銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第48話 「阿礼が歩んだ道」

 

 

 

 

 

 人里に顔を出す時、妖怪である自分の姿を気にすることは、すっかりなくなっていた。初めて『人間』としてここにやってきてから、そろそろひと月近く。今や月見の存在は、妖怪であるにもかかわらず、里の住人たちから暖かく受け入れられるようになっていた。

 月見が悪い妖怪ではないと説明して回ってくれた慧音の尽力については、無論感謝する他にないが、もともと、里人たちが人外を見慣れているお陰というのもあったのだろう。人里には、日頃から悪意のない人外たちがしばしば足を運んでいる。永遠亭印の置き薬を配って回る月の兎であったり、食材の買い出しをする九尾の狐であったり、団子を頬張りながら仕事をサボる死神であったり、その死神を連れ戻しにやってきた閻魔様であったり、花を売りに来たフラワーマスターであったり、そもそも、里人なら誰しもが知っている、寺子屋の先生からして半分妖怪なのだ。悪意のない妖怪に対しては、里人たちは、こちらが拍子抜けしてしまうほどに好意的だった。

 道ですれ違えばご近所さんみたいに親しげな挨拶をされ、店の前を通れば「安くしとくよ!」と呼び止められる。子どもたちに出会えば、尻尾を遊び道具にされたり、遊んでと責付かれたりする。……つい先日に、無縁塚で少し苦い経験をしたからだろうか。あくまで人里の中に限っただけの話だけれど、こうして妖怪と人間が垣根なく笑い合える世界は、とても温かいものだと思う。

 土だらけの手で遠慮なく尻尾をもふもふしてくるいたずらっ子たちを、こらこらと追い返しつつ、月見は買い物袋片手に人里の大通りを進む――の、だけれど。

 

「……」

 

 ……耳を澄ませば、聞こえる。月見の後ろから、こそこそと、小走りするように追い掛けてくる小さな足音が。

 首だけで振り返れば、見える。物陰に隠れ切れずちょこんとはみ出した、薄紫の髪の上で咲く椿の花弁が。

 

「……阿求」

 

 椿の花が、ピクッと震えて物陰に引っ込んだ。

 

「……もうバレてるから、隠れても意味ないぞ」

 

 またぴょこりと出てきた。

 月見は浅くため息、

 

「こんなこと、いつまで続けるつもりなんだ?」

「いつまでだって続けますよ。諦めませんからね――」

 

 物陰から頭だけを出して、彼女は力強く宣言する。

 

「月見さんの幻想郷縁起、必ず書き上げてやりますから!」

 

 現九代目阿礼乙女、稗田阿求。

 選手宣誓というよりかは、宣戦布告のように。まるで親の仇でも目の前にしているかのように、少女の面持ちは精悍としていて。

 幻想郷縁起、という単語を頭の中で反芻させてから、なんだか面倒なことになってるなあと、月見は二度目のため息で(くう)を薙いだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「あなたが月見さんですね! ちょっとお話を聞かせてください!」

 

 事の発端は、阿求のその一言まで遡る。水月苑という新しい住居を手に入れたことで、生活用品を取り揃えるために人里で買い出しをしていた月見を、出し抜けに引き留めたのが彼女だった。

 

「……? 確かに私が月見だけど……」

 

 雅な少女であった。人里の少女といえば、大抵は手頃な値段の和服で素朴に着飾り、一方で男子にも負けない気の強さで元気に跳ね回っているのであるが、この少女はそれとは正反対。そんじょそこらの和服とは明らかに一線を画す作りのいい素材で、若草色の着物の上に、黄色の袖がついた上着を被せ、袴は鮮やかな赤色。薄紫のボブカットに椿をあしらった髪飾りを乗せて、一見華やかに着飾っており、咲かせた笑顔も明るいけれど、不思議と受ける印象は淡く儚い。

 この時点で、どうやら普通の里の子が話しかけてきたわけではないらしいと感じていたし、実際彼女の自己紹介は、その月見の推測を裏付けるものだった。

 

「私、九代目阿礼乙女、稗田阿求と申します。……『御阿礼の子』についてはご存じですか?」

「いや……?」

 

 聞き覚えのない言葉だが、そんな『阿礼乙女』などという大層な肩書きを、ただの人里の子が名乗るはずもなし。

 阿求はすぐに続ける。

 

「では、稗田阿礼という名は」

「……それはもちろん」

 

 知っている。知らないわけがない。現存する日本最古の歴史書、古事記を、太安万侶とともに編纂した稀代の大天才。月見も、直接の面識はないが、その顔を一度見に行ったことがある。相当昔の話なので、もう顔形は思い出せないけれど。

 まさか、と思った。

 

「……『稗田』って」

「ええ、その『稗田』です。そして『御阿礼の子』は、稗田阿礼が代々転生を繰り返して生まれた子を指す言葉なんです」

「……」

 

 なにやら、活気ある往来に満ちた大通りで話すには似つかわしくない、大層なお話だ。

 

「御阿礼の子には、会ったことがありませんか」

「そうだね。阿礼の顔は見たことがあるけど、面識はない。……そもそも、阿礼が転生を繰り返してるってこと自体が初耳だよ」

「そうですか。まあ昔は、このあたりの事情は稗田家だけの機密になってましたからね。転生とか、そういう寿命に関わる話には、うるさい時代だったと聞いてますから」

 

 確かに代々転生を繰り返す人間がいると公になっていれば、人間たちの中で大きな話題となっただろうし、妖怪たちの間にも噂くらいは流れてきただろう。

 加えて月見の記憶が正しければ、幻想郷ができて間もない500年前の時点では、『稗田』にまつわる話を聞く機会は一度もなかった。月見が外に出て行ったあとに、紫が手引きして幻想入りさせた血筋なのだろうか。

 

「とまあ自己紹介はこんなところで、ちょっとお願いしたいことがありまして」

「ふむ。聞こうか」

 

 あの『稗田』から直々のお願いとなれば、なんとも興味がある。とりあえず、大通りのど真ん中で話し続けるのもなんなので、広場の方に足を向けながら。

 

「御阿礼の子は代々、『幻想郷縁起』と呼ばれる書物の編纂を行っています」

 

 月見の隣を歩きながら、阿求は(そら)んじるように流れる口振りで言う。

 

「幻想郷縁起は、平たく言えば妖怪についての情報をまとめた書物でして。今回はそこに、月見さんの項目を作らせていただきたく」

「……ふむ」

 

 顎に手を遣って青空を見上げ、月見は静かに考える。妖怪についての情報をまとめた書物。書物を謳うからには、不特定多数に向けて公開されるはず。そこに月見の項目を載せるということは、月見のプライベートなあれやこれが、広く世間に筒抜けになると考えていいだろう。

 頷き、月見は笑顔で答えた。

 

「うん、お断りするよ」

「ありがとうございます! それじゃさっそくそこの茶屋にでも入ってってなんでですか!? ちょちょっ、待ってください行かないでくださいっ!」

 

 目的地を広場から水月苑へ百八十度変更、帰ろうとしたところで、慌てた阿求に袖を鷲掴みにされた。首だけで振り返れば、彼女は信じられないものを見るような瞳で月見を見上げていた。

 

「ど、どうしてですか!? ちょ、ちょっとだけでいいんです! お時間は取らせません!」

「いや、間に合ってるよ」

「なにがですか!? ちょっと、適当なこと言って丸め込もうとしないでくださいっ!」

 

 ふぬー! と袖をグイグイ引っ張られて、強引に振り返らされる。

 

「も、もしかしてお忙しいんですか? なら後日、日を改めてお伺いしますから……」

「や、そういうわけではないけど」

「じゃあなんでですか!? いいじゃないですか、ちょっとお茶をする程度の時間で済みます!」

 

 ふうむ、と月見は腕を組んで答えを渋った。断っておけば、決して阿求と話をするのが嫌というわけではない。問題なのは、ここで話に応じてしまうと、幻想郷縁起に月見の項目が追加されてしまうことだ。

 

「まさか、他に理由が?」

「……ああ。阿求、正直に言うよ」

 

 月見はなるべく仰々しい雰囲気を装ってそう切り出す。その雰囲気に気圧されて、阿求も「は、はい」と背筋をまっすぐに引き締める。

 そう。幻想郷縁起に月見のページができてしまうのは、正直に言ってよろしくない。

 なぜならば、

 

「本に私の名前が載るだなんて、こっ恥ずかしいじゃないか」

「あー、なるほど~…………は?」

「そういうわけだ。私のことは諦めてくれたまえ」

「待ちなさあああああい!!」

 

 そして躊躇いなく踵を返したところで、しかし阿求がすかさず回り込んできた。興奮のあまり頬を赤くし、両腕を大きく広げながら、彼女はすっかり困惑し切った声で、

 

「こ、こっ恥ずかしいってなんですかっ」

「そのままの意味だよ。話を聞く限り、幻想郷縁起は要は妖怪図鑑みたいなものだろう? 図鑑に私の名前が載るなんて、とてもとても」

 

 例えば烏天狗の新聞などとは違い、書物とは、時代を越えて人々に読み継がれていくものだ。特に幻想郷縁起は、御阿礼の子が転生を繰り返して編纂し続けている書物だというから、もはや立派な歴史書と言える。

 つまりその縁起に記された妖怪たちは、幻想郷の一つの歴史として、末永い未来にまで語り継がれていくわけで。

 阿求が両腕をぶんぶんと振り回す。

 

「恥ずかしいって、なに人間みたいなこと言ってるんですかっ。他の妖怪たちはみんな、『好きにしな』とか『あんたも暇だねえ』とかって笑いながら、適当に付き合ってくれたのにっ」

「中には私みたいな妖怪だっているだろうさ」

 

 月見はからからと笑って、ちょうどいい位置にあった阿求の頭をぽんぽんと叩いてやった。

 

「詰まるところ、気分じゃないんだよ。……これなら、妖怪らしい断り方だろう?」

「む~……!」

 

 心底気に入らないといった様子で、阿求がムスッと頬を膨らませた。恐らく、断られるなんて想定していなかったのだろう。俯き、うんうんと頭を捻って、やがてパッと顔を上げると笑顔で、

 

「じゃあ、もしお話を聞かせてくれたら油揚げをご馳走しますよ!」

「食べ物で釣ろうとしてもダメだよ」

「!? そ、そんな。狐なのに油揚げに釣られない……!?」

 

 阿求が瞠目して戦慄いている。釣ろうとしたのをまったく隠そうとしないあたりは潔い。

 

「藍さんはこれで一発だったのに! あなた、油揚げが好きじゃないんですか!?」

「いや、もちろん好きだけど……」

 

 ひとえに好物といっても、毎日でも食べないと満足できないタイプと、何日かにいっぺん食べられればそれで満足できるタイプがある。月見にとっての油揚げは後者だ。

 月見は肩を竦め、

 

「釣られるほどじゃないさ。長生きすれば、舌も変わるってことだね」

「長生きしてるって、どれくらいですか?」

「はいはい、さり気なく情報を引き出そうとしない。言ったろう、気分じゃないって」

「く、くううっ……!」

 

 また椿の花が咲く頭を叩いてやれば、阿求は込み上げる屈辱をこらえるようにふるふる震えていた。腹立たしげに眉を立てて、メモ帳と万年筆を取り出すと、何事かガリガリと力強く書き込んでいく。

 

「いいですもん、とりあえずいくつかのことはわかりましたもん。一つ、初対面の相手を子ども扱いする傾向がある。二つ、ノリが悪い」

「あのねえ……」

 

 月見が呆れると、阿求はしたり顔で胸を反らし、

 

「月見さんが悪いんですよ。だって話を聞かせていただけなかったら、私が見て感じたことを書くしかないですもんね。もしかしたらちょっと失礼な内容になってしまうかもしれませんけど、仕方ないですよね?」

 

 どうやら買収作戦の次は、恐喝作戦らしい。こちらに向けられた意味ありげな流し目は、暗に「失礼なことを書くぞ」と明言しているかのようだった。

 月見は阿求の頭から手を離し、緩く吐息。

 

「そもそも、私のことを諦めるって選択肢はないのかな」

「私が負けたみたいで嫌です。私にもあるんですよ、幻想郷縁起編纂者としてのぷらいどが」

「油揚げで買収しようとしたり、失礼なことを書くかもって脅したりすることがか?」

「真実を掴むためには、己の手を汚すのも已むなしです」

「それがお前のやり方なら私はなにも言わないけど、そういう誠意に欠ける相手だと、余計話をする気なんて起こらなくなるねえ」

「なっ……卑怯ですよ、脅すんですか!?」

「まずは鏡を見ようか、阿求」

 

 阿求はぷいとそっぽを向いて、手帳に三つ目の項目を書き込んだ。

 

「三つ、月見さんは人と真面目に話をしてくれない……と」

「ところで阿求、お前の幻想郷縁起って、その……そんなんでいいのか?」

「そっ、そんな不憫そうな目しないでくださいよー! 月見さんが話をしてくれないからじゃないですかあっ!」

 

 いー! と歯を見せて怒る阿求の姿は、へそを曲げた子犬によく似ていた。ぐるるる、なんて唸り声が今にも聞こえてきそうで、彼女のお尻あたりに逆立った尻尾が見える気がする。

 

「いいです、もうこうなったら自力で調べて書き上げてやります! 稗田の底力を見せてあげますからねっ!」

「そっか、頑張れ」

 

 まだ小さいのにそこまで頑張るなんて感心だなあと、若干温かい気持ちになりつつ微笑むと、阿求はまた口を一文字に引き結び、ふるふる震えて屈辱を耐え忍ぶのだった。

 

「あなた、さては私を子ども扱いしてますね……!?」

 

 実際子どもだろうに。

 阿求はまた万年筆を握り締め、

 

「四つ、月見さんはいじわるっ!!」

「書き上がったら私に見せてくれよ。身も蓋もない変なことを書かれたらたまったもんじゃないからね」

「いーっだ! どうなっても知りませんからねっ!!」

 

 月見としてはあまり深いこと考えていなかったのだけれど、どうやらこれが、彼女の熱意を非常に面倒な方向に燃え上がらせてしまったらしい。

 つまり、その日を境にして、月見は阿求にストーキングされるようになった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……いやお前、それは完全に自業自得だろう」

「まあ、そうなのだけどね」

 

 人里の中央広場は、子どもたちのかわいらしい活気で満ちていた。ちょうど寺子屋が休み時間ということもあり、広場を跳ね回って元気に遊ぶ子どもたちを、月見は近くの腰掛けから慧音とともに見守っていた。

 その折、阿求にストーキングされるようになった経緯を話してみたのだけれど……慧音から返ってきたのは冷たい半目で。

 

「言っておくけど、私は助けないからな」

「別に助けてほしくて話をしたわけじゃないよ。ただ……」

 

 月見は、首だけで後ろを振り返ってみる。今日も今日とて民家の物陰では、椿の髪飾りがぴょこぴょこと出てきては、引っ込んでを繰り返している。あいかわらずかくれんぼが下手な子だ。

 緩く、笑みの息。

 

「熱心な子だと、思ってね」

「面白い妖怪を見つけると、問答無用で幻想郷縁起に載せようとするのは……先代の頃から変わりないね」

 

 慧音が浮かべた苦笑には、過去を懐かしむ色があった。きっと彼女も、先代の御阿礼の子からしつこく話をせがまれたのだろう。

 

「そうか、幻想郷縁起には慧音も載ってるんだね。あとでちょっと見てみようか」

「み、見なくていいよあんなのっ。大したことは書いてないし――や、違うから阿求、そういう意味で言ったんじゃないから! だからお願い死なないでえええええ!?」

 

 真横にぶっ倒れて動かなくなった阿求を慧音が慌てて生き返らせに行っている間に、月見は膝に頬杖をついてぼんやりと考える。――代々転生を繰り返し、古来より一つの書物を書き続ける少女。果たしてその人生とは、いかなるものなのだろうか。

 寿命が底なしに長い妖怪とは違う、また死ぬことがない不老不死とも違う、死んでも新たな命を抱いて甦る、転生者。少し、興味を引かれる言葉だ。

 と、ふいに月見の足元にボールが転がってきた。それを追い掛けて、すぐに子どもたちが集まってくる。月見はボールを拾い上げて、一番に駆け寄ってきた男の子に手渡してやった。

 

「ほら」

「ありがと、狐のお兄ちゃん!」

 

 子どもたちの行動は素早いもので、一部は既に月見の後ろに回って、尻尾を触ったり叩いたりして遊び始めている。中には腰掛けの上に立って耳を触ってくる子などもいて、ちょっとした大所帯になってしまった。

 今となってはもはや慣れっこなので、怒鳴るような大人げのない真似はしないけれど。

 月見がすっかり子どもたちのおもちゃになっていると、ボールを受け取った少年が問うてきた。

 

「ねえ、狐のお兄ちゃん。お兄ちゃんって、けーね先生とどんな関係なの?」

「うん? ごくごく普通の、知り合いだよ……こら、耳を引っ張るな。痛いって」

 

 調子に乗って耳をグイグイ引っ張り始めたいたずら小僧をたしなめつつ、

 

「ほんとに?」

「本当だよ。……他になにに見えるってんだ?」

「んー、……お父さんとお母さん」

 

 ゴン、と背後から物音。見れば慧音が、民家の塀に頭をぶつけてうぐぐと呻いている。

 月見はとりあえず見なかったことにし、

 

「……からかってるのか?」

「そんなことないよ! だってお兄ちゃんとけーね先生、髪の色とか似てるから他人には見えないし……」

 

 少年は屈託なく、向日葵みたいに大きく笑って、とどめに一言。

 

「――二人で話してるところとか、ウチのお父さんとお母さんにすごく似てるもん!」

 

 ズシャア、と背後からまた物音。今度は阿求ではなく慧音が、真横にぶっ倒れて物言わぬ骸と化していた。

 そしてその傍では、阿求が瞳を爛々と輝かせて、ものすごい勢いでメモ帳になにかを書き殴っていた。

 

「……」

 

 あ、なんかそれわかるー。――確かにウチのパパとママにも似てるかもー。――僕は兄妹に見えるけどー? ――じゃあ私は恋人ー! ――などと、無邪気な子どもたちが好き勝手に盛り上がっていく中。

 月見は静かにため息をついて、とりあえず元凶である少年へ、

 

「こらこら。そういうことは、あまり声を大きくして言うものじゃないよ」

「そうなの?」

「ああ。……見なさい、慧音が真横にぶっ倒れて動かなくなってるだろう? あれは、お前の言葉がショックだったからだよ」

「そ、そうなの?」

「じゃなかったら、あんなところであんな風に倒れたりはしないだろう? 服が汚れちゃうのに」

「そ、そうだね」

「そうだとも。だからほら、みんなも盛り上がらない」

 

 更に恋人派と兄妹派に分かれて論争を繰り広げる全員に向け、

 

「お前たちも知ってるだろう? 慧音は人から茶化されるのが嫌いだ。……茶化された時、慧音はいつもお返しになにをしてた?」

 

 子どもたちの表情が瞬間的に凍りついた。

 それと同時に、慧音がむくりと体を起こした。肩が小刻みに震え始め、しゃっくりをするような笑みがこぼれ出し、蠢く銀髪はさながらメドゥーサの如く。

 

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ……」

「――みんな、ここまで言えばあとはわかるな? 自分たちがなにをすべきか」

 

 あふれた慧音の妖力が氷のような冷たさで背中に突き刺さってくるのを感じながら、聞こえてくる調子の外れた笑い声から全力で意識を逸らしながら、月見は子どもたちをぐるりと見回して言う。

 恐怖に強張った面持ちで、子どもたちはぎこちなく頷く。

 

「お、お前たち、いいいぃぃ……!」

「よし、上等だ。それじゃあ、みんな――」

 

 人から茶化された時、驚かされた時に、慧音がいつも反射的に取っている行動。

 それはすなわち、

 

「――逃げろ!!」

「「「うわああああああああああ!!」」」

「待てええええええええええ!!」

 

 頭突きによる、言論弾圧。

 蜂の巣を叩いたように散らばった月見たちを、慧音が半人半妖の身体能力を遺憾なく発揮して追い回す。

 一人、また一人と捕まっては例外なく頭突きを叩き込まれていく光景を見て、里の大人たちは、昔の苦い記憶を思い出したようにひきつった笑顔を浮かべていた。

 

 ちなみに月見、その日はなんとか逃げ延びたものの、後日、また人里に買い物にやってきたところを闇討ちされた。続け様に、「あのあとは本当に大変だったんだぞ!」と一時間ほど説教された。聞くところによれば、阿求を含め、なぜか一部の大人たちも同じような被害を受けたらしい。

 やはり、ひとたび上白沢慧音という少女をからかってしまうと、あとには身も凍るような血の制裁(ずつき)が待ち構えているのである。

 人里の茶屋では、月見と阿求を中心として、ささやかな被害者の会が催されていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 阿求のストーキングは、その後二週間ほど、月見が人里にやってくるたびに続いた。

 そしてある日、ぱたりと、消えた。

 初めは、充分な情報が集まったから家で編纂を始めたのだろうと思っていた。しかしどうにも、あまりに唐突だったからだろうか。なにかあったんじゃないかと妙な不安がこびりついて離れなかったので、立ち寄った八百屋で尋ねてみたのだけれど。

 

「――風邪?」

「ああ」

 

 オウム返しで問うた月見に、店主は眉を下げて頷いた。

 

「阿求ちゃんは、まあ、あんまり体が強い方じゃなくてよ。最近はよく外も出歩いてたし……ああ、あんちゃんのせいなんかじゃねえよ。もともと、月に一回くらいは体調崩すんだ、あの子は」

「大丈夫なのか?」

「熱はまだ下がってねえけど、大事ないってよ。慧音先生のお墨付きだ」

「そうか……」

 

 月見は小さく息をついた。まさか、阿求が体調を崩していたとは予想外だった。執拗にこちらの後ろを追い回す姿は、月見の目にはある種、生き生きとしているように見えていたのだけれど、本当は無理をしていたということなのだろうか。

 若干歯切れを悪くして、店主が続ける。

 

「なんでも、紫様に捕まって……夜通しで酒を呑まされたせいだとか」

「は? なんでそこであいつの名前が……というかなにやってるんだあのやんちゃ娘は」

「や、ほら……阿求ちゃんな、あんちゃんのことを知ってる連中に、色々話を聞いて回ってたみてえでよ。……そしたら、その話を聞きつけた紫様に誘拐されたらしい」

「……」

 

 月見は目頭を押さえて青空を仰いだ。

 まぶたに降り注ぐ太陽の光が、じんじんと瞳まで染み込んでくる。

 

「んで、そのまま朝まであんちゃんのことを語られまくって、酒も散々呑まされて、体調崩しちまったらしいぜ。慧音先生が様子を見に行った時に、ふざけんなーって元気に愚痴ってたらしい」

「あー……あの馬鹿はとりあえず置いておくとして、その様子だと、確かに大事はなさそうだね」

 

 なかなか皺が取れない眉間を揉み解しつつ、月見は苦笑した。ふざけんなーなんて元気に悪態をつくだけの余裕があるなら、心配もいらないだろうか。

 

「体は弱いけど――」

 

 店主は己の左胸を拳で打って、歯を見せる一笑。

 

「その分だけ心が強えからな、阿求ちゃんは。病は気からっていうし、すぐ治んだろ」

「そっか」

「でもまあ――」

 

 そこで、店主がふいに声の調子を変えた。腕を組み、顎を手で撫でて、なにかを露骨に期待するような眼差しで、月見を舐めるように見遣った。

 また、歯切れ悪く、

 

「あー……ところでよ。ウチの店はな、今日は果物が安い」

「……?」

 

 月見は店先の立て看板を見た。確かに、赤文字で大きく『果物特売日』と書かれているが、それがどうかしたのだろうか。

 店主はなおも、いまひとつ奥歯に物が挟まった様子で、

 

「中でも……特にりんごが安くてな。すりりんごにすると、輪を掛けて美味い」

「……ああ」

 

 そこで、月見は店主が言わんとしている意図を察した。なるほどそういうことかと、くつくつ喉を低く震わせて笑った。

 財布を取り出し、言う。

 

「それじゃ、いくつか包んでもらおうかな。……りんごだけじゃなんだし、適当に見繕ってくれ」

 

 一息、

 

「――阿求の家の地図と一緒にね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 稗田家は、阿礼の代から千年以上に渡って続く由緒正しい家系であり、人里でも大きな力を持つ名家だった。八百屋の店主が描いてくれた地図は、地図というよりかは落描きのような乱雑さだったのだが、それでも迷いなく辿り着けるほどに、その屋敷は立派で広大だった。

 千余年前に訪れた、かの竹取翁の屋敷を彷彿とさせる広さだ。人里で、ここよりも大きな建築物は他にないだろう。屋敷を囲う白の築地塀は、まるで内側と外側を違う別世界で仕切っているかのように、幽玄かつ凜然と佇んでいる。

 ただ門をくぐるだけで、どことなく畏まった心持ちになるのを感じる。なにも悪いことはしていないのに、咎められやしないかとわけもなく不安になる。それだけの偉容が、この屋敷には確かに存在していた。

 住み込みの使用人がいるのだろう。園路伝いに広がる庭園には、丁寧に人の手が入り込んでいるようだった。春風に吹かれ、さわさわと、庭の木々がたおやかになびく様を見ていると、気後れしていた心が静まり返っていく。

 驚くべきは、齢たった十余にして、既に阿求がこの稗田家の当主であることだろうか。幾度となく転生を繰り返せば、まだ子どもながら家名を背負えるほど熟達できるのか。その割には年相応に子どもらしい一面も多々あったから、使用人たちの間に、変な噂をばらまかれていなければいいのだけれど。

 月見が玄関の戸を叩くと、応じてくれたのは、(かしら)にややの霜を置いた初老の女性だった。女中なのだろう。初め、その両の目は優しげに細まっていたけれど、月見の姿を見るなり大きな驚きで見開かれたので、そこで初めて、月見は自分が妖怪の姿のままであったことを思い出した。人に化けておいた方が、よかっただろうか。

 

「ああ、私は――」

「――ええ、知っていますよ」

 

 とりあえず怪しい者じゃないと弁解しようとするも、まるで未来を知っていたように、女中が莞爾(かんじ)とした微笑みを咲かせた。

 

「銀色の毛を持った、妖狐。……月見様、ですね? 阿求様から、お話はかねがね聞いておりますわ」

 

 ゆったり、歩くような声だった。先を折られた月見はすっかり返事を忘れて呆けてしまったが、女性は特に気に留めた様子もなく続けた。

 

「まさか、こうしてお目にできるとは、思っていませんでした。……阿求様に、なにか御用でしょうか?」

「……ああ」

 

 どことなく、竹取翁を彷彿とさせる雰囲気の女性だ。少しだけ懐かしい気持ちになりながら、月見は右手の紙袋を掲げて答えた。

 

「阿求が体調を崩したと聞いたから、見舞いに」

「あらあら……まさか、妖怪の方がお見舞いに来てくださるなんて」

 

 女中は、たおやかな仕草で口元を隠して、

 

「それに、その紙袋……あの果物屋さんのもの、ですね。嬉しいですわ。ちょうど果物を、切らしていたところで」

「それはちょうどよかった。……あの子の具合は?」

「熱がまだ下がりませんが、元気なものです。ええ、早く風邪を治して、貴方様のことを調べるのだと、意気込んでおられますわ」

 

 ふふふ、と意味深に笑う女中に、月見は苦笑。

 

「……阿求は、私のことをなんて?」

「それは、正直に申し上げてよいものかどうか」

 

 つまりは、正直に答えるのを躊躇ってしまうような言い様だったらしい。どこかの閻魔様と同じで、性悪狐と叫んで回ったりしたのだろうか。

 月見が小さなため息と肩を落とすと、女中はたたえた笑みをそのままに、優しく首を振った。

 

「貴方様が、阿求様の仰るような妖怪でないことは、わかっていますよ。こうして、わざわざお見舞いに来てくださるのですから」

「……」

 

 本当にあの子、使用人たちになにを言い触らして回ったのだろう。月見のその心配を知ってか知らでか、女中はこちらに対して身を半歩後ろに引いて、奥の腕で屋敷の中を示す。

 白くて、少し傷んだ働き者の指先を、月見は目を丸くして見つめた。

 

「どうぞ、お上がりになってくださいな」

「……いいのか?」

 

 そんなになんの警戒もなく、初対面の妖怪を家に上げるだなんて。月見の内心の驚きを、彼女は表情から汲んだようだった。ええ、と頷き答える声音は、あいもかわらずに歩くような速度でありながら、一方で確信するように、強い。

 

「阿求様は、強がっておられますが、少しだけ心細くなっているみたいで。妖怪の方は、お体も大変丈夫で、風邪にはまず(かか)らないと聞きます」

 

 腹の上で丁寧に両手を重ね、こちらが気後れするほど畏まって、頭を下げる。

 

「よろしければ、少しの間だけ、阿求様にお会いになっていただけないでしょうか」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「なっ、なんであなたがこんなところ……ケホッ、ケホッ」

「ああ、阿求様。急に動かれてはお体に障りますよ」

 

 月見の見舞いは、案の定、阿求にはまったく歓迎されなかった。驚くあまり跳ね起き、直後体を折って咳き込んだ阿求を見て、召使いの女性が慌てた様子で駆け寄っていく。

 女中に支えられ、続け様に何度か咳き込みながらも、阿求は風邪を引いているとは思えないほど光の強い瞳で月見を睨み返す。

 

「なにしに来たんですか!」

「阿求様、この方は、阿求様のお見舞いに来てくださったんですよ」

「なんでですか!」

「今まで人里歩くたびにあとを尾けられてたんだ。ぱたりとやんだら、気になりもするさ」

 

 部屋に入ったらその瞬間怒鳴られそうだったので、月見は襖をくぐらず、入口に佇んだまま、

 

「それで里の八百屋で訊いてみたら、お前が風邪を引いたって」

「果物を、頂きましたよ。阿求様、ちょうどりんごが食べたいと、仰ってましたよね?」

「む、むうっ……」

 

 りんごという言葉が女中の口から出た途端、阿求は唇をへの字にして怯んだ。むむむ、としばらく月見を睨みつけて、やがて諦めたように、布団の中へと体を戻した。

 月見から顔を背けるように、寝返りを一つ。嫌味な声で、

 

「じゃあもう用は済みましたよね。どうもありがとうございました、気をつけて帰ってくださいね」

「阿求様……」

 

 困惑した様子で、女中が頬に手をやって吐息した。まさか阿求が、風邪を引いているにもかかわらず、ここまで月見に敵愾心を見せるとは思っていなかったのだろう。せっかく来ていただいたのですから、とか、阿求様はこの稗田家の当主なんですから、とか、そんな小言にも似た言葉で、なんとか阿求を振り向かせようとしていた。

 手持ち無沙汰になった月見は、意識と視線を部屋の方に向けてみる。

 阿求の私室なのだろう。広く、そしてがらんどうとしていた。年頃の少女が好むような置き物の類は一つとしてない。壁のほとんどすべてが本棚で埋め尽くされていて、時代を経た古い紙の匂いと、かすかな墨の香りが部屋中に満ちている。部屋の一角に置かれた机の上では、編纂途中だったらしい書物が広げられたままになっている。個人の部屋とするには広すぎる座敷の真ん中で、阿求の姿はいやに小さい。

 これが、齢十余の幼子の部屋。

 

「もう、阿求様ったら……」

 

 女中の、ほとほと困り果てたような声が聞こえた。どうやら説得は失敗したらしく、阿求はぷいとそっぽを向いて、月見たちに背を向けたまま黙り込んでいた。

 その背から放たれるのは、言葉なき「ほっといてください」オーラだ。説得を諦めた女中は、静かな足運びで月見の前まで戻ってきて、力及ばすと頭を下げた。

 

「申し訳ありません。阿求様ったら、もう、かわいくない意地を張って……」

「かわいくなくて悪かったですね」

 

 飛んできた不機嫌声に、万策尽きたとばかりに嘆息して、

 

「どうか、お気を悪くしないでください。ほんの少し、意地っ張りなだけなのです」

「……そうだね。それはなんとなくわかってるよ」

 

 阿求が意地っ張りなのは、こちらを追いかけ回していた今までの姿を思い出せば嫌でもわかる。

 

「せっかく来てくださったのに、申し訳ございません」

「ん……」

 

 女中の謝罪に、月見ははっきりとは答えなかった。答えないまま、彼女の肩越しに、不貞腐れたように狸寝入りしている阿求の後ろ姿を見つめた。

 ここで踵を返すのは簡単だった。けれど、こうやってわざわざ見舞いにまでやってきたからこそ、月見は改めて感じる。知的好奇心。御阿礼の子。千年以上も昔から転生を繰り返すその人生とは、いかなるものや。さる境遇で生まれ育つ少女とは、いかなるものや。

 阿求が、縁起を書くために月見のことを知ろうとしたように。

 月見もまた、阿求という転生者のことを、今少しだけ知ってみたいと思う。

 だから月見は、女中にそっと耳打ちをする。

 愉快ないたずらを思いついた、狐の笑顔とともに。

 

「一ついいか? 悪いんだけど――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 すぅー……と襖が滑り、ぱたん、と閉じる。そして部屋に静寂が戻ってきてようやく、阿求は肩肘張っていた体からふっと力を抜いた。

 遠ざかっていく足音が、月見のものであるのには気づいていた。そして、部屋にはまだ女中が残っていて、こちらの枕辺にそっと腰を下ろしたのにも気づいていた。

 降ってくるのは、また「稗田家の当主なのだから」などという聞き飽きたお小言だろうか。阿求は風邪を引いているのだから、そんなのは治ったあとでもいいだろうに。相手の機先を制するように、素早く言葉を投げ掛ける。

 

「どうしてあの人を屋敷に入れたんですか? 言いましたよね、慧音さん以外の人は誰も入れないでって」

 

 吐息し、

 

「――心配なんて、されたくないのに」

 

 月見さんはいじわる――かつてメモ帳に記したその一文が、必ずしも正解でないのにはとっくに気づいていた。この数日間、阿求は月見を知る人たちにたくさん話を聞いて回った。上白沢慧音に始まり、十六夜咲夜、東風谷早苗、霧雨魔理沙、八雲藍、彼がよく買い物をするというお店の店主、果ては里の子どもたちまで。そうやって調べれば、彼が妖怪とは思えないほどに人がよくて、温厚な性格をしていることくらいは簡単にわかる。特に十六夜咲夜と八雲藍は、彼のことを相当高評価しているみたいだった。

 だから、会いたくなかった。体調を崩した今の姿を見られたら、気を遣われてしまいそうだったから。腫れ物を扱うように。憐れむように。同情するように、言葉を掛けられてしまいそうだったから。

 

 気を遣われるのは、嫌いだ。

 

 今までの人生は、ずっとその繰り返しだった。特に最近は、御阿礼の子が短命で病弱であると広く知られるようになってしまったから、人から気を遣われる折がずっと多くなった。

 そして阿求は、短命で、体が弱い、そんな自分の境遇に同情するような言葉が大嫌いだった。

 相手の厚意を無下にするつもりはない。他者を思いやれる気持ちは、人としてとても尊いものだと思う。

 けれど阿求は、己の境遇を不幸だと思ったことなんて一度もない。

 短命でも。病弱でも。確かに体が弱いのは、時に大変だと思うこともあるけれど、それを憐れと感じた覚えは一度もない。

 短命でも。病弱でも。後世のために歴史を紡いでいく、この御阿礼の子の役目は、阿求にとってこの上なく誇らしいものだ。

 

 なのにどうして、こんなにも誇らしい私の人生を、他人から「可哀想だ」なんて見下されなければ(・・・・・・・・)ならない?

 

 人は、自分よりも恵まれていないものを見た時に、可哀想だと思う。自分の幸福と、他人の不幸の狭間で、憐れみという感情は生まれる。

 同情なんてのは、所詮、自分が相手よりも裕福だからできる心の贅沢なんだ。

 だから阿求は、同情されるのが嫌いだ。

 私はお前よりも恵まれてるんだぞと、言外に言われているような気がして、大嫌いだ。

 それは、傍から見ればとても卑屈なことなのかもしれないけれど。

 

「私は、大丈夫なのに」

 

 ……みんなから気を遣われなきゃいけないほど、弱くないのに。

 憐れんでほしいなんて、思ってないのに。

 そこまで一気に吐き捨てようとしたところで、阿求はハッと我に返った。いけない、と思う。感情に流されてよく考えないまま心を吐露してしまうのは、精神が弱っている証拠だ。

 普段なら、決してやらないようなミスだった。やっぱり風邪のせいで、少しだけくたびれてしまっているのかもしれない。

 自分自身を励ますように、できるだけ明るい声を飛ばした。

 

「そういえば私、りんごが食べたいんですよ。剥いてもらえませんか?」

「ああ――」

 

 そうして、傍らから返ってきた声は。

 

「それだったら大丈夫だよ。さっき、女中さんが準備しに行ったからね」

「――!?」

 

 阿求の予想よりもあまりに低く、穏やかだった。

 跳ねるように全身が震えて、その勢いのままに寝返った。女中ではない。とっくに帰ったものだと思っていた銀の狐が、阿求の枕辺で胡座を掻いて、座っていた。緩い三日月を描いてつり上がった彼の口端が、どうだ、驚いたろう、と笑ったのが見えた。

 

「な、あっ……!」

 

 叫び声なり悲鳴なりを上げて然るべきはずだったのに、驚くあまり、一周回って体が固まってしまって、口から出た音はたったそれだけだった。声を出すという手段自体が頭から消し飛んでしまって、ただパクパクと、痙攣するように顎を震わすことしかできない。

 水を失った魚みたいになっている阿求を見て、月見の笑顔が気まずげに崩れた。

 

「そ、そこまで驚かれると、ちょっと悪いことした気持ちになるね……」

「ど、どうしてあなたがここにいるんですかあっ!?」

 

 そこでようやく、阿求の胸の奥で溜まりに溜まった言葉の鉄砲水が、堰を砕いて飛び出してきた。

 

「うわちょっとなにナチュラルに入ってきてるんですかまままっまさか私が弱ってる隙に襲うつもりなんですかいやあああああケモノですケダモノですそんなことしたら幻想郷縁起に全部包み隠さず書いてやりますからね後世まで後ろ指を差されて生きていくことになりますよざまあみろです!!」

 

 息継ぎ。

 

「大体誰の許可を得てここにいるんですかここは私の部屋です乙女の部屋に勝手に入らないでください失礼です無礼です非常識ですお見舞いは終わったじゃないですか一体これ以上なんの用ですかうわーさてはやっぱり私を襲うつもりなんですねまさかあなたこんな子どもの体に興味があるんですかいやあああああケモノですケダモノです変態ですさっさと帰ってください人呼びますよっ!!」

 

 顔を真っ赤にして、肺の中身がすっからかんになるまで叫び通して。

 そして肩で息をしながら顔を上げれば、月見が目をまんまるにして、時を忘れたように呆然と固まっている。その姿を見たら、なんだか阿求もいきなり冷静になってしまって、呼吸する以外の一切の動きを止めて彼を見返してしまう。

 奇妙な沈黙。外で小鳥がさえずり羽ばたく音。嗅ぎ慣れた古書と墨の匂い。

 それを破って、く、と短く咳き込んだように鳴ったのは、月見の小さな笑い声だった。

 笑われた。いや、当然だ。阿求はそれだけのことを、勢いに任せて後先考えずに叫んでしまった。頭の中が焼かれたように熱くなる。

 

「や、悪い悪い」

 

 彼は未だ、喉だけでくつくつと笑いながら、ふうと一つ息をつく。

 呆れるのでもなく、嘲るのでもなく、ただ、安心したように。

 

「本当に元気みたいで、なによりだよ」

「……」

 

 口の中に準備していた文句のあれこれが、ぐっと喉の奥に吸い込まれて消えた。元気そうでよかった、なんて、夢にも言われるとは思っていなかったから、完全に毒気を抜かれたというやつだった。

 浮きかけていた体を布団の上に戻して、ため息をつく。

 

「私のこと、心配でやってきたんですか?」

「紫がなにやらやらかしたって聞いてね。それでちょっと気になって」

「うわ……」

 

 ひどい胸焼けを起こしたみたいに、体中に熱っぽい不快感が込み上がってきた。……嫌なことを思い出した。といっても、もうほとんど覚えていないのだけど。

 どうやら知らず識らずのうちに、相当なしかめっ面をしていたらしい。月見が若干面食らった様子で尋ねてくる。

 

「なにをされたのか訊いても?」

「そんなの覚えてませんよ。ええ、覚えられなくなるくらいに呑まされたんです。それだけは確実です。二日酔いしていないのが奇跡ですよ」

 

 吐き捨てるように言ってやれば、月見は天井を仰いで、ひとしきりの間嘆息していた。

 

「まったくあいつは……。昔から、羽目を外しすぎるとろくなことをしない」

「……月見さんは、紫さんと親しいんですよね」

 

 月見のことを語る紫の瞳がとてもとても輝いていたのを、まぶたの裏がぼんやりと覚えている。

 

「親しい……そうだね、腐れ縁みたいなものかな。あいつの奇行には、私もほとほと参ってるよ」

「むしろ私、ついこの間まで、紫さんにあんな一面があることすら知らなかったんですけど」

 

 煙が服を着て歩いているみたいに、のらりくらりとした胡散くさい性格――と、阿求の記憶と幻想郷縁起には刻まれている。あの姿と、昨夜の彼女の姿とはまるで別人だ。

 紫さんの縁起を書き直さないとなあ、なんて、半ば上の空になりながら思う。

 

「紫はね、元々の性格がそうだから」

「そうなんですか?」

「ああ。胡散くさいというか……そういうのは、大妖怪らしさを出すためのキャラ作りなんだよ。あれで、結構形から入りたがるタイプでね」

「……詳しいんですね」

 

 腐れ縁だからね、と月見は小さく頬を掻いた。

 

「ともかく、あいつには私から油を搾っておこう。……もっとも、もう藍にこってりやられてるだろうけど」

「……ええ、そうしてください」

 

 二度目があるのだとしたら笑えもしない。治まっていた頭痛が舞い戻ってきたのを感じながら、阿求は枕に深く頭を預けた。

 彼を追い出そうという気持ちはすっかり消えていた。けれど、これ以上話をするつもりもなかった。まぶたをすぼめ、天井の木目を眺める。このまま彼が黙っているのであれば、もう眠ってしまおうかなと思って、阿求は部屋に染みついた古書の匂いに意識を委ねようとした。

 

「――転生を繰り返す人生というのは、一体どういうものなのかな」

 

 その静寂を波立てない、風が流れるように静かな問いが、しかし唐突に阿求の耳に届く。閉じていたまぶたを浅く持ち上げて見てみれば、彼はこちらを見ていなかった。壁を埋め尽くす書架の列に、左から右へとゆっくり目を通しながら、まるで(そら)んじるかのごとく、唇を動かしていた。

 

「それは、楽しいのかな」

「……」

 

 或いはそれは、問いですらなかったのかもしれない。目についた本の背表紙を読み上げただけの、ただの独り言だったのかもしれない。

 ここで阿求が聞かぬふりをして夢に落ちても、きっと彼はなにも言わないだろう。少なくとも、明確な答えを期待しての問いだとは思えなかった。

 だから阿求も、ただの独り言のつもりで、天井の木目を追うように自分の人生をなぞった。

 

「楽しくは、ないですよ」

 

 先代以前の記憶は()うに消えているけれど、稗田阿求の人生を思い返して、紡ぐ。

 

「転生の負荷かなにかかはわかりませんけど、御阿礼の子は代々短命で病弱です。ついでに言えば、転生の準備をするために生きているうちから色々準備をしないといけないので、自分の好きなように生きることができるのは、ほんの二十年ぽっちでしょうか。ああ、稗田家の当主だとかを絡めればもっと少なくなりますね。……笑っちゃいますよね。もう人生の半分を折り返してるんですよ、私。これだけ言えば、私がどういう人生を繰り返しているのかは推して知るべしでしょう」

 

 そこで一旦言葉を区切って、阿求は横目で月見を見遣った。果たして彼はこちらを見ていないし、そもそも、今の言葉を聞いていたのかどうかすら怪しい。その視線は、書架の一角――ちょうど幻想郷縁起が収めてある箇所で留められている。

 

「見せてもらっていいかな?」

 

 まぶたを下ろし、短く答える。

 

「ご自由に」

「ありがとう」

 

 着物が擦れ、彼が立ち上がる音。畳の鳴る音が、阿求が踏むよりもずっとゆったりとしたリズムで遠ざかっていく。

 その気配を感じながら、阿求は言葉を紡ぎ直す。

 

「平気で千年以上を生きるあなたたちにはわからないでしょう。繰り返されるとはいえ、たった二十年そこらで終わる人生がどんなものかなんて。

 転生には百年以上時間が掛かりますから、繰り返すたびに、人から忘れられます。記憶は引き継がれませんから、繰り返すたびに、ゼロからの再スタートです。御阿礼の子の役目は決まっていますから、繰り返すたびに、同じ轍の上を歩き直すんです。

 ええ。この人生、」

 

 唾を、飲み込み、

 

「――楽しくなんて、ちっとも、ないんですよ」

 

 いつしか独り言は、月見の背へと向ける明確な言葉となりつつあった。彼の言葉を聞きたかった。こうして阿求の境遇を知って、彼がなにを思うのか知りたかった。

 

「どう思いますか?」

 

 彼は心優しい妖怪らしい。十六夜咲夜が、スカーレット姉妹を仲直りさせてくれたんだと、本当に嬉しそうに語っていたのを覚えている。

 本当か? 彼は本当に心優しいのか? 他の人たちと同じように、安易な気持ちで同情を振りまくだけの、機械みたいに冷たい優しさではないのか?

 同情することと優しいことは、違う。

 もしもあなたが、本当に心優しい妖怪なら。

 

「こんな人生しか送れない私を、あなたは、どう思いますか?」

 

 この想いを、見抜いてほしかった。病弱で短命という、そればかりに囚われて、可哀想だなんて決めつけないでほしかった。

 確かに阿求に与えられた人生は、お世辞にも、楽しいものとはいえないけれど。辛いこともあるけれど。

 でも、嫌いじゃないんだと。御阿礼の子として生きる二十年は、楽しくないし、大変だけれど、でもとても誇らしいものなんだと。

 この想いを、見抜いてほしかった。

 彼は応えない。阿求が最近編纂したばかりの縁起を手に取って、指先で紙の縁をつまんで、めくる。年季の入った紙がこすれる、かさりと乾いた音。阿求の好きな音。その薄っぺらい、破れば風に乗せられどこかへ消えてしまう一枚の紙に、阿求がどれほどの想いを込めたのか、見抜いてほしかった。

 一体どれほど、阿求は待ち続けただろう。

 

「……ふむ」

 

 一息。

 彼は、それから答えた。

 こちらを振り返ることもせず、

 縁起のページを静かにめくって、

 触れれば溶けていくように、柔らかな声音で、

 滔々と、たった一言。

 

「――阿求は、すごいね」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 確かに月見には、たった二十年で終わる人生がどのようなものかなんてわからない。もう月見は、その何十倍もの時間を生きてしまったから。

 ただ、きっと一瞬なんだろうな、とは思う。妖怪だろうが人間だろうが関係ない。二十年の人生というのは、恐らく、太陽が登り始めてから沈むまでと同じくらいの、ほんの一瞬の時間でしかないのだ。

 あと十年かそこらかするだけで、この少女は、もう幻想郷の向こう側の世界に渡ってしまう。

 だからこそ、月見は素直に、すごいと思った。

 

「……すご、い?」

「ああ」

 

 気の抜けたような阿求の声に背で相槌を打って、月見は幻想郷縁起の頁をめくる。

 この世の妖怪についてまとめた、一つの歴史書としての出来を問えば、あまり優れているとはいえないかもしれない。言うなれば、趣味でしたためた妖怪の観察日記だろうか。視点は客観的でなく、文章は論理的でなく、読みやすいといえば響きはいいけれど、月見の知識欲を刺激するほど学術的な価値はない。

 けれど月見は、この本を好きだと思った。こんなにも温かい本を手に取るのは久し振りだった。頁をめくるたびに、指先で感じる。文を読むたびに、心で感じる。この縁起の編纂に、阿求がどれほどの想いを込めているのかを。

 

「たった、二十年でも」

 

 それは愛であり、誇りであり、稗田阿求という少女のすべてだった。稗田阿求という少女が、生きてきた道そのものだった。

 

「それでも、こんな本を書けるんだから、すごいことだよ」

 

 この本は、息をしていると、月見は思う。人の手で、一枚一枚丁寧に作られた紙の触感。最近になって編纂したばかりなのか、文字の一つ一つから香るかすかな墨の匂い。そして、読むたびに脳裏に浮かび上がってくる、この縁起を編纂する阿求の姿。

 笑っている。体調が優れない時も、嫌なことがあった時も、辛い思いをした時も。阿求は、いつも笑顔で、この縁起を編纂し続けている。

 生半可な想いでできることではない。この本を編纂することに、たった二十年しかない命を、全部(なげう)ってもいいと。冗談でも伊達でもなく、本気でそう信じているから、短命でも、病弱でも、悲嘆せずに、笑顔で日々を歩んでいる。

 

「それは、すごいことだよ」

「なんで……あなたは、私を可哀想だと思わないんですか? たった二十年そこらの命を、憐れだと、思わないんですか?」

「さて、どうだったかな」

 

 この本を読む直前までは、その気持ちがなかったわけではない。けれどこうしてこの本を手に取ってなお、阿求が憐れだなどと、思えるはずがなかった。

 だって、本人にその気持ちがないのだから。それどころか、たった二十年の命に、誇りすら見出しているのだから。わざわざ憐れむ理由がなかった。

 だから、

 

「――そんなことは、縁起を読んでいるうちに忘れてしまったな」

 

 縁起を閉じ、痛めてしまわないように、静かに書架へと戻して。

 

「なあ、阿求――」

 

 振り返り、

 

「気が変わった。この縁起に、私のことも載せてくれないか?」

「ふえ!? な、なんですかいきなりっ」

 

 まるで告白でもされたみたいに、阿求が顔を真っ赤にして飛び起きた。直後に少しふらついて、両腕を杖にしながら、

 

「だってあなた……あ、あんなに嫌だって言ってたじゃないですかっ」

「言ったろう、気が変わったんだよ」

 

 月見はもう一度書架を見る。一代に一冊。そうして今や九冊目となった縁起の背表紙に、また指をかければ、そこから本の確かな息遣いが伝わってくる。

 理由なんて簡単だ。人の心をいとも容易く変容させてしまう、病にも似た感情の名前。

 

「一目惚れみたいなものかな。私は、この本が好きだ」

「――」

「だから、私の記事を書いてもらえたら、とても光栄かなって。……それだけの話だよ」

 

 本に、恋をするということ。何千、何万という本を今まで読んできたけれど、ここまでの別嬪さんはそうそういやしないと、月見は一本取られた思いで苦笑する。

 背表紙から指を離し、

 

「だから――」

 

 書いてみてくれないかな、と、振り返って、その言葉を音にしようとした。

 ――雪解けのように涙を流す阿求の顔を、見るまでは。

 

「え――」

「あ――、やっ、み、見ないでくださいっ!」

 

 ほんの一瞬だった。我に返った阿求はすぐさま顔を枕に押しつけて、頭の先まで布団を被り、巣穴に逃げ込んだ小動物みたいになってしまう。

 それがあんまりにも刹那の出来事だったから、見間違いかと思ったけれど。

 

「ち、違っ……これはその、わ、私は風邪引いてます、からっ! だから、ちょっと、鼻がツンってしちゃっただけ、でっ……」

「……」

 

 聞こえる涙声からして、間違いはなさそうだ。そして、風邪を引いているからという説明が、ただの言い訳であることも。

 まさか泣かれるとは予想していなかった。嬉しかったからなのか、それとも嫌だったからなのか。呆気に取られるあまり、思考の巡りがいまいち悪い。

 まあ、いつまでも棒立ちになっているわけにもいかないので、ふっと笑って気持ちを入れ替える。

 

「どうしたんだ?」

「っ……」

 

 歩み寄れば、布団の中で阿求の体が震えたのがわかった。月見はその隣に腰を下ろす。色の薄い小さな指が布団の端をぎゅっと掴んで、絶対に見ないでと、懸命の意思表示を行っている。

 もちろん、その殻を無理やり引き剥がすつもりはないけれど。

 

「嫌だったか?」

「ち、違いますっ!」

 

 否定の言葉は、焦ったように早口だった。

 

「ただ、そんな風に言ってもらえたのは、初めて、で。だ、だから、」

 

 長い葛藤の間があって、やがてぽそりと、

 

「……ぅ……ぅれしく、て」

 

 少し熱っぽくなった指先が、小さく震える。その気持ちを吹き飛ばそうとしてか、やけに空元気な声が、布団の中から響いてくる。

 

「も、もおっ、いきなり変なこと言わないでくださいよっ。私、結構冗談抜きで、縁起の編纂に命懸けてるんですからね? 一目惚れだとかなんだとか言われたら、びっくりしちゃうじゃないですか」

「ッハハハ、悪い悪い。……でも、本心だよ」

 

 ビクン、と布団が飛び跳ねた。

 

「う、うううっ。だ、だから変なこと」

「変なことじゃないさ」

 

 阿求の涙声を遮って、繰り返す。

 

「ああ。――変なことじゃ、ない」

 

 この感情が変なものなのだとしたら、まるで月見の見る目がないみたいではないか。幻想郷縁起が、人から恋をされるに値しない、ただの平凡な妖怪観察日記みたいではないか。

 そんなことはない。幻想郷縁起は、間違いなく素晴らしい本だ。機械で勝手に大量生産され、一律な価値を勝手に付与されるばかりな外の本とは違う。本を形作る紙の一枚一枚に。本を彩る文字の一つ一つに。本を綴じる糸の一本一本に。そのすべてに阿求の指先が通い、想いが、込められている。決して金で釣り合わせることなどできない、温かくて尊い息遣いが、幻想郷縁起にはある。

 

「……幻想郷縁起は」

 

 震える声で、阿求が言った。

 

「幻想郷縁起は、最近は、あんまりいい評価をされないことも多いんです。元は、初代御阿礼の子である稗田阿一が書き始めた本で、力のない人のために、妖怪の生態とか弱点とかを書き記してたんですよ。でもそんなの、妖怪と人がほぼ共存している幻想郷じゃ、毒にも薬にもならないじゃないですか。だから人によっては、縁起を編纂する私を、なんでそんなことしてるのかなあ、って変な目で見たりするみたいなんです。こんなの、転生してまで書き続けるようなもんじゃないだろって言う人もいるんですよね。こんな誰でも書けそうな本を書くだけで転生できるなんてずるい、とか言われたこともあります。まったくもう、困っちゃいますよね」

 

 その声は、一見すると、笑っていたけれど。

 

「さ、さっきも言いましたけど、私って、縁起の編纂に結構命懸けてるんですよね。こんな本、かもしれませんけど、それでも私にとってはかけがえのない本なんです。ほんの二十年しか生きられない御阿礼の子が、たった一つ、この世に遺していけるものなんです。だから私は、代々縁起を書き続ける御阿礼の子の役目に、少なからず、誇りを感じてたりするんですよ。

 なのに、こんな誰でも書けそうな本、とか。

 こんなの、転生してまで書き続けるようなものじゃない、とか。

 そ、そういうのって、なんだか、御阿礼の子のすべてを否定されてるみたいで、嫌、じゃないですか」

 

 泣き笑い、の声。

 

「だから、たまには悩んだり、するんですよね。もうこれ以上、転生なんてしなくてもいいんじゃないかって。もう、ほとんどすべての人たちから必要とされていない縁起を、これ以上書き続ける意味なんて、ないんじゃないかって。

 御阿礼の子が、生きている意味なんて。もう、ないんじゃないか……って」

「……」

 

 一方的な感情の発露を、月見はただ、なにも答えずに聞いた。多分、今まで誰にも吐き出したことなんてなかったのだろう。こんなにも弱い自分の姿を、人前に晒したことなどなかったのだろう。きっと阿求は、かわいい見た目をして、とてもプライドが高い少女だから。弱い姿を決して人には見せようとしない、孤独なほどに誇り高い少女だから。

 だから彼女は今だって、布団の端を握り続ける指先を、絶対に緩めようとしない。

 

「……月見さん、教えてください」

 

 揺れた声のまま、阿求が問うた。

 

「私は、いい本を、書けていますか?」

 

 祈るように、

 

「本を、書き続けても、いいんでしょうか」

 

 問われるまでもない、と月見は笑った。

 

「もし縁起を馬鹿にして笑うやつがいたら、その時は私も笑おう。――お前は本当に見る目がない、ってね」

「っ、ぅ……」

 

 必死に押し留めていた感情が、揺らぐ気配。爪が隠れて見えなくなるほどに、強く布団の端を握り締めて。こぼれ落ちそうになる声を、喉の力を振り絞って懸命に押さえ込んで。

 

「わかり、ました」

 

 布団の下に隠れたその表情は、月見からは見えないけれど。

 それでも阿求は、きっと笑ったと思う。

 

「書きます、あなたのことを。……書かせて、ください」

 

 今まで己が歩み続けてきた道を、誇るように。

 

「最高の縁起を、書いてみせますから」

 

 布団の中で、もぞもぞと阿求が動いた。少ししてから端を持ち上げ、ちょこっとだけ顔を出して、涙の跡が残る眼差しで月見を見上げた。

 

「……お話、聞かせてくださいね?」

「ああ」

「約束、ですよ? あとになってやっぱり恥ずかしいなんて、ダメですからね?」

「もちろんだとも」

 

 だから。

 そう言って月見は、阿求の頭をそっと叩いた。

 

「まずは風邪を治して。そしたら、お前の気が済むまで付き合うから」

「……わかりました」

 

 それ以上は、また恥ずかしくなったのだろうか。阿求は布団を頭の先まで引き上げて、逃げるように、月見の向こう側へ寝返りを打ってしまう。

 少し、長い沈黙があって、

 

「そ、そういえば。りんご、遅いですね」

「ん? ああ、そうだね……」

 

 右肩上がりな声に言われて、月見が襖の方を見てみる――と。

 

「あ」

「……あら」

 

 襖をちょっとだけ開けて、絶賛覗き見中だった女中と、目が合った。

 病人とは思えないほど暴れ回る阿求を宥めるのに、とても苦労した。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 それから三日後、人里での買い出しの途中で。

 月見はふいに、少女に背中を呼び止められた。

 風邪はもう大丈夫なのかいと、月見が問えば。

 もうなんてことはないですと、少女は答えた。

 

「さあ――お話、たくさん聞かせてもらいますからねっ!」

 

 そよ風に吹かれてなびく、薄紫色の髪の上で。

 白い椿の花が、とても誇らしげに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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