その日、朝の時間を使って家の簡単な雑事を終えた月見は、太陽がややも高くなった頃になって、ある場所へ出掛けようと身支度を整えていた。一人暮らしには広すぎる水月苑での生活や、慣れない温泉宿のやり繰りに時間を取られ、今まで思うように遠出する機会を作れないでいたけれど、それも今日までである。
今日は温泉の開放日ではないし、掃除はこのあいだ咲夜に手伝ってもらってあらかた終えたし、地底から自称通い妻がやってくることも、お腹を空かせた闇妖怪が魚をせがみにやってくることもない。故に今日は、以前から気に掛けていた『あの場所』へと足を向ける絶好のチャンスだった。
広い屋敷の戸締まりを、数分掛けて粛々と終え、いよいよ月見は玄関を外へとくぐる。そして、太陽に背を向けながら戸をきちんと閉めた、
「あっ……つ、月見さんっ」
「ん?」
ところでふいに掛けられる、聞き馴染みのある声。振り向き見れば、
「おや……美鈴か」
「お、おはようございます」
紅魔館にて健気に門番を務めるチャイナ娘、紅美鈴が、絶望の底へ転がり落ちる一歩手前みたいな顔をして立ち尽くしていた。
「……どうした?」
なにやらただならぬ空気を感じて月見が問えば、美鈴は動揺する心をひた隠すように、下手くそな愛想笑いを浮かべて口を開いた。
恐る恐る、
「あ、あのっ……もしかしてこれから、お出掛けですか?」
「そうだけど……」
春も間もなく後半に差しかかるこの時期に、半袖で寒いということはなかろうに、美鈴の体はなぜかカタカタと震え始めていた。
「も、戻りは、何時頃になりますか?」
「どうかな……特に決めてはいないけど、そうだね」
なんだか美鈴が泣き出しそうになっているのが気になるけれど、まずは質問に答えるべきだろうと月見は思い、今回の目的から考えて単純に、
「まあ、夜が更ける頃までには」
「うわあああああ――――ん!!」
告げた瞬間、絶叫した美鈴が涙を振りまきながら崩れ落ちた。
「ど、どうした?」
両手と両膝を地面について、歯車の狂った絡繰人形みたいに虚ろな表情でカタカタしている。
「うふふふふふ……そうですか、夜までお出掛けですか。そうですよね、月見さんもお暇じゃないですものね。いやいやいいんですよ、月見さんのお時間なんですから月見さんの自由に使うべきだと思います。こんなのはただ事前に月見さんの予定を確認しなかった私が悪いのであって、ああもうそうじゃないどうして月見さんがいるって確かめてから休みをもらわなかったのよ私のバカアアァァ……」
ひどい哀愁に満ちた言葉の羅列から、月見は美鈴がここにやってきた理由を推測する。とりあえず、日々紅魔館の門番に勤しむ彼女が、珍しく休みをもらってきたらしいことはわかる。そして、月見になにかしら用があったらしいことも。
ではその用とは一体なにかと考え、はたと気づく。
そういえば美鈴は、門番の仕事が忙しいからなのか、今まで一度も温泉に入りに来たことがない。
「ぉんせんー……」
ビンゴだった。温泉に入りたくとも仕事のせいで入れない日々が続き、今日になってようやく休みをもらえたので喜んでやってきたものの、月見が用事で外出するためダメだった――となれば、その絶望はいかなるものや。涙を振りまき崩れ落ちるのも頷ける。
ふむ、と月見は腕を組んで、
「休みは今日一日だけか?」
「そうなんですっ……夜も夜で、ちょっと別件で用事が入ってまして……!」
「わかった。じゃあ、今日はお前に付き合うよ」
「そ、そうですよね。大丈夫です、紅魔館のお風呂に入浴剤を入れて温泉ごっこするのでって、え!? あっ、あああっあのっ、今なんて言いました!?」
美鈴が驚愕の表情で月見の裾にしがみついた。絶望が満ちた地獄の中で、星が煌めくような、一筋の希望を見つけ出した目をしていた。
しがみつかれる重さを感じながら、月見は繰り返す。
「だから、今日はお前に付き合うよ。別に急ぎの用事でもないし、また明日にするさ」
もちろん、明日になれば地底から自称通い妻がやってくるかもしれないし、腹ペコになった闇妖怪が魚釣りに来るかもしれないし、妖怪の賢者やかぐや姫が押しかけてくるかもしれないし、説教好きな閻魔様が抜き打ち家庭訪問を仕掛けてくるかもしれない以上、今日用事を済ませられるのであればそれに越したことはない。
しかしだからといって、ここで美鈴の切なる願いを無下に切り捨てるなど、どうしてできよう。きっとこのまま温泉に入れなかったら、美鈴は紅魔館の浴槽にお湯をなみなみと張って、入浴剤を何袋も贅沢に突っ込んで、虚ろな瞳で鼻歌を歌いながら温泉ごっこをするのだろう。それはちょっと――いや、かなり哀れである。
なので月見は、裾にしがみつく美鈴の肩を叩きながら。
「温泉だけといわず、ゆっくりしていくといいよ。今日はお前の貸し切りだ」
「……つ、月見さあんっ……!!」
ぶわわっ、と美鈴の目元から熱い涙があふれだす。悲しみではない別の感情にふるふると震えた彼女は、地の底から間欠泉が吹き上がってくるように長い
「――月見さあああああん!! ありがとうございます、ありがとうございますうううううううう!!」
「おっと」
がっちりと腰に飛びつかれて、危うく押し倒されそうになった。
「いいんですか!? 本当にいいんですか!? ああ、これはもうなんとお礼を言えばいいか!」
お腹のあたりから月見を見上げる美鈴の瞳は、フランにも負けないくらいの無邪気で眩しい輝きに満ちている。どうやら、温泉に入れるのが天へ突き抜けるほどに嬉しいらしい。こうして異性にぎゅうぎゅう抱きつくのもお構いなしだ。
その大袈裟すぎる勢いに、月見は若干仰け反りながら、
「本当だって。だから離れてくれるかい」
これがフランのように小さな子や、紫や藤千代のように特別親しい相手であれば、取り立てて動揺することもなかったろう。けれど美鈴はまだ知り合ってからひと月にも満たない相手であり、ついでにいえばそれなりに恵まれた体つきをしている女性なので、詰まるところさっきから月見の腿を挟み込んでいる妙に柔らかい二つの物体が否が応でも
「ガッ」
その時、月見の前髪を掠めるように落ちてきた一冊の本が、そのまま美鈴の額を直撃した。辞書さながらぶ厚い魔導書の、しかも金具で武装された角の部分だった。もはや凶器とも呼ぶべきそれに額を強襲された美鈴は、月見の腰からずり落ち、両手で患部を押さえてふおおおと呻いていた。
魔導書といえば。
「おや、パチュリー」
「……おはよう」
上を見れば、案の定パチュリーが降りてきたところであった。青空で元気に輝く太陽とは対照的な無表情と、同じく感情が浮かばない、起き抜けのようにぼんやりとした瞳。地面まで届きそうなほど裾の長い衣服が、さざなみみたいにふよふよ漂う。
地にゆっくり両足をつけた彼女は魔導書を回収すると、未だ悶え苦しんでいる美鈴を見下ろして、ようやくその瞳に冷ややかな感情を宿した。
「……まったく、なにやってるのよあなたは」
「えっ、それパチュリー様が言うんですか!? 魔導書落としたのって絶対わざとですよね!?」
「ええ」
「二つ返事で頷かれたっ! わかってましたけどっ、わかってましたけどもっ!」
美鈴が額の痛みとは別の痛みでさめざめ涙を流すも、パチュリーはまったく動じない。
「でも、もし私じゃなくて咲夜だったら、おでこが赤くなる程度じゃ済まなかったでしょうね」
「……、」
「咲夜から頼まれたのよ。あなたが月見に変なことしないように、監視してほしいって。それであとから報告してほしいって」
「べ、別になにも変なことなんてしてないですよ!」
「そう。……じゃあ、さっき月見に抱きついてたのは、なにもおかしくない普通のことって報告して大丈夫ね?」
「ごめんなさいごめんなさい変なことしましただからお願いですので見なかったことにしてくださいまだ死にたくないですすみませんでした」
顔を真っ青にしながらパチュリーに平謝りする、あいかわらず地位の低い美鈴はさておき。
「外で会うのは初めてだね」
「そうね」
『動かない大図書館』という二つ名の通り、パチュリーは一日の大半を大図書館で本とともに過ごし、滅多なことでは太陽の下を歩かない少女だ。こうして外で話をするのも、無論、初めてとなる。
パチュリーは水月苑を仰いで感心したようにため息をつき、それから周囲の庭を眺めて、「……悪くない場所ね」と小声で呟いた。
「紅魔館から眺めたことはあったけど、こうして見てみると随分なところなのね」
「まあ……みんなのお陰というかみんなのせいというかね」
こうして水月苑に腰を据えてからは、大図書館へ本を借りに行く機会も増えたので、パチュリーという少女の人柄が少しずつわかるようになってきていた。遺伝子の底まで魔術に支配されたような少女で、殊に魔術が関わった場合の集中力は凄まじく、研究中は食事も睡眠もロクに摂らないほど。お洒落だとかなんだとかいう女の子らしい話題にはまるで無頓着で、着るものなんて体さえ隠せればそれでいい。研究中は服を替えないのはもちろん、シャワーすら浴びないのも珍しくはない。
けれど最近は、ちょっとずつ人目を気にして、身嗜みを意識するようになってきているのだと――そう楽しげに語ってくれたのは、小悪魔だった。
パチュリーの髪からは、ほのかにシャンプーの香りがする。衣服からは、洗いたての洗剤の。どうやら水月苑にやってくるにあたって、身嗜みを一新してきたらしい。
パチュリーがなぜ身嗜みを気にするに至ったか、そのあたりの理由は小悪魔からこっそりと教えられた。もちろんあの時は、魔理沙は弾幕を撃ってくるわパチュリーは発作を起こすわで忙しかったため、パチュリーからどんなにおいがしていたのかなんて、まったく覚えていないけれど。
でも、それを教訓にしてちゃんとシャワーを浴びてから水月苑にやってくるあたり、やはりパチュリーも、女の子なのだった。
「パチュリーも、温泉に入っていくか?」
美鈴同様、パチュリーもまだ温泉に入ったことはなかったはずだ。
「いいかしら? 予定があるならいいわよ、このまま中国の首根っこ引っ掴んで帰るから」
美鈴の肩がビクンと跳ねたのは、とりあえず見なかったことにしておく。
「私は構わないよ。……美鈴、貸し切りの話はなしになりそうだけど大丈夫か?」
問えば美鈴は真顔で、
「ここで私にダメと言える権利はないと思います」
「無難な判断ね」
「咲夜さんの名前を出されたら、もうどうしようもないじゃないですかぁ~……」
一応は美鈴も月見と同じ妖怪のはずなのだが、まさに平伏叩頭、ここまで人間を恐れているのも珍しい。……ひょっとすると咲夜は、紅魔館の裏の支配者なのかもしれない。咲夜がいなくなると紅魔館の家事が機能しなくなるという意味では、特に。
「まあ、ゆっくりしていくといいさ。どうぞ、いらっしゃい」
「あっ、月見さん……その前に、一ついいですか?」
鍵を掛けてからまだ間もない玄関を開けようと、回れ右をしたところで、背中に美鈴の声が掛かる。
なんだいと月見が背中越しで振り返れば、美鈴は白い歯を見せる無邪気な笑顔で、力こぶをつくるように右腕を曲げて。
「月見さん、腕っ節に自信はあります?」
「……うん?」
その言葉を聞いて、また始まった、とパチュリーが呆れながらため息をついていた。
○
紅美鈴は武術を嗜む。
彼女は主に妖精の襲撃から紅魔館を守る門番だが、無論、日がな一日直立不動で突っ立っているわけではない。襲撃のある日とない日でいえば後者が圧倒的に多いので、時には門を離れて休憩し、自分の好きなことに時間を使ったりもする。
そんな時に打ち込む趣味の一つが、紅魔館の花壇のお世話であり。
そしてもう一つが、武術。
もっとも武術は、花壇の世話とは違って、趣味の範疇に収まるものではないけれど。
「いやー、ありがとうございます月見さん。こんなお願いまで聞いてもらっちゃって」
「構わないよ。たまには本格的な運動もいいだろうさ」
武術を嗜む美鈴は、誰かと組手をするのもまた好む。十メートルほどの距離を開け、軽い準備運動をしながら月見と向かい合った美鈴の瞳は、遠目からでもはっきり見て取れるほどの高揚で輝いていた。滅多に巡り合えない大妖怪との組手の機会に、彼女の武術家としての血が、早くも騒ぎ出しているようだった。
水月苑からややも離れたところにある、あつらえ向きに開けた森の中だ。準備運動をしている二人をよそに、パチュリーは適当な木陰に腰を下ろし、春のまどろみの中であくびを噛み殺した。
「パチュリー様ー、ちゃんと見ててくださいねー」
「はいはい、わかってるわよ」
毎日を本に囲まれて過ごす生粋の文系であるパチュリーが、美鈴から審判役を頼まれたのは必然だったろう。武術にはてんで縁がないし、そうでなくとも体が弱い自分に、組手のような荒事なんてできるはずもない。まさしく、木陰に座ってのんびり二人を見守っているのが分相応だ。
「そろそろ白星を取れるといいわねえ」
「頑張ります! ……あ、だからって手加減はしないでくださいね月見さん! いや、本気で来られても困るんですけど!」
どっちなのよ、とパチュリーは心の中で笑う。けれど、言わんとしているところはなんとなく理解できた。『戦い』としては本気を出さず、『組手』としては手加減をしないでほしい、という意味だろう。月見はあのレミリアをもねじ伏せた大妖怪なのだから、本気を出されてしまえば勝ち目などあるはずがない。
美鈴が大妖怪相手に組手を申し込むのは今に始まったことではないが、対戦成績は未だ黒星ばかりだった。同じ屋根で暮らす同胞として擁護しておけば、決して美鈴が弱いわけではない。むしろ、長年の武術の修行で培われた戦いの技術は、紅魔館はもちろん幻想郷規模で見ても頭一つ飛び抜けている。それこそ、大妖怪にだって引けを取らないほどに。
なのに大妖怪と呼ばれる連中は皆、美鈴が武器とする『技術』を、純粋な『力』一つでねじ伏せてしまう。柔よく剛を制す、なんて言葉はあるけれど、剛があまりに桁違いになってしまえば、柔はあっと言う間に捻り潰されてしまう。伊吹萃香や風見幽香と組手をした時は、初めこそ美鈴が優勢だったものの、最終的にたった一撃の拳に涙を飲まされた。
さて、今回はどうだろうか。パチュリーの見立てでは、月見は妖術を使った遠距離戦も、肉体に頼った接近戦もこなせるオールラウンダーだ。狐なら妖術を得意としないはずがないし、一方でその尻尾の一撃は、レミリアを容易く戦闘不能に追いやるほど。いくら組手とて、美鈴の勝機は薄かろう。
付け入る隙があるとすれば、月見の性格。彼はフランが底なしに懐いている通り、妖怪とは思えないほど穏やかな性格をしているから、どこぞのバトルジャンキーたちとは違ってしっかり手加減をするはずだ。
故に、本気を出される前に一気に押し切ってしまえば、或いは。
「……それじゃあ、先に有効打を入れた方が勝ちってことで」
「了解」
一本勝負であれば、美鈴にも充分勝機がある。それにさっきから春の陽気のせいで眠いので、さっさと終わらせてもらわないと船を漕ぎかねないパチュリーだった。
月見は特に気負った様子もなく、「こういうことをするのも久し振りだねえ」なんて呑気に独り言を呟いていた。美鈴が武術独特の呼吸法で集中力を高める一方で、彼はあくまで自然体のまま、肩を回したり、手を握って開いたり。
傍目から見れば油断大敵もいいところだけれど、大妖怪というのはみんなこうなのだ。構えがない。過去に美鈴が組手を申し込んだ相手の中でも、八雲藍は袖に両手を入れたままだったし、風見幽香は日傘を差したままだったし、伊吹萃香に至っては酔っ払って足元がおぼつかない状態だった。そしてそれにも関わらず、美鈴は敗北した。
大妖怪とは皆、闘うための構えを必要とすることなく、自然体のままでいつでも必要な力を発揮できる――そういう次元にいる存在なのだ。
「二人とも、準備はいい?」
「いつでも」
「こっちも大丈夫です!」
月見は穏やかに。美鈴は力強く。二人の返事を確認し、パチュリーは木陰で右手を掲げる。
それをゆっくりと前に振って、眠いなあ、と思いながら。
「じゃあ、始め」
「――ッ!」
試合開始を宣言した直後、美鈴が踏み込んだ。姿勢を低く、地を鳴らし土を蹴り上げ、強く前へと駆け抜ける。典型的な猪突猛進――だが、悪い手ではない。
元々実力のかけ離れた相手だ、後手に回ったところで勝ち目はない。勝機があるとすれば、月見が本腰を入れ始めるよりも先に、先手必勝で一撃を叩き込むのみ。
美鈴の動きは速かった。駆け抜ける風がパチュリーの髪を揺らしたと錯覚するほどで、常人には姿を捉えることすら難しかったかもしれない。
されど相手は、常人の枠とはまったくの別次元にいる大妖怪。駆け抜けた美鈴が月見の懐に入り込み、拳を抜く、
「っ……!」
よりも先に、美鈴の体が、宙を舞っていた。
動体視力に自信のないインドア派なパチュリーには、なにが起こったのかさっぱりだった。気がついたら美鈴が飛んでいた。まるで自分から飛んだんじゃないかと思うほど、あまりに一瞬で。
多分、投げ飛ばされたのだと、思う。誰に、といえば対戦相手である月見しかいないのだが、断言できない自分がいる。パチュリーの目には、月見がなにかをしたようにはまったく見えなかったのだから。
相手を組み伏せるのではなく、ただボールを上に放るような軽い投げだった。月見の後方へぽーんと飛んでいった美鈴は、すぐに空中で体勢を整えて、危なげなく着地する。振り返り、構え、壮健の色とともに苦笑。
「いやあー……びっくりしました」
そこでようやく、パチュリーは美鈴を投げ飛ばしたものの正体を知った。尻尾だ。いつの間にか振り抜かれていた月見の銀尾が、蛇を思わせる不気味な動きで、彼の背後へと戻っていくのが見えた。
「警戒はしてたんですけど、予想以上に速かったです。さすがですね」
同感だと、パチュリーは思う。速いなんてもんじゃなかった。パチュリーにはまったく見えなかった。特別妖力を使ったりはせず、純粋な身体能力のみで、あれほどの速度。……妖力による強化が加わったらどうなってしまうのか、レミリアが一発で叩き伏せられたのにも納得してしまう。
美鈴が横目でパチュリーに目配せする。
「パチュリー様、今のはセーフですよね?」
「……そうね」
というか、まったく見えてなかったので判定不能だ。まあ、月見からの異議申立てもないので、スルーでいいだろう。
続けて、と小さく頷けば、美鈴と月見は再び向き合う。
「……尻尾を使うのは反則かな?」
「いえいえ、構いませんよ。……あ、でもさすがに十一本は勘弁してもらえると……」
「美鈴が強かったら、使っちゃうかもしれないねえ」
「あ、じゃあ大丈夫ですね。私はまだまだ修行中の身なので」
軽く笑い、構えた両手の指先まで力を巡らせ、深呼吸をする。そうやって再度構えた美鈴に対し、やはり月見は自然体のまま。
美鈴が月見の尻尾に注意しつつタイミングを窺うけれど、その間、月見に動きを起こす様子はなかった。静かに、美鈴が攻めてくる時を待っている。手加減をしているのか、それともカウンターが彼のスタイルなのか。
と、
「……!」
今度はパチュリーにもなんとか見えた。なんの予備動作もなくいきなり月見の尻尾が跳ね、刺突の形を以て美鈴へと迫る。
だが、パチュリーでさえ視認できる程度の攻撃に、美鈴が反応できない道理はない。直撃する限界まで尻尾を引きつけてから、鋭く呼気を一つ、体の軸を横にずらしつつ腕で払い、最小限の動きで回避する。美鈴が誇る『技術』あってこそ為せる技だ。月見が、ほう、と感心したように眉を上げる。
脇へ逸れなにもない地面を打った彼の尻尾を、美鈴は両腕で抱え込む。
「おおっ、もっふもふです!」
別に言わなくてもいい感想を素直に口にしたあとで、一気に引っ張れば、
「――お」
月見の体が尻尾に引かれ半回転し、そのまま宙に浮いた。まさに狐の一本釣り――大の大人である彼を楽々フィッシュするとは、やはり美鈴も、人間と同じ見た目で立派な妖怪なのだ。パチュリーだったら、浮かすのはもちろん引き寄せることすらできず、ただ黙々と尻尾をもふもふするしかないだろう。
……。
……そういえば私、まだ月見の尻尾を触ったことないわね。もっふもふって、どのくらいもっふもふなのかしら。
などとパチュリーの思考が脇へ逸れているうちに、一気に勝負どころである。月見は美鈴に背を向けたまま慣性に遊ばれている状態で、美鈴としては恰好のチャンスだ。迫ってくる彼の背に向け、拳を構えて、
「……なんの!」
「!」
地面に投げ出されていた月見の尻尾が一瞬で戻り、美鈴の拳を受け止める盾となった。
「もっふもふ!」
なんで美鈴は、尻尾に触った感想を逐一報告してくるのだろうか。触ったことがないパチュリーに喧嘩でも売っているのか。やはり先刻月見に抱きついていた件は、咲夜に報告しなければならないかもしれない。
ともあれ尻尾が美鈴の拳を受けたことで、月見の体は吹き飛ぶけれど、有効打にはならない。地に沓の跡をつけながら飛ばされた勢いを殺す月見に対し、美鈴はすぐに追撃に出る。
地を蹴り、再び前へ。風をまとい、一気に距離を詰める。月見はまだ滑る足を止め切れておらず、行動が制限されている。続けざまに、美鈴の二度目の好機だ。
月見が尻尾を打ち出して美鈴の突撃を止めようとする。だが、既に一度躱した攻撃など、美鈴なら目を瞑ってでもいなしてみせるだろう。走る最中であっても、彼女は見事に対処してみせた。腕を内側から外へ向けて払い、再び尻尾を弾いた、
――瞬間、弾かれた尻尾がぐるりと内側に丸まって、そのまま美鈴の体に巻きついた。
「「あっ」」
美鈴はもちろん、パチュリーも、つい小さく声を上げてしまった。最小限の動きで合理的に回避しようとする武術家の癖――それを衝かれた。
「あっ、あっ」
美鈴が焦りながらなんとか脱出しようともがくけれど、尻尾はびくともしない。やがて体勢を立て直した月見が、ふっふっふと不敵に笑いながら美鈴に近づいていく。美鈴は両腕はおろか両脚までぐるぐる巻きにされていて、辛うじて倒れないでいるだけの状態。あとはもう月見の好きにされる他ない。
パチュリーはため息をついて、前に乗り出していた体をゆっくりと木の幹に預けた。冷や汗を流す美鈴の目の前に立った月見は、にっこり笑って、親指と中指で恐怖の円形を作り上げた。
ひー!? と、美鈴が顔を真っ青にして悲鳴を上げる。
「それってデコピン!? デコピンですか!? まままっ待ってくださいそれって地味に痛いんですよしかも月見さん妖怪じゃないですか絶対痛いですよやめてくださいご慈悲をください!?」
「いや、一発有効打入れないとダメってルールだし、でも無防備の女の子を殴れるほど残忍でもないつもりだしね」
「むしろデコピンの方が残忍ですよおおおおおっ!! いやー!?」
迫り来る月見の魔の手から逃れようと飛び上がり、バランスを崩してびたーんと地面に横倒しになる。それから水揚げされた魚よろしくびちびち暴れる同胞の情けない姿に、パチュリーはため息をついてのそりと腰を上げた。
結果はもはや明らかだ。あとは美鈴がデコピンを喰らって悲鳴を上げるだけだから、これ以上はレフェリーストップだろう。
そう思い、二人の間に口を挟んだ、
「月見、」
直後に肌を粟立たす、身を焦がすような殺気。
「――!」
春の眠気が消し飛んだ。唇を止め、息を詰め、脊髄反射的な速度で探査魔法を展開し、殺意の出処を暴き出す。
正面――月見たちを挟んだ森の深くから迫り来る熱気と、その矛先は、
「月見ッ!」
「……!」
パチュリーが叫ぶのと、月見もまた敵の場所を察したのは同時。彼は表情を険しくして森の奥へ振り向くなり、尻尾を大きく振って美鈴を投げ飛ばす。美鈴にフィッシュされた汚名を見事に返上する、チャイナ少女の鮮やかな一本釣り――って、
「ちょっ」
美鈴の落下地点が自分だと気づいた瞬間、パチュリーはなけなしの筋力を精一杯に発揮して横に跳躍した。跳躍というよりかはほとんど倒れ込むような情けない逃げ方だったのだけれどそれはさておき、直後に自分が立っていた場所に美鈴が「ごふっ」と背中から落下してきて、健気に咲いていた一輪の花が哀れ根本からへし折られる。
もし判断が一瞬でも遅れていたら、あの花みたいになっていたのはパチュリーだったかもしれない。合図もせずにいきなりなんてことをしてくれるのだろう。だが、今はそんなことに文句を言っている場合ではない。
森の奥から津波の如く押し寄せてきた大炎が、月見の体を呑み込もうとしている。
「月見!?」
「月見さん!?」
それなりに離れているパチュリーまでもが火傷しそうになるほどの熱量。驚愕に目を剥いた美鈴が、背を打った痛みに呻く間もなく跳ね起きる。パチュリーは舌打ちをして魔導書を開き、周囲に水の魔法陣を展開する。しかし、圧倒的に炎の方が速い。
間に合わない、
「――!」
轟、と大気が打ち震える音。突風が吹いたと見紛うほど鮮烈に空気を切り裂き、月見の銀尾が、迫る豪火を一文字に薙ぎ払った。
……ああそうだ、とパチュリーは思う。不測の事態に柄にもなく本気で慌ててしまったが、月見はレミリアをも打ち負かした大妖怪。文字通り火力だけの単純な攻撃に、一体どうして遅れなど取ろうか。
残火が花びらのように散る中で、パチュリーに背を向けたその表情は見えないけれど、きっと彼は笑ったろう。
「この炎……なるほど」
小さく呟いた直後、なんの前触れもなく月見の姿が消えた。否、消えたと錯覚するほどの速度で森の奥へ飛び込んだのだ。地を揺らす一瞬の低音と、立ち上がった風に木々が震える葉擦れの音。次々移り変わる目の前の光景にパチュリーの頭が追いつくより先に、矢継ぎ早に響く小さな爆発音と、なにかが高速で森の中を飛び回るざわめき。
そして決着の音は、ばちーん、と強くなにかをひっ叩く痛そうな音と、ひにゃー、などという少女のかわいらしい悲鳴で、それっきり森は静かになった。パチュリーが感じた殺気も、津波の如き豪火も既に白昼夢と化し、小鳥のさえずりと春の陽気が、さざなみのように周囲に戻ってきたのを感じる。
……ひょっとして、思っていたよりも大した事態ではなかったのだろうか。パチュリーと美鈴が揃って互いの顔を見合わせていれば、やがて森の奥から戻ってきた月見は、服の所々を焦がしていたけれど、顔にはいつも通りの柔和な笑みを浮かべていた。
加えて尻尾の先には、先ほどまでは見られなかった人影が。
「うー。先生ってば、もうちょっと手加減してくれたっていいじゃない。不老不死ったって痛みは感じるんだよ?」
「はっはっは、いきなりあんな炎をぶっ放してきたお前が言えた台詞じゃないねえ」
月見の尻尾で全身ぐるぐる巻きにされ、宙ぶらりんになって連行されてきた少女は、引きこもりがちなパチュリーでもある程度は聞き及んでいる相手だった。幻想郷に三つだけ存在している永遠の命の一つであり、かつての永夜異変の際には、レミリアと咲夜が少しお世話になったとか。なるほど彼女は炎の術を得意としているというから、月見を奇襲した犯人も彼女なのだろう。
おでこを真っ赤にして若干涙目な彼女は、頬を膨らませながら足をじたばたさせている。
「だからってデコピンなんて鬼畜だよ! 首が吹っ飛ぶかと思ったんだからね!?」
まさかあの『ばちーん』って、デコピンの音だったのだろうか。それにしては、まるで平手打ちをかましたような快音だったのだけれど。
本来デコピンを喰らわされるはずだった美鈴は、真っ赤っ赤になった少女のおでこを見て、引きつった笑顔でぶるりと震えるのだった。
というか、
「先生の鬼畜ー。鬼ー」
「私は狐だよ」
……『先生』って、一体なに?