銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第51話 「ぶらり旧地獄一人旅 ①」

 

 

 

 

 

 月見は、梅雨があまり好きではない。

 雨が嫌いというわけではない。もちろん晴れてくれるのであればそれに越したことはないけれど、雨もまた、空の風情ある表情の一つなので、二日三日降り続く程度であれば表立って顔をしかめるような真似はしない。

 しかしながら、一週間以上もしつこくしとしと降り続いてしまえば、さすがにため息の一つもつきたくなろうというものだった。

 月見が梅雨を苦手とする理由は至極単純で、散歩がしづらくなるからだ。幻想郷の道はコンクリートで舗装されておらず、すべて土が剥き出しになっているため、ひとたび雨が降れば沓と服を汚す天然のトラップと化してしまう。基本的に散歩は歩いてやりたい主義である月見にとって、道を歩きづらくしてしまう雨はなかなかの天敵なのだった。

 幸い、退屈はしていない。週末は温泉を求めるお客さんがあいかわらずたくさんやってくるし、紫や輝夜やフランはよく遊びに来てくれるし、咲夜や妖夢や早苗は差し入れをくれたり掃除を手伝ってくれたりするし、藤千代や操と話をするのはなんだかんだでいい退屈凌ぎになるし、お腹を空かせてやってくる霊夢やルーミアに料理を振る舞ってやるのも悪くはないし、魔理沙やパチュリーと魔法談義をするのもいい刺激になるし、慧音や阿求から幻想郷の歴史を教えてもらうのも有意義だし、映姫の押し掛けだって慣れてしまえばどうということもない。ここしばらく思うように外に出ることができずとも、みんなのお陰で、それなりに満足な毎日を送れている自覚はある。

 しかしながら、退屈でなければずっと引きこもりの生活でもよいかとなれば、月見は断固、否なのである。

 

「……ふむ」

 

 濁った灰色の雨空を縁側から見上げながら、出掛けよう、と月見は思った。汚れた服を洗濯するのが手間とはいえ、それでも足を動かしたいという欲求に軍配が上がった。

 しかしながら、雨の中遠出をするつもりにもなれなかったので、なるべく水月苑の近くで行けそうな場所をリストアップしてみることにした。人里――は、梅雨の間でも買い出しで何度か行っている。紅魔館――フランたちがよく遊びに来てくれるし、温泉の開放日である明日あたりもまた来るだろうから、こちらから出向くまでもない。霧の湖――退屈凌ぎになるようなものはなさそうだ。魔法の森――論外。

 となると、天狗の屋敷や守矢神社などを目指して、山登りをするのがよいだろうか。

 

「……いや、待てよ?」

 

 ふと思考の片隅に引っ掛かるものを感じて、月見は浅く眉をひそめた。

 数秒の黙考、

 

「確か……地底への入口は、山のどこかにあるんだったか」

 

 そんな話を、永遠亭で藤千代と再会した時に聞かされた覚えがある。今の今まですっかり忘れてしまっていたけれど、ひょっとすると地底は、今足を向ける場所としては打ってつけなのではなかろうか。

 地底は文字通り、地表の下に創られた世界。空を硬い岩盤で覆われたその場所に、地上の雨がどうして届こう。

 稲妻を閃かすような、名案だった。

 

「よし」

 

 小さく呟き、月見はぱたぱたと小走りで縁側を駆けていく。地底は月見にとって未知の世界だから、早めに行動するに越したことはない。

 胸を鳴らす小さな高揚感に、やはりこれが私の生き方なのだと、思いながら。

 急ぎ足で支度をする月見の笑みは、梅雨に入ってからようやく、若々しい生命力で満ち満ちていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 地底へ続くという洞穴は、雨にもかかわらずそのへんを飛んでいた、働き者な哨戒天狗をつかまえるだけですぐに見つかった。毎日山中を飛び回っているだけあって、彼らは山の地理には非常に詳しい。

 正規の登山道を大きく横に外れて、侵入者を拒むように入り組む木々を躱していけば、やがて目の前にそびえた山肌を穿つように、大きな洞穴が一つ、大口を開けて佇立しているのが見えた。高さは月見の身の丈よりもやや高いかどうかで、横は両腕を広げても悠々入っていけそうなほど。入り口自体はそう大きくないが、一歩を踏み入れたところですぐに空間は広がり、なにも見えない常闇の奥へと続いていっているのがわかる。

 未知の世界を予感させる神秘的な雰囲気はない。入口の岩肌にはさんざ木の根が巡り、苔が繁茂し、どちらかといえばおどろおどろしく、魔界に通じる魔物の顎門めいている。近づくだけで心なしかあたりの空気が冷え込んだ気がするし、奥から呻き声に似た不気味な風音が聞こえてくるのは、果たしてただの錯覚なのか。

 入口の手前には、手作り感あふれるなおざりな立て看板が一つあって、

 

『地底につながる洞穴につき、いつまで経っても立ち入り禁止じゃ! 回れ右! by天魔』

 

 デカデカと書かれた草書体の下には、片や小綺麗な楷書体で、片や癖のある行書体で、二つの補足事項が小さく書き足されている。

 

『ただし、月見くんはいつまで経っても立ち入り許可ですよー。どんと来い! by月見くんのお嫁さん』

『一応、地上と地底はお互いにあんまり干渉しないことになってるから、行ってもいいけどみんなと仲良くしてあげること! 目指せ友達百人! byあなたのゆかりん』

 

 指先に狐火を灯し、嘘八百な二つの署名を念入りに焼き潰しておく。

 それから唐傘を畳み、慎重な足取りで洞穴に足を踏み入れる。岩そのものを無造作にぶちまけて、苔でびっしりと覆われている入口近辺の足場は、特に気をつけて。

 

「……狐火」

 

 尻尾の先に明かり代わりの狐火を灯し、少し進むと、連絡橋として最低限の手だけは入れられているらしく、平らに均された歩きやすい足場になった。天井も、既に月見が見上げるほどに高くなっている。思っていたよりも、通行に不便な道ではなさそうだ。

 と、思っていたのだが。

 

「……」

 

 洞穴の観察をしながらしばらく進むと、道は急勾配へと差し掛かった――というか、崖だった。進むべき道が月見の足先からすっぽり消滅していて、代わりに底の見えない漆黒の奈落が広がっている。まさに地獄の底まで続いているかのような、という比喩は、この場合比喩にはならないのだろう。人外たちが通る道だけに、飛行を前提にした作りとなっているのは当然かもしれない。

 試しに、足元に転がっていた小石を投げ入れてみる。しばらく待ってみるが、底にぶつかった音は一向に返ってこない。まあ、わかっていたことだ。

 

「どれ」

 

 月見は狐火の火力を上げて、周囲の障害物に注意しつつ、ふよふよ漂うように下降を開始する。途中、羽休めできそうな足場を見つけてはのんびり洞穴の景色を観察してみたりしたが、見えるものはいつまで経っても岩ばかりだったので、そのうち飽きて下降だけに意識を集中させるようになる。

 そんな単純作業を、一体どれだけ続けただろうか。

 

「……ん?」

 

 ふと、月見は尻尾の狐火を消した。するといつの間にか、火をつけずとも困らない程度に周囲が明るくなっているのに気づいた。多少薄暗い感はあるが、周囲の岩肌を問題なく目視することができる。

 こんな洞穴の奥深くで一体なにが光源となっているのか、月見にはよくわからないけれど、どうあれ光があるのはありがたかった。間もなく崖も一番下まで下り終え、薄闇の中を一直線に伸びていく道は、いよいよ地底への到達を予感させた。

 変わり映えしない洞穴の風景にもそろそろ退屈してきたので、飛行速度を上げてさっさと抜けてしまうことにする。進めば進むほど光はより明るく、洞穴特有の冷えた無機質な空気にも、次第に別の色が混じり始めて――

 

「――ばあ!」

「は?」

 

 カアン! ――と、額を小気味よくなにかにぶつけたのはその直後。

 

「いっ……たー……」

 

 間近に迫っていた地底の気配に気を取られていたのもあるし、なによりそれなりの速度で飛んでいたせいで、まったくもって反応できなかった。じんじん痛む額を押さえ、うぐぐとひとしきりその場で呻いていると、なにやら背後で「にゃあああああっ」と緊張感のない少女の悲鳴が聞こえた。

 痛みが治まってきたので振り返り見れば、

 

「止めてえええええっ」

「……」

 

 天井の岩肌からロープで吊るされ、なにやら前後に振り子運動をしている一つの桶、

 

「見てないで止めてえええええっ」

 

 の中に、小さな少女。

 少女を入れた桶があっちへ行ったりこっちへ来たりするのを眺めながら、なるほど、と月見は納得した。どうやら、ついさっきぶつかったのはこの桶だったらしい。道理であんな快音が鳴ったわけだし、中身が入っていたなら痛いわけである。

 

「止めてって言ってるでしょこのばかあああああっ」

「……」

 

 ともあれ桶の中の少女が大変ご立腹な様子だったので、月見は揺れる桶をはっしと掴んで止めてやった。

 中の少女は、大して大きくもない桶にすっぽりと収まっている通り、背丈が大変小さかった。幻想郷の小妖精たちといい勝負かもしれない。月見がさて一体何者だろうかと覗き込む先で、少女は胸を押さえながらぜいぜいと喘いでいるのだった。

 

「び、びっくりした……まさかおどかそうとしておどかされるなんて。まさにミイラ取りがなんとやら」

「どちら様で?」

「相手に名前を尋ねる時はまず自分から。でも私は淑女なので、恐れ多くも名乗って進ぜよう」

 

 呼吸を整え終わった少女は桶の中から月見を見上げて、バチッと星が瞬くウインク、

 

「みんなご存知地底世界のアイドル、キスメちゃんです☆」

 

 月見は桶をプッシュ&リリースした。

 

「いやあああああぁぁぁ……」

 

 撃ち出された桶は物理法則に従い、キスメの声は振り子運動のまま遠ざかって行く。

 

「ごめんなさいごめんなさい本当は釣瓶落としのキスメですううううう」

 

 そして一往復して戻ってきたところで、月見は再びはっしと受け止めた。

 少女はまたぜーぜー肩で息をしていた。

 

「な、なんてきちくのしょぎょう……今までたくさんの妖怪たちにこの冗談を言ってきたけど、文字通り突き飛ばす反応をされたのは初めて。悔しい、でもなんだか新鮮」

 

 変なやつに出会ってしまったかもしれないと月見は思う。

 

「……それで、あなたは? 私がちゃんと名乗ったんだから、あなたも名乗るべき」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「なにそれつまんない。そこはもっと私みたいに、みんなご存知地上世界のスーパースター、ツクミンで――はい冗談です。だからまた手を放そうとしないでくださいお願いします」

 

 変なやつに出会ってしまった。

 

「ところでさっきはごめんなさい。頭、怪我してない?」

「なに、大したことじゃないよ。……しかし、なんでいきなり私の目の前なんかに」

「おどかそうと思って。――ばあ」

「……」

「……てへ」

「確かに、ある意味ではびっくりしたけど」

「私の手に掛かればざっとこんなもんよ」

「ところで私にも、お前をおどかす秘策があってね」

「待って待ってなんでいきなり投球フォームなの。やめて投げないでお願いやめてひょっとしなくてもさっきの根に持ってるでしょすみません調子乗りました許してください」

「そうか。自信あったんだけど……」

「がっかりしないでくれますか」

「まあ、冗談だけどね」

「この狐め。悪い妖怪は食べちゃうよ」

「ほう、そんな小さな体で私のどこを食べると」

「私はこう見えて、頭から容赦なく食べちゃう肉食系女子」

「へえ」

「今までそうやって葬り去ってきた鯛焼きは数知れず」

「……鯛焼きか」

「美味しいよね。あなたは鯛焼き食べる?」

「最近食べてないねえ」

「じゃあ、今度地底でオススメのお好み焼き屋さんを紹介したげる」

「鯛焼きは?」

「なにかを得るためには同等のなにかを犠牲にしなければならないのです」

「なんの話だよ」

「冗談。軌道修正。……だから私は、あなたも頭から容赦なく食べちゃうよ」

「お前みたいなちみっ子がねえ」

「甘く見てもらっては困る。実は今の私は、敵を欺くための仮の姿。真の姿はないすばでーのお姉さん」

「ふうん」

「なにそのどうでもよさそうな反応。ひどい」

「だからなんの話をしてるんだよ私たちは」

 

 ……本当に、変なやつに出会ってしまった。

 

「……キスメー? そこに誰かいるのー?」

 

 と、岩陰の方から別の声。振り向き見れば、ひょこりと顔を出してきたのはまたも少女であり。

 

「……ん、どちら様? キスメの知り合い?」

「よくぞ聞いてくれました。実はこの人こそ、知る人ぞ知る地上世界のスーパースにゃあああああぁぁぁ……」

 

 とりあえず月見は、下らないことを言う釣瓶落としを再びリリースしておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 釣瓶落としのキスメと土蜘蛛の黒谷ヤマメは、ともにこの洞穴一帯をねぐらにして生活している妖怪らしい。薄暗い洞穴でもはっきりとわかるほどに、色のいい金髪のポニーテールを揺らしているのがヤマメ。薄暗い中ではちょっとわかりにくい、深みのある緑のツインテールを揺らしているのがキスメ。ヤマメは、かつて地上を追われた妖怪の割には非常に気さくで親しみやすく、少し立ち話をするだけですぐに打ち解けることができた。

 よって、問題はもう片方のちっこいやつであり。

 

「言っておくけど私は地底の妖怪じゃないので、そこは注意してほしい」

「ほう、そうなのか」

「ただ暗くて狭いところが好きなだけ」

「陰険……」

「こんなに可愛らしい地底のアイドルが陰険なわけない」

 

 表情筋が貧弱なのかポーカーフェイスなのかは知らないが、涼しい顔で安いコントみたいなセリフを連発させる自称地底のアイドルは、曲者揃いの幻想郷でも頭一つ抜き出た問題児らしかった。地底ではそこそこ有名な妖怪らしい。主に、話をするとロクなことにならないという意味で。

 

「それは多分、みんな私の可愛さにどぎまぎしてるんだと思う。行き過ぎた可愛さは罪。てへ」

「……」

 

 こいつ、本当にどうしてくれよう。

 ヤマメがすまなそうに――本当にすまなそうに俯いて、力なく笑った。

 

「ごめんね、めんどくさいやつで。ウザかったら無理に付き合わなくてもいいからね」

「こんなに可愛らしい地底のアイドルがウザいわけない」

 

 正直ウザい。

 調子に乗っているキスメをヤマメがたしなめる。

 

「あんたねえ、初対面の相手にはもう少しまともな接し方しなさいって何度も言ってるでしょ? そんなんだから初対面でドン引きされるんだよ?」

「まあドン引きされるのもそれはそれでゾクゾクするものが」

「……」

「ヤマメにドン引きされてしまった。なんてこと」

 

 月見もドン引きである。

 キスメから若干距離を取りつつ派手なため息をつくヤマメは、恐らく相当苦労しているのだろう、キスメと一緒に生活する中で積もり積もった言い知れぬ哀愁を醸し出していた。瞳のハイライトが若干消えかけているように見えるのは、きっと薄暗い洞穴のせいではないだろう。

 

「最近さあ、キスメの友人ってだけで、地底の連中からも微妙に避けられるようになってて……はは、私の居場所はもう地上にも地底にもないのかもね」

「ヤマメ、そんなんじゃ幸せが逃げちゃうよ。笑顔笑顔」

 

 ヤマメがキスメを桶ごとぶん投げた。

 

「いやあああああぁぁぁ……」

 

 キスメは美しい放物線を描いて宙を舞い、しかし途中で天井と桶をつなぐ縄がピーンと張ったので、瞬く間に振り子運動へと移行。

 

「ヤマメのばかあああああ……」

 

 それなりの勢いで右へ左へ行き交うキスメを見て、ヤマメも少しは気が晴れたらしく、すっかり元通りの人懐こい笑顔で月見を見上げた。

 

「で、旧都に行くんだよね。だったらここをまっすぐ進めばいいよ。こんなところで道草食ってないで、さっさと進むのが吉さね」

「……」

 

 月見は、にゃあああああっと右からやってきてあっという間に左へ消えていった、『さっさと進むのが吉』の原因を目で追いながら、

 

「……じゃあ、お言葉に甘えて進ませてもらおうかな」

「はいはい、旅のお供に可愛いマスコットキャラはいかがですかああぁぁぁ……」

 

 変なドップラー効果が聞こえたが気のせいだろう。

 

「それじゃあヤマメ、世話になったね」

「縁があったらまた会おうねー」

「話聞いてますかあああああ」

「あっとそうだ、多分洞穴を抜けたところに女の子がいると思うんだけど、変なこと言われても気を悪くしないでやってね」

「変なこと、というと?」

「あのおおおおおっ」

「ちょっとねー、口が悪いというか、初対面の相手にも結構失礼なこと言うやつなんだ。でも悪気があってやってるわけじゃなくて、ただ不器用なだけだから、怒らないでやってね」

「ふうん……わかったよ、ありがとう」

「呪ってやるうううっ」

「じゃあねー。ばいばい」

「ああ」

「しこたま呪ってやるうううううっ」

 

 ……。

 キスメの恨み事を背中で聞きながら、本当に変なやつと知り合っちゃったなあと、月見は重いため息をつくのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 洞穴を抜けると広大に視界が開けて、そしていきなり谷になっていた。

 生まれて初めて足を踏み入れる地底世界は、思っていたよりもずっと明るかった。太陽の訪れない場所だが不思議なことに、日常生活に困らない程度には光がある。とはいえ地上の空の下とは比べるべくもなく、どことなくぼんやりとしていて、淀んだ薄ら寒い空気が漂っている。

 足下をほぼ垂直に切り込んでいく谷は、人間が入り込む世界ではないからか防柵の類は一切なく、覗き込めば底では川が流れていた。思っていたほど深くはなく、その気になれば、釣り糸を垂らして暇潰しができそうだ。魚がいるのかはともかく。

 そしてすぐ近くには、こちら側と向こう岸をつなぐ太鼓橋。少し傷んだ木目板と塗装の取れた欄干が、緩いアーチを描きながら対岸まで伸びている。橋を渡ってしばらく進んだ先にはぼんやりと橙色の灯りを宿した町並みがあり、恐らくあそこが、藤千代たちが移り住んだという旧都だろう。

 

「……」

 

 などと周囲を観察していれば、橋の中ほどで、本当に釣りをしている少女を見つけた。木と糸で作ったお手製の竿を右手で持ち、左手で橋の欄干に頬杖をついて、とても退屈そうな表情で谷の底を見つめている。

 彼女が、ヤマメの言っていた『女の子』だろうか。向こう岸へ行くにはこの橋を渡るしかなさそうなので、道すがら、ついでに声を掛けてみることにする。

 

「もし、そこのお嬢さんや」

「……」

 

 なんとも面倒くさそうな動きで、少女がゆっくりと振り向いた。薄暗い地底世界には似つかしくない、綺麗な金髪とエメラルドブルーの瞳をした少女だった。けれど肝心の表情がとんでもないほど不機嫌なしかめっ面だったので、月見は思わず、続けて掛けるはずだった言葉に詰まってしまった。

 この威圧感、かつての文とタメを張れる気がする。

 

「……」

 

 少女は口を固く閉ざしたまま月見を上から下まで観察し、終えるなり盛大なため息を隠そうともせず、

 

「ナンパかしら。妬ましい行動力ね。この橋から身を投げてみたらどう?」

「……えー」

 

 訂正、文と比べるどころの話ではなかった。初対面でいきなり自殺を勧めるとはこれいかに。

 月見を射抜く視線は刃物の如く。

 

「私みたいなやつにナンパなんて、憐れんでるつもりなのかしら。ふうん、妬ましいくらい優しいのね」

「……」

 

 確かにヤマメの情報通り、友好的な相手ではなさそうだ。

 とはいえ月見とて、何千年もの時を生きた大妖怪。この程度の雑言で言葉を荒らげるほど、気の短い性格ではないつもりだ。それに地底には、ひょっとしたらこういう癖の強い住人が多いのかもしれないから、これしきで怒っていては観光など夢のまた夢だろう。

 とりあえず、コミュニケーション。

 

「なにしてるんだ?」

「見ればわかるでしょ。その目は飾りなのかしら」

「……釣れるのか?」

「見ればわかるでしょ。どうやらその目は飾りみたいね」

「……」

「というかあなた、地上の妖怪ね。地上の妖怪はここへは立入禁止だって、洞穴の入口に看板が――ああ、そういえばその目は飾りなんだったわね。ごめんなさい」

 

 初対面の相手にここまで情け容赦のない罵詈雑言。なんとなく、彼女がこんなところでぽつんと釣りをしている理由がわかる気がした。そしてそれでもキスメよりかはマシだと思えるあたり、あの釣瓶落としがいかにウザい妖怪だったのかが身に染みて理解できるのだった。

 肩を竦め、

 

「一応、妖怪の賢者殿と、あとは鬼子母神殿から許可はもらってるよ」

「はあ? ……なに、もしかしてその二人と知り合いとか?」

「まあ、友人みたいなものだね」

「友達がいるのね。妬ましい。死になさい」

 

 なにやら友達の話題になった瞬間、少女が一層不機嫌になって悪口もレベルアップしてしまった。どうやら、この少女の前で友達の話はタブーらしい。……まあこれだけ口が悪いのだったら、仮に友達がいないのだとしても、無理からぬことなのかもしれないが。

 しかし出会ったばかりの月見にもここまで忌憚ない罵声を飛ばせるとは、彼女、一体何者だろうか。そのあたりを月見の視線から察した彼女は、またため息をついて、

 

「私は、橋姫だから」

「ほう」

 

 なるほど、橋姫。であれば、先ほどから妙に「妬ましい」と繰り返しているのにも、ひとまず納得が行くところであった。

 橋は、古来より二つの異なる世界をつなぐための通路であると考えられていた。すなわち一種の『境界』であり、外からやってくる外敵を拒み、内から出て行く者たちの無事を祈るために、いつしか守り神が祀られるようになった。

 橋姫とは読んで字の如く、大元を辿れば橋を守護する女神のことである。何分嫉妬深い神様として有名で、橋姫が守護する橋の上で他の橋を褒めたり、嫁入りする女を渡らせたりすると祟られるという。しかしこの信仰は早くに衰え、いつしか嫉妬深いという性質だけが残されて、代表的な『宇治の橋姫』にある通りの、恨みを抱えた鬼神として描かれるようになった。

 そんな橋姫の信仰は、外の世界ではもうなくなってしまったといっても過言でないけれど、やはりここは幻想郷の真下にある世界だけあって橋姫様もご健在で、地上と地底の境となるこの橋を、健気に守護していらっしゃると見える。……まあ、本当に守護しているのかどうかはわからないが。釣りをして遊んでいるし。

 と、橋姫の釣り竿にピクピクと反応。手元に伝わる揺れを感じて、嫉妬全開だった彼女の顔が俄に引き締まる。

 

「なんだ、釣れるんじゃないか」

「当たり前でしょ。じゃなかったら釣りなんてしないわよ」

「じゃあ、とりあえず私の目は飾りじゃなかったということで」

「ちょっと黙ってなさい妬ましいったらありゃしない」

 

 もはやなにを妬まれているのかもわからない。月見は黙って、橋姫と魚の格闘を見守ることにした。

 特に大物が掛かったわけではないらしく、引きは弱い。大したことはないと踏んだ橋姫は竿を脇に挟み、両手で糸を手繰り寄せて獲物を引き上げていく。

 やがて月見の視界に入ってきた魚は、

 

『ウボァー』

「そおい」

 

 橋姫が竿ごと魚を――魚なのかは甚だ疑問だがともかく――リリースした。

 橋の下で控えめな水柱が上がり、投げ捨てられた竿がどんぶらこーどんぶらこーと川下の方へ流れ去っていく。

 

「……」

「……コホン」

 

 橋姫は一つ空咳をすると、くるりと月見へ振り向いて何事もなかったかのように、

 

「で? 妖怪の賢者と鬼子母神に頼み込んでまで、あなたはどうしてこんなところに来たのかしら?」

「……なあ、今の」

「ここで生活してる私が言うのもなんだけど、わざわざ地上からやってくるほどの場所じゃないわよ」

 

 どうやら触れてくれるなということらしい。一体なんだったのだろうか。月見の目には、なにやら五本足くらいのUMAが見えた気がするのだけれど。

 ともあれ。

 

「……今まで来たことがない世界だからね。どういう場所なのか、興味があって」

「そんなしょうもない理由で二人から許可をもらったっての?」

「というか、いつでも好きな時に来ていいみたいな感じだね」

「へえ、仲がいいのね。友達がいない私への当てつけね。妬ましい死になさい」

 

 本当にまったくもって容赦がない。確かにこの性格では、地上の世界から遠ざけられてしまったのも、うべなるところなのかもしれない。というか本当に友達がいないらしいこの少女は。

 されど橋姫は、嫉妬深い鬼神となるより以前は、夫を強く想い続ける一途な女性として描かれてもいた。だから言動こそつっけんどんでも、彼女も根はきっと心優しい乙女なのだろうと月見としては思いたいのだけれど、どうだろうか。

 それに、友達がいないと言った彼女の瞳が、ほんの少しだけ、寂しそうに見えなくもなかったから。少女がもし本当は友達を欲しているのであれば、月見もちょうど地底の知り合いを何人か作りたかったところだし、ちょうどいい話ではないか。

 

「じゃあ、ここで会ったのもなにかの縁だし、よかったら私と友達」

「さっさとこの橋から身を投げてくれる?」

 

 最後まで言わせてすらくれないなんてひどい。

 橋姫はため息、

 

「どうやらほんとにナンパみたいね。余計なお世話よ。私には必要ないわ」

「……いや、必要どうこうで作るもんじゃないだろう友達は」

 

 苦笑しながらそう返せば大変不愉快そうに睨みつけられたので、月見は小さく肩を竦め、

 

「変なこと言って悪かったね。他に当たってみるよ」

「……」

 

 地底自体が仲違いによって創られるに至った世界なのだから、まあすんなりは行かないだろうとは思っていたけれど、初っ端から出鼻を挫かれて骨までヒビが入った気分だった。地底の住人は手強い。

 これ以上怒られる前に行った方がいいかな、と月見が旧都の明かりを眺めながら空気を窺っていると、ふと橋姫の眼光が和らいだ。かといって親しみの感情を宿したわけではなく、なにか一つ物事を諦めたように、気の抜けたため息だった。

 

「……あなた、変な妖怪ね。私みたいなやつと仲良くなろうとするなんて、やっぱりその目は飾りなんでしょうね」

 

 あいかわらず情け容赦のない物言いは、けれど不思議と悪口には聞こえなかった。それはきっと橋姫が、本人も気づかないほどにうっすらと、微笑んでいたからなのだろう。

 

「ま、変な妖怪ってことで、名前くらいは覚えておいてあげる。……私は水橋パルスィ。さっきも言ったけど、橋姫よ」

 

 さっきまで妬ましい死になさいと喚いていた者の言葉とは思えないほど柔らかな名乗りに、月見もまた微笑んで応じた。

 

「私は月見。ただのしがない狐だよ。よろしく、パルシィ」

 

 しかし名を呼び返した瞬間、パルシィの顔がめちゃくちゃ不機嫌になった。具体的には、背後で黒いオーラが立ち上がって、目が怒りで赤く輝かんとするくらいに。

 ……なにか、地雷を踏んでしまっただろうか。もしかして、いきなり名前で呼ばないでくれる馴々しいわね妬ましい、とかそういうことを気にするタイプだったか。

 しかして橋姫が低い声でこぼした不満は、以下のようなものであった。

 

「パルシィじゃなくて、パルスィよ。間違えないでくれる?」

「え? ……パルシィ、だろう?」

 

 不機嫌オーラ、パワーアップ。

 

「パ、ル、スィ、よ。『シィ』じゃなくて、『スィ』」

「……ああ」

 

 なるほど、どうやら彼女は水橋パルシィではなく、水橋パルスィらしい。微妙な違いなので、一度聞いただけではわからなかった。確かに名前を間違えられてしまえば、橋姫じゃなくとも誰だっていい顔はしない。

 なので月見は謝罪ののち、今度は注意深く、

 

「ええと……水橋パルシ、……パリッ、……パル、スィ、だな」

 

 ゴミでも見るような目で見られた。

 

「いやいや待て待て、もう大丈夫だ。……水橋パルsee」

 

 ゴミでも見るような以下略。

 

「……まあ、少し発音しづらいのは私もわかってるわ」

「パルseeじゃダメか」

「突き落とすわよ」

 

 ネイティブな発音はお気に召さないらしい。

 

「ならあだ名はどうだ? ……そうだな、可愛らしく『パルパル』とか。これなら呼び易」

「さようなら。あなたのことはすぐに忘れるわ」

「うおお待て待て背中を押すなっ」

 

 過去の『かぐちん』の一件然り、もしかすると月見には、そのあたりのセンスが綺麗さっぱり欠如しているのかもしれない。冗談抜きで突き落とされそうになったので、申し訳ないが、尻尾を巻きつけてパルスィの動きを拘束させてもらうことにした。

 

「ッ……ちょっと、なにするのよ」

「悪かったから、突き落とすのはやめてくれ」

 

 あんな五本足のウボァーと鳴くUMAが生息する川に突き落とされるなど、断じて御免である。

 振り向き見れば、パルスィがじたばた身じろぎしている。

 

「くっ……なんなのよこのもふもふは。無駄に触り心地いいのが妬ましいわ」

「……ありがとう」

「褒めてないわよ呆れたポジティブ思考ね妬ましい」

「はいはい」

 

 段々とパルスィの雑言にも慣れてきた気がするし、だからこそ思う。キスメよりかは何倍もマシだと。

 帰り道でまたあいつに会うのだろうかと思うと、今から気が重い。

 

「ちょっと、もう突き落とさないから放しなさいよ」

「……ああ、悪い」

 

 憂いある未来を一人で嘆いていたら、パルスィの不機嫌な声で現実に引き戻された。月見が尻尾を解くと、パルスィは少し皺がついた服を平手で伸ばして、やれやれと長いため息をついた。

 

「言いづらいんだったら『水橋』でいいわよ。そっちの方が楽でしょ」

「いや、大丈夫だよ。パルsee」

「殺すわよ」

 

 ちょっとからかいすぎたらしい。橋姫は鬼神なので、きっと喧嘩は鬼並みに強いだろうし、宇治の橋姫の伝承を考えれば呪術にも詳しそうだ。仲良くなっておいた方が長生きできるに違いない。

 

「わかったよ、水橋」

「まったく……ああ、本当に妙な妖怪と知り合っちゃったもんだわ」

 

 もう目を合わせるのも疲れたのか、パルスィは橋の欄干に頬杖をついて、五本足のUMAがいる水面を眺めながら、

 

「で、いい加減に話戻すけど。あなた、本当にここから先に行くつもり?」

「もちろんだとも。なにかオススメの観光スポットとかあるかい?」

「オススメってあなたね……なにを勘違いしてるのか知らないけど、地底はそんなに楽しいところじゃないわよ。そもそも地上世界を追いやられた連中が集まってるんだから、あなたを歓迎するわけない」

「でも、無理やり追い返されたりするわけじゃないだろう?」

 

 こうしてパルスィが、なんだかんだで、月見の話し相手をしてくれているように。

 

「それはそうだけど……」

「本当にダメそうだったら、その時は素直に帰るよ」

「はあ。よくわからないわね」

「橋姫としてはどうなんだ? 余所者はここから先には行かせられないってなると、少し困ってしまうけど」

 

 パルスィは水面を見つめたまま、しばらく考えて。

 

「……好きにしたら? 橋姫なんて、今となってはただの嫉妬深い鬼神だもの。橋の守り神としての信仰は疾うに廃れたわ」

「そうか。じゃあお言葉に甘えて、好きにさせてもらおうかな」

 

 行ってもいいのであれば、やはり月見に引き返すという選択肢は存在しなかった。地底世界に興味があるのは事実だし、それにいい加減に月見の方から藤千代を訪ねておかないと、「月見くんってば全然遊びに来てくれないじゃないですかー!!」と彼女の我慢が限界突破して、とても面倒なことになりそうなのだ。それでぶっ飛ばされでもしたらたまったもんじゃない。

 そう、とパルスィの反応は簡潔だった。

 

「それじゃあいってらっしゃい。精々頑張りなさいな」

「ああ。また帰り道に」

 

 パルスィが横目でこちらを振り向く。その瞳が虚を衝かれたように丸くなっていたのは一瞬で、すぐに元の不機嫌な――けれどどことなく気恥ずかしそうな――顔をして、ぷいとそっぽを向いた。

 

「……さっさと行きなさい。妬ましい」

「はいはい」

 

 今までで一番、女の子らしい情緒に揺れた声音に、月見はそっと苦笑しながら、彼女の後ろを通りすぎようとする。

 が、ふと冷たいなにかに頭を打たれたのを感じて、足を止めて。

 

「……なあ、水橋」

「? なによ」

 

 月見は岩肌で覆われた薄暗い地底の空を振り仰ぎ、呆然と言う。

 

「……なんで、雨が降るんだ?」

「はあ? ……降るに決まってるでしょう、梅雨だもの」

 

 しとしと、しとしと。

 どうやらこの地底も幻想郷と同じで、外の常識が通用しない世界らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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