銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第55話 「ぶらり旧地獄一人旅 ⑤」

 

 

 

 

 

 鬼ごっこというべきか、かくれんぼというべきか。

 ともかく、逃げるこいしと追う一輪たちの闘いは、こいしの圧勝という形で幕を下ろした。

 

「わーい、私の勝ちー」

「……まさか月見さんの膝の上に戻ってたなんてね。道理でいくら捜しても見つからないわけだわ」

 

 月見の膝の上で呼吸ひとつ乱さず喜ぶこいしを尻目に、一輪が疲労困憊のため息を吐き出した。水蜜もぐったりしてテーブルに寝そべっているし、雲山だって疲れた表情こそ見せずとも、複雑そうに眉間に皺を寄せて瞑目している。更にみんなに無視され続けたぬえは腕を枕にしてぐずぐず鼻をすすっていて、さながら歴史的大敗を喫したあとの少年サッカーチームみたいな、そんな沈んだ空気が広がっていた。

 一部始終をざっくり振り返れば、以下のようになる。

 初めこそ血眼になってこいしを捜していた一輪たちだったが、五分間ほど必死に走り回ってもなんの成果もなく、やがて「なんでこんなことしてるんだっけ……」とモチベーション崩壊を起こした。そうして次第に諦めムードが広がり始めたところで、無意識を操る能力を解いたこいしが、月見の膝の上に満面の笑顔で出現した。

 つまり部屋中を必死に走り回っていた一輪たちの頑張りは、まったくの徒労。まさに灯台下暗し、彼女たちを襲った虚脱感はいかなるものや。

 こいしが一輪たちから素直に逃げ回っていたのは、初めの一分間ほどだけだった。あとは飽きたらしく、当たり前のように月見の膝に戻ってきて、誰もいない空間で東奔西走する一輪たちを笑いながら観察していた。

 もちろん月見は、こいしがまた膝に乗ってきた時点ですべて気づいていたのだけれど――

 

「月見さんも、わかってたなら教えてくださいよー……」

「ッハハハ、悪い悪い」

 

 水蜜のとても不満げな半目に、月見は悪びれもしない笑みを返した。この程度の騒ぎで腰を上げるほど、月見の気は短くない。地上では、これよりよっぽど賑やかな喧騒が、毎日のように繰り広げられているのだから。

 

「地上で、よほど賑やかな生活してるんですね……」

「……そうだね」

 

 つくづくそうだと、月見は思う。数百年振りに博麗神社の鳥居をくぐってから今日に至るまで、幻想郷の住人たちはみんなが笑顔で、元気いっぱいで、月見をなかなか退屈させてくれない。

 まあ、せっかく数百年振りに戻ってきたのだから、そうでなくては困るのだけれど。

 

「ところでこいし、お姉さんが心配してたぞ。もう何日も家に帰ってないんだって?」

「んー?」

 

 膝上のこいしを見下ろしてそう声を掛けたが、返ってきた反応は生返事だった。興味がない質問に興味がないまま答える、投げやりな声音。

 

「実はお姉さんから、聖輦船で見かけたら連れて帰ってくるように頼まれててね」

「そうなの? まったく、あいかわらずお姉ちゃんは心配性だなー。ほんの三日くらい帰ってないだけなのに」

「家族が三日も帰ってこなかったら、心配して当たり前だよ」

 

 例えばフランが三日も紅魔館に帰らなかったら、レミリアは半狂乱になって、文字通り草の根を掻き分けながら幻想郷中を捜し回るだろう。外の世界であれば、なにか事件に巻き込まれたんじゃないかと警察に捜索願いが出される。

 

「だから、一旦帰って安心させてやりなさい」

「んー……そうかあ。わかった」

 

 こいしはあまり乗り気ではなさそうだったが、最終的には、月見の言い分を理解してくれたようだった。偉い偉いと小さな頭を撫でるように叩くと、んー♪ とご満悦な様子で笑った。

 

「月見は、お姉ちゃんの知り合いなの?」

「知り合いになったばかり、というべきかな。ここに来る前に、地霊殿に寄ってきてね」

 

 へー、とこいしが意外そうに目を丸める。

 

「お姉ちゃんに心読まれて、嫌じゃなかったの?」

「なに、慣れればどうってことないさ。それに上手いことやれば、心を読まれるのを利用してからかったりもできるしね。話をしてて、なかなか楽しかったよ?」

 

 さとりは、大人しい性格ながら芸人向きなところがあるのか、月見の心の声にいちいち律儀なツッコミを入れてくれるから面白い。顔を真っ赤にしたり思いっきり叫んだりわたわた慌てたり、リアクションも申し分ないので、ああいう子になら心を読まれるのも大歓迎というものである。

 さとりに知られたら、また怒られそうだ。

 

「月見さん、すごいですね……覚妖怪と話をして楽しいだなんて、」

 

 そこまで言い掛けた一輪が、こいしの存在を思い出してはっと口を噤んだ。けれどこいしは聞いていなかったらしく、ぼんやりとした顔で月見に体をもたして、

 

「ふーん……月見って、変な妖怪ね」

「ッハハハ、もう言われ慣れたよ」

 

 まあ、覚妖怪との会話を楽しむやつなど圧倒的少数派だろう。

 噛むように笑って、まぶたを下ろす。

 

「でも、多分さとりは、みんなが思い描いてるような覚妖怪とは違うんじゃないかな。心を読んでからかってやろう、とかそういう感じは全然なかったしね」

 

 地底のみんながさとりを敬遠するのは、『覚妖怪』という種族がもたらす先入観のせいだ。心を読まれる。知られたくないことを知られ、嫌な目に遭う。そういった恐怖ばかりに気を取られて、誰もさとりを一人の少女として見ようとしていない。

 先入観に囚われ距離を置くことを、責めはしないけれど。

 

「一度話をしてみると、意外と仲良くなれたりするかもよ」

 

 けれどなにかをきっかけに、その関係が変わればいいなと思う。一歩を踏み出す勇気が、いつか、皆の心に生まれればと。

 

「……」

 

 水蜜たちは答えない。決して無視したのではなく、どう答えるべきなのかを、彼女たちは判断しかねているようだった。

 さとり個人を嫌っているわけではない。覚妖怪という種族自体に馴染めないでいるだけ。ただ心を読まれるのが怖くて、どう接すればいいのかわからないだけ。

 なら、いくらでも希望はある。本当にちょっとしたきっかけさえあれば、種族の壁なんて、呆れてしまうくらい簡単に打ち破れるものだから。事実として幻想郷では、妖怪も人も神も関係なく、皆が種族の違いを越えて、笑い合っているのだから。

 いつかみんなが、古明地さとりは全然怖くなくて、むしろかわいげがあって面白い子なんだと気づいてくれる日がくれば、それはきっと素敵なことだろうと。

 そんな未来を夢想していると、月見はふと、膝の上の重みが消えてなくなったのに気づいた。

 

「……こいし?」

 

 月見の膝から降りたこいしが、ふらふらした危なっかしい足取りで出入口に向かっていた。月見が名前を呼んでも反応はなく、そのまま緩慢な動きでドアを開けて、甲板へと出て行ってしまう。

 

「……?」

「どうかしたんでしょうか……?」

 

 突拍子のない行動に、一輪たちも首を傾げていた。いきなり甲板に出て行くのはともかく、月見に名を呼ばれても無反応だったのは明らかにおかしい。

 下着を盗まれたショックから立ち直れないでいるぬえを放置して、三人でこいしの後を追う。こいしは甲板の縁から外の景色を眺めて、なにかを探すように、ゆっくりと首を左右に動かしていた。

 

「こいし、どうした?」

「んー……」

 

 声を掛けるが、返ってくる反応は、ほとんど無視されたのと大差ないほどに薄い。月見は眉をひそめた。月見の膝の上で無邪気に笑っていた今までのこいしとは、明らかに様子が違う。正気があるのかどうかすら疑わしく、これではまるで夢遊病のような――

 

「……」

 

 月見はこいしに歩み寄り、その肩に、少し力を入れて手を置いた。

 

「こいし」

「――え?」

 

 こいしが振り返った。驚いた表情をしていた。ただ肩に手を置かれたことだけではなく、今の自分の状況そのものに驚き、目を丸くしていた。

 周囲を見回し、自分がどこに立っているのかを認識すると、ふっとため息をついて。

 

「ああ……ごめんね、ぼーっとしちゃってた」

「……やっぱり、無意識だったのか」

 

 恐らく、無意識を操る能力による弊害なのだろう。時折こうして、自分自身が無意識に囚われ、自覚のないままに行動してしまう。

 

「家に帰ろうって、思ってたから。……昔からこんな感じで、気がついたら知らない場所に立ってることとか、結構あるんだ」

「……そうか」

 

 こいしの面差しに、かすかな影が差した。

 

「第三の目を閉じて、心を読めなくなったのまではよかったんだけど……こういうところはちょっと困っちゃうんだよね。これのせいで家に帰れなくなったり、危ない目に遭ったのも一度や二度じゃないもん」

 

 放浪癖がある子だと、さとりは言っていた。だから、外を出歩くのが好きな活発な子なのだろうと、月見は思っていた。……本当にそうなのだろうか。もしかすると彼女の放浪癖は、能力の弊害によって意図せず生まれてしまった、望まぬ力の顕れなのかもしれない。

 事情を理解した一輪と水蜜は、複雑そうに眉を寄せて閉口していた。月見も、表情こそ穏やかだけれど、内心では苦いものを噛んでいた。無意識による勝手な行動。それは言い換えれば、自分以外の誰かに自分のすべてを乗っ取られ、操られてしまうのと同じだ。自分の知らない誰かが、自分の中に棲んでいるのと同じだ。ちょっと困っちゃう、とこいしはなんでもないことのように言ったが、決してちょっとどころの話ではないだろう。泣いてしまいたくなるような経験をしたことだって、きっと、あるのだろう。

 だから月見は、ため息をつくように微笑んで、

 

「……それじゃ、家に帰るか?」

「……そうだね。多分、船に戻っても、また無意識のうちに帰ろうとしちゃうと思う」

「わかった。じゃあ、私も一緒に行くよ」

 

 え? とこちらを見上げたこいしの蒼い瞳を、膝に両手をつき、まっすぐに覗き込んで。

 

「帰り道の途中でなにかに気を取られたら、無意識のうちにそっちに行っちゃって、また帰れなくなるんじゃないのか?」

 

 こいしの視線が、横に逃げた。

 

「……うーん、そうかも」

「だから、私が見てるよ」

 

 意図せず自覚のない行動をしてしまうのなら、隣で誰かが見ていればいい。なにかに気を取られて道を外してしまうのなら、誰かがそっと肩を叩いて、こっちだよと、呼び戻してやればいい。

 

「それなら大丈夫だろう?」

「そうかもしれないけど……いいの?」

 

 こいしの瞳が、水に指先をつけたように揺れた。一緒に帰ろうと、誰かから提案されること自体を、彼女はとても不思議に思っているようだった。まるでそんなこと、今まで一度も、言われたことがないというように。

 月見は頷く。

 

「もちろん。お前のお姉さんにも頼まれてるしね。断っても、勝手についていくよ?」

「……そっか」

 

 こいしがほころんだ。それは、心配性な姉に呆れる、困ったような仕草だったけれど。

 

「うん。……じゃあ、一緒に帰ろ」

 

 余計な感情が伴わず、常に無邪気で、それ故にどこか機械的だったこいしの笑顔に。

 ようやく、一つ深く息をするような、淡い感情が覗いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局ぬえは、月見とこいしが聖輦船を立つ頃になってもめそめそしたままだった。

 何者かに下着を盗まれて怖がる気持ちは共感されるべきだが、それにしても情けなさすぎである。いつまで経っても泣きやまないので一輪――というか雲山――に拳骨を落とされ、それでまたわんわん泣き始めてしまうぬえを見て、月見はとりあえず、自分の中の『鵺』像を大幅に下方修正するのだった。

 

「ううう、みんなひどいよお~……。ほんとに怖いんだよ、もう夜一人で眠れないよおぉぉ~……」

「こら、お見送りなんだからシャキっとしなさい。また拳骨するわよ?」

「うえぇぇ~……」

 

 一輪の腕にへっぴり腰でひっついて、ぬえがぐすぐすと鼻をすすっている。まるで、とんでもなく怖いホラー映像を見てしまって姉に泣きついている妹みたいだ。

 

「すみません月見さん、だらしない子で……」

 

 いい加減辟易した口振りで一輪がため息をつくけれど、月見は笑って、

 

「いいんじゃないか、元気があって」

「ものには限度があります。……このあと、ちゃんと躾けておきますので」

「うん……まあ、ほどほどにな?」

 

 むしろ首が縮むほどの拳骨を落とす一輪と雲山の方が、限度を知るべきではないかと思わなくもない。一輪の容赦ない一言にびくりと震えたぬえは、涙目で逃げ出して、今度は水蜜の腕にひっついていた。

 水蜜は、慣れているのか苦笑。

 

「これで京都御所を恐怖に陥れた大妖怪だってんですから、笑っちゃいますよねー」

「意外ではあるね」

 

 大妖怪『鵺』は泣き虫、と心の隅の妖怪ノートにしっかり書き留めておく。

 ひぐっ、とぬえが大きくしゃっくりをした。

 

「それじゃあ、そろそろ行くよ。お茶、御馳走様」

「いえいえ。大したもてなしもできずにすみませんでした」

「機会があったらまた来てくださいねー。地上のお話とか、色々と聞かせてくれると嬉しいです」

「……ぐすっ」

 

 一輪が楚々と頭を下げて、水蜜が気さくに手を振って、ぬえが鼻をすする。雲山はあいかわらず厳つい顔をしていたが、月見と視線が合うと、目だけでそっと黙礼した。

 最後に、一輪がこいしを見て。

 

「……あなたも、もしまた来ることがあるならいたずらしないで顔を出してちょうだい。お茶くらいなら出したげるから」

「はーい」

 

 わかっているのかいないのか、こいしは挨拶もそこそこに甲板から身を乗り出し、「それじゃあ行こ!」と月見の手を強く引っ張った。誰かと一緒に家に帰れるのが、居ても立ってもいられないほどに嬉しいらしい。それだけ、『無意識を操る程度の能力』には振り回されてきたということなのかもしれない。

 一輪たちと手を振り合いながら聖輦船を離れれば、船は空を切って、あっという間に月見たちから遠ざかっていく。風が吹かない地底の空を泳ぐ後ろ姿に、ああそういえばどうやって空を飛んでいるのか訊き忘れたなと、月見はふと、そんなことを考えた。

 まあ、また次の機会でいいことだ。ふっと笑い、隣のこいしを見下ろす。

 

「じゃ、帰ろうか」

 

 月見の手の中には、こいしの小さな掌が収まっている。こうして手をつないで帰れば、途中で離ればなれになってしまうこともないはずだから。

 月見を見返したこいしは、重ねた掌に力と熱を込めて、顔いっぱいにほころんで頷いた。

 

「うん!」

 

 その心からの笑顔が、あまりに強く綺麗だったから。

 空のない地底に、一瞬外の景色が映ったようだと、月見は思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 聖輦船が大分旧都から離れてしまっていたのもあって、帰り道は、決して短い道のりではなかった。おまけにこいしが、なにか面白そうなものを見つけてはすぐさま右に曲がろうとし、なにかに変なものに気を取られてはしきりに左へ行こうとするものだから、まるでやんちゃな子犬の散歩でもしているみたいだったと月見は思う。

 

「着いたね」

「ああ」

 

 見下ろせば、四角形の縁を切り取った形の地霊殿と、ステンドグラスが七色を彩る中庭が見える。正面は言うまでもなく、こうして空から見ても綺麗な佇まいをした館だ。ただ単に自分の好きな色で塗り潰せばいいのではないということを、あの吸血鬼お嬢様にも是非見習ってもらいたい。

 ところで、

 

「……なんだか、少し暑くないか?」

 

 地霊殿の真上に来た途端に、妙に周囲の空気が生ぬるくなった気がする。サウナの空気を、遠巻きから浴びせられているような。

 こいしは地霊殿の中庭を見下ろして、すぐに頷いた。

 

「きっと、おくうが灼熱地獄の空気を入れ換えてるんだよ。……月見、おくうにはもう会った?」

「いや、まだ会ってはいないよ。灼熱地獄を管理してる子なんだってね」

 

 なるほど、中庭のステンドグラスを開けて灼熱地獄の換気をすれば、逃げた熱が空に昇りもしよう。中庭では確かに、ステンドグラスがずれて、いくつか黒い穴を空けている。

 そして、おくうという少女。ステンドグラスに脳天から激突して気絶し自由落下するという大失敗をやらかしてなお、頑張って自分の仕事に励んでいるらしい。失敗に挫けない強い心を持った子なのか、それとも鳥頭故に、失敗したこと自体を忘れてしまったのか。

 

「じゃあ、今いると思うから紹介するよ! 行こ!」

「おっと。わかった、わかったから落ち着いて」

 

 元気なこいしにグイグイと手を引かれて、中庭に降り立つ。折よく地面のステンドグラスが一枚横に動いて、モグラ叩きのゲームよろしく、一人の少女がぴょこりと顔を出した。

 

「おくうー」

 

 こいしが少女の名を呼ぶ。おくう――霊烏路空は、振り向くなり一瞬表情を明るくしたけれど、すぐにこいしと手をつなぐ月見の存在に気づき、血相を変えて全身を強張らせた。

 

「こいし様っ、それ……!」

 

 瞳に烈火が燃えるように浮かび上がったのは、触れれば火傷する明らかな敵愾心。……そういえば地底の妖怪は、地上の妖怪を快く思っていない場合があるのだった。あの居酒屋の連中然り、さとりたちにせよ一輪たちにせよ、みんな気のいい妖怪たちばかりだったから、すっかり忘れてしまっていた。

 灼熱地獄に続く穴から飛び出し一目散に駆け寄ろうとするおくうを、こいしが「大丈夫だよー」と笑顔で制した。

 

「この人はね、悪い妖怪じゃないよ。ここまで戻ってくる途中でね、私がまた変な場所に行かないように見ててくれたんだよ」

「っ……」

 

 おくうが足を止めた。こいしのフォローがあってなお、その瞳の奥には直視も憚られる激情の炎。月見の印象は、初対面の時点で既に最悪を振り切っているらしい。まるで親の仇にでもされた気分だ。

 

「……はじめまして。私は月見、ただのしがない狐だよ」

「……霊烏路空。地獄鴉」

 

 とりあえず挨拶をしてみたものの、返答は機械の合成音かと思うほど無機質で冷たかった。そしてそれ故に、無感動な声音の奥で押し殺された嫌悪が一層際立っている。

 ひとまず返事をしてもらえたという点では、まったく希望がないわけでもなさそうだけれど――

 

「おくう。月見はお客さんなんだから、そんなに怖い顔しちゃダメだよ」

「……」

 

 こいしが唇を尖らせても、片眉を動かしすらいない。なにも言わず、身動きひとつせず、ただじっと、刃物めいた眼力で月見を射抜いている。

 腰よりも長く伸びる黒髪に、後頭部を丸々覆い隠すほどの大きなリボンをくっつけている。一見すると幼い顔立ちをしているが、対照的に背丈は高く、背中の翼も大きいので、羽根を広げて月見を睥睨する様はなかなか威圧的だ。左右に広がりがちな髪型は、もともとの癖っ毛なのか、それとも内心で燃え盛る敵意の炎が表面化したものなのか。

 文といいこのおくうという少女といい、なにかと鴉には嫌われやすい月見である。この場にこいしがいてくれなければ、殴るように蹴るように、罵倒の飛礫をぶつけられていたのだろうか。

 

「もー、おくうったら……」

 

 やがて辟易したこいしがため息をつき、おくうから視線を外した。月見の袖を引っ張って言う。

 

「じゃあ月見、中入ろ」

「あ、ああ……しかし、いいのか?」

 

 なんというか、背を向けた瞬間に包丁で刺されそうなのだけれど。

 

「いいよいいよ。私が大丈夫だって言ってるのに、聞き分けのないおくうなんて知らない」

「っ……!」

 

 おくうが、苦虫を百匹くらい噛み潰した顔をした。火に油を、どころの話ではない。こいしをいいように懐柔していると取られたのか、もはや人でも殺せそうな目をしていた。

 だが、こいしは知らん顔で、

 

「ほら、行こ」

「ああ……」

 

 腕を引っ張られるまま回れ右をする前に、本当に刺されやしないだろうなと、月見はもう一度だけおくうを見たが、

 

「……こいし様に免じて見逃すけど」

 

 返ってくるのは、憎悪を限界まで煮詰めて発酵させたような、女とは思えないほどドス黒い声、

 

「こいし様たちになにかしたら、ただじゃおかないから」

「……言われなくてもなにもしないから、安心してくれ」

「信じられない。……私は絶対に、信じない」

 

 こいしに両手で腕を引かれた。多分、本気だったのだと思う。その子どもらしからぬ力に踏み留まることもできず、月見は已むなく中庭をあとにする。

 実際に、後ろから刺されこそ、しなかったけれど。

 月見の背には最後まで、刃物と変わらない物騒な視線が、深く深く突き刺さったままだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が、こいしを連れて聖輦船から戻ってきた。元は自分から頼んだこととはいえ、まさか本当に見つけて連れ帰ってきてくれるとは思っていなかったので、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。

 

「……本当に、ありがとうございました。月見さん」

「どういたしまして。お役に立てたようでなによりだよ」

 

 地霊殿のエントランスで、さとりは月見に深く頭を下げた。本来であればもっとちゃんとした礼をするべきなのだろうが、折り悪く時計は既に、地上でいうところの夕暮れ時を指していた。

 明日は予定が入っているため、そろそろ帰らなければならないのだと月見が言った時、こいしの落胆のしようはさとりが驚くほどだった。今だってさとりの隣で、ぶーぶーと頬を膨らませながら、

 

「月見、もう帰っちゃうのー? 泊まってけばいいのにー」

「こら、こいし」

「ッハハハ、ごめんな。明日はちょっと予定があってね、夜はその準備をしないとならないんだ」

 

 心を読んでわかったところによると、どうやら月見は、地上では温泉宿のようなものを経営しているらしい。明日から始まる週末の二日間は、幻想郷の住人たちに向けて温泉を開放するため、今夜は浴場の掃除をしたり、色々やらなければならないことがあるのだとか。

 月見についてく! といつ言い出してもおかしくないこいしの腕を引っ張って、たしなめる。

 

「月見さんにも地上の生活があるんだから、無理を言っちゃダメよ」

「ぶー……」

 

 それでもやっぱり残念でならないらしく、こいしはいじけた顔をして、エントランスの床をガシガシ蹴っ飛ばしているのだった。

 聖輦船で出会いここに戻ってくるまでの短時間で、こいしがこうも月見に懐いてしまうとは誤算だった。確かにこいしはあまりに能天気で警戒心がないように見えるが、それでも誰彼構わず心を開くほど扱いやすい子ではない。そうでなかったら、さとりとの関係だって今よりもう少しは上手く行っている。

 そんなこいしと、驚くほどあっさり仲良くなってみせた月見の姿は、姉妹仲がよいと自信を持てないでいる身としては悔しいほどに羨ましかった。同じ覚妖怪でありながら、片や能力とともにあり片や能力を捨てた差なのか、こいしとの間には、いつも言い知れぬ距離があるように思う。

 

「こいし様、随分とおにーさんが好きになっちゃったみたいですね?」

 

 お燐がいかにも猫らしく笑って茶化すものの、こいしはどこ吹く風で、

 

「なんだろうね。月見は地上の妖怪だけど、一緒にいるとなんだか安心できるんだよ」

「……」

 

 こいしは第三の目を閉じ、心を閉ざした代わりに、無意識を操る能力に目覚めた。そしてそれ故に、心を読むだけではわからない超越的ななにかを、無意識のうちに感じ取れるようになっていた。

 ふと、安心という言葉について考える。文字通り、心が安らいでいる状態。月見と一緒にいると、こいしは心が安らぐのだろうか。

 お燐が、うんうんとこいしに共感している。

 

「なんとなくわかる気がするなあ。おにーさん、空気みたいだもの」

「……それは褒められてるのかな?」

「もちろん。存在感が薄いとかそういう意味じゃなくて、空気みたいに、傍にいるのが気にならないんだよ。いい意味でね」

「おや、ありがとう」

 

 では、自分にとってはどうなのだろうか。少し考え、すぐに首を振った。安心などできるはずがない。出会ってから今まで散々からかわれたせいで、ちょっと隙を見せただけで、またなにかをされるんじゃないかと気が気でない。お燐は空気みたいに気にならないと評したが、さとりは逆に、変に彼の存在を意識してしまう。

 けれど。

 

「それじゃあ、そろそろ行くよ。世話になったね」

 

 けれど、それはそれ、決して嫌なことではない。からかわれるのは恥ずかしいし、ちょっと困ってしまうけれど、絶対にやめてほしいと嫌悪するほどでもない。

 なんだかんだで。

 藤千代以外にも、友達ができたみたい、とか。

 断じて言っておけば、からかってほしい、なんて意味ではない。からかわれないで済むのであれば、それに越したことはないけれど。

 でもこういう関係も、それほど、悪いものじゃないのかなと、思う。赤の他人な旧都の住人とも、心を読まないと意思疎通できないペットたちとも、心を読めないこいしとも違う。

 心を読まれてもちっとも気にせず、それどころか逆手に取って、歩み寄ってきてくれるひと。

 いつか三人でお酒も呑もうと、藤千代は言った。本当に、そうなれればいいと思う。いつか、友と呼べる者たちと盃を傾け合うことができたら、それはきっと、素晴らしいこと。

 だから、ああそっか、とさとりは思って。

 

「またねー。今度は一緒に遊ぼうね!」

「元気でねー」

 

 傍にいると心が安らぐのが、こいしにとっての『安心』。一緒にいてもまったく気にならないのが、お燐にとっての『安心』。

 そして、さとりにとっては。

 

「……また、いらしてくださいね」

 

 ここで別れても、また会ってみたいと思える、この感情こそが。

 私にとっての、安心という形なのだろう。

 

「待ってますから」

 

 祈るように、両手を重ねて、淡く微笑む。

 雪が融けて、新しい若葉が芽吹くように。

 今まで生きてきた中で、一番、暖かい気持ちで笑えた気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「今だ隙あり必殺キスメちゃんボンびゃああああああああっ」

「……」

 

 カッコーン。

 地底から地上へと戻る洞穴の途中。そうして月見は桶を傘でホームランした。

 

「いやあああああ助けてええええええええっ」

「…………」

 

 振り向き見れば、遊園地のバイキングみたいな勢いで振り子運動をしている、釣瓶落とし。

 

「……やあ、また会ったね」

「助けてって言ってるでしょばかああああああああっ」

 

 また会っちゃったなー、と月見は遠い目をしながらため息をついた。

 自称みんなご存知地底世界のアイドル、キスメちゃんである。感情が面に出にくいクール系と見せかけて、一度口を開けば反応に困るボケばかりを連射する変な妖怪である。できれば再会したくなかった。

 悲鳴と棒読みを足して二で割ったとても微妙な声でドップラー効果を再現しつつ、キスメが右へ左へ行ったり来たりしている。

 

「助けて助けて助けて助けて助けろ助けて助けなさい」

「はいはい」

「わーいありがゲフゥッ」

 

 左上から流れてきた桶を、目の前でキャッチする。桶の運動速度が一瞬でゼロになって、慣性の法則で前に打ち出されたキスメは桶の縁に腹を強打し、そのまま干された布団みたいになって動かなくなった。

 

「……大丈夫か?」

「ゲフガホゲボグボ」

 

 あまり大丈夫ではなさそうだ。

 

「ゲホゲホ……ひ、ひどい。こんなにひどい助け方をされたのは生まれて初めて。というか助けられたのかどうかすら疑問」

「大変だねえ」

「うわすごい他人事。そんなひどいこと言ってると、鬼子母神様にあなたに食べられたって吹き込んじゃうよ。もちろん性的に」

「釣瓶落としって焼くと上手いのかな……」

「食べられちゃう。物理的に」

 

 狐火を豪々燃え上がらせた尻尾を近づける。

 

「って待って待って本当に焼こうとしないで桶が焦げる焦げる焦げちゃう桶があああ私のベストパートナーがあああいやあああああミディアムレアになっちゃうううううう」

 

 青い顔と真顔を足して二で割ったとても微妙な表情で狐火をふーふーするキスメを見て、本当に変な妖怪だよなあと、月見は低い声で唸ることしかできないのだった。

 キスメの五体投地のような土下座がキマってから、少し。

 

「――で、なんでついてくるんだ?」

「せっかくこうして運命の再会を果たせたのだから、もっと一緒に愛を語り合うべき」

「間に合ってます」

「間に合ってるんですか。爆発してください」

「ところでヤマメには会わなかったね」

「私よりもあの女がいいのねこのスケコマシ」

 

 なにやら退屈すぎて枯れ果てそうとのことだったので、洞穴を抜けるまでの間、キスメの話し相手を務めることになってしまった。曰くこの少女、月見と一緒だと会話が弾むので楽しいらしい。月見は疲れる。

 釣瓶落としは空を飛ぶのが得意でないそうなので――だからこそ彼女たちは天井からぶらさがるのだろう――、キスメ入りの桶を手に持って、月見は洞穴を飛んでいく。

 

「地底旅行はどうだった?」

「終わってみれば、それなりに楽しめたよ」

「私と運命の出会いができたから?」

「……………………ああ、そうだね」

「どこからどう見ても可哀想なモノを見る目ですありがとうございました」

「お前ってさ、こう……昔、どこかで頭を思いっきり打ったりとかしなかったか? 頭のネジが吹っ飛ぶくらいに」

「これは遠回しに頭おかしいって言われてる予感。常識を逸脱した才能を持つ者は、いつだって世間から理解してもらえないのね」

「お前の才能って?」

「かわいいこと。てへっ――はい冗談、ちょっとしたお茶目なジョークです。だから投げ捨てようとしないでくださいお願いします」

 

 調子に乗るキスメを早々に投げ捨てるべきか本気で苦悩しつつ、地上へとつながる急勾配を狐火の明かりの中で進んでいく。行きは初めて通る道だからとゆっくり進んだが、今は早く帰って明日の準備をしなければならないので、余所見などする暇はない。

 キスメがまた、

 

「なんだかんだで、あなたは優しい妖怪」

「なんだいきなり」

「デレ期。フラグを立てるなら今」

「……」

「まさかの無視……。さては既に攻略したいヒロインがいるのねこんちくしょう」

「で、なんだいきなり」

「まあ、なんだかんだでお話に付き合ってくれるし。面倒だったら逃げればいいのに」

「一周回って逃げる気も起こらなくなってるんだよ」

「大丈夫、私にはわかる。これはあなたのデレ期。私は迷わずフラグを立てに行く」

「間に合ってます」

「爆発しろおたんこなす」

 

 初めこそゆっくり時間を掛けて下りた急勾配も、障害物に気をつけながら一気に昇ってみれば、ほんの数分の道のりだった。

 

「そろそろ出口だよ」

「私はここで捨てられるのね。所詮は行きずりの女」

「一人で戻れるだろう?」

「三十パーセントの確率で死ぬ」

「そうか。頑張って」

「……うん、頑張る。くっ、やっぱりまだまだ好感度が足りない……」

 

 こうして帰り道をともにしたことで、段々とキスメとの付き合い方もわかってきた月見である。真面目に話をしても疲れるだけなので、頭の中を半分くらいカラにして、テキトーに答えてしまうのがよろしい。

 そんなこんなで、キスメという面倒な同伴者を抱えながらも、無事に洞穴を抜けた月見だった。地上は、日が完全に落ちてからまだ間もない、薄い夜の帳で包まれていた。星が見えない曇天ながらも雨はやんでおり、深呼吸をすれば、湿った森の空気と雨の残り香が月見の肺を満たした。

 尻尾の狐火を消して、洞穴側に振り返る。膝を折って、なるべく平たい石の上にキスメの桶を置いた。

 

「はい、それじゃあここでさよならだ」

 

 キスメは桶の中で立ち上がると、ペコリと綺麗に頭を下げた。

 

「うん。ありがとう、お話楽しかった」

「それはなにより」

「またお話しようね。あなたとのお話は本当に楽しい。これは新しいベストパートナーの予感」

「……まあ、考えておくよ」

 

 月見は苦笑しながら頬を掻いた。どうやら気に入られてしまったらしい。ひょっとすると今回の地底旅行で一番大きな収穫は、いい意味でも悪い意味でも、キスメと知り合ってしまったことなのかもしれない。

 

「じゃあ、死なないように気をつけてね」

「大丈夫、私はこんなところで終わる女じゃない」

 

 桶の縁に両手を掛けたキスメが、ふんっと全身に力を込める。しかし五秒ほど経ってもなにも起こらず、更にふぬぬぬぬぬと力を振り絞ってようやく、桶が墜落間近のUFOみたいによろよろと浮き上がった。

 

「……大丈夫か?」

「せ、制限時間は、三分」

 

 飛行術が苦手というのは本当なようで、キスメは早くも息切れを起こし始めていた。これでは三分どころか、一分持つのかどうかも怪しい。目を離した瞬間に墜落しそうだ。

 まあ、彼女とて伊達に洞穴で生活している妖怪ではないので、大丈夫だろうけれど。

 

「じゃ、じゃあね」

「……ああ」

 

 ふよふよ、ふよふよ、今にも重力に負けそうになりながら、亀と名勝負を演じる速度で、キスメは一生懸命に飛んでいく。こんなところで終わる女じゃないという彼女の台詞を信じて、月見も水月苑へ向けて飛んでいく。

 背後から、あああっカコーン! と綺麗に墜落した音が響いてきて、一瞬引き返すべきかどうか悩んだけれど、首を振って聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「月見――――ッ!!」

「ぐはあっ」

 

 そして水月苑に戻ってきた月見を待っていたのは、フランの元気いっぱいな突進攻撃だった。いつも通り鳩尾と肋骨に甚大なダメージを負いつつも、男の根性でなんとか踏み留まり、お腹にすりすりしているフランの頭を優しく叩いた。

 

「こらフラン、もう少し手加減してくれって何度も言ってるだろう?」

「えへへ。ごめんね。でも月見に会えて嬉しいんだもん」

 

 腹部にダメージを負うたびにやめてほしいとしみじみ思うのだけれど、フランの無邪気な笑顔で見上げられてしまえば、まあいいかと叱る気も失せてしまう。本当に甘やかされるのが上手な子だ。そしてそれを見たレミリアが羨ましそうに月見を睨みつけるまでが、フランの突進攻撃における一連のお約束(テンプレ)なのだった。

 水月苑の玄関先で月見の戻りを待っていたのは、フランとレミリアと咲夜だった。スカーレット姉妹は夜行性なので、しばしば、こうして宵の口に水月苑を訪れる。

 

「どこに行ってたの?」

 

 レミリアは、待ちくたびれたのか不機嫌そうな顔をしていた。ちゃんと出迎えてほしいなら、ご近所さんとはいえ、前もって連絡くらいはしてほしいものだと月見は思う。

 お腹にフランをくっつけたまま、

 

「ちょっとね。もしかして、大分待ってたか?」

「ほんの十分程度ですわ。お気になさらず」

 

 昼間の家事で既にクタクタになるほど働いたろうに、疲れの色ひとつ見せることなく、咲夜が楚々と一礼した。

 

「明日の準備は、もう終わってますか?」

「いや、これからだけど」

「ああ、よかったです。それじゃあお手伝い致しますわ」

 

 しかも、これから更に水月苑の掃除まで手伝ってくれるらしい。藤千代であったり映姫であったり、藍であったり早苗であったり妖夢であったり、水月苑の掃除を手伝ってくれる協力者はそこそこいるが、中でも咲夜の働きはズバ抜けていた。殊に掃除という一点に限れば、咲夜は他の誰よりも、ひょっとすると月見以上に、水月苑のことを知り尽くしているだろう。

 

「毎回悪いね。助かるよ」

「いいえ、このくらいは当然のことです」

 

 本当に当然のことだと思っているらしいく、咲夜の返答はまっすぐで迷いがなかった。やはり出来過ぎた従者だと月見は噛むように笑って、心の片隅に、今度お礼をしようと小さくメモを取った。

 フランに引っつかれながら玄関下に入って、戸に手を伸ばす。淡く妖力を込めると、カシャン――と、ガラスを叩いたように長く伸びる錠の音。力自慢の妖怪が多い幻想郷では、通常の錠前が意味を為さない場合も多いので、月見はこうして呪術的な戸締まりをするようにしている。

 戸を開け、

 

「じゃ、温泉に入るならさっさと入っちゃいなさい。あとで掃除して、湯を張り替えるからね」

「はーい。月見も一緒に入ろ?」

「だぁから、それはダメだって何度も言ってるでしょ!?」

 

 フランがもはやお決まりとなりつつある一言を炸裂させ、血相を変えたレミリアがフランに掴みかかる。ぶーたれるフランと真っ赤になって騒ぐレミリアを見下ろして、月見と咲夜はどちらからともなくほころんだ。この子たちと一緒にいると、本当に、つくづく、娘たちでもできたみたいだと錯覚させられる。

 レミリアに強制連行されていくフラン、及びそれについていく咲夜と別れて、雨がやんでいるのを幸いに、座敷へと続く渡り廊下を全開放する。途端に風が雨の匂いを孕んで吹き込んできて、月見はひとつ、ゆっくりと長く、全身へ行き渡らせるように深呼吸をする。

 夏が始まる匂いだと、月見は思う。湿っていて、少し喉に貼りつくような、噛めば味すら感じられそうな、夏を運ぶ雨の匂い。

 春は終わった。あとは空を覆うあの雲たちが役目を終えれば、外の世界がそうであるように、幻想郷にも夏がやってくる。

 新しい季節の足音は、耳を澄ませば、もうすぐそこまで近づいてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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