こぼしたため息が、周りで繁る枝葉を抜けて地面まで落ちていく。
後味悪いなあ――そう、鍵山雛は呟いた。
昨日。この場所で出会った銀の妖狐が、妖怪の賢者――八雲紫にさらわれた。雛が厄神であることも構わず気ままに言葉を掛けてくれた、お人好しな妖怪。ほんの少しだけ心を許しかけた相手だった。
でもそんな彼は、今、雛の目の前にはいない。――もう、その姿を二度見られることもないだろう。
名も知らぬ銀の妖狐。彼が八雲紫にさらわれたからといって、死んでしまったとは限らない。けれどあの時の八雲紫は、まるで数百年来の獲物を見つけたかのように、ぎらぎらとした目をしていた。“妖怪”の顔だった。……彼が一体なにをしたのかは知らないが、今も無事でいるなんてことはないだろう。
「はあ……」
昨日と同じ、山道を見下ろす大木の上。しかし、ぶらぶらと両脚を遊ばせるような心の余裕は、今はない。
どうしてあのタイミングだったのだろうか。雛が名乗って、彼が名乗り返すその瞬間だった。「私は――」……そこから先を、聞けなかった。
互いに名を名乗って、できればまた話をしたいねと、そう言って別れてからでもよかったはずなのに。あんな終わり方をされたら、吹っ切れないではないか。
また会いたいと、どうしても、思ってしまうではないか。
「……」
わかっている。これは既に、ただの厄神でしかない雛にどうこうできる範疇を超えている。彼が無事であるか否か、生きているか否か、決めるのはただ八雲紫の気まぐれだけ。これ以上雛が彼の身を案じても、なにかが変わるわけじゃない。意味なんてないのだ。
わかっている。――けど、それでも。
「――雛さん、どうしたんですか?」
掛けられた声に、雛はゆっくりと頭を持ち上げた。雛が座る大木からやや離れたところで、黒い羽を羽ばたかせて滞空している銀色のワンコ――ではなく、白狼天狗が一匹。犬走椛。厄神である雛に進んで声を掛けてくれる、数少ない心優しい知人だ。
「あら、椛……」
「おはようございます、雛さん」
椛は礼儀正しく四十五度のお辞儀をするも、同時にこちらの厄の影響を受けないようにしっかりと距離を取っていた。賢いワンコ――じゃなくて白狼天狗ね、と雛は苦笑する。
「おはよう。今日も哨戒任務?」
「はい、そんなとこです。……そういう雛さんは」
椛はかすかに声をひそめ、窺う声音で、
「なんだか、具合悪そうに見えますけど……」
「あなた、よく見てるわねえ」
雛は苦笑を深めた。厄神相手に体調を気遣うような者は、この幻想郷でもすこぶる珍しい部類だ。それだけ彼女が心優しいのだいうことがよく伝わってくる。
「ダメですよ、具合が悪いならちゃんと休んでないと……」
「ああいや、体の具合が悪いわけじゃないのよ。ただ、精神的にね」
「? なにか、嫌なことでもあったんですか?」
「……まあ、そんなところ」
椛の銀の毛並みを見て、あの妖狐の姿を一層強く思い出してしまった。針で刺すように胸が痛む。……これも全部、あのスキマ妖怪が悪いんだ。
すると、それが表情に出てしまっていたのか、椛がますます心配そうに眉根を寄せた。
「雛さん、大丈夫ですか?」
「……そうね、ちょっと時間掛かりそうかしらね?」
「……大丈夫ですか? 私でよければ、話くらい聞きますよ?」
「大丈夫よ。そんなことをしたらあなたが不幸になってしまうしね。そんなの嫌でしょう?」
「それは……」
椛は言い淀み、それっきりきゅっと口を真横に引き結んだ。図星を突かれて、返す言葉を見つけられないのだろう。
雛は、特になにも言わなかった。こうやって距離を置かれてしまうのは少し辛いけれど、誰だって不幸になるのは嫌。そんなのは当たり前のことだ。当然の反応、仕方のないことなんだと、自分に言い聞かせる。
それから、ちょっとだけ無理に頬に力を入れて、微笑んだ。
「気にしないで、そのうち元気になるから」
「……はい」
椛は沈痛な面持ちで、しかし頷き、素直に引き下がった。本当に賢いワンコ――いや、白狼天狗だ。天狗の中でも彼女は射命丸文と並んで人気者らしいが、その理由もわかるような気がする。
無理に力の入っていた頬がそっと緩まる。それと同時、椛が不意に耳をピクリとさせ、山道の方に鋭い視線を向けた。
「どうしたの?」
「侵入者の匂いです」
至極真面目な顔をしながら、一方で、耳をピクピク、鼻をふんふんとしきりに動かす椛。やっぱりワンコでいいんじゃないかな、と雛は思った。
ともあれ、侵入者。気がついたら脳裏にまた彼の姿が霞んでいて、いよいよもって呆れてしまった。
目を閉じ、思う。もう忘れよう、彼のことは。運のない出会いだったのだ。もうどうしようもなくなってしまったことなのに、これ以上気を揉んでも、本当に仕方ないではないか。
「そこの狐、止まりなさーい!」
椛が高く声を上げ、羽を鋭く打ち鳴らして眼下へ降りていく。狐か。昨日といい今日といい、山で誰かが油揚げでも作っているのではないだろうか。そんな冗談めいたことを考えながら雛は目を開けて、椛が降りていった方を見下ろし、
「――は?」
転瞬、言葉を失った。
瞳に飛び込むのは銀。椛に厳しく
気づいた時には、飛び出していた。
「ちょっと、――ちょっと!」
「えっ? ど、どうしました雛さん?」
驚く椛の姿はもはや意識に映らない。彼女の横を駆け抜け、自分が厄神であることも忘れて、“彼”の目の前に降り立っていた。
「ああ、ここを通ればもしかしてと思ったけど――昨日振りだね」
優しいバリトンの声音が耳をくすぐる。ああもう、一目見た時からおかしなやつだと思ってたけど、本当にとびっきりにおかしいやつだ。そう雛は噛み締めるように思う。
だって、八雲紫にさらわれて、まさか無傷で戻ってくるなんて――
「おはよう。名前は確か――鍵山雛、だったね?」
「……ええ、そうよ。――このバカッ」
浅く右手を挙げて挨拶してくる銀の狐に、雛は白い歯を思いっきり見せて、笑い返した。
○
すまなかったね、と彼は笑った。
「いや、まさかあのタイミングであんなことになるとは。私も驚いたよ」
「まったくよ。……というか、なんで生きてるの?」
「勝手に殺さないでくれないか?」
「それはそうだけど」
雛は彼の姿を足元から頭上までくまなく凝視するも、不審な点はなに一つとして見られなかった。完全に昨日のままと同じ姿だ。怪我はもちろん、襲われたと思しき痕跡もなにもありはしない。
その理由を問えば、彼は「ああ……」と前置きしてからこう答えた。
「私と紫は、友人同士でね」
「……は?」
なんか今、実にありえない言葉が聞こえたような。
「ごめん、もう一度言ってくれる?」
「ん? だから、私と紫は友人同士なんだよ。昨日スキマでさらわれたあと、あいつの屋敷で一泊してきたんだ」
「……」
雛は絶句していた。『開いた口が塞がらない』とは、まさにこのことをいうのだろう。
「友人、ですって?」
「ああ、そうだよ?」
「じゃあ、襲われたとか、そんなんじゃなかったの?」
「もちろん」
答える彼はあくまで自然体で、嘘をついているようにはとても見えなかった。
雛はなおも開きっぱなしの口でなにかを言おうとしたけれど、結局ただ呼吸をするばかりで、言葉は出てこなかった。むしろ、なにも言う必要はないのだと気づいたのだ。彼の言葉が嘘でも真でも、こうして無事に戻ってきてくれたのなら、それでいいじゃないか。
「……とにかくよかったわ。無事で」
「そうだね。心配を掛けたようで、悪かった」
くつくつ笑う彼の言葉を、否定はしない。今までの自分自身を思い返してみれば、彼のことを心配していたのは立派な事実だ。でなければ、雛が今こうして安心している理由は説明できないだろうから。
「あ、あの、雛さん。お知り合いですか?」
呆気にとられた様子で、それでも最低限の警戒心だけは失うことなく、椛が背後から問うてきた。振り返りながら、雛はかすかに答えに悩む。昨日ほんの数分だけ話をしただけの相手は、一体どんな言葉で表現できるのだろうか。
先に返事をしたのは、彼の方。
「お前は、白狼天狗だね?」
「……そうですけど、それがなにか?」
あなたには訊いてないんですけど、と椛の双眸が不快げに細まる。しかし彼は「まあまあ」と両の掌を返しながら、こう続けた。
「私はこの子とは会ったばかりだから、知り合いとまではいえないかもしれないけど。でも、怪しいものじゃないという証明なら確かにあるぞ」
「……それは、なんですか?」
「操に訊いてみるといい」
告げられたその名に、椛が大きく息を詰めた。
操。確かその名は、椛たち天狗を統べる長――『天魔』の名だったはずだと、雛は記憶している。ということは彼は、八雲紫のみならず、その天魔とも友人だというのだろうか。
「まさか、天魔様のお知り合いだとでも?」
「それを確かめてみるといい、と言っているんだよ」
「もしそれが虚言だったなら、厳罰では済みませんよ?」
「だったら操をぶん殴ってやってくれ。この鳥頭め、旧友のことを忘れるとはどういう了見だ、とね」
「……」
威嚇するように、椛の体から妖力があふれた。長である天魔を『鳥頭』と貶されたからだろう。哨戒の任務を回される、有り体をいえば『下っ端』である彼女でも、幻想郷に名高い天狗の一族だけあって、そのへんの無名の妖怪とは明らかに妖力の質が違う。直接向けられているわけでもないのに、雛の肌がさっと粟立った。
けれども彼は、その妖力を目の前にしても、決して呑気な笑みを崩さなかった。
「それだけ、軽口を言い合えるような仲ということだよ」
「……わかりました、すぐに確認してきましょう。雛さん」
「え? あ、はい」
唐突に名を呼ばれて、思わず声が裏返りそうになる。
「天魔様に確認を取ってきます。その間、すみませんけど、この男が逃げないように計らってくれませんか?」
「え、ええ、構わないけど」
椛の妖力にすっかり気圧されていたせいだろうか、よく考えもしない内にこくこくと頷いてしまった。
椛は一度頭を下げ、
「ありがとうございます。――それでは」
最後に釘を刺すように鋭く男を見やってから、翼を打ち鳴らし、山頂の空へと飛び去っていった。
雛はしばらく、どうしたらいいのかよくわからなくなって茫然とその方向を見つめていたけれど、「仕事真面目だねえ」という彼の呟き声が聞こえて我に返る。
「あなた、大丈夫なの? あんな喧嘩を売るような言い方して……」
「大丈夫だろうさ。私があいつ――天魔の友人なのは事実だからね」
まあ、あいつが鳥頭で私のことを忘れてる可能性は否定できないけど――そう言って肩を竦めた彼は、さて、と改めてこちらに向き直ってきた。
「それじゃあ、あの子が確認を取ってくるまで適当に話でもして待ってようか。逃げるなと、目で釘を刺されてしまったしね」
「……」
ああ、そういえばそんなことになったのよねえ、とぼんやり思ったところで、雛は状況が少しばかり面倒になってしまっていることに気づいた。彼と話をする。それはまさに昨日、雛が彼を不幸にしたくないという思いから躊躇い、よしとしなかったことではないか。
誘発されるように、今の自分と彼の距離が近すぎることにも気づいた。無事だった彼の姿を見て慌てたからとはいえ、この距離では厄が簡単に伝播してしまうだろう。「そうね……」と呟き、考えるふりをしながら、雛は彼から静かに距離を取った。
「……まあ、話をすることは構わないわ」
椛に頼まれた手前だ。昨日のように「行きなさいな」と促すことなどできない。
けれど、
「なら、厄が移らないように距離を取らないとね……」
「……」
一歩、また一歩と彼から離れて、取った距離は五メートル以上。普通に話をするには、少しばかり遠すぎる間合い。よそよそしいけれど、厄神と安全に会話をするには必要なことなのだ。
振り返ると、困ったように眉を下げて沈黙している彼がいる。ごめんなさい、と雛は胸中で呟いた。
「……つまり」
ぽつり、と彼が口を切る。呟くような声量なのに、不思議とよく通る声だった。
「あまり近くで話をすると、自分の集めている厄が私に移って、不幸にさせてしまうから……お前はそれが嫌なんだな?」
「……昨日だって、そう言ったでしょ? 仕方のないことなのよ、これは」
「ふむ……」
彼は腕を組み、何事か真剣に思案しているようだった。こちらと近くで話ができるような方法を考えてくれているのか。気持ちは嬉しかったけれど、それは無理よ、と雛は内心苦笑する。
生物と厄は切っても切れない関係。自分より厄を多く抱えたものに近づけば、厄をもらって不幸になる。謂わば熱が温かいところから冷たいところに移るのと同じ、避けようのない大自然の理。それを覆せるのは、例えば八雲紫のように、理そのものをひっくり返しかねない馬鹿げた能力を持っている者だけ……力づくでどうこうできるような問題ではないのだ。
「気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとう。……でも、あなたが私に近づけば、厄をもらって、不幸になる。それは必然なの。だから――」
「ふむ。でもまあ」
けれど、こちらの言葉を断ち切って彼は続けた。腕を浅く開き、一方で瞳は閉じて、諭すように柔らかな声音で微笑んだ。
「――“その当ては、外れると思うけどね”」
その声を聞いた瞬間、雛の体を言いようのない違和感が襲った。明確になにとは言えないが、決して不快感があるわけではなく、まるでスイッチを押したかのようになにかが切り変わった――そんな違和感。
なんだったんだろう――そう疑問に思う雛の先で、彼はなおも言葉をつないでいく。
「じゃあ、ここは一つ実験してみようじゃないか。本当に私が、お前の厄をもらって不幸になってしまうのか」
そうして、一歩。
こちらに向かって大きく、踏み出してきた。
「――ッ」
雛は思わずあとずさる。けれどその距離を、彼は更に一歩、前に踏み出すことで詰めた。ダメ、と雛は彼から離れようとするが、上手く体が動かない。こちらを厄神だと知ってなお近づいてくる人物に、初めて出会ったものだから、咄嗟に足が竦んでしまっているのだ。
「ダ、ダメよッ! 正気なの!?」
「正気さ。……ああ、結構自信アリだよ?」
せめて口だけででも彼を遠ざけようとするけれど、彼は決して止まらない。言葉の通り、表情にたたえているのは、こちらに近づくことをなにも恐れていない大胆な笑みだけ。まるで子どもみたいだった。
五メートル以上あった距離を、既に半分詰められている。
「ま、待って……! ダメ……ッ!」
「大丈夫、大丈夫。お前がしているのは全て余計な当てずっぽうさ」
ザッ、ザッ。彼が山道を踏み鳴らす、その音が鳴るたびに、雛と彼の間は近づく。
「や、やっ……!」
怖くなって、雛はきつく目を瞑った。
それでも、彼がやって来る音は決してやまなかった。
……その音が聞こえなくなったのは、一体いつからだったのか。
気がついた時には、なにも見えない闇色の中、しんとした静寂だけが耳に痛くて。
それに耐えられなくなって目を開ければ、ふりふりと、眼前で銀色が揺れているのが見えて。
「――!」
それが彼が差し出した尻尾であることに気づいて、慌てて飛び退こうとしたけれど。
「ほら。やっぱり、余計な当てずっぽうだった」
バリトンの声音に耳をくすぐられて、ハッと息を呑んだ。
雛の周囲を、クルクルと、厄が回っている。そう――すぐ目の前にいる彼に、まるで気づいていないかのように、ちっとも移っていくことなく。
くぅるくる、そのままで、回り続けている。
「……ふ、え?」
思わず、そんな声が漏れた。だって、自分に近づいた者に厄が移っていってしまうのは当たり前のことで、今までもずっとそうだったのに……なのに、なんで突然?
ぽかんと彼の顔を見返した。どうしてこんな現象が起こっているのかはわからない。でも、少なくとも、厄が彼に移らずに回り続けているということは――。
雛のその考えに応じるように、彼が笑みを深めた。
「言ったろう? その当ては外れると思う、ってね」
「あ、え」
「それじゃあ一件落着したところで、改めて自己紹介だ」
からからと、やっぱり呑気に喉を鳴らして、昨日雛が聞けないままだったその名前を教えてくれた。
「私は、月見。“月”を“見”ると書いて、つくみだ。しがない一匹の狐だよ」
気ままに揺れる彼の尻尾。そのくすみのない銀色が、あんまりにも綺麗だったから。
ああ、確かに月の色を映したみたいだなと、雛は思った。
○
妖怪の山を頂に向けて大きく大きく登ると、山紫水明を切り拓いて構えを置く大屋敷がある。空高くからでなければ全貌を見ることすら敵わぬそれは、幻想郷で最大勢力を占める妖怪・天狗の総本山。そして、その長たる『天魔』が羽を休める屋敷でもある。
白狼天狗である犬走椛は、先刻出会った銀の妖狐について報告するため、本山の内部、天魔の執務室を訪れていた。
あの妖狐は、恐れ多くも自らを天魔の友だと名乗った。なんとしても真偽を確かめなければならないことだ。真であれば改めて歓迎しなければならないだろうし、偽であれば――天魔の友を騙った罪人として、誅さなければならない。
嫌疑の気持ちは大きい。天魔が自ら“友”と呼ぶような相手は、鬼子母神と妖怪の賢者のたった二名だけで、その中に狐がいるなどという話は聞いたこともないからだ。やはり、こちらの目を逸らすための虚言であった可能性が否定できない。椛は雛が上手く足止めしてくれていることを祈りながら、手早く執務室のドアをノックした。
「天魔様、犬走です。少し確認して頂きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
返答は、綺麗に一拍の間を挟んでから返ってきた。
「むおー……? よいぞ、入れー」
だらしなく気の抜けた女性の声。それに対し椛は、あいかわらずだと嘆息を漏らしながらノブに手を掛け、さりとて長の部屋に入るのに変わりはないのだから、礼を欠くことのないようにすぐに表情を引き締めた。
「失礼します」
言葉を置いて、一息、部屋に
まず正面、執務机の上にうず高く築かれた書類の山が見えた。どこぞの死神に負けず劣らずのサボり癖を持つ天魔が、一週間もの間仕事から逃げ続けて築き上げた力作だ。椛が何時間か前に確認した時と比べていくらか低くなっているから、どうやらそれなりに仕事はしていたらしい。感心だ、と椛は頷きを一つ。
次いで、その山々の隙間から、奥で黒い物体がもぞもぞと動いたのが見えた。机に突っ伏していた上体を、長い黒髪を引きずりながら起こしたのは、紛れもなく天魔その人。ギシギシと椅子を不安定に軋ませ、やがてやおら口を開いた。
「なにか、用かあ~……?」
黒髪の向こう側で、寝ぼけ眼がまばたきをしている。どうやら居眠りをしていたらしいが、仕事はそこそこしていたみたいだし、なにより今はあの妖狐について早急に確認を取らなければならないので、椛はすぐに本題を告げた。
「はい。先ほど警備中に、麓付近で天魔様の友人を名乗る方と出会いまして」
「友人……? 誰じゃ、
「いえ、ええと――」
答えようとして、そういえば名前を聞いていなかったことに気づく。仕方ないので、あの特徴的な銀の毛並みを告げることにした。彼が本当に天魔の友人ならば、それで問題なく伝わるだろう。
「綺麗な銀の毛並みを持った、狐の――」
瞬間。
ざわ、と、部屋の中を唐突に風が巡った。窓を、ドアを、そのすべてを閉め切った空間でどうして風が流れるのか。答えは、ただ一つ。
「て、天魔様――?」
天魔が風を操っているのだ。でも、なんでいきなりそんなこと。当惑する椛が問う間にも、風はますます勢いを増し、書類の山を容易く
「ふ、ふ、ふふふふふ……そうか。銀の、狐か」
不気味に響く天魔の声は、抑えられない喜びの色で染め上げられていた。ああ、こんな天魔様を見るのは久し振りだ。きっとあの狐は、本当に天魔様の御友人だったんだろう――そう椛が思った直後。
「悪い、椛。――少し出掛けてくる」
「え――きゃあああああ!?」
突風。爆発でも起きたのかと思うほどの豪風であった。書類が四方八方に弾け飛び、部屋全体が激しく振動し、体を打たれた椛は立っていることもできず後ろに薙ぎ倒されてしまう。
そうしてしばらく、風が落ち着きを取り戻し、椛が恐る恐る目を開けた時――見えたのは執務室の天井、無造作に開け放たれた大きな天窓。
「あ……」
呟き、ゆるゆると起き上がる。
目の前に、惨状が広がっていた。
執務机の上に築かれていた書類の山。天魔がいくらか減らしたとはいえ、それでも残り何百枚はあったはずの紙片たちが、みんな散り散りに飛び散って、床の上、執務机の上、そして本棚の隙間と、至るところを真っ白に塗り潰している。
そして、なにより。
この部屋にあるべき天魔の姿が、どこにもない。さっきまで確かにいたはずなのに、忽然と消えてしまっている。
椛は、開け放たれた天窓に目をやった。あの窓は突風が吹いた程度で開いてしまうようなヤワな作りではないし、もちろん、椛が開けたわけでもない。
では、天窓を開けたのは一体誰か。答えはたった一つ。それを悟って、椛はへなへなとその場に座り込んでしまった。
「て、天魔様あああ~……」
ちょうど目の前を舞って落ちた書類が、自分を嘲笑っているかのようで。
椛は割と本気で、その書類をズタズタに引き裂いてやりたい衝動に駆られたのだった。
○
誰かと他愛もない話をすることが、こんなにも緊張するとは思わなかった。
椛が天魔に確認を取って戻ってくるまでの一時、山道の脇に転がっていた古木の幹に腰を下ろし、雛は銀の妖狐――月見と話を交わしていた。互いの距離は隣同士、手を伸ばせば容易に相手の肩に触れられるほど。相手が男というのもあるのかもしれないけれど、この距離で誰かと話をするのは初めてで、わけもなく恥ずかしくて、心臓の鼓動が外に漏れてしまいそうだった。
「……ふうん。それじゃああなたは、つい先日まで外の世界で暮らしてたのね」
「ああ。ここに戻ってくるのは数百年振りだけど、あまり変わりないようで嬉しいやら悲しいやらだね」
幸いなのは、その緊張を表に出すことなく無難に会話を進められていることだろうか。私のポーカーフェイスもなかなかのものねと、雛は自分を褒めてやりたい気持ちになった。
月見の話は、正直あまり頭に入っていない。最低限の相槌は打てているものの、そうした途端に頭から抜け落ちていってしまっている。なにか色々と話をしたような気がするものの、彼の名が月見であること、つい先日まで外の世界で暮らしていたこと以外はよく覚えていなかった。
「……なるほど。あなたがこの山の神社に行こうとしてたのも、そのあたりが理由なのね」
「そうだね。私が昔ここで生活してた時にはなかったものだから、一目見ておこうと思って」
「ふうん……」
思う。椛はまだ戻ってこないのかしら、と。雛の体感時間では、椛が飛び立ってから既に三十分以上が経っている気がした。
こうして会話すること自体は別に不快ではないのだが、このままだと色々とボロが出てしまいそうで不安だった。緊張しててろくに話も聞いてませんでした、なんてことがバレたら、決して恥ずかしいだけでは済まされない。
「……まあ、私の自己紹介はいい加減このくらいでいいかな。ほとんど見ず知らずの男の自己紹介ばかり聞いてても、つまらないだろう?」
「えっ……あ、いえ、別にそんなこと……」
雛は焦った。彼が自己紹介をやめたら話題がなくなる。話題がなくなるということは、緊張しているのがそれだけバレやすくなるということだ。
「……」
彼が、無言でじっとこちらを見つめてきた。なにか話したいことがあったらどうぞと、そう言っているかのよう。けれど雛には、改めてなにを話せばいいのかなんてわからなかった。
自己紹介されたんだから、こっちも自己紹介で返すべき? でも、それなら既に昨日の時点でしてしまったし、今更繰り返してもよそよそしい気がする。じゃあ彼が自己紹介したことについて掘り下げてみる? かといって肝心のその内容をほとんど覚えていないし、あんまり掘り下げすぎても馴々しいと思われるんじゃないかとか――
「ふふ」
ふと、微笑の声。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。気楽に行こうじゃないか」
「うっ……」
いけない、気づかれた。頬がじんわりと熱を持っていくのを感じる。ただ隣同士に座って会話するだけでここまで緊張するなんて、まるで私が口下手みたいじゃないか。
……なんて思ったけれど、実際そうなのかもなあ、と雛は内心でため息をこぼした。なぜか厄の影響を受けない彼は、もはや雛にとってただの他人と割り切ることはできない。だからこそ、今までの距離を取った人付き合いの中では気づくことができなかった自分の本当の姿が見えて、恥ずかしくなってくるのだ。
どうやら雛は、相手と距離があるうちは冷静だが、ひとたび近づかれると途端に緊張して上手く喋れなくなってしまうタイプらしかった。なんだか自分で自分が情けない。
「え、ええと……」
ともあれ、だからといってこのままというのもよろしくない。雛はすっかり熱くなってしまった己の頬を心底恨みがましく思いながら必死に話題を探して、そういえばと、ふとあることに気づいた。
「そういえば、あなたはどうして厄の影響を受けないの? いえ――」
正確に言えば、“受けない”のではない。
「“受けなくなった”、のよね。昨日の時点では、私の厄は確かにあなたに移ろうとしてたもの……」
雛が集めた厄はあいかわらず周囲にふわふわ停滞し、一向に月見へと移っていく様子はない。昨日までならありえなかったはずのことだ。だからこそ、どうしてなのかと眉根を寄せる。
或いは、あの時に感じたスイッチが切り替わるような違和感と関係があるのだろうか。
「あなたの能力?」
「答えを言えば、そうだ」
頷いた月見は、けど、と続けて苦笑。
「どんな能力かは、悪いけど秘密にさせてくれ」
「……どうして?」
「色々面倒な能力でね」
それっきり、彼はこの話題は終わりだとばかりに話すのをやめてしまった。色々面倒な能力。気にはなったが、追求しようとは思わない。
大切なのは――その能力のおかげで、こうして隣同士で話をしても、彼を不幸にさせることがなくなったのだという事実。自分が厄神である以上は避けられないと思っていた運命を、覆してくれたのだという結果だけ。彼が厄の影響を受けなくなったのは能力を使ったからなんだと、それさえわかれば充分だった。
だから、雛はそっと微笑む。
「……訊かないわ。私としては、こうして話をできるだけで充分だもの」
「そうか。……助かるよ」
「礼を言うのはこっちの方よ。……ありがとう」
雛が厄神であることを気にせずに、近づいてきてくれるような相手。自分自身が厄神であることも忘れて、下らない話ができるような相手。どれほど焦がれただろうか。どれほど夢見ただろうか。
「どういたしまして」
ああ、卑怯だなあと、雛は思う。
あくまで雛の境遇が特殊だったせいもあるのだろうけれど、そんな風に嬉しそうに笑いかけられたら――安心してしまうではないか。
心を、許してしまいそうになるではないか。
「あなたは、変わり者なのね……」
「ッハハハ、よく言われるよ」
「そう……」
同時、頓に体がこそばゆくなってきた。彼の人間性は、雛が今まで出会ってきた者たちが、誰一人として持っていなかった稀有なものだ。ひっそり隣に佇んで、柔らかい光で優しく他者を包み込む――それこそまるで、月のような。それがなんとなく落ち着かなくて、そわそわしてしまう。
……或いは、だからだろうか。
「ね、ねえ」
「うん?」
「も、もしよかったらだけど……たまにこうして、私の話し相手になってくれないかしら」
まだ親しくもない男性相手になにを言っているのと冷静な部分で思いつつも、言葉は止まらなかった。
「あなたと話ができると、嬉しいから……」
さわさわ、風が山肌を撫でる。
そして、言い切ってから、数秒。
――雛の顔が火を吹いた。
(な、なに言ってるの私――――!?)
なんだか、よくわからない内に、よくわからないことを口走ってしまったような気がする。今の、聞かれただろうか。いや、この距離だ。聞かれたに決まってる。
だから思わず、やっぱり今のナシ、と全身で叫ぼうとした……その瞬間。
「なんだって? すまない、よく聞こえなかった」
「ひゃう!?」
彼がいきなり顔を近づけてきたものだから、びっくりして、
「あっ、」
咄嗟に両手で
そのまま、背中から地面にひっくり返ってしまった。
「い、いたあっ……」
後頭部を押さえて悶える。さっきからなにやってるのよ私、と泣きたくなって、それから自分がどんな醜態を晒してしまったのかに気づいて、慌てて空を見上げた。
空の下、視界のはしっこに、目を丸くしてこちらを見下ろしている月見の顔があって。
思わず雛も、地面に寝転がった体勢のままで、ポカンと彼を見返して――
「――ッハハハハハハハハ!」
いきなり彼が、大笑いした。
「なっ――ちょ、笑わないでよ! 笑うなあっ!」
「す、すまない。しかし、これは、なあ? ッハハハ……!」
「こ、このっ……!」
た、確かに傍から見れば滑稽だったかもしれないけど、そんな大笑いしなくてもいいじゃない――そう思い、一発ぶっ叩いてやりたくて、雛は体を起こそうとした。
でもそれと同時に、彼が急に右手をこちらに伸ばしてきたので、ハッと動きを止めた。なによ、この手――初めは、そう思ったけれど。
「ほら、大丈夫か?」
「――ぅえ、」
掛けられた言葉に、思わず変な声がこぼれた。目の前にある大きな掌を呆然と見返しながら、どうすればいいんだろう、と疑問に思ってしまう。ああ、答えなんてなんとなくわかっているのに、呆気にとられるばかりで頭が上手く回ってくれなかった。
「えっ……と?」
ゆるゆると、月見を見る。彼は白い歯を見せて、苦笑した。
「ほら。いつまでもそうしてると服が汚れるぞ」
「そ、そうだけど……」
もう一度、彼の掌を見る。変わらず雛の目の前で、静かに佇んで、待ち続けていた。
他でもない――雛の右手を。
「――」
言葉が出てこない。だって、こんな風に手を伸ばしてもらったのなんて、初めてだったから。本当に私が、厄神の私がこの手を取ってもいいのか――とか、考えてしまって。
「ほら……いつまでぼうっとしてるんだ、よっと」
「わあっ!?」
そのうち、痺れを切らした月見に強引に右腕を取られた。力強く体を引かれて、視界がグルンと縦に大きく動いて、気がついたら立ち上がっていた。随分と乱暴な起こし方だったけれど、背中に彼の尻尾がさりげなく回されていたので、痛みはない。
「まったく……どこか怪我したのか?」
「えっ、やっ、別にそういうわけじゃ……」
尻尾がポンポンとこちらの背を叩いて、ついた落ち葉なんかを払ってくれている。
「まだ緊張してるのか?」
「緊張っていうか、その……」
緊張しているというか、今の状況についていけなくて戸惑っているというか。
「ふむ……では色々ひっくるめて訊くけど、大丈夫か?」
「……」
問いに、どうなんだろうな、と雛は考えた。初体験の連続で体は熱っぽいし、心臓は大慌てしてるし、なんか頭を空にしてその辺を全速力で飛び回りたい気分だし、決して大丈夫とはいえないような気がする。
でも――と、胸に手を当て、思う。これはきっと、悪い感情じゃないんだと。新しい環境に対応して自分が変わろうとしている、喜ばしい感情なんだと。
そう思うと、不思議と熱かった頭も落ち着いた。
笑みの吐息をつき、言う。
「……本当にあなた、変わり者よ」
「おや、そうか?」
「ええ、そうよ」
彼の勝手気ままな姿を見ていると、さっきまで色々と大慌てしていた自分がバカみたいに見えてくるのだから不思議だ。すべてのことが新鮮に感じられて、楽しくて、厄神であることに思い悩んでいた少し前までの自分が嘘のよう。
だから雛は、もう一言だけつなげた。
「……ほんとに、ありがと」
自分でも聞き取れないくらいにそっと呟いたそれは、果たして彼に届いたのだろうか。彼は一瞬不思議そうに小首を傾げて、すぐに一笑。
「そういえば、結局スペルカードについて教えてもらってなかったね。あの白狼天狗の子もまだ戻ってこないし、もしよければ今教えてくれないか?」
「ええ、そうね……私は大丈夫よ」
心もすっかり落ち着いていた。今ならきっと、心ゆくまま彼と話をすることができるだろう。
話題は、スペルカード。まずはスペルカードルールについて教えた方がいいだろうと思い、口を開いたけれど、
「ん……ちょっと待った」
「え?」
不意に月見が片手でこちらを制し、空を見上げた。その時になってようやく、雛は森が少しばかり騒がしくなっていることに気づく。木々たちがざわざわと震えて、落ち着きがないのだ。
月見が静かに眦を険しくした。それを見て、雛の心も緊張を覚える。どうしたんだろう。横から月見の顔色を覗き込むけれど、彼は空を見上げたまま微動だにしないでいる。
「……少し下がってなさい」
そのうち、月見がこちらを庇うように大きく三歩前に出た。なにかよくないことが起こるような気がして、雛の心がざわめく。あの時彼が目の前から消えてしまった光景が甦って、息が詰まる。
「つ、月見……」
「なに、心配ないよ。そこでのんびり見てるといい」
耐え切れなくなって名を呼ぶけれど、彼は空から視線を外すことなく、微笑む声で応じるだけ。
森のざわめきは次第に大きくなる。雛は、何者かがこちらに向けて猛スピードで迫ってきている気配を感じた。椛が戻ってきたのだろうか。いや、それにしては様子がおかしい。この速度、幻想郷最速を謳うあのブン屋にも負けず劣らずの勢いではないか。
というか、そうこう考えているうちに――
「――って、ちょっと待って!?」
雛は焦った。何者かは知らないが、あれだけの猛スピードを出しておきながら一向に止まろうとする気配がない。あのままここに突っ込んでくるつもりなのだ。もし激突でもしたら、決してただでは済むまい。
「月見、逃げなきゃ!」
「大丈夫だよ。私に任せておきなさい」
けれど、慌てる雛を再度月見の柔らかな声が制す。彼はその場で空に向けてゆっくり両腕を開いて、身構えた。……まさか、受け止めるとでもいうのだろうか。流れ星みたいに落ちてくる何者かを、体一つで。
「つ~~く~~みいいぃ~~……」
声が降ってくる。そこから先は一瞬だった。折り畳まれた黒の大翼が見えたから、どうやら天狗らしいと――雛が認識した頃には、既に月見と“彼女”は激突間際で。
「月見――――!! 久し振りじゃぎゃああああああああ!?」
刹那。
月見は目にも留まらぬ神速で尻尾を振るい、彼女を真横に打ち飛ばしたのだった。