銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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諏訪大戦 ③ 「神戦」

 

 

 

 

 

 己がどのようにして生まれたのかは覚えていない。ふと気がついた時には、藤千代は藤千代としてこの世界に存在していた。

 まあなんの前触れもなくいきなりそこに出現したとは考えにくいので、単に幼少の記憶が風化しているだけで、自分も他の生物と同じようにこの世に生まれ落ちたのだろうとは思う。

 しかしそうだとすれば、藤千代は一体、誰の手によって産み落とされたのだろうか。

 少なくとも藤千代が知る限りでは、藤千代は最も太古から生きる鬼だった。気がついた時には既に一人で生きていた。気がついた時には既に『藤千代』という名があった。普通に考えれば、藤千代を産んでくれた親、藤千代を『藤千代』と名付けてくれた鬼がいるはずだけれど、そのあたりのことはいっそ清々しいくらいに覚えていない。

 覚えていないことを、特別寂しいと思ったことはない。元々物事に横着しないさっぱりした性格だったから、自分は覚えていないし、知っている人が他にいるわけでもない以上、まあそんなもんかと割り切って受け入れた。

 己の背後になにも持たない少女は、そうして前に歩いていくことを選んだ。目下の関心事は腕試しだったので、適当に諸国を旅して歩いて、強そうな妖怪なり神なりを見つけたら闘いを挑んで暮らした。そんな単純な生活を送るだけで、千年以上に渡るこの人生も、まあ、まずまず悪くはないなと思えるほど呑気な性格に生まれ落ちたのは、幸いだったかもしれない。

 洩矢の国へ立ち寄ったのは、ほんの出来心。

 けれどそのほんの出来心のお陰で、こうして神々同士の戦争で腕試しができるのだから、悪くない。

 そしてそのほんの出来心のお陰で、こうして、能力を使った藤千代を的確に迎撃してみせる妖怪に出会えるのだから。

 本当に、まったくもって、悪くない。

 

「……」

 

 ゆっくりと、深く呼吸をするように能力を解く。それから同じようにして、鈍い痛みに包まれる己の右腕を見遣る。

 着物の袖を焼き払って、右手の指先から肘までにかけて、大きな火傷の痕。中途半端に肉が焼けた、これまた中途半端な臭いがする。

 大したことではない。それよりも。

 

(……迎撃された)

 

 能力を使い存在を認識できなくした藤千代に対して、眼前の妖狐の迎撃はあまりにも鮮やかだった。完全に虚を衝かれたとはいえ、咄嗟の回避すら間に合わないほどに。

 

「……ふむ」

 

 小さく呟き、藤千代は再度地を蹴った。まぐれ当たりという可能性もある。やはり真正面から攻めたのは単純すぎただろうか。能力を再発動し、己の存在を隠蔽する。地を真上に蹴り、今度は上空から妖狐を強襲する。

 だが左の拳を脇腹に構えた瞬間、また、妖狐の瞳が藤千代を捉えた。

 

「……!」

「せっ!」

 

 九尾による一閃。咄嗟に左腕で防御するが、防ぎ切れず、叩き落とされる。数度、蹴られた小石のように地を転がる。火傷した右腕を擦って、ちょっと痛かったけれど、これも決して、大したことではない。鬼の頑丈な体の前には、それこそかすり傷程度のことだから。

 それよりも。

 足で地を滑り打ち飛ばされた勢いを殺した藤千代は、先刻こちらを捉えた彼の黒の瞳を夢想しながら、ぽつりと呟いた。

 

「……見えている?」

 

 ドクンと、強く、心が胸を叩いたのを感じた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いかに姿が見えず、声が聞こえず、気配を感じられない相手であっても、たった一つ、恐らくは絶対に変えることができないであろう不変の真理がある。

 それは、『そこに存在している』という真理。存在を相対的に隠すことはできても、絶対的に消すことはできない。いかに巧妙に姿を消し、声を隠し、気配をなくそうとも、生物として『そこに存在している』以上、『認識されない程度の能力』にも限界がある。

 ――故にそこに存在している以上は、結界の内側に踏み込めば必ず反応がある。

 藤千代の姿が見えているわけではない。月見はただ、自身の周囲にごく希薄な結界を何重にも展開し、その内側に彼女が踏み込んできた反応から、大まかに居場所を見当づけただけだ。半分以上を己の勘と運に頼った、到底まともな戦い方ではない。

 そして、まともな戦い方を選べるだけの選択肢は、今の月見にはない。

 

(……いやはや、恐ろしい能力だこと)

 

 存在を認識できなくする異能――こうして実際に対峙してこそわかるが、神奈子がまるで対抗できなかったのも頷ける。後方で戦況を見守る傍らで、冷静に事態を俯瞰する時間を確保していなければ、月見だって神奈子と同じ轍を踏んだだろう。

 幸いなのは、必ずしも少女に勝つ必要はないことだろうか。月見がここにいる理由は時間稼ぎ。神奈子が諏訪子を破るまでの間、なんとか上手く立ち回りさえすればいい。

 予想はしていたが、やはり、勝つのは途轍もなく難しそうだし。

 

「……見えている?」

「いや、残念ながら見えてはいないよ」

 

 頭の中に直接響いた少女の声に、苦笑を返す。尻尾で叩き飛ばした向きと舞い上がった土煙から推測するに、多分こっちの方にいるんだろうなーという方向を見ながら、

 

「でも見えないなりに、頑張ってはいるつもりだよ」

「……そうですか」

 

 少し、嬉しそうな声だった。深い霧が晴れていくように、少女の姿がゆっくりとあらわになる。右腕に火傷を負い、地に打ちつけられた衝撃で着物の無惨に破きながらも、彼女は莞爾と笑っていた。

 痛みなど、まるで感じていないというように。

 

「お名前、聞かせてくれませんか?」

「……月見。ただのしがない狐だよ」

「月見さん、ですか。私は藤千代といいます。どこにでもいる普通な鬼の女の子です」

 

 嘘つけ、と月見は思う。……まあ、それはお互い様かもしれないが。

 

「どうやらあなたは、今までの方たちとは違うみたいですね」

 

 少女は、楽しそうだった。

 

「ふふ、見事に一撃もらっちゃいました。右腕なんて、これじゃあ使い物にならないですねえ」

 

 二の腕に届くまで焼け爛れた、少女の右腕。皮膚が破れ赤く腫れ上がり、傷の深いところは黒く変色している。熱傷が皮下組織にまで到達し、皮膚が炭化しているのだ。傷が浅かったところも、皮膚が白化を起こしふやけた半紙のようになっている。

 なのに少女は、決して笑みを崩さずに、

 

「――ふんすっ」

 

 なんて可愛らしく息んだ瞬間、月見は眼前の光景に我が目を疑った。

 無意識のうちに、笑ってしまうほどに。

 

「いやいやお前……なにやってんの」

 

 藤千代の右腕が、回復していっている。

 いや、これはもはや回復などという次元ではない。早回しで時を遡るように、見る見るうちに再生していっている。

 藤千代が、え? と疑問符を浮かべた。

 

「……あなたもできますよね? こう、大地の底から力を吸い上げる感じで、ふんすっ、て」

「……」

 

 月見は目頭を押さえて声なき声で呻いた。どうやらこの少女には、つくづく、月見たちの常識が通用しないらしい。

 ものの十秒足らずで怪我の治療を終えた藤千代は、軽く空突きをして右腕がしっかり動くのを確認し、よし、と頷くと、

 

「月見さん。期待できない、と言ったのは取り消します。ごめんなさい。あなたは、とても、いいですね」

「……それはどうも」

 

 あ、これはマズいな、と月見は直感した。藤千代の笑顔が、ここに来て初めて崩れた。弧を描いた唇の中に、決して好ましくない、狂気の色が宿った。

 

「それじゃあ私も、ここからはちょっと本気です」

 

 ほのかに赤い光を灯す、狂気の瞳。

 月見の肌を打つ藤千代の妖力が、全身を這いずり回るような、異質な悪寒に変わる。声が、底のない深淵を覗き込むような、計り知れない深さを黒を帯びる。

 

「どうやって私の姿が見えないまま戦っているのかは知りませんが……教えてあげます」

 

 宣言、

 

「――そんなの、全然、意味ないって」

 

 ……なにが起こったのかなど、まるでわからなかった。月見が認識できた最後の光景は、藤千代の姿が再び見えなくなったところまで。あとは、気がついた時には既に、大の字になって雲一つない空を見上げていた。

 ――は? と、思わず、呟こうとして、

 

「カッ――」

 

 代わりに出てきたのは、弱々しく咳き込む音。口の中に血が広がっている。なぜ血が、と思うのと同時に、思い出したように全身を激痛が突き抜けた。

 

「ぐ、あ――」

 

 身をよじって悶えることすら許さぬほどの。なぜ今までなにも感じていなかったのかが不思議になるほどの。目の前の現実に置き去りにされていた思考が、今になってようやく再起動する。――なにが起こった。なにが起こったのかわからなかった。自分の体の状態から察するに、なんらかの攻撃を受けたらしい。だが、なにをされたのかわからない。どこから攻撃されたのかもわからない。

 そもそも、本当に攻撃されたのかどうかすら、わからない。

 

「わからなかったでしょう?」

 

 とっておきの秘密を打ち明けるような、楽しそうな少女の声。

 

「『完全喪失』。ほんの一瞬だけですけど、私はこの世界から完全に消えました(・・・・・・・・)。なにをされたのか……なにかをされたのかどうかすら、わからなかったでしょう?」

「ッ、――」

 

 探知の結界は展開していた。にも関わらず、まったく反応がなかった。……藤千代が、そこに存在していなかったから。

 どうやら、月見の見通しが完全に甘かったらしい。絶対不変の真理だと思っていた、『そこに存在している』という事実すらをも捻じ曲げられた。なるほど、この世界ではない別次元の場所から攻撃されてしまえば、月見がまったく反応できなかったのも無理はないのかもしれない。

 冷静に考察している場合ではない。

 

(いや……反則だろ、それは……)

 

 未だ理解が追いつかず、動揺して固まってしまっている体に鞭を打つ。上体を起こすだけでも一苦労だった。そこから腕を杖にし、地に脚を立て、立ち上がるだけの動作に、五分も十分も時間が掛かったように感じた。

 心の中では笑ってやりたい気分なのに、頬の筋肉は微塵も動かなかった。体が本能で理解しているのだ。笑っていられるような事態ではないと。

 

「まだ、倒れないでください」

 

 姿のない、声だけが聞こえる。

 

「まだ、諦めないでください」

 

 祈るように。(こいねが)うように。

 

「――私と、戦ってください」

 

 気がついた時には、また大地を転がっていた。――まただ。また、なにをされたのかわからなかった。

 全身が砕け散ったような、激痛。

 

「ぐ、う……!」

 

 ――戦いとは、対立する二者が互いの存在を認めて初めて成立するものだ。どちらか一方が、この世界ではない別次元の場所に消えてしまえば、それはもう戦などではない。

 蹂躙。

 力ある大和の神々が、そうして敗れ去っていったように。

 少女の声だけが、聞こえる。

 

「私と、戦ってください」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 砂塵逆巻き喊声響く戦場の中心を、一柱の神が駆け抜ける。

 大和の軍神──八坂神奈子は、敵本陣だけを見据えてただただ猛進する。

 

 戦場の両翼で繰り広げられていた戦闘は、神奈子が中央を駆け抜けることで、洩矢が神奈子を足止めするために転進しようとし、大和がそれを食い止めるために立ち塞がるという、今までと正反対の様相を呈していた。幸か不幸か鬼の少女によって拓かれてしまったこの道が、今は洩矢本陣へと切り込む絶好の死角となっていた。洩矢の神々も、まさか神奈子があの鬼の少女を抜いてくるとは思ってもいなかったのだろう。

 振るうは四本の巨大な木柱。オンバシラと名付けられる相棒を縦横無尽に操り、時折立ち塞がる敵を雑草さながら薙ぎ払い、半紙さながら突き破り、八坂神奈子は一瞬たりともその脚を緩めない。

 号令を交わすまでもなく、神奈子と部下たちは通じていた。或いは戦友として長く戦場を共にしてきた中で生まれた共通意識だったのか、もはや視線を交わす必要もなかった。

 行ってください――部下の声なき言葉に背を押され、神奈子は、ただ駆け抜けることだけで応じる。

 

「ッ──!」

 

 突破する。部下たちを、洩矢の神々どもを置き去りにして、八坂神奈子は中央を切り裂く。

 追いかける者はいない。追い縋れる者はいない。既に道は開けた。あの鬼の少女がしてのけたように、今度は神奈子が、敵本陣を己の牙で喰い千切る──

 

「──ああ、やっぱりそう簡単には行かないか。まあ、仕方ないね」

 

 直後、気怠げな声とともに、他の洩矢の神々とは一線を画す色濃い殺気が襲い来る。体を押し潰すような重圧と存在感に、神奈子は反射的に足を止めた。

 見据える先に、ぽつんと、少女。

 頭の上には、きょろりと丸い眼球がついたふざけた形の市女笠。両手には、陽の光を不気味に弾き返す黒輪。

 洩矢の総大将、洩矢諏訪子が。

 

「……」

 

 目を眇めた神奈子をよそに、諏訪子は手を庇にして戦場をひと通り見回すと、無感動な声で言った。

 

「急に騒がしくなったと思って見にきてみれば……ふうん、よくあいつを抜けたね」

 

『あいつ』があの鬼の少女を指していることくらい、わざわざ確認するまでもなく明らかだった。

 

「あいつが負けるなんてのは想像できないからー……誰かが足止めしてくれてるのかな」

「そうだ」

 

 短く答える。すると諏訪子は「ほんとに?」と目を丸くして、今までの無感情が嘘であったかのように大笑いした。

 

「あっははははは! あいつを足止めするなんて正気の沙汰じゃないよ! できるわけないじゃんそんなの、一分でももてば御の字だって! 誰だかわからないけど合掌ぉー、お疲れ様でしたー」

 

 わかっている。正論だ。正論になってしまうほどに、あの鬼の少女は異常だった。

 だがそうであったとしても、(つくみ)を愚弄するその嗤笑の声を、聞き逃すことなどできなかった。

 オンバシラを撃ち出す。神奈子の神力によって、その巨体は瞬く間に流星さながらまで速度を上げる。立ち塞がる洩矢の神々を、すべて等しく一撃で屠ってきた技だ。洩矢諏訪子の小柄な体に突き刺されば、それこそあとにはぺしゃんこになった蛙だけが残るだろう。

 しかし洩矢諏訪子は、その一撃を交差した二本の黒輪で受け止めてみせる。耳をつんざく衝撃音に、うわっ、と諏訪子が両耳を手で塞いだ。

 

「あっぶな! ちょっと、いきなり攻撃は卑怯じゃないかな!?」

「……」

 

 頬を膨らませて怒る諏訪子を無視し、神奈子は小さく舌打ちしてオンバシラを手元に戻した。オンバシラは見た目はただの木柱だが、神奈子の力によって幾重にも守護されているため、その強度は岩石をも凌ぐ。それをああも簡単に受け止めてみせたのだから、やはり見た目が幼くとも、一国の信仰を支配する土着神の頂点。怒りに任せた不意打ちで勝てるほど、甘くはないらしい。

「まったく……」と口をすぼめて呟いてから、諏訪子は自画自賛するように笑う。

 

「でもまあ、よく止めたもんでしょ。これでも藤千代が味方になってくれる前は、一騎打ちであんたを倒すつもりだったんだからね」

 

 諏訪子が右手を高く天に掲げると、応じるように右の黒輪が回転を始める。大した質量もない、叩けば割れそうな薄い輪だが、オンバシラを受け止めてみせたのだからそれ相応の神具なのだろう。

 

「これが今回の私の相棒。あんたの武器が、岩をも砕くオンバシラだってのはわかってたからね。一応、時代の最先端を行くとーせーふーの武器だよ」

「当世風……?」

 

 神奈子は眉をひそめた。黒輪。光を弾き返す黒光りの物質。オンバシラを受け止めるだけの高い強度。

 まさか、あれは――

 

「――鉄か!!」

「御明察ぅ!!」

 

 黒輪が高速回転し、地を抉りながら神奈子へと撃ち出される。オンバシラが大地に残すものとは違う、細く鋭い爪跡は、黒輪が刃を持っていることを意味する。

 神奈子はオンバシラで迎撃に出る。妙な小細工など必要ないと、黒輪の真正面からオンバシラを叩き込んだ。

 神奈子がその判断を下したのは、オンバシラが打ち負けたことなど一度もなかったからだ。神奈子の強大な神力で守られたその神具は、防がれることはあっても、正面から打ち破られることはなかった。当世風の武器かなにかは知らないが、今回もそれは変わらないのだと思っていた。

 だからこそ、己の相棒が、さほど拮抗する間もなくあっさり真っ二つに切断された時。

 八坂神奈子はその光景に理解が追いつかず、意識の外で呼吸を止めた。

 

「無知だねえ、八坂神奈子ォ!!」

 

 諏訪子が笑う。黒輪が回る。

 

「鉄ってねえ! ――木を切り倒すのに、とっても便利なんだよ!!」

「――ッ!?」

 

 行動は反射だった。肌を粟立たせた明確な悪寒に、神奈子は切断されたオンバシラの制御を捨て回避に出る。だが、オンバシラが打ち負けた光景に虚を衝かれ、思考を止めていたのがいけなかった。反射の行動でも躱し切れないほどに、黒輪との距離は近づきすぎていた。

 鋭痛。

 

「く、ぅ……!」

 

 直撃は免れた――が、左腕をやられた。二の腕近くから肩口までがぱくりと裂け、鮮血が飛び散る。

 体勢を崩しよろめいた神奈子へ、追撃は来ない。黒輪を悠々と手元に戻した諏訪子は、動かなくなった神奈子のオンバシラを蹴飛ばして、大胆不敵に宣言した。

 高速回転する黒輪が、空気を切り裂く音色、壮烈に。

 

「今こそ。――今だからこそ、言わせてもらうよ」

「……!」

 

 神奈子は血の流れる肌で知る。挑発でも過信でもない。洩矢諏訪子は確かに、神奈子と一騎打ちを演じ得るだけの力を持っている。

 辺境の小国とはいえ、幾万の信仰をまとめ上げる土着神の頂点。一騎打ちに持ち込めば勝てるなどと、神奈子の独りよがりな妄信でしかない。

 楽観を切り捨てろ。緊張の糸を緩めるな。全力で打ち砕け。

 

「――悪いけど、勝っちゃうから!!」

「――受けて立つぞ、洩矢諏訪子!!」

 

 二つの神力が激突する。片や草原を薙ぎ払い、大地を砕き隆起させ、片や晴天を彼方へ押しやり、何処からか黒雲を呼び寄せる。

 援軍はない。大地が絶え間なく形を変え、暴風雨が触れるものすべてを切り飛ばす彼女たちの戦場に、割って入れる者などいない。

 乾の神と、坤の神の、かみいくさ。

 信仰を巡る二つの国の決戦は、天変地異による戦場の破壊を以て、最終局面を迎える。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「まあ……あれが軍神さんの本気ですか。もう、私にも最初からあれくらいやってくれれば、ずっと楽しめたかもしれないのに」

 

 響く声は、呑気だった。草原が広がる緑豊かだった台地が赤茶けた荒野に変えられていく様を見ても、急に雨が降ってきて不意を衝かれた程度にしか心を動かした様子がない。台地を荒野に変える天変地異など、彼女の前ではにわか雨にも等しい些細なものだった。

 

「さて。向こうの戦いもいよいよ佳境みたいなので、こちらも盛り上がっていきたいんですけどー……」

 

 霞んだ視界の中で、少女の声がゆっくりとこちらに向けられた気配。それから、元気ですか? とでも気軽な挨拶をするように、あっけらかんと、

 

「ところで、生きてますか?」

「……生きてるよ。勝手に殺さないでくれ」

 

 まあ、傍から見れば生死を疑われるような有様になってしまっているのは、否定しない。

 満身創痍、以外に表現のしようがない。白の狩衣は止まらない出血で染め上がり、元の白をほとんど侵食し、初めから赤の狩衣だったと錯覚してしまうほど。頭部からの出血が顔の半分を覆い潰していて、左目は開けられない。更にこの戦場のへそ(・・)のような巨岩に背を預け、草原に紛れながら大地に座り込んだ月見からは、本来あるべき右腕が、ほとんど根本から欠落していた。

 どうやら戦う最中で引き千切られたらしいが、いつ引き千切られたのかは未だにわからないままだ。気がついた時には既になくなっていた。幸い妖獣の月見はこの程度で死にはしないけれど、一方で、立ち上がる気力を根こそぎ奪い去られるには充分だった。

 

「ふふ、ごめんなさい。月見さんがあんまりにも頑張ってくれるものですから、私もつい抑えが利かなくなってしまって」

 

 結果は見ての通り、完敗だったといっていい。

 頬に手を当てやんわり微笑む藤千代に、これといった手負いの痕はない。『完全喪失』とやらを見せつけられてからというもの、なんとかかんとか踏ん張って一つ二つの傷を与えたような覚えはあるが、まあ、例の『大地の底から力を吸い上げて』云々の前にはまったくの無意味だった。そもそも、戦いと呼べるようなものだったのかも疑わしい。

 

「あんなの初めてでした……。あんなにも果敢に立ち向かってきてくれて、私、もう体中が熱くなっちゃいましたよ?」

「……そいつは、どうも」

 

 紅潮した頬を両手で押さえ、湧き上がる恍惚に表情を蕩けさせる藤千代に、月見はほんのかすかな苦笑を返した。普段と同じように笑ってしまうと、傷が痛む。

 

「夢のような時間でした。本当はもっと盛り上がっていきたいんですけど……これでおしまいなのが残念でなりません」

「……」

 

 そうだろうな、と月見は思う。満身創痍になるまで戦っても勝てなかったのだから、これ以上意地を張ったところで結果は変わるまい。

 というか、なぜ全身血だらけで右腕をもがれるような状態になるまで、月見は馬鹿正直に戦い続けたのだろうか。少女はこの戦の勝ち負けに興味を示していない。だったらもっと早い段階で潔く降参していた方が、ここまでひどい怪我を負うこともなかった。

 

「安心してください。あなたの気高い心に最大限の敬意を払って、諏訪子さんと軍神さんの戦いは邪魔しません」

 

 ほら、藤千代だってこう言ってくれている。彼女をここで足止めするという目的は達した。だからもう充分だ。致命傷でないとはいえ、立ち上がれなくなるほどの重傷であるのは確実なのだから、いい加減に休もうじゃないか。

 わかっている。月見はもう休んでいい。むしろ、これ以上の無茶はいよいよ命すら削る行為だから、休まなければならない。

 わかっている。

 ……なのに、

 

「私たちの戦いはこれでおしまいです。大丈夫です、私はもう充分満足できました。軍神さんの戦いにも手出ししません。そんなになるまで付き合ってくれて、ありがとうございました」

 

 なのに、

 

 

「……だから、もう立ち上がらなくてもいいんですよ?」

 

 

 どうして月見は、両脚に、懸命に力を込めているのだろうか。

 どうして、渾身の力を振り絞ってまで、立ち上がろうとしているのだろうか。

 

「月見さん……」

「……なんでかは、私にもよくわからないんだ」

 

 藤千代の瞳には、さすがに月見を気遣う色がある。そりゃあそうだ。ここまで満身創痍になってなおも立ち上がろうとするなど、到底正気の沙汰ではない。なにか、心を強く突き動かす、譲れない感情の一つでもない限りは、素直に諦めて然るべきだった。

 半分以上自分のものではなくなった手足を、地を這うように、動かして。

 少しでも気を緩めれば途切れてしまいそうになる思考を、力づくで押し留めて。

 そこまでして立ち上がろうとするだけの理由が、今の月見にはあるのだろうか。

 

「じゃあ、どうして……」

「あー……まあ、強いて言えば……」

 

 だが、もしかして、というものがあった。こうだ、と断言できるほどはっきりとしてはいない。霧を一ヶ所にかき集めようとするような、とりとめのない、漠然とした感情だったけれど。

 

「多分、負けたくない……んだろうね」

「――……」

「私も、男だしさ。やっぱり、お前みたいな女の子に、こうも一方的に負けちゃうってなると、どうしても、納得が行かないわけだ」

 

 足止めだとか、神奈子との約束だとか、そんなのは二の次で。勝ちたい、もしくは勝てずとも、せめて一矢報いるなにかがなければ気が済まない。

 自分にこんなにも負けず嫌いな一面があったとは意外だった。基本的に争い事は好きじゃなくて、命の駆け引きにまで発展するような戦いは避けて生きてきたから、今の今まで気づいていなかった。

 けれど一度自覚してしまうと、それは思っていたよりもあっさりと、月見の胸に落ちてきた。そうだ。負けたくない。それだけ。それだけでも。諦められない理由としては、あまりに充分ではないか。

 底を突きかけていた体の力が、甦った気がした。

 立ち上がる。血にまみれても、まだ両脚は動く。右腕を失っても、まだ左がある。諦めない限り、思考は動く。

 まだ、戦える。

 

「月見さん……」

「悪いね。こんな虫の息の相手と戦う趣味は、お前にはないかもしれないけど」

 

 砕けそうになる両足を、強く地に突き立てて。(くずお)れそうになる体を、凛然と前へ起こして。深く大きく息を吸う、この痛みすらも、力へと変えて。

 

「――私が諦められるまで、付き合ってくれ」

 

 藤千代が、小さく息を呑んだ音が聞こえた。まさか本当に立ち上がってくるとは思っていなかったのだろう。その瞳を初めて純粋な驚きだけで見開いて、やがて静かな吐息とともに力を抜くと、淡い微笑みを浮かべて言った。

 

「…………ようやく、見つけた」

「うん?」

「いえ、こっちの話です。……いいですよ。お相手(つかまつ)ります」

「……ああ」

 

 藤千代が構える。月見は狩衣の懐に手を入れて、血だらけになってしまった真っ赤な札の束を取り出す。それらを宙に放れば、地に落ちることなく一枚一枚が鳥のように飛び回り、そして一つに合わさり、一振りの剣を作り出す。

 藤千代は、嬉しそうだった。

 

「まあ、そんなこともできるんですね」

「切り札と呼べるほど大したものじゃないけど、ここまで来たらなんだってやってみるさ」

「そうですか」

 

 本当に、嬉しそうだった。

 だからなのかはわからないが、月見もやけに、清々しい気分だった。

 

「……それじゃあ、あなたの美しい心に敬意を表して、もう一度名乗りましょう」

 

 右腕、振り払い、鮮烈に迸る妖力とともに。

 

「藤千代。――全力で行きます!!」

 

 剣、切り払い、不屈に放つ妖力とともに。

 

「月見。――全力で足掻く!!」

「やってみなさい!!」

 

 乾の神と坤の神の戦のように、大地が割れ空が乱れ狂うことはない。云うなれば、旋風。余計な負の感情を一切挟まない力の衝突は、澄んだ一陣の風となって戦場を彼方まで吹き抜けていく。

 これで最後だと、月見は思う。次の交錯で、否応なしにすべてが決着する。己の体力から考えて、剣を振れるのは精々数回だろう。それで決まればよし。決まらなければ、月見の負けだ。

 最後に立つのは、月見か、藤千代か。

 月見が落ちる先は――天国か、地獄か。

 深く息を吸い、剣を構える。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幾千年恋い焦がれた。いかな逆境にも決して砕けず、気高く燃え上がる、不屈の心を。

 己の力が途方もないものであると、既に理解していた。普通に戦えば誰にも負けない存在であると、既に受け入れていた。肉体的な力で自分と並べる者などいない。故に藤千代が他者に希ったのは、肉体ではなく、それよりももっと深いところにある、心の強さだった。

 他を寄せつけない超越的な戦闘能力に、比肩できる者などいない。それは、仕方がないことなのだと、受け入れることができていた。

 けれど、その力の前に誰しもが恐怖し、諦め、戦いを放棄してしまう――それだけは、寂しくて、嫌で、受け入れたくなかった。

 強すぎる藤千代が言えた台詞ではないのかもしれない。誰かが足掻く姿を、求めるということ。他人からしてみれば傍迷惑極まりない、人を見下したような、とても褒められた感情ではなかっただろう。

 それでも、諦めないでほしかった。向かってきてほしかった。肩を並べようとしてほしかった。無理だ。ふざけてる。勝てるわけがない。ありえない。馬鹿げてる。そんな言葉で、遠ざけて、別世界の化け物のように扱って、藤千代を独りにしないでほしかった。

 幾千年、恋い焦がれた。

 

(……ようやく…………)

 

 独りじゃないのだと、感じた。諦めないで戦おうとしてくれる人がいる。諦めないで、自分に並ぼうと足掻いてくれる人がいる。勝てるわけがないと遠ざけないで、むしろ近づこうとしてくれる人がいる。

 今の藤千代は、独りじゃない。

 月見。ぎんのきつね。――うんめいのひと、なんて言葉を使ってしまうのは、陳腐だろうか?

 

「ねえ、月見さん。全部が終わったら、ほんのちょっとだけでいいので結婚しませんか?」

「……、……いや、意味がわからないんだが」

「ふふ、冗談です」

 

 そう、今はまだ、冗談だ。でも彼は、藤千代を藤千代として受け入れてくれた。そんな人と一緒になれたら、それはきっと、素敵なことなんだろうなと思う。

 まあ――今はなによりも、彼の望み通りに、この戦いを最後までやり遂げる方が大事だろう。積もる話は、全部が終わったあとにゆっくりとすればいい。

 手加減はしない。宣言した通りに、全力でぶつかっていく。満身創痍の相手に躊躇いはしない。ここまで来ておきながら手を抜くのは、彼の気高い心に対する侮辱だから。

 つくづく、この戦に参加してよかったと思う。洩矢の国に立ち寄ったのはほんの出来心だ。洩矢神社を訪れたのはほんの気まぐれだ。しかしその気まぐれの結果、藤千代はこうしてこの戦場にいて、こうして月見と戦っている。

 偶然といえばそれまで。

 でもこれは、うんめいなのだと、信じたい。

 

「――行きます!!」

「来い……!」

 

 開放した妖力を拳へ。『認識されない程度の能力』で、己の存在を掻き消していく。全力で行くと宣言した手前、能力だって出し惜しみしない。姿を消し、声を消し、気配を消し、そして世界から消える。

 彼の頑張りには悪いけれど、既に結果の見えた戦いだ。『完全喪失』から放たれる攻撃は、避けようも防ぎようもない必中の一撃。藤千代の攻撃力と彼の残された体力を考えれば、次で間違いなく勝負は決まる。

 でも、それでもいいのだ。もはや結果なんて関係ない。彼の心は、もう充分に見せつけてもらったのだから。だからここまで抗ってくれたことに、こうして藤千代と出会ってくれたことに最上の感謝を込めて、抱き締めるように、愛するように、すべてを決着させよう。

 地を蹴り、彼のもとへ。彼との距離を詰める、この一歩一歩が、どうしようもなく愛おしい。……殴らないとダメだろうか。別に抱きついたっていいんじゃないか。彼だって、痛む上に塩を塗られるようなのは嫌だろうし。どうせ完全喪失の状態じゃ気づかれないんだから、ちょっとくらいぎゅってしてみても――

 いやいや、と首を振る。ここで手を抜くのは彼への侮辱だと、少し前に自分に言い聞かせたばかりなのだから、真面目にやらないとダメだ。抱き締めるのは、すべてが決着したあと。

 彼はまぶたを下ろし、剣を構えたまま微動だにすることなく、すべての神経を研ぎ澄ませている。意味のないことだ。どんなに意識を集中させたところで、絶対に藤千代を認識することはできない。あの紙で作られた剣の切っ先が、藤千代に捉えることはない。

 けれどやっぱり、それでもいいのだ。少なくとも、こちらを見つけ出そうと本気になってくれているその姿だけで、藤千代は満足だった。震えるほどに幸せだった。だから、これで終わりだ。これで終わりにして、あとは動けなくなった彼を介抱して、思う存分抱き締めて――

 ドッ――、と、

 

「え、」

 

 右腕に強烈な違和感。右を見る。肩口から先が途切れている。腕がない。代わりに鮮血が噴き出している。体が少し宙に浮き上がっている。咄嗟にたたらを踏んで体勢を立て直す。

 

「――え?」

 

 前を見る。彼が剣を振り抜いている。刀身に赤い液体が滴っている。切っ先に向けて流れていく。玉となってこぼれ落ちる。

 そして赤い玉が重力に引かれ、地面に落ちて弾けた瞬間、

 彼と、目が合った。

 

「……え?」

「ようやく……!」

 

 口角、つり上げる、獰猛な笑みとともに、

 

「ようやく見つけたぞ、藤千代!!」

 

 彼の左腕が動く。理屈ではなく、ただ本能だけに突き動かされて、藤千代は半歩後ろに身を引く。左の腹から右肩へ、冷たいなにかが通り過ぎていく違和感。一瞬遅れて吹き出す赤。その瞬間、止まっていたすべての痛みが、波濤となって藤千代を打った。

 

「――!!」

 

 予想していなかった痛みに思わずよろめき、けれど唐紅の炎を宿す九尾が目に入った瞬間、考えるよりも先に後ろへと飛んでいた。

 寸前まで自分が立っていた場所を焼き尽くす烈火の、目の覚めるほど気高い赤に、ようやく藤千代の思考が追いついた。

 

「あ、」

 

 右腕を斬り飛ばされた。右肩から、左の腰にかけてを斬られた。だがそんなのは特別大した問題じゃない。どんな攻撃を受けたのかなんてどうだっていい。さすがになくなった右腕までは無理だが、傷口程度はすぐに治せる。だからどうだっていい。

 それよりも。

 それよりも、

 

「は、」

 

 彼が、藤千代を、見ている。『完全喪失』しているはずの藤千代を、逆襲の意志を宿した力強い瞳で、まっすぐに、捉えている。

 彼には、藤千代が見えている。能力を使っているのに。絶対に不可能なはずなのに。今まで誰一人として成し遂げられなかったのに。

 ただ一人、

 彼だけには、

 

「――あははははははははははははははは!!」

 

 感情が爆発した。歓喜を。愉悦を。恍惚を。快楽を。あらゆる喜びを一つ向こう側に飛び越えた、打ち震えるほどの感情の暴走だった。

 着地すると同時に、咆吼する。

 

「――『吼拳』!!」

「……!」

 

 振り切れる感情だけに身を任せて、それ以上のことはなにも考えずに左の拳を放つ。神速を超える速度で突き出された拳は空気の波濤を生み、姿なき獣の咆吼となって、眼前の獲物に喰らいつく。

 表情を凍らせた彼がなけなしの力を振り絞って空へと逃げれば、一瞬遅れて、彼の背後にそびえていた巨岩が幾万の欠片となって砕け散った。しかし波濤はなおも収まらず、大地を破壊し土煙を巻き上げながら戦場を突き進み、やがて彼方で佇立していた森の木々に喰らいつき、炸裂した。

 森が消し飛ぶ。押し固められた空気の波濤は瞬く間に爆散し、逆巻く暴風と化して八方のすべてを薙ぎ払う。もはや視覚すら可能なほどの烈風が彼方より一気に戦場を呑み込み、砕けた岩を、崩れた地盤を、あらゆる大地の残骸を根こそぎ奪い去り、掃討し、なにも残らない荒野へと変えていく。

 

「おいおい、いい加減冗談キツいぞ!!」

「でも躱した!! あなたは、躱した!!」

 

 空で吹き飛ばされないよう踏ん張っていた彼の姿を見つけ、地を蹴り肉薄し、手を伸ばす。だが、やはり躱される。返す刃で放たれた彼の一閃が、藤千代の体に新たな傷をつける。

 偶然じゃない。

 この痛みは、偶然じゃない。

 

「見えてる! 見えてるんですね!? 見えるはずがないのに! 見えるはずがないのに!!」

「ああ、見えているとも! これ以上わけがわからずにやられるのは、さすがに御免だからね!」

「あははははははははははははははは!!」

 

 感情が理性を振り切る。どうして彼に藤千代の姿が見えているのかはわからない。わからないし、どうだっていいとすら思った。こんなにも素晴らしいことに、理由など要らない。もう、余計なことはなにも考えたくない。戦う以外のすべての思考が排除されていく。うんめいのひと。うんめいのひと。未だかつて感じたことのない至上の快楽に、至上の幸福に、藤千代は狂っていた。

 

「せえええええっ!!」

「ッ……!」

 

 月見が振るった剣を側面から叩き、拳一つで破壊する。根本から砕けた武器に月見の動きが止まった一瞬で、彼の胸に手を伸ばす。

 彼の尻尾が二本、間に割って入り、盾となろうとする。妖力で硬化しているのか、鉄のように硬い。無意味だ。研ぎ澄ました爪で切り裂き、そのまま彼の胸元を貫く。

 

「ぐあ……!?」

 

 左腕が肘まで血に塗れ、彼の向こう側へ突き抜けた感覚。まだまだ。腕を振り回し、体ごと廻転し、勢いを乗せて真下へと投げ落とす。

 

「せやあっ!!」

「――ッ!?」

 

 鬼の膂力を以て打ち出された彼の体は、瞬く間に赤茶けた大地に到達し、轟音とともに地盤を砕き粉塵を巻き上げる。人間なら肉塊と化して即死。妖怪なら、死にはしないが骨が砕け、全身を掻きむしる激痛にしばらくは動けなくなる。

 とどめ。拳に渾身の妖力を。抱き締めるように。愛するように。これでおわり。うんめいのひと。もうなにも考えられない。戦うことすらも。ただ本能に突き動かされるだけの、狂った獣になっている。ここで拳を、あの技をもう一度放てば彼がどうなってしまうのかなんて、まるで考えられない。思考など疾うに止まっている。自制心など疾うに消えている。理性など疾うに吹っ飛んでいる。滝が落ちるように、雪崩が落ちるように、星が墜ちるように、拳を、妖力を、空気の波濤を、真下へ、うんめいのひとへ、彼のもとへ、

 

「――あ、」

 

 けれど、できなかった。

 左腕が、根本から、宙に飛んだ。

 胸元から、紙でできた、刃が生えていた。

 

「あ、れ」

 

 痛い。本能の暴走がぷつりと途切れて、夢から醒めるように理性が戻ってくる。この感覚は知っている。ほんの少し前に、右腕を飛ばされたから。体を斬られたから。でもおかしい。だって、この刃は、藤千代がさっき砕いて。彼は、地面に叩きつけられて、動けないはずなのに――

 

「あ」

 

 そして、気づいた。彼を投げ落とした場所。地盤が砕け、粉塵で包まれたはずのその場所が、ただの荒野に戻っていた。

 いや、正確にいえば、戻ったのではない。初めから荒野のままだった。地盤など砕けていなかった。粉塵など巻き上がっていなかった。藤千代は、初めから、誰も投げ落としてなどいなかった。

 ああ、そっか。感情が高ぶって、本能のままに暴走してしまったから、完全にやられてしまった。

 妖狐が得意とする戦術の、最も初歩的で、最も単純で、それ故に最も強力な――

 

「炎を刻め――」

 

 すぐ後ろから、彼の静かな宣言が、聞こえて。

 

「――『火之夜藝剣』」

 

 刃から炎が立ち上がり、体を、意識を焼き払われる一瞬で、藤千代は笑った。生まれて初めて味わう敗北の痛みに、笑って、まぶたを下ろして、全身から力を抜いた。悔しくはあったけれど、それ以上に、眠りたくなるほどに幸せだった。

 喉の奥から血がせり上がってくるので、ちゃんと言葉にできるかはわからない。それでも、届けばいいなと思いながら、藤千代は唇を動かした。

 

「――」

 

 ありがとう、という言葉を。

 私はちゃんと、音にできただろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 戦場を掃討する空気の波濤は、乾の神が乱す風をも、坤の神が狂わす大地をも突き抜けて、二柱の神々を震撼させた。

 

「ッ……!? こ、これは……!」

「みぎゃー!?」

 

 オンバシラを盾にし踏み留まる神奈子の視界の端で、衝撃波にさらわれた諏訪子が瓦礫と一緒にゴロゴロ地面を転がっていく。そのまま戻ってくるなと毒を吐きながら、神奈子は衝撃の出処に目を遣った。

 

「――……」

 

 見つめる先には、なにもない。――なにもなくなってしまっていた。確か向こう側には、洩矢の緑豊かな森林が広がっていたはずではなかったか。それが皆消し飛び、異界の獣が咆吼を上げているかのような、あまりにも暴力的な風の氾濫に呑み込まれ、幾多の瓦礫とともに神奈子の背後へ掃討されていく。

 

「ちょっ、待っ、瓦礫が、痛ッ、ふぎゃー!?」

 

 後ろの方で響く蛙の悲鳴が、意識まで届いてこない。星が墜ちたのだと錯覚するほどの天変地異に、神奈子はただ、オンバシラの陰で呆然と言葉を失うほかなかった。

 

「――あ、」

 

 なにが起きたのかを理解したのは、いつの間にか止まっていた呼吸に、胸が詰まる息苦しさを覚え始めた頃。

 体が、震え出すのを感じた。

 

「あ、ああ……っ!」

 

 あいつだ。あいつしかいない。こんな常識はずれな天変地異を引き起こせるやつなど、この戦場ではあいつ以外に有り得ない。

 なら、あいつと戦っているのは一体誰か。

 あの鬼の少女が、この天変地異を向けた矛先は、一体誰なのか――

 

「――!!」

 

 突き上がる怖気に息を呑む音は、悲鳴にも似ていた。月見の姿が一瞬脳裏を掠めた時、神奈子の全身は理解の範疇を振り切った恐怖に突き動かされ、今すぐ彼のもとへ引き返そうとした。

 

「――あ、」

 

 その動きが、ふと、止まる。戦場を蹂躙する大気の波濤に混じって、未だ激しく揺れ動く、一つの銀の妖力を感じた。

 あの少女の妖力が感じられないのは、能力を使っているからなのだろう。

 しかしなんであれ、こうして月見の妖力を、未だに感じることができるのならば。

 

「つ、月見……!」

 

 泣き出しそうになりながら、神奈子は大きく息をついた。月見は、まだ生きている。これだけ途方もない少女の力を目の当たりにしてなお、神奈子との約束を守るために、戦い続けている。

 

「ふ、ふうううぬうううおおおおおううう! ま、負けてたまるかー! こんじょーッ!」

 

 いくらか落ち着きを取り戻した神奈子の耳朶にようやく、蛙の奇妙な叫び声が届く。振り向き見れば洩矢諏訪子が、まさに蛙よろしく地べたを這いつくばりながら、じりじりと戦線に復帰してきたところだった。

 

「もおーっ、藤千代はいくらなんでも暴れすぎっ! あんたのお仲間さん、これはもしかしなくても死んじゃったんじゃないの!?」

 

 神奈子は強くかぶりを振る。

 

「死んでいない……!」

「へー、そうなんだ! ……でもこれじゃあ時間の問題でしょ!? そこで提案があるんだけどさあー、この戦い、もう私の勝ちでよくないかなあ!」

 

 荒れ狂う暴風に掻き消されぬよう、諏訪子は声を張り上げて、

 

「そうすりゃあいつも戦うのやめるだろうし、お仲間さんの命も助かるよ! でもこのまま私たちが戦い続けてたらあ、次の瞬間にはあいつに殺されれちゃうかもね!」

「ッ……!」

 

 一切の虚言を挟まない、事実だけに基づいた降伏勧告に、神奈子の精神が揺らぐ。

 

「大丈夫だよ、私らが勝ってもあんたらにはなにもしないから! ただ、私たちの信仰には二度と手を出さないって約束してさえくれればそれで充分さ! 悪い話じゃないでしょ!?」

 

 葛藤は、大きかった。ここで降伏すれば、神奈子は日の本を統一するという夢を失うかもしれない。けれどこのまま戦い続ければ、二つとない大切な友を失うかもしれない。大和の未来を担わされた軍神として、敗北は決して許されない。けれどその矜持に固執し大切な友を失えば、神奈子はきっと、未来永劫己を許せない。

 軍神としての心と、八坂神奈子という、一人の女としての心。

 

「ほら、どうするのさ! 迷ってる暇あるの!? そんなことしてるうちに、取り返しのつかないことになるかもよ!?」

「ッ――!」

 

 月見の生死を分ける、分水嶺で。

 そして二つの心がぶつかり合う中で、神奈子の思考が、白熱した。

 

「――ああああああああああっ!!」

「うおっとぉ!?」

 

 神力の暴発。思考が濁流と化した。負けられない矜持と意地。失えない恐怖と焦燥。頭が暴走した感情の渦に呑まれ、真っ黒にも、或いは真っ白にもなったような気がして、そこで神奈子の思考は崩壊した。

 諏訪子の鉄輪の前に敗れ、たった一本しか残っていなかったオンバシラを、絶叫とともに撃ち出す。不意を衝かれた諏訪子が空へと逃げれば、神奈子もすぐさま追い縋り、再度オンバシラを振るう。

 

「なに、もしかして脳天にキちゃった!?」

 

 実際、そうだったのだろう。少なくとも、このまま諏訪子と戦い続けることに、なんらかの答えを見出した行動ではなかった。負けたくなくて、失いたくなくて、どうしたらいいのかわからなくて。

 それ故の、至極単純な、暴走だった。

 泣き出した赤子が腕を振り乱すように、オンバシラを振るう以外のことが、できなくなってしまっていた。

 

「――なんだ、結構つまんない決着だったね」

 

 オンバシラは諏訪子には通じないと、わかっていたはずなのに。

 最後のオンバシラが、諏訪子の鉄輪に素気なく切断され、神奈子の制御を離れていく。そしてその時には既に、神奈子の懐にもう片方の鉄輪が入り込んできている。

 鮮血が飛ぶ。

 

「へえ、よく躱したね!」

 

 躱してなどいない。運が良かっただけだ。腹が四分の一ほど、真っ二つになった。

 それは決して、致命傷ではなかったけれど。

 けれど腹以外にももう一つ、大きなものを、真っ二つにしていったような気がした。

 

(ああ、もう――)

 

 悔しいなあ――と、神奈子は思う。たった一人の存在にすべてを狂わされる、泣いてしまいたくなるほどの悔しさだった。

 諏訪子に負けることが、ではなく。

 月見との約束を果たせないことが、打ちひしがれるほどに、情けなかった。

 

「そんじゃあ、こいつで最後ォ!!」

 

 でも、それでも、いいのかもしれない。

 ここで神奈子が負ければ――戦が終われば、少なくとも、月見の命は助かるだろうし。

 負けた戦は、やり直しが利く。失われた命は、やり直しが利かない。

 ならばもう、ここで、負けてしまっても――

 

 そうしてまぶたを下ろそうとした神奈子の視界の端で、紅蓮の花が咲いた。

 

「お?」

 

 諏訪子が眉を上げて、今まさに放とうとしていた鉄輪を止めた。神奈子は閉じかけていたまぶたを上げ、紅蓮の花――狐火へと、顔を向けた。

 

「「え?」」

 

 そして、感じた。

 唐突に感じられるようになった鬼の妖力が、狐火が消えるのと同時にぷつりと途切れて、そのまま消えていくのを。

 消えて、狐の妖力だけが、残るのを。

 

「「――え?」」

 

 無論、それが決着を意味していたとは限らない。また少女が能力を使って、己の存在を隠蔽しただけなのかもしれない。

 だが、戦いの最中強く揺れ動いていた月見の妖力が、次第に凪いでいく。激しい風雨に晒され生まれた濁流が、晴天の下で清流に戻っていくのと同じ。そうして一度静寂を取り戻した彼の妖力は、もう乱れることはない。

 まるで、戦いは終わったと、告げるように。

 

「「まさか――」」

 

 乾と坤の神々が、茫然と声をこぼしたのは同時。

 

 

「――月見が、勝った?」「――藤千代が、負けた?」

 

 

 月見の妖力は、途切れない。凪いだ清流のままただそこに在り続け、遠く離れた神奈子にまで、己の健在を強く知らせてくれる。

 月見には悪いかもしれないが、彼があの少女を打ち破ったなど、まるで信じられる話ではなかった。もちろん、彼が九つの尾を持つ妖狐屈指の大妖怪であることは知っている。しかしだからといって、拳一つで天変地異を引き起こすような規格外な存在と渡り合い、あまつさえ打ち破ってしまうなど、どれほど常識破りな手を使えば可能だというのか。

 先に我を取り戻したのは、諏訪子の方だった。

 

「――あー、もう! 正直言ってわけわかんないけど、これじゃあもう私が勝つしかないじゃんさ!」

 

『月見の命』という最大の交渉材料を失った諏訪子が、頭を掻きむしり、振り払う腕の動きで鉄輪を再度高速回転させる。神奈子のオンバシラをことごとく打ち破ってみせた、必殺の武器。死神の息遣いにも似た、鋭く空気を切り裂く音は――けれど、神奈子の耳には届いていなかった。

 

(ああ――)

 

 それどころか、紅蓮の花が咲いたその場所から、未だ目を離すことすらせずに。

 

(そうか――)

 

 心に染み渡っていくこの感情を、どんな言葉で表現することができただろう。色々な言葉が浮かんでは消えていったけれど、最終的には、頑張んなきゃなあ、という思いだけが残った。

 そう、頑張らないと、いけない。争い事を得意としない妖狐の彼が、戦の権化といっても過言でない鬼を、打ち破ってみせたのだから。そうして、神奈子との約束を果たしてくれたのだから。

 ――だから、私だって。

 

「――」

 

 ようやく、神奈子は己の視線を前に戻した。その時には既に、諏訪子が鉄輪の楔を解き放っている。猛る野獣の如く、吹き荒ぶ木の葉を半紙よりも容易く切断し、傷ついた神奈子の体に終止符を打ち込もうとする。

 けれど、神奈子は冷静だった。――初めからなに一つ思った通りに行かなかった戦の中で、やっと、本当の意味で冷静になれた気がした。

 大丈夫だ。オンバシラをすべて失おうとも――八坂神奈子は、勝てる。懐に飛び込んできた二つの鉄輪に対し、神奈子の答えは決まっていた。

 呼吸を殺し、浅く両腕を広げて。

 その刃を、受け入れる。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 八坂神奈子は『軍神』と呼び祀られるが、だからといって特別、戦に特化した能力を持っているわけではない。戦の経験が浅い諏訪子ではあるが、洩矢の趨勢を決める大一番を前に、敵総代表の分析くらいはざっくりと済ませていた。

 八坂神奈子は初めから戦神だったのではなく、元は雨風を司る神だった。その証拠が、彼女の有する能力にある。『乾を創造する程度の能力』とは、すなわち天を――天候を操るものであり、時に雲を払い大地に太陽の恵みをもたらし、時に雲を呼び寄せ人々に雨の恵みを与える、風神、水神、或いは豊穣の神としての力の発現であり、戦いのための能力ではない。故にこの戦いにおいて最も脅威だったのは、大和の軍が誇る兵一人ひとりの練度の高さであり、八坂神奈子個人の戦闘能力ではなかった。

 だからこそ、神奈子との一騎打ちにさえ持ち込めれば、勝機はあると――藤千代と出会う前の諏訪子はそう考えていたし、実際、その読みに間違いはなかった。無論神奈子とて伊達で軍神の名を背負ってはいないので、オンバシラで洩矢の兵を容易く打ち破る力は強大だったろう。だが一方で諏訪子がまるで太刀打ちできないほどでもなく、この日のために用意した二つの鉄輪にも助けられ、諏訪子はむしろ対等以上の戦いを演じることができていた。

 藤千代が負けたのは完全に予想外だった。正直言って夢にも思っちゃいなかった。信じられないとか有り得ないとか否定する以前に、なにがなんだかわけがわからなかった。

 しかしたとえ藤千代が負けたとしても、ここで神奈子を倒せば洩矢の勝利は揺るがない。そして諏訪子には、それを可能にするだけの力がある。唯一の脅威であるオンバシラをすべて切断し無力化した今、丸腰の神奈子を恐れる理由などない。故に放ったこの一撃で、乾と坤の神戦が、ひいては洩矢と大和の神戦が、終結していくはずだった。

 

「なっ――」

 

 そう信じていたからこそ、諏訪子は目の前の光景に息を詰めた。

 鉄輪が止められた。それ自体は問題ではない。鉄輪を止めたモノが問題だった。

 八坂神奈子の、体。

 鉄輪の突進を、体で止め。

 そして鉄輪の回転を、伸ばした両手で、刃を掴んで止めた。

 

「――バカじゃないの!?」

 

 諏訪子は強く叫んだ。一歩間違えれば指が千切れ飛び、体が二つにも三つにも分かたれる可能性があった。敵の攻撃を、我が身を犠牲にして受け止める。そんなもの、一軍を率いる総大将として、到底まともなやり方ではなかった。

 

「バカじゃないさ」

 

 しかし、神奈子の答えは早い。両手から、体からとめどなく血が流れようとも、紡ぐ言葉は静かに、強く。

 

「――勝たせてもらうぞ、洩矢諏訪子」

「……生意気!」

 

 本当に勝つつもりなのだとわかった。オンバシラをすべて失ってなお、体中に決して浅くはない傷を負ってなお、八坂神奈子の瞳は死んでいない。

 諏訪子は腕を振るう。こうして止められたとはいえ、鉄輪の刃が神奈子の肉体に届いている以上、再び回転させて断ち切ってしまえばいい。放たれた諏訪子の神力は、止まった鉄輪に再度息吹を吹き込むはずだった。

 

「……!?」

 

 だが、鉄輪が動かない。諏訪子の命に従い回転を始めようとするが、なにかに遮られ、その場で小刻みに震えるだけ。

 

「なにを――」

 

 気づいた。

 

「――蔓?」

 

 神奈子の両手の傷口から細い蔓が生まれ、鉄輪を絡め取っている。

 諏訪子は眉をひそめた。鉄輪が動かない理由はあれか。だが、引けば千切れそうなただの蔓如きで、オンバシラという神木にも打ち勝った鉄輪が抑え込まれるなど――

 

「ただの蔓じゃあない。――藤蔓だよ」

「……!」

 

 行動は反射だった。鉄輪を呼び戻す。しかし既に刃のすべてを絡め取られてしまっているため、引こうにも回転させようにもビクともしない。

 

(やられた……!)

 

 噛み合わせた歯が軋んだ。伊達でも酔狂でもなかった。八坂神奈子はこのために、体と両手に深い傷をつけてまで、鉄輪を直接受け止めることを選んだのだ。

 ――藤蔓は、採鉄の道具である。竹と比べて強くしなやかな藤蔓は、砂鉄採取の手法である『鉄穴(かんな)流し』において、水底に溜まった砂鉄を掬うざるの材料として好んで用いられる。

 すなわち、藤蔓により鉄が生まれる――藤蔓は、鉄よりも高位の象徴ということだ。しかして神奈子のように強い神力を持つ神であれば、その上下関係を巧みに利用して――

 

「ほら。返すよ、洩矢の」

 

 ――鉄輪から『鉄』本来の象徴を奪い取り、無力化することもできる。

 ようやく手元に返された『最先端の武器』は、藤蔓が絡まり刃全体が赤く錆び朽ちた、ただの『ガラクタ』へと成り果てていた。

 歯が、強く軋んだ。

 

「やってくれるじゃないか……!」

「やってやるさ」

 

 血を失い幾ばくか白くなった唇で、しかし神奈子は、凛と笑う。

 

「あいつが、ここまで命張ってくれたんだ。……私だって、張るもん張らなきゃね」

「……!」

 

 そして諏訪子は、神奈子の背後に二本のオンバシラが立つのを見た。

 歯が、砕けるかと思った。

 

「本当に、やってくれるじゃないか……!」

 

 ほんの少し前に、鉄輪で切断してやったばかりのオンバシラだ。……真っ二つにされたら、制御不能になるんじゃなかったのか。少なくとも、これ以前に断ち切ってやった三本のオンバシラはそうだったはずだ。まさかこの時に備えた布石とするために、わざと制御不能になると見せかけていたとでもいうのか。

 

「随分と出し惜しみしてたもんだね」

「出しあぐねてたんだよ。……上手くやらないと、また真っ二つにされるだけだしね」

 

 焦ってたんだよ私も、と神奈子は薄く笑う。元々巨大なオンバシラだけあって、真っ二つにされているとはいえ、その大きさはなおも神奈子の身の丈を超える。直撃をもらえば勝負が決まるのに変わりはないだろう。

 今までなら、このオンバシラを恐れる理由はなかった。だがここに来てようやく、諏訪子の頬を一筋の冷や汗が伝った。

 

「さあ、真っ二つにできるもんならやってみな……!」

 

 鉄の属性を奪われたガラクタなぞで、霊験あらたかな神具に勝てるわけがない。真っ二つにするどころか、逆にこちらが真っ二つにされる。

 故に諏訪子には、撃ち出された二本のオンバシラに対し、回避以外の選択肢がない。

 

(……あーもう! どうすっかなあこの状況っ!)

 

 認めたくはないが、形勢が完全に逆転した。もちろん、体力的に有利なのは諏訪子の方だ。しかし神奈子にはオンバシラという最大の相棒が甦り、一方の諏訪子はそれに対抗するだけの武器を奪われた。このままでは、いずれ押し切られるのは目に見えている。

 今更になって臍を()むが、遅すぎた。大和を蹂躙する力を持つ藤千代と、オンバシラに打ち勝つ力を持つ鉄輪――その二つがあれば勝ちは確定だろうと、過信して、そこで思考を止めてしまっていた。よもやこうして藤千代と鉄輪が両方とも打ち破られてしまうとは、完全に想定していなかった。よもやこうして追い詰められる側に回されてしまうとは、夢にも思っていなかった。

 思考を焦燥で回転させる。『坤を創造する程度の能力』を使って、大地を武器に変えて戦う――岩をも砕くオンバシラの前では無意味だろう。ならばミシャグジを統べる洩矢神として、神奈子に呪いを掛ける――できなくはないが、強力な呪いをつくるにはそれ相応に入念な下準備が必要になる。高位の神である神奈子にも通用するほどのものとなれば、少なくとも、戦いの最中に即席でつくれるような代物ではない。

 

「……」

 

 ……あれ? もしかしてこの状況、結構詰んでる?

 やっべーとダラダラ冷や汗を流して、冷静さを欠いたのがいけなかった。

 

「せっ……!!」

「うわっ!?」

 

 ふと気づいた時にはオンバシラが目の前に迫ってきていて、慌てて鉄輪を交差し盾にする。しかしもはや錆び朽ちたガラクタなどでは、岩をも砕く神木の突撃を止められるはずもなく、

 

「――!」

 

 鉄輪が砕け散る。そしてなおも受け止めきれなかったオンバシラが、諏訪子の小さな体を跳ね飛ばす。

 

「くうっ――!」

 

 直撃。だが鉄輪の盾である程度勢いは殺せたので、決定打ではない。

 

「ああもう! こうなったらどうにでもなれ!」

 

 叫び、諏訪子はすべての神力を開放する。ここまで追い詰められてしまえば、どうやったら勝てるかなど考えるのはもはや無意味だ。己のできるすべての戦法を手当たり次第にぶつけ、当たって砕けるしかない。

 やってやる、と諏訪子は思う。神奈子の戦術の肝はオンバシラだ。彼女の『乾を創造する程度の能力』は、戦向きの能力ではないから危険視する必要はない。飛び交う二本の神木の動きにさえ細心の注意を払えば、まだ諏訪子にだって勝機は――

 

「――え」

 

 そして、体勢を整えた瞬間、呼吸が止まった。

 八坂神奈子が、目の前に、いた。

 己の最大の武器であるはずの、オンバシラを捨てて。

 あふれる血を玉にして散らすほど、拳を、強く握り締めて。

 

「なっ、」

 

 ――馬鹿な、というのが、諏訪子の率直な心境だった。繰り返すが、八坂神奈子の戦術の肝はオンバシラだ。幾重にも加護を施した四本の神木を縦横無尽に操り、彼女は接近戦でも遠距離戦でも強大な力を発揮する。しかし一方で、神奈子自身の肉体的な戦闘能力そのものは、決して高いものではなかった。当たり前だ。神奈子は元々雨風の神であり、その肉体は戦いのためにつくられたものではないのだから。己の拳など、とても武器として使えるような代物ではない――はずだったのだ。

 単身懐に入り込まれるなんて、完全に想定外。単身で戦うだけの力を持たないからこそ、彼女はオンバシラという武器を振るっていたのではなかったのか。

 その読みが、すべて外された。

 ああ、そうか。八坂神奈子が今までに、馬鹿の一つ覚えのように、オンバシラしか振るわなかったのは。

『自らが単身で相手に突っ込む』というこの最終手段を、諏訪子の思考から確実に排除するため――

 

「さあ、歯ァ食いしばれ――」

 

 あ、やば、と諏訪子が思ったのは一瞬、

 

「――よくも散々コケにしてくれたなこんちくしょうがあああああああああっ!!」

「みぎゃああああああああああ!?」

 

 神奈子渾身の拳骨(・・)が、諏訪子の頭蓋骨を叩き割る――とはさすがに言いすぎだけれど、叩き割られたと錯覚するほど痛かったのは、立派な事実なので。

 あーもうこいつあとで絶対しこたま呪ってやるぅ、と固く心に決めたところで、洩矢諏訪子の意識はふつと途切れた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 なまじっか体が丈夫だと、こういう時に、少し困ってしまうことがある。

 ありがとうと唇を動かしてまぶたを下ろした、あの気持ちのままで気を失えたならば幸せだったろうに、良くも悪くも頑丈な鬼の体のせいで、藤千代は割とはっきりした意識のまま、ぼけーっと青空を見上げているのだった。

 お陰様で全身を蝕む火傷がじくじくと痛くて、せっかくの幸せだった気持ちが、ちょっと微妙な後味になってしまった。

 

「……もうちょっと強めにやってくれてもよかったんですよ?」

「……いや、手負いなりに充分全力だったよ。気を失いもしないお前の方が頑丈すぎるんじゃないかい。両腕吹っ飛んで、胸に穴が空いて、全身に火傷。……いくら妖怪でも、そこは気を失っておくべきところだと思うけどね」

 

 まあそうなんですけどねー、と藤千代は小さく呟く。自分の体がここまで頑丈だとは知らなかった。両腕吹っ飛んで胸に穴が空いて全身に火傷を負う機会など一度もなかったから、こんなになってもまだ大丈夫なんだなー、と自分で自分に感心していた。

 まあ一言で大丈夫とはいっても、あくまで意識がはっきりしているだけで、体はまったく動かないのだけれど。

 視界にふと影が差す。腕の消えた右肩から己の血を滴らす彼が、左に携えた剣から藤千代の血を滴らせ、まっすぐにこちらを見下ろしている。

 

「いいですよ」

 

 藤千代はまぶたを下ろして、そっと微笑んだ。

 

「あなたに討たれるなら、それはそれで、悪くないです」

「……」

 

 うんめいのひとに、送ってもらえるのなら、いいかな、と思う。本音を言えば、もっと色々と、彼のことを知りたかったけれど……それを言葉にする権利は、敗者の藤千代にはないだろう。

 彼の裾が擦れる音。左腕を振り上げたのだろう。あとは、振り下ろすだけで終わり。

 一つ、藤千代が、深く呼吸をするだけの間があって。

 

「――?」

 

 落ちてきたのは、刃ではなかった。ほのかに温かな水を吸った、柔らかいなにかが、無造作に体の上に落ちてきた。

 不審に思った藤千代が、目を開けてみれば。

 こちらの体に上の着物を脱いで被せた彼が、剣を地面に突き刺して、それを背もたれにずるずると座り込んだところだった。

 

「……月見さん?」

「血が染み込んでて悪いけど、我慢してくれ」

 

 彼の行動の意図はわかる。全身火傷――つまるところ藤千代の服など完璧に燃え尽きてしまっていたので、そのあたりを気遣ってくれたのだろう。

 けれど。

 

「……私のこと、討たないんですか?」

「冗談」

 

 問えば、彼は疲れ果てたように弱々しく苦笑して、

 

「私は、殺しをするためにこの戦に首を突っ込んだわけじゃないよ」

「……」

「だから、お前を止められたならおしまいだ。……私も、もう疲れたしね」

「……そうですか」

 

 ふと、戦いの中で両腕を斬り飛ばされてしまったのが、この上なく口惜しいことのように思えた。腕が、手があれば、藤千代の体を包むこの着物を、染み込んだ血にまだ体温が残っている彼の着物を、胸いっぱいに抱き締めるのに。

 ふあ、と彼が小さくあくびをする。

 

「ああ、疲れたら眠くなってきたなあ。……向こうはまだやってるみたいだし、先に休ませてもらおうかな」

「……お昼寝ですか!?」

 

 藤千代は腹筋と背筋の力だけで、そおい! と跳ね起きた。傷が深くて動けないと思っていたけれど、やってみたら意外といけた。

 体の上に被さっていた彼の着物が、足元に落ちる。

 

「お、おい起き上がるな色々見えて――ってうわ、もう治ってきてるし……」

「あ、本当ですね。これはきっと愛の力ですねっ!」

 

 彼に信じられないものを見る目をされて初めて気づいたけれど、体中に広がっていた火傷が、少しずつではあるが治ってきていた。まだ大部分は黒かったり赤かったりしているけれど、ところどころは既に元の肌の色を取り戻している。出血も治まりつつあるようだ。大地の底から力を吸い上げたりは特にしていないので、うんめいのひとを見つけた乙女の、隠された愛の底力に違いない。

 

「まあそんなのはどうだっていいです! それよりも、お昼寝をするなら是非私も一緒に!」

 

 彼はこちらからそろそろと視線を逸らしながら、ゆっくりとため息をついて、

 

「……なんで私より重傷なお前の方が元気なんだろうね」

「抱き枕にしてくれてもいいですよ!」

 

 またため息、

 

「……もう知らん。私は寝るよ」

 

 剣に預けていた背中を横に倒し、色々なものを放棄するように、地割れした大地へ身を投げ出す。藤千代には決して目を合わせない。大部分が火傷で見るに堪えない有り様とはいえ、究極的には素っ裸である相手を、まじまじ見るわけにもいかないということなのだろう。

 別に見てもいいのに、と藤千代は思う。無論藤千代とてそのあたりの節制は弁えているが、彼になら、まじまじ見られるのも吝かではなかった。とはいえどうせ見られるなら綺麗な体を見られたいので、特に口には出さず、足元に落ちていた彼の着物を口で掴み、地面を転がってくるまりながら、彼のすぐ隣で横になった。

 まだ血が乾ききっていない着物は、ちょっとだけ彼の血の味がして、悪くない。

 

「じゃあ、一緒に寝ましょうか。おやすみなさい」

「……はいはい」

 

 返ってきたぶっきらぼうな返事を、心地良いと思いながら、藤千代はもうちょっとだけ彼の傍に添い寄る。逃げられないように、彼の脚に自分の脚を絡めて。

 この人と一緒にいよう、と思う。生まれて初めて出会った、本当の意味で藤千代に歩み寄ってきてくれた人。強大すぎる力故に心のどこかで孤独だった少女は、そうして自分の居場所を見つけた。

 彼の体に両腕を回せない今の状況が、本当に残念でならなかったけれど。

 それ以上に幸せだったので、まあいいかと思いながら、藤千代はゆっくりまぶたを下ろした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……なにやってんの、あんた」

「……なんだろうね」

 

 そして戦いが終結したのち、素っ裸の少女と一緒に寝ている状況について、月見が神奈子から白い目で見られたのは余談。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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