強いてその関係を言葉にするのであれば、教師と教え子ではなく、先輩と後輩に近いのだろうと月見は思っている。月見は彼女に対して教鞭を振るった覚えなど一度もないし、また教えを乞われた記憶もない。それでも彼女が月見を一方的に『先生』と呼ぶのは、今の自分がいるのは月見のお陰だという一種の敬意に基づくものであり、つまるところ月見は、彼女にとって『人生の師』というやつなのだった。
大それたことをやったわけではない。駆け出しの陰陽師だった彼女とひょんなことから戦う羽目になって、そこで適当にあしらってやった結果目の敵にされたというか、『いつか超える目標』みたいに認識されてしまって、以来たびたび戦いを繰り返すうちにいつしか先生と呼ばれるように――と、それだけの話だ。だが、それだけ、の過程が意図せず今の彼女の形成する大切な要素となっているらしく、それ故の『先生』なのだという。
「もう。先生ってば、戻ってきてたんなら教えてよ。まったく音沙汰なしなんてあんまりだと思うんだけどー?」
森から水月苑への帰り道で、月見の右隣を歩く彼女はとても不満げだった。蓬莱の薬を飲んで以来成長を放棄したその体は、輝夜よりも指先一つの程度低い。代わりに色の抜け落ちた白髪は輝夜をも凌ぐ長さで、彼女の後ろ姿を脚の先まで覆い隠している。一歩、一歩と足を動かすたびに、頭の上の大きなリボンがふわふわ揺れる。
藤原妹紅――真っ赤に腫れ上がっていたデコピンの痕は、不老不死の再生力を以てして既に影もなくなっていた。
「一応、一回家には行ったんだけどね。その時は折が悪かった」
「いやいや一回ダメだったくらいで諦めないでよ」
以前妹紅の家を尋ねたのは、幻想郷に戻ってきてまだ三日目の頃だった。それ以来は、そう広くもない幻想郷だしそのうち会えるだろうとのんびり構えて、特に月見の方から足を向けたりはしていなかった。迷いの竹林までわざわざ出向く用事がなかったのも一つの理由だろう。水月苑ができてからというもの、輝夜が積極的に遊びに来るようになって、脱・ひきこもりを達成したのは意外だった。
まあそんなのは建前で、本当は妹紅の存在自体をすっかり忘れてしまっていたのだけれど――世の中には、得てして闇に葬られるべき真実というのはつきものである。
「いやー、ほんとびっくりしましたよ。普通に敵かなにかだと思いました」
月見の左で美鈴が苦笑すれば、その奥でパチュリーもこくりと頷いた。
「再会の挨拶にしては、かなり過激だったんじゃないかしら」
月見は、挨拶代わりに妹紅がぶっ放してきた大炎を思い出す。月見を丸々呑み込む、津波のような。言うまでもなく、直撃すれば大妖怪の月見とて無事では済まなかった一撃だ。
妹紅は事もなげに答える。
「それはまあ、あれくらいの気持ちで行かないと先生に一撃なんて入れられないでしょ」
果たして彼女は、一撃入った時点で再会の挨拶が今生の別れになるかもしれない可能性を理解しているだろうか。自分が不老不死だからなのか、彼女は少々、生死の境界線に疎いような気がする。
まあ、あんな火力だけの攻撃に当たってやるつもりなど毛頭ないのは、事実だけれど。
妹紅は悔しそうに肩を竦めて、
「ま、結局今回もダメだったけど。……500年振りだけど、全然差が縮まった気がしないなあ」
「……あなたは、月見とはかなり長い付き合いみたいね」
「そうだね。先生と出会ったのは、もう千年くらい前だっけ?」
「千年……」
その答えになにか思うところがあるのか、パチュリーは難しい顔をしながら声をひそめ、独り言のように、
「……咲夜には念のため報告かしら」
「? 紅魔館のメイドがどうかしたの?」
「いいえ、なんでもないの。こっちの話よ」
なぜそこで咲夜の名が出てくるのかは……まあ、月見には、わかるようなわからないようなといったところだろうか。
疑問顔の妹紅は追及したげだったが、折よく水月苑名物の朱い太鼓橋が見えてくると、山紫水明に魅せられてかその気も失せたらしい。はあー、と口を半開きにしてあちこちを走り回り、池を覗き込んだり、手を庇にしながら屋敷を眺めたりする。遠足にやってきた小学生みたいな反応だった。
「噂には聞いてたけど、やっぱりすごいとこだねえ。これ、山の妖怪たちにつくってもらったんでしょ? あいかわらず愛されてるなあ先生はーこのこの」
妹紅がいっちょまえに脇腹を肘で突っついてきたので、月見はお返しだとばかりにその頭をバシバシ叩いてやった。あまり背が高くないのでとても叩きやすい。
「ふぎゅっ……」
「さて、じゃあ中に入ろうか。美鈴たちはそのまま温泉だろう?」
「はいっ、是非とも!!」
体全体で頷く美鈴の瞳は、未だかつてないほどの希望で光り輝いていた。隣のパチュリーが呆れて半目になるほどに。
「あ、じゃあ私も――」
「お前はダメだ。ちょっと話があるから付き合え」
元気よく便乗しようとした妹紅を押さえつけるように、またその頭をバシンと叩く。ふぎゅん、と変な声を上げた彼女は、眉間にとても不満そうな皺を寄せて月見を見上げた。
「えー? 別に話なんて温泉のあとでも」
「大事な話だ。……いいから付き合いなさい」
「……」
少し真面目な声で答えてやれば、妹紅はすぐにこちらの意図を察したようだった。困ったように笑って、肩を竦めて。
声音はあくまで明るく、
「仕方ないなあ。……まあ、500年振りだし、積もる話もあるよね」
「ああ、色々とね」
具体的には――蓬莱山輝夜のこと、とか。
月見が初めて永遠亭に行こうとしたあの日、妹紅は蓬莱山輝夜ごと、竹林の一部を丸々焦土に変えていた。実際に戦いの場を見たわけではないが、とても弾幕ごっこの範疇には収まりきらない、殺し合いにも近い争いをしていただろうことは容易に想像が利く。
どうして、輝夜を殺したのか。
500年前、かぐや姫への復讐に焦がれていた少女は。
今でも輝夜を、恨んでいるのだろうか。
○
決して、裕福な家庭の生まれではなかった。
もちろん当時でいう貴族であった藤原家は、控えめに見ても潤沢な財力を持っており、貧富を問えば間違いなく裕福の側だった。しかし金銭面で恵まれているからといって、その家のすべてが裕福だとは限らない。多すぎる財力は、得てして人の心を鈍く曇らせる。
例えば、愛情、とか。
家族として、親子として、人間として最も始原的なそこが欠けているようでは、いくら金が有り余っていようとも、本当の意味での裕福には程遠い。
妹紅の父は、愛に真摯な男ではなかった。仮に真摯だったなら、妹紅はこの世に生まれていなかったろう。四男五女の子。果たして妻と呼べる女が何人いたのか、妾の子である妹紅もよく覚えていない。
もちろん当時の貴族の間では、夫が複数の妻を持つのも珍しくなかったのだと、知ってはいるけれど。
四男五女の子をもうけてなお、女に飽きたらず私欲だけでかぐや姫に求婚を行ったのだから、まあ、誠実な親でなかったのは確かだった。生涯一人の女とだけ添い遂げるような貴族も、圧倒的少数派だが、いたことにはいたのだし。
とはいえそれでも、妹紅にとって、父は父、だった。
望まれて生まれた子ではないといえ、さして愛情を与えてもらえた覚えがないとはいえ、それでもこの世でたった一人しかいない、妹紅の父だった。
父がかぐや姫への求婚に失敗し、貴族として大きな汚点を背負わされた時、意外にも妹紅の心を支配したのは、かぐや姫に対する怒りだった。求婚が成功すればいいと祈った覚えはない。しかしあのような結果で終わることを望んだ覚えも、またない。
かぐや姫が誰との縁談も望んでいなかったのは、なんとなく察していた。多分、かぐや姫想いの竹取の翁が、ちょっと暴走してしまっただけなのだろうと。故に最終的にはあれこれ理由をつけて断るんだろうなと、なんとなく予想はしていた。
けれどその中で、必ずしも、父に恥をかかせる必要などなかったはずだ。
しかしながら、それだけで話が終わったのなら、かぐや姫を嫌いこそすれ、恨むようなことはなかっただろう。妹紅が実際に、何百年にも渡ってかぐや姫を恨むことになったのは、それだけでは話が終わらなかったから。
繰り返すが、妹紅の父は誠実な男ではなかった。意中の相手に求婚を断られたのみならず、要らぬ恥まで背負わされ貴族としての体面を大きく傷つけられた父は――あけすけにいってしまえば、その怒りの矛先を妹紅へと向けた。
まあ妹紅は妾の子で、存在自体、世間には公にされていなかったし、色々と都合がよかったのだろう。今でいう虐待というほどではなかったが、しばしば辛い言葉を浴びせられ、些細なことで手を上げられるようになった。
元々、妹紅に明確な愛情を注いでくれていたわけではない。しかし一度産ませてしまった子である以上、必要最低限の人情だけは忘れないでいてくれた父が、それすらも忘れてしまった。
これをかぐや姫のせいといわずして、なんといえばいいのか。
暴言を吐かれるたびに、かぐや姫への恨みが増した。頬を打たれるたびに、復讐の想いが強くなった。それらの感情が引き返しの利かないところまで肥大化するのに、さほど時間は掛からなかった。殺してやりたいと思ったことなど、一度や二度ではない。不老不死の薬を飲むに至ったあとも、相当しばらくの間は、妹紅の心は復讐に支配されたままだった。
「――だから、あの時に輝夜を殺したのか?」
月見から向けられるまっすぐな視線を、嫌だなあ、と妹紅は思う。嫌い、というわけではない。むしろ好き。でも、その視線とこの話題は、ちょっと、相性が悪い。
月見とは、かつて彼がここで生活していた500年前まで、長い付き合いがあった。その時点で既に、彼が輝夜と知り合いであることは聞かされていた。
けれど、彼が輝夜にとってどれほど大切な存在だったかまでは、知らなかった。輝夜と出会い、殺し合いを始めて何年か経って、憎しみ以外にも親近感のような感情を覚え始めてきた頃に、向こうから直接打ち明けられて初めて知った。
『私ね、好きな人がいたのよ』――。
卑怯だよなあ、と思う。だって輝夜は、月見のことが好きなんだから。この世で一番好きなんだから。
そんな輝夜の想い人の前で、輝夜を殺したことについて、話をするなんて。
整理がつかない心に、時間稼ぎをするように、妹紅はちょっとだけ話題を逸らす。
「その前に、さ。先生、自分が輝夜に好かれてるって、私に黙ってたでしょ」
月見の片眉が、ほんのかすかに動いた。
「……明確に言われたわけじゃなかったしね。その手の話題は、自分の憶測だけで話せるようなことじゃないだろう?」
「あー。それは、まあそうかもしれないけど」
確かに、私ってかぐや姫に好かれてたみたいなんだよねえ、などと憶測だけで話をする人がいたら、頭大丈夫かこいつと白い目で見る他ない気がする。
月見は浅く肩を竦めて、
「とはいえ、この前会ってきた時に、遂に真正面から言われてしまったんだけどね」
「あ、そうなんだ」
ということは輝夜は、月見はもう死んだと悲しみに暮れるだけの日々より、一歩大きく前に進んだのだろう。よかったね、輝夜――なんて、無意識のうちに思ってからふと、
「……」
「どうした?」
「……いや」
……よかったね、か、と妹紅は心の中で笑う。かつては冗談抜きで殺してやりたいと思っていた相手に、まさかそんな言葉を贈る日が来るなんて、夢にも思っちゃいなかった。
「……」
なんとなく、今なら話せそうな気がした。今の、妹紅と輝夜の関係を。
一度、深く呼吸をして、口を切る。
「――私があの時輝夜を殺したのは……なんていうのかな。儀式……ってほど仰々しいもんじゃないか。日課……ってほど頻繁にやってるわけでもないし……あーなんていうのかな、そのぉー……」
ええい、私の貧弱な語彙力め。一言でズバリ表現する言葉が見つからない。
「とにかくあれだよ、お互いが生きてるのを再確認するための……習慣……みたいな」
習慣。うわー全然しっくり来ない。輝夜に聞かれたら笑われそうだ。
というか、これでは説明の順序がおかしい。月見も、若干要領を得ていない顔をしている。なんとなく話せそうだと思っただけで、話の筋道も組み立てずに喋りだしてしまった己を呪う。
また、深呼吸。
「……えっと、それよりもまずね。私、もう輝夜のこと恨んでないんだよ」
「……そうなのか?」
月見がかすかに眉を上げる。500年前の妹紅までしか知らない彼なら無理もない。当時の妹紅だって、まさか未来の自分が輝夜と和解するなどとは、想像してもいなかったのだし。
「先生が出て行って、二百年くらい経った頃だよ。迷いの竹林でぱったりと輝夜に出くわしてね。あんまりにもぱったりすぎたもんだから、私も輝夜もなにも言えなくなっちゃってさ。そんで挙句の果てに出てきた言葉が『あ、こんにちは』だよ? 向こうも『こ、こんにちは』とか普通に返してくるし。まあ輝夜は私の顔なんて知らなかったろうから、知らない人に挨拶されたら挨拶返して当然なんだろうけど」
更に言えば気が動転しすぎて、挨拶のあとに「きょ、今日はいい天気ですね」「そ、そうですね」とか世間話をしてしまった。曇りだったのに。馬鹿すぎる。
……まあ、それは、ここで敢えてまで話す必要はないだろうし、永久に闇に葬っておくけれど。
「……それで?」
「で、そこでやっと私も正気に返ったから……とりあえずはやっぱり、思いっきりぶん殴ったよね。あとは流れるままに殺し合いだよ。いやー、あの時の私たちは完全に獣だったね」
……こういう話を笑いながらするのは、おかしいだろうか。でも今の妹紅にとっては、確かに笑い事だったのだ。なんの前触れもなくぱったり出会って、お互いに動揺しまくって、とりあえず挨拶をして、世間話をしてからの、殴り合い殺し合い。今となってはほぼ完全に和解して、一緒に酒を呑んだりする関係になったからこそ、その始まりはあまりに滑稽だった。
「……なるほどね」
聡い月見は、話を聞いただけでそのあたりまでを察したようだった。こういうところをすぐにわかってくれるから、先生との話は、楽でいい。
「戦ってるうちにさ、色々、輝夜のこともわかってきて……結構似た者同士なのかな、とか。ほら、先生も言ってたじゃん。輝夜って、あれはあれで結構かわいいところあるって」
「……言ったっけかな」
今となっては盛大な告白をされたあとだからだろうか、月見は若干バツが悪そうな顔をしていた。恥ずかしがるように尻尾が揺れたのを見逃さない。今後はこれをネタにからかっても面白いかもしれないなと、心の片隅にメモを取っておく。
「というかそれって、自分もかわいいって言ってるようなもんだぞ」
「……かわいくないかな、私」
「いや、充分」
「えへへ」
ちょっと嬉しい。まあ、これでも一応、女としてはそこそこ気を遣ってるつもりなのだ。不老不死なので、半分くらいは意味がないけれど。
「しかし、それだったら最初の質問だ。輝夜を恨んでないんだったら、もう戦ったり、殺し合ったりする必要はないように思うけど?」
「うーん……これは不老不死な私と輝夜の価値観だから、先生にわかってもらえるかはわかんないけど」
初め妹紅は、輝夜との戦いを儀式と例えた。響きは大仰すぎるけれど、結局はそれが一番近いんじゃないかと妹紅は思う。
お互いが生きているのを、再確認するということ。
「ああいう風に命懸けで戦ってるのとさ。生きてるなって、思えるんだよね」
傷を負う痛み。息が切れる苦しさ。血が流れる熱さ。勝った時の嬉しさ。負けた時の悔しさ。
その中で感じる心臓の鼓動が、紛れもない、生きているという実感。
「不老不死、だからさ。普通に生きてるだけだと、やっぱり、色々と色褪せちゃうんだ。だからああいう風に、命張って戦うの。こんなことできるのは、同じ不老不死の、輝夜だけだし」
自分たちが、この世界で、息をしているのだと。自分たちの心臓が、この世界で、鼓動を刻んでいるのだと。
それを確認し合うための、二人だけの、儀式なのだろう。
「……」
月見は静かな表情をしている。偏った先入観を持たず、妹紅の価値観を正しく理解しようとするような。輝夜を殺された、という事実に、一つの折り合いをつけようとするような。
「……二つ、確認させてもらっていいか?」
「うん」
「一つ。あれは、輝夜と納得し合った上でやってることなんだろう?」
「……うん」
初めは妹紅が一方的に積年の恨みをぶつけるだけだったが、少しすれば輝夜もトサカに来たようで、真正面から戦いに応じてくれるようになった。そうやって互いの気持ちを投げ合っているうちに、恨みとか怒りとかまでどこかに投げ飛ばしてしまったらしくて、いつしか戦いの目的は、生きている実感を得るためという現在の形にすり替わっていた。
もうやめようと言ったことは一度もないし、言われたこともない。むしろ、またやろう、ならお互いに何度も言い合った記憶がある。
「なら、もう一つ」
月見は、今まで以上に真剣な声音で、
「……お前は、輝夜を殺したくて殺してるのか?」
あ、なるほどな、と妹紅は思った。確かにそれは、彼が一番、気にしそうなことだった。
だからこそ、自信を以て答えた。
「違うよ。まあ昔は、殺したいって思ってたのは否定できないけど……でもさっきも言った通り、私はもう輝夜を恨んでない。確かに殺し合う必要は、ないのかもしれないけどね」
けれど殺し合うことこそが、妹紅たち不老不死なりの、命の感じ方なのだ。
それはひょっとすると、微妙な違いなのかもしれない。不老不死とはいえ、ああも簡単に互いの命を奪い合う行為を、正当化なんてできないかもしれない。
けれど、妹紅や輝夜の心にあるのは、怨恨だとか嫌悪だとか、そういう後ろめたい感情ではない。
欲望のままに殺し合うのではなく、不老不死なりに、命の鼓動を感じて、生きていくための。
前を向くための、正の感情。
「……そうか」
月見の反応は穏やかだった。先ほどまでの力のある表情は消え、まぶたを下ろし、そよ風が吹くように、
「なら、安心したよ」
「……いいの? 恨んではいないけど、殺し合ってるのは事実なんだよ?」
「だがもしお互いが不老不死じゃなかったら、お前たちはあんなことはしない」
妹紅は閉口する。月見は続ける。
「私が心配してたのはね、お前が……なんていうかな、『殺したがり』になってしまったんじゃないかってことだよ。お前が私を『先生』と呼ぶのなら、少なくとも、私はそういう生き方を示したつもりはないからね」
妹紅は小さく笑った。確かに月見の生き方は、『殺し』なんて物騒な言葉からは縁遠い。
月見が、肩を竦めて言う。
「とはいえ、確かに殺し合い自体は感心できることじゃないね。普通の弾幕ごっこじゃダメなのか?」
決して咎めるのではなく、なんてことはない、普通の会話として。殺し合いを認めてもらえたわけではないけれど、少なくとも、口うるさく叱りつけてやめさせるほどでもないと、許してもらえたようだった。
だから妹紅も、普通の会話のように。
「どうかなあ。輝夜の方が、あれで結構ノリノリだからね。私がよくても、あっちが物足りないってぶーたれるかも」
「あいつ、変なところで血の気が多かったりするしなあ……」
「もしかしたら、輝夜の方が『殺したがり』だったりするかもね」
軽い冗談を言って、ふふふ、ははは、と笑う。
……妹紅は、輝夜との殺し合いをやめないだろう。月見の意見をもっともだと理解した上で、それ以上に、妹紅にとっては宝物にも似た、大切な日常の一部だから。少なくとも月見が本気で妹紅を咎めない限り、妹紅は今まで通り戦い続けていくだろう。
殺すためではなく。
心が命を叩く鼓動を、感じるために。
「まあ、ほどほどにな。あんまりやりすぎるようだと、私も黙ってられないからね」
「うん。その時は、とめて」
生きる実感は得たいが、『殺したがり』になりたいわけではない。
もし月見が妹紅を強く咎める時が来るならば、それはきっと崖から足を踏み外す一歩手前だから、素直に受けよう。
「ありがとう。……先生は、やっぱり優しいね」
「そうか?」
そうだよと、と妹紅は思う。本当に優しい。人の生き方を闇雲に否定しない。先入観を持たず理解しようとし、そして実際に最大限まで理解した上で、肯定か否定かを決定づける。更にはその生き方がよほど人道に反したものでない限り、大抵のことは受け入れてしまう。
人の心を癒やし、また時には傷つけることもあるだろう、美点とも欠点とも取れる優しさだ。
500年前から、変わらない。
ふいに居間の襖が開いて、タオル片手に濡れた髪を拭くパチュリーが入ってきた。温泉から上がったらしい。いつもの不健康的な頬がすっかりピンク色に上気していて、傍目から見ても、温泉がいかに気持ちよかったかが伝わってくる。またいつも被っている帽子が頭の上になく、髪もリボンで結われていないストレートだったから、普段とは受ける印象が大分違った。一瞬、本当にパチュリーなのかどうか判断しかねたくらい。
「月見、上がったわ。……久し振りに気持ちよかったわ、ありがとう」
「お帰り。美鈴は?」
「もう少し入ってるって」
「なにか飲むか?」
「そうね……ちょっと喉が渇いたから、水をもらっていい?」
「もちろん」
月見が水を取りに行こうと席を立ったので、話は終わりかな、と妹紅は判断した。であれば、次にやることは決まっている。跳ねるように立ち上がって、
「先生、私も温泉入ってきていい?」
「いいよ、もう話は終わったしね。……脱衣所は、玄関から入った正面の廊下を進んで、突き当たりを左。あとは進んでればわかるよ。タオルとかは備えつけがあるから、好きに使ってくれ」
「ありがと!」
温泉に入るのは久し振りだ。もちろん幻想郷にはそういった穴場が何ヶ所かあるが、整備の手が入り込んでいないため、大抵は木の葉やら虫の死骸やらがプカプカ浮いて鳥肌モノの様相を呈していたりする。夢にまで見た、手入れされた綺麗な温泉。想像するだけでテンションが上がってきた。
小走りで脱衣所へ向かおうとすると、すれ違いざまパチュリーに声を掛けられる。
「悪いんだけど、ウチの門番がのぼせないか見ててもらっていいかしら」
「わかった」
それくらいお安い御用だ。というか、のぼせてやいないかと心配されるほど、あの門番は温泉の虜になっているらしい。つまりはそれ相当の入り心地ということだ。期待は鰻登りである。
小走りで脱衣所に飛び込み、ちゃっちゃと服を脱いで大浴場への戸を開ける。
……美鈴が湯船で背泳ぎをしていたので、妹紅も泳いでみることにした。
○
「はい、水」
「ありがとう」
水の入ったコップを手渡す。風呂上がりのパチュリーは肌がすっかり上気していて、こういってはなんだが死人が生き返ったような、すっかり見違えた印象を月見に与えた。普段顔色がよくないのは、やはり大図書館の奥にこもって魔術の研究ばかりをしているからなのか。そうだとすればちょっと惜しい。
「ねえ、月見。ちょっと、話に付き合ってもらっていい?」
「ん? それはもちろん、構わないけど……」
ふいな切り出しに、月見は浅く眉をひそめた。こうして改まった確認を取るということは、そこそこ込み入った話だと推測できる。しかしパチュリーとはさほど付き合いが深いわけでもないから、どんな話をされるのかてんで想像できない。
さてなんだろうかと月見がパチュリーの言葉を待っていれば、彼女はなにやら一冊の真新しい手帳を取り出して、テーブルの上で一ページ目を広げた。
続く話の内容は、以下のようなもの。
「私たち紅魔館の住人って、まだあなたのこと詳しく知らないじゃない? だからこのあたりで一度、あなたがどういう妖怪なのかはっきりさせておこうと思うの」
「……なるほど?」
月見が返す言葉は、自然と尻上がりになる。一応納得はできるものの、それにしてはやけに脈絡がないというか、なぜこのタイミングでそんな話をされるのだろう。
疑問はいくつがあるが、特に断る理由もないかと思ったので、どうぞと先を促す。
「ありがとう。それじゃあ最初の質問ね」
真っ白な羽ペンを右手に装備したパチュリーは、ペン先をインクに浸しつつ、
「――あなたと八雲紫の関係は?」
「……」
なぜそれを一番初めに訊くのだろう。『どんな妖怪かはっきりさせる』のであれば、あなたはどのくらい生きている妖怪なの? とか、もっと先に訊くべき質問があるように思うのだが。
とりあえず、答える。
「気心の知れた友人だよ。妖怪にしては珍しく、あいつも人間好きでね。そのあたりで意気投合して、昔は一緒に旅をしたこともある」
「付き合いはどれくらいになるのかしら?」
「ここ500年くらいは私が外にいたから疎遠になってたけど、それを含めれば千年以上になるね」
「八雲紫って、あなたのことが好きらしいわね」
「まあ……ね」
「あなたは彼女のことをどう思ってるの?」
「……やんちゃで手の掛かる古馴染み、かな」
「彼女の想いに応えようとか、考えたことは?」
「どうしようかと考えたことはあるけど、そういう対象としてあいつを見たことは、今までのところなくてね」
「ふむ……」
記念すべき最初の一ページ目に、パチュリーがなにやらメモを取っていく。月見は、どうしてこんなことを訊かれてるんだろうかと疑問に思いつつも、次の質問を待つ。
書き終えたパチュリーは視線を上げ、
「じゃ、次ね。――あなたと蓬莱山輝夜の関係は?」
「……なあパチュリー、これって」
「あなたがどんな妖怪か知るための質問よ?」
白々しい。これではもはや、月見がどんな妖怪かなんてのは関係なくて、単に月見の友好関係を探るためだけの質問ではないか。
だったら初めからそう言えばいいものを、どうして『月見がどんな妖怪か』などと見え透いた嘘をつくのか――
「友人――という表現が適切かはわからないけど、仲のいい知り合いかな。昔、私が陰陽師のフリをして人間たちの都で暮らしてた時に知り合った」
「付き合いはどれくらい?」
「色々あって随分と長い間会えてなかったから、実際に付き合った時間は一年にもならないよ」
「蓬莱山輝夜って、あなたのことが好きらしいわね」
「……そうだね」
「どう思ってる?」
「……お転婆娘?」
「彼女の想いに応えようとか」
「応える応えないに関わらず、気がついたら一緒に生きてることになるって言われたよ。……私としては紫と同じで、そういう対象としてあいつを見たことはまだないけどね」
ふむふむ、とパチュリーはまたメモ。月見は正直、どうしてこんな質問をされているのかつくづく疑問なのだが、羽ペンを動かすパチュリーの表情は真剣そのものだったので、彼女にとっては相当大事な確認事らしい。
その後も訊かれたのは、藤千代とはどんな関係か、天ツ風操とはどんな関係か、西行寺幽々子とはどんな関係か、伊吹萃香とはどんな関係か、射命丸文とはどんな関係か、八坂神奈子とはどんな関係か、洩矢諏訪子とはどんな関係か――そして、月見が彼女たちをどう思っているか、ということ。
考えすぎかもしれないが、やたらと恋愛的な関係を気にして、話を探られているような気がする。
質問はまだ止まらない。東風谷早苗、魂魄妖夢、犬走椛、星熊勇儀、八雲藍、八意永琳、鈴仙・優曇華院・イナバ、河城にとり、上白沢慧音、博麗霊夢、霧雨魔理沙、四季映姫・ヤマザナドゥ、小野塚小町、鍵山雛、そして藤原妹紅――
「――なるほどね。大体わかったわ、ありがとう」
「……どういたしまして」
ようやく話が終わってみれば女性関係の質問ばかりだったので、月見はなんだか疲れてしまった。緩くため息をつきながら、ふむふむとメモの内容を見直しているパチュリーに問うた。
「メモまでして、一体なにに使うんだ?」
まさか鴉天狗みたいに新聞を作っているとか、そんな隠れた趣味があるわけでもなし。
パチュリーは少し考えてから、言葉を選ぶように、
「そうね……云うなれば、お節介ってところかしら」
「……」
なんとなく……わかったような、わからないような。
「じゃあ、ついでに紅魔館のことも訊いておこうかしら」
むしろ、そっちの方が本命なんじゃないか……とか。
「レミィのことはどう思ってる?」
「……わがままなお嬢様かつ、過保護なお姉さん。初対面でグングニルを突きつけられたのは一生忘れないよ」
「ふふ、しっかり伝えておくわ。……フラン」
「娘同然の存在かな」
「フランが聞いたら大喜びしそうね。……中国」
「私でできることなら力になるから、色々と負けないでくれ」
「ダメよ甘やかしちゃ。……小悪魔」
「仕事真面目ないい子だよ。もう少し、弾幕ごっこが強くなれるといいね」
「魔理沙に一回も勝てないのよねえ……。じゃあ、最後に――」
パチュリーは、一拍溜めて。
「――咲夜、は?」
「……」
ささやかな、悪戯をけしかけるような。
そんな、見え透いた笑顔で。
「……いい子だよ。紅魔館の家事で大変だろうに、私の方まで当然みたいに手伝ってくれる。レミリアにはもったいないくらいにいい従者だ」
「それって、レミィじゃなかったら一体誰に相応しいのかしら」
苦笑。
「私、なんては言わないよ」
「そう。……で、それだけ? もう少し、他になにかないのかしら」
どうして咲夜の時だけ、やたら詳しく話を聞きたがるのか……とか。
「そうだね……例えば、幻想郷の従者――咲夜以外に、藍とか、妖夢とか、永琳とか、椛とか」
そうやって真剣にメモを取っているのは、誰のためなのか……とか。
「もしその中から、一人を従者に選べるんだとしたら――」
どうして自分は馬鹿正直に答えているのか、とか――
「――私はきっと、咲夜を選ぶんだろうね」
「……」
パチュリーは、答えなかった。静かな手つきで、月見の言葉を漏らさずメモに書き留めて、ペンを置くと同時に満足げに笑った。
「ありがとう。とっても有意義なお話だったわ」
「……一応言っておくけど、変なことには使わないでくれよ」
「ええ、そこは誓うわ。言い触らしたりはしないから、安心して頂戴」
言い触らさない。それは決して、誰にも教えない、という意味ではないんだろうな……とか。
「それにしても、中国ったら遅いわね。いつまで入ってるのかしら」
「疲れが溜まってるんだろうさ。せっかくの休日なんだから、のんびりさせてやったらどうだい」
「まあ、それもそうね」
なくさないように念入りにしまわれた、あの小さなメモ帳が、一体誰の手に渡るのか……とか。
月見は緩く首を振って思考を打ち切ると、さて弱ったもんだと、ただ、小さく息をついた。
○
「はい、咲夜。今日のおみやげ」
「……?」
水月苑から帰ってきたパチュリー様に、いきなり『おみやげ』を渡された。
なんの変哲もない、ただの小さなメモ帳だった。
「なんですか、これ?」
「見てみればわかるわ」
言われるがまま、一ページ目をめくってみる。……月見と八雲紫。千年以上前からの知り合いで、一時期は一緒に旅をしていたこともある。八雲紫は月見のことが好きらしいが、月見はそういう対象で彼女を見たことはなく――
なんだろう、これ。
「パチュリー様……?」
「まあまあ、とりあえず持っておきなさいな。そのうち必要になる日が来るから」
「??」
「じゃあ私、研究に戻るから」
「あっ」
結局なに一つ詳しい説明をすることなく、パチュリー様は大図書館に戻っていってしまう。彼女の意図がまったく読めない私は、疑問符を量産しながらその場で立ち尽くす他ない。
「ええと……?」
とりあえず、メモ帳の中にざっくり目を通してみる。大きく丁寧な字で、一ページごとに見出し。月見と八雲紫。月見と蓬莱山輝夜。月見と藤千代――
……月見様の交友関係をまとめたもの、だろうか。だとすれば、ちょっとどころではないプライベートな代物だ。どうしてパチュリー様は、こんなものをおみやげになんて……。
月見様のプライベートを覗くのは憚られたし、今はちょっと忙しいので、とりあえず置いておいてあとでゆっくり考えよう。そう思ってパラパラとページをめくっていると、ふと私の名前が見えたような気がして、びっくりして手を止めた。
慌てて後ろへめくり直す。あった。一ページに一つずつある見出しの、一番後ろ。他よりも一際大きく、丁寧な字で。
『月見と咲夜』。
「――……」
なにかを考えるよりも先に、私の両目は既に本文へと流れていた。――いい子。紅魔館の家事だけでなく水月苑の方まで手伝ってくれる、レミリアにはもったいないくらいにいい従者。
そこから、三つほど、改行して。
二重のアンダーライン付きで強調された、やたら力強い最後の一文に、私は――
○
「……ねえねえ、お姉様。今日の咲夜、なんだかすっごく機嫌よくない?」
「……フランもそう思う? 私、起きた時からあの子の笑顔しか見てないんだけど」
「今も、微妙に鼻歌歌ってるよね」
「なにかいいことでもあったのかしら? ……パチェ、あなたなにか知ってる?」
「さあ? ……ふふ、一体なにがあったのかしらね?」
「~♪ ~~♪」
――後日私は、咲夜から例のメモ帳を返された。月見のプライベートに関わることだから、あまりジロジロ読んでしまうのは気が引けるらしい。まったく律儀なことだ。ライバルたちに置いてかれてもいいんだろうか。
ただ、それからもう少しあとになって、初めて気づいたのだけれど。
『月見と咲夜』のページだけが、なにやら途轍もなく慎重に切り取られた跡とともに、なくなっていたので。
それを指摘した時の咲夜の顔は――まあ、一周回って冷やかす気も起こらなくなった、とだけ書いておこう。
しかし驚いたことに、咲夜はまだ、自分が月見に対して抱いている想いに気づいていないらしい。いや、さすがになにかしら感じているものはあるだろう。けれど一方で、自分はレミィの従者として恩人を慕っているだけなのだと、だから
「……さっさと気づきなさいよ、ニブチンさん」
彼は、手強いから。いつまで経っても冷静になれず自分に嘘をついてるようじゃあ、ライバルたちに敗北するのは確実だから。そして敗北してから後悔したって遅いわけで、間違いなく今の咲夜は、恋愛小説でいえばすべてが手遅れになった頃に「もっと素直になってればよかった」とか涙しちゃうタイプのヒロインである。
……なんて、恋すらしたことのない私が言っても、説得力がないか。でも小説なんかはよく読むので、知識だけはあるつもり。
十六夜咲夜は、今日も紅魔館を隅々まで奔走している。いつものメイド服の胸ポケットに、最近になって新しく増えた、小さな小さな宝物を入れて。ちょっと嫌なことがあると、その宝物を見て、暗い気持ちを吹き飛ばして、今日も彼女は仕事に勤しむ。
その、幸せの絶頂みたいな笑顔を盗み見ながら、私は。
とりあえず一方的な力添えとして、オススメのラブロマンス小説でも貸してやろうと、思うのだった。