銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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諏訪大戦 ② 「神を狩る鬼」

 

 

 

 

 

 生まれて初めて、恐怖という感情を学んだ。

 祟り神を統べる王たる洩矢諏訪子にとって、恐怖とは他者から抱かされるものではなく、他者に抱かせるものだった。祟り神は文字通り祟りを司る神であり、また一方で、正しく祀れば相応の加護を得ることができる神でもある。その清濁併せ持つ強い二面性を利用し、諏訪子は洩矢土着の神としての確固たる地位を築いていた。

 恐怖という感情は、諏訪子にとっては一種の信仰上の道具でしかなかった。だから数週間前、洩矢を大和に併合する気はないかという八坂神奈子の提案を一蹴し、憤るあまりつい宣戦布告してしまった(・・・・・・)時も、焦りこそすれ、恐怖など微塵も感じなかった。

 自分にはきっと、恐怖という感情そのものが欠落しているのだと――本気で信じていたのは、ついさっきまでのこと。

 

「……まったくもう、いきなり危ないじゃないですかー」

 

 これが恐怖なのだという、明確な実感があった。体が凍り、心臓が軋み、呼吸が止まる。歯が打ち震えるほどの寒さを感じるのに、なぜか滴り落ちる汗が止まらない。ついさっき目の前で繰り広げられた光景が、まるで何百年も遥か昔のことのように思えてしまう。

 怪我の一つも、汗の一つすらもなく、諏訪子の部下の神々――ミシャグジたちを、片腕一本で叩き潰した鬼の少女。

 

「さすがの私も、ちょっとびっくりしましたよ?」

 

 非は諏訪子にある。大和との戦を控えて気が立っていたのが原因だろうが、ふらっと神社に現れた鬼の少女を、外敵だと一方的に決めつけて攻撃してしまった。故に彼女はただとばっちりを受けただけであり、ただ、正当防衛をしただけだった。

 なのに――なにが起こったのか理解できなくなってしまうほど完璧に、諏訪子は負けた。ミシャグジたちは皆少女の片腕一撃で沈み、諏訪子もまた地に叩き伏せられ、大の字になって青空を見上げていた。

 向こうが殺すつもりで来ていたなら、間違いなく殺されていた。戦っていたのはほんの数十秒――たったそれだけの時間で、途方もないほどの実力差を頭蓋の底まで叩き込まれた。

 茫然自失としていると、ふと視界に影が差す。鬼の少女が、こちらに手を伸ばしてきている。

 

「……立てますか?」

 

 諏訪子がその手を取ったのは、茫然とするあまりの、無意識な行動だった。

 だが、

 

「うわっ」

 

 いきなり視界が回転し、体が宙に浮いた感覚。少女の怪力のあまり投げ飛ばされたのだと理解したのは、咄嗟の条件反射でどうにか無事に着地してからだった。

 

「あ、ごめんなさい。思いのほか軽かったもので、すっぽ抜けちゃいました」

「……」

 

 半目で睨めば、少女はまるで悪びれる様子もなく、ごめんなさいーと笑う。

 

「どうにもつい、手加減できない性分で」

 

 嘘つけ、と諏訪子は心の中で毒づく。本当に手加減できないのだったら、今頃諏訪子もミシャグジたちも生きてはいない。

 恐ろしかった。これほどにまで強大な妖怪が、この世に存在を許されているという事実が。ミシャグジよりも、諏訪子よりも――そして大和の軍神・八坂神奈子よりも、この少女が遥か高みにいるのだと、まさしく火を見るように理解できた。

 

「……一体何者だい、あんた」

「のんびりこのあたりを旅して回ってます、至って普通な鬼の女の子です。怪しい者じゃないですよー?」

「そういうことを訊いてるんじゃないよ。そういうことじゃなくて……」

「?」

 

 少女の答えは、諏訪子が求めているものとは違っていた。けれど、どう問いを言い直せばよいのか上手く思いつかなくて、そのまま言葉に詰まってしまった。

 結局、先に少女の方が察したようだった。ええとですねー、と口元に人差し指を当てながら、彼女はすっと目を笑みで細めて。

 

「少なくとも私の知る中では、最も太古から生きている、鬼たちの祖――」

 

 底が知れない深い闇色の声音で、恐ろしいほどまで美しく。

 

「――名は、藤千代っていいます」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 今になって思えば、まさに僥倖とも呼べる出会いだった。大和との大一番を控えて、ちょうど戦力不足に悩まされていた時期だったのだから。

 大和との決戦に、この力があれば――そう思い藤千代に恥もなく頭を下げた、あの時の自分の英断を、手放しで褒めてやりたい気分だった。洩矢の客将としてこの戦に参加した藤千代は、本来あるべきだった戦模様を劇的なまでに変えていた。

 本陣の真上をふよふよと漂い、掌を庇に戦場を望みながら、洩矢諏訪子はひょうと口笛を吹く。

 

「いやー、改めて見てもヤバいねあれは。強すぎ。あんなのに勝てるやつなんていないんじゃない?」

 

 地上にいる敵を、石ころを蹴飛ばすように。空にいる敵を、埃を払うように。そうやって大和の神々を瞬く間に撃破していく藤千代の姿に、諏訪子はただ、口端を苦笑で歪めることしかできない。

 藤千代という鬼の少女は、明らかに異常であった。

 童子にも見える幼い外見に反して、齢が知れない。一度尋ねてはみたものの、もうとっくの昔にわからなくなってしまったらしい。つまりは、わからなくなるほど悠久の時を生き抜いてきた大妖怪であるということ――だが、それにしても。

 一般的に妖怪は長く生きれば生きるだけ力を増すが、それにしても彼女は強すぎた。諏訪子の中に根づいていた大妖怪の常識を、藤千代は根底から覆してしまった。千年以上を生きている強力な大妖怪はいくらか知っているが、それでも藤千代の実力に遠く及ばないのは明らか――果たして、どれだけ悠久の時を生き抜いてきたというのか。

 藤千代は、あまりに強すぎた。

 鬼という種族にのみ与えられた、その途方もない戦闘能力も。

 そして藤千代という個体にのみ与えられた、その異能も。

 諏訪子は戦場に目を凝らす。藤千代が、戦場を歩いている。走るのでもなく、空を飛ぶのでもなく、ただ歩いている。

 やがて彼女は、薙ぎ倒された仲間の姿に足を止めていた、一人の神の前に立った。しかし、その神は気づかない。息遣いすら聞こえそうなほどすぐ傍に立たれているのに、いつまで経っても気づく様子がない。そして真横から拳を打ち込まれ、吹き飛び、諏訪子の視界から消えた。

 本当に、強すぎる。身体能力だけでも他を寄せつけないほどだというのに、そこにあんな能力(・・・・・)まで付いているなんて、まさに破格の極みだった。

 大和の軍勢を迎え撃つ、洩矢の布陣は至って単純だった。藤千代とごく少数の精鋭のみを中央に。それ以外の戦力はすべて左翼と右翼に。両翼は突破を目標とせず、ただぶつかった相手をその場に押さえつけ、時間稼ぎをするだけ。

 それだけでいい。

 そうすれば、あとは藤千代が勝手に中央を破壊する。

 破壊し、八坂神奈子を粉砕する。

 

「うん、楽だ楽だ。見てるだけで勝てる戦ほど楽なものはないね。本当にいい拾い物したよ」

 

 思わず笑ってしまうほどに、藤千代の戦は圧倒的だった。彼女は止まらない。一瞬たりとも止まらない。視界に入るすべての神々を拳一つで粉砕し、中央を荒らし続ける。大和の両翼が援護のために進路を変えようとする。それを洩矢の両翼が抑え込む。その間に藤千代は次々と敵を打ち砕き、中央を進み続ける。

 藤千代は、止まらない。彼女の牙は、もう間もなく大和の本陣へ喰らいつこうとしている。そうすれば洩矢の勝利は確定だ。八坂神奈子の実力はいまいちわからないが、藤千代よりも強いことだけは絶対にありえない。命を賭けたっていい。

 藤千代よりも強い存在なんて、存在し得ない。

 藤千代が神奈子を倒して、それで終わりだ。

 洩矢の総大将として、自らの手で神奈子を討とうとは思わない。諏訪子にとっては戦いに勝つこと――己の国を、己の信仰を大和から守ることこそがすべてなのだから。

 勝てば、それでいい。

 だから諏訪子はあくびをしながら本陣まで下りて、適当に敷いていたござの上に寝転がる。

 

「……まあ、戦場の喧騒を聞きながら眠るってのも、乙なもんじゃないかな?」

 

 果報は寝て待て。

 まったくもってその通りだと、洩矢諏訪子は、強く笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 諏訪子がそうしてまぶたを下ろした頃、月見は大和の本陣の遥か後方で、ゆっくりと重い腰を上げたところだった。見守っていてほしいという神奈子の願いに応え、小高い丘の上で戦況を見つめていたが、どうにも様子がおかしいことに気づいた。

 強く眉をひそめ、呟く。

 

「……これは、どういうことだ?」

 

 中央、右翼、左翼の三方面で展開される大和と洩矢の激突は、両翼こそ拮抗しているものの、中央だけが別世界のような有様になっていた。

 大和の布陣が、たった一人の鬼の少女に破壊されている。蹂躙という言葉すら当てはめられそうなほど、あまりにも一方的に。

 

「……」

 

 大和の兵は、一人ひとりが並の神を上回る練度を持っている。狐の中では最高格の大妖怪であろう月見とて、彼らの相手をするのはそう楽な話ではない。その豪将たちが、まるで大人と子どもの喧嘩のように、呆気なさすぎるほどに、たった一人の相手に圧倒されている。

 鬼の少女の動きは決して速くない。歩くようにゆったりとした足取りで戦場を進み、静かな手つきで拳を放つ。お世辞にも打撃とは程遠い、まるで埃を払おうとするようなやる気のない動きだ。豪将たる大和の神々が反応できない道理などない。

 なのに、それとは正反対のことが起こる。大和の将たちは反応できない。それどころか、少女に懐に入られたことすら気づかない――まるで、少女の姿自体が見えていないかのように。

 

「……姿を消す能力?」

 

 だが、月見からは少女の姿が見えている。洩矢の神たちも同じだ。乱戦の中で少女の邪魔をしないよう上手く立ち回っており、時に巻き込まれそうになっては、うぎゃー!? と顔を青くして少女に道を譲っている。大和の神々と刃を交えながらも、視界の端では常に、少女の姿を捉えている。

 つまり、少女の姿が見えていないのは大和の陣営だけ。となれば、不特定多数から姿を消すだけの、単純な隠形の能力ではないと見える。効果対象を限定できるというのか。

 

「……どちらにせよ、このままだと負けるか」

 

 だが、能力を抜きにしてもあの少女は異常だ。埃を払うに等しい拳の動きで、屈強な大和の豪将たちを、一つの例外もなく一撃で撃破していくのだから。

 少女の進撃は一瞬たりとも止まらず、いよいよ大和の本陣へ肉薄しようとしている。ここまで来てしまえば、もはや大和の敗北は秒読み段階だろう。軍神の誉れ高き八坂神奈子であっても、恐らくあの少女には勝てない。友を信じる信じない以前に、それだけ少女の力が常識を外れていた。

 

「……」

 

 奇跡の大逆転劇を起こすためには、もう大和は蹂躙されすぎた。中央を破壊されたことで兵たちの士気は下がり、拮抗していた両翼は次第に崩されつつある。今ここで本陣を救援するため転進すれば、両翼までもが崩壊し、いよいよ勝敗が決してしまう。洩矢の陣営が初めから時間稼ぎを目的にしていることもあり、大和の両翼はその場で膠着せざるを得なくなっている。

 ……それによしんば救援に向かえたところで、中央をあっさり破壊してしまうような強大な力を相手に、自分たちができることなどなにもない。正体不明のナニかを、我らが軍神が打ち破ってくれることを信じて、彼らは自分たちが倒されないようにするだけで精一杯だった。

 だが八坂神奈子では、あの鬼の少女には勝てない。

 ならば、本陣を――八坂神奈子を、助けるのは。

 

「あー……仕方ないか」

 

 万が一の時は助太刀に入ると約束した、彼女の友である、月見しかいない。

 無論、月見だってあの少女相手には勝てないだろう。先も言ったが、あれはちょっと常識が違う。月見とてもう大分長生きしている大妖怪なのだから、相手が自分よりも強いかどうか程度は見ただけでわかる。普通に戦えば普通に負ける相手だ。

 しかしだからといって、約束を反故にして友人を見捨ててしまうのも、目覚めが悪かったから。

 

「いかん、そうと決まれば急がないと」

 

 少女の牙は、既に大和の本陣にその先端を喰い込ませつつあった。あのまま噛み千切ってしまう前に、横から思いっきり蹴飛ばしてやらねば。

 風が逆巻くのは一瞬。一度空気を破裂されるような音を響かせれば、そこにもう月見の姿はない。

 一陣の烈風となり、友のもとへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「か、神奈子様……! これは一体、何が起きているのですか!?」

 

 耳を引っ掻く部下の悲鳴を、神奈子は黙れと一喝した。なにが起こっているのか理解できているなら疾うに動いているし、対処もしている。なのに神奈子が未だ本陣で立ち尽くす以外になにもできないのは、眼前の光景が理解の範疇を振り切っていたからだ。

 三方に展開されていた洩矢の布陣のうち、最も寡兵だった中央が、敵本陣へ喰らいつく最短距離であるのは明らかだった。無論罠の可能性は充分視野に入れていたし、その上で打ち破る自信もあった。逆境を跳ね返す強大な武力を誇る豪将と、逆境を力に変える鬼謀を駆使する智将を何人もつけていた。

 その中央が、完全に破壊された。

 これが洩矢の土地を穢した祟りだと、今ここで高らかに宣言する者がいたならば、きっと大和の神々は信じただろう。いや、誰かに宣言されるまでもなく、兵たちの脳裏では既にその二文字が掠めていた。

 だが冷静に考えれば、中央を破壊した現象が祟りでないのは明らかだ。祟りとは即ち厄災であり、飢饉や疫病、或いは天変地異などの超自然的な形で顕れる。洩矢の神々が今この場で大和を祟るというならば、まずは天変地異が起こるだろう。こんな、神々を一体一体『打撃』で粉砕していく祟りなど、ありえるはずがない。

 ならば、姿こそ見えないものの、やはりそこには敵がいるのだと考えるのが妥当。

 神奈子の脳裏を、開戦前に見たあの鬼の少女の微笑みが掠めた。

 

「――!」

 

 まさか、あの少女なのだろうか。姿すら見せずに、大和を一方的に蹂躙しているのは。

 神奈子が以前から感じていた言い知れぬ不安の正体は、彼女なのか。

 目にも止まらぬほどの神速で移動している――否、そんな芸当ができるのならばとっくの昔に本陣まで攻め込まれている。では隠形の類の異能でも持っているのか。そうだとすれば、姿を捉えられない相手とどうやって戦えばいいのか。

 いや――そもそも。

 仮に姿が見えたところで、神奈子たちは勝てるのだろうか。大和の荒ぶる神々を、路傍の小石を蹴り飛ばすように、宙の埃を手で払うように蹂躙する、あまりにも強大すぎるなにかに。

 声が聞こえたのは、唐突だった。

 

「もお、じゃーまでーすよお――」

 

 唐突すぎて、足先から突き上がるように、全身が粟立った。

 

「全員、下がれ! 下がれ!!」

 

 戦の総大将としてなにがあっても決して取り乱してはならぬと、知りつつも、叫ばずにはおれなかった。戦場にはあまりに不釣り合いな鈴の声音は、神奈子が今まで感じたことがないほどに、純粋無垢な殺気で染まっていた。

 

 世界の時が、一瞬だけ止まったように感じた。

 

「――っとぉ!!」

 

 天の地の境界線が消滅した。自分の視界に映るものが、自分の立っている場所が、自分の聞いているものが、なに一つとしてわからなくなった。大地が激震し粉塵が舞い上がり、襲い来た衝撃波に吹き飛ばされて何度も地面を転がった――言葉にすればたったそれだけのことなのに、呼吸が止まった体で呻き、爪の先で土を抉っても、なにが起こったのかなどまるでわからなかった。

 わかるのはただ、結果だけ。

 

 本陣が、破壊された。

 

 立っている味方はいない。そもそも今神奈子が倒れている場所は、本陣ではない。ほんの何秒か前まで本陣だったはずの場所は、神奈子より彼方で土煙を上げている。どうして本陣があんなところにあるのかわからなかった。前後不覚に陥ったあの一瞬で、なにもかもが変わりすぎていた。

 戦場のざわめきすら聞こえなくなるほどの、その場所で。

 立っているのはただ一人――藤の着物を着た、あの鬼の少女だけ。

 粉塵を越えて神奈子の目の前にやって来るのは、ただ一人、彼女だけ。

 

「ごめんなさいー。なんだか段々めんどくさくなってきちゃったので、ドカンと一気にやってみました」

 

 彼女は着物を汚す土埃を払いながら、ここが戦場なのだと信じられなくなるほど柔らかく、笑う。今の状況と少女の存在とが符号しない。だがこの場で立っているのが彼女しかいない以上、大和を蹂躙する死神の正体は彼女以外にありえない。

 総身に力を込める。何度か地面を打ち転がっただけのはずなのに、足が軋んで上手く立ち上がれない。竦んでいるのか。なんとか両足で地を踏むことはできたものの、それっきり縫いつけられたように固まってしまう。

 今ならば神奈子を討ち取るのも容易だっただろうに、少女はなぜかそうしなかった。「もう、ダメじゃないですかー」と可愛らしく頬を膨らませて、腰に両手を当てて、全身で不満をあらわにして言った。

 

「新進気鋭の大和の神々と聞いて期待してたんですが、がっかりです。私一人なんかにここまで突破されちゃってどうするんですかー」

 

 少女に疲れの色はない。それどころか怪我一つ、汗の一つすらもなく、着物の乱れだって、舞い上がる粉塵がついた土埃のみ。完全敗北という言葉が神奈子の脳裏に浮かぶ。大和の神々が。世を平定する確かな力を持った、列島屈指の国津神たちが。

 たった、一人に。

 

「うわっ、なんですかそのありえないものを見る目っ。大和の軍神さんと早く戦ってみたいから、邪魔者には退場してもらっただけじゃないですか。大したことはしてませんよぅ」

 

 常識が違う。

 

「というわけで初めまして、どこにでもいる普通な鬼の女の子です。大和の軍神さんがいる戦ということで、腕試しに参加しました」

 

 少女が呑気に自己紹介をしているうちに、神奈子はようやく今の状況を飲み込み始めていた。自軍は半数近くが壊滅し、本陣も陥落。総大将である神奈子が無事なため戦自体は決着していないが、状況はあまりに絶望的だった。援軍は望めない――仮に来たところでこの少女の前では意味を成さない――上に、一対一。軍神の名に懸けて、たとえこの少女が相手でも負けるとだけは思わないけれど、勝利できたとしても敵総大将と戦えるだけの余力は残らないだろう。もはや戦場のどこかで生き残っているはずの味方に、洩矢諏訪子を討ち取ってくれと祈る他ない。

 そして仲間が洩矢諏訪子を討ち取るためには、なによりもここで神奈子が敗れてはならない。勝つためには、負けてはならない。ようやく思い通り動くようになった体で、己の武器である四本のオンバシラを出現させる。一本一本が神奈子の身の丈を優に超える、巨大な木の柱に、少女は怖じる様子もなく静かに微笑んだ。

 

「では始めましょうか。願わくはあなたが、私の夢を叶えてくれますように」

「……ッ!」

 

 そしてその姿が忽然と、神奈子の目の前から消えた。やはり姿を消す能力の類だ。だが姿が見えずとも、感覚を研ぎ澄ませば妖力の流れから、耳を研ぎ澄ませば微かな物音から、相手の居場所を判断するのは充分に可能――

 

「――」

 

 ――だと思っていたからこそ、神奈子は息を止めた。

 なにも感じない。妖力も、物音も、なにも。

 声、

 

「……ちなみに、まだあなたの目の前から動いてませんよ」

「……!」

「で、今ー……あなたのすぐ真横を通って(・・・・・・・・)、後ろに立ちました」

 

 わからない。隣を通り抜けられた気配など感じない。聞こえてくる少女の声は方向というものを持っておらず、直接脳の中に反響する。彼女が土を踏む音も同じだ。姿が見えず、音の出処がわからず、気配も感じられず、少女の居場所を特定するための判断材料がすべて消失している。

 

「くっ……!」

 

 オンバシラの一本で、なにもわからないまま背後を薙ぎ払う。手応えはない。代わりに少女の声が返ってくる。

 

「……なーんて、嘘ですよ。本当は、初めからあなたの目の前から動いてません」

「ッ……!?」

「さあ、あなたはこの能力を打ち破れますか?」

 

 見通しが甘かった。姿を消すだけの能力だと踏んでいた。だがよくよく考えれば、ただ姿が見えない程度の相手に、大和の豪将たちがまるで太刀打ちできないはずがないのだ。

 姿のみならず、己の存在そのものを、知覚できなくする異能。

 

「こんな能力、別に使わなくたっていいんですけどね。真剣勝負になりませんし。……でも私は、この能力を打ち破ってくれる人を探してるんです。もう何百年も昔から。あなたはどうでしょうか」

「くっ……!」

 

 四本全すべてのオンバシラを、神速の勢いを以て眼前に撃ち出す。地面を抉り、砕き、四つの柱はそこに運河のように深い爪跡を残すが、

 

「ふふ。そんな行き当たりばったりの攻撃が、当たるわけないじゃないですか」

 

 またどこかで、少女が笑った。

 

「今私がどこにいるか、わかりますか?」

 

 クスクス、クスクス。

 

「目の前にはいませんよー。右ですかね。それとも左? もしかして後ろ? あ、ひょっとしたらまた目の前に戻ってきたかもしれませんよ。むむっ、ぐーるぐるあなたの周りを回っている可能性もありますねー。……さあ、どこでしょー?」

 

 挑発するように。試すように。少女はただどこかでクスクス笑うばかりで、いつまで経っても攻撃してくる様子がない。

 遊ばれている。

 

「っ……舐め、るなァ!」

 

 神奈子は神力を一気に開放し、オンバシラをすべて手元に呼び戻した。敵の居場所がわからないなら、わからないまますべてを薙ぎ払ってやる。辺り一帯を焦土に変えてやる。まぐれ当たりで構わない。そのまぐれ当たりでケリをつけてしまえばいい。己の渾身の神力をオンバシラに注ぎ込み、

 

「――?」

 

 そこで、ふいに気づいた。

 オンバシラが、三本しかない(・・・・・・)

 

「どこに――」

「――気づいてなかったんですか」

 

 声は、真上から聞こえた。今までのように脳に直接響くのではなく、明らかに落胆した声色で空から落ちてきた。

 見上げれば、少女がいる。身の丈の倍以上はあるオンバシラに、釘のように指を突き立て――

 

「残念です。案外、弱かったですね」

 

 振り下ろす。

 そのあたりで拾った木の枝を、手慰みにもて遊ぶように。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「っく……!?」

 

 しかし、先に苦悶の声を上げたのは少女だった。神奈子の視界で銀が煌めき、旋風が吹き抜けていくように、少女の小さな体を打ち飛ばした。少女の手がオンバシラから離れ、未だ粉塵が舞う大地に背中から叩きつけられる。されどもすぐに体勢を復帰させ、地を抉る音と新たな土煙を巻き上げ、やがて止まる。まあ、と僅かに眉を上げて、闖入者の銀に目を見張った。神奈子に至っては、茫然とするあまり表情を動かすことすらできなかった。

 

「ふう……悪いね、遅れた」

 

 銀色――月見が、安堵のため息一つで神奈子の隣に降り立つ。

 

「あ、あんた――」

「無事だな?」

 

 遮るように向けられた安否を気遣う言葉に、半ば無意識になりながら頷く。それからはっと首を振って、鬼の少女をまっすぐ見据える月見の肩を掴む。

 

「あんた、なんで来たのさ!」

 

 確かに、万が一の時には力を貸してくれると約束していた。そしてそれは、ただの口約束のはずだった。彼が争いを好まない妖怪であるのはよく知っているから、遠くで見守ってもらえるだけで充分だった。

 なのに、

 

「まあ、約束だしね」

 

 まさか本当に、約束だからと、来てくれるなんて。

 

「……で、お前の軍をここまで追い詰めたのはあの子かい」

「……ああ」

 

 胸を焦がす熱もそこそこに、神奈子は苦汁を舐める思いで鬼の少女を見据えた。蹴り込まれた脇腹を静かにさする、その面持ちに苦悶の色はまったくない。土煙を巻き上げるほどの威力で大地に叩きつけられたはずなのに、お話なら早めに終わらせてくださいねー、とでも言うかのようにケロリとしている。

 神奈子は、呻くようにか細いため息をついた。たった一度の交錯で、少女の途方もない実力を骨の髄まで叩き込まれた。次元が違う。倒すとか時間稼ぎだとか以前に、こうして敵として相対してしまっている時点で間違いなのだ。妖力に頼ることなく、腕一つでオンバシラを小枝のように振り回す膂力。更には、己の存在を認識できなくするという手のつけようがない能力。

『規格外』とは、きっと、彼女という存在を言い表すために生まれた言葉に違いない。

 

「さっさと行け、神奈子。あいつの相手は私がする」

「は……?」

 

 だからこそ神奈子には、告げられた月見の言葉が理解できなかった。

 

「この状況だ、もうお前が総大将を討つ以外に勝機はないだろう? ……だから行け。それくらいの時間は稼いでやる」

「む、無茶だ……! あいつは!」

 

 神奈子は、月見の腕をきつく掴んだ。本来であれば、神奈子はこの提案を喜ぶべきだった。月見の言う通り、もはや敵総大将を直接討ち果たす以外に勝機はなく、そのためには誰かがあの少女を足止めしなければならない。月見がその大役を引き受けてくれれば、神奈子が諏訪子を討ちに行ける。軍神の荒ぶる姿は味方の士気を上げるだろう。

 けれど、

 

「あいつは異常だ! 危険過ぎる……!」

 

 赤子のように首を振った。月見は神奈子の個人的な友人だ。いつ戦いの最中で別れるとも知れない戦友とは違う。本来であれば、この戦場に立っているはずですらなかった。

 確かに、手を貸してほしいと願ったのは神奈子だろう。

 でも、だからって、この戦いで一番危険な役目を、押しつけてしまうなんて。

 

「じゃあこの戦、負けるか?」

「――……」

 

 あくまで淡々とした問い掛けに、神奈子は静かに息を詰めた。それから、そんな問い方は卑怯だと、顔を歪めた。

 負けていいはずがない。絶望的な戦況でも、諦めたくない。軍神の誇りを守るためでもあったし、大和の悲願を果たすためでもあったろう。けれど、それ以上に。

 勝っちゃうから、などと自信満々にほざいてくれたあの生意気な蛙を、一発ぶん殴ってやらねば気が済まなかった。あいつの思い描いた通りの結果で終わってしまうのが嫌だった。きっとあの蛙は、今頃本陣で寝転がって呑気にあくびでもしているだろう。その鼻っ面を、思いっきりぶっ飛ばしてやりたかった。

 

「……」

 

 葛藤は、一つ深く息を吸うだけの間。

 

「……任せて、いいか?」

 

 問えば月見は鬼の少女を見据えたまま、苦笑を以て答えた。

 

「なるべく早めに決めてくれると助かるよ」

「っ……」

 

 あまり長持ちしそうにないから、という言外の言葉が、単なる謙遜だとは思えなかった。月見は確かに同族の中でも最高格の大妖怪だけれど、それはあの少女とて同じ。ならば狐と鬼のうち、どちらがより戦に特化しているのかという点で、月見の不利は明白だった。

 それでも彼は、笑って、この場を任されてやるという。

 だから神奈子も、笑って。

 

「……勝ってくるよ、月見」

「ふふ……上等だよ」

 

 本陣は壊滅。残された味方は僅か。敵の勢いは未だ破竹。敵の切り札はなおも健在。

 ――さりとてまだ、負けてなどいない。

 

「――勝ってこい、八坂神奈子!」

「――ああ!」

 

 強く呼応する。少女の姿などもはや視界に入れないし、意識からも外した。彼女を抑えると言ってくれた月見を極限まで信頼して、神奈子は飛ぶ。

 逆襲の意志を宿した軍神が、戦場に降臨する。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見の予想に反して、鬼の少女は神奈子を止めなかった。空を駆け抜けていく神奈子を一瞥ともせず、ただ柔らかい笑みをたゆたえ、静かに月見を見つめていた。

 勝利を目前にしたところで、敵の総大将を故意に逃がす――しかも味方の大将の下に――それはすなわち、少女が戦の勝敗に興味を持っていないことを意味する。自分たちの大将がどうなろうが、戦に勝とうが負けようが、

 

「……私は、強い方と戦うことができればそれでいいんです。この神々同士の戦なら、私の夢を叶えてくれる方がいるんじゃないかって。諏訪子さんにはごめんなさいですけど、戦の勝ち負けなんてどうだっていいんです」

「……」

「私の能力に臆すことなく、真正面から向かって来てくれる、強い心を持った方と――本気で、戦うこと。何百年も昔から、焦がれて已みません」

 

 少女の姿が、霧へ溶け込むようにふうっと消えた。しかし気配は、変わらずに月見の前にある。声は、変わらずに前から聞こえる。

 

「私の能力は、私の存在を認識できなくする能力です。『認識されない程度の能力』とでもいいましょうか。今は、『姿』だけを認識されなくしている状態ですね。そこに『声』を加えれば――」

 

 少女の声が、どこから聞こえてくるのかわからなくなる。耳を介さず、頭の中に直接音だけを流し込まれる。

 

「完全に消しちゃったらお話できなくなるので、『声の方向性』だけを消してます。次に『気配』――」

 

 続けざまに、少女の気配が感じられなくなる。そうすれば月見にはもう、彼女がどこにいるのか把握できない。

 出処のわからない、声だけが残る。

 

「……とまあ、大体こんな感じになります」

「なるほど。……しかしいいのか、ネタばらしなんてして」

「構いませんよ。バレたところでどうこうされる能力でもないですし」

 

 違いない、と月見は低く笑った。

 少女の声、

 

「洩矢の神々はダメでした。大和の神々もダメでした。軍神さんも、ダメと決まったわけではないですが望み薄でしょう。未だかつて、この状態の私に真っ向から挑んできてくれた方はいません。みんな知覚できない私の存在に怯えて、取り乱して、全然本気で闘ってくれなくなって……」

 

 一拍、ゆっくりと息を吸う間、

 

「あなたはどうですか? 狐さんだと、あまり期待はできませんが」

「まあ、お前と違って荒事が得意な種族じゃないからね」

 

 狐は化かす種族。元々喧嘩など門外漢だ。

 けれど。

 

「なるべく善処はするよ。あいつと約束もしたしね」

 

 笑み、静かに妖力を解放する。枷を外された妖力はゆっくりと肥大し、やがて月見の尻尾を陽炎のように揺らめかす。

 まあ、と少女が面白そうに眉を上げた。

 

「――九尾(・・)、ですか。素敵ですね、実際に見るのは初めてです」

 

 それから、見掛け倒しじゃないといいですねー、と笑って。

 

「――行きますよ?」

 

 戦意は一足飛びで染まる。少女が地を蹴った音。聞こえただけだ。それが前か後ろかもわからない。どの程度の距離なのかも。

 見えない相手への恐怖がないかといえば嘘になろう。けれど誰もいない虚空と対峙する月見は、まずは一つ大きく、息を吸った。

 相手の能力がただ姿を隠すだけではないと、ここに馳せ参じるより前から予想はできていた。どこにいるのかもわからない相手と渡り合えるほど、月見の実力は突き抜けていない。どうにかして居場所を突き止めないことには、喧嘩も時間稼ぎもありはしない。

 わかっている。

 ならば、どうするか。

 

「――……」

 

 息を殺し、感覚を研ぎ澄ませるのは刹那、

 動く。

 

「――狐火!」

「ッ!」

 

 煌めく九尾に灯し、放った唐紅の大炎は。

 少女がわずかに息を呑む音とともに、確かな手応えを、月見のもとに返してきた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――洩矢ッ、諏訪子オオオォォ!!」

 

 軍神は叫ぶ。かつて本陣があったその場所で、暗雲を切り払うように鮮烈に。轟く神の声は、戦場の逆巻く喊声(かんせい)すらをも、ひと時の間止めたようだった。

 喉を振り絞り、強く。

 

「私はまだ、負けてはいない……!」

 

 襲い来る洩矢の神を薙ぎ払い、強く。

 

「大和はまだ、負けていない……!!」

 

 強く、戦場を轟かす。

 

「――だから、そこを動かず待っていろ!!」

 

 軍神の降臨を目の当たりにした大和の神々から、燃え上がるような(とき)の声が上がる。士気はたちまち最高潮に達し、咆吼は光すらも弾き返す。一騎当千とまでは呼べずとも、敵の十や二十程度は容易に相手取れる名将たちの集まりだ。士気さえ取り戻せば、しがない地方の土着神などいかなるものや。崩壊寸前まで攻め込まれていた両翼が、ミシャグジの軍勢を一気に押し返す。

 神奈子の影響力を危ぶんだ洩矢の神々たちが、数にものを言わせて神奈子の下まで大挙する。それがどうしたと、神奈子は笑った。特別な能力を持っているわけでも、桁違いの腕力を持っているわけでもないただの土着神風情に、どうして軍神を止められよう。

 渾身の神力とともに打ち出す、四本のオンバシラ。敵の姿が見えている以上、外しはしない。流星が落ちたように大地は深く抉れ、巻き上がった衝撃波は洩矢の神々を粉塵さながらに吹き飛ばす。

 たった一撃で何十もの敵を蹴散らした軍神の姿に、大和の士気はいよいよ限界を超え天を衝くかの如く。

 

「全軍……!!」

 

 声音、引き絞り、獅子吼の如く。

 

「突、撃 ィッ……!!」

 

 目指すは一点。

 喊声飛び散る戦場抜けた先――洩矢諏訪子の喉笛のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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