銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第47話 「銀のおくり火」

 

 

 

 

 

 カラン――と、ドアベルを鳴らした。

 

「おや。いらっしゃい、月見」

「ああ」

 

 魔法の森を人里側に抜けたところにある、倉庫めいた雑多な古道具屋。本来であれば、昨日やってくるはずだった場所。美鈴の貴重な休日に付き合い、不老不死な後輩と再会を果たした翌日に、月見は単身、この香霖堂のドアを叩いていた。

 所狭しと商品が並ぶ雑然とした店内には似つかわしくない、この小洒落たドアベルを鳴らすのは三度目になる。およそ一週間前、水月苑が完成したあとの日用品揃えで、約束通り財布に優しい買い物をさせてもらったばかりだ。お陰様で店主の霖之助とはすっかり打ち解けて、今や月見を迎え入れる彼の笑顔は、客よりかは友人を歓迎するそれに近くなってきていた。

 と、

 

「よう、月見。こんなところで会うとは奇遇だな」

「……おや、魔理沙か」

 

 日用品揃えの時は見事に閑古鳥が鳴いていた香霖堂に、この日は霖之助以外にも人影があった。霧雨魔理沙が、椅子に座った霖之助の膝を更に椅子にして、我が物顔で本を広げてくつろいでいた。

 まさか人が、しかもそんなところにいるとは思ってもいなかったので、月見は一瞬面食らったけれど、すぐに霖之助と魔理沙が、家族同然の間柄であったことを思い出して納得する。ひねくれ者の魔理沙も、気を許した家族の前では割かし素直で人懐こいということなのだろう。

 霖之助が、少しだけ気恥ずかしそうにして笑った。

 

「すまないね、こんな格好で。……ほら魔理沙、お客が来たんだから、いい加減に降りてくれるかい?」

「客だと?」

 

 眉をひそめた魔理沙は本から視線を上げ、月見を見て、冗談だろうと言うように口端を意地悪く曲げた。

 

「おいおい月見、こんななにもないところになにを買いに来たってんだ?」

「失礼だね。これでも彼は、前回来てくれた時には色々と道具を――」

「ああ、悪い。今回は客じゃないんだ」

 

 どこか誇らしげに反論しようとした霖之助の言葉を遮って、月見は来客用の椅子に腰を下ろした。霖之助は目に見えて残念そうに肩を落とし、魔理沙は勝ち誇るようにふっと笑った。

 

「そうか……。しかし、そうだとしたら一体なんの用かな。まあ君であれば、ただの世間話でも歓迎だけどね」

「おい香霖、私の時とは偉く態度が違うじゃないか」

「今まで君が僕にしてきたことを、胸に手を当てながら思い返してみるといい。そこに答えはあるよ」

 

 魔理沙は両手で本を開いたまま即答。

 

「商品を物々交換したり、たまに差し入れを持ってきたりもしてやってる、香霖堂の貴重なお客様だろ?」

「十の善行は、たった一度の悪行で堕落する。……霊夢と一緒に僕のお気に入りの茶葉を持っていったの、忘れちゃいないよ」

「心が狭い男だぜ」

「心の広さは関係ないよ。僕が許可していない以上、あれはいわゆる窃盗に当たるということを、君たちは理解するべきだ。そもそも――」

「……なあ霖之助。それはまたあとにして、とりあえず私の話を聞いてもらって大丈夫か?」

 

 なにやら面倒な話が始まりそうだったので、月見は苦笑一つで霖之助の話を制した。仲がいいのは大変結構だけれど、ここで説教はさすがに勘弁だ。

 取り繕うように笑って、霖之助が指の腹で眼鏡を持ち上げる。

 

「確かにそうだ、すまないね。……それで、話とは?」

「ちょっと、道を尋ねたくてね」

「道……?」

 

 オウム返しされた疑問の声に、月見はああと頷いた。今日の月見の目的地は、香霖堂ではないもっと別の場所にある。ここのドアベルを鳴らしたのは、その目的を果たすための、所謂前準備というやつだ。

 霖之助のみならず、魔理沙までもが、不思議そうな目をして月見を見つめている。確かに道案内なんて、わざわざ古道具屋にまでやってきて乞うものではないかもしれない。

 けれど『あそこ』までの道のりを教えてもらうのに、霖之助以上の適任はいないだろうと、月見は考えていた。

 なんていったって霖之助は、店に並べる道具を調達するため、或いは己の知識欲を満足させるため、『あそこ』には何度も足を運んでいるというのだから。

 

「それくらいは構わないけど……しかし、そのためにわざわざここまで来たのかい?」

「お前に訊くのが一番だと思ってね」

「ちなみに、どこまで?」

 

 パチクリとまばたきをした二人分の視線に、軽く微笑んで、答える。

 

「ちょっと、無縁塚まで」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 幻想郷は、二種類の結界によって外の世界から隔離されている。その中の一つ、常識と非常識を区別し妖怪を保護する特殊な結界、通称『博麗大結界』は、幻想郷を今のカタチで存続させるためになくてはならない要として、八雲紫――もしくはその式神である藍――の手によって、厳重な注意のもと管轄されている。なにか問題が起これば即刻修正され、かすかな違和感が生じるだけで藍が調査に駆り出されるという徹底ぶりだと聞いた。

 けれど幻想郷の中でただ一ヶ所だけ、その博麗大結界に綻びが生じつつも、修正されないまま野放しにされている場所がある。

 幻想郷に迷い込み、誰にも救われることなく無縁のままで死んでしまった――もしくは、初めから妖怪の食料となるために連れて来られた人間たちを、形式上埋葬する墓場。

 弔われた仏の多さ故に死後の世界に近く、冥界の結界と博麗大結界とが干渉し合うことで綻びが生まれ、生死の境界線すら曖昧になった異界。

 無縁塚。

 

「――そこに行くためにはこの地図の通り、魔法の森を山奥の方に抜けていくことになる。森を抜けると、『再思の道』という一本道に出るから、そこをずっと進んでいった先だ」

「なるほど」

 

 霖之助が、無縁塚についての講釈を述べながら、地図の道筋をゆっくりと指でなぞる。魔法の森を越え、山と山の間を断ち切るように伸びる道を進んだ、幻想郷の果ての世界。

 

「念のため警告しておくと、幻想郷一の危険地帯だよ。凶暴な妖怪がいるのはもちろん、複数の結界が干渉し合っている影響で、心の弱い者は自分の存在を維持することすらできなくなると聞く。……僕としては心配なのだけど、本当に行くつもりなのかい?」

「もちろん」

 

 霖之助の心配げな視線に、月見は二つ返事で頷いた。危険地帯であることは、まったくもって問題ではない。こういう言い方はよくないけれど、半人半妖の霖之助でも行き来できる場所なのだから、大妖怪である月見にとって脅威となるはずがない。

 

「これでも、ある程度の腕っ節は持ってるからね」

「なら止めはしないけど……しかし、一体なんの目的で? 僕みたいに道具を蒐集するわけでもないだろう?」

「そうだね……色々な言葉で表現できそうだけど、まあ、観光かな」

「はあ?」

 

 素っ頓狂な声を上げたのは、あいかわらず霖之助の膝の上を占領する魔理沙だった。

 

「お前な、あんなところに行ったってなにも面白いもんなんてないぜ?」

「ということは、魔理沙は行ったことがあるのか」

「まあ、成り行きでな……。でも、あんなところにはもう二度と行きたくない」

 

 苦虫を噛み潰した表情で吐き捨て、俯く。脳裏を過った苦い光景から、目を背けるように。

 

「……香霖の話は聞いてたろ? 外から人が迷い込むって」

「ああ」

「そんであそこには、知能の『ち』の字もないような凶暴な妖怪がたくさんいる。だから、その……」

 

 魔理沙は言い淀む。人と妖怪が出会う交差点。人と出会った妖怪がなにをするのか。妖怪と出会ってしまった人がなにをされるのか。

 

「あー、なんだ……まあ、察してくれ。つまりあそこは、そういう(・・・・)場所なんだ。なにも楽しいものなんてない」

 

 魔理沙の声は、わずかではあるが震えを帯びていた。もしかすると彼女は無縁塚で、妖怪と出会ってしまった人間の成れの果てを、見てしまったのかもしれない。

 そうか、と月見は小さく呟いて、けれど無縁塚に行くという己の意志を変えることはしなかった。むしろ、だからこそ、自分は行かなければならないのだと思う。

 妖怪と人間が共生すると謳われたこの楽園の、闇の部分を。

 真正面から見つめて、そして、受け止めたいと思う。

 きっと紫は、月見がそうすることを、望んではいないだろうけれど。

 

「それでも行くよ。……観光というのは言葉が悪かったね。真実を受け止めるために――とでも、格好つけて言っておこうか」

「……」

 

 魔理沙は顔を挙げないまま、「ま、私の知ったこっちゃないけどな」と掠れた声で呟いて、それっきり殻にこもるように本へと目を戻した。

 残りの会話を、霖之助が引き継ぐ。

 

「一人で大丈夫かい? なんなら、近くまで魔理沙に案内させても……」

「いや、一人で行けるよ。……無理に付き合わせるのも悪いさ」

 

 魔理沙は本を読むふりをしたまま、否定も肯定もしない。けれどその頑な沈黙は、明らかに、近くまでとはいえ無縁塚に向かうことを拒絶していた。

 怖がる少女に、無理を言うつもりはない。

 

「この地図、借りて大丈夫か?」

「ああ。死ぬまで借りる、なんて言い出さなければ構わな――いたっ」

 

 魔理沙が仏頂面で、頭の上にある霖之助の頬をぺちんと叩いた。ずれた眼鏡を悄然と整える霖之助に、月見は苦笑して、地図とともに席を立った。

 

「じゃあ、行ってくるよ」

「ああ。……そうだ、もし面白そうな道具が落ちていたら持ってきてもら――いたっ」

 

 また魔理沙が霖之助の頬を叩いて、

 

「……まあ、なんだ。気をつけてけよ」

 

 ぶっきなぼうな口調ではあったが、そこには一応、月見を気遣う色が見え隠れしていたので。

 

「ああ。ありがとう」

 

 魔理沙への評価を上方向に修正しつつ、そして、またずれた眼鏡を整え直している霖之助に同情しつつ、月見は香霖堂をあとにする。

 

「またのご来店を、よろしく頼むよ」

 

 皮肉げに背中を叩いてきた霖之助の言葉に、今度はちゃんと買い物をしてやらないとな、と思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 再思の道は、秋になれば咲き誇った彼岸花で道そのものが真っ赤に染まり、まさしく異界の入口のような、幽玄の世界をつくりあげるという。けれど今の季節は春。彼岸花はこの時期になると、花はもちろん葉すらも枯れ果て、地上からはほとんど姿を消してしまう。お陰様で此度の再思の道は、異界を思わせる不気味さとはまったく無縁の、なんの変哲もない遊歩道と成り下がっていた。ここを抜けた先に公園が広がったとしても、月見は驚きはしないだろう。

 ただしこれは、あくまで見た目だけを述べた場合。

 例えば風に乗って運ばれてくる空気についていえば、確かに、ここが普通の場所ではないと知らしめられる一つの違和感があった。

 

(腐臭……か)

 

 狐の優れた嗅覚を以てして、ようやく感じ取れるかどうかというかすかなものだが、無縁塚に近づくにつれて次第に強さを増してきている。それ相応の腐臭を放つなにかが、無縁塚には眠っているということなのだろう。

 それに吹く風そのものも、とても春風とは思えない不気味な冷気を帯びている。荒涼とした風に揺すられる木々はひどく痩せ細り、まるで磔刑にされた屍のよう。葉擦れの音は、女がすすり泣く声。空はまったくの快晴だというのに、陽射しの暖かさがここまで届かない。

 ふと木々の陰に目を遣れば、片手で持てる程度の石を積み重ねて杜撰に作られた慰霊の塚が、ちらほらと散見されることに気づく。無縁塚は既に始まっているのだ。心に、ドロリと重い粘液が垂れるのを感じる。けれど月見は決して歩みを鈍らせることなく、ただまっすぐに進み続ける。

 ここからが無縁塚だという、明確な境界線があったわけではなかった。歩を進めるにつれ徐々に道幅が広がり、やがて道そのものがなくなって、自然と開けた場所に出ていた。

 

「……」

 

 思っていたよりも、見晴らしがいい景色ではあった。だが、例えば妖怪の山から幻想郷を一望するような雄大さはなく、ただただ殺風景だった。

 視界に入るものは、濁った色の草木と、山と、

 無数の塚。

 

「……ふむ」

 

 ここが、無縁塚。彼岸に存在しながらも、半分が死者の世界となった場所。

 今がまだ昼間なのもあってか、女のすすり泣く声以外はなにも聞こえない。鼻をつく腐臭も、気にはなるが、耐えられないほどではない。月見はとりあえず、東側から回って周囲を散策してみることにした。

 そして歩き始めてからそう間もないところで、ふと、足を止める。

 

「……おや?」

 

 視界の中に、草木と山と、塚以外のもの。無縁塚の骸骨のような木々を寄せ集めて作った小さな掘っ立て小屋が、あまりに無造作に、月見の行く先に鎮座していた。

 月見は眉をひそめた。小屋はまだ作られてそう間もなく、周囲の雑草は刈り取られ、玄関前には薪が積み上げられている。誰かがここで生活しているのは一目瞭然だったが、こんな腐臭のきつい危険地帯で、一体誰が。

 興味本位で、玄関の戸を叩いてみる。けれどいつまで経っても返事がないので、どうやら留守にしているらしい。

 こんな場所に居を構える変わり者の顔を一目見たかったところだが、仕方がないので吐息とともに踵を返して、

 

「――人の家の前で、一体なにをしてるんだい?」

 

 振り返った先に、くるりと丸い、灰色の獣耳が見えた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 日課である無縁塚でのダウジングを行っていたところ、家の前に人影を見かけた。不審に思って戻ってきてみれば、このあたりでは初めて姿を見る、綺麗な銀の毛並みをした妖狐だった。

 ナズーリンは、無縁塚に掘っ立て小屋を作って質素に生活している、ダウジングが趣味の妖怪鼠である。同時に、あたりに住む他の鼠たちのトップを務めたりしている、ちょっとした妖怪鼠である。更には毘沙門天の弟子なんてものもやっている、とてもちょっとした妖怪鼠である。

 そんなとてもちょっとした妖怪鼠であるナズーリンにとって、無縁塚は歩き慣れた己の庭のような場所だった。よく無縁塚中をダウジングして回っているので、普段からどういった者たちが遥々再思の道を越えてくるのかは、よく把握している。一番の常連がアイテム蒐集癖のある古道具屋の店主であり、次点がサボリ癖のある陽気な死神だ。

 けれど、この銀狐を見るのは初めてだった。ナズーリンの記憶違いというのはありえない。記憶力には自信があるし、そうでなくとも一点のくすみもない美しい銀の毛並みは、ひとたび目にすればすぐさま脳裏に焼きつくだろう。

 

「――人の家の前で、一体なにをしてるんだい?」

 

 声を掛けたのと同じくらいのタイミングで、銀狐がこちらを振り返る。あの古道具屋の店主に似て、温厚そうな佇まいをした男だった。ナズーリンを見るなり目を丸くし、

 

「おや……もしかして、ここの家主か?」

「だったらなんだと言うのかな」

 

 ナズーリンは鋭く問い返す。鼠は、昔は毘沙門天の遣いとされる高貴な動物として知られていたが、西洋での一件を経て以降は、病原菌を媒介する卑しい生物として軽んじられるようになってしまった。故に初対面でいきなり舐められてしまわないよう、強く毅然とした態度で相対するのは大事なことだった。

 妖狐は薄く笑い、

 

「いや、こんなところでこんなものを見かけるとは思ってなくてね。一体誰が住んでるんだろうって、気になったんだ」

「こんなところでこんなものに住んでいたらいけないのかい?」

「まさか。でも、そうさな、意外ではあるね」

 

 返答を聞きながら、ナズーリンは注意深く妖狐を観察する。物珍しそうな目こそ向けてくるが、決してナズーリンを侮っているわけではないようだ。ある程度、友好的な印象を受ける。そんじょそこらの無礼者とは違う、まずまずの良識を持った妖怪らしい。

 だからといって油断はしない。

 

「お前は、こんなところに住んでなにをしてるんだ? 見たところ、あまりいい場所とは思えないけど」

 

 妖狐が、鼻のあたりに手をやりながら顔をしかめた。どうやら無縁塚の腐臭を気にしているらしい。

 

「そうかい? 慣れればどうってことないし、それにここでは仲間の餌が簡単に手に入るからね。さほど悪くはないさ」

 

 ナズーリンは、己の尻尾から吊り下げられている仲間入りのバスケットを目遣った。中には、見慣れない妖怪に驚いて縮こまっている仲間が三匹。ナズーリンはさておき、彼らは人肉を好む肉食鼠なので、外からしばしば人間が迷い込むこの場所は絶好の狩場なのだ。先ほども、恐らく昨夜に喰われたのであろう人間の残骸を、彼らが丁寧に処分したところである。

 

「ついでにいえば、私はダウザーでね。どうやらここには大層なお宝が埋まっているらしくて、だから住み込みで調査を続けてるんだよ」

「ダウザー……というと、ダウジングか」

「然り」

「成果の方は?」

「……お宝は、そう簡単には見つからないものだよ」

 

 ナズーリンはさっと視線を逸らした。ガラクタしか見つかってないなんて言えない。本当にここにお宝が眠っているのか段々不安になってきているなんて、ダウザーのプライドに懸けて絶対に言えない。

 

「ということは、その長い二本の棒はダウジング用か」

 

 月見の視線が、ナズーリンの持つ二本のダウジングロッドに向けられた。ナズーリンの背丈と同じくらいに長いかっこ(・・・)型のロッドは、それぞれの両先端が、東西南北を表す言葉のイニシャルで装飾されている。ダウジングの際には欠かすことのできない、ナズーリンの大切な相棒だ。

 

「格式高くロッドと呼んでくれると嬉しいよ。この二本のロッドと、あとはこのクリスタルを使ってダウジングを――」

 

 首から下げた八面体のクリスタルを、彼の前に見せようとして――ふっと、やめた。

 思う。

 

(……なんで私は、こんなに気安く話をしてるんだ)

 

 油断はしないと気を引き締めた傍から、いきなり場の雰囲気に流されかけていた。……ダウジングの時にはこのクリスタルも使うんだ、なんて、そんなこと訊かれてもいないのだし、話す必要なんてないじゃないか。

 妖狐が首を傾げる。

 

「どうした?」

「……いや、そういえばまだダウジングの途中でね。雑談をしてる暇はなかったのを思い出しただけだよ」

 

 嘘だ。ナズーリンは基本的に暇を持て余す生活をしていて、ダウジングだって、雑談する余裕もないほど集中して行うわけではない。

 けれど、彼とこれ以上話をするのは、ちょっと危ないなと思った。身の危険を感じるのではなく、このまま話を続けていると、この男に、気を許してしまいそうだった。

 つい今しがた出会ったばかりの相手なのに、まさかそんな、あのお人好しなご主人サマじゃあるまいし。

 

「ああ……なるほど、それは邪魔してすまなかったね」

「いや、気にしなくていいさ。声を掛けたのは私の方だからね」

 

 自分で言うのもなんだが、ナズーリンは親しくない相手にはそこそこ強気で出るタイプだ。鼠だからといって馬鹿にされないようにする意味でもそうだし、毘沙門天の弟子として、鼠であることにそれなりの尊厳と誇りを持っているという意味でも。

 けれどこの男の前では、そういった心の鎧が全部剥がされて、丸裸にされてしまいそうな、気がする。気弱で寂しがりな本当の自分が出てきてしまいそうで、いけないな、と思う。

 緩く、ため息。

 

「それじゃあ、私は行くよ」

「ああ……」

 

 やや要領を得ない彼の返事を、意に介すことなく、振り返り、ロッドを構えて歩き出す――その背に。

 

「なあ、ちょっといいか?」

 

 声を掛けられ、立ち止まり、振り返らぬまま、

 

「……なんだい? まだなにか?」

「いやね。私はここに散歩みたいなものをしに来たんだけど、どうにも殺風景すぎてつまらなくてね」

 

 ここでようやく、振り返る。散歩だって? ――そんな胡乱げな目を向けてやるけれど、彼はいかにも人がよさそうに、微笑んで。

 

「もしよかったら、ついていってもいいかな」

「……、」

「ダウジングをしてるところっていうのも、ちょっと見てみたいし。……もちろん、邪魔なら一人寂しく歩き回ることにするけど」

 

 邪魔だからやめろと一蹴するのは容易かったし、心の鎧を保つためにはそうするべきだった。出会ったばかりの相手と一緒に歩いたって、間が持てなくなって気まずい思いをするだけ。一人でのんびり、好きなように歩いてダウジングをするのが一番気楽なのだと、わかってはいた。

 けれど、

 

「……」

 

 けれどなぜか、ナズーリンは、断る気になれなくて。

 小さなため息とともに回れ右をして、なるべくぶっきらぼうを装って言う。

 

「……好きにしたまえ。ただし、本当に邪魔だったら遠慮なく追い払うからね」

「ッハハハ、肝に銘じておこう」

 

 歩き出せば、からから笑った彼の、機嫌のよさそうな足音がゆっくりとついてくる。それを背中で感じながら、なんだか変だと、ナズーリンは自分で自分を訝んだ。

 どうしてこんなに、気を許してしまいそうになるのだろうか。彼の佇まいから、彼の言葉から伝わってくる雰囲気が、なんだか胸が詰まるほどに懐かしい。

 なんだろう、とダウジングもせずにぼんやり考えて、しばらくしてからふっと気づく。

 

 ……ああ、そうか。

 似てるんだ。

 お人好しで、物静かで、優しくて、のんびり屋で、世話好きで、まっすぐで、裏表がなくて、したたかで。

 そして、人の心を素直にする聡い力を持っていた、あの尼僧に。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 かつてナズーリンの隣には、妖怪鼠たちとはまた別に四人の仲間がいた。人間の尼僧と、船幽霊と、入道使いと、毘沙門天の遣いであるご主人様。尼僧を中心にして形成された、家族のような、一つの完成されたコミュニティだった。

 かつての話だ。尼僧が魔界に、船幽霊と入道使いが地底にそれぞれ封印されてしまって以降、コミュニティは崩壊した。ご主人様も、しばらく前に毘沙門天のところへ戻り、一から修行をやり直している。コミュニティが崩壊したあの日、なにもできなかった自分を二度と繰り返さないために。いつか来るべき日に、皆の力となるために。そしてナズーリンは幻想郷に残り、主人が戻ってくるまでの間の、ある種の監視役となった。

 今、ナズーリンがこうして誰かと一緒に道を歩くのは、もしかするとそれ以来の話なのかもしれない。道具を蒐集しに来た古道具屋や、霊魂を回収に来た死神と話をすることはある。けれどともに歩くことはない。みんなと一緒にいた頃を思い出してしまうから。だから初めから距離を置いて、近づかない、はずだったのだけれど。

 

「――君は、どうしてこんなところに来ようと思ったんだい?」

 

 先に声を掛けたのは、ナズーリンの方だった。ダウジングの邪魔はするなと釘を刺しておきながら、結局自分の方から話し掛けてしまうのだから、ナズーリンは心の中で己を笑う。

 ナズーリンの言葉に素直に従い、影のようについてくるだけだった、銀の狐。

 

「ここあるのは、見ての通り山と木と草と、無数の無縁仏だけだ。散歩をするのなら、他にいくらでもいい場所があったと思うけど?」

 

 ロッドの反応に意識を集中させたまま、彼を見ることもせずに問えば、答えはすぐに返ってきた。呑気に笑った気配、

 

「そりゃあそうだ。なにもないし、遠いし、腐臭はするし、まさにいいところなしだね」

「ならどうして、私の後ろをついてくるんだい? さっさと家に帰って、他にやりたいことをやった方が有意義というものだよ」

 

 続けて問いを重ねると、今度は沈黙が返ってきた。一瞥してみれば、彼は無縁塚の遠い山々を望んで、物思いに耽るように目を細めていた。

 どうやらワケありらしいと、とナズーリンは彼の表情を読み解く。ここが幻想郷随一の危険地帯と承知の上で、殺風景な自然と無縁仏以外になにもないと知った上で、果たそうとしているなんらかの目的がある。

 彼の答えは沈黙のままだった。けれどナズーリンは、無理に訊き出そうとは思わなかった。答えにくいなら答えなくてもいい。答えても答えなくても、ナズーリンと彼の関係は変わらない。

 ロッドに視線を戻し、再び意識を集中する。歩き出し、数度呼吸するだけの、間があって。

 

「――ここにはどれくらいの頻度で、外から人が迷い込むんだ?」

 

 ナズーリンは、ロッドから完全に意識を外して振り返った。彼はあいかわらず、遠くの山々をぼんやりと見つめるばかりで、ナズーリンの方には一瞥たりともしなかったけれど。

 

「わかる範囲でいいから、教えてもらえないかな」

「……」

 

 声が、やや据わっている。軽い気持ちで答えていいような質問ではないのだと、ナズーリンは判断する。なぜ彼がそんなことを気にするのか、いまひとつ推し量れなかったけれど、さほど難しい質問でもなかったので、記憶を遡って正直に答える。

 

「日によってまちまちだけど、平均すれば一日に一人二人といったところかな。今日は、既に一人いたみたいだね。私が見つけた時にはもう残骸になっていたけど、仲間が美味しくいただいたよ」

「……そうか」

 

 鹿爪らしい雰囲気を見せた割に、彼の答えは簡素だった。無感情な声で短く呟き、ようやくナズーリンを見て、淡く微笑んだ。

 

「ありがとう。ダウジング、続けてくれて構わないよ」

「……」

 

 やっぱり――と、ナズーリンは思う。

 やっぱりこの男は、あの人に似ている。種族も性別も外見もあまりに違いすぎるけれど、雰囲気というか、目に見えない奥にある部分が、どうしてか彼女を彷彿とさせる。

 言葉にはしない。まぶたを下ろし完全に口を閉ざした彼がこれ以上応じてくれるとは思えなかったので、気づかなかったふりをして、ロッドに目を戻す。

 大したことじゃない、と思う。何億という生命であふれかえっているこの星だ。あの人と雰囲気が似ている者など、世界中からかき集めればすぐさま数え切れなくなるだろう。

 その中の一人が、たまたま、ナズーリンの隣にいる。それだけの話。

 

「じゃあ、行くよ」

「ああ」

 

 ロッドの反応に従い、ナズーリンはまた歩き出す。色の悪い雑草を踏み、糸のように痩せ細った木の枝を躱し、冷たい春風が吹く中を歩いていく。

 ロッドが指し示す地点は、段々と近づいてきている。

 まあ今回も、見つかるのはガラクタだけなのだろうけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 というわけで、やっぱりガラクタだけだった。

 

「まあ、たまにはこんな日もあるさ。次回に期待だね」

「……そうだね」

 

 たまにどころか毎回毎回こうなのだと素直に白状できるはずもなく、ナズーリンはすっかり意気消沈しながら、家までの帰り道をとぼとぼと歩いていた。

 せっかく人が見ている前なのだから、カッコよくお宝を見つけ出して胸を張りたかったのだけど、やはり現実はそう甘くないらしい。あんな、なにに使えばいいのかすらわからないようなガラクタなど、持ち帰れば自分が憐れになるだけだ。廃品回収屋、もとい古道具屋の店主がやってきた際に教えるため、場所だけは覚えておくけれど。

 

「それにしても、遠回りさせて悪いね。まっすぐ戻りたかったんじゃないか?」

「構わないよ。ここはそう広い土地でもないからね、まっすぐだろうがそうじゃなかろうが大して差はない」

 

 ダウジングしながら歩いてきた道をそのまま引き返すのは味気ないからと、無縁塚をぐるりと一周回るように、わざと遠回りな方角を選んだのは彼だった。それに付き合うことにしたのは、ひとえに出来心だろう。

 まあ、もう少しくらいは、一緒に歩いてみてもいいかなとか。

 出会ったばかりの男なのに、どうやら自分で思っていたよりも人恋しくなっていたらしい。無駄にあの人のことを思い出させてくれる、彼が悪いのだ。

 

「……そういえば、まだ名前を言っていなかったね」

 

 名前なんて、どうせほんのひと時だけ出会って別れるだけの相手だから、名乗る必要も知る必要もないと思っていた。けれど、今となってはそうもいくまい。あの人に似ている、不思議な妖怪。今度ご主人様の様子を見に行く時に、もしくは、いつか地底から仲間たちが帰ってきた時に、いい土産話となりそうだから。

 

「私はナズーリン。この無縁塚で宝探しをしている、ただの卑近なダウザーだよ」

「よろしく。私は――」

 

 微笑み、名乗る、彼の唇の動きが、

 

「――ッ」

 

 小さく息を呑む音とともに、止まって。

 

「……どうしたんだい?」

 

 彼は、ナズーリンを見ていなかった。浅く眉を詰めて、張り詰めた顔をして、自分たちが歩を向ける先を睨んでいた。

 ――くちゃ、と、肉を喰む音。

 

「……ああ」

 

 それだけでナズーリンは、彼が見つめる先になにが広がっているのかを知った。

 ため息をつくように、前を見て。

 

「どうやら、二人目がいたみたいだね」

 

 血だまり。転がった肢体。群がる牙。

 この無縁塚ではさして珍しくもない、人が、妖怪に喰われている光景だった。

 群がっているのは、狼の妖怪だ。体長はナズーリンを超えるほど巨大で、けれど言葉を解すほどの知能がなく、本能のままに血肉を求めて無縁塚を彷徨い歩いている、限りなく獣に近い妖怪たち。

 十にも及ぶかという顎門に群がられ、(ほふ)られる人間の姿は、ほとんど見えない。だが、唯一ナズーリンの位置から確認できる細腕に既に生気はなく、ただ妖怪に(むさぼ)られるだけの肉塊と化しているのは明らかだった。

 まだ太陽が沈まないうちから、なんとも活発なことだ。それだけ飢えていたということなのだろう。バスケットの中で身を浮かせた仲間たちを、苦笑一つで制す。

 

「やめておきたまえ。おこぼれを狙ったところで、君たちなら逆に喰われるのがオチだよ。それに、食事なら少し前にしたばかりだろう?」

 

 チュー、と仲間たちが残念そうに鳴いたので、どうやら今朝の残飯処理だけでは満足していないらしい。小さな身体に反して、彼らは目の前の狼たちにも負けない、なかなかの健啖家なのだ。

 だが、その気持ちを汲んであの狼たちを追い払うつもりにはなれなかった。ナズーリンは毘沙門天の弟子にあたるまずまず格のある妖怪だが、特別腕っぷしが強いわけではないし、荒事も好きではない。

 なので、家に帰ったら私のご飯を分けてあげようかな、などと考えながら。

 

「さて、どうする? 回り道でもするかい? それとも――」

 

 横取りして、昼食にでもするかい? ――なんて、さっきから隣で黙ってばかりいる妖狐に、ほんの軽い冗談を言おうとした。

 ――風、

 

「……?」

 

 初めは、そよ風のように小さな違和感だった。ナズーリンの髪を撫で、梳くように、静かに妖気が流れている。

 それが誰の妖気かなど、疑問に思うまでもなく明らかで。

 

「君、」

 

 一体なにを、とナズーリンが口にするより早く。

 空気が爆ぜる音とともに、そよ風が逆巻く烈風と成る。

 

「――ッ!?」

 

 爆ぜた妖気に全身を打たれ、吹き飛ばされそうになって、目を開けてもいられなくて、ナズーリンは大きく後ろにあとずさった。突然の事態に悲鳴を上げた仲間たちが、こちらを置き去りにして一目散にどこかへ逃げ去っていく。――薄情者たちめ、どうやらご飯を分けてあげるという話はなしになりそうだ。

 舌打ちをするような余裕はない。

 

「……君! 一体どうしたんだっ!」

 

 吹き荒ぶ烈風が強すぎて、ナズーリンは両腕で顔を守りながら、叫ぶようにして問うた。渦の中心には、あの銀狐がいる。彼の妖気の奔流だった。放たれる力のあまりの強さに、流れがそのまま風と成るほどの。

 妖狐はナズーリンを見ていなかった。ナズーリンの声すら、聞こえていないようだった。強大な渦の中心で、ただ静かに瞋恚(しんい)の炎を燃やして、まっすぐに狼たちを見据えていた。

 烈風に打たれ、骸骨のような木々が、根本から折れそうなほどに大きくしなる。葉擦れの音は、もはや女のすすり泣きではなく、悲鳴のようにも聞こえる。ナズーリンの視界の端で、小石を杜撰に積み上げて作られた無縁仏が、呆気なく崩れ落ちていく。

 

「ッ……!」

 

 滅茶苦茶だった。彼の尻尾はたった一本。銀の毛並み以外にはなんの変哲もない、ごくごく普通の妖狐なのだと思っていた。だがナズーリンを圧倒する力の奔流は、並という言葉で片付けるには異常すぎた。

 烈風に乗せられ、彼の周りを銀の光が舞っている。乱れ狂う妖気が熱を孕み、銀色の炎を帯びては、流星のように煌めいて消えていく。

 或いは大妖怪にすら並ぶかもしれない、心の臓を直接殴りつけられるような、重さと、気高さ。

 強大な妖力に狼たちは一瞬気圧されたけれど、やっとありついた食料を奪われてたまるかと、一致団結のもと喉を震わせ威嚇を始める。……その瞬間、狼たちの体の向こう側で、ほんの一瞬だけ、喰われた人間の死顔が見えた。

 

 年端も行かない、少女だった。

 

 それを見た彼が、なにを思ったのかはわからない。そもそも、彼には、なにも見えてなどいなかったのかもしれない。

 ただ、静かに。

 

「二度は言わない――」

 

 けれどその声音は荒れ狂う風にも負けず、強く、深く、狼たちの奥底に響き渡る。

 

 

「――失せろ」

 

 

 ……力の差など、考えるまでもなく歴然だった。知能の低い未熟な妖怪たちですら、本能でそれを理解してしまえるほどに。明確な『死』というイメージを以て気圧された一匹が、小さく悲鳴を上げながら逃げ出せば、あとは烏合の衆のように容易く崩壊した。去り際に肉を持ち去ろうとする者すらおらず、完全に獲物を諦めた狼たちが、吸い込まれるように森の奥へと消えていく。

 あとに残るのは、血だまりと、かつては人間だった肉の塊。

 

「……」

 

 深呼吸をするように細く長く息をついて、彼が妖力を収めていく。やがて無縁塚にいつもの静寂が戻り、肩から力を抜けるようになっても、ナズーリンはなにも言えないままだった。なにかを言おうとすら思えないまま、ただぼんやりと、彼の横顔を見上げる以外にできなかった。

 く、と小さく、震えるように彼が笑った。

 

「……すまなかったね、驚かせて」

「あ……いや」

 

 咄嗟に否定しようとするが、上手く唇が動かない。ナズーリンは、言葉を探そうとして、喰い荒らされた人間の残骸を見遣った。人としての原型が残っているのは、頭と、左腕の一部分だけで、顔のつくりを見るに十を少し超えた程度の、本当に幼い子だったとわかる。

 もちろん、ナズーリンがそれでなにかを感じることはない。人間の、しかも見たこともない完璧な他人だ。憐れみはしないし、ましてや悲しみを抱くこともない。ナズーリンが人間の死を嘆くとするならば、それはこの世でたった一人、あの人が逝く時だけなのだから。

 けれど、彼は、違うようだった。

 

「……ナズーリン」

 

 少女の亡骸を見下ろし、彼は言う。

 悼むように。

 

「――少し、時間をもらっていいか?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そのおくり火は、淡い銀の色をしていた。薪も枯れ葉もくべることなく、彼の妖力だけを以て、彼の身の丈と同じほどにまで燃え上がり、亡骸を静かに灰へと変えていく。

 

「……そういえば、自己紹介が途中だったね」

 

 死者の眠りを妨げまいとするように、彼が穏やかな声音で言う。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ」

「……」

 

 銀の炎と、それを見守る妖狐の背を、ナズーリンは一歩後ろに退いた場所から、なにも言わずにぼんやりと見つめていた。結局、ナズーリンにはなんの言葉も掛けてやることができなかった。時間をくれと言った月見が、弔いの準備をする間も。そして銀のおくり火が燃える中で、こうして名前を教えてもらっても。

 言葉なら既に見つかっていた。だが、音にすることができなかった。声を掛けるのが躊躇われた。

 別に、強大な妖気に当てられて怖くなったわけではない。ただ、こうして人間を弔う月見の姿が、ナズーリンの知っている世界とは少し違うところに存在しているような気がして、迂闊に触れることができなかった。

 突飛といえば突飛だ。喰われた人間の埋葬自体は、森近霖之助という古道具屋の店主が道具探しついでにしばしば行っているので、さほど珍しいものではない。けれど、月見は妖怪だ。妖怪と人間の間に立っている霖之助とは違って、完全に魔の側に位置する存在だ。妖怪が人間を――しかも特別親しい間柄にあったわけでもない、まったくの赤の他人を――弔うという異常性を、この妖狐は自覚しているのだろうか。

 今、ナズーリンの心に強くあるのは――

 

「……」

 

 月見が両手を合わせ、眠るようにまぶたを下ろしている。ただ目の前にある一つの死を悼み、弔うために、彼は遺骸に群がる妖怪たちを追い払って、そして、おくり火の前で静かに祈っている。

 種族の壁を取り払って、妖怪が、人間を、憐れむだなんて。

 ――それじゃあまるで、人の身に生まれながら妖怪を救おうとした、あの人みたいじゃないか。

 

「……君は」

 

 祈る、その月見の背に、かつての彼女の姿が重なった。自分の意識が過去へと吸い込まれていくのを感じながら、ナズーリンはようやく口を開くことができた。

 

「君は、ここに人間を救いに来たのか……?」

「まさか」

 

 まぶたを上げた月見が、合わせていた両手を解いて小さく笑った。

 

「私はただ、無縁塚を見に来ただけだよ。この場所が、今の幻想郷にとって必要なシステムだってことくらいはわかってる。幻想郷の内側で妖怪と人間を共存させるためには、食料となる人間は外から連れてくるしかない」

 

 自嘲するように、

 

「わかっていたし、覚悟もしていたつもりだった。……しかしまあ、恥ずかしながら、実際に目の当たりにしてしまったら、我慢ならなかったわけだ」

「……」

「でもこれっきりだよ。ここがどういう場所かはもうわかったし、今後近づくことはない。……そうしないと、きっと、繰り返してしまうからね」

 

 関わってしまえば、きっとまた、救おうとしてしまうから。

 だからもう、関わらないようにする。

 

「……それでいいのかい?」

「そうしないといけないだろう? 私の身勝手で幻想郷のシステムを崩すわけにはいかない。紫にも怒られてしまうよ」

 

 彼の口から妖怪の賢者の名が出てきたことに、驚きはしたけれど。

 ナズーリンは表には出さず、緩く首を振って、銀のおくり火を見つめて思う。

 

(……まったく。いつまで寝てるんだい、みんな)

 

 地底に封印された仲間たちもそうだけれど――分けてもあの人には、絶対にこの妖狐を紹介してやりたかった。妖怪を想う物好きな人間に、人間を想う物好きな妖怪がいるんだと、教えてやりたかった。

 あの人があんなに夢を見て焦がれていた、人のために生きている妖怪が、ここにいる。

 けれど、教えられない。あの人の封印を解くためには、魔界へ渡るための聖輦船が必要不可欠で。その聖輦船は、他の仲間たちとともに地底に封印されていて、ナズーリンには手が出せなくて。結局ナズーリンにできるのは、この幻想郷で待ち続けることだけで。

 

「……君は、幻想郷のどこに住んでるんだい?」

「妖怪の山の麓近くに、水月苑という白い屋敷がある。そこだよ」

 

 ああ、とナズーリンは思った。妖怪鼠の情報網で、そんな名前の温泉宿が新しくできたらしいことは聞き及んでいた。

 月見が、どうしてそんなことを? と問いたげな視線を向けてきたので、正直に答える。

 

「会わせたい人がいるんだ。……今はまだ、色々と事情があってできないけど」

「ふむ?」

「でも、いつかは……君に会わせたい。会ってもらいたい」

 

 妖怪を想う人間と、人間を想う妖怪が、もしもいつか、出会えたのならば。

 

「……きっと、いい関係になれると思うから」

 

 月見はさておき、あの人の方はきっと彼に興味津々になるだろう。人間と妖怪がともに生きていける世界を創りたいと、病に冒されたように夢見ていたのだから。

 月見がおくり火に目を戻し、ふっと笑う。

 

「そうか。……じゃあ、時が来たら水月苑までおいで。歓迎するよ」

「……ああ」

 

 ナズーリンの見つめる先で、銀のおくり火が消えていく。月見の妖力でつくられた特殊な炎は、この短時間で、遺骸を完全な灰へと変えていた。

 

「あとはこれを集めて、塚を作って……だね。すまない、もうちょっとだけ待っててくれるか?」

「構わないよ」

 

 月見が、塚とする石を探して手近な木々の中に分け入っていく。その姿が見えなくなってから、ナズーリンは緩く息を吐いて、やれやれと思いながら二本のロッドを構えた。外の道具が多く流れ着く無縁塚だ。わざわざ家に戻るまでもなく、少し歩けばすぐに誂え向きのものが見つかるだろう。

 

「……遺灰を入れるものが要るね」

 

 今や灰となってしまったこの人間を、月見とともに悼むわけではないけれど。

 

「ああやって祈るところを見せられたら、私だけがなにもしないわけにはいかないしね」

 

 彼の背があの人に似ていたのなら、なおさら。ロッドの反応がすぐ近くだったのを幸いに、ナズーリンは骨壷を求めて歩き出す。

 途中、逃げ出した薄情者(なかま)たちがとてもすまなそうな顔で戻ってきたので、とりあえず蹴っ飛ばしておいた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……ありがとう、ここまで付き合ってくれて」

「礼を言われるほどじゃないさ。他にすることがあったわけでもないし」

 

 無縁塚から再思の道に入っていく途中で、月見はナズーリンへと振り返った。喰われた人間の弔いを簡単に終えたあと、ここまでの見送りを買って出てくれたのは彼女だった。家の前で初めて出会った時こそ睨まれたけれど、少しは打ち解けることができたらしい。

 ただそうすると、ナズーリンの住処が無縁塚にあるのが惜しい。今後月見の方から、この場所に足を踏み入れることはないだろうから。

 

「世話になったね」

「いいや。……次は、私の方から会いに行くよ。できることなら、君に会わせたいあの人を連れて……ね」

 

 ナズーリンがいう『あの人』とは一体誰なのか、月見は特に尋ねなかった。その話をする時、ナズーリンの表情に暗い陰が差すのには気づいているし、そうでなくとも向こうから詳しく話そうとしないのは、彼女が言った通り複雑な事情があるからなのだろう。

 今は無縁塚での出来事が少し尾を引いていて、あまり余計な話をしたいとは思えなかった。

 

「その時は、歓迎するよ」

「……ああ」

 

 そう言ってやれば、そよ風が吹き抜けるようにナズーリンが微笑んだ。小さな見た目にそぐわず皮肉屋というか、斜に構えた態度が目立つ少女だったけれど、ようやく外見相応に、無垢な笑顔が見られた気がした。

 ナズーリンと別れ、一人、乾いた春風とともに再思の道を進む。思ったことは多かった。けれど、そのすべてが靄みたいにとめどなくて、心の中で上手く形にならなかった。

 妖怪と人間の共生を謳う幻想郷の裏で、ああいった人喰いが毎日のように起こっていることに、失望したわけではない。予想していたし、覚悟だってしていた。ここでは人間が一人も妖怪に喰われないのだと、虫のいい願望を抱いていたわけではなかった。だが、実際に妖怪に屠られる人間の姿を見てしまえば、何百年も人とともに生きてきた身だけあって、心に刺さるものがあるのは事実だった。

 紫を責めようなどとは思わない。力のない妖怪たちは、血肉を得るために、生き抜くために、人を喰らわねばならない。今ではもう何千年も昔のことだが、生まれて間もない頃の月見だってそうだった。人を喰らうのが、妖怪が力を得るための唯一かつ絶対の近道だった。

 幻想郷では、外の世界から忘れられたたくさんの妖怪が生きている。天狗や鬼のように、高い知能を活かして独自のコミュニティを形成し、人を喰らうことをやめた妖怪たちがいる。一方で人語を扱えるほどの知能を持たず、獣のように、原始的に生き続けている妖怪たちもいる。

 そういった者たちの間では、縄張り争いや食料の奪い合いはまさに死活問題で、争いに勝つためには強くならねばならなくて、強くなるためには人間を喰らわねばならなくて。

 紫だって気づいているはずだ。月見と同じくらいに人間を愛する彼女なのだから、無縁塚の現状を、肯定的な目で見たりはしていないはずだ。

 けれど、妖怪が人間を喰らうのは、人間が動植物を食べるのと同じくらいの、謂わば立派な自然の営みで。だから、どうにかしたくても、どうにもすることができなくて。

 

「……月見」

「……紫」

 

 紫が、いた。まるで何十年も何百年も、気が遠くなるくらいに長い時を、ずっとひとりぼっちでいたかのように。強張っていて、震えていて、今にも泣き出しそうになりながら、再思の道の真ん中で、たったひとり、月見を待ち続けていた。

 月見が初めて出会った頃の、小さくて泣き虫だった、八雲紫。

 乾いた春風に揺すられて、痩せた木々たちが泣いている。

 

「つ、月見っ……あのねっ、」

 

 月見がなにかを言おうとするよりも先に、紫がそう切り出した。しゃっくりでもするような、脆い、声だった。

 

「私、ずっと、なんとかしたいって思っててっ……確かに無縁塚は、今の幻想郷に必要なものかもしれないけど、でもだからって、全然、このままでいいとか、ちっとも思ってなくて、だからっ……」

 

 教師に叱られまいとする生徒のようでもあったし、親に嫌われまいとする子どものようでもあったかもしれない。震える拳で胸を押さえて、瞳があふれそうになるのを懸命に耐えて、紫は言うべき言葉を探していた。

 

「黙ってたのは、ごめんなさいっ……でも、いつか絶対、なんとかするからっ……」

 

 こらえきれなくなって、声に涙の気配が混ざり始めても、紫は決して言葉を止めなかった。拙くても。不完全でも。情けなくても。それでも必死に言葉を探して、自分だけの、声へと変え続けた。

 肩で大きく、息を吸って、

 

 

「――だから、幻想郷を、嫌いにならないでっ……!」

 

 

 ……紫の最後の言葉が消えて、あとには葉擦れと、彼女が涙を押し殺す音だけが残った。月見はなにも言わないまま緩く空を仰いで、深呼吸をするように、長く深く息を吐いた。

 この感情を、敢えて言葉にするのなら、落胆だと思った。

 まっすぐに、紫を見て。

 

「紫。一つ言わせてもらうぞ」

 

 紫の肩がびくりと震える。構わずに続ける。

 

「お前、私をなんだと思ってるんだ?」

 

 紫の言わんとする意味はよくわかる。確かに月見は人間が好きで、無縁塚で名も知らぬ少女が妖怪に喰われる光景を目の当たりにした時、好意的な感情を抱かなかったのは事実だ。だから紫は、月見が幻想郷に幻滅してしまったのではないかと怖くなって、こうして涙をこらえて、嫌わないでと願うのだろう。

 つまりは、幻滅されたと、思われている。

 その評価は少し心外だなあと、月見は思うのだ。

 紫の言う通り、無縁塚すら必要なく、本当の意味で妖怪と人間がともに暮らしていけるのであれば、それはこの上ない理想の世界だろう。幻想郷は未だ、本当の意味で楽園となれたわけではない。

 けれど、だからといってどうして嫌いになろうか。月見は、紫がたくさん笑って、たくさん怒って、たくさん悩んで、たくさん泣いて、そうしてやっとの想いで幻想郷を創り上げたことを知っている。誰も仲間がいない、たった独りの状態から、ここまでの世界を築き上げたことを知っている。その頃の想いが、何百年と経った今でも、欠片も薄らいでいないことを知っている。

 

「確かに無縁塚の存在は、理想ではないだろうさ。……でもね」

 

 幻想郷に戻ってきて、水月苑での生活を始めて、月見はここにたくさんの笑顔があふれていることを知った。妖怪の山にも、紅魔館にも、永遠亭にも、人里にも。妖怪も、人間も、神も、みんなが思い思いに日々を過ごして、思い思いに笑って生きている。

 

「お前は、本当によくやってるよ」

 

 紫は今までの人生を幻想郷のために捧げてきたし、今だって捧げ続けている。恐らく彼女は、そうして己の一生を、この世界のために使い続けるのだろう。

 それは、月見にはとても真似できない、目も眩むくらいに、強くまっすぐな想いだから。

 

「前にも言った気がするけど、それは、私が代わりに胸を張ってもいいくらいだ」

 

 すべての人が、妖怪に命を奪われない世界。本当の楽園――そのためには、妖怪の生き方を根底から覆さなければならない。いくら境界を操ることができる紫でも、幻想郷を創り上げた以上の夢物語だ。叶えるための手段なんて、月見には到底想像できないし、紫だって同じだろう。

 なのに彼女は、いつか絶対になんとかするからと言う。作りものではない、命がこぼれ落ちるような、本物の涙とともに。

 そこまでされて、

 

「嫌いになんてならないよ。……なれるわけがない」

 

 だから、震える小さな紫の頭に、慰めるように手を置いて、微笑んでやる。陳腐だけれど、そうすることが、紫の変な思い込みを吹き飛ばしてやる一番のやり方だと思ったから。

 

「……いつか、なんとかできるといいな」

 

 紫は少しの間、その言葉を心に染み渡らせるようにゆっくりと息をして、それからまた、うえ、と小さく泣いた。

 悲しいからではなく。怖いからではなく。

 流れ星のように光って消えた彼女の涙が、決して冷たいものではなかったので。

 

「ほら、帰るぞ」

 

 紫の頭を軽く叩いて歩き出せば、彼女の横を通り過ぎた瞬間に、背中から両腕を回された。

 

「おっと」

 

 月見の足が止まる。こちらの背に顔を埋めて、紫が一度、大きくしゃっくりをする。

 

「月見」

「……なんだ?」

 

 背中から抱きつかれれば歩くこともできないので、月見が諦めて応じれば。

 背中越しで、紫が微笑んだ、気配がした。

 

「私、頑張るから」

「……」

「だから、また、支えてくれる?」

「さて」

 

 月見は、とぼけるように息をついて、

 

「でも、愚痴くらいならいつでも聞いてやるよ。……幻想郷を創ろうとした、あの時みたいにね」

「……えへへ」

 

 だらしなく笑って、紫が月見に回した両腕の力を強めた。

 それからたっぷりと一つ、長く呼吸をするだけの間。

 

「――よし、じゃあさっそく今日やりましょう! 今夜は水月苑でお月見をしながら宴会よっ!」

 

 涙のあともなくすっかりいつも通りになった紫が、月見から両腕を離し、拳を天に突き上げて叫んだ。

 その綺麗な百八十度の変わりように、月見は眉をひそめつつ、

 

「……今日? いきなりか?」

「だっていつでもって言ったでしょ? 藍も呼ぶわよ! 美味しい料理をいっぱい作ってもらうの! あ、そういえば月見って橙にはもう会ったのよね? なら橙も呼びましょうっ! 未来の八雲家をちょっと先取りってことで――あー待って先に行かないでよーっ!?」

 

 はっちゃけ少女を置き去りにしながら、早く家に帰って休もう、と月見は思う。なんだか急に疲れてきてしまった。歳だろうか。

 

「ねえ月見、スキマは使わないの? 一瞬で帰れるわよ?」

「歩いて帰れるなら歩いて帰るさ。お前もたまには体を動かしたらいいんじゃないか? これから宴会をするんだったら、大分食べるんだろう?」

「うっ……そ、そうね。これ以上増えるのはさすがに――あっ違うのよ、今のはただの言葉の綾であって、別に変な意味があるわけじゃなくて」

「ああ、わかってるよ。太ったんだろう?」

「大正かあああああい!! せめてオブラートに包んでよバカ――――ッ!!」

「肉が」

「いやああああああああッ!?」

 

 ふぎゃー! と変な声で叫んだ紫が、月見の背中に飛び掛かる。小さな大妖怪の少女を背中にくっつけた月見は、身体的にも精神的にも重たくなった足取りで、色々なものを諦めるようにため息をつく。

 また乾いた春風が吹いて、再思の道に葉擦れの音が響いた。

 クスクスと、子どもが笑っているような、葉擦れの音が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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