銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第50話 「ここから、また」

 

 

 

 

 

『天魔様ああああああああっ!! 今日という今日は許しませんからねえええええ!?』

『ぎゃあああああ!? 椛っ、ちょっ、危なっ、ひやっ――だ、誰か助けてええええええええ!?』

 

 

「……またやってる」

 

 いつもの光景だった。穏やかに晴れた晩春の青空。今日も妖怪の山では哨戒天狗が見回りをし、山伏天狗が書類の印刷を行い、鴉天狗が新聞を配って回っている。そしてどこかで、怒りの椛に追い回される天魔が悲鳴を上げている。まったくもって、いつもの光景である。

 なにもかもが見慣れた光景の中、文は友人を訪ねるために、天狗の大屋敷の中を歩いていた。

 文の右手には、紙製のファイルに収められた数枚の書類がある。明日の朝一発行予定である『文々。新聞』最新号の原稿を、先ほどやっとこさ校正し終えたので、山伏天狗の友人まで引き渡しにいこうとしているところだ。

 

『ごめんなさああああああああい!?』

『待ちなさあああああああああい!!』

「……」

 

 窓のすぐ外で天魔と椛の声がドップラー効果していくが、気にも留めない。広大な大屋敷の廊下を何度も曲がり、進んで、ちょうど天魔の断末魔が響いたところで、ノックし慣れた扉の前まで辿り着く。

 扉越しに友人の名前を呼べば、すぐに返事。

 

「はいはーい。……あ、文」

 

 扉を開けて顔を出した友人にも、先ほどの断末魔を気にしている様子はまったくなかった。何事もなかったかのように、文の右手のファイルを見るなりニカッと笑って、

 

「お、今回の原稿? お疲れー」

「ええ」

 

 原稿をファイルごと手渡す。友人は紙面の内容にさらりと目を通して、感心したように、

 

「おー、今回もよく取材してきたねえ」

「大したことじゃないですよ」

「またまた。こんな風にあっちこっち飛び回ってネタ集めしてくるのなんて、文くらいだよ。だから充分大したもんじゃん」

 

 それは文が大したものなのではなく、他の同僚たちがおかしいのだ。内輪ネタで盛り上がっていればそれで満足な同僚たちが、新聞記者の肩書きを名乗っているのは滑稽だと文は思う。あんなのは新聞記者のあるべき姿ではない。まあ、趣味だからといわれればそれまでなので、文に強く言う権利はないけれど。

 

「じゃ、今回は何部刷る? 前回と同じでいい?」

「……、」

 

 問われた瞬間、脳裏にいきなり銀狐の姿が浮かんで、文は自分で自分にびっくりしてしまった。

 月見が『文々。新聞』の購読を希望している、と天魔から聞かされたのはつい先日の話だ。あれから一晩以上悶々と悩みに悩んだものの、未だに、彼の希望に応えるかどうかは結論できていない。

 自分の新聞を選んでもらえたのは、素直に嬉しい。今まで何百年も外の世界で生活してきた月見だから、きっと新聞も読み慣れているだろう。そんな彼のお眼鏡に適ったということは、『文々。新聞』は、新聞としてある一定の完成度を持っていると考えていい。

 大部分の鴉天狗にとって、新聞づくりとは一介の趣味であり暇潰しの延長線でしかないので、山の外まで出て行って取材に奔走する文を、物好きな目で見ているやつらも多いけれど。

 少なくともそんなやつらの新聞よりも、文の書いたものは、優れていた。その点は何度考え直しても嬉しいし、機会があれば、礼の一言くらい言ってやらんでもないとすら思えるほどだ。

 しかしながら、じゃあこれから毎回月見に新聞を届けてあげるか、となれば話はまったく別なわけで。

 

「文ー? どうした?」

「えっ……」

 

 友人に顔を覗き込まれ、はっと我に返る。

 

「ああ、いえ。とりあえず、前回と同じでいいです」

 

 元々、希望者にサンプルで配る分も入れて余分に刷っているのだ。仮に、万が一、いや億が一、彼のところへ届けに行くようなことになっても、困りはしない。

 

「はいはーい。じゃ、今日の夕方頃にはできあがるから」

「ええ、お願いします」

「あいよー。んじゃーまた――っと、そうだ」

 

 戸を閉め部屋に引っ込もうとした友人が、ふと立ち止まって。

 にんまりと、なんとも嫌らしい笑顔でこちらを見つめると、

 

「……ちゃんと、月見さんに届けてあげないとダメだからね?」

「ッ……!!」

 

 ……この時の私は、一体どんな顔をしていただろう。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 いくら文とて、なにも最初から月見を毛嫌いしていたわけではない。むしろ、昔は、そこそこ仲がよかった方だと思う。

 今でこそ新聞作りという趣味を見つけて落ち着いているけれど、当時の文は放浪癖があって、仲間意識や排他意識もさほど強くなかったから、旅の合間に山を訪れる月見を、それなりに歓迎していた気がする。そんな時期があったなんて今では信じられないし、昔の自分も、まさか未来でこんな関係になるとは夢にも思っていなかったろう。

 今でこそひどくこじれた関係になった割に、きっかけは意外と単純だった。

 500年ほど前――八雲紫により生を受けてまだ間もない幻想郷には、彼がいて。

 当時の文のちょっとした不注意と、神懸かり的な間の悪さが、すべての始まりだった。

 

 鴉天狗は同族の中でも主に広報などの連絡役を担当するけれど、常にそればかりが仕事というわけではない。時には自慢の翼を存分に打ち鳴らして、不審な者が忍び込んでいないか山を哨戒して回ったりもする。

 しかしながら文は、その見回りとやらがあまり好きではなかった。

 広報関係の仕事が好きだったというのもあるが、なにより退屈なのだ。妖怪の中でも指折り強大な天狗の縄張りに、敢えて近づこうとする余所者などそういるはずもなく、哨戒とはまるで名ばかりで、実際はなにをするでもなく空を飛んでいるだけ。それはそれで楽ではあるのだけれど、同時にひたすら退屈であり、文にとっては時間の穀潰し以外のなにものでもなかった。

 とはいえ当時の文は、まだ普通に毛が生えた程度の鴉天狗。サボればすぐさま、大天狗の拳骨の餌食になってしまうのであって。

 故に例えば、森の中を高速で飛び抜けていく息抜き、なんてものを考えついてしまったとしても、それは仕方がないことなのだった。

 次々と迫り来る木々を天狗の優れた動体視力で見極め、どう躱すべきかを一瞬の思考で判断し、最小限の回避運動で飛び抜ける。運動になるし、なによりスリルがあった。たまに失敗して痛い目を見ることもあるけれど、それも含めて暇潰しと眠気覚ましには最適で、当時は取り憑かれたように森の中を飛び回っていた。

 

「――ふう。今日もいい感じ」

 

 区切りをつけて一旦森を抜け、青空の下へ出て、一息つく。身嗜みを確認。思いっきり飛び回った影響で髪が跳ねている他は、特に問題はない。手櫛で髪を整える。

 始めて間もない頃の、事あるたびに葉っぱまみれになったり服を枝で破いてしまったりしていた自分を思い出すと、この一週間で随分と上達したものだ。我ながら子どもらしい遊びに夢中になっているものだと思うが、同時にささやかな打算もあった。こうして日々森の中を駆け抜け、飛行技術を鍛えていけば、それはいずれ文の強力な武器となる。

 ただでさえ文は、同僚の中でも一歩二歩と抜きん出た飛行技術の持ち主なのだ。才能は努力を裏切らないから、こうして仕事すがら鍛錬を続けていけば、やがては幻想郷で一の空の曲芸師になれるかもしれない。

『幻想郷最速』――なんて、ちょっとカッコいいのではなかろうか。

 よし、と呟くように気合を入れて、文は再び森の中に飛び込んだ。手足が如く翼を打ち鳴らし、縦横無尽に木々を躱して、時には回転し枝のわずかな隙間をくぐり抜け、葉擦れの音も置き去りに、ただひたすらに飛んでいく。

 この、自分自身が風になったような感覚は、嫌いではない。知らず識らずのうちに、文は鼻歌を口ずさんでいた。歌いながらでも、あらゆる障害物をほぼ無意識で回避できてしまうほどに、文の感覚は研ぎ澄まされていた。

 ――とはいえ、なにか一つの物事に集中すればするほど、視野は狭まり落とし穴が見えなくなってしまうもの。

 むせ返るほど鬱蒼と枝葉を伸ばした大木を躱すため、高度を更に落とし、文字通りの地面すれすれで、文の体ほどに太い枝をくぐり抜けようとした直後。

 まさか幹の陰から、同じように枝の下をくぐろうとした人影が出てこようだなんて、夢にも思っちゃいなかった。

 

「――!?」

 

 咄嗟に判断を下す猶予すらなかった。当然だ、文は風すら置き去りにするほどの速度でかっ飛んでいたのだから。故に、自分がどうやって人影を躱したのかは覚えていない。覚えてはいないものの、無意識の自分はどうにかこうにか上手くやったらしく、奇跡的に衝突だけは免れていた。

 そこで、ほっと胸を撫で下ろして気を緩めてしまったのが、文の敗因だろう。ここは森の中。人影一つを奇跡的に躱したところで、次の障害物はあっという間にやってくるのに。

 つまるところ文は、その先で堂々と君臨していた大木の中に、真正面から突っ込んでしまい、

 

「きゃあああああ!?」

 

 一気にわけがわからなくなった。顔面に痛み。咄嗟に目を閉じて両腕で顔を守る。耳に入ってくるのは、葉が激しくこすれる音と枝が圧し折れる音。だがそんなものがわかったところでどうしようもない。ともかく必死に顔だけは守って、文は慣性に弄ばれる他ない。

 一瞬、空中に抜け出した感覚がした――が本当に一瞬で、すぐにまた別の木の中に飛び込んだ。抜け出した。飛び込んだ。抜け出した。そんなことをもう二回ほど繰り返して、ようやく文の体は止まった。

 となれば、最後に文を待っているのは当然、無慈悲な落下であり、

 

「――げふっ」

 

 ……途中、近くの木から伸びていた太い枝に腹を打って、そのまま物干し竿に干された布団みたいになったのだった。

 一瞬、三途の川が見えた、気がする。

 

「うぐごごごぉぉぉ……」

 

 少女らしからぬ品のない呻き声が口から出てきた。喉の奥から物理的に込み上がってきそうになるナニか。口を押さえて必死に我慢する。

 

「――お、おい、大丈夫か!?」

 

 遠くの方で聞こえる声は、恐らくぶつかりそうになった人影のものだろう。こちらに駆け寄ってくる気配がする。

 痛むお腹に鞭を打って、文は干された布団状態から脱出した。すれ違ったのはまさに一瞬だったから、人影が誰だったのかはわかるはずもない。しかし誰であっても、日本三大妖怪の一角に数えられる天狗として、情けない姿を晒すわけにはいかなかった。

 枝から飛び降り、着地するなりすぐに身嗜みを整える。髪、あちこち飛び跳ねていたので即刻手櫛で直してOK。肩、葉っぱがくっついていたので素早く手で払ってOK。上着、皺が目立つが裾を持って何度か引き伸ばせば及第点。スカート――

 

「……」

 

 スカート、

 

「……へっ?」

 

 我が目を疑った。ごしごし両目をこすって、もう一度下を見て、けれど広がった変わらぬ光景に血の気が失せた。

 ――さて、問題です。

 文のスカートは、一体どこに消えてしまったのでしょうか。

 

「おい、大丈夫か――」

 

 多分、こんなにも自分の運命を恨み憎んだのは、今日にもあとにもこの時だけだと思う。

 文は血の気が失せた表情のままで前を見た。木々の間を縫って、男がこちらに近づいてきているのが見えた。

 綺麗な銀の毛並みをした妖狐は、文がそこそこ見知った相手。

 彼――月見と、目が合って、

 

「……」

「……」

 

 逃げ出すなりなんなりすればよかったものを、この時の文の思考は完全に麻痺してしまっていて、ただぽかんと立ち尽くすことしかできなかった。月見は初め、文の恰好が直感的に理解できなかったらしく、ひどいしかめ面を浮かべて目を眇め、けれどほどなくして少し慌てたように顔を逸らし、やがてとても気まずそうな動きで後ろを向いた。

 その行動が意味するところを察して、真っ白になっていた文の心に、ある感情が沸々と湧き上がってくる。それは決して清々しい感情ではなかったはずだけれど、不思議と文の頬には爽やかな笑顔が浮かんでいた。感情が振り切れると笑ってしまうのは妖怪も同じなんだな、と他人事のように俯瞰している自分がいた。

 

「……月見さん」

「……なんだい」

「見ましたね?」

 

 まあ、自分でもわけがわからなくなるほどド派手に木の中に突っ込んだのだ。例えば、どこかの枝に運悪くスカートが引っ掛かって脱げてしまったのだとしても、それは、仕方のないことだとは思う。

 けれどスカートが消えた結果、必然外気に晒け出されることになった『これ』を、こうも真正面から見られてしまっては、さすがに話は別であって。

 

「……」

 

 背中を向けたままの彼に、文は、

 

「とぼけなくてもいいですよ。見たんでしょう? ほら、桃色の」

「ん? いや、確か白だっ――あ」

「大正解ですよバカアアアアアアアアアアッ!!」

 

 文は、大絶叫とともに全力全壊の竜巻を叩き込んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そうして月見を木の葉みたいに山頂まで吹っ飛ばして以降、文の中での彼に対する評価は、地獄の底まで一気に格下げとなった。

 それはもちろん、あれから何百年が経った今でも、変わってはいない。

 

「……なによそれ、意外と下らなーい」

 

 という話を知り合いの鴉天狗にしたら、予想以上に白けた反応が返ってきた。同じ女として、多少なりとも共感してもらえるものと思っていたので狼狽える。

 

「く、下らなくないわよ。全然大したことでしょうが」

「いや、下らないわよ。だって、もう500年近く前のことなんでしょ? どんだけ前の話してんのよ」

 

 この日の夕方、天狗の大屋敷では宴会が開かれていた。経緯はよく覚えていない。誰かが酒を呑み始めたのにみんなが便乗したからかもしれないし、天魔が「お酒呑みたいのじゃー!」と騒ぎ出したからなのかもしれない。理由を知っている者は誰もいないが、まあ、ふと気がついたら宴会になっていたなんて内輪ではよくあることなので、文も特に気にしていない。

 以前水月苑で開かれた宴会のように、屋敷の大宴会場では、天狗はもちろん山の妖怪たちが所狭しと集まって騒ぎ散らしている。雷のような爆笑の声が轟いたり、酒樽を呑み干す勢いで呑み比べが行われていたり、はたまた巨乳派と貧乳派という世界で最も下らない派閥が殴り合いで雌雄を決そうとしていたりと、おおよそ、見慣れたいつもの宴会風景である。

 意外なのは今、文の隣で一緒に酒を呑んでいる、同僚の存在だろうか。

 

「下らないってんなら最初から訊かないでよ。思い出すのも嫌なんだからこの話は」

「それは悪かったわね。でも気になってたのよ。その月見って妖怪、天狗たちの間でも結構有名みたいだし? ……ま、全然役に立つ話じゃなかったけどねー」

 

 そう言って皮肉げに肩を竦めた少女は、姫海棠はたてという。文と同じ鴉天狗で、しかし同族では珍しいひきこもり体質から、こういった宴会の場には滅多なことでは顔を見せないと定評がある――のだが、今回はどうやら、その滅多なことが起こったらしい。久し振りじゃない、どういう風の吹き回しよ、なんて世間話をしているうちにいつの間にか昔話になっていて、酔いに乗せられてか、思い出したくもない昔話を話してしまった。

 あーあ、と辟易しながらため息をついて、猪口をぐっと傾ける。今日の酒は、かなり辛口のものを選んでいた。喉を焦がすような痛快な感覚は、嫌な気持ちを忘れさせてくれる。

 半分まで減った猪口を片手に、はたてが殴り合う巨乳派貧乳派を眺めながら、

 

「てかほんと、そんな昔の話をなんで未だに根に持ってるわけ? 少なくとも聞いた限りじゃあ、あんたの不注意が原因のただの事故で、月見さん全然悪くないじゃない」

「……うるさいわね」

 

 独り言のように言って、文は猪口に酒を注ぎ足そうとした。けれど酒瓶がいつの間にか空になってしまっていて、ぴちょん、と落ちた一雫が、猪口に一瞬の波紋を広げただけだった。舌打ちをして、次の酒瓶に手を伸ばす。周囲には、既に空瓶が何本も転がっている。

 たとえ酒の辛さが、嫌な気持ちを忘れさせてくれるといっても。こうして忘れるたびに思い出してしまうのでは、あんまり意味ないなあと文は思う。

 ……文の不注意が招いた事故だということくらい、とっくの昔に気づいている。文があんな遊びをしたりせず、真面目に仕事をしていれば起こらなかったはずの事故。なにもかも、巡り合わせが悪かったまったくの偶然。月見は意図せず巻き込まれてしまった、憐れな被害者。――この数百年間で仲間たちから飽きるほど指摘されてきたことだし、自覚だってしている。

 けれど、

 

「でもあんただって、あの時の私と同じ立場だったら竜巻くらい起こすでしょ?」

「そもそも、そんな立場になんてならないのでご安心ください」

 

 澄まし顔にわざとらしい丁寧語と、いちいち皮肉ったらしい言動が癪に障る。八つ当たりするように、文は酒を注ぎ足した猪口を一気に呷った。

 休む間もなく酒瓶を猪口に傾けていると、傍らからまた声、

 

「……で、あんたはなんで月見さんのことが嫌いなの?」

 

 文は酒を注ぐ手を止めて顔を上げた。裏表のない、真っ当な疑問顔をしているはたてに、強く眉をひそめ返した。

 

「……あんた、人の話聞いてた?」

「聞いてたわよ。どうせ、下着を見られたからとか言うんでしょ」

「わかってるならなんで」

 

 そんなこと訊くのよ、と続けるよりも先に、遮る言葉。

 

「本当に? 本当にそれが理由なわけ?」

 

 どうしてそんな質問をされるのか、文にはよくわからなかった。それ以外の理由なんてあるはずがない。今も昔も、文の心にあるのはそれだけだ。

 だから、当たり前でしょう、意味がわからないわと、呼吸をするように返せるはずだった。

 

「……、」

 

 だが、言葉が詰まった。

 

「ま、一回話を聞いただけの素人意見だけど。でもなんか、あんたってほんとに月見さんが嫌いなのか、私にはよくわかんなかったわ」

 

 なに言ってるのよ、とか。わけわかんないわ、とか。否定の言葉ならいくらでも頭に浮かんでいるのに。

 

「――なんか、無理やり嫌おうとしてるっていうか」

 

 なのになぜか、胸が詰まる。それが、腹が煮えくり返るほどに気に入らない。

 ようやく出てきた言葉は、否定というよりかは、揺れる自分に言い聞かせる暗示のようだった。

 

「誤解なんてしてないわよ。……今も昔も、許してなんていないんだから」

「あっそ」

 

 自分から振った話なのにこの態度。姫海棠はたては、基本的に臆病で小心者なくせに、鴉天狗の中では内弁慶だった。

 先輩として軽く指導でもしてやろうかと思ったが、それより先に、はたては颯爽と腰を上げていた。

 

「じゃ、聞きたいことは聞いたし私は行くわね」

「……ふん」

 

 どこへでも好きに行けばいい。もう知らない。文も、これ以上はたてと話を続けたい気分ではなかった。

 

「あ、そういえば椛も月見さんとよく会ってるって言ってたわね、っと。……ねえ椛ー、ちょっといいー?」

 

 犬らしく甲斐甲斐しく酔い潰れた者の世話をしている椛へと、歩いていくはたての背を、見送りはしない。当て所もない方向へ視線を飛ばして、また酒を呷る。

 呟きは、自分自身に確かめるように。

 

「……許してなんて、いないんだから」

 

 今までずっと、そうだったのだから。だから今だって、変わってはいない。変わっているはずがない。

 巨乳派と貧乳派の闘争が巨乳派の辛勝で決着しているのを、心底どうでもいい気持ちで眺めながら。

 傾ける酒は、なんだか喉が焼けていくみたいに、辛い。

 

「おーおー、こりゃ随分と呑んどるのお、文」

 

 掛けられた声に、文はゆっくりと視線を上げた。転がった酒瓶を躱して音もなく寄り立ったのは、髪も着物も墨色一色で染め上げた、天狗たちの長だった。

 午前中に椛に地獄を見せられたというのに、なんとも元気そうだ。この様子だとまったく反省していまい。明後日にでもなれば、すぐに追われる天魔と追う椛の光景が復活するだろう。

 

「隣、いいかー?」

 

 山のトップとは思えないほど人懐こい問い掛けを、文は少し考えてから了承した。あまり話をしたい気分ではなかったのだけれど、こういう宴会の場では、来る人は拒まずが暗黙のルールだ。いくら機嫌が悪いからって、嫌です、なんてはっきり言ってしまうのはナンセンスだし、大人げない。

 

「はたてと大分揉めとったみたいじゃないか」

 

 よっこらせ、と豪胆に胡座をかいて、天魔はくつくつと喉で笑った。

 

「お前さん、向こうからでもわかるくらいすごいしかめっ面じゃったぞ」

「……別に、そんなことないですよ」

 

 素知らぬ顔で返しつつ、まだその話を引っ張られるのか、と文は内心げんなりした。相手が天魔でさえなければ、無視していたかもしれない。

 

「まあまあ、別にからかいに来たわけじゃないから安心しとくれ」

 

 にぱっと人が良さそうに笑って、天魔が酒瓶を猪口に傾ける。文はなにも言わず、こっそりとため息をついて、自分の猪口を口へと持っていく――

 

「――お主、いつまでこんなことを続けるつもりだ?」

 

 その手が、ぴくりと跳ねて、酒がこぼれた。だが、スカートの上に落ち膝まで染み込むその冷たさを、文は意識できなかった。隣を見る。透明色で覆われた猪口の底を、じっと見つめている天魔がいる。

 いや――彼女は本当に、天魔なのだろうか。直感的に理解する。目の前にいるのは間違いなく天魔であり、そして先ほどまでの天魔とは決定的に違っている。剽軽で、お調子者で、子どもっぽくて、あんなに人懐こい笑顔で文に寄ってきた天魔ではない。

 ゆっくり動いて、文を見つめる黒の瞳は、寒気がするほどに深い。

 

「一つ、昔話をしようか。儂の部下の、とある鴉天狗の話だ」

 

 文はなにも言えない。こうして見つめられるだけで、胸が締まる。言葉を向けられるだけで、息が詰まる。同じ場所にいるだけで、体が竦む。剽軽。お調子者。子どもっぽい。人懐こい。そのすべてが当てはまらない。

 

「そいつは如何せん大層な退屈嫌いで、哨戒任務を与えられた日は、なにやら妙なことをして遊んでいたらしい。森の中をどれだけ速く飛び抜けられるか、とか聞いたな」

 

 いつの間にか、座敷全体がしんと静まり返っている。錯覚だ。天狗と河童の呑み比べはいよいよ最高潮に達しているし、宿敵に勝利した巨乳派が絶叫に近い勝鬨を上げて、敗れた貧乳派は拳で畳を打って悔しがっている。なのに、それらの喧騒が、文の耳にはまったく届いてこない。

 

「しかしその最中に、ちょっとした事故があった。それで不運にも巻き込まれてしまった儂の友人が、まったくもって不運にも、その鴉天狗から目の敵にされてしまった。まあ所詮ささいな行き違いだし、儂もそのうち時間が解決するだろうと踏んでいたが……呆れたことに、何百年経った今になっても、それがまったく変わっていなくてな」

 

 天魔が云わんとしていることは疾うに察している。普段であれば、ふざけないでください、なんですかそれ、ととっくに文句を言ってるところだ。だが、文はいつまで経っても口答えできない。指一つすら動かせない。完膚なきまでに、すべてを封殺されている。

 天狗の中では――否、幻想郷規模で見てもトップレベルの大妖怪である文が、こんなにも。

 

「しかし儂は――いや、その鴉天狗を除いた皆が、疑問に思っておるよ。あやつは本当に、儂の友人のことが嫌いなのかと。……本当はとっくに許しているのに、嫌いなんだと、意固地に自分に言い聞かせ続けているのではないかとな」

 

 心臓を鷲掴みにされた心地がして、思わず声を上げそうになった。掠れるように息がもれただけで、なにも言えなかった。

 

「儂が思うに、一種の自己防衛のようなものなんだろうさ。己の後ろめたい失態、後悔や恥辱……そういったストレスを、他人に責任転嫁して和らげようとする。あとは、今更許すのは負けた気がしてみっともないなんて、意地を張ったりもしているのかもな」

 

 はたてと話をしていた時とは訳が違う。天魔の言葉に徹頭徹尾、心の奥底をひどく揺さぶられているのを感じる。聞き流せない。無視できない。まるで、天魔が発する言葉そのものに、恐ろしい魔力が宿っているような。

 

「まるで陳腐な自己暗示だな。あやつが嫌いなんだと自分に信じ込ませて、本当の気持ちを認めようとせず、見て見ぬふりをする。……いや、気づいてすらもいないのだろうな。

 ――さあ、どうだ? 文」

 

 名を呼ばれた、たったそれだけのことで、文の心臓が悲鳴を上げた。

 ぐらぐら揺れる。

 見返せば、覗き込んでくる天魔の瞳の、限りなく深い黒の奥底に、自分の姿がぽっかりと映って――

 

「――お主、本当に月見のことが嫌いなのか?」

「――ッ!」

 

 結局、最後まで声は出なかった。けれど、体は動いてくれた。猪口を投げ捨てて、立ち上がって、走って、座敷から逃げ出して、外に飛び出して、羽ばたいて。

 どこに行くのかなんて考えられなかった。そもそも文は、自分がなにをしているのかすらよく理解できていなかった。ただ体が、本能が、これ以上同じ場所に留まるのを拒んでいた。

 どきどきしている――なんて表現すれば当たり障りがないけれど、これは明確な痛みだった。心が軋る耐え難い苦痛だった。

 自分が今までずっと守り続けてきた大切ななにかを、侵されてしまったかのよう。

 嫌いだと思っていた。許していないと思っていた。その感情を、今まで疑ってすらいなかった。紛れもない事実のはずだった。なのに今になって、急に、わからなくなってしまった。

 嫌いなのだと思う。許していないのだと思う。嫌いなはずだ。許していないはずだ。

 けれど否定の言葉が、どうしても出てこない。

 

「わけっ、わかんない……!」

 

 ようやく枷を破って出てきた言葉は、少し、濡れている。泣き出してしまいたいくらいに、なにもかもがわからなくなってしまっている。

 夕日が西の峰に沈み、朱色と闇色が混じり合う空を、文はがむしゃらになって切り裂いた。もしも自分の体がずっとこのままだったなら、幻想郷の端の端まで飛んで行ったかもしれない。

 しかし今の文は、幸か不幸か、先ほどまで自棄酒を呑んでいた身。

 限界は、呆気ないほどに早く訪れた。

 

「……う」

 

 渦を巻くように視界がねじれ、胃の奥からドロドロとした不快感が込み上がってきた。言うまでもなく吐き気であり、自棄酒してすぐ空をがむしゃらにかっ飛べば、まあ、うべなるところなのだった。

 

「……やっば……」

 

 強烈な視野狭窄に陥ったかのように、目の前がチカチカしてろくにものも見えない。体の制御を自分ではない誰かに奪われて、フラフラと墜落しそうになりながら高度を落としていく。途中、木にぶつかったり枝に行く手を遮られたりしながらも、なんとかかんとか、文は地面まで辿り着くことができた。

 

「うああぁ~……」

 

 幸い、吐きこそしなかったけれど、視界は渦巻き体は震え、胃はコールタールでも流し込んだかのよう。辿り着いた地面を這うことすらできず、文は半ば倒れ込むような形になって、ただ情けない声で呻くことしかできなかった。

 最悪だった。なんだかもう、ひと思いに泣いてしまいたかった。腹立たしいやら、情けないやら、色んな感情が激しく渦を巻いて、文という少女を圧倒していた。

 もう、泣いても、いいかなあ。

 

「……射命丸?」

 

 ふいに聞こえたそのバリトンに、さほど、驚きはしなかったと思う。とにかく具合が悪くて、驚く余裕もなかったというべきかもしれない。

 地面に突っ伏したまま顔も上げられずにいると、また声。

 

「お前、人の庭でなにして……大丈夫か?」

 

 ああ、そうか。ここは、ちょうどこいつの庭だったのか。

 本当に、ついてない。

 

「おい、射命丸?」

 

 彼の手が、静かにこちらの肩に触れた。それを払い除ける気力すら、今の文にはなかった。

 だがせめて、己の現状くらいは伝えなければ色々と誤解される。酒の味が強く残る唇を、懸命に動かした。

 

「酒に……酔った、のよ」

「酒?」

「色々、あったの……色々あって、抜け出して、でも、具合……悪くなって」

 

 笑われるだろうと覚悟していたが、彼の反応は静かだった。

 

「……立てるか? とりあえず、私の家で休むといい」

「……いいわよ、そんなの。一人で帰れるわ」

「立ち上がれもしないくせによく言う。顔、真っ青だぞ」

 

 だろうなあ、と思う。自分でも、顔から血の気が失せて冷たくなっているのを感じる。

 返事もしないでいると、向こうの声音もさすがに堅くなった。

 

「とりあえず運ぶからな。文句は酔いが冷めてから聞いてやるから」

「ぅ……」

 

 肩を少し強く掴まれる。ほとんどうつ伏せの状態だった体がゆっくりと回転して、仰向けになって、背中と腿のあたりを支えられる。体が宙に浮く感覚。土を踏む、自分のものではない足音。かすかに揺れる。

 その一つ一つはおぼろげに感じたけれど、酔っているお陰で、果たして自分がどういう運ばれ方をしているのかまでは意識できずに済んだ。

 ……少しの間、眠っていたのかもしれない。文がふとまぶたを上げると、知らない天井の下、知らない部屋で寝かされていた。

 

「……」

 

 そして傍らには、月見の姿。

 銀色とともに掛けられる言葉は、あくまで優しい。

 

「具合は?」

「……最悪よ」

 

 そう、本当に最悪だった。はたてにせがまれて、昔の嫌な話を思い出した。天魔に妙なことを言われて、自分でも不思議なほどに取り乱した。だからがむしゃらになって空を飛べば、あっという間に体調を崩して半死人状態。果てはこうして、月見のところで世話になる。今日はなに一つとしていいことがない。

 水月苑の、客間かどこかの空き部屋なのだろう。文の部屋より一回り二回りも広い大層なお座敷に、ぽつんと敷かれた布団の上で、文は寝かされていた。

 首を横に倒せば、胡座をかいた月見の姿と、コップ一杯分の水が見えて。

 

「薬、飲めるか?」

 

 水と一緒に、袋に入った粉薬。

 

「この前、輝夜が置き薬を押し売りに来てね。ひっくり返してみたら、酔いに効く薬もあったよ」

 

 永遠亭の薬らしい。あそこの薬は酔いにもよく効くから、願ってもなかった。

 体調を確認する意味も込めて、自力で体を起こしてみる。どうやら峠は越えたようで、まだひどい眩暈は残っているが、動けないほどではない。

 薬を受け取り、口に放り込んで、水を一気に流し込む。水はよく冷えていて、喉を駆け抜ける爽快な感覚とともに、少しだけ目の前がはっきりしたような気がした。

 とはいえ、ほぼ根こそぎ枯れ果てた気力が回復するほどではない。

 

「具合がよくなるまで、ゆっくり休んでいくといいさ」

「……」

 

 文は少しの間悩んで、結局、枕の上に頭を戻すことにした。月見の世話になるのは癪だったけれど、それよりもなによりも、今日はもう疲れ切ってしまっていた。

 

「しかし、お前が酔ってそんなになるなんて珍しいね。なにかあったのか?」

「……別に」

 

 突き放すように言って、布団を手繰り寄せ、顔を背ける。そこでふと、煙が揺らめくように、操の姿が脳裏に甦った。

 ――お主、本当に月見のことが嫌いなのか?

 

「……」

 

 あの問いに対する答えは、未だ見つからない。見つからなくなってしまった。嫌いなのか、そうでないのか、自分で自分の気持ちが、わからなくなってしまった。

 ひょっとして、本当に天魔の言った通りなのだろうか。下着を見られた恥ずかしさを全部月見に押しつけて、都合のいいストレスの吐け口にして。嫌いなんだと思い込んで、そこから先の思考を一切止めてしまって。

 もしも彼を拒絶し続けてきたこの数百年間が、全部勘違いだったのだというならば。

 文は一体なんのために、月見を嫌い続けてきたのだろう。

 

「……天魔様に、変なこと言われたのよ」

 

 そうこぼしてしまったのは、きっと、辛かったからだ。今の自分の心を、自分だけで抱え続けるのが怖かった。誰でもいいから、聞いてほしかった。

 たとえ隣にいるのが彼であっても――或いは、彼だからこそ。

 

「本当に、あんたのことが嫌いなのかって。自分自身に、そう信じ込ませてるだけなんじゃないかって」

「……」

 

 彼はなにも答えなかった。それでよかった。変に相槌を打たれれば、躊躇ってしまうから。返事が来なければ、ただ一方的に、吐き出していくことができる。

 

「そんなことないって思ってた。ありえないって思ってた。実際、他の同僚たちに言われた時はそうやって否定してきたのよ。……でも天魔様に言われた瞬間に、急に自分の気持ちがわからなくなっちゃって」

「……操、ね」

 

 ぽつりと彼がこぼした声には、なにかを確認するような色があった。横目で見てみれば、月見は口元に指をやって、何事か真剣に考え込んでいるようだった。

 

「……なに?」

 

 なにか、変なことでも言っただろうか。

 

「いや。……一応確認するけど、操と話してたらってのは間違いないか?」

「間違えるほど酔っちゃいないわよ。……さすがは天魔様ってことなのかしらね。言葉自体が魔力を持ってるみたいだった」

「……」

 

 カリスマなんて言葉には世界一縁がない、お調子者で頼りない天魔様だと思っていたけれど。しかしあの時、文を射抜いてみせた深い闇色の瞳は、明らかに尋常のものでなかった。

 まあ、考えてみれば当然なのだろう。普段の姿がどこまでも滑稽であったとしても、彼女は文よりも長い時を生きる最強の鴉天狗だ。能ある鷹は爪を隠す、ということなのだろう。鴉だけれど。

 ふと、傍らの彼が立ち上がった気配。

 

「ま、ともかくゆっくりしていくといいさ。私はちょっと席を外すよ」

「……そう」

 

 随分と素っ気ない言い様だった。しかし、興味がないから適当にあしらった、というわけではなさそうだ。なにか他の物事に気を取られているせいで、つい雑な言い方になってしまった――のだろうか。

 なにかあったのかしら、と内心訝しむが、わざわざ追及しようとも思わなかった。話したいことを話して、少なからず気持ちは楽になったので、あとはもう休んでしまいたい。

 月見の気配がゆっくりと遠ざかって、静かに襖を開け閉めする音とともに、部屋から消えていく。一人きりの静寂が沁み入るように広がっていくのを感じながら、文は音もなくため息をつく。

 つまるところ、わからないのがわかる、という安っぽい哲学じみた状態だった。五里霧中。暗中模索。手探りですら前に進めない、完全な暗闇の中にいる。

 自問、

 

(本当に、私は)

 

 彼のことが、嫌いなのだろうか。……本当に嫌いなのだったら、酔いが大分楽になってもなお、文が今の状況に甘んじているのはなぜなのか。嫌いなやつの世話になるなんて真っ平御免だからと、今頃屋敷から抜け出していてもいいくらいなのに。

 酔っているから。気力がないから。疲れているから。本当にそれだけなのか。そんな簡単なことすらも、今の文にはわからない。

 

(……もう、意味わかんない)

 

 布団を顔の半分ほどまで引き上げて、文は殻にこもるように丸くなる。

 落としてしまった自分の心は、もうどこを探しても、見つけられなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 部屋を出た月見が玄関へ向かうと、カラカラと控えめな音を立てて、ちょうど彼女が中に入ってこようとしているところだった。

 

「こんばんは、操」

「お、おー。こんばんはー、なのじゃー……」

 

 月見が笑顔で出迎えると、操は戸の取手を掴んだまま、びくりと一歩だけあとずさった。その声にいつもの陽気さはなく、まるで門限を破ってしまって怖々と帰ってきた子どものようにも見えた。

 まったくちょうどいいタイミングだと月見は思う。恐らく文の様子を見に来たのだろうが、どうあれ向こうからやってきてくれたのであれば好都合だった。

 どことなく怯えた様子で、ええと、その、と拙い言葉ばかりを呟いている操に構わず、一気に切り込む。

 

「操。お前、あの子に『能力』を使ったろう」

「うぐっ……ということはやっぱり」

「ああ、庭先でヘバッてたから客間で休ませてる。……大分、不安定になってたぞ」

 

 もちろん酔っているせいもあるのだろうが、一方で文は、操の能力の影響を強く受けてもいた。事実操の能力には、人の心をああも不安定にしてしまうだけの力があった。

 

「『暗示する程度の能力』。……自分以外の相手には、使わない約束じゃなかったのか?」

「……」

 

 暗示――すなわち思い込み。特定の言葉を言い聞かせることによって、実際に心や体になんらかの作用を引き起こすこと。

 言葉は力を持っている。昔の人々は洋の東西を問わず、言葉には精霊が宿り、現実世界に霊妙な働きを及ぼすものと考えていた。そしてそういった力を持つ言葉の数々を、『言霊』と呼んだ。

 言霊の力はまこと絶大で、その真理を掴んだ者は、たった一声で不可思議な現象を次々と起こし、たった一言で天変地異すらをも掌握してみせると信じられていた。その真偽はさておき、言霊の持つ力がいかに強大かは、かの日本神話でも枚挙にいとまがないほど取り上げられている。

 操の能力は、平たく言えば自分の言葉を『言霊』に変えて、自他に様々な影響を与えるものだといえる。言葉自体が魔力を持っていたみたいだったと文は比喩していたが、それは断じて思い違いなどではない。操が紡ぎ出す言葉は、その音に正真正銘の魔力を乗せて、聞く者の心に入り込むのだ。

 例えば自己暗示によって、自分の中に『天魔』の人格と『天ツ風操』の人格を複数所持しているように。そして今回のように――言葉だけで相手に暗示を掛けて、精神を大きく揺さぶってみせたように。

 

「す、すまんかった……」

 

 掠れてしまいそうな声で、操が詫びた。肉体の上に存在する人間がその破壊を以て死に至るように、精神の上に存在する妖怪にとっては、精神の破壊こそがなによりの致命傷となる。たった一言で他者の精神を崩壊させることもできるその能力を、『妖怪殺し』の異能と評したのは、一体誰だったか。

 操の能力はあまりに強大だった。操は、己の能力がいかに危険な代物なのかを知っていた。故に能力で他人の心を操るような真似はしないと誓いを立て、その名を秘匿事項として外から伏せることにした。『暗示する程度の能力』を知っているのは、操が心の底から認めた、ごく一部の親しい者のみ。月見と藤千代と、紫と、椛を含めた歴代の『犬走』――その程度だろう。

 月見は、緩くため息。

 

「私とあの子の関係に見かねたんだろうけど……」

 

 操が誓いを破った理由に、想像が利かないわけではない。彼女は天狗たちの長として、また月見の友人として、月見と文の関係をひどく気に掛けていたようだった。数百年経っても変わっていない現状にいい加減業を煮やして、一石を投じたのかもしれない。

 本当に月見が嫌いなのか――そう暗示を掛けることで、文の心に波紋を与え、状況の改善を図ろうとしたのかもしれない。

 

「でも、お前の能力で無理やりってのはね」

「そ、それは違う!」

 

 否定の声は、思いの外強かった。首を振った操は、まっすぐに月見を見て、

 

「確かに儂は、文に能力を使った。でも、ちょっと揺さぶった(・・・・・)だけなんじゃ。無理やりなどとは考えとらん!」

 

 謂れのない誤解を忍ぶように、固く拳を握り、

 

「……月見。どうして文は、儂の言葉に揺らいだと思う?」

「……それは、お前の言葉がそういうものだから」

「違う。確かに儂の言葉はそういう力を持つけど、言霊だって、どんな時でも常に効果を表すわけじゃない」

 

 一息、言葉を区切る。

 

「……なあ月見、儂のこと好きか?」

「うん? それはもちろん、友人としてだけどね。……どうしたいきなり」

「今儂、能力を使ったのじゃ」

 

 不思議がる月見の反応を、我が意を得たりというように。そして一方でどこか残念そうに、操は小さく笑った。

 

「確かに儂の言葉には、聞く者を惑わす力がある。でもそれも、相手の心に隙があってこそなんじゃ。儂を友人として正しく好いてくれていて、その気持ちに嘘を持っていないお前さんには、儂の暗示が効かなかった」

「……」

 

 なるほど、と月見は心の中で呟いた。操の言わんとしていることが、なんとなくではあるが理解できた気がした。

 つまり、文が操の言葉に揺らいでしまったのは、

 

「無論、時間を掛けて繰り返し、何度も能力を重ね掛けすれば、最終的に儂に操れない心はないんじゃけど。……でも文は、儂がたった一回、しかもほんのちょっと揺さぶっただけで、ああも簡単に乱れた。それだけ、自分で自分に嘘をついていた、という証拠じゃな」

 

 もっとも気づいてはいなかったようじゃけど、とため息のように付け加えて、

 

「だから、儂は……文に、本当の気持ちに気づいてほしかったんじゃ。文が水月苑の名前を一生懸命考えとったのを見た時点で、お前さんのことは、きっとそれほど嫌ってないんだなって、わかってたから……」

 

 そこからは幼い子どもが言い訳をするように、言葉も勢いもたどたどしくなる。

 

「文があそこまで乱れたのは、儂も予想外じゃった。それは、素直に謝る。約束を破ったことも、ごめんなのじゃ。……でも、お前さんたちを無理やり仲良くさせようなんて考えてない! ただ、ちょっと、ちょっとだけ、きっかけを、作りたかっただけなんじゃ……」

 

 それはひょっとすると、お節介というものだったのかもしれない。操には悪いが、ちょっときっかけを、なんて軽い言葉で済まされる問題ではなかった。もし操が一歩でも加減を間違えていたら、文はそのまま狂っていたかもしれないのだから。

 

「本当に、すまん……」

「……」

 

 もっとも、謝る操を責めるつもりもない。やり方は決してよくはなかったかもしれないが、彼女の気持ち自体は本物だ。そうでなければ、こうして泣きそうな顔で震えるはずもないだろう。

 それに、本来操が頭を下げるべき相手は、月見ではないのであって。

 

「操、謝る相手が違うんじゃないか?」

「……」

「お前が能力を使った相手は、あの子だろう?」

 

 だから、操が話をすべきなのは、文。

 

「お前の気持ちは充分わかったし、私は責めないよ。むしろ、お前にそんなことをさせてしまって悪かったね」

「そ、それは違う……こんなの、儂が勝手にやっただけで」

 

 だが、月見が文との関係を改善するようなんらかの行動を起こしていれば、回避できたかもしれない未来だ。月見は、文から向けられる感情に悩みこそすれ、本気で解決しようとはしていなかった。何千年の時を生きて多くの人や妖怪に出会い、好かれ嫌われ、時には崇敬され憎悪され、あらゆる感情を向けられ慣れた(・・・・・・・)。だから相手から好かれようが嫌われようが、深刻に考えずそういうものとして受け入れてしまうのは、月見の悪い癖だった。

 

「ともあれ、今日のところはまた出直してくれるかい。本当に具合悪そうだったし、今の状態じゃ落ち着いて話なんてできないだろうから」

「……そうじゃな。すまん、迷惑掛ける」

「迷惑じゃないさ。今まで放ったらかしにしてたツケが回ってきたようなもんだ。これを機に反省しないとね」

 

 肩を竦めてそう言えば、操もようやく一息をつけたようだった。

 

「……そうじゃな、そうしてくれ。お前さんたちは、元々ちゃんと仲良くできるはずなんだから」

「……実際、元々はそうだったからね」

 

 あの時神懸かり的な間の悪さで文と交錯してさえいなければ、きっと今頃、気兼ねなく友人と呼び合える程度にはなっていたのだろう。

 

「では、儂は戻るよ。宴会を抜け出してきたからな、そろそろ戻らんと椛にバレるのじゃ」

「ああ」

 

 闇夜に紛れるように外へ出た操について、玄関先まで見送りをする。闇色の彼女の翼が、バサリと大きく空を打つ。

 

「文のこと、よろしく頼む」

「ああ」

「なんだったら、この一晩で仲良くなっちゃってもいいんじゃよ?」

 

 すっかりいつもの調子に戻って笑う操に、月見はヒラヒラと手を振って。

 

「酒、呑み過ぎるなよ」

「さすがにもう呑めないんじゃよ。……明日、文に謝らんとならんしな」

「……そうか」

 

 それからはどちらも口を開くことなく、またな、と目だけで告げた操が山頂の方へ羽ばたいていく。黒い髪に黒い着物、黒い翼と三つ揃った彼女は、羽音を残してあっという間に夜の中へと消えていった。

 かすかに聞こえるその音を遠くに聞きながら、月見は小さくため息をついた。鴉の羽音を聞いて、かつて月見が山登りをしていた時、途中で出会っては快く道案内を引き受けてくれていた文の姿が、ふっと脳裏に甦った。

 今となってはもう、何百年も昔の話だけれど。

 自分たちは今からでも、あの頃に戻れるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 結論を言えば、文はすべての話を聞いていた。月見が微妙に座敷の戸を閉め損じていたのに乗じて、布団に入ったまま気づかれないよう風を操り、月見たちの話を己の耳まで届けていた。

 操の能力がすべての原因だったという真実に、もちろん動揺はしたけれど、それ以上に納得させられた。能力が絡んでいるのなら、自分でもわからなくなるほどに心がおかしくなってしまうのも、腑に落ちるところなのだと思った。

 けれど一方で、頭に強く残っている言葉。

 

(……自分で自分に嘘をついていた……か)

 

 無論、今となっては確かめる術などない。今の文はもう、なにが嘘でなにが本当だったのか、それすらもわからなくなってしまったのだから。

 けれど――もしも本当に、嘘だったのだとしたら。

 

「……起きてるか?」

 

 彼の声が聞こえた。音もなく襖を開けて、撫でるように静かな声だった。狸寝入りをするかどうか少し悩んだけれど、結局、なに? と短く返した。

 

「どうだ、具合は。なにか飲み物でも持ってこようか?」

 

 そう尋ねられて初めて、文は随分と喉が渇いていることに気づいた。薬を飲んだばかりとはいえ、体はまだまだ熱っぽい。

 

「……じゃあ、水」

「了解。少し待っててくれ」

 

 襖が閉まって、彼の足音が遠ざかっていく。文はくるまっていた布団から顔を出すと、宵の口の淡い月明かりが差し込む座敷で、幻想的に浮かび上がる天井に目を凝らした。

 

「……」

 

 そういえば――と、ふと疑問に思う。文はどうして、ここで休ませてもらえているのだろう。

 たとえ自分に嘘をついていたとはいえ、文が月見を嫌っていたのは立派な事実だったし、月見だって、そんな文を好意的な目で見たりはしていなかったろう。……好ましく思えない相手を、わざわざ家に上げて介抱したりなどするものだろうか。少なくとも文なら、声を掛けこそすれ、わざわざ一室を貸し与えるような真似はしない。

 文は妖怪。酔って体調を崩したからって、それでなにか危険な状態になるわけでもないのだし、放っておかれたって大したことはなかった。

 

「お待たせ」

 

 再び襖が開く音と、彼の足音がして、視界がほのかに明るくなった。頭を倒して見れば、部屋に入ってきた月見の馬手には水の入ったコップ、弓手には桶が一つあって、尻尾には灯り代わりの狐火が灯っている。

 

「はい、どうぞ」

 

 差し出されたコップを、文はゆっくりと体を起こして受け取った。コップ越しに水の心地よい冷たさが伝わって、思わず小さなため息がこぼれた。

 月見は文の隣に腰を下ろすと、桶を枕元に置き、中から水月苑の浴衣を取り出した。

 

「その格好で寝づらい時は、好きに着替えてくれて構わないよ。で、こっちの桶は緊急用」

「……吐かないわよ」

 

 そのあたりは、女の意地とでもいおうか。

 月見は軽く笑い、

 

「もちろん。使われないのが、一番いいことだ」

 

 更に、桶の中からタオルを取り出す。

 

「こっちは汗でもかいたら使ってくれ。……あとは、なにか要るか?」

「……充分よ」

 

 そう、充分だった。大丈夫かと声を掛けられ、一室と布団を貸してもらい、薬をもらって、更には水に桶に着替えにタオルまで。文と月見の関係には不釣合いなほどに、充分すぎた。

 好きでもない相手にどうしてここまでしてくれるのが、文には到底理解できなくて、難しい顔でコップの水を睨みつけながら、ぽつりと呟くように尋ねた。

 

「……なんで、ここまでしてくれるのよ」

「うん?」

「私は、……私は、あんたにここまでしてもらうような資格のあるやつじゃ、ないでしょ」

 

 助けてもらうに値するようなことを、文はなに一つとして彼にしてこなかった。いつだって敵視して、突っぱねてばかりで、助けられるよりも、なにもせず捨て置かれる方が文には分相応だった。

 けれど月見は、下らない問答に答えるように、肩を竦めて。

 

「資格もなにも、人の庭先で倒れてたんだ」

 

 当然のように、

 

「だったら相手が誰だろうと、ひとまず休ませてやるのが道理だろうさ」

「……」

 

 文はまぶたを下ろし、水の冷たさを感じながら、小さく長い、息を吐いた。

 この時の感情を強いて言葉にするならば――呆れた。本当に呆れた。月見にではない。間の悪い事故であられもない姿を見られて、それからずっと意固地に嫌いを貫き続けてきた自分が、ひどく幼稚だったように思えて、だから呆れてしまった。

 きっと月見は、目の前で倒れている者がいれば、たとえ大嫌いな相手でも、親の仇であっても手を差し伸べるのだろう。好きも嫌いも、性別も種族も立場も、すべての垣根を飛び越えて。

 紅魔館で、フランドール・スカーレットを。

 人里で、上白沢慧音を。

 遥か昔の都で、蓬莱山輝夜を、助けたように。

 さんざ嫌われ、邪険な扱いをされ続けてきた、文にすらも。

 

「……」

 

 そんな底抜けなお人好し相手に、何百年も昔の話を引きずって嫌いだのなんだのと――なんだか、馬鹿馬鹿しかった。

 だから、小さく、笑った。

 

「……どうした?」

「別に。バカなやつだなって、思って」

「私が?」

「他に誰がいるのよ」

「ひどいなあ」

 

 心外そうに苦笑いする彼と一緒に、少しの間だけ、笑う。

 きっと、勘違いではなかった。文は確かに月見を嫌っていたし、その感情に誤解はなかった。

 ただ――意地っ張りだった。別にそこまでする必要なんてないのに、自分から許してしまったら負けた気分になるからと、意地を張って、嫌いを貫き続けた。

 そして今、こうして助けられて、彼の呆れるほどお人好しな人情に触れて、これ以上意地を張るのも馬鹿馬鹿しくなった。

 きっと、そうだった。傾けたコップの水が文の喉を潤すように、ようやく得られた理解は体の芯までそっと落ちて、心を潤すのだろう。

 空になったコップを返す傍らで、文は月見に声を掛ける。

 

「そういえばあんた、天狗の新聞を取ろうとしてるんだって? 今日の宴会で耳に挟んだんだけど」

 

 もちろん、嘘だった。宴会で耳に挟むまでもなく、文は既に、『文々。新聞』の発行部数が一部増えることを知っていた。

 

「ああ、そうだよ。……そういえば操に頼んだまますっかり音沙汰がないね。忘れられてるんだろうか」

 

 特に深い理由はないが、なんとなく、からかってみたくなった。月見はどうやら、『文々。新聞』を誰が作っているのか、まだ知らないらしいから。

 

「まあ、そのうち届くんじゃない? 私たちの新聞なんて、面白いネタがあった時だけ気まぐれで作られるようなものだし」

「それにしてはいい新聞だったけど……山の外の出来事も豊富に取り上げられててね、大したものだったよ」

 

 むくむくと湧き上がってくる爽快な優越感を、文は懸命にひた隠した。幸い部屋が薄暗いからか、月見に気づかれた様子はなかった。

 

「そういえば、お前も新聞を書いてるんだろう? なんて新聞なんだ?」

「……さあ」

 

 含むように笑って横になり、布団を首まで持ち上げる。

 

「秘密よ、秘密。それよりも、眠いからもう寝るわ」

 

 今この場で、面と向かって真実を教えるのは、文にはまだ難しそうだから。だから精々、あとでたっぷり驚かしてやろう。

 体調の悪いこちらを気遣ったのか、月見が特に追及してくることはなく。

 

「そうか。……ゆっくり休めよ」

「言われなくても休むわよ。明日まで引きずったら嫌だし」

「ああ。じゃあ、おやすみ」

 

 月見が立ち上がる。狐火とともに離れていく彼の背が、襖の向こうに消えてしまう直前に、文はそっと口を開いていた。

 

「ねえ」

「……ん? どうした?」

 

 襖の隙間から覗き込んできた、彼の顔は見ないまま。

 天井を見上げ、瞑想するようにまぶたを下ろして。

 

「……悪かったわね。今まで」

 

 謝った、わけではなかった。文は、嫌いに拘り続けてきた今までの自分に後悔はしていないし、月見に悪いことをしたとも思っていない。たとえ勘違いであったとしても、嘘であったとしても、月見が嫌いだったあの感情は、間違いなく文のものだった。

 本気で謝ったわけではない。

 ただ、今までの意地っ張りだった自分に、さよならを。

 

「……ああ」

 

 少し意外そうに声をこぼして、月見はそれからふっと、柔らかく笑った。

 

「なあに。――大したことじゃないさ」

 

 そう――大したことじゃあなかった。特別大したことでもない感情に、文は馬鹿馬鹿しくも、何百年もの間拘り続けてきた。

 だから、忘れよう。……いいや、受け入れよう。何年も経った未来の宴会の席で、こんなこともあったっけ、と笑いながら思い出せるように。

 だから、さようなら。意地っ張りだった、私。

 

「それじゃあ、おやすみ」

「……うん」

 

 襖が閉まり、狐火が消え、月明かりだけの頼りない世界。けれど、そんなに心細くはない。

 早起きしよう、と思う。月見が起きるよりも、朝日が昇るよりも早くに起きて、一直線に家へ帰って、支度をしよう。まだ直接渡せるほど素直にはなれないけれど、せっかく文の新聞を選んでくれた彼の慧眼には、まあ、応えてやらんでもないのである。

 ここから始まるのだと、文は思う。昔に戻るのではなく、今を続けていくのでもなく、すべてを白紙に戻して、未だ見ぬ新しい場所へと。

 文と月見は、きっと、ここからまた始まっていく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 庭のどこかで、小鳥が陽気に鳴いていた。晩春の朝の空気は快晴ながらも少し湿っていて、やがてやってくるであろう雨の季節の訪れを予感させた。

 酔って体調を崩した文を客間で休ませた、翌日の朝だった。起き抜けの月見は顔を洗ってほどよく身嗜みを整え、文を泊めた一階の客間へと足を向けた。

 しかしその襖の前で、ふと足を止める。

 

「……おや」

 

 襖が開いていた。奥の客間では貸していた布団が綺麗に畳まれ、文の姿は、もうどこにも見えなくなっていた。

 

「随分と早起きだこと」

 

 日が昇ってから、まだそれほど時間は経っていない。別に朝日と早起き勝負までしなくたって、のんびり休んでいってくれて構わなかったのだけれど。

 だが、朝一番で水月苑を飛び出したということは、体調はすっかりよくなったのだろう。礼の一言も置いていかないあたりがなんとも彼女らしい。

 昨夜に、悪かった、と謝られたのは意外だった。今になって思えば、幻想郷に戻ってきてから初めて、普通の知人同士のように話をしたかもしれない。けれど一方で、文の酔いと操の暗示のせいで出た、一晩限りの夢だったのかもしれない。

 

「……ん?」

 

 月見はふと、畳まれた布団の上に、見慣れぬ一枚の紙が置かれているのに気づいた。なんだろうかと思い、客間に入って、手に取ってみれば。

 

「……『文々。新聞』?」

 

 月見がかねてより目をつけていた新聞の、日付を見るに最新号らしい。二つ折りにされた紙面では、今回の一面記事が写真とともに大々的に報じられている。

 一瞬、なんでこれがこんなところに、と不思議に思ったけれど。

 

「……まさか」

 

 やがて思い至った一つの可能性に、月見は愕然として小さく呟いた。それに応えるように、二つ折りになった新聞の隙間から、掌に乗るくらいの小さな紙がこぼれ落ちた。

 拾い上げて見てみれば、もう間違いはない。

 

 

『文々。新聞 定期購読料請求書

 今度取り立てに行くから、雁首揃えてキチッと払うこと!』

 

 

 そして最後に添えられていたサインを、月見は心の底から一本取られた思いで、ゆっくりゆっくりと読み上げた。

 

「『清く正しい射命丸』……ね」

 

 なるほど、道理で初めてこの新聞を選んだ時、操がテンションを急上昇させていたわけだ。よりにもよって文の新聞に目を掛けていたとは、運命のいたずらとはこういうことをいうに違いない。

 まさに意外や意外――けれど月見が本当に驚いているのは、そこではない。

 文が月見の希望に応えて、ちゃんと最新号を置いていってくれたこと。まさか元々懐に忍ばせていたわけではなかろうから、月見が起きるよりも先に一旦家に引き返して、わざわざ持ってきてくれたのだろう。

 しかも請求書付きだから、決して今回ばかりの気まぐれではなく、次回もそのまた次回も、水月苑には真新しい『文々。新聞』が届けられるのだ。

 文の筆跡は潔く、迷いがなかった。操の暗示の影響を受けながらも、それ以上の納得と理解を以て、紛れもない自らの意思で書かれているのが見て取れた。

 だから、ぽつりと呟く。

 

「一歩前進……ってやつなのかな」

 

 そして、笑った。差し当たってはまず、朝食の支度よりも先にやらなければならないことが決まった。

 精々今後は嫌われることのないよう、まずは仰せの通り、雁首揃えてキチッと払ってしまおうと。

 春の陽気よりも清々しい心地で、月見は朝一番で、水月苑の貯蓄を確認しに向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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