銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第44話 「狐は魚で幼女を釣る」

 

 

 

 

 

 得てして、八雲紫の行動は唐突である。

 なにかをしたいと、そう思い立ったらまず行動。やったら周りにどんな影響があるのかとか、誰かの迷惑になるんじゃないかとか、そういった世間体はひとまず度外視し、自分のやりたいように気ままに行動する。北斗七星が北極星を喰うまでの時間を一瞬で求められる、などという凄すぎて逆にピンと来ない桁違いの頭脳を持っている割に、頭より先に体が動くタイプなのだ。

 よってその日も、八雲紫の行動は唐突だった。

 

「月見、月見っ! 水月苑のお池に、適当にお魚突っ込んどいたから!」

「……はあ?」

 

 なんの脈絡もない話題を、前置きなくいきなり振られるなんて日常茶飯事。スキマで水月苑にやってくるなり挨拶より早くそう叫んだ紫に、朝っぱらから一体なんなんだと、月見は眉をひそめて問い掛けた。

 

「いきなりどうしたんだい」

 

 対してスキマから上半身を出した少女は、実に楽しそうな様子ではきはきと答えるのだった。

 

「だってほら、あんなに大きなお池なんだもの。ちょっと外の世界から連れてきてみたの!」

「魚って」

 

 月見は縁側を通して、水月苑の周囲をぐるりと囲むきらびやかな池泉庭園を眺めた。遠目では特に変わった様子は見られないが、今日も今日とて朗らかな春の陽気の中、凪いだ水面の下では魚が適当に増えたという。

 

「あ、もちろん生きてるやつよ?」

「死んでたら怖いよ?」

 

 死んだ魚がぷかぷか浮かぶ水月苑の池。新手の嫌がらせだろうか。

 月見は庭から紫へ視線を戻し、

 

「また、随分といきなりだね」

「そうね、一時間くらい前にパッと思いついただけだし」

「……」

 

 ため息、

 

「それであそこの池に?」

「そうそう。ほら、幻想郷って、お魚が釣れる場所ってあんまりないじゃない」

 

 幻想郷は内陸部の山奥にあるので当然海はないし、食用になる川魚にせよ、釣れるような場所は限られている。紫が外の世界から仕入れてくるなどしない限り、食卓に並ぶ機会が多いのは圧倒的に山の幸だった。

 

「私たち幻想郷の住人は、お魚はあんまり食べないから気にしないけど。でも月見は今までずっと外で生活してたんだし、きっと食べたくなる時もあるでしょ?」

「……そうだね」

 

 そう言われて、月見はなんだか無性に魚を食べたくなってしまった。最後に食べたのは、水月苑完成記念の宴会の時。魚は、昔から川に飛び込むだけで容易に確保できる食材だったから、月見にとっては油揚げ以上に慣れ親しんだ味だ。

 

「だから、身近にお魚が釣れる場所があればいいなあと思って! ……というわけで、はいコレ! 私からの愛のプレゼントッ!」

 

 さて喜色満面の紫が一度スキマに引っ込んで取り出したのは、釣竿だった。輝かしい光沢を放つリール付きの、素人目でも安物ではないとわかるモデルがなぜか五本も。ついでにルアーケースまである。

 紫が、自信満々と胸を大きく反らして言う。

 

「釣りはよくわかんないから、適当に買ってきちゃった。でも、結構高かったからいいやつだと思うわよ!」

 

 彼女の何事も形から入ろうとする悪い癖は、こんなところでも発揮されるらしい。わざわざ高いお金を出したりしなくても、川魚を釣る程度なら木の枝と糸と針さえあれば充分だろうに。

 月見は再度ため息、

 

「……いくらだ? お金は出すから」

「え、いいわよそんなの。こんなの買ってピンチになるほど貧乏じゃないわよ、私」

「いや、そういうわけにも」

「いいのいいの、言ったでしょ愛のプレゼントだって! それじゃ私、他にもやりたいことがあるからもう行くわね! 楽しんでねー!」

「あ、おい」

 

 結局、月見が咄嗟に伸ばした右手に振り返ることもせず、紫はあっさりとスキマの中へ消えていってしまった。残されるのは、愛のプレゼントであるらしい釣り道具たちと、嵐が過ぎ去ったあとの染み入る静寂だけ。

 月見は置いていかれた釣竿たちを見下ろしながら、まったくもうと頭を掻いた。ちょっとした小さな嵐であるあの少女は、次は一体どこを騒がせに行ったのだろう。やりたいことがあると言っていたが、まあ、決してろくなことではないだろうから、無駄な仕事を増やされて胃を痛める藍の姿が容易に想像できた。

 とは、いえ。

 

「……せっかくだし、一つ、やってみようかな」

 

 くれるというのであれば、まあ。

 もし引きがよければ、今日の昼食は焼き魚にでもしてみようかと。

 そう思いながら、月見は銀色の釣竿を一本、手に取ってみるのだった。 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 釣れすぎた。

 

「……あいつ、一体どれだけの魚を突っ込んだんだか」

 

 月見が釣竿を置いて桶の中を覗き込んでみれば、横方向はもちろん、縦方向にもすし詰めになった魚たちが、劣悪極まる環境に決死のボイコットを敢行している。水月苑へ架かる太鼓橋の上で一時間ほど竿を振るってみたが、台所から持ってきた桶が二つともこの有様になったのだから、驚きを通り越して不安すら感じるというものだった。

 一体池の下では、どれほどの魚たちがひしめいているのだろう。加減を間違えた紫の手によって、ここが生け簀に変えられていなければいいのだが。

 ともあれここまで釣れすぎてしまえば一回の食事では当然使い切れないし、干物にするにしても多すぎるので、二つの桶のうちよりボイコットが激しかった方を、願い通り自然へ帰してやることにした。橋の上から落とすのは乱暴だろうから、庭の方から池の畔へ向かう。

 そうして魚たちを水の中へ解放してやっていると、ふと、橋の上がかすかに騒がしくなった。

 

「……?」

 

 太鼓橋は、別名で反橋とも呼ばれるように、橋の中央にかけて円形に反り上がっていく形を取る。故に池の畔に座って魚をリリースする月見とは高低差があり、手摺が障害物になっているのもあって、なにが起こっているのかはよくわからない。

 ただ、バシャバシャとしきりに水を叩く音が聞こえるから、取り残された魚たちが奇跡の大脱出劇でも繰り広げているのかもしれない。まあ、一匹二匹に逃げられたところで特に困りはしないので、月見はゆっくりと桶の魚たちを逃がし、のんびりと橋の上に戻る。

 と、

 

「……」

「こ、こらっ、暴れないで……えいっ、えいっ」

 

 お魚咥えたドラ猫――ではないが。

 橋の上では、どうやら化け猫であるらしい小さな女の子が、桶の中の魚たちと手に汗握る肉弾戦を繰り広げていた。

 

「っ……! っ……!」

 

 化け猫の少女が鋭い猫パンチを繰り出し、避けきれず怯んだ魚の一匹をすかさず掴みにかかる。だが魚もやられてばかりではない。むしろこの時を待っていたとばかりの渾身の馬鹿力で、右へ左へ体をくねらせ暴れ回り、驚いた少女の隙を逃さず大空へと飛翔。そのまま橋の上でべしっと一回バウンドして、あるべき世界へと自由落下していった。

 ぽちゃん。

 

「あーっ、逃げられた……! で、でもまだ大丈夫。まだまだいっぱいいるもん……!」

「……」

 

 この化け猫の少女、魚との格闘に夢中になるあまり月見には気づいていないらしい。こちらがすぐ真後ろに立っても振り返る様子はなく、緑の帽子の両脇で大きな猫耳が忙しなく震え、二又に分かれた尻尾は生き物のように躍動する。

 

「えいっ! よし、今度は上手く行っ――あー!」

「…………」

 

 ぽちゃん。

 化け猫少女は、魚捕りが下手くそだった。また魚が一匹消えていった水面を見下ろして、少女はふぬぬと悔しそうに震えた。

 

「大丈夫かー?」

 

 見かねた月見が声を掛ければ、少女はびくりとこちらを振り返ったけれど、すぐに空元気な笑顔を浮かべて、

 

「だ、大丈夫です! 次こそちゃんと捕まえてみせますからっ!」

「そっか。……頑張って」

「は、はいっ。ありがとうございます!」

 

 今度こそ、今度こそ、と念仏のように復唱して、少女が再び桶の中の魚たちと対峙する。まずは猫パンチで相手の体力を奪う作戦だ。目にも留まらぬ速度でびしびしと四連打ほど叩き込めば、狭い桶の中で魚たちが逃げられるわけもなく、直撃を食らった何匹かの動きが鈍る。

 好機と見た少女が、すぐに掬い上げようと手を伸ばす――その前に、月見は横槍を承知で口を挟んだ。

 

「待った、焦ってもいいことはないよ。掬い上げるよりも先に、まずは魚をしっかり掴むことだ。慌てないで、両手で包み込むように」

 

 出鼻を挫かれた少女は目を丸くして月見を見上げたけれど、ほどなくして月見が応援してくれていると理解したのか、嬉しそうに綻んで頷いた。

 

「はいっ、わかりました! やってみますね!」

 

 猫パンチで弱っている一匹に向けて、ゆっくりと両手を伸ばす。さっきまでのようにただ左右から挟むのではなく、上下も加えて、包み込むように。

 

「しっかり掴めたか?」

「はいっ」

「なら仕上げだ。驚かせないように、静かに持ち上げてごらん」

 

 少女が、そろそろと両手を桶から持ち上げる。魚は初め、何度か左右へ身をくねらせ抵抗したけれど、猫パンチが効いているのか力強さがない。またゆっくりと持ち上げられているため、極端に慌てて逃げ出そうとする様子もなし。結局それ以降は目立った駆け引きを繰り広げることもなく、観念するように少女の手の中に収まった。

 不安げだった少女の表情が、ぱああっと瞬く間に明るく輝いた。

 

「や、やった! やりました! 捕まえられましたっ!」

「ああ、見てたよ。おめでとう」

 

 興奮で尻尾をぱたぱたさせる少女へ、微笑んでやれば、彼女は恥ずかしそうに身を竦める。

 

「あ、ありがとうございます。私ったら、猫なのに魚を捕まえるのが下手で……」

「そうみたいだね」

「あうっ……お、お恥ずかしいです……。で、でも大丈夫です! 今回の貴方様のアドバイスで、なにかを掴めたような気がしましたっ!」

「そうか、それはなによりだよ。……それで、お前はどうしてここに?」

「あっ、そうでした。私、ここのお屋敷に住んでいらっしゃる、月見様という妖狐の方に挨拶を……しよ、う……と…………」

 

 はきはきと元気のよかった少女の言葉が、急に尻すぼみになって自然消滅した。口を半開きにしたまま、彼女の目線は月見の背後で揺れる銀の尻尾に固定されている。こちらが妖狐であることに、今になってやっと気づいたらしい。

 

「え、ええと」

 

 少女が、ひくひく震えるいびつな笑顔で月見を見上げた。表面張力が決壊するギリギリのラインで、今にも泣き出しそうに、叫び出しそうに、

 

「もしかしなくても……あなたが月見様、です……か?」

「ああ」

 

 月見は莞爾と微笑み、深く深く頷いて返した。

 

「そうだよ。――いらっしゃい、泥棒猫さん?」

「ご、ごめんなさ――――――――い!?」

 

 決壊。せっかく捕まえた魚を明後日の空に放り投げ、少女がまばたきも許さぬ高速の土下座をキメる。

 三秒間ほど空を泳いだ魚は、鱗にきらきらと太陽の光を反射させながら、ぽちゃんと池の中に落ちて消えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい本当にごめんなさい申し訳ありません」

「いや……それはもうわかったから」

 

 泥棒猫の少女は、名を橙といった。ちょうど先週末、藍がここまで挨拶にこさせると話をしていた、彼女の式神にあたる化け猫だった。藍が急かしたのか少女の性格が律儀なのか、週明けになるなり早速やってきてくれたらしい。

 こういっては失礼かもしれないが、九尾の大妖怪である藍の式神の割には、驚くほど平凡な妖怪だった。見た目は人間でいえば十歳前半の子どもで、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、紫のように少女のなりでも強大な大妖怪であったり、藍のように外見以上に成熟した人格を持っているわけではない。良い意味でも悪い意味でも、幼い見た目から受ける印象そのままに、天衣無縫で純真無垢な少女だった。だからこそ彼女は、ここで魚を見た途端に当初の目的を忘れて狩猟本能全開になっていたし、今は月見の目の前で、深々とした平謝りを繰り返している。

 ちょっとした皮肉のつもりで言った『泥棒猫』が、彼女の心を相当深いところまで抉ってしまったらしい。言うまでもなく魂魄妖夢と同じで、お人好しすぎて冗談がまったく通じないタイプである。はてさてどうしたものなのか、月見がいくら顔を上げてくれと言っても、橙は九十度のお辞儀と謝罪を決してやめようとはしなかった。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい悪気はなかったんですお魚食べたかったんですごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 幻想郷は内陸部にある世界なので、食用の魚といえばそこそこ珍しい部類に入る。釣れたて新鮮の魚でぎっしり満たされた桶は、化け猫である橙にとっては宝石箱にも見えたことだろう。

 それは月見にだってよくわかっているし、釣れた魚は、半分を池に戻してもなお、一人で食べるには多すぎるくらいだった。だから橙が魚を盗もうとしたことも、失敗して三匹ほど池に落とされてしまったことも、咎めるつもりはないのだけれど。

 

「八雲紫様、ひいては八雲藍様の式神にあたる者として、大変失礼なことしてしまいました……! 命乞いはしません、煮るなり焼くなり好きにしてください」

「……」

 

 橙の表情は至って大真面目だった。この子は、月見を一体なんだと思っているのだろう。

 ため息、

 

「お前、藍になにを吹き込まれたんだ?」

 

 機嫌を損ねると喰われるとかだろうか。もしそうだとしたら、この子の誤解を解いたのち、藍とも真剣に語り合わなければならないのだが。

 橙は頭を上げて直立不動の姿勢を取ると、上官を前にした兵隊さながらにはきはきとした口調で答える。

 

「いえ! お優しい方なので緊張する必要はない、とお見送りしてくれました!」

「ならその藍曰くお優しいらしい私は、お前を煮たり焼いたりすると思うか?」

「え……」

 

 なにが予想外だったのか、橙はくるりと目を丸くしてしばらく考えたのち、やがて気づいてはいけないことに気づいてしまったように大きく仰け反った。

 

「ま、まさか、生でガブリと!?」

「……お前、そんなに私に喰われたいのか?」

 

 なぜ、喰われるのが前提になっているのだろう。

 なんだかこのまま話し続けても無駄なような気がしたので、月見は未だ魚が暴れる桶を小脇に抱えて、水月苑の方を指差して言う。

 

「とりあえず、中に入らないかい。それにもうすぐお昼だ。たくさん釣れたんだし、少しくらいご馳走するぞ?」

「!?」

 

 橙の体に雷撃が走る。頭の先から足元まで駆け抜けた衝撃に大きくわなないた彼女は、普通のものを見るのとは明らかに違う瞳で、一心に月見を見上げて言った。

 

「ま、まさか、お目こぼしいただけるのですか!?」

「だから、最初からそう言ってるだろうに……」

 

 段々疲れてきた月見である。

 

「そうじゃなかったら、魚と格闘してるお前を見た時点で拳骨してるさ」

「で、ですがっ、だとしたら『泥棒猫』というのは……!」

「あーもう、悪かったねちょっとからかってみただけだよ。『泥棒猫』は取り消すし、煮たりも焼いたりも生で喰ったりもしないから安心してくれ」

 

 どうして自分が謝っているのかよくわからないのだが、ともかくそういうわけなので、もうこの場はお開きったらお開きなのだ。

 

「な、なんてお優しい方なんでしょう……! お目こぼしくださっただけではなく、お魚までご馳走してくださるなんて……っ!」

 

 なにやら津波のような感動に打ち震えている橙も、もう無視である。

 

「じゃあ、先に行ってるぞー」

「あっ、お待ちくださいっ! あの、どうもありがとうございます! なんとお礼を申し上げたらよいか、藍様が敬愛なさっているのがよくわかるといいますか――」

 

 後ろにひっついてくる橙の感動の言葉を半分くらい聞き流しながら、月見はやれやれとため息をついて思う。

 八雲紫の式神である八雲藍の式神、橙。

 主人たちとはまた別の意味で、癖のある少女だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 釣った魚は、わざわざ厨房で捌く気分でもなかったので、素焼きにすることにした。くべた薪に狐火で火をつけ、魚を通した串を何本か、近くに突き立てておく。狐火で直接一気に焼くという手もあったが、橙と少し話をしたかったので、ゆっくり焼いた方が都合がよかった。

 橙は、焚き火の近くで両膝を折って、魚が焼けていく様をきらきらした目で観察していた。二又に分かれた尻尾が、メトロノームのようにリズミカルに揺れている。かすかに鼻歌が聞こえるので、どうやら相当上機嫌らしい。

 その様子を水月苑の縁側で眺めながら、月見は橙の背へ問い掛ける。

 

「橙、ちょっといいか?」

「あ、はい! なんでしょう!」

 

 機敏な動きで振り返った彼女に、自分の隣を手で叩いて促す。

 

「ちょっと話を聞きたいことがあるから、付き合ってくれるかな」

「私でわかることならなんなりと!」

 

 快活な笑顔で頷いた橙が、小走りで駆け寄ってきて月見の隣に腰を下ろす。両脚がぴったり揃えられ、両手が膝の上に据えられ、背筋が地面と綺麗な垂直を成すという、見ていて違和感があるくらいに仰々しい座り方だった。

 苦笑。

 

「別に、そんなに畏まらなくても。楽にしてくれていいよ?」

「いえいえ、お気遣いなく」

 

 さて、月見が訊きたいこととはこれである。橙の月見に対する態度が、初対面であるにしても不自然なくらいに堅苦しい。決して自惚れではなく、どうやら橙の頭の中では、月見は相当な格上として認識されているようだ。

 確かに数千年を生きた月見と、普通の範囲を抜け切らない化け猫とでは、彼我の格に大きな隔たりがあるのは事実であろう。しかしその違いを、橙が潜在的な力で見抜いたかどうかは疑わしい。むしろ、紫と藍から変なことを吹き込まれたと考えるのが妥当だった。

 

「私のこと、紫や藍からはなんて聞いてた?」

 

 問えば、橙は、そうですね、と少し考えてから、

 

「すごーい大妖怪であることは聞かされてます。一番昔から、藍様よりも長く生きていらっしゃる妖狐なんですよね?」

「多分だけどね。私より昔から生きてる狐は聞いたことがないから」

 

 出だしは普通だった。いきなり事実無根の作り話が飛び出てくるんじゃないかと心配していただけに、少し安心した。

 

「あっ、そういえば、尻尾が十一本もあるそうなんですよね! 見せていただいていいですか?」

「ああ、いいよ」

 

 自分から見せびらかす真似こそしないが、特別ひた隠しているわけでもない。

 月見が尻尾を十一に戻すと、縁側いっぱいに広がった銀の絨毯に、橙は顔中を輝かせながら感嘆の声を上げた。

 

「わあああっ! すごいです、藍様に負けず劣らずのもふもふですっ! あの、触っても大丈夫でしょうか!」

「ご自由に」

「ありがとうございます!」

 

 猫じゃらしにじゃれつくようにもふもふし始めた橙へ、続きを促す。

 

「それで、他には?」

「あ、はい。そうですね、あとは――」

 

 尻尾を両手で触ったり持ち上げたりする橙の話は、意外や意外、月見の心配が杞憂になるほど事実に即したものだった。紫との出会い、藍との出会い、そして今に至るまで。時折やや誇張したような表現も見られたけれど、口を挟むほどではない。これは、紫たちに対して不信感を抱いていた己を恥じなければならないだろう。

 

「あ、それと紫様が、私と将来を誓い合った仲だって」

「よし、紫はあとで狐火だな」

 

 訂正、やっぱり紫は紫だった。

 どこからか紫の抗議の声が聞こえてきた気がしたが、空耳に違いない。

 

「月見様と藍様が出会った頃のお話も、ちょっとだけですけど聞きました。ただ、詳しくお話していただく前に、紫様が藍様にボコボコにされてしまって……」

 

 藍、お前。

 

「……懐かしいねえ。あいつ最初は、私を格下の狐だと思って強めに出てたっけ」

「藍様の黒歴史なんですってね」

 

 藍にタメ口を利かれていたのは、今も昔もあの時だけだ。月見が十一尾だと知ったあと、顔を真っ青にして土下座してきた藍の姿は、今でも自分のことみたいにおもしろおかしく思い出せる。……せっかく思い出したのだし、今度藍と酒を呑む機会でもあったら、これをネタにからかってみても面白いかもしれない。多分、喉を掻きむしりながら発狂してくれるだろう。

 などと考えながら、パチパチと音を立てて焼けていく魚を眺め、吐息。

 

「しかしまあ、安心したよ。変なことばっかり吹き込まれてるんじゃないかと心配してたんだ」

「そうなんですか」

「藍は私のことを過大評価しすぎてるし、紫はバカだしね」

 

 ねえバカってひどくない!? と紫の悲痛な叫びが聞こえた気がするが、空耳のはずである。

 

「でも私は、藍様たちが月見様をお慕いしているのも、わかりますよ」

「ほう、例えばどのあたりが?」

 

 興味本位で訊いてみれば、橙は横から月見を見上げて、春風みたいに柔らかく微笑んだ。

 

「私ってちょっと人見知りで、誰かとお話するのって、あんまり得意じゃないんですけど……でも、月見様とのお話は緊張しませんし、不思議と安心します」

 

 はにかみ、

 

「……なんだか、お父さんと話をしてるみたい、です」

「……」

 

 虚を衝かれた月見は少しの間目を丸くして、それから吹き出すように笑った。

 

「お父さんか。それじゃあそのうち、『こっち来ないで!』とか、『ウザいから視界に入らないでよ!』とかいう反抗期がやってくるのかな」

「やってきませんよ!?」

 

 冗談はさておき。

 

「そろそろ、いい匂いがしてきたね」

「あ、そうですね」

 

 焚き火の方から、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。遠目ながら、魚の表面がこんがりと色づいてきているのがわかる。

 

「もう食べられますかねっ?」

「さて、もう少しじゃないか?」

 

 橙が待ち切れない様子で尋ねてくるけれど、そんなに長話をしたわけでもないので、まだ肉は生焼けだろう。月見も橙も、生魚を美味しくいただける妖怪の身ではあるが、やはり一度焼いたからにはじっくり行きたいところだ。

 

「ちょっと、具合を見てきますね!」

 

 次第に強さを増す美味しそうな匂いに負けて、橙が腰を上げて焚き火に駆け寄ろうとする。

 しかし元気よく一歩目が踏み出されたところで――月見と橙は、『それ』を見た。

 

「ん?」

「え?」

 

『それ』はまさしく、黒の球体、としか表現のしようがない物体だった。正体は不明だが、ちょうど橙くらいの子どもが立って入れる程度の、黒いボールのようななにかが、橋の向こうからふよふよとこちらへ漂ってきていた。

 

「なんだ、あれ」

「さあ……?」

 

 尻尾を一本へと戻しながら、月見は眉を寄せてその球体を観察する。空を飛んでいるから、ボールではないだろう。加えて、大して風もない中を横方向に移動しているので、風船の類とも思えない。

 それは月見の目線あたりの高さで浮かび、蛇の体を描くように揺れ動きながら、焚き火の近くまで来たところで動きを止めた。

 

「?」

「??」

 

 月見と橙が揃って首を傾げて不思議がっていると、突如として球体の中から伸びてきた華奢な腕が二本、突き立ててあった魚の串を鮮やかにかっさらっていった。あ、と橙が小さく声をもらす。魚はそのまま球体の中に呑み込まれ、しばらくするとむしゃむしゃむしゃとなにやら絶賛お食事中らしい音。ついでに、「あつつ……うわ、なにこれまだ生焼けじゃん。まあいいや、久し振りのお魚美味しい……♪」となにやら少女の幸せそうな声まで聞こえてくる。

 よくわからないが、どうやらあの球体の中には誰かがいて、魚を現在進行形で盗み食いしているらしい。

 ……盗み食い。

 

「……」

 

 月見は隣の橙を盗み見た。橙は、案の定というべきか、ハイライトの消えた虚ろな目で黒の球体をじっと見つめていた。絶望に叩き落とされた無辜(むこ)なる者が、ダークサイドに染まった時の顔だった。

 

「黒い球体から出てくる腕……そうか、あいつがあの常闇の……」

 

 ああ、鈴を転がすようだった橙のかわいらしい声が、呪詛を呟く祈祷師のような恐ろしい低音に。

 月見を見て、橙は黒いオーラであふれる笑顔を咲かす。

 

「月見様。申し訳ないですけど、少しお時間をいただいても大丈夫ですか?」

「……大丈夫だけど」

 

 その声はすっかりいつもの調子に戻っていたが、笑顔には、ダメとは言わせない計り知れぬ凄みがあった。

 

「ありがとうございます。では、ちょっと失礼して」

 

 軽く会釈をした橙は、黒い笑顔のまま縁側を離れて、未だお食事中の音がもれる球体の方へ歩いていく。球体は食事に夢中になっているため、その場でふよふよ浮かんだまま逃げる様子がない。

 球体を真正面に捉えた橙はまぶたを下ろし、大きく深呼吸をして。

 一息、

 

「ふか――――――――ッ!!」

「ふにゃああああああああああ!?」

 

 尻尾の毛を剣山刀樹さながらに逆立て、球体の中へと果敢に突撃していった。瞬く間に球体から轟く、少女の悲鳴。

 橙の体が溶け込むように黒の中へと消えたので、どうやらあの球体は、影かなにかでできているようだったけれど。

 

「ふしゃ――――――――ッ!!」

「いたたたたた!? ちょっ、待って、いたっ、やめっ――にゃああああああああああ!?」

 

 橙渾身の獅子吼、少女の悲鳴、そしてバリバリバリバリとなにかを引っ掻き回す音を聞いていたら、球体の正体がなにかなんて些細な問題であるような気がして。

 とりあえず月見は、傍に置いておいた予備の魚にせっせと串を通し始めるのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ぐすっ……すびまぜんでじだっ……えぐっ、お魚食べて、ごめんなざいっ……」

「……」

 

 縁側に座った月見の目の前で、金髪に赤リボンの女の子がベソをかきながら正座している。月見はどう言葉を掛けてやるべきか悩み、橙は頬をぷっくり膨らませてそっぽを向いている。

 あのあと橙による怒りの乱れ引っ掻き攻撃がしばらく続いて、やがて影に光が差すように消滅した黒球から、涙目になりながら落ちてきたのがこの少女だった。見た目は橙よりも更に一回り幼く、人間でいえば十歳に届くかどうか。もともとは白のブラウスと黒のスカートで可愛らしく着飾っていたのだろうが、いかんせん橙に散々引っ掻かれたせいでどちらもズタボロになっていて、オマケに腕や顔のあちこちにも赤い線が走っているので、なんとも惨めったらしい。

 橙曰く、幻想郷では『常闇の妖怪』の二つ名で知られている、ちょっとした妖怪らしい。ただし強大な力を持っているわけではなくて、例の球体に入ってふよふよ漂う移動手段がなんともユニークなので、一時期妖怪たちの間で話題になった、といった程度の意味合いだ。『闇を操る程度の能力』を持つ闇の妖怪である彼女は、昼間のうちはそうやって日光を遮断しておかないと、目に見えて弱体化してしまうのだとか。

 名を、ルーミア。

 

「許じでくだざいぃぃっ……お魚、とっでもおいじぞうで、づいっ……」

 

 痛々しい涙声で、土下座をするようなルーミアの謝罪。目の前でご馳走を奪われた橙はまったく取り合う様子がないので、とりあえず、月見が代わって話をすることにする。

 

「そんなにお腹が空いてたのか?」

 

 鼻をずびずび言わせながら、ルーミアは何度も頷いた。

 

「うんっ……このどごろ、あんまりご飯食べでなぐでっ……!」

「それはまた、どうして」

「今がら一週間ぐらい前にっ、人間を、食べようどしだんだげどっ……! その時に、変な炎の術でっ、追い返ざれでっ……!」

「……ん?」

 

 月見は眉をひそめた。なんだろうか。今のルーミアの話、なにか引っ掛かるものがあるような。

 

「ぞれ以来、夜の狩りが上手ぐ行がなくなっぢゃっで……! でも昼間は力が出なぐでなにもでぎないし、そじだら、木の実とかじが食べるものがなぐでっ……!」

 

 人間を食べようとした。炎の術で追い返された。とても引っ掛かる。なんだったろうか。

 一週間前といえば、月見が幻想郷に戻ってきてまだ間もなく、大体紅魔館か人里あたりを歩いていた頃で――

 

(――あ)

 

 思い出した。ここに戻ってきて初めて足を踏み入れた人里で、月見は迷子になった里の少女を捜すため、慧音とともに外の森に分け入って。そしてその帰り道にて、一匹の妖怪を、狐火を使って追い払っていた。

 

『あ、こんなところに人間だー♪ ねえねえ、あなたたちは食べてもいい人』

『はい、狐火』

『みぎゃー!? あ、あっついよー!?』

 

 ――あの時はあたりが既に暗くなっていたため、人形(ひとがた)による防御線を展開し、近づいてきた妖怪を無条件で焼き払うようにしていた。故に相手の姿は見ていないのだが、よくよく思い出してみれば、なるほど声が目の前の少女とよく似ていた気がする。

 

「でも木の実なんがじゃお腹は膨れなぐでっ、すごぐお腹空いて、ああもう私死んじゃうのかなっで思っで、そじだらここからすごく美味しそうな匂いがしでっ、我慢でぎなぐでぇっ……!」

「……、」

 

 月見は心の中で冷や汗をかき始めた。もしかして、もしかしなくても、ルーミアを空腹に苛ませ、魚を盗み食いしてしまうほどに追い詰めてしまった原因は――

 月見は引きつった愛想笑いをしながら、

 

「……ええと、まあ、なんだ。災難だったな?」

「うんっ……! 本当に辛がっだ……!」

 

 ルーミアに涙をボロボロ流しながら頷かれて、冷や汗の量がダラダラ増した。もちろん狐火を撃ったことに後悔はないし、客観的に見て非もないだろう。あの時の月見は、慧音と里の少女を守らなければならなかったのだから。

 だが、まさかあの一撃――正確にいえば二撃――がここまでルーミアを苦しめていたとは、彼女の幼い外見も相まって、罪悪感が心に迸るようだった。

 やっべー、と月見は思う。

 

「それで月見様、この子、どうしますか?」

「そ、そうだね」

 

 不機嫌そうな橙にそう問われて、珍しくどもってしまった。普通であれば、食事を盗まれたのだし、説教なりなんなりなにかしら罰を与えるべき場面なのだろう。少なくとも橙の瞳は、そうするべきだと強く月見に訴えてきている。

 けれど、

 

「ごめんなざいぃぃ……っ! 許じでくだざい、食べないでくだざいいいぃぃ……!」

 

 慧音たちを守るためとはいえ、あの時ルーミアに狐火を放ち、結果彼女をここまで泣かせる根本的な原因となったのは自分だ。そんな自分が、目の前でずびずび大泣きしている彼女に更に罰を与えるなど、まるで鬼畜の所業ではないか。

 というか、橙もそうなのだがなぜこの子も、自分が食べられるのを前提にしているのだろう。月見はそんなに、妖怪をむしゃむしゃ食べそうな見た目をしているのだろうか。ちょっと傷つく。

 どうするべきかと珍しく焦りながら考えていると、ふと、焚き火の方から魚の焼ける香ばしい匂いが漂ってくるのに気づいた。橙が怒りの乱れ引っ掻きを炸裂させる間に刺しておいた予備の分が、段々と焼き上がってきたらしい。

 くう、とルーミアのお腹がかわいらしく鳴る。慌ててお腹を押さえ「違うの違うの私はもうお腹空いでないがらもっと食べだいなんで欠片も思っでないから許じでえええええ」と命乞いを加速させる憐れなルーミアに、月見は、今の自分にできる精一杯の微笑みで。

 

「なに、もともとたくさん釣れて一人じゃ食べ切れなかったんだ。別に気にしちゃいないよ」

 

 呆けたように動きを止めたルーミアが、ぐずっと大きく鼻をすする。月見は続ける。

 

「なんだったら一緒に食べるか? みんなで食べた方が美味しいよ。橙もいいだろう?」

「私は、月見様が許すのであればそれに従いますよ」

 

 てっきり嫌がられるかと思ったが、橙の返事は素直だった。頷き、それから気まずそうに顔を背けた彼女は、両手の人差し指同士をつんつんして、

 

「その、私はあまり、偉いこと言える立場でもないので……」

 

 確かに、未遂ではあるが彼女も魚を盗もうとした身。決定権は月見にある、ということだろう。

 

「それじゃあ決定だ。……ルーミア。もうすぐ中まで焼けるだろうし、今度は一緒に食べようじゃないか」

「……ぅえっ、」

 

 ルーミアが、飛び跳ねるように大きくしゃっくりをした。目元になみなみ溜まっていた大量の涙が、一気に決壊し、滂沱となってこぼれ落ちた。この一週間の辛み苦しみをすべて凝縮して、体の中から吐き出すように。

 

「うええええええええっ……!! ありがどう、ありがどうぅぅ~~~~……!!」

「あー、はいはい。よしよし……」

 

 泣きじゃくりながらお腹あたりに抱きついてきたルーミアを、優しく受け止めて慰めてやる。……そうでもしないと、罪悪感に押し潰されて干物になりそうだった。

 

「ここの池には魚がいっぱいいるから、食べたくなったらおいで。釣竿もあるし、好きに釣ってくれていいから」

「うん……!! う゛んっ……!!」

「お優しいですねえ、月見様」

「……ハッハッハ、そうかな」

 

 笑い声が完全に干涸らびている。

 ――私は今、上手く笑えているだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのあとは三人で一緒に魚を食べ、ルーミアのお腹がいっぱいになったところでご馳走様となった。どうやら半端なく飢えていたようで、ルーミアは月見が釣った十匹以上の魚をほとんど一人で平らげてしまった。魚を一口食べては本当に幸せそうに笑う彼女を見て、橙はニコニコともらい笑いをし、月見はズキズキと良心を痛めた。

 そして、お腹がいっぱいになったあとは。

 

「くう……すう……」

「すう……ん、ゆ……」

 

 お腹がいっぱいになったあとは、縁側でそのままお昼寝の時間だった。縁側に伸ばされた月見の尻尾を枕にして、橙とルーミアが二人仲良く、花びらが揺れるように安らかな寝息を立てている。食べ物の恨みから始まった関係とはいえ、それでも一度ともに食卓を囲んだからなのか、二人はもうすっかり仲良しさんになっていた。

 一方で身動きが取れない月見は、事前に持ってきた本を手元で広げて暇潰しだ。

 結局ルーミアは、月見を命の恩人として認識したらしかった。お腹を空かせ行き倒れる寸前だった彼女にとって、快くたくさんの魚を恵んだ月見は、冗談抜きで仏様かなにかに見えたらしい。終いには月見を「お狐様」などと呼び奉る始末だったので、月見はそのうち稲荷神にでもなってしまうかもしれない。

 ああ、心が痛い。お陰様で、せっかくの読書にいつまで経っても集中できない。

 

「……おや」

 

 と、ふと本から顔を上げた月見は、水月苑と外とをつなぐ太鼓橋の袂に、今となっては見慣れた濃い藍色の帽子を見つけた。……どうやら今日は、水月苑営業開始以来初となる、閻魔様の抜き打ち家庭訪問の日だったらしい。水月苑を前に堂々と仁王立ちし、凛と引き締められた面持ちには、今日こそあの性悪狐を改心させてやるんですからね! という傍迷惑な意気込みがありありと浮き出ている。ただでさえルーミアと出会って精神が擦り切れているというのに、そこに閻魔様の追い打ちとは、今日は厄日かなにかだろうか。近いうちに、雛に厄を引き取ってもらう必要があるかもしれない。

 勇み足で玄関に向かおうとする四季映姫は、途中で縁側に月見の姿を見つけ、はっと表情を変えた。

 

「あ、見つけましたよ! さあ、私の言いつけ通りの生活をしていたかどうか、確かめてあげますからね!」

 

 石畳を直角に曲がり、飛石の上を跳ねるようにやってきた元気な閻魔様に、とりあえず月見はそっと人差し指を立てて言う。

 

「しー。悪いけど、今はちょっと静かにしてやってくれ」

「? ……ああ、なるほど」

 

 月見の尻尾で眠る二人に気づいた映姫は、コホンと咳払いをしてから声のトーンを落とした。

 

「これは失礼しました。……しかし、なんであなたのところでこんなにかわいらしい子が寝てるんですか。吐きなさい、籠絡してなにをするつもりだったんですか」

「……なにをするつもりもないし、なにもしてないよ」

 

 籠絡という言葉を否定できないのが辛い。いや、あくまで結果論の話で、やろうと思ってやったわけではないのだけれど。

 それから月見は、本を畳んで。

 

「……なあ、映姫」

「なんですか?」

 

 明後日の空を眺め、目を細める。小鳥がさえずる春の柔らかな陽気の中で、太陽の光が、今日はやけに心に沁みるような気がした。

 呟きは、ため息のように。

 

「……因果って、怖いな」

「……??」

 

 映姫は初めきょとんと首を傾げていたが、やがて、月見が因果で厄介な目に遭ったのだと気づいたようで。

「それ見たことですか! 私の説教を素直に聞かないのが悪いんですよっ!」とのありがたい御言葉に、月見のメンタルは間もなくゼロを振り切り、悟りの境地へと至ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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