銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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諏訪大戦 ① 「追想の問い掛け」

 

 

 

 

 

 咲夜や鈴仙たちが後片付けを始めるよりも何刻か前――まだこの宴会が、沸騰の最中にあった頃。

 

「――おっそいよ月見ー! なにのんびりしてんのさーこのーっ!」

「ッハハハ、悪い悪い」

 

 やっとのことで守矢組のところまでやってきた月見は、諏訪子のしかめっ面と罵声で盛大なお出迎えをされていた。一度フランたちと別れれば、一部の子ども好きな天狗たちが嫉妬心を剥き出しにして殴りかかってくるので、始末をつけるのにやや時間が掛かってしまった。

 背後では、フランに目をつけているという罪状のもと、レミリア裁判長によって天狗たちが断罪されている。時折「もっと! もっと強くやってください!」なる奇声が響いてレミリアが悲鳴を上げているが、生憎そのあたりは、今日の月見にはもうちっとも聞こえないのである。

 そうして月見がようやく腰を下ろせば、諏訪子のご機嫌ゲージは最底辺から最高潮まで一足飛びだった。

 

「まあ来てくれたんならいいや。んじゃ早速尻尾もふーっ!」

「あーはいはい」

 

 早速尻尾に抱きつき座敷を転げ回り始める諏訪子を、やめてくれと今更咎めたりはしない。

 敢えて確認するまでもないことだけれど、洩矢諏訪子は月見の尻尾が大好きだった。なんでも、尻尾の触り心地から抱いた時の厚み、温度、匂い、そして毛一本一本の柔らかさに至るまでのすべてが、彼女のストライクゾーンを百五十マイルの豪速球で貫くらしい。

 諏訪子にとって月見とは即ち尻尾であり、尻尾のない月見は月見ではない。いつだったか試しに彼女の前で尻尾を隠してみたところ、「尻尾がない月見なんて嫌いだ――――ッ!!」という理不尽なヒステリーの末、天変地異が起こり守矢神社がめちゃくちゃになったという怪事件は、今でもなお月見の記憶に深く刻まれている。

 別に尻尾を触られるのが嫌いというわけではないけれど、跡がつきそうなほどキツく抱き締められてあちこち転げ回られてしまえば、ため息の一つくらいはこぼしたくなるというものだった。とはいえあの惨劇をまたここでやらかされるわけにもいかないので、月見としてはもう、諦めるしかないというか、なんというか。

 まあ、諏訪子の体がとても小さく、くっつかれてもほとんど重みを感じないのが、不幸中の幸いなのだろう。視界の端で猫みたいにゴロゴロする姿は、少なからず目障りだけれど。

 

「……それで、私に訊きたいことってなんだ?」

 

 月見がここに呼ばれた理由は二つ。一つは諏訪子が月見の尻尾をもふもふしたかったからで、もう一つは、早苗がなにか訊きたいことがあったかららしい。例のメニアックなマンガの件じゃなければいいなあ、と祈るように思う。

 問われた早苗は料理の箸を一旦休めて、少し、引き締まった顔をした。大っぴらに口にするのを躊躇うように、声をひそめて、

 

「……諏訪大戦について、教えてもらいたいんです」

「うん?」

 

 寡聞にして聞き覚えのない単語だった。さてなんのことだろうかと月見が小首を傾げていると、横から神奈子が助け舟を出してくる。

 

「私の大和と諏訪子の洩矢が戦った戦だよ。守矢神社の歴史書では、『諏訪大戦』って名前で記されてるのさ」

「ああ、なるほど」

 

 月見は守矢神社には数十年に一度ほどの頻度でしか参拝してなかったし、当然歴史書を見たこともないので、あの戦にそんな名前がつけられているとは知らなかった。

 しかし、それはそれで新たな疑問。

 

「なんでそれを私に? 私以上の当事者が、ここに二人いるじゃないか」

 

 即ち、東軍西軍の両大将だった神奈子と諏訪子だ。月見も諏訪大戦に関わった身ではあるが、あくまで援軍というか、予想外の出来事が起きたので思いがけず首を突っ込むに至っただけであり、諏訪大戦を物語る教師役には、この二人の神の方が適任だろう。

 言いにくそうに頬を掻いたのは、神奈子だった。

 

「いやね……ほら、あれってあんたがいてくれたからなんとか勝てたものの、そうじゃなかったら完全に私の負け戦だったでしょ? だからあんまり思い出したくなくて……」

「諏訪子様も、『負けた戦のことなんて思い出したくない』って仰って、詳しく教えてくれないんです」

 

 諏訪子は月見の尻尾の虜になっていて、こちらの話はまったく聞いていないらしかった。

 

「なので、月見さんだったらどうかなあ……と思いまして」

「……ふむ、そうだね」

 

 諏訪大戦のことは、よく覚えている。神奈子率いる大和の勝利が確実とされておきながらも、当時、偶然洩矢の客将となっていた藤千代によって、危うくすべてが引っ繰り返されそうになった戦だ。

 実際のところ、月見もあの戦についてはあまり思い出したくない。なにせあれは月見が初めて藤千代に出会い、戦い、そして奇跡的に運よく勝つことができた戦であり、つまるところ軽いトラウマみたいなものなのだ。できることなら古傷は抉りたくない。

 

「……ダメですか?」

「いや、ダメということはないけど……」

 

 早苗にしょんぼりとした目で見られてしまえば、結局月見も神奈子と同じく、バツが悪い心地で頬を掻いてしまう。あの戦は、皆にとって苦い経験となった戦だ。月見と神奈子はいうまでもなく、諏訪子だって、さっきからわざとらしいくらいに月見の尻尾とじゃれ合っているのは、聞こえていないふりをするためなのだろう。

 唯一、当時の記憶を笑顔で語れる者がいるとすれば。

 

「……」

 

 月見は少し考えてから、じゃあ、とおもむろに口を開いた。

 

「千代も呼んでみんなで仲良く思い出そうか。それだったらいいよ」

 

 すなわち一蓮托生である。みんなでなるべく朗らかに懐かしめば、抉れる古傷も少なかろう。

 うげー、と神奈子が渋い顔をした。

 

「ほんとに話すの? 気乗りしないなあ」

「神奈子様っ……私、守矢の巫女としてちゃんと知っておきたいんです。だから、どうかお願いします!」

「う、うぐっ」

 

 だが結局、我が子に等しい早苗に土下座さながら深く頭を下げられてしまえば、神奈子とてこれ以上言い逃れはできなかった。

 ふっとため息、

 

「……わかったよ。まあ、たまには物忘れ防止に思い出すのもいいだろうさ」

「! ありがとうございます!」

「早苗に教えるのは、私の霊験あらたかな活躍譚だけにしたかったんだけどねえ……」

「大丈夫ですよ! 私、神奈子様のダメなところももうたくさん知ってますから!」

 

 全然フォローになっていない一言で神奈子がさめざめ涙を流している隙に、月見はいつの間にか狸寝入りを始めていた諏訪子を叩き起こす。

 

「ほら諏訪子、お前もいつまでも聞こえてないふりしてるんじゃないよ」

「うっ……バレてた?」

 

 バレてないとでも思っていたのだろうか。

 

「あとは千代だね。……千代ー、ちょっとこっち来てもらっていいかー?」

「あ、はーい。月見くんのためならどこにだって駆けつけますよー」

「え、なになにー? 私も行くー」

「あー儂も行くのじゃー!」

 

 名を呼べば、すぐに藤千代が腰を上げてやってきてくれる。すると必然、藤千代と一緒に話をしていたフランと操もついてくることになるのだけれど、まあいいだろう。

 途中、さりげなくフランに声を掛けようとした天狗の男が、どこからともなく飛んできたレミリアの電光石火でぶっ飛ばされたのはさておき。

 

「どうかしましたかー?」

「今から私とお前が初めて戦った時の話になりそうなんだけど、よかったら一緒にどうだい」

「おっと奇遇ですね、こっちでもちょうどその話をしようとしてたところだったんですよ!」

 

 運命的ですね! と嬉しそうにしながら、藤千代が月見の向かいに腰を下ろす。それからフランたちを手招きすれば、操は藤千代の隣を陣取り、フランは当たり前みたいに月見の膝上を侵略する。どこかで誰かが、また野太い嫉妬の悲鳴を上げた。

 フランは、月見の胸を背もたれ代わりにしながら、

 

「ねえねえ、なんのお話をするの?」

「私が千代にボコボコにされた話だよ」

「またまた、月見くんったら。勝ったのは月見くんなんですから、ボコボコにされたのは私ですよぅ」

「えっ……つ、月見さんって、鬼子母神様よりお強いんですかっ?」

 

 すっかり目を丸くした早苗に、どうかなあ、と月見は曖昧に笑う。

 

「あの時こそなんとか勝ったけど、実際強いのは千代の方だと思うよ。あの時、こいつは半分以上遊んでたんだしね」

「でも最後はちゃんと本気でしたよ? それで負けちゃったんですから、やっぱり月見くんは強いのです!」

 

 まあ、藤千代が最も太古の鬼であるように月見もそういう類の狐なので、自分が弱い妖怪である、とは思っていないけれど。

 なぜか自分のことのように胸を張った藤千代に対し、同じく胸を張って賛同したのはフランだった。

 

「そりゃあそうだよ! だって月見、実は尻尾がじゅむぎゅっ」

 

 大声で面倒なことをカミングアウトしようとしたその口を、間髪を容れずに両手で封じる。

 

「はいはい、大声でそんなこと言わない」

 

 月見の尻尾の本数については、今の面子の中では早苗を除くみんなが知っているけれど、宴会全体で見れば知らない者の方が多い。そんな中で堂々と十一尾をカミングアウトすれば、恰好のネタを見つけた鴉天狗を中心として瞬く間に大騒乱が起こって、とても昔話どころではなくなってしまうだろう。それはちょっと面倒だった。

 特に隠すつもりはないけれど、大騒ぎの中持て囃されたい願望もまた、ないのである。

 フランはむーむー唸りつつも、どこか楽しそうに両足をぱたぱたさせていた。

 

「え、フランちゃんどうしたの? 月見さんの尻尾がもふもふ?」

「まあまあ、そのあたりは話してるうちにわかりますよ」

 

 まるで見当違いに首を傾げている早苗に、藤千代がやんわりと言う。藤千代の言う通り、あの時は月見も正真正銘全力で戦ったので、話をする上では尻尾の本数にも自ずと触れざるをえない。

 変な騒ぎにならないといいなあ、と祈るように思うのだけれど、果たしてどうだろうか。

 

「それじゃあ始めましょうかー。ふふ、私は今でも鮮明に覚えてますよ」

 

 目を細め懐かしく時を遡っていく藤千代とともに、月見も過去へと己の記憶を馳せる。

 遥か昔、神奈子と諏訪子はもちろん、月見と藤千代もまた、互いを知らぬ敵同士だった頃。

 諏訪大戦という名の、戦へと。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 当時はまだ、日本という国は存在していなかった。列島の随所に小国が分立し、当時の文明の非力さ故に他国を侵略するという概念も薄く、各々好き勝手に、或いは四苦八苦しながら土地を治めていた、ある意味では平和だった時代。

 その頃に初めて列島を統一しようと乗り出したのが、八坂神奈子属する大和の国だった。

 月見と神奈子は、既に旧知の仲であった。当時の文明的中心地といえば外国との交易が盛んだった筑紫方面で、大和はどちらかといえば未開の地が多い田舎だったのだけれど、それ故に月見は旅の目的地としてたびたび足を運び、次第に神奈子と懇意になるようになった。

 きっかけは、月見が旅の無事を祈って大和の大社を参拝していた時に、神奈子から直接声を掛けられたことだったか。いずれ全国を統一する国の軍神として、諸国の情勢についてなるべく詳しく知っておきたいから、国にいる間の生活を保障する代わりに旅で見聞きしたことを教えてほしいと――そんな商談めいた話が発端だったと記憶している。

 月見がその提案を受けたのは、路銀を節約できていいかという打算的な考えから。互いを利用する形で始まった関係がここまで末永く親密なものになろうとは、今思い返しても完全に想定外だったといえる。

 諏訪大戦につながる話が初めて神奈子の口から聞かれたのは、そんな功利的に始まった関係を数年続けて、互いに気が置けない友人となり始めた頃。もはや諸々の情勢云々という当初の目的は形骸化し、月見がただ笑い話として旅の土産話をし、神奈子がただ酒の肴として耳を傾ける。そんな付き合い関係に昇華された頃のことだった。

 

「……ねえ、月見。一つ、頼み事があるんだ」

「うん?」

 

 大社の一角にある神奈子の私室で、何人(なんぴと)も交えず二人だけで酒を呑んでいた折に、今まで和気に満ちていた神奈子の面差しがふと畏まった。普段から堅苦しい雰囲気を嫌う豪胆な彼女は、また一方で軍神らしい繊細な一面も持ち合わせていて、こういう表情をする時は大概、それ相応に込み入った話がある時だった。

 月見は、酒を呑む手を休めて言う。

 

「聞こうか」

「……ありがとう」

 

 神奈子もまた酒の手を止め、ゆっくりと、長く息を吐く。少し迷うように唇を動かして、また一息置いてから、投げ掛けられた問い。

 

「次の戦い……あんたの力を、貸してほしいんだ」

「……」

 

 月見は答えず、浅く眉をひそめた。まったく予想外の頼まれ事だった。

 八坂神奈子は、いずれ全国を統一するという志のもと、大和の勢力を拡大されている――すなわち、分立する他国を次々取り込んでいっている。『次の戦い』とは、新たな国をまた一つ大和に併合するために、避けられなかった戦を指すのだろう。

 月見は神奈子の友人に当たる関係だが、彼女のこの思想には賛同していない。かといって、否定しているわけでもない。今のように旅の土産話をして情報を提供したり、しがない話し相手になったりする以外は不干渉――傍観の立ち位置にいる。

 言ってしまえば、「やるならお好きにどうぞ」というのが月見の本音だった。

 大和が志す全国統一は、決して武力統一ではない。無論大和には強大な力を持つ神々が多いけれど、国力そのものは筑紫と較べてもまだ高いとはいえない。そもそも『国』という概念自体がまだあやふやな時代だ。故に神奈子が志す統一図は、力で他国を服従させるのではなく、信仰によって人々を思想的に従えること。互いに納得できるよう対話の席を設けた上で、大和の神を祀る御利益――すなわち保護と保障の名の下に和解し共生する。武力にものを言わせて自分たちの国を侵略してきた悪神を、一体誰が敬虔に祀ろうか。人々の信仰の獲得こそがこの勢力拡大の最たるところなのだから、武力をかませて信仰を蔑ろにしては意味がない。

 そもそも戦になったところで、未だ発展途上な大和が勝てる保証はないのだし。

 故になるべく争いを起こさず、対話を以て――神奈子がそう心を砕いた結果、中には、自ら望んで大和に併合された国もあると聞く。だから月見はこれを大きな時代の趨勢と捉え、必要以上の干渉を避けて身を任せていたし、今後もそれは変わらないだろうと思っていた。

 その矢先に投げ掛けられた、神奈子からの問い掛け。

 

「次の併合先に挙がってる国――洩矢っていうんだけど。そこの土着神が、自分たちの信仰にかなりの誇りを持っててね。自分たちの信仰を奪われてたまるかって、完全に決裂しちゃったよ」

 

 宗教統一は武力のそれに比べれば格段に平和的だけれど、だからといって戦と一切無縁というわけではない。神に対する信仰が顕著な時代だからこそ、大和が勢力を伸ばそうとする先々では、その地方の土着神と、信仰上の対立が起こる場合がある。特に力ある神々が深く根付く、信仰の強固な国とは。

 

「……ふむ」

 

 腕を組み、月見は静かに考える。洩矢の国は、諏訪地方にある緑豊かな小国だ。月見も何度か足を運んだ記憶がある。目玉のついた奇妙な帽子を被った土着神、洩矢諏訪子が神々の長を務めていて、自分たちの信仰の強さを鼻高々に聞かせてくれた。

 神奈子の交渉が決裂したのも頷ける。他国の神に信仰を奪われるなど諏訪子にとっては我慢ならないだろうし、そうでなくとも洩矢に根付く神はミシャグジ――丁寧に祀れば御利益は大きいが、一方で不敬を働けば恐ろしい天罰がある祟り神だ。人々がそう簡単に今の信仰を手放すとは思えないから、洩矢の国は小国なれど、大和にとってはある意味で難攻不落の大国だといえる。

 なるほど、戦を避けられなかった背景はわかった。であれば、話は当初の問答に戻る。

 

「力を貸せって、その戦でなにか心配事でもあるのか?」

 

 大和の国力はそう高くないといったが、それでも次々と他国を併合して勢力拡大している手前、洩矢よりかは確実に上だ。戦が行われたとしても、月見の力が必要になるような事態は起こりえないだろう。

 しかし、神奈子は重々しく月見の問いを肯定する。

 

「みんなは負けるはずがないと意気込んでるし、実際の国力差を見ればそれは明らかなんだけど……でも、なんでか不安なんだ。理由は、自分でもよくわからないんだけど」

「……」

 

 それは即ち、

 

「負ける、と?」

「……」

 

 神奈子は答えなかった。ただ頭を下げるように目を伏せて、「少しでも多く味方がほしいんだ。だから、今回だけでいいから、どうか私に力を貸してくれないか」とだけ言った。

 なにが彼女の不安をここまで駆り立てているのか、無論月見にはわからない。あくまで国力の観点から見れば、まるで杞憂もいいところだろう。

 しかし、神奈子の視線はかたくなだった。

 

「お願い。戦うのが嫌なら、私の後ろで見てるだけでもいい。あんたがいてくれるだけで、ずっと、心強くなるから……」

 

 そう搾り出して頭を下げる神奈子の姿は、とても小さく月見の目に映る。月見にとっては杞憂と気にも掛からないような話でも、彼女は至って真剣だった。真剣になるあまり、気弱になってしまうほどに。

 ここまでか弱い彼女の姿を見るのは初めてだったからか、なんとなく、放っておけなくなってしまって、月見はため息をつくように苦笑した。

 

「わかったよ」

 

 言うなり、跳ね起きる勢いで神奈子が顔を上げた。

 

「ほ、本当!?」

「ああ。ただし前線に出されるのは勘弁してくれよ。あくまで後ろで見てるだけ、或いは本当に万が一の時に助太刀する程度だ」

「あ、ああ! それで構わないよ、本当にありがとう……」

 

 ほっと大きく胸を撫で下ろすその仕草は、大和の神々を統べる軍神としてではなく、まさしく見た目相応の少女のそれ。可愛らしいところもあるじゃないかと微笑ましくなる一方で、同時に強く気がかりでもあった。

 一体何故、神奈子がここまでの不安に苛まれるのか――月見がその答えを知るのは今よりしばし、刃乱れる戦陣の最中(さなか)

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 到底、杞憂だとは思えなかった。

 理由のない言い知れない不安を、気のせいだと言って笑う者もいるだろう。しかし神奈子が以前から感じ続けているこの重苦しい違和感は、気のせいと笑うにはあまりに身に迫りすぎていた。

 正体不明の何者かに、ずっと背後に立ち続けられているような。

 見据える先には、蠢く洩矢の軍勢がある。見晴らしのいい広大な台地だ。地は緑、空は青の一色で埋まり、視界を遮るものはない。敵軍以外に邪魔者のいない戦場はあまりに戦いに向いているが、それが逆に不自然だった。

 大和は未だ発展途上で決して大国とは呼べないけれど、兵力はそこそこのものを持っている。対して洩矢は自他ともに認める小国で、兵も寡兵。格上の国を迎え撃つ戦場としては、この台地はあまりにも素直すぎた。真正面からの激突以外にやりようがない戦場――大和が誘い出したのではない。洩矢が、この場所を戦場に指定したのだ。

 戦場の性質を巧みに活かして何倍もの戦力差を覆したという前例は多く聞くが、これでは地の利などあったものではない。部下たちは皆「洩矢の連中はなにを考えているやら」と呆れ顔を浮かべるばかりだし、それは神奈子も同意見だった。そしてなにを考えているのかわからないからこそ、あの悪寒が今にも神奈子の肌を粟立たせそうになる。

 

「……不気味だな」

 

 神奈子の一歩後ろで先陣を眺める月見が、かすかな警戒の色とともに目を眇めた。

 

「……月見も、そう思うかい?」

「ああ」

 

 首肯、

 

「向こうだって戦力差は理解してるはず。なのにこんなに戦いやすい場所をわざわざ指定するなんて……普通はしないと思うが」

「……」

 

 この戦場は、不可思議なまでに大和に有利すぎた。単純な兵力差のみを考えれば、策を使うまでもなく雪崩れ込むだけで勝敗が決する。洩矢がなにか裏を巡らせていようとも、それすらも、量で叩き伏せられるほどに。

 

「洩矢の土着神は祟り神……なにか策があるのか、はてさて」

 

 戦ってみないことにはなんとも言えないね、と月見は肩を竦める。

 

「だが余程のことがない限りは負けないとはいえ、用心はすべきだね」

「……そうだね」

 

 頷き、神奈子は部下たちに細心の注意を促した。勝利は確実と気を緩めていた部下たちも、絶えず訴え続ければやがて只ならぬものを感じたようで、皆揃って表情を引き締めた。

 

「じゃあ、私は後ろで待機してるよ。……出番がないことを、祈ってるよ」

「……ああ」

 

 月見が後方に下がってややもすれば、戦場の空気が開戦に向けていよいよ乾き始める。神奈子は、彼方の洩矢の戦陣から、数名の人影が近づいてくるのを見た。

 率いるは、洩矢の王・洩矢諏訪子。護衛を引き連れた彼女は欠片も怖じる様子なく悠然と歩を進め、やがて止まれと神奈子の部下に制されるや否や、声高に叫ぶ。

 

「大和の軍神、八坂神奈子に拝謁を願う。通されよ!」

 

 童子としか思えぬ幼い外見であっても、声音に宿る力強さは確かな神の証。神奈子は同じく数名の護衛を連れて、前に出て、直接諏訪子と対峙する。

 こうして向かい合うのは、二度目になる。一度目は侵略ではなく、併合の交渉をするために神奈子自らが洩矢へ赴いた時だ。……それが決裂してしまったから、今二人は、こうして戦場で相対している。

 会話は生まれない。互いにただ無言のまま対峙し、戦場一帯の空気を沸々と張り詰めらせていく。沈黙こそが、なによりも雄弁に不退転の意志を物語っていた。

 不思議なことに、今まで神奈子の胸中に巣食っていた不安が鳴りを潜めている。諏訪子からはなんの重圧も感じない。力ある神としての存在感は神奈子の肌を痺れさせるが、恐怖を覚えるほどではない。

 なら神奈子は、一体、なにを恐れていたのだろうか。

 最後まで言葉はなかったし、今更なにかを言う必要もなかった。そもそも、この戦いを最初に望んだのは洩矢なのだ。交渉を決裂させ、そんなにこの国の信仰が欲しいのなら奪ってみろと、啖呵を切ったのは諏訪子の方。ならば向こうに退く理由はないし、こちらに退く必要はない。

 

「……気をつけてね」

 

 だが、そうして本陣に戻ろうと踵を返した折、神奈子は思いがけず諏訪子の声を聞いた。

 あまりに軽佻な声だった。振り向き見れば、彼女は笑っていた。

 嘲笑にも似て。

 

「悪いけどさ。……うん、本当に悪いんだけど、ね?」

 

 ぞわりと来る。鳴りを潜めていた不安が一気に暴れ出す。眉をひそめて諏訪子を睨みつけ――しかしほどなくして、この怖気の出処が彼女でないことに気づく。

 彼女の、後ろ。

 そこでなにも言わずに佇んでいる、藤の着物を着た、小さな鬼の少女。

 外見だけなら諏訪子とそう大差ない――けれど明らかに異質な少女の微笑みが、わけもなく神奈子の焦りを駆り立てた。目を合わせるだけで息が詰まる。肌が粟立ちそうになる。あの微笑みの奥でうごめく何かが、神奈子の心臓にそっと爪を立ててくるのがわかる。

 諏訪子の声が聞こえる。言葉に宿すは自信と確信。笑みが見せるは、侮蔑と尊大。

 

「本当に悪いけど――勝っちゃうから」

 

 ――風が吹く。戦場を駆け抜ける向かい風は、大和の行く手を遮り、洩矢の背中を押すように、彼女たちの柳髪を乱す。

 

 大和と洩矢。洩矢の兵力を大きく上回り、勝利は揺るぎないと確信されていた大和の軍は――あっけないほどわずかな時間で、戦陣の半数が壊滅した。

 あまりにも圧倒的に、蹂躙された。

 

 たった一人の、鬼の少女に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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