えば抱腹絶倒の如くだと、魔理沙がやけに自信を持っていた。

 もしかすると、彼女がそうなのだろうか。その割には、笑う間もなく鮮やかに逃げられてしまったのだが。

 

「――だからほら、知らない人がいるからって逃げ出すのはなしだ。頑張って克服するって言ったのは君だろう?」

「そ、それはそうだけど……」

 

 断片的に聞こえてくる二人の話し声からして、少女が逃げ出した原因は月見らしい。もう随分と長い年月を生きてきた身だけれど、初対面であそこまで露骨に避けられたのは初めてだった。ひょっとすると狐が大嫌いなのだろうか。そうだとしたらちょっとショックだなあ。

 などと、月見が考えていると。

 

「いや、失礼したね」

 

 霖之助に導かれて、先ほどの少女が抜き足差し足で店に戻ってきた。けれど彼女の表情が、まるで天敵の巣穴に突き落とされた小動物みたいになっているので。

 

「……ええと?」

 

 フォローを求めて霖之助を見れば、彼は片手で少女を示して言った。

 

「彼女は、魔法の森に住んでいる魔法使いのアリス。優秀な人形師なんだけど……この通り、極度の人見知りでね。特に、初対面の男性相手には」

「人見知り……」

 

 月見は何気なくアリスを見た。するとその途端にアリスの体がびくりと飛び跳ねて、恐怖からか羞恥からか、ますます小さく縮こまってしまった。顔なんて遠目でもはっきりとわかるほど真っ赤になっていて、今にも湯気を上げそうだ。

 けれど、ここで黙ってしまってはなにも始まらない。月見はとりあえず、挨拶をしてみる。

 

「こんにちは」

「っ……!」

 

 それなりの速度で逃げられた。後ろに大きくあとずさったアリスはそのまま勢いあまって壁にぶつかって、後頭部を押さえて声なき悲鳴を上げた。

 

「……、」

 

 月見がまたも掛ける言葉を見失っていると、一方の霖之助はとうに慣れているのか、震えるアリスの肩を優しく叩いて、

 

「ほら。挨拶されたんだから、ちゃんと返事をしないと」

「ぅ……」

 

 アリスが、一瞬だけ月見を見た。本当に一瞬だ。目が合った、と月見が思った瞬間には彼女は既に深く俯いて、細い息遣いで深呼吸を繰り返していた。

 それから、俯けていた顔を、ちょっとすぎてなにも変わらないくらいに、ほんのちょこっとだけ持ち上げて。

 

「…………こ、こんにち、は」

 

 やっとの思いで出てきたその言葉は、蚊でももう少しまともに鳴けるだろうと思うほどに小さくて、月見は危うく聞き逃してしまうところなのだった。

 なるほどなあ、と思う。確かに魔理沙のような性格の人から見れば、これは腹を抱えるくらいに面白いかもしれない。

 けれど月見としては、苦笑い、といったところだろうか。少なくとも、本気で怖がっている相手を前に抱腹絶倒するような真似は、月見にはできそうもない。

 

「……席、外すか?」

 

 なんだかこのままでは、アリスが緊張と恥ずかしさのあまり死んでしまいそうだ。

 けれど、霖之助からの返答は否。

 

「いいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ。……アリス、この前注文してくれた人形用の織物を取りに来たんだろう?」

「そ、そうだけど」

「じゃあ少し待っててくれ。奥にしまってあるから、取ってくるよ」

「え……」

 

 霖之助の心ない一言に、アリスが捨てられる子犬みたいな顔になって彼を見上げた。ふるふると震えるコバルトブルーの瞳が、お願いだから一人にしないで、と必死に訴えかけている。

 アリスは極度の人見知りのようだが、霖之助に対してはある程度心を開いているらしい。霖之助は、見知らぬ他人が目の前にいるというこの状況においては、アリスのたった一つの心の支えなのだ。

 そんな彼が一時的とはいえ店の奥に引っ込んでしまったら、アリスにしてみれば、素性の知れない男と二人きりになってしまうわけで。

 

「……や、やっぱり私、帰る」

「こらこら」

 

 血の気の失せた顔で引き返そうとしたアリスの手を、すぐに霖之助が苦笑交じりで捕まえる。

 

「君、そんなんじゃあいつまで経っても人見知りを克服できないよ?」

「で、でも……」

「大丈夫。彼とはしばらく話をしてみたけど、とてもいい妖怪だよ。……それとも、僕の言うことなんて信じられないかな?」

「……っ」

 

 さすが商売人、かどうかはわからないが、逃げ道を封じる卑怯な言い方だった。心を許した数少ない知人からそんな風に言われて、首を横に振れる者などなかなかいないだろうに。

 案の定、アリスの両足は床に縫いつけられてしまった。彼女は極度の緊張に揺れる面持ちで、霖之助と月見の間で何度も視線を行ったり来たりさせていた。

 ねえ霖之助さん、本気で言ってるの? 本気で私を一人にしちゃうの? む、無理よ無理よやめて死んじゃうお願いだから一人にしないでそれか私も連れて行って――。

 などと霖之助に必死に助けを求めているであろうアリスの心中に、月見ですら気がつくのだから、まさか霖之助が気づいていないわけはないはずなのに。

 

「それじゃあ、逃げずに待ってるんだよ」

 

 なんて人のいい笑顔で残酷なことを言い残して、あっさりと店の奥に引っ込もうとするものだから。

 

「おい、霖之助……」

 

 霖之助がこちらの横を通り過ぎる間際、月見は声をひそめて彼を呼び止めようとした。しかし彼はたたえた笑顔をかけらも崩すことなく、同じく声をひそめて、

 

「悪いけど、少しの間よろしく頼むよ」

「いや、だからな」

「できたら、話し相手になってもらえると助かるよ。それじゃあ、すぐに戻るから」

 

 結論。霖之助は救いようのない鈍感野郎か、もしくは好青年に見せかけた薄情者だ。

 取り残されたアリスは、それはもうこの世の終わりみたいな顔をして、もはや震えることすらできずに立ち尽くしているのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……」

「……」

「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………」

 

 泣きたい。いや、冗談などではなく。

 互いが互いの様子を窺いながら、けれど一つも言葉を生むことなく沈黙し続ける空間には、人の心を壊す力がある――といえば大多数の人が大袈裟だと思うだろうが、少なくともアリスにとっては紛れもない事実だった。霖之助が薄情にも店の奥に消え去ってからというもの、アリスは何度泣きたいと思ったことか。何度帰りたいと思ったことか。知らない異性と二人きりで刻む無音の時間に、アリスの心は早くも挫けかけていた。

 不幸だ。滅多に客のいない香霖堂に珍しく誰かがいたと思えば、霊夢でもなく魔理沙でもなく咲夜でもなく、知らない人、しかも男の人だったなんて、不幸すぎて涙が出てくる。

 人見知りという言葉を使えば可愛らしいが、アリスの場合は一種の対人恐怖症に近かった。とにかく人と話すのが苦手で、誰かと目が合うのが恐ろしくて、一緒の空間にいるのが苦痛だった。だから魔法の修行という大義名分のもと、人のいない魔法の森に家をつくって、一人でひっそり人形たちと暮らしていた。

 けれど、魔法の森に居を構えたからといって、外との交流を完全に断てるわけではなかった。……霧雨魔理沙という少女がある日突然家に押し入ってきた時は、泣いた。冗談抜きで泣いた。食べられると思った。この世の終わりだと思った。霧雨魔理沙は涙に弱い、という意外な弱点が明らかになったりもした。

 ……まあ幸い、それで魔理沙に食べられてしまうこともこの世が終わってしまうこともなく、紆余曲折を経て彼女と友達になり、そこから霖之助を紹介されて、人形を作るための材料を売ってもらうようになって。魔理沙も霖之助も根はいい人たちで、交流を続けているうちに、少しずつ人と話せるようになってきた気がして。

 だから、誰かと一緒にいるのもそんなに悪くはないのかなと、これからはちょっと頑張ってみてもいいのかもしれないなと、

 思っていた矢先にこれだ。

 打倒人見知りを掲げて乗り越える壁にしては、今のアリスにとってはてっぺんが見えないほどに高すぎる壁なのだった。

 

「……霖之助、遅いねえ」

「えっ…………あ」

 

 その言葉が、独り言ではなく、自分に向けられたものだと理解するまで、数秒の時間が必要だった。アリスとともに霖之助の戻りを待つ男は、店の棚をぶらぶらと見て回り、手持ち無沙汰に商品を物色していた。

 このあたりでは珍しい、銀色の毛並みを持つ妖狐だ。見た目は霖之助と同じくらいの年齢で、しかしそれ以上に達観しているとでもいうのか、そよ風みたいな物腰をしているのが印象的だった。この気まずい沈黙をまったく意に介した様子もなく、自分の気が向くままに商品をいじくる姿は、さわさわと風が吹いているよう。

 

「ずっと立ってて疲れないか? どこかに座ってたらどうだ?」

「う…………え、ええと」

 

 二度目の言葉は、すぐに話しかけられているのだとわかった。黙っていては失礼だから、なんでもいいからなにか答えないと、と思う。別に疲れてなんていない。だから大丈夫だと答えればいい――と、思うことはできるのに、言葉にすることができない。

 そんな自分が情けなくて、ますます唇が重たくなって、やがて動かなくなってしまう。

 その沈黙を誤解した彼が、ため息をつくように小さく笑う。

 

「ごめん、迷惑だったな」

「っ……そ、そんなこと……」

 

 ない、と、最後まで言い切ることはできなかった。今の状況が迷惑かどうかを言えば、やっぱり人見知りのアリスにとっては迷惑だったから。

 けれどそれは、この妖狐が悪いのではない。元凶は、彼とアリスを二人きりにして勝手に奥へと引っ込んで、なおかつもうそろそろ十分くらいが経つのにまったく戻ってくる気配がない霖之助だ。アリスが人見知りなのはよく知っているだろうに、本当にひどい店主だ。家に帰ったら、香霖堂にしばらく客が寄りつかなくなるよう念入りに呪いをかけておこう。

 

「本当に辛いんだったら、席を外すから。そのくらいは、躊躇わないでくれ」

「……」

 

 多分、優しい人なのだと、思う。緊張して上手く喋れないアリスに戸惑う者、呆れる者、苛立つ者、或いは意地悪に笑う者はたくさんいたけれど、彼は違った。口下手なアリスを快く受け入れて、包み込むように優しい表情で、そこにいる。アリスの負担になりすぎないよう、距離を保ってくれている。

 

「……っ」

 

 だから、アリスは。

 このまま黙っていないで、話をしてみようと、思って。

 決して上手には話せないだろうけど、彼ならきっと、戸惑ったりせず、呆れたりせず、苛立ったりせず、優しい笑顔で付き合ってくれるような気がしたから。勇気を持てるような気がしたから。

 思い出すのは、魔理沙から教えてもらったアドバイス。人と話をしたい時は、相手が興味を持ってくれるような話題を出すのが常套手段。

 そしてアリスには、他人の興味を強く引き寄せることができる、特技がある。

 

「――……」

 

 二回大きく深呼吸をして、手に取るのはアリスの大切なお友達。

 魔力を練り上げ、彼女に命を吹き込んで。

 そうして彼へと投げ掛ける、最初の言葉は――

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――シャンハーイ!」

「……は?」

 

 物静かな香霖堂で響くにしては、えらく珍妙な声だった。月見が思わず振り向けば、アリスの目の前に小さな人形が浮かんでいて、小さな両手で元気に万歳の格好をしていた。

 はて、と月見は先ほど聞こえた言葉の意味を考える。シャンハイ――上海とは、ともすれば首都の北京よりも有名かもしれない、言わずと知れた中国の大都市の名だ。中国の様々な文化が一堂に会するビジネス都市で、無論月見も何度か足を運んだことが、いやそうではなく。

 

「……シャンハイ?」

「シャンハーイ!」

 

 頭に大きな赤いリボンをつけた、女の子の人形である。大きさは、アリスの顔と同じくらい。人形なので表情はないものの、陶器を叩くように澄んだ声は、とても豊かに笑っている。

 その人形の後ろでは、アリスがそわそわと落ち着かない様子で、月見に目を向けては逸らしてを繰り返している。突然の出来事だったので初めはなにがなんだかよくわからなかったけれど、考えてみればなんてことはない。

 あれはいかにも、月見の反応を待っている動きだ。

 

「……その人形は、お前の?」

「え、ええ」

 

 とりあえず尋ねてみれば、アリスがほっとした様子で頷いたので、間違いはなかろう。これは、コミュニケーションの苦手なアリスなりに、月見と話をしようと勇気を振り絞った結果なのだ。自分が最も得意としている人形を見せることで、月見の関心を引き、話の種を蒔こうとしているのだ。

 なるほど、ここまでの勇気を見せられた以上、応えないのは野暮というものだった。月見はアリスを緊張させないよう、柔らかい表情で応じる。

 

「喋る人形なんて、珍しいね」

「そ、そうかしら」

「そうだとも。少なくとも私は初めて見たよ?」

 

 人形は文字通りぬいぐるみなのだが、アリスが使っているのは、魔力を通すことで己の道具や手足として使役できる、陰陽術における式神のようなもの。それが今、月見の前で元気に挨拶をしてくれているのは、主人であるアリスがそうするように命令をしたからだ。

 つまりこの人形は、口下手なアリスに代わって、人とコミュニケーションを取ってくれるもの。腹話術師が人形の言葉を代弁するように、この人形が代弁するのは、そっくりそのままアリスの言葉というわけだ。

 人見知りな自分でも、人形を使えば、誰かと話ができるから。

 

「なるほどねえ」

「シャ、シャンハイッ」

 

 月見がついつい笑うと、人形は恥ずかしそうに両手をぶんぶん振り回した。さしずめ、笑わないでよ、といったところだろうか。

 悪い悪い、と月見は軽く謝って、

 

「その、シャンハイっていうのは?」

「こ、この子の名前……『上海人形』っていうの。半自律型の人形で……あ、半自律型っていうのはね」

 

 自分の得意分野である人形の話となれば、人見知りなアリスでもいくらか饒舌になるようだった。訥々と拙い言葉でも、頑張って人形の解説をしようとするアリスの姿は、見ていてとても微笑ましかった。言うなれば、生徒の一生懸命な自由研究発表を見守る教師の心地に近いかもしれない。

 月見がそうやってアリスの説明に耳を傾けていると、彼女はふいにはっとして、気まずそうに顔を俯かせた。

 

「ご、ごめんなさい……訊かれてもないのに、変なことまで」

「ん? いいよ、続けて?」

 

 そんなことでいちいち頭を下げていたら、訊いてもいないのに外の世界についての考察を散々聞かせてくれた霖之助は、月見に土下座をしなくてはいけなくなる。なにも気にすることはない。上手くできるかなんてわからないけれど、それでも頑張ろうと一生懸命になるアリスの話は、むしろこちらから頼み込んで聞きたいくらいだった。

 

「それで、半自律型って結局どういうものなんだ?」

「え、えっと……要は、人形師が簡単な命令をするだけで、あとは自動で動いてくれる人形のこと……」

 

 かすかに安堵した笑顔を見せて、アリスがまた語り出す。

 

「いつか、完全な自律型の人形を、作りたいんだけど……この子はまだ、未完成で」

「つまり……自分だけの意思を持った人形を、ということか?」

 

 こくり、と上海人形が頷く。

 

「そ、そう……だから、まだ全然、大したことないんだけど」

「おや、そんなことはないぞ?」

 

 月見はアリスの言葉を遮るように言い、そこから先を制した。ふいを衝かれくるりと丸くなった碧い瞳に、微笑んで。

 

「だって、私には作れないもの。人が作れないものを作ることができるんだから、充分、大したことだよ」

 

 沈黙は、香霖堂の絡繰時計が数回ちくたく鳴るだけの間。

 まるで告白でもされたみたいに、ただでさえ緊張で赤くなっていたアリスの顔が真っ赤っ赤になった。

 

「えっ……やっ、私は全然そんな」

 

 恐らく人見知り故に人から褒められる経験がなくて、こういう言葉にほとんど慣れていないのだろう。すっかり度を失ったアリスは咄嗟に両手を振って否定しようとし、けれど途中で、もっと他に言うべきことがあると気づいたのか、

 

「あ、えとそのっ、ありがとうございますっ!」

「あ」

 

 目の前に上海人形がいるのも忘れて勢いよく頭を下げたものだから、月見が止める間もなく、上海人形の背中に見事なヘッドバットが炸裂した。「シャバッ」と変な声を上げて、上海人形が床に叩きつけられる。真っ赤だったアリスの顔から少しだけ血の気が引いた。

 

「あっ……ご、ごめんね、上海」

「シャンハーイ……」

 

 アリスが膝を折って手を伸ばせば、上海人形は服の埃を払い落として彼女の掌の上に乗る。アリスは上海人形を自分の肩に乗せて、「ごめんね」ともう一度謝りながら立ち上がる。それを見て、月見の脳裏を半自律型という単語が掠めた。

 アリスからの説明を思い出せば、半自律型の人形とは、人形師が簡単な命令をするだけであとは自動で動いてくれる人形のこと。そして上海人形は、その半自律型の人形だったはずだ。

 と、いうことは。

 

「……」

 

 気づいてはいけないことに気づいてしまった気がした。月見の予想が正しければ、上海人形は半自律型なのだから、アリスからの命令なしで勝手に動き出すことはできないはずだ。であれば、上海人形がヘッドバットをくらって「シャバッ」と奇妙な悲鳴を上げたのは、そうするように命令を受けたから。「ごめんね」というアリスの謝罪に応じて掌の上に乗ったのも、やっぱり、そういう命令をされたからではないか。

 そしてこの場合、上海人形に命令できるのは主人であるアリスのみ。

 ということはつまり、アリスと上海人形の間で行われるやり取りはすべて、

 アリスの一人芝居、

 

「あ、あの……どうかした?」

「え……あ、いや」

 

 月見ははっと我に返った。アリスが不安そうな目でこちらを見つめている。気づいてしまった事実の片鱗に圧倒されて、いつの間にか難しい顔をしてしまっていたらしい。

 いやいや決めつけるのはまだ早い、と月見は心の中で悪い考えを振り払おうとする。もしかすると上海人形は、部分的には自律化が完成していて、叩かれたら悲鳴を上げたり、謝られたらちゃんと反応を返したりできるハイスペックな人形なのかもしれない。そしてアリスは引っ込み思案だから、たまたまそこまで上手く説明することができなかったり、忘れてしまったりしていたのかもしれない。そういう可能性だって充分にありえる。なのに一人芝居などと勝手に決めつけてしまうなんて、いくらなんでも失礼極まりないではないか。

 もっとも、真相をアリスに確認するほどの勇気は、今の月見にはない。

 

「なんでもない。大丈夫だよ」

 

 だから、月見は微笑む。よしんば月見の悪い予想が当たっていて、アリスが、人と付き合うのを恐れるあまり人形相手に現実逃避してしまった子だとしても。魔理沙なら大笑いするのだろうが、月見は正面から受け止める。

 

「そういえば、自己紹介がまだだったね」

 

 まずは人付き合いの第一歩として、自己紹介。

 

「私は月見。最近こっちにやってきたばかりの、ただのしがない狐だよ」

 

 もしできるのであれば、霖之助のようにアリスと知り合いになって、人見知りを改善するささやかな手助けができればと思う。久遠の昔から人間たちとともに生きてきた月見からしてみれば、最低限以上の交流を断って孤独に生きる人生は、少しもったいないと、思うのだ。

 豊かな友好関係は、人の心をもまた、豊かにする。理想論ではなく、過去の体験に基づく確かな経験則だった。

 

「えっ……ええっ、と」

 

 月見が右手を出せば、アリスは赤みの増した頬でたじろいで。

 けれど数秒の葛藤ののちに、しっかりと自分の言葉で、応えてくれた。

 

「ア、アリス・マーガトロイド……人形師、です。よろしく……」

「ああ、よろしく」

「シャンハーイ!」

 

 嬉しそうな声で右手を差し出してくる上海人形の、その行動が、今だけはアリスの命じたものであればいいと、思って。

 布地のふわふわした小さな手と握手をすると、見計らったようなタイミングで、店の奥から霖之助が戻ってきた。

 

「いや、お待たせしたね。僕としたことが、どこにしまっていたのかすっかり忘れてしまって」

 

 細長い長方形の箱を帳場に置いて、すまなそうに笑う。その笑顔を、月見は嘘なのだろうなと思った。おおかた箱はとっくに見つかっていて、あとは人見知りなアリスが月見とちゃんとコミュニケーションを取れるかどうか、どこかでひっそり聞き耳を立てていたのだろう。

 そして、なんとかかんとか無事自己紹介ができたようなので、一安心して戻ってきた――と、そんなところに違いない。

 

「さて、頼まれていた商品はこれで間違いないね? 確認してみてくれ」

「え、ええ」

 

 ともあれ霖之助が戻ってきたことで、アリスは肩から少し力を抜けたようだった。ちょっとだけ救われた顔をして、ちょこんと月見に会釈をすると、小走りで帳場まで駆け寄っていく。

 

「もう、遅いわよ霖之助さんっ」

「いや、悪かったね。今度からはちゃんとわかりやすい場所に置いておくようにするよ」

 

 他人行儀な霖之助の笑顔が、とても白々しい。

 

「人形用の織物で、赤と白と青。間違いないかい?」

「ええ、大丈夫。……それじゃあこれ、お代」

「毎度あり。……っと、もう行っちゃうのかい? せっかくだから、ゆっくりしていったらどうかな」

 

 お金を払い、箱を受け取るなりすぐ踵を返そうとしたアリスを、すかさず霖之助が呼び止める。悪事を見咎められたようにびくりと肩を震わせたアリスは、言い淀み、主に月見の方を気にしながら、

 

「その……今日はちょっと、他にやらなきゃいけないことがあって」

 

 明言こそしなかったが、その仕草から、アリスが早く月見と別れたがっているのは明らかだった。どこかの薄情な誰かさんが無情にもアリスを置き去りにしたせいで、彼女の精神はもうすっかり磨耗しきっているのだ。

 アリスの人見知りは筋金入りというか、鉄骨入りに近いレベルなので、引き留めるのは酷だろう。

 

「いいじゃないか、霖之助。無理に引き留めるのもなんだ」

 

 自己紹介まで持っていけただけ、今回は充分。ここから先は、また次の機会にでも、ゆっくりのんびりやっていけばいい。そう広くもない幻想郷だから、また顔を合わせた時に、人形のことでも下らない世間話でも、一言でも二言でも、話ができればいいのだ。

 

「……ふむ」

 

 霖之助は顎に手をやって考えてから、諦めるように緩くため息をついた。

 

「……まあ、それもそうだね。それじゃあアリス、またのご来店を」

「え、ええ」

 

 またちょこんと可愛らしく会釈をして、そそくさと、小動物のように出口へと駆けていく、そのアリスの背に。

 

「またね」

 

 と、短く月見が言えば。

 

「……」

 

 アリスはドアに手を掛けた体勢のままで固まって、振り返らずに、

 

「……ま、また」

「シャンハーイ!」

 

 蚊の鳴くように小さな言葉と、上海人形の元気な声を残して、やはりそそくさと、香霖堂をあとにしたのだった。

 ドアが閉まり、ドアベルが鳴り終わり、たっぷりと一度呼吸をするだけの間を置いて。

 

「……あれはまた、なんともまあ」

「そうだろうね」

 

 月見の方から口を切れば、霖之助は含むように苦笑して、帳場の椅子へと腰を下ろした。

 

「彼女ほどの人見知りは他に類を見ないよ。……でも君はなかなかやるじゃないか。まさか初対面で自己紹介まで持っていけるとは思わなかった」

「そうだね。……どこかの誰かさんが妙なお節介を焼いてくれたお陰でね?」

 

 月見の半目に、悪かったよ、と霖之助は素直に詫びる。

 

「でも、これでも人を見る目はあるつもりでね。君なら彼女にいい影響を与えてくれるような気がしたんだよ」

 

 それから、取ってつけたように、

 

「『人を素直にする妖怪』……なんて、魔理沙が言っていたしね」

「……どうかな」

「どうもなにも、君は本当によくやってくれたよ。なにせ僕が初めて彼女に会った時は、ものの見事に逃げられたんだからね。それと比べればまさに雲泥の差さ」

 

 魔理沙がいてくれなかったらどうなっていたことやら――調子のいい笑顔でそんなことを言いながら、彼は左手で、月見の後ろで埃を被っている商品たちを示した。

 

「お礼に、なにか気に入った商品があれば」

「くれると?」

 

 間髪を容れずに首を横に振られる。

 

「それは物と値段によるよ。でも、少なくとも割引くらいはさせてもらうさ」

 

 月見は椅子越しに背後を振り返った。来る日も来る日も商品棚で待ちぼうけを食うばかりの商品たちが、みんながみんな、捨てられた子犬みたいな目で一心に月見を見つめているような気がした。

 月見は少し考えて、

 

「……それじゃあ、また今度道具を買いに来るから、その時に割引してくれるかな」

 

 近いうちに家が完成すれば、様々な道具を買い揃える必要も出てくるだろう。その時に、この香霖堂でもいくつか調達するようにすればいい。先ほど棚を見て回って気づいたが、古道具屋の割に随分と状態のいい品が多かった。

 

「それは構わないけど……今は持ち合わせがないのかい?」

「や、単純に荷物を増やしたくないだけだよ。このあともう一ヶ所、回ってみようと思ってる場所があってね」

 

 現在時刻は昼下がりをややも過ぎた頃。霖之助の薀蓄で時間を食われたが、軽く足を向けるだけならば問題ないだろう。

 霖之助はなるほどと頷き、

 

「それじゃあ、またその時に贔屓にさせてもらうよ。ただしあんまり間が空くと忘れてしまうかもしれないからね、なるべく早めにしてくれるとありがたいかな」

「はいはい」

「ちなみに、どこまで行くつもりだい?」

 

 月見は東を指差して答える。

 

「博麗神社まで」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 博麗神社は、幻想郷の東の端の端、外の世界との境目というまこと辺鄙な場所に建つ小さな神社である。幻想郷に戻ってきた月見が一番に踏んだ土地であるそこへ、こうしてもう一度足を運ぼうと思うのは、偏に当代の博麗をひと目見ておきたいからだった。あれが何代目だったかは忘れたが、博麗の巫女とは紫つながりで縁があった身だ。当代の巫女が果たしてどんな子なのか、それなりに気になっている。

 ちなみに三日前の時は折悪しく留守にしていたようだったので、適当に賽銭だけを放り込んでおいた。外の世界の硬貨だったので幻想郷では使えないが、まあ、気は心である。

 

「霊夢のところに行くなら、いい加減ツケを払うように僕が言ってたって伝えてくれないかい?」

 

 霖之助が、重いため息をつきながらそう言った。当代の巫女である博麗霊夢は、香霖堂の無銭利用を繰り返す常習犯らしい。月見が知る昔の博麗も大概貧乏だったが、それは今でも変わっていないようだ。

 

「ここを都合のいい茶屋かなにかと勘違いしてるみたいでね」

「それだけ心を開いてくれてるってことじゃないか」

「こっちとしてはいい迷惑だよ。この前も、買ってきたばかりの茶葉を一袋丸々持っていかれたんだから」

「……それ、魔理沙の話か?」

「いや、残念ながら違う。むしろ魔理沙はたまに差し入れを持ってきてくれるし、道具の物々交換もしてくれる割とちゃんとしたお客さんだ。それを考えれば霊夢の方がタチが悪い」

 

 霖之助は、噛み殺すように苦笑して、

 

「博麗神社に行くんだったら、気をつけた方がいいよ。霊夢は相当なお天気者だからね。彼女の意に沿わないことをすると、悪い妖怪だと決めつけられて退治されかねない」

「……そいつはまた、なんというか」

「そんな霊夢への対処法は一つ、神社にお賽銭をしっかり入れてあげることだ。普通よりも多めに入れてあげれば、ちゃんと歓迎してもらえるはずだよ」

 

 なんだか近所のガキ大将みたいな巫女さんだった。月見の記憶にある博麗の巫女は、外の世界では絶滅危惧種に指定されている大和撫子な少女だったのだが、守矢神社と同じでやはり過去の話となってしまっているのだろうか。

 霖之助は店内の絡繰時計を一瞥して、話を切り上げるように椅子から腰を上げた。

 

「ともあれ、博麗神社に行きたいならそろそろ出た方がいいよ。幻想郷の端の端だからね、空を飛んでも結構時間が掛かる」

「ああ、そうだね」

 

 月見も立ち上がり、出口へと向かう。途中でたびたび道を阻んでくる道具たちが、「帰るのならついでに私を買ってけ」と口々にせがんでくるような錯覚を、すべて無視して。

 

「じゃあ、近いうちにまた来るよ」

「ああ。是非、今後ともご贔屓に」

 

 営業スマイルの霖之助に見送られ、ドアベルを鳴らしながら店を出る。途端、博麗神社とは反対方向に傾いた太陽が強い西日を浴びせてきて、月見は思わず手で傘を作った。

 薄暗い香霖堂の店内で、すっかり目が慣れてしまっていたらしい。香霖堂にはもっと太陽の光を取り込んだ方がいいと、そう思いながら。

 

「どれ、行こうか」

 

 体に妖力を巡らせ、ゆっくりと漂うように空へと向かう。さすがにのんびり歩きながら向かうには、日は西に傾きすぎていた。

 幻想郷に戻ってきて四日目にして、月見はようやく、移動のために空の下を飛ぶ。

 先日藤千代にぶっ飛ばされて茜色の空を舞ったのは、ノーカウントだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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