銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第42話 「閻魔様の抜き打ち家庭訪問」

 

 

 

 

 

 でっかい萃香とフランに押し潰されて、ヒラメみたいになる夢を見た。

 しかして嫌な脂汗ともに目を覚ませば、月見は確かに、萃香とフランに押し潰されていたのだった。

 

「……」

 

 断っておけば月見はヒラメになんてなっていないし、萃香とフランもでっかくなんてなっていない。お腹のあたりに二つの重苦しい違和感。萃香とフランが二人仲良く、月見の腹を枕にして眠りこけている。

 

「……ああ」

 

 その枕にされた哀れな自分の腹が銀の毛で包まれていたので、月見は夢から覚めるように今の状況を理解した。見回せば、周囲では幽々子であったり紫であったり咲夜であったり諏訪子であったり、見知った少女たちがみんな幸せそうな寝息を立てている。ほとんど無秩序に広がった布団畑の中心で、月見は銀狐の姿で眠っていた。

 狐の姿になった時の記憶はおぼろげだが、これといって驚いたりはしない。酒に酔うとこの姿で寝てしまうのは昔からだ。ただ500年振りなので、懐かしいな、とは思う。

 萃香とフランを起こしてしまわないよう慎重に二人の下から這い出て、更に眠る少女たちの体を踏んづけないよう、狭い隙間を静かに縫って布団畑を脱出する。

 それから、人の姿に戻った。狐の姿が嫌いなわけではないが、やはりこちらの方が、慣れ親しんだ自分の体だと思えた。

 

「ふう」

 

 ぐっと上に伸びをして、周囲を見回してみる。料理や酒の類は既に片付けられているものの、その代わりに座布団に布団にタオルケット、そして未だ夢路を辿る妖怪たち人間たちがあちこちに散らばっていて、ここが昨日できたばかりの新築だとはとても思えない惨状が広がっている。

 まあ、宴会明けの朝ならこんなものだろう。

 

「……あえ? 月見くん?」

 

 と、布団畑の中心近くから少女の声。一拍遅れて、藤千代が片目をこしこししながら起き上がる。

 

「ああ、悪い。起こしちゃったか?」

「いえいえ、ちょうど目が覚めたところですよ。おはようございますー」

 

 藤千代は、ちゃんと着物を着ていた。さて彼女には、就寝時に服を脱ぐ大変悪い癖があったはずなのだが、さすがに直したのだろうか。

 月見の言わんとしていることを察して、藤千代はあくび交じりに頬を緩める。

 

「さすがにこんな大勢の前では脱ぎませんよー」

「まあ、そうだな。いいことだ」

「それとも脱いでほしかったですか?」

 

 月見は無視し、顔を洗いに行くことにした。

 座敷を出ると、あーん待ってくださいよー、と藤千代の声がくっついてくる。

 

「月見くん月見くんっ。私、月見くんに訊きたいことがあります!」

「なんだ?」

「『こんな立派な家に一人だけというのも寂しいから一緒にここで暮らそうか』ってセリフはまだで――あーだから待ってくださいよおー!」

 

 駆け足で階段を駆け下りる。駆け足がついてくる。

 

「でも、さすがに通いづ――こほん、お手伝いに来るのはいいですよねっ? お掃除とか、一人じゃ大変ですもんねっ?」

「……」

 

 通い妻と言いかけたところは聞かなかったことにして、月見だって、水月苑の家事をたった一人でこなせるとは思っていない。加えてここは、名目でこそ月見の家だが、実際は温泉宿――外から客を迎え入れ歓迎しなければならない場所だ。家事から接待まですべてを一人でこなすためには、分身の術の習得が必要不可欠だろう。もしくは咲夜のように、時間を操る術か。

 

「あ、顔を洗うなら突き当たりを左です」

 

 故に、掃除を手伝ってくれるという藤千代の申し出は素直にありがたいのだ。ただし若干、いや明らかに下心が浮いて見えるのが気になる。

 突き当たりを左に曲がる。それから、ゆっくりとため息をついて。

 

「そうだねえ。少なくとも慣れるまでの間は、助けてもらおうかな……」

 

 月見は時間を止める能力なんて持っていないし、忍者でもないし、特別家事が上手いわけでもない。見事に外堀を固められてしまった感はあるが、ここは意地を張る場面でもないだろう。

 くっついてくる藤千代の声が、とても元気になった。

 

「まっかせてくださいっ! ちなみに、通い妻じゃなくて本妻がほしくなった時も任せてくださいね!」

 

 月見は後半部分を有意義に聞き流しつつ、

 

「なるべく迷惑を掛けないようにはするよ」

「そこは頑張らなくてもいいのに……。今は週一くらいでしか来られないかもしれませんけど、月見くんが望むなら、いっそ地上で生活できるようにさとりさんを説得しますもん! 物理的に!」

「や、そんなことしなくていいから」

 

 鬼子母神の物理的説得、それすなわち月見たちの基準で言うところの処刑である。この水月苑に変形機能をつけようとした愚かな河童のように、夜空でひっそり輝くお星様の仲間入りをするのだろう。

 ……ところで、あの河童は本当にどうなってしまったのだろうか。結局見つからなかったという話だが、もしかすると幻想郷の外まで吹っ飛んでいったのかもしれない。

 

「ところでその、さとりっていうのは?」

「あ、私の地底のお友達です」

 

 地底、と月見は小さく呟く。妖怪の山から洞穴を通っていける、元は地獄の一部だったところ――そういえば、それくらいのことしか聞いていなかった。

 

「もしかして、行ってみたいって思ってます?」

「そうだね。少し」

 

 こうしてゆっくり体を休められる家もできたことだし――本当にゆっくりできるのかどうかは甚だ疑問だけれど――、また幻想郷を歩き回る時に、目的地にしてみてもいいかもしれない。

 

「でも、月見くん含め地上の妖怪は、地底に行くためには紫さんの許可が要りますよー。いつもみたいに一人でぶらりと行くと怒られちゃうと思うので、気をつけてくださいね」

「ふうん?」

 

 生返事をしながら、月見は眉をひそめる。紫の許可がないと立ち入れないということは、事実上の立ち入り禁止区域といっていい。幻想郷の一大勢力である鬼たちの住処が、どうしてそんな扱いをされているのか。

 そういえば、と月見はふっと思い出す。月見は一昨日の永遠亭で、鬼たちが地底に移り住んだ理由を藤千代に尋ねていた。そしてその時彼女は、言いづらそうに「折り合いが悪かった」とだけ言って、話をはぐらかしていた。

 あの時は特に気に留めなかったけれど、立ち入り禁止の事実を聞いた今となっては、否応なしに引っ掛かる。

 足を止め、藤千代へ振り返る。つられて足を止めた彼女を見下ろして、

 

「ひょっとして、地底って結構ワケありなのか?」

「……」

 

 藤千代の沈黙を、月見は肯定と受け取った。

 少なくとも、明るい理由でつくられた住処ではないのだろう。幻想郷の土地は決して広くないが、住む場所がなくなってしまうほど狭いわけでもない。地底がどういう世界かはわからないけれど、元々地獄だったというからには、新世界を夢見て足を踏み入れるような場所ではなかったはず。

 藤千代は答えない。笑っているような悲しんでいるような、曖昧な表情をして、月見の脇腹あたりを見つめている。

 

「答えづらいことか?」

 

 藤千代はだんまりを続ける。肯定するのでも否定するのでもなく、答えるか否かを真剣に苦悩する沈黙だった。

 やがて藤千代は、月見を見上げて言う。躊躇いがちに身を引いた、下手な苦笑いで、

 

「……月見くん、怒りません?」

 

 やはり、楽しい話ではなさそうだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんなさい。――鬼たちはもう、人間を、好きではなくなってしまいました」

 

 元々鬼は、人間に対して好意的な種族だった。

 もちろん、この表現には語弊がある。かつて陰陽術が全盛期を迎えた時代、人をさらう妖怪の代名詞をいえば鬼だった。鬼たちはその途方もない身体能力を武器として、幾度となく人間の生活と命を脅かした。

 けれど彼らは決して、人間に対して卑しい感情を持っていたわけではない。大多数の妖怪が食事のために人を襲ったのと違い、鬼たちは力(くら)べ――即ち戦いのために人を襲った。

 人間には、己、或いは仲間の危機に直面すると、理屈を超えた驚異的な力を発揮する能がある。例えばかの高名な大妖怪である金毛九尾の一匹は、さんざ好き勝手を尽くし人間を苦しめた果てに、この力の前に討ち倒された。

 鬼たちは、人間との真剣勝負を望んでいた。人間が持つ未知の力に、自分たちの拳が通じるのか試したかった。故に人さらいは、人間たちに危機を与え戦いの舞台へのし上げるための、招待状めいた行為だった。

 当時のことは、伊吹萃香がよく宴会の席で偲んでいるらしい。あの時の人間は骨があって、強くて、戦うのが本当に楽しかったと。

 鬼は人間が好きだった。そして好きだったからこそ人をさらい、真剣勝負を挑み続けた。――まこと、勝負事を好む鬼らしい在り方だ。

 だが人間は、良くも悪くも合理的な生き物である。圧倒的格上である鬼たちに対して、いつまでも正面からぶつかるなどという自殺行為は続けない。戦いの中で鬼の弱点を探り、有効な戦法を編み出し、やがてそれらが体系化されると、人間は鬼との真剣勝負を避けるようになった。

 口を悪くして言えば、卑怯な戦いをするようになった。

 

「きっと、裏切られたような心地だったんでしょうね」

 

 人間たちの行動は正しい。負ければ命を失うことだって珍しくないのだ。そもそも、鬼たちが用意した土俵に馬鹿正直に上がらねばならない理由からしてない。

 間違っていたのは、人さらいなどという残忍な手段で土俵を作ろうとした鬼たちの方。それがもたらした帰結を裏切りと呼び嘆くのは、被害妄想というものだろう。

 けれど鬼は、嘘を嫌う生き物だった。だから、好きだった人間たちが嘘を武器に戦うようになってしまったことが、悲しかった。

 嫌いになってしまうくらいに。

 

「地底に住処を移す話は、実は、月見くんが昔ここにいた時から出始めてたんです。もっともみんな月見くんのことを気にして、表には出しませんでしたけど」

「……」

「月見くんが外に出て行ってすぐですね……。同じ頃地上で忌み嫌われていた他の妖怪たちを集めて、ここを去りました。私は、人間のことを嫌いになったわけではないんですけど、鬼子母神の立場上仕方なく」

 

 人間たちと生活圏を同じくする生き甲斐を感じられなくなった鬼たちは、土蜘蛛や覚妖怪など、地上で爪弾きにされていた妖怪たちを連れて地底に下り、幻想郷に次ぐ妖怪たちの楽園を築いた。曲者やひねくれ者ばかりが集まってしまったが、藤千代を始めとする数人の良識者たちが代表となって統治することで、なんとかかんとかやっているらしい。

 とりあえず、果たして藤千代が良識者かという命題については、ここでは問題にしないこととする。

 

「怒りますか? 人間を嫌ってしまった鬼たちを」

 

 藤千代は儚げに笑った。怒られることを、覚悟している表情だった。

 もちろん、決して気持ちのいい話とは言えなかった。やはりどれだけ歳を経たとしても、自分の好きなものが嫌われているという事実は、針のように心に刺さるものがある。

 残念だと思う気持ちや、考え直してほしいと望む気持ちがないといえば、嘘になるけれど。

 月見は緩く、息をついて。

 

「……怒らないよ。お前たちだって、嫌いになりたくてそうなったわけじゃないだろう?」

 

 好き嫌いとは単純明快な感情論であり、だからこそ難しい。それは、生き物の本質に関わることだから。なにを好むもなにを嫌うも、己の理性が及ばぬ次元で定められた、必然みたいなものだから。

 理性で好き嫌いを制御できるのならば、人の子どもたちは食卓に嫌いな食べ物を出される地獄を見ないし、妖怪たちが縄張り争いをすることもないし、八雲紫は夢を見なかったし、鬼たちが幻想郷を去ることもなかった。そして好き嫌いが理性でどうにかできるものではないからこそ、人の子どもは嫌いな食べ物を鼻をつまんで食べないといけないし、妖怪たちはテリトリーに入ってきた余所者に吠えかかるし、こうして幻想郷が成立しているし、そこに鬼たちの姿がない。

 運命づけられた、時代の趨勢みたいなものだと月見は思う。

 口を挟むのは簡単だ。けれど、考え直してくれなんて言うつもりはない。

 月見が口を挟んでなにかがわかるくらいなら、鬼たちは初めから、人間を嫌ったりはしていないのだから。

 

「難しいものだね。なかなか」

「……そうですね」

 

 お互いに、苦笑する。

 

「でも、そんなに悪い場所じゃないですよ。みんなのびのび生活してるので、機会があれば是非来てみてください。月見くんならきっと大丈夫です」

「ああ。その時は、よろしく頼むよ」

 

 そこで、藤千代はいくらか肩の力を抜けたようだった。すっかりいつも通りに戻った、ふんわりとした笑顔で、

 

「洗面所はそこを曲がってすぐです。……じゃあ私、みんなを起こしに戻りますね」

「ああ」

 

 藤千代と別れ、一人、教えられた通りに廊下を進む。するとすぐに大きな両引き戸があったので、ここだろうかと開けてみれば、

 

「……」

 

 洗面所というか、脱衣所だった。ただし水月苑は温泉宿なので、一般民家の脱衣所とはわけが違った。

 入って正面には、洗面台が三つ。この時点で既に一般的ではない。左手には八畳間を三部屋分つなげたくらいの広い脱衣スペースがあり、壁一面には衣服を入れておく木製の棚とカゴ。中央では、休憩用の背もたれのない腰掛けが等間隔で列を為している。それを越えた奥には恐らく風呂場へとつながるであろう引き戸と、傍には現実に挑む強者の出現を黙々と待ち続ける、渋い貫禄に満ちた体重計。

 一瞬、風呂場がどれほどの広さなのか気になった月見だが、間違いなく見ても気が滅入るだけなので、あとにするべきだろうと判断。さっさと顔だけ洗って気分を入れ替え、二階の宴会場へ戻ることにした。

 しかしいざ階段に足を掛けたところで、玄関がノックされる音に呼び止められた。階段の一段目に足を乗せたまま、月見ははてと振り返る。今が正確に何時なのかは把握していないが、それにしたって客が来るにはまだまだ朝早い。知り合いの大半が二階で眠りこけている中、果たして誰がやってきたというのか。

 

「ごめんくださーい!」

「……」

 

 その声を聞いた途端、居留守を使おうかなと反射的に考えてしまった月見は、多分悪くない。

 最初の「ご」を聞いた時点で誰だかわかった。秋風のように涼やかで張りのある女性の声は、幼少時代からの成長ぶりから、月見の脳に鮮明に記憶されていた。そうでなくとも昨日の今日だ。わからないわけがない。

 つい返事を躊躇っている月見の先で、玄関のノックが次第に殴打へと変わりつつある。

 

「ごめんくださーい! いないんですかー!? まさか居留守なんかじゃないでしょうねー!?」

 

 戸に手を掛けられた気配。ほんの少しだけ横に引かれて、

 

「あら、開いてる。――ということは居留守ですね!?」

 

 ずっぱーん。

 温泉宿の顔としてそれなりに頑丈なつくりになっているはずの両引き戸が、襖を開けるような軽々しさで綺麗に真横に吹っ飛んだ。

 そして全開放された玄関を挟んで彼女と目が合ってしまえば、もはや居留守も無視もできるはずがない。

 月見はため息、

 

「おはよう。朝から騒々しいね」

 

 四季映姫はふくれ面、

 

「誰のせいですか!」

 

 月見のせいなのだろうか。

 

「私相手に居留守を使うなんて上等ですね。説教をご希望なら素直にそう言ってくれればいいのに」

「ご覧の通り広い屋敷だから、気づくのに時間が掛かっただけだよ」

 

 元ありがたいお地蔵様兼幼女、現地獄の閻魔様兼自称大人の女性、四季映姫である。つい先日月見と数百年来の再会を果たしたばかりの彼女は、捨て台詞となっていた『次こそ絶対に逃がしませんからね』を体現するかのように、どこからか水月苑の存在を嗅ぎつけてきたらしい。嫌な嗅覚をお持ちのようだ。

 今やすっかり目線が高くなった映姫は、玄関を見下ろし不機嫌そうに顔を歪める。

 

「なんですかこれは」

 

 指差す先には、百を超える履物がごちゃごちゃに散らばる地獄絵図。

 映姫は、地獄というよりかはゴミ捨て場を見るような目をしていた。月見は肩を竦めて答える。

 

「昨日から宴会をやっててね。ちょっとばかり人数が集まりすぎたから、不可抗力だよ」

「……そうですか」

 

 幻想郷の宴会については映姫も諦めている部分があるのか、仕方なさそうにため息をついて、すぐに月見へ視線を上げた。

 凛とした翠の瞳が、逃げるなよと言外に語っている。

 

「それよりもこのお屋敷です。なんですかこれは」

「私の家、兼日帰り温泉宿」

「ふざけないでください」

 

 これが冗談だったら、月見はどれほど楽になれるだろう。

 映姫は疑り深い目で月見を覗き込む。

 

「なにを企んでるんですか」

「……なんで私が悪事を働くのが前提なんだろうね?」

「今のが冗談でないとしても、あなたがこんな行楽施設を経営しようだなんて不審の極みです。さあ白状なさい。今なら未遂ですから、罪はまだ軽くて済みます。まああなたならどんな些細な罪でも許しませんけど」

 

 さすがは幾千幾万の罪を裁く閻魔王、血も涙もない。

 月見は悄然と頭を振って、

 

「なにも考えちゃいないよ。私だって、できれば普通の家で暮らしたかったんだから」

 

 とはいえ無償で家をつくってくれた皆の厚意を無下にするつもりもないので、この話はもういいのである。触れてくれるな。

 それよりも、と話題の転換を試みる。

 

「どうしてお前がここに? ここに私がいるなんて、どこで知ったんだ?」

「簡単なことです。先日、店主の説――いえ、店主とのお話が済んだあとで、あなたの行方を捜したのです。そうしたらここに辿り着きました」

 

 一瞬『説教』と言いかけたことについては、揚げ足を取らないでおく。映姫相手にやっても面倒になるだけだし。

 

「昨日は仕事も残っていたので已むなく引き返しましたが、今日はオフなのでそうは行きませんよ。さあ、覚悟なさい」

「……」

 

 沈黙する月見に、映姫はどこまでも澄まし顔だった。

 

「あなたには、主に目上の女性に対する礼儀について、これから諭さねばならないことが多くあります。宴会はもう終わったのでしょう?」

「まあ終わってはいるけど……もしかしてそれだけのためにわざわざここまで来たのか?」

 

 月見を説教するためだけに貴重な休日を使って地獄から遥々やってきたのだとすれば、閻魔様のありがたすぎる愛情に、滂沱の涙があふれ出そうだ。数百年前、彼女に目をつけられてしまった自分を全速力で空の彼方まで蹴り飛ばしてやりたい。

 映姫は真顔で首を横に振る。

 

「それだけなんてことはありません。私にとってはとても重要な問題です。死活問題ですらあります。私はもう子どもじゃありません。立派な大人なのです。大人なのですから」

 

 ギラギラ光る映姫の瞳は、本気と書いてマジと読む、を地で行く迫力に満ちていた。そのうち炎が燃え始めるだろう。

 梃子でも動かぬ固い決意で、彼女はズカズカ玄関に上がり込んでくる。

 

「そういうわけでお邪魔しますよ。……まったくこんなに汚くして、みんな一体なにをやってるんですかだらしない。玄関はその家の顔となる大事なところ、汚くしていてはお客さんに失礼です」

「……」

 

 正直なところそのまま回れ右でお引き取り願いたいのだが、そんなことをしたら最後、公務執行妨害だとかなんだとか難癖をつけられた上で説教ルートに直行しそうだったので、已むなく迎え入れるしか選択肢がない。

 ああ、強大すぎる権力の前では、己のなんと無力なことか。

 

「みんなは上ですか?」

「ああ。宴会明けでまだ寝てるから、あんまりうるさくしないでやってくれ」

「あら、なんでですか?」

 

 月見は嫌な予感を覚えて映姫を見た。映姫はにっこり微笑んで言った。

 

「もういい時間じゃないですか。これ以上の朝寝坊は不健全です」

 

 うきうきわくわく。そんな心踊る音が今にも聞こえてきそうな、大人の女性には程遠い無邪気な笑顔で、

 

「目覚まし代わりに、私が叩き起こして説教してあげましょう」

「……」

「ふふふ、この履物の量を見るに百人くらいはいそうですね。そんな大人数を一度に説教するのなんて初めてです。腕が鳴りますね」

 

 月見はもはやなにも言えず、その場でゆっくりと大きく息を吸って、吐く。

 それから、では失礼しますねーと軽やかな足取りで階段へと向かっていく、映姫の背中を見つめて。

 ――悪い、みんな。

 心の中で、仲間たちに先立つ不幸を合掌した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 予想外のことが起きた。月見が映姫のあとに続いてとぼとぼと二階へ上がってみると、宴会場のあちこちで雑魚寝していたはずのみんなの姿が、忽然とどこかへ消えてしまっていた。

 

「ん?」

「……誰もいないじゃないですか?」

 

 もぬけの殻である。だらしなく散らばった布団と、半分めくれ返った状態で放置されているタオルケットと、枕代わりに半分に折り畳まれたまま、癖がついて戻らなくなってしまった座布団たち。

 それだけだった。

 

「はて」

 

 有名な都市伝説、メアリー・セレスト号の逸話が脳裏に浮かぶ。散らかる布団もタオルケットも座布団も、どれもがたった今まで誰かが寝ていたように生々しい。

 というか、実際にたった今までみんなが寝ていたはずなのだけれど、どこに消えてしまったのだろうか。

 

「いやー、危なかったです。ギリギリでしたー」

 

 と、月見のすぐ傍から少女の声。――藤千代だった。月見が気づくなり、ぽふんと右の脇腹あたりに抱きついてくる。

 

「千、」

「しーっ。今は喋らないでください」

 

 咄嗟に彼女の名を口にしかけたところで、人差し指一本で制された。

 

「今私、能力を使ってるので。申し訳ないですけど、合わせてくださいー」

「……」

 

 なるほど、と月見は頷く。藤千代が有する能力――『認識されない程度の能力』。文字通り、自分の存在を他人から認識されなくする隠形の異能。

 これ見よがしに月見に抱きつきごくごく普通の声量で喋る彼女に、しかし傍の映姫が気づいた素振りはまったくない。広間のあちこちを見回して、「玄関に履物があったじゃないですか! なのにどこに!」と一人で憤慨している。今の映姫に藤千代の姿は見えていないし、声も聞こえていないし、更にはすぐ傍にいる気配すらも伝わっていないのだ。

 月見を見上げた藤千代が、むー、とかわいらしい声で唸る。

 

「やっぱり、月見くんには私の能力が通じないんですねー」

 

 ということは彼女、月見に対しても能力を使っているらしい。しかし残念ながら、『認識されない程度の能力』は月見には通用しない。

 月見の能力――『当てを外す程度の能力』による逆転現象。かつての諏訪大戦において、月見はこの能力で藤千代の当てを外し、彼女の姿を捉えることに成功した。さしずめ、『月見に藤千代は見えない』――それを一度逆転させた以上、あれから何百年何千年と経とうと、『月見に藤千代は見える』のだ。

 

「でも、そういうのも素敵ですよね。例えば私の能力が暴走してしまって、存在を認識されなくしたまま制御できなくなってしまったとしても……世界でただ一人、月見くんだけは、私を見つけてくれるんですから」

 

 えへへぇ、とだらしない笑顔で擦り寄ってくる藤千代を早速引き剥がしたくなる衝動に駆られるが、すぐ隣に映姫がいる状況ではそれも躊躇われた。ここで月見が藤千代になにかをしたとしても、映姫の目には月見の阿呆な一人芝居に見えることだろう。進んで人から白い目で見られたい欲望はない。

 とりあえず藤千代の好きなようにさせながら様子見していると、

 

「ツクミン補給ツクミン補給」

 

 藤千代が寡聞にして知らない謎の物質を補給し始めた。そして更にすりすりとすり寄ってくる。なかなか気味が悪い。

 藤千代はなぜか得意げに答える。

 

「ツクミンは、月見くんにすりすりすることで摂取できる栄養素です。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミン、そしてミネラルと並んで、六大栄養素と呼ばれています。欠乏すると禁断症じょ」

 

 映姫が足元の布団に手をやって「まだ温かい……」とか呟いている隙に、月見は藤千代をひっぺがした。話の途中とか知ったこっちゃない。

 

「あーん……」

 

 藤千代の寂しそうな顔を無視し、映姫に聞こえないよう囁き声で、

 

「で、みんなはどこに行ったんだ?」

「ツクミンをもう少し補給させてくれたら教え――あああああ冗談ですごめんなさいアイアンクローはダメですっダメですっ」

 

 藤千代は体があまり大きくないので、とてもアイアンクローしやすい。

 

「……あなた、一人でなにをしているんですか」

「ん? ……いや、なんでも」

 

 いつの間にか映姫が冷めた目でこちらを見ていたので、月見は已むなく藤千代を解放した。

 あいたたたー、と両のこめかみあたりを揉み解している藤千代は一旦置いておいて、未だ不審な目をしている映姫の気を逸らすために、話題を進める。

 

「……で、みんなどこに行ったんだろうね」

「あなたも知らないんですか? ……嘘おっしゃい、さしずめ私に説教させまいとどこかに匿ってるんでしょう? 人の楽しみを奪うなんてやっぱり性悪ですね」

「なあ……お前、そんなに私のことが嫌いか?」

 

 小さい頃の映姫をからかった月見にも非はあるのだろうが、なにもここまでセメントにならなくても。

 それなりにショックを受けながら言うと、映姫はなぜかその言葉にひどく驚いた様子で、びくりと肩を震わせた。

 慌てて月見から手を逸らし、言い訳をするように唇を動かす。

 

「や、べ、別にそういう意味で言ったんじゃなくて……」

 

 コホン、と咳払い。

 

「ま、まあ、嘘を言っていないのであればいいんです。ええ」

 

 なにか並々ならぬ恥ずかしさがあるらしく、話は終わりだとばかりにまた空咳をして、

 

「でも、だとしたらみんなはどこに行っちゃったんですか」

「さて」

 

 月見は肩を竦めて目線を藤千代へ移す。アイアンクローの痛みから回復した彼女は、両手をこめかみから離すと、まるでこともなげにこう言った。

 

「ああ、映姫さんのお説教が嫌だったのでみんなで逃げました」

「……」

 

 もちろん映姫には聞こえていない。難しい顔をして、「まさか逃げられた……?」と考え込んでいる。

 

「こうして映姫さんがやってきたということは、月見くんもお知り合いなんですよね? じゃあ知ってると思いますけど、映姫さんってひどい説教癖がありましてー」

 

 藤千代は、べー、と映姫に舌を出して、

 

「下から声が聞こえたので、紫さんを叩き起こしてみんなで逃げちゃいました」

 

 なるほどね、と月見は内心で合点する。紫のスキマを使ったのであれば、みんなの姿がここまで忽然と消えたのにも納得だ。

 

「映姫さんのお説教は、みんなほんとに大嫌いなんですよー。一時間は当たり前、ひどい時は二時間も三時間も……」

 

 明後日の空を見つめ感傷的なため息を落とす藤千代は、まさしく『経験者は語る』といった体だった。もともと地獄の一部だった地底を治めている立場だけあって、閻魔である映姫とはなにかと縁があるのかもしれない。

 

「ごめんなさい、片付けもせずに逃げちゃって……。でもほんとに、映姫さんの説教だけは嫌なんですよぅ……」

 

 想像するのも恐ろしいのか、珍しく藤千代がふるふる震えている間に、月見は座敷をひと通り見回してみる。料理の片付けこそ済んでいるが、布団にタオルケットに座布団があちこちに吹っ散らかって、お世辞にも綺麗な状態とはいえない。

 けれど月見は、大したことだとは思わなかった。規模はさておき立派な家をつくってもらって、宴会も開いてもらって、食事の片付けだって咲夜や妖夢たちが率先してやってくれた。これでもなお胡座をかき続けるようなら、いよいよもって男のプライドを溝に蹴り捨てるようなものである。後片付けくらいは月見がやらねばならないだろう。

 

「本当にごめんなさい。お詫びに、私がお嫁さんになってあげるので許してください」

「いや、そういうのはいいから」

「……なに言ってるんですかあなた?」

 

 つい声に出してしまって映姫にまた不審な目をされたが、なんでもないよととぼければ幸い深くは勘繰られなかった。映姫にとっては月見の変な発言よりも、説教のため皆が消えた原因を探る方が大事なのだ。

 月見は、ぶー、とふくれ面をしている藤千代を無視して、

 

「それよりどうする? みんな、逃げちゃったみたいだけど」

「や、やっぱり逃げられたんですか!? なんでですかっ、せっかく私がありがたいお説教を聞かせてあげようと思っていたのに!」

 

 それこそがみんなに逃げられた原因なのだと、映姫は夢にも思っていないらしい。大きく見開かれた翠の瞳には、信じられないという驚愕がありありと浮き出ていた。

 そして藤千代の半目にも、信じられないという呆れ果てる気持ちがありありとにじみ出ているのだった。

 人生最大の楽しみに逃げられた映姫はいきり立っている。

 

「くっ……あなた、誰が宴会に参加していたのか教えなさいっ! あとでまとめて説教してあげます!」

「……もう、本当に冗談がお上手ですねー映姫さんは」

 

 藤千代が冷たい笑顔で腕まくりを始めるが、もちろん映姫は気づかない。

 

「月見くん。なんだか私、無性に映姫さんをぶっ飛ばしたくなりました。いいですか? いいですよね? はい、任せてください」

「……」

 

 厄介払いができるという意味ではそれもいいのかもなあと一瞬思ったけれど、しかしそれで映姫の怒りを買い説教地獄へ叩き落とされるのは月見である。まこと、世の中とは理不尽なものだ。

 なので月見は、さりげなく二人の間に体を割り込ませ、

 

「みんなで楽しんだあとなんだから大目に見てくれよ。だからこうして逃げられるような羽目になるんだぞ?」

「く、くうっ……」

「はい、そういうわけで帰った帰った。私はここの片付けをしなきゃいけないからね」

 

 半分は映姫に、もう半分は藤千代に向けてそう言えば、藤千代は比較的素直に頷いて、

 

「あっとそうでした、私ったらみんなを待たせてるんでした。それじゃあ月見くん、また会いましょう! 今度はちゃんとツクミンを補給させてくださいねー!」

 

 元気よく手を振りながら、ぱたぱた広間を飛び出していった。……後半のツクミン云々は、色々面倒なので聞こえなかったことにしておこう。

 さてもう片方の映姫であるが、彼女はしかめ面をしたままその場を動こうとしない。むう、と小さく唸りながら、広間を散らかす寝具たちへと目を向けている。

 

「……映姫?」

 

 彼女は広間をぐるりと見回して、しばらく考え込んでから、

 

「私も手伝います」

「……おや」

 

 その申し出を、月見は少なからず意外だと思った。閻魔になってからというものますます態度が尊大になった映姫とはいえ、それなりの協調性は持ち合わせているらしい。

 などと考えていると、半目で睨まれた。

 

「あなた、なにか失礼なこと考えてませんか?」

 

 月見は肩を竦めて受け流す。

 

「単に意外だと思っただけだよ。……しかしいいのか? 数があるから大変だぞ?」

 

 布団とタオルケットは数十人分、座布団に至っては全員分だ。ただの片付けとはいえ、この数にもなれば立派な重労働だろう。

 けれど映姫は己の発言を翻すどころか、どこか得意顔になって尊大に胸を反らすのだった。

 

「いいのです。大人のお姉さんとは、掃除のできない不甲斐ない男のために一肌脱いで、手伝いくらいしてあげるものなのです」

「……」

「感謝するように」

 

 ところで、かつて蜘蛛の巣と墨汁まみれになっていた哀れな地蔵を綺麗に掃除してあげたのは、一体誰だったろうか。

 そう思うだけで、口にはしない。掃除のできないダメ狐の烙印を押されているのは面白くなかったが、月見も大人の男なので、細かいことは気にせず素直に厚意を受け取るのである。

 

「それじゃあ、やろうか」

「よーく見ているようにっ。私が、掃除のきちんとできるお姉さんなのだということを教えてあげますから!」

 

 悔悟棒をしまい、映姫が意気揚々と布団畑に突撃していく。本当に大丈夫なのだろうかとやや不安になりながら、月見も手近なタオルケットを拾い上げる。

 ……結論をいえば、映姫の手際はそれはそれは見事なものだった。自分が掃除のできる女だと証明する意気込みと、更に元々の几帳面な性格も相まって、すべての布団を寸分の狂いもなく畳み、寸分の乱れもなく納戸に収納していく。標的がタオルケットに切り替わっても同上だ。もしもなんらかの理由で閻魔の職を失った時、彼女はメイドとして生まれ変わるのだろう。

 

「どうですか? きちんとできてるでしょう? すごいですよねっ? 私ったら、もうどこからどう見てもお姉さんですよねっ」

 

 しかし残念ながら、掃除のできる者が皆大人だとは限らない。例えば咲夜は年齢的にはまだ未成年だし、そうでなくとも布団なりタオルケットなり、とりあえずなにかをしまうたびにいちいちきらきらした瞳で月見の袖を引っ張ってくる映姫は、どこからどう見ても背伸びをして大人になったつもりでいるただの子どもだった。

 もちろん口にはしない。そうだねそうだねと適当に相槌を打っておけば、調子に乗った映姫がどんどん布団に飛びかかっていくので好都合だった。なんとも扱いやすい少女である。

 そんなこんなで面倒くささを感じるほど手間取ることもなく、部屋の片付けはあっさりと終了した。広い座敷には最終的に、月見とドヤ顔の映姫だけが残った。

 

「ふふふ、すっかり綺麗にしちゃいました。どうですか? 私の実力、思い知りましたか?」

「ああ。ありがとう、助かったよ」

「そうですよねっ。えへへ……」

 

 助かったのは事実だし最後くらいはちゃんと褒めてあげようか、と月見が素直に礼を言えば、映姫はもうすっかり舞い上がって、色づいた頬を両手で押さえ脂下がるのだった。

 

「じゃあ、下に降りようか。お茶くらいは出すよ」

「あら、感心ですね。それではご馳走に――っと、待ちなさい」

 

 回れ右をしようとしたところで、呼び止められる。月見が足を止めると、映姫はこちらの傍に寄ってすんと鼻を鳴らし、

 

「……やっぱりあなた、ちょっとお酒くさいです」

「まあ、宴会明けだしね」

「さしずめお風呂にも入ってないんでしょう?」

「……宴会明けだしね」

 

 不潔です、という映姫のジト目が体に刺さる。

 映姫はため息をついて、けれど一方でどことなく楽しそうに、

 

「決まりですね。お茶の前に、この私が、恐れ多くも、お酒くさいあなたの着物を洗ってあげましょう」

 

 『この私が』と『恐れ多くも』に、強烈なアクセントが付いている。

 

「別にそこまでしてもらわなくても、洗濯くらい自分で」

「黙りなさい。自分でやろうとするのは感心ですが、だからといって女性の前でお酒くさいのは無礼ですよ」

 

 しまっていた悔悟棒を取り出して月見へ突きつけると、映姫は言葉とは裏腹に莞爾と微笑む。

 

「まず、お風呂に入ってきなさい。その間に私が洗濯してあげます」

 

 本当に、楽しそうに。

 

「まったくもう、これだから大人の女性は大変ですねっ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 風呂場はやはり広かった。温泉宿の目玉としてつくられたのだから当たり前なのだが、この規模になるともはや大浴場と呼んでいい。整然と敷き詰められた踏み心地のいい床タイル、台形状に切り取られた御影石の浴槽、山の緑と空の青を一望できる巨大な吹き出し窓。窓の一部は勝手口になっていて、外に出た先で控えるのはヒノキの露天風呂である。

 御影石の浴槽は、難なく水泳ができる程度には広い。外の露天風呂も、ここまでではないにせよ、やはり広い。たった一日の突貫工事とは思えないほど素晴らしいつくりなのだが、月見は感心するのでも感動するのでもなく、ただ、掃除が大変そうだなあとため息をついた。

 ついでに言えば、見晴らしがよすぎるというのも問題だ。さざなみのように広がる日本庭園も、彼方でなだらかな尾根を築く春の山々も、天一面を埋め尽くす春空も、どれもどれもが見事で、開放感に満ちあふれていて――それ故に覗いてくださいと言っているとしか思えなかった。

 どうやら水月苑の運営にあたっては、覗きの対策が最優先課題となりそうだ。覗きが出ない、とは思わない。むしろ絶対出る。あいつらは絶対に覗く。

 

「一体どうなることやら……」

 

 まあそのあたりは、追々紫や藤千代たちと相談して決めていけばいいだろう。もしかすると彼女たちも、既に対策を考えた上でこのつくりにしたのかもしれないし。

 映姫が、「時間が掛かると思うのでゆっくりしてきていいですよ」と言ってくれたのを幸いに、体と髪をしっかり洗ってからのんびり湯船に浸かってみる。湯の色は薄い乳白色。湯温はちょっぴり熱め。一日振りというのもあってか、全身が痺れるような気持ちよさだった。天国のようだと謳ったにとりの弁も、あながち誇張ではないかもしれない。

 とはいえ、客が来ている中で本当にゆっくりするわけにもいかないので、十五分程度で上がることにした。露天風呂の方に行ってみるのも考えたけれど、妙に嫌な予感がしたのでまたの機会とする。

 浴場を出て、タオルで体を拭きつつ棚からカゴを引っ張りだす。中には、白地に青で文様を描いた温泉浴衣が一着入っている。温泉に入りに来た客への貸出用なのか、何十着か備えつけられているのを見つけた。

 着物が乾くまでの間に合わせには、充分だろう。袖を通して映姫のところへと向かう。

 水月苑の居間は、玄関から向かってすぐ右手の渡り廊下から入ったところにある。もはや驚くこともないが、やはり広い部屋だ。ここだけで、小さな家なら一軒建てられてしまいそうなだけの面積がある。

 映姫は、居間の中央にポツンと置かれたテーブルで、我が物顔でお茶を飲んでいた。洗濯は既に終わったようで、着物は物干し竿に袖から袖へと貫かれ、磔みたいになって縁側で干されている。

 

「お帰りなさい。体、ちゃんと洗ってきましたか?」

「それはもちろん」

「では……ほら、ちょっとここに座りなさい」

 

 映姫がテーブルを平手でぺしぺし叩いて、向かい側に座れと促してくる。言われるがまま月見がそこに腰を下ろすと、リンゴの乗った皿と湯呑みを渡された。

 

「どうぞ」

「なんだいこれは」

「見たまま、リンゴとお茶です。お茶は大分熱めに入れてますが、熱いうちに飲んでください。お酒くさいのを解消するのに効果がありますから」

 

 リンゴやお茶に多く含まれるカテキンとフラボノイドが高い消臭作用を持っていて云々。確かに、そんな話が脳の片隅に記憶されているが、

 

「わざわざ用意してくれたのか?」

「ふふふ、そうです。私はお姉さんですからね、こういう気配りもきちんとできるのです。どうです、恐れ入ったでしょう?」

「それは……面倒を掛けるね。ありがとう」

 

 恐れ入ったかどうかはさておき。

 映姫は、ふふん、といかにも得意そうに胸を張る。

 

「礼など要りません。ただ、あなたが私を子ども扱いしなくなればそれでいいのです」

「私が言うのもなんだけど、あの時のこと、本当に根に持ってるんだな」

「当たり前ですっ!!」

 

 途端、テーブルに映姫の拳骨が落ちた。屈辱と恥辱で膨らんだ頬が、リンゴさながらに赤い。

 

「私ももう長い時を生きましたが、あれは人生最大の屈辱でした! 本来であれば決して許されない大罪ですっ、地獄行き確定ですっ! それを不問にした私の、なんと心の広いことか!」

 

 月見は適度に聞き流しながらお茶をすすり、ほう、とのんびり息をつく。

 映姫はもう一度テーブルを殴り、ふう、と気持ちを落ち着けるように息をつく。

 

「ですが、私がもう子どもでないことは今日で何度も証明されましたので、あなたもわかってくれたと思います。これでいくらあなたが性悪でも、二度とあんな過ちを繰り返すような真似はしないはず。……わかりますか? 私は、あなたにもう一度チャンスを与えてあげるのです」

「さすが、閻魔様は寛大だね」

 

 掃除を手伝ってくれたり洗濯してくれたり軽食を用意してくれたり、変なところで月見の世話を焼きたがるようなので、ある意味ではとても心優しい女性なのだろう。子ども扱いに関しては、蟻の這い出る隙間もないほど心が狭いようだが。

 そしてこういった、大人らしさを連想させる褒め言葉に対しては、彼女はすぐに鼻高々になる。

 

「ふふ、そうですよ。感謝するように」

「……」

 

 ちょっとずつ、『四季映姫の扱い方』がわかってきたような気がする、月見だった。

 手元の小皿からリンゴを手に取る。よくお弁当のデザートとして生息していたりする、ウサギさん型のリンゴだった。フラボノイドはリンゴの皮に多く含まれているというが、それにしたってただの軽食にしては凝っている。

 

「確認するけど、これはお前が切ったんだよな?」

「ええ。宴会の余りなんでしょうね、ちょうど一つ見つけましたので。お姉さんな私は、リンゴもちゃんと切れるんですよ」

 

 月見は、切ったリンゴをせっせとウサギさんにする映姫の姿を想像してみる。ついでにもう少し遡って、月見の着物をせっせと洗濯するところも。多分、「もう、手が掛かるんですから~」なんて文句を言いながらも、にこにこ笑顔で、鼻歌でも歌いながら作業していたのだろう。

 

「ふむ」

 

 これではむしろ、

 

「お姉さんというよりかは、恋人か女房みたいだね」

「は――」

「ああ、別に変な意味じゃないよ。私のずっと昔の友人に、そいつには勿体ないくらいにできた女房がいてね。それを思い出して、少し懐かしくなった」

 

 思えば雪も、秀友が酔い潰れた次の日には酒を片付けたり秀友の服を洗ってやったり、『自称二日酔いに効く雪必殺薬膳茶(地獄仕様)』を作ってやったりしていた。ちなみに飲んだ秀友は「ガボッ」と変な声を上げて死んで、二日後になって息を吹き返した。確かに死んでいては二日酔いもなにもありはしないので、ある意味では効果抜群の薬膳茶だったといえる。

 ちなみに『自称二日酔いに効く雪必殺薬膳茶(天国仕様)』というバリエーションもあるらしく、飲んだ秀友はやはり死んでいた。

 懐かしいねえとしみじみ思っていると、ふと、あれだけお喋りだった映姫がすっかり静かになっているのに気づく。どうしたのだろうかと前を見てみれば、

 

「……」

 

 緑の髪に帽子を被って女の体を生やしたリンゴが――いや。

 首の根元から頭の先まで真っ赤っ赤にして、四季映姫が物言わぬリンゴと化していた。

 

「……ふむ」

 

 本気で絶叫する一秒前を切り取ったみたいな顔をしている。よく気をつけてみれば彼女の口だけが微妙にカタカタ震えており、中で言葉にならない感情が大洪水を起こしているのがありありと見て取れる。

 月見は映姫の目の前でひらひらと手を振ってみた。反応なし。

 おーい、と声を掛けてみた。反応なし。

 猫騙しをしてみた。反応なし。

 

「……」

 

 ウサギさんを半開きの口に突っ込んでみた。

 映姫が真後ろにひっくり返った。

 

「ふあっ!? い、いひはいはひお」

「おかえり。リンゴ、美味しいよ」

 

 起き上がった映姫は、自分の口の中で頭隠して尻隠さずになっていたウサギさんを引っ張りだして、憤然と、

 

「いきなりなにするんですか!? びっくりしたじゃないですかっ!」

「なんだか放心状態になってたみたいだから」

「あなたが変なことを言うからでしょうがっ!! なんなんですか、そのっ……ええと……っ」

 

 もじもじとなにかを躊躇う間があって、やがてぽそぽそしおらしい声で、

 

「こっ、…………こいびと、とか……にょうぼう、とか……」

「ただの例え話だからね?」

「当たり前ですっ!!」

 

 張りのある声音で一喝、またテーブルを殴られる。

 

「そもそも私、恋人とか、」

 

 そこまで言ったところでまたもじもじして、

 

「だっ、…………だんなさん、とか……」

 

 また白熱して、

 

「ともかくっ、そんなの全然いないですもん!」

 

 まあ実際にいるのだったら、話をするだけでここまで赤くなったりはしないだろう。リンゴになったりしおらしくなったり怒り出したり、なんとも忙しい閻魔様だ。

 

「なんですか、もしかして期待しちゃったりしてるんですか!? ま、まあ私は大人の女性なので、そういう目で見てしまうのも仕方ないですがっ!」

「……」

「そんな『うわなに言っちゃってんのこいつ』みたいな目をするなあああああっ!! さ、さてはあなた、私のことバカにしてますね!? 残念な人だと思ってますね!?」

 

 正直、ちょっと思った。

 月見がいたたまれなくなってさっと目を逸らすと、映姫は「もおおおおお!!」とテーブルを悔悟棒でメッタ打ちにしながら、体全体で激憤をあらわにするのだった。

 

「あ、あ、な、た、はっ……!! どうしてそう、いじわるな……!」

「……いや、むしろお前が勝手に暴走して自爆」

「言い訳しないでくださいっ! よしんばそうだとしても、あなただって男なんですから上手くフォローしてくださいよお!」

 

 映姫の若干涙目な訴えに、月見は少し考えて、

 

「……私は、少しくらい残念な方がいいと思うよ?」

「フォローになってなああああああああああっい!!」

 

 映姫渾身の叫びは、もしかすると人里あたりまで飛んでいったかもしれない。そうやって肺の中の空気をすべて音に変えた映姫は、もうテーブルに半分突っ伏しながら、ぜーぜー喘いで必死に酸素を補給していた。

 

「……大丈夫か?」

「だっ、だれの、せい、ですか……」

 

 月見のせいなのだろうか。映姫だって大人の女性を自称するなら、もう少し感情を理性で律する力を身につけてはどうだろうか。

 ともあれ映姫が息も絶え絶えで喋ることすらままならない様子だったので、月見はしばらく黙って彼女の呼吸が整うのを待つ。

 映姫は十秒ほどで復活して、突っ伏していた上体を起こすと、

 

「……わかりました。私、決めました」

 

 真剣な面持ちで一つ頷いた彼女に、月見の背筋を嫌な悪寒が駆け抜けた。なにを言われるのかはわからないが、絶対にろくなことではないという確信に近いなにかがあった。

 

「あれから何百年か経って少しくらいはと思ってましたが、やはり見過ごせません」

 

 しかして、月見の予感は的中する。

 

「あなたには、私が直々に、生きとし生ける者として正しい道を説いてあげる必要があるようです」

「……」

「仕事の合間に都合を見つけて、なるべくここまで様子を見にきてあげましょう」

 

 言葉を失っている月見を余所に、映姫は「名案ですね~」と自画自賛するように深く頷く。

 

「ちょうど、あなたがこの温泉宿をきちんと公序良俗に反せず営業していくのかどうかも気になりますしね。ですのでここは、大人である私が監視すべきでしょう」

 

『大人』にアクセントをつけては胸を反らす映姫を見て、失礼ながら月見は、その柔らかそうなほっぺたを思いっきり左右に引き伸ばしてやりたかった。きっとよく伸びるに違いない。

 あ~、と盛大に言葉を濁し、

 

「……いやほら、私みたいな卑小な狐にわざわざ貴重な時間を割くことはないと思うぞ? ちゃんと閻魔の仕事を」

「生者を改心させ正しい道へ導くのも、閻魔の大切な役目の一つです」

「……ほら、向こうだって忙しいだろうし、あんまりこっちに来ると迷惑に」

「大丈夫です、閻魔の仕事は交代制ですから。閻魔って実は二人いましてね、もう一人の閻魔が仕事中の間は私に自由時間が与えられるんですよ」

「考え直した方がいいと思う。主に私のために」

「聞く耳持ちません」

 

 月見がどうしたもんかと頭を抱えていると、思い立ったが吉日とばかりに、映姫がお茶の残りを飲み切って席を立った。

 

「そうと決まれば、今回は一旦戻ります。あなたをきちんと監視できるよう、仕事のスケジュールを調整する必要がありそうですから」

「……なあ映姫、本気か? 本気で言ってるのか?」

「当たり前じゃないですか。閻魔の本気を見せてあげます」

 

 月見を見据える瞳は、使命感が燃える本気(マジ)の瞳だった。

 

「ちゃんと規則正しい生活を心懸けること。ふしだらな生活をしたら説教です。温泉宿は真心を以て経営すること。経営者としてあるまじき行為を働いた際は有罪です。そして他人を小馬鹿にすることなく、何者にも礼節を以て接すること。他人に私みたいな屈辱を味わわせる真似をしたら地獄行きです」

「……映姫、あのな、」

「それでは、また会いましょう。すみませんが片付けはお願いしますね。さすがにそれくらいはできるでしょう?」

 

 本気(マジ)の映姫はもはや振り返らない。迷いのない足取りで月見の横を通過し、まっすぐに居間をあとにする。

 居間の襖が閉まった音。玄関が開き、すぐに閉まった音。空を飛んだのか、映姫の気配があっと言う間に遠ざかっていく。

 そして水月苑に仮初の平和が戻ってきて、たっぷりと十秒。

 

「……あー」

 

 怒りでも呆れでも悲しみでも寂しさでも苦しさでもないえも言われぬ感情を抱きながら、月見は真後ろに大の字になって倒れ込んだ。なんだか、見上げる天井がやけに遠くにあるような気がした。

 

「……なに考えてるんだろうなあ、あの子は」

 

 映姫は、月見のことを決して快く思っていないはずである。なのに今日一日だけで充分すぎるくらいに月見の世話を焼いて、更には暇があれば様子を見にきてやると言う。地獄を代表する閻魔王が、たった一匹の狐のために。

 そこまでして、そこまでしてでも、自分を大人だと認めさせたいのだろうか。彼女曰く性悪らしい、月見の性格を叩き直したいのだろうか。

 映姫の真意は、いまひとつ、はかりかねるところだけれど。

 とりあえずは、確実に言えることが一つ。

 

「さて……どうしたものかね」

 

 大屋敷。温泉宿。閻魔様の家庭訪問。

 一人でゆっくりできる場所がほしいという月見の当初の願望は、こうして完全崩壊と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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