銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第35話 「狐とみんなと……温泉宿?」

 

 

 

 

 

 普通とは、一体なんだろうか。

 別に哲学めいた問答をしているわけではない。ただ、人によってその感覚に個人差はあれど、「大体このくらい」「ここまで行くと普通じゃない」といった境界線は世間一般によって漠然と存在しているわけで、そういう意味で月見は決して変なことを言ったとは思っていない。

 普通の家でいい。この言葉の、一体なにが悪かったのだろうか。

 

 この言葉を一体どう誤って解釈すれば、三階建て+日本庭園付きの大屋敷、などという常軌を逸したものができあがってしまうのだろうか。

 

「……」

「ふっふっふー、どうよ。驚いた?」

 

 目の前の光景に絶句する月見の隣で、にとり渾身のドヤ顔が炸裂する。

 どこか遠くで、カラスがかあかあと情けなく鳴いている。

 

「いやー、今までつくった家の中でも間違いなく最高傑作だよこれは。昨日藤千代さんがあなたをぶっ飛ばしたあとに、諏訪子たちが手伝いに来てくれてね。さすがは大地を操る神様だね、この規模の土地をあっという間に整えてくれちゃってさ。お陰でほら、こうやって池を作る余裕までできちゃった」

「……」

 

 中央の屋敷を囲むようにして、向こう岸まで二十メートルには迫ろうという巨大な円形の池が出現している。月見たちが立っているのはその外側だ。池には鶴島・亀島・蓬莱山の日本庭園を代表する島が点在していて、架けられた橋は目の覚める赤い手摺が特徴的な太鼓橋。なぜか鯉が泳いでいる。

 春の夕焼け空が、目に染みるくらいに赤く赤く燃えている。

 

「水は山の方から直接引いてるよ。私たちも水浴びしたりする綺麗なやつだから、夏になったら是非飛び込んでみてね! ……で、次はこっちのお屋敷ね。なんていってもまず見た目がすごいよね。大きいってのもあるけど、ほら外壁が全部真っ白でしょ? これね、『月桂』って木材使ってるんだよ。月桂って知ってる? 月の世界に生えてるって中国で言い伝えられてる木なんだけど、なんと妖怪の賢者様が自ら月に突撃してかっぱらってきてくれたんだよ! これがまたとにかくとんでもないくらいにいい木でー、柔らかくて軽くてでも強度高いし耐水性も耐朽性も抜群だし、もうまさに家づくりのために生まれてきたような木って感じでね! 賢者様、帰ってきた時なんか服がボロボロで若干涙目になってたけど、やー本当にいい仕事してくれたよ!」

「…………」

 

 雅な太鼓橋を渡りきった先で、件の大屋敷は鎮座している。にとりの説明にあった通り、『月桂』なる木材で作られた外壁は白一色で透き通っており、周囲には背の高い木々が立ち並び日本庭園の景観を演出しているが、三階建ての屋敷はそれらよりも更に背高のっぽで、家というよりかはどこか秘境の温泉宿めいて見える。

 夕方の少し冷えた春風が、月見とにとりの間を吹き抜けていく。

 

「お屋敷は、一階が住居スペース。居間に客間に書斎に寝室に厨房に水周りに倉庫にその他諸々の部屋は全部まとめてあるよ。三階は、色んな用途に使える小部屋を集めた多目的フロア。景色がいいから幻想郷を遠くまで一望するもよし、お客さんを泊めるのに使うもよし、一階の倉庫で足りなかったら物置にしたっていいし、天気のいい夜なんかは気になるあのコと月見酒ってのも乙だね! そんでもって二階はこのお屋敷の目玉の一つ、百人以上集まっても全然余裕な大宴会場さ! みんなもう集まって、宴会の準備してるはずだよ!」

「………………」

 

 今の場所からでもはっきりとわかるほどに、屋敷の二階が大勢の気配で賑わっている。大きな窓を広々と開け放って、こちらに向けて大きく手を振っている人影がちらほら。萃香に勇儀に、諏訪子に輝夜、藤千代に操……そしてなんと、フランの姿まであるようだった。

 池の片隅で、小魚が音もなく水面を叩く。

 

「ほんと、こんな豪華メンバーで家づくりなんて初めてだったから、私もみんなもすっかりテンション上がっちゃって、寝る間も惜しんで働いたよ! あ、月見は全然気にしなくていいよ私たちが好きでやったことだし、てかむしろこんないい経験させてもらったことに感謝してるくらい! いやあほんとにいい仕事したよこれは、さっすが私だね! ……ところでどうしたの月見、そんな疲れた顔して」

「……いや、なんでもないよ」

 

 月見は目頭を押さえて、全身から脱力するように大きなため息を落とした。なんでもないわけがない。思わずなんでもないと嘘をついてしまう程度には、大問題なのだった。

 いくらなんでも予想外だ。もちろん当初仄めかされていた住宅型移動要塞と比べてしまえば圧倒的にマシだし、月見は今回、みんなの好意に甘えて家をつくってもらったのだから、頭ごなしに苦言を呈していい立場でもない。

 しかしさすがに、一人暮らし(・・・・・)の家でこの規模というのは、メチャクチャだと思うのだ。

 繰り返すが、家というよりかは、どこか秘境の奥でひっそりと経営されている温泉宿を見ている心地だ。四季折々の景色を盛り込んだ豊かな自然と、別世界のように広がる荘厳な日本庭園と、山より清流が流れ込む涼やかな池と、自然と調和した古き佳き日本建築。こんな感じの温泉宿に、何年か前に宿泊した覚えがある。露天風呂からの景色が素晴らしく、大変気持ちのいい時間を過ごさせてくれた宿だった。

 

「まさか、温泉とかまでついてたりしないだろうね?」

「え!? うそ、なんでわかったの!?」

「……なんでだろうね」

 

 温泉宿みたい、ではなかった。これはもう温泉宿だ。四季折々の自然に見事な日本庭園に大きな池に古き佳き日本建築にトドメに温泉なのだから、もう紛うことなき温泉宿だ。

 にとりは、「あちゃ~」と口惜しそうに天を仰いでいた。

 

「秘密にしといてあとでびっくりさせようと思ってたんだけど、気づかれちゃったかあ。そう、その温泉が大宴会場に次ぐもう一つの目玉だよ。諏訪子がいたからね、まさか出てきたら面白いよね~って軽い気持ちでやったらほんとに出てきちゃったんだよ」

 

 一度語り出せば秘密などどうでもよくなったようで、彼女はまた饒舌になって言う。

 

「温泉は室内と室外で二つ。中のは大浴場で、外のは当然露天風呂だよ! 湯加減はもちろん、妖夢が手伝ってくれたから景色もすっごく綺麗で、まさに天国みたいな気持ちよさとなっております! 実際に入った私が言うんだから間違いないッ! あ、妖夢ってのは冥界に住んでる庭師ね」

「なあにとり。私、ここで暮らすのか?」

 

 これが月見の一人暮らしのためにつくられた家であると、一体誰が信じよう。一人どころか、その気になれば十人以上の大家族だって悠々と生活できるに違いない。

 

「はー、改めて見てみるととっても大きいですねー」

 

 月見をここまで案内してくれた椛は、とても視界に収まりきらない屋敷の全景にすっかり感心しきって、尻尾を絶え間なくパタパタさせていた。月見を見上げてとびきりの笑顔で、

 

「こんな素敵なところで生活できるなんて、びっくりですね!」

「ああうん、私もびっくりだよ」

 

 ただ、椛の言う「びっくり」と月見の言う「びっくり」は、まったくといっていいほど別物のような気がする。

 

「さすがに光学迷彩だのなんだのは仕込んでないだろう?」

「大丈夫だよー、鬼子母神様がいたんだから」

 

 裏表なく頷いたにとりは、けれどすぐに「ああでも」と目を細めて、懐かしむように、

 

「一人、このお屋敷に変形機能をつけようとした馬鹿がいたよ……。迸るパッションを抑えられなかったんだね……」

「……」

「でももちろん、すぐに鬼子母神様に見つかってね」

 

 再び無言になる月見を尻目に、彼女は両腕を広げて、自分の身の丈と同じくらいのなにかを抱える仕草をする。

 そして、ふっ、と鋭い呼気を一つ、

 

「――『そんなことしたら、私が月見くんに嫌われちゃうじゃないですかーっ!!』」

 

 夕焼け空の彼方へとぶん投げた。

 きらん。

 

「というわけで河童が一人、夜空のお星様になったのでした。ほんとどこまで飛んでったんだかー」

「さて、立ち話もなんだし中に入ろうか」

「あ、うんそうだね」

 

 名も知らぬ河童よ、安らかに眠れとは言わない。地獄で映姫にこっぴどく叱られてしまえ。

 にとりと椛を連れて橋を渡る。質のいい木の板に足をかけ、山なりを描いて歩いていけば、後ろからついてくる足音は三人分で。

 

「……おや、射命丸」

 

 足を止めて振り返ってみると、月見から五歩分ほど距離を空けてこっそりついてくる、文の姿があった。そういえば屋敷の威容に気を取られるあまり、彼女の存在をすっかり忘れてしまっていた。

 

「お前も来るのか?」

「……なによ。私がいると目障り?」

 

 あいかわらず彼女の声音は不機嫌だったが、月見ももう慣れてしまったので、柳に風と肩を竦めて返す。

 

「そんなことはないけど、意外だとは思うね。てっきり、私と一緒の宴会なんて嫌だって帰っちゃうものだと」

「否定はしないけど、新聞のいいネタになりそうだし、そのくらいは我慢するわよ。私情に囚われてネタを逃す記者は二流だわ」

「……」

 

 せめて表面だけでも、否定してはくれないだろうか。

 池のどこかでぴちょんと小魚の跳ねた音がして、なんだか笑われている気分になった。

 

「もう、文さん。そんなに冷たくしなくたっていいじゃないですか」

 

 椛が頬を膨らませて怒ってくれるけれど、もちろんその程度で態度を改めるほど文の恨み辛みは浅くない。関係ないわよと不愉快げに吐き捨てたきり、そっぽを向いて黙り込んでしまった。

 にとりに、脇腹をちょんちょんと肘でつつかれた。

 

「ねえ月見、あのブン屋になにしたの? あんな露骨に嫌われるったら相当な」

「それは射命丸に訊いてくれ。でも訊かない方がいいよ、竜巻に呑まれるからね」

「どういうことなの……」

「封印された過去、ということさ」

 

 月見はさておき、文はあの出来事を記憶の最深層に叩き落として、五重六重にも及ぶ厳重な封印処理を施したのち、誰も近づけないよう結界を重ねがけしているに違いない。その周囲では文の分身たちがネズミも漏らさぬ哨戒を行っていて、好奇心で記憶を覗こうとする者は容赦なくズタズタに引き裂かれるのだ。

 

「ま、いいじゃないか。それより早く行こう」

 

 しかし幸い、百人以上の大宴会だ。仲のよくない相手が一人いたところで、さしたる悪影響もなかろう。

 池に点在する島の景観を楽しみつつ、橋を渡り切ると、すぐに石畳が玄関への道標を作っていた。左右は既に日本庭園の領域となっていて、木々や景石はもちろん草の一本や砂利の一粒に至るまで、あらゆるものの配置に重要な意味を持たせたかのように、徹底的なまでに作り込まれている。石畳を一歩でも踏み外してしまえば、それだけで山紫水明を穢した罪人として天罰が下りそうだ。外の世界でもなかなかお目にかかれないほど見事な庭園だったけれど、今後これを自分が手入れすることになるのだろうかと思うと気が滅入った。

 さて屋敷正面の戸は開け放たれていて、玄関はそこだけで一人暮らしができてしまいそうなほどにだだっ広かった。とはいえ百数十人分の履物を受け入れきるだけのキャパシティはなかったようで、土間はぶち撒けられた古今東西の履物たちで、ほとんど足の踏み場もない状態になっていた。

 

「やれやれ、これはまたすごいね」

「そうだねえ、もうちょっと広くしておけばよかったなあ」

 

 にとりのぼやきを適度に無視しつつ、履物を脱いで、やっとの思いで式台を踏み越えていく。

 屋敷の中もまた、外の庭園に負けず劣らずの完成度だった。接ぎ目がわからないほど整然と整えられたフローリング。呼吸をすれば澄んだ木の香りが体の隅々まで行き渡るし、足裏に触れる木目は流砂を踏んでいるような柔らかさだ。家の中にいるはずなのに、まるで森林浴をしている心地になってくる。もしこれが外の世界の温泉宿だったら、一週間くらいはのんびりと宿泊していたかもしれない。

 しかし繰り返すが、これは月見が一人暮らしをするために建てられた家である。これからこの豪邸を一人で掃除することになるのかと思うと、ますます気が滅入ってしまう月見だった。

 一体どこから仕入れてきたのか、壁には水墨画、棚には壺やら焼き皿やらが置かれた中、正面を少し進んだところに二階へとつながる階段が陣取っている。両手をめいっぱい開きながらでも楽々通れるくらいに幅広な大階段で、上から聞こえる喧騒は早くもお祭り騒ぎの様相だ。

 ずどどどどど、と誰かが階段を転げ落ちてくる音、

 

「月見――――っ!!」

「ぐっ」

 

 実際に転げ落ちてきたわけではないが、ほとんどそれと変わらない勢いですっ飛んできたフランの体が、小さな砲弾となって月見の腹を打った。けれど月見も男だ。そう何度もみっともない尻餅をついてなるものかと根性で踏み留まり、腹の痛みを努めて意識しないようにしながらとにかく笑う。

 

「フラン、お前も来てたんだね」

「えへー」

 

 腹に抱きついたまま月見を見上げるフランの笑顔は、今日も百点満点だった。

 

「一人か?」

「んーん、お姉様と咲夜も来てるよ。咲夜はお料理作ってくれてて、お姉様は」

 

 と、ずどどどどど、と再び誰かが転げ落ちてくる音、

 

「フラ――――ン!!」

 

 今度はレミリアが、先ほどのフランを凌ぐ勢いで二階から転がり落ちてきた。比喩ではない。よほど大慌てしていたらしく、本当に転がり落ちてきた。

 どすんと尻餅、

 

「いったぁ……」

 

 涙目でお尻をさすったレミリアは、けれどフランの姿に気づくなり、すぐに血相を変えて飛び上がった。

 

「フラン、こんなところにいたのね!? ちょっと目を離した隙に、誰かにさらわれたんじゃないかと!」

 

 無我夢中になりながらフランに駆け寄り、強引に月見から引き剥がし、頭のてっぺんからつまさきに至るまで怪我がないかどうかを隅々確認する。見ていて呆れてしまうくらいの過保護っぷりに、フランは心配してもらえるのが嬉しいのだろう、ちょろっと舌を出してお茶目に笑っていた。

 

「ごめんなさーい。だけどほら、月見が来たから」

 

 レミリアにキッと睨まれた。緋色の瞳の奥に、とても控えめとはいえない嫉妬の色がある。大好きな妹が身内ですらない他人に、ひょっとすると自分以上に懐いているのかもしれないという状況に、彼女の心境は複雑なとぐろを巻いていた。

 けれどそんなレミリアも、最終的にはため息をついて。

 

「……まあ、月見だったらいいわ。ただし、月見以外の男に抱きついたりしちゃ絶対にダメだからね」

「はーい」

 

 嫉妬の色を消さないままで、それでもこうして許してもらえるのは、彼女もある程度は、月見に心を開いているからなのか。

 吸血鬼姉妹の騒ぎが落ち着いたところで、椛が月見の隣に並んで口を開く。

 

「では月見様、私と文さんは先に上に戻ってますね。天魔様に報告しないといけませんので」

「ああ、了解」

 

 椛はぺこりと丁寧に会釈をして、そして文はもちろんそっぽを向いたままで、階段を登って二階へと消えていく。

 その足音が二階の喧騒に呑まれて聞こえなくなると、フランが月見の服の裾を引っ張った。

 

「ねえねえ月見、ここが月見の新しいおうちなの?」

「……そうらしいよ?」

 

 自分でも未だに信じられない――というか、信じたくない部分があるのだけど。

 フランの瞳がきらきらと輝く。

 

「素敵なおうちだね! こういうのって、『おんせんやど』とか『りょかん』っていう、日本のホテルみたいなものなんでしょ? 本で読んだことあるよ」

「……うん、まあ、間違ってはいないよ」

「ねえ月見、一緒に温泉入ろうよー。私、ずっと温泉に入ってみたかったの!」

「はあああ!?」

 

 フランが両手を合わせて微笑んだ瞬間、レミリアの顔が真っ赤になった。フランの両肩を掴んで、ガクガク前後に揺さぶる。

 

「そそそっ、そんなのダメよ! お、男と一緒にお風呂に入るなんてっ!」

 

 フランは激しく上下に動く視界に動じることなく、

 

「えー? お姉様、さっき『月見だったらいい』って言ったばっかりじゃない」

「抱きつくのはよ! 一緒にお風呂だなんて、そんなの論外よっ!」

「ケチッ」

「ケチ!? ちょっとフラン、あのね、おっ、男の人と一緒にお風呂に入るなんてのは、将来を誓い合った相手としかやっちゃダメなのよ!?」

「じゃあ、月見と将来を誓い合えばいいの?」

「ダメに決まってるでしょ!?」

「お姉様のいじわるっ!!」

「なんで!? なんで私が責められるの!?」

 

 そしてぎゃーぎゃー喧嘩し出した二人を眺めながら、月見は含むように苦笑いをした。何百年もずっとすれ違っていた反動なのか、一度仲直りをしたら、二人はとんでもないほどに仲良くなった。それこそ、見ていて呆れてしまうくらいに。

 

「あのさ、月見……」

 

 会話に交じれないでいたにとりが、控えめに月見の背中をつついてくる。

 

「立ち話ならまず上に行ってからにしたら? 一応あなた主賓だし、あんまりみんなを待たせちゃ悪いよ」

「ああ……そうだね、悪かった」

 

 確かに、みんなに顔も見せないままこんなところで立ち話をしなければいけない理由はない。特に今回は人数がとても多い宴会だから、空気の読めない行動はそれだけで大顰蹙だ。

 

「どれ、それじゃあ上に行くよ」

 

 手を叩いて、仲良く口喧嘩をしていたフランたちの間に割って入る。

 

「話はまた、宴会が始まったあとでね」

「宴会が終わったら、一緒に入ろうね!」

「だからダメだって言ってるでしょ!?」

 

 四人揃って階段を登る。途中で逆方向に折り返すこともなくまっすぐ上がっていくと、二階に着くなり、窓ガラスを通して壮大に広がる北側の景色が出迎えをしてくれた。壁がすべて一面ガラス張りになっていて、近傍にはやはり屋敷を彩る日本庭園と、遠方には山奥へと続く豊かな緑が広がっていた。

 

「こっちだよ」

 

 にとりに先導され、階段の後ろへ回るように折り返して廊下を進んでいく。お祭り騒ぎもどんどん近づいてくる。納戸と思われる戸の脇を素通りして更に進み、大きな襖を捉え、

 

「さー月見、刮目せよー!」

 

 にとりが元気よく声を上げて襖を開ければ、途端に飛び込んできた光景に、月見は感心も驚きも通り越してただ呻くことしかできなかった。

 

「……これは、また」

 

 夕焼け色の宴会場である。今月見が立っている北側の出入口を除き、東西南の三方がすべてガラス張りで統一され、太陽の光と外の景観をふんだんに取り込んでいる。目算ですら何畳間になるのか量りきれない広大な茜色の空間では、百人を超える妖怪と人間たちが集結し、更にそれと同数の膳が会場を区切るように整然と並んでいる。

 

「どーよ月見! 驚いたでしょ、すごいでしょ!」

 

 本日二度目となるにとり会心のドヤ顔が炸裂するが、月見は褒め言葉の代わりにため息を返した。もちろん、驚いてはいる。驚いてはいるけれど、これは決して好意的な意味での驚愕ではなく、つまるところ『掃除』という名の二文字が月見の頭にべったりこびりついて離れてくれないのだった。にとりたちは宴会が終わったあとでも構わないから、辞書で『普通』という言葉の意味を十回ほど音読確認しなければならない。今後の幻想郷で、このような大屋敷が無秩序に増殖させられないためにも。

 ともあれ。

 部屋が広いためか、それともみんなが世間話に花を咲かせているためか、月見が来たことに気づいている者はまだいない。藤千代と操が、手の平大の小さな紙を百人一首のように広げて、何事か真剣に話し合いをしている。諏訪子がお腹空いたと畳を転げ回って駄々をこね、神奈子が呆れ顔をしている。萃香と勇儀が、窓際で夕風に当たりながら伊吹瓢を飲み合っている。文が会場のあちこちを見回りながら文花帖にペンを走らせ、椛がボロボロの格好を同僚に笑われて煙を上げている。紫と輝夜がなぜか会場の隅っこでキャットファイトをしていて、永琳が他人のふりをしている。

 藍や咲夜といった従者の面々と、早苗の姿が見えないのは、料理の支度をしてくれているからなのだろう。

 

「じゃあ、私はとりあえず千代たちのところに行ってくるよ」

「月見、一緒にご飯食べようねっ。お姉様も、それくらいなら別にいいでしょ?」

「……まあ、それくらいならね。だけど温泉の方はダメよ。そんなの絶対に認めないからね」

「ぶー」

「……あんたたち、ほんとに月見が大好きなんだねー」

「そうね、まったくだわ――ってちょっと待ちなさいこの河童ッ、なんで私が数に入ってるのよ!? ちっ、違うのよ月見! 確かにあなたにはそれなりに感謝してるけど別に好きとかそういうのは全然」

「はいはい、わかったからほんとに私は行くよ?」

 

 元気な少女三人と別れて、藤千代たちのところへと向かう。後ろの方から「もう、お姉様はほんと素直じゃないんだからー」「違うって言ってるでしょおおおおお!?」「ふぎゃあああなんで私があああああ!?」となにやらレミリアの暴れる音とにとりの悲鳴が聞こえたけれど、もう振り返りはしない。

 途中、すれ違った鬼や天狗たちと軽く挨拶を交わしつつ、

 

「あっ、つ、月見ー! ちょっとお願いがあるんだけど、この暴力女を止め――無視しないでー!?」

 

 輝夜に髪の毛を引っ張られる紫のSOS信号を軽く無視しつつ、

 

「千代ー、操ー」

「――よし、やっぱりこれに決定じゃな! あやつが考えた割には、なかなかどうして素敵な名前じゃないか!」

「そうですねー。これでいよいよ、このお屋敷も完成ですね」

 

 藤千代と操の名を呼んでみるが、周りが賑やかなせいか気づいてもらえない。とはいえわざわざ大声を出すようなことでもないし、二人がなにをしているのかも気になったので、

 

「なにやってるんだ?」

「え? ――ぎゃあああああ見ちゃダメじゃー!」

 

 隣に立って声を掛けるなり、畳に広がっていたたくさんの紙たちに向けて、操が大慌てでボディプレスをした。恐らくは咄嗟に自分の体で隠そうとしたのだろうが、そんなことをすれば当然紙たちは風に乗ってあたりに散らばるわけで。

 足元に飛んできた一枚を拾い上げて、書かれた文字を読んでみる。

 

「……『月桂亭』」

 

 そのいかにも建物然とした名前に、月見ははたと思い至った。

 

「ああ、この屋敷の名前か?」

「まあ、そんなところですー」

 

 バレちゃいましたかーと苦笑いをしながら、藤千代は周囲に散らばった紙を掻き集め始めた。

 

「永遠亭や紅魔館みたいな名前が、やっぱりこのお屋敷にもあるべきだってお話になって、みんなで候補を出し合ったんです」

「ふうん……」

 

 なるほど、これらの紙に書かれているのは決して和歌ではなく、すべてこの屋敷の名前候補というわけだ。せっかくなので、月見も近くの紙を拾い集めてみることにした。麗月院、月華庵、白月殿、銀月亭等々、月見の名前にあやかっているのか、『月』の文字を入れた名前が多いようだった。

 

「で、なにに決まったんだ?」

「それは秘密です。宴会が始まる直前に、操ちゃんと一緒にばばーんと発表するのです。それでいよいよこのお屋敷も完成ですよ」

 

 そういえば、ボディプレスをした操が先ほどから大の字のままピクリともしていない――いや、ピクリとはしていた。小刻みにピクピクと震えていた。

 彼女は青い顔で月見を見上げて、

 

「む、胸を打ったのじゃ……。おっぱい潰れた」

「阿呆」

「ひどいっ。ねえねえ月見、ここで優しい甘~い言葉を掛けてやる方が、儂からの好感度がアップするぞ!」

 

 月見はさらりと無視して、藤千代に集めた紙を手渡した。

 

「さて千代、私は普通の家にしてくれと頼んでいたはずなんだけど」

「大丈夫です月見くん、こんなのは誤差の範囲です」

 

 一体なにが大丈夫なのか、月見にはよくわからない。

 

「あのねえ。こんなにバカでかい屋敷じゃあ、掃除するだけでも大仕事じゃないか」

「大丈夫ですよ。藍さんや咲夜さんや早苗さんあたりが、困った時はすぐに駆けつけてくれるそうです。特に咲夜さんはやる気満々でしたから、是非頼ってあげてくださいね」

「……」

「私もなるべくお手伝いに来ます。ふふふ、これで遂に通い妻でびゅーですね」

 

 月見がどうツッコむべきか頭を悩ませていると、ひと通り紙を集め終えた藤千代はそれを脇に置いて、改めてこちらへ向き直っては少し真剣な顔をした。

 

「ところで月見くん。相談なんですけど、このお屋敷を日帰り温泉宿として開いてみませんか? 冗談半分で温泉を掘り当ててしまったら、もうみんなから希望が殺到して。ほら、幻想郷には、こういう風にきちんと整備された温泉がありませんから……」

 

 ああやっぱりここってそういう認識なんだ、と月見は内心でため息をついた。既に自覚していたとはいえ、他人の口から言われると、また一段と心が寂しくなってしまう。

 藤千代の提案の意図はわかる。確かにこの屋敷は個人宅として所有する程度を遥かに超えているから、温泉宿として広く一般に公開する方がより理に適った形ではある。その方がみんなも喜んでくれるだろうし、入浴料を取れば月見の稼ぎにもなるだろう。

 しかし再三言うが、月見はただ一人でゆっくりできる場所がほしかっただけだ。生活費だって、外の世界で作った蓄えがある。なのに一体なんの因果で、温泉宿の主人なぞをやらねばならないのか。

 というかそれだったら、わざわざこの屋敷を月見の住処にしなくたっていいじゃないか。ここの管理は誰か他の暇人に任せて、月見はどこか別の場所でひっそりと暮らしたって、なんの問題もないではないか。

 と、その時は思ったけれど。

 

「もしかして月見くん……このお屋敷、気に入りませんでしたか……?」

「……、」

 

 不安そうに陰った藤千代の瞳を見ると、その気持ちも引っ込めざるを得なかった。もちろん、多少なりとも下心があったのは事実だろうが、それでも藤千代たちはほとんど善意でこの屋敷をつくってくれた。建設に掛かったであろう手間の見返りを一切月見に要求しない、完全な慈善事業は、並大抵の気持ちでできることではないはず。

 つまりはそれだけ、彼女たちが月見を想ってくれていたということ。確かに、一人暮らしで使うには大きすぎるだろう。たった一人で温泉宿を経営なんて冗談じゃない。

 けれど、だからといって、藤千代たちの想いを無下してこの屋敷を飛び出すことが、果たして正しい行いなのか。

 あまりの広さに呆れ果てるばかりで、気づけないでいたけれど。

 月見のために家をつくってくれたという、みんなの気持ちそのものは、とてもありがたいものなのではないだろうか。

 一度気づいてしまえば、月見の人柄上、もうダメだった。ため息をついて、少し乱暴に頭を掻いて。

 

「……まったく、敵わないなあ」

「……じゃあ」

「わかったよ。……ただし私だって、自分のやりたいことをやめるつもりはないからね。営業時間についてはあとで要相談だぞ」

「さっすが月見くんですっ!」

 

 両手を打ち合わせて、藤千代は花開くように満面の笑顔を咲かせた。

 

「私たちも協力しますよ! ええ、月見くんが望むのであれば、通い妻なんてやめていっそ本妻になったって」

「や、そういうのはいいから」

「あーん……」

 

 調子のいい藤千代の発言は、即座に切り捨てつつ。

 なんだか大変なことになってしまったが、まあなんとかなるかな、という気持ちもあった。紫たちとよく相談すれば上手い経営方法が見つかるだろうし、そうでなくともここは幻想郷だ。適当に玄関さえ開け放っておけば、月見が主人としてなにかもてなしをするまでもなく、みんな勝手にやってきて勝手に寛いで、勝手に満足して勝手に帰っていくに違いない。そういう意味で、ここが法に縛られない場所なのはありがたかった。

 と、

 

「だ~れだぁ♪」

「お?」

 

 いつの間にか月見の後ろを取っていたらしい何者かに、いきなり両手で目隠しをされた。桜餅みたいにふっくらと柔らかい声は女性のもので、どこか覚えのある甘い香りと、やや冷たい掌の温度から、犯人はさほど考えることなくわかった。

 

「幽々子か」

「まあ、500年振りでもわかるんですのね? 嬉しいですわ」

 

 月見の目元から手を離し、そそくさと隣に並んできた少女は、やはり老いとは無縁な人外だけあってか、500年前の姿からなにも変わってはいなかった。少し袖の長い水色の着物と、桜よりも色鮮やかな桃色の髪が、波間を泳ぐようにゆったりと揺れているのは、彼女が此岸と彼岸の境界線上を漂う亡霊だからなのか。

 西行寺幽々子。紫の親友である彼女とは、昔から少なからず、縁があった。

 

「変わってないね」

「月見さんこそ。あいもかわらず若々しくて、素敵ですわ」

 

 月見は息だけで苦笑する。人を手玉に取るような言動と、どことなく裏が読めない微笑みもあいかわらずだ。

 

「またお会いできて嬉しいですわ」

「会えるだろうさ、お互い人外だからね。……そういえば、あの辻切り坊主は?」

 

 かつて月見が幻想郷で生活していた頃、幽々子には常に半人半霊の青年が付き従っていた。大変な主人想いだった彼は、よく幽々子と親しく話をする月見を害虫扱いして、斬れないものはあんまりないという名刀を振り回していたものだ。

 月見が今こうして平穏無事に幽々子と会話できているということは、あの青年はここにはいないらしい。……まあ、あれから()うに500年も経っているのだから、およその理由は想像がつくけれど。

 

「妖忌なら、代替わりをして霊界で隠居していますわ」

「なんだ、生きてるのか」

 

 月見はてっきり。

 もお、と幽々子はお茶目に笑って、

 

「月見さんったら。妖忌に聞かれたら、また斬りかかられますわよ?」

「懐かしいねえ、斬りかかってきたあいつを右から左に流して池に叩き込んだ日々」

「そうですわね、妖忌が河童並みの肺活量を手に入れたのは月見さんのお陰ですわ」

 

 例えば紫に連れられて白玉楼にお邪魔すると、妖忌が毎回のように般若の仮面をつけて斬りかかってくるので、それを受け流して庭の池に叩き込み、上から尻尾で押さえて千を数えさせてやるのが日課だった。数ヶ月にもなると見事に千を数えきってドヤ顔を炸裂させるようになったので、更に押さえこんで千五百を数えさせた。溺れかける妖忌の姿を見て、幽々子と紫は大笑いしていた。

 懐かしい日々である。あの安いコントみたいな関係がもう終わってしまったものなのだと思うと、一抹の寂しさが胸を掠めた。

 

「それで、代替わりしたっていうのは……あの子か?」

 

 幽々子より何歩か後ろに離れたところで、もじもじとこちらを窺っている少女がいる。月見がここに戻ってきて初日に、人里近くの小径で、紅魔館や永遠亭の場所を教えてくれた少女だった。

 灰色がかった銀髪があの辻切り坊主によく似ているから、ひょっとすると娘――いや、孫あたりなのかもしれない。初め会った時は気づかなかったが、背中と腰に携えられた二本の刀は、間違いなくかつて妖忌が使っていた愛刀だった。

 

「あ、そうですわ。もともと、あの子を紹介するために来たんでした」

 

 すっかり忘れていたのか、幽々子はぱっと両手を打って、

 

「ほら妖夢、こっちに来て挨拶しなさいな」

「は、はいっ」

 

 妖夢と呼ばれた少女は、初日と違ってガチガチに緊張している様子だった。背筋をピンと伸ばし、剣術を嗜むからか摺足でやってきて、教科書のように四十五度のお辞儀を決める。とても妖忌の後釜とは思えない礼儀正しさに、月見は無意識のうちに「ほう」と眉を持ち上げる。

 

「魂魄妖夢と申します」

 

 引き締まった表情で名乗った彼女は、それからふと不安げに、

 

「……あの、私のこと、覚えていますか?」

「ああ。あの時は道案内ありがとう。お陰で楽しめたよ」

 

 月見が礼を言うと、まさか覚えてもらえているとは思っていなかったらしく、妖夢の頬がほのかに色づいた。

 

「いえ、そんな……」

 

 おずおずと、

 

「あの、幽々子様からお話を伺いました。なんでも、幻想郷の成立に大きく貢献した御方のようで。あの、私ったら、あの時はそうとも知らずに」

「貢献っていっても、そんなに大したことはしてないけどね」

 

 月見はただ、紫の夢を支えただけ。時に応援して、時に愚痴を聞いて、時に慰めてやっただけだ。

 それよりも。

 

「お前は、妖忌の孫かなにかか?」

「は、はい。魂魄妖忌は私の祖父です」

 

 うーむ、と月見は唸った。落ち着きの『お』の字とすら無縁だったあのやんちゃ坊主にこんなに大人しい孫ができるなんて、一体なんの突然変異だろうか。これが生命の神秘か。

 

「祖父とも、お知り合いだったんですよね?」

「ああ。……いやはや、あいつの遺伝子からお前みたいに可愛い孫が生まれるなんて、世の中不思議なものだね」

「か、かわっ!?」

 

 ストレートな褒め言葉に弱いのか、妖夢の顔があっという間に茹でダコになった。

 

「いや、そんな、私、全然、そんな」

「ふふ、妖夢ったら照れちゃって可愛いわ~。どうですか、月見さん? この子ったらもういい年なのに男の方に対して奥手で、私としても色々勉強させてあげたいと思ってるのですけど」

「ゆ、幽々子様!?」

 

 幽々子お得意の軽口を、しかし妖夢はすっかり真に受けて、わたわたと幽々子を見たり月見を見たりする。かつての妖忌も、こんな風に幽々子にからかわれては大慌てしていたものだ。主人の冗談を冗談として受け流せない生真面目な遺伝子は、祖父から色濃く受け継がれたらしい。

 

「このお庭だって、妖夢が中心になって作ってくれたんですのよ。ちょっと恥ずかしがり屋ですけど、心を許した相手には精一杯奉仕するタイプなので、もしよろしければ」

「後半無視するぞ?」

「月見さんのいけずー」

 

 幽々子が不満そうに頬を膨らませるけれど、妖夢が恥ずかしがるあまりぷしーと湯気を上げて縮こまっているので、これ以上は取り合わない。

 妖夢を見て、

 

「なるほど、妖忌の後釜ってだけのことはあるね」

 

 妖忌は性格に難があったけれど、それでも庭師としての腕前は一流だった。他の妖怪たちの手助けがあったとはいえ、これだけの規模の庭を一日でこしらえてしまうのだから、妖夢の腕前にも疑いの余地はなかろう。

 

「ありがとう。ちょっと広いけど、いい庭だよ」

 

 本音を言えばちょっとどころの次元ではないのだが――もうこれはいいだろう。

 

「い、いえいえそんなっ!」

 

 やはりストレートな褒め言葉に弱い妖夢は、もう大慌てだった。両手と首を、ぶんぶんと音がするくらい必死に振り回して、

 

「今回はその、天狗の庭師さんたちがたくさん手伝ってくれたので、私なんて全然っ!」

「こら~、妖夢~? せっかく月見さんが褒めてくれたんだから、謙遜するくらいならお礼を言いなさいっ」

「えっ、あっ、す、すみません! あっいや、すみませんじゃなくて、ええとその……!」

 

 幽々子にたしなめられしどろもどろになる妖夢を見ながら、月見は狐の直感で確信する。妖夢は慧音と同じで、絶対にからかうと面白いタイプだ。ちょっとした冗談を言ってやるだけですぐに真に受けて驚いたり、慌てたり、顔を真っ赤にしたりする、とても感受性豊かな女の子なのだ。きっと、幽々子からは毎日のように冗談を言われて遊ばれているに違いない。

 四回ほど大きく深呼吸をした妖夢は、まっすぐに月見を見て、けれど最後の最後で耐えきれずに、ちょっと横へと目を逸らして言った。

 

「ええと……その、お気に召してもらえたようでなによりです。ありがとうございます」

「手入れの方法とか、教えてもらえると助かるよ」

「いえいえそんなっ、そんなのは全部私がやりますっ。月見さんのお手は煩わせません!」

 

 なんだが、妖夢の中で自分が随分と高評価されている気がする。幽々子は一体、この子にどんなあることないことを吹き込んだのだろうか。

 そんな幽々子は、いつの間にか月見たちから興味を外して、藤千代の小さな体を胸いっぱいに抱き締めていた。

 

「ねー藤千代ー! 月見さんが来たんだから、お料理運んじゃいましょうよー! お腹空いたーっ!」

 

 幽々子が誇るドリームサイズの饅頭二つに挟まれ、藤千代はとても渋い顔をしている。

 

「そうですねー。それじゃあそろそろ始めましょうかー」

「わーいじゃあ私ちょっと厨房行って手伝ってくるわね! 大丈夫よつまみ食いなんてしな」

「そーい」

 

 藤千代が幽々子を背負投げして、そのまま滑らかな動きで畳の上に組み伏せた。

 

「あー! なにするの藤千代のいけずー!」

「幽々子さんが行くとお料理がここまで届かなくなってしまうのでダメです」

「ひどいっ、藤千代ったら私をなんだと思ってるのっ? ほら妖夢、あなたからもなにか言ってやって!」

「厨房へは私が行くので、幽々子様はそこでじっとしててくださいね」

「妖夢のいけずーっ!」

 

 幽々子がじたばたと暴れるが、馬乗りになった藤千代は笑顔のままびくともしない。一度鬼子母神に組み伏せられてしまえば、正当な方法で抜け出すのはまず不可能である。

 会釈をした妖夢が小走りで座敷を出ていくと、幽々子は最後の希望である月見へと縋り始めた。

 

「月見さん、月見さんならわかってくれますわよね? この私の気持ちが……」

「お腹空いた」

「そうですけどっ。そうですけどそうじゃないんですっ」

「いいじゃないか。食事はみんなで食べた方が美味しいよ」

「つまみ食いっていうのもまた違った美味しさが楽しめるんですのよ? というのはただの冗談で本当につまみ食いしようなんてちっとも考えてないのだから藤千代やめて背中がっ背中があっ」

 

 亡霊は普通の霊と違って肉体を持つから、物理的なダメージがしっかりと通る。藤千代に少々苛烈なマッサージを食らって、幽々子は変な声を上げながらビクビクと痙攣していた。

 ちなみに操は、みんなに無視され続けたからなのか、部屋の隅っこで沈んだ雰囲気をまといながら体育座りしていた。

 程なくして、妖夢が両手に料理の皿を乗せて戻ってくる。更に後ろから、咲夜に藍、早苗といった面々が続いて料理を持ってくれば、会場は早くも最高潮を迎えた。居ても立ってもいられなくなったらしい妖怪たちが、次々と手伝いに名乗りを上げて座敷を飛び出していく。押し寄せる予想外の人数に驚いた階段が、ここまで聞こえるくらいに大きな悲鳴を上げる。

 

「ふ、藤千代ー……? 私も手伝ってきたいなあ、なーんて……」

「あ、今度は腰がいいんですね? わかりました」

「あっ違うのなんでもないのっ、なんでもないなんでもないから、あっ、あっ、あぁんっ」

 

 幽々子の声がなんだか官能的になってきた気がしないでもないが、周囲が大盛り上がりしているお陰で月見にはよく聞こえない。

 

「あ――――ッ!! こら月見ぃ、あんたいつの間に来てたのさー! 来てたなら言ってよ、ほら一緒に呑むぞおーっ!」

「えっ、月見!? うおーほんとだ尻尾もふーっ!」

「おっと」

 

 今更月見に気づいたらしい萃香の大声が、盛り上がりに更に拍車を掛ける引鉄だった。萃香が月見の腰に抱きつくと、すかさず連鎖反応を起こした諏訪子が尻尾に飛びついてくる。

 

「あー、いいなー私もやるー!」

「あっ、ちょっとフラン!?」

「ぐふっ」

 

 そこに便乗したフランが月見の鳩尾に突撃し、

 

「あーじゃあ儂も儂もっ!」

「うおおっ」

 

 元気になった操が更に便乗して背中に飛びつき、

 

「みんなずるいぞー、私も交ぜろー!」

「ちょ、」

 

 輪をかけて便乗した勇儀が右肩にしなだれかかり、

 

「よーしほら椛もっ! 椛も欲望のまま月見に飛びつくのじゃー!」

「え、ええっ!? ダ、ダメですよそんな月見様にご迷惑な」

「天魔の命令じゃー! ほれっ」

「ふわあっ!?」

 

 無理やり天魔に引っ張られた椛が左肩に倒れ込んできて、するともう、それを面白がった他の連中までもがどんどん悪乗りを始めてしまった。座敷全体を巻き込む連鎖反応。四方八方からみんなが月見目掛けて突撃し、またあるものは上から降下し、下を除いたすべての方向から行われる押しくら饅頭に、月見の視界はあっという間になにも見えなくなってしまう。

 

「フ、フラ――――ン!? き、貴様らっ、フランを返せええええええええっ!!」

 

 フランの身を案じて激昂したレミリアが、押しくら饅頭の仲間に加わった気配がする。しかし姿は見えない。一瞬、レミリアの羽のようななにかが月見の視界を掠めたものの、瞬く間に押しくら饅頭の中へと呑まれて消えた。フランはそんな姉の奮闘を露も知らず、とても楽しそうな笑い声を上げながら月見のお腹に抱きついていた。

 一体なにがきっかけだったのか、ふとしたように押しくら饅頭のバランスが崩れて、参加者全員を巻き込んで雪崩の如く倒壊していく。悲鳴、座敷全体を揺らすけたたましい騒音、静寂――そして、笑い声が、爆発して。

 

「……あー」

 

 月見は仰向けになって天井を見上げて、笑い声の代わりにため息を飛ばした。体のあちこちを誰かしらに押し潰されていて、難を逃れた顔と左腕を除いて身動きすらできない状態だ。

 操と萃香が月見の背に潰され、蛙みたいな呻き声を上げているけれど、どうしようもない。

 

「月見くーん、生きてますかー?」

 

 どこからか藤千代に名を呼ばれたので、適当に左腕を振り返しておく。それから、こちらのお腹に引っついたまま動かないでいるフランの肩を叩いた。

 

「……怪我はないか、フラン?」

 

 フランはすぐに顔を上げて、

 

「あ、うん。大丈夫だよ。びっくりしたー」

 

 どこかで誰かに押し潰されているらしいレミリアが、とても情けない声でフランの名を呼んでいる。けれどフランはそんなの知ったこっちゃないと、満面の笑顔を咲かせて言う。

 

「なんだか、とっても楽しくなりそうだね!」

「……そうだね」

 

 この馬鹿らしいほどの盛り上がりようは、幻想郷ならではだと月見は思う。外の世界の常識にすっかり馴染んでしまった身としては、正直これだけでも堪えるものがあるのだけれど、同時に一抹の懐かしさを感じてもいた。

 宴会が始まる。人と妖怪は流し込むように料理を食らい尽くし、浴びるように酒を呑み尽くし、馬鹿になったように騒ぎ散らして、やがて死んだように眠るだろう。

 夕日が間もなく一日の役目を終える、黒と茜が交じり合う空に包まれて。

 屋敷いっぱいに響き渡る笑い声は、来る夜を吹き飛ばすほどに明るくて、眩しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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