銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方緋想天 ① 「緋想の霧」

 

 

 

 

 

 初めは、ほんの小さな違和感だった。

 しつこく続いた梅雨も一度過ぎ去れば早いもので、表と裏が替わるように、あっという間に夏本番へと突入した。絵の具をぶちまけたみたいに空高い青と、矢が降り注ぐかの如く強烈な陽射しと、火計のように身を焦がす熱気はまさしく夏だ。燦々輝く天からのスポットライトを浴びて、今日も蝉たちの大合唱は途切れることがない。

「夏だー!」と元気に外で跳ね回るか、「夏だー……」と家に引きこもって涼を取るかの二択しかないであろうその日、初めに違和感に気づいたのは月見だった。縁側の木陰になった隅に座り、足元に水の張った桶を置いて足湯ならぬ足水をしつつ、団扇を揺らして涼を取っていた時のことだった。

 

「……?」

 

 普通の人間や妖怪では到底気づくことのできない、砂浜に小石が一粒混じるような、小さな小さな違和感だった。しかし、幻想郷の妖怪としては一番歳を食っているからなのか、暑さに参って頭がぼんやりしている中でも、月見はその違和感を確かに感じ取った。

 

「ふむ?」

 

 例えるならば風呂上がり、自分の体から湯気が立ち上がっているような。息を止めて目を凝らさなければわからないほどかすかだけれど、時折一筋の煙めいた流れが、肌の近くでくねっている……気がする。

 あまりにも希薄すぎるので、見間違いかもしれないけれど。

 

「妖力……ではないよな」

 

 妖力は、特に抑えようと意識しない限り、自然と体から漏れ出てしまうもの。だが『気配』という言葉でも言い換えられるその流れは、基本的に目で見ることができず、加えて、漏れ出ていることに何千年も生きて今更違和感など覚えるはずもない。

 では、妖力でないとすれば、一体なにか。

 

「……まあ、いいか」

 

 そこまで考えたところで、月見はあとに続くはずだった思考を放棄した。違和感があまりに微弱すぎるため、この炎天下の中でわざわざ汗水垂らして調べる気にはなれなかった。特に嫌な感じがするわけでもなし、しばらく様子を見て長く続くようなら、陽射しが穏やかな日に暇潰しで調べてみればよい。

 そう結論し、団扇でのんびりゆったりと、顔を扇ぐ。

 無性に氷嚢が欲しくなる、夏の本番。

 

 そして二日後、月見は、体から立ち上がる煙が決して真夏の幻覚ではないと確信した。

 陽射しの厳しさが多少和らいだのを幸いに、週末の温泉宿営業日に向けて、屋敷の掃除を行っていた頃だった。夏日の掃除はなかなかな重労働であり、ちょっと油断するとすぐにだらけてしまいたくなるので、気分転換の意味も込めて、本格的に違和感の考察を開始する。

 まず疑問なのは、この煙は一体なにかということだ。目を凝らして手の甲を見れば、やはりわずかながら目に見える流れがある。微差だが、二日前より濃くなっているようだ。

 一見すると霧のように見えるが、霧ではないだろう。真夏の昼日中に、生物の体から霧が自然発生する現象など聞いたことがない。

 廊下の上を、軽くほうきで掃きながら考える。

 自分の体から、煙めいたなにかが漏れ出す現象といえば。

 

「気質……とかかな」

 

 気質。体の内部に存在し、すべての生物が持つ個体的な性質を司るもの。

 古代中国においては、万物を構成する根本的な物質は『気』であるとされ、その気によって形成される物の性質を『気質』と呼ぶ。また心理学においては、個人の性格の根幹を成すものであり、刺激に反応する場合の先天的な行動を特性化した――まあつまりは、『個人』を形成するとても重要な要素、ということだ。

 その気質が生物の体から外に放出されるのは、さして珍しい現象ではない。個人差はあるが、すべての生物は皆、無意識のうちに周囲に気質を振りまいて生きている。

 そうやって放出された気質は、同じくして周囲を漂う人々の気質と混ざり合い、現実世界に様々な変化を引き起こす。明るく社交的な人が一人いると、なんとなく場の空気そのものが和やかになる現象は、決して錯覚などではなく、その人の持つ明るい気質が実際に影響を及ぼしている好例だ。

 他にも例を挙げれば、雨男とか、晴女と呼ばれる人たちなど。あれも、その人の持つ雲を呼ぶ気質、雲を払う気質が、実際の天気にまで影響を与えているといえる。

 今月見の体から放出されているのは、気質である――真夏の霧を疑うよりかはよっぽど現実的だ。

 ほうきで集めたゴミを、ちりとりですくいながら呟く。

 

「でも、かすかにだけど目に見える」

 

 生物が放出する気質の量は、その時の精神状況や周囲の環境によって増減するが、目に見えるほどの濃度で漏れ出すことがあるとは初耳だ。単に月見の勉強不足か、それとも、

 

「……自然現象じゃない」

 

 誰かの手によって、人為的に引き起こされている異常――という線は、ありえるだろうか。これが外の世界であれば、そんなまさかと一笑に付しただろうが、あいにくここは幻想郷だ。外の常識は通用しない。

 そう思ってより注意深く観察してみれば、どうやらこの霧、外に向けて流れていっているらしい。

 換気中の窓から吹き込んでくる、穏やかな夏の風に逆らって。

 

「ふむ」

 

 好奇心が震えるのを感じた。これが人為的に引き起こされた現象だとするならば、一体誰が、なんの目的でやっているのか、調べてみるのも悪くはない。

 だだっ広い屋敷の掃除にも、飽きてきたところだ。集めたゴミを捨て、ほうきとちりとりをしまい、戸締まりをして外に出る。途端に、空からは燦々たる陽射しが、地上からは蝉たちの大合唱が集中砲火をかけてきた。やっぱり家でゆっくり涼んでようか、と一瞬挫折しかけたが、首を振って自堕落な思考を追い払う。

 まずは、立ち上がった気質の流れ行く先だ。意識を集中させて、流れを感覚的に追跡する。どうやら、山の天辺に向けて流れていっているらしい。

 空を飛び、気質が流れる方へ。春を越えてより一層深みの増した、緑の山肌が眼下に広がる。向かい風に逆らって空を切る感覚は、ひと時の間、夏の暑さを忘れさせてくれた。

 すれ違う天狗たちと挨拶をしたり、最近仲良くなった厄神と世間話をしたり、守矢神社の上を跨いだりしつつ、気質の流れに注意して飛んでいくと、結局、辿り着いた先は山頂だった。東西南北を端から端まで一望できる、幻想郷で一番高い場所。

 だが、どうやらここがゴールというわけではないらしい。

 

「へえ……もっと上か」

 

 からりと晴れた空を仰ぎ見る。ここまで登ってきてもなお、気質は更に高い場所を目指して流れていっている。この先にあるものといえば、当然、綿飴みたいに真っ白い雲だけであり、

 

「……雲の上、か」

 

 どんな季節でも天候であっても、常変わらずに山の空を覆う、叢雲の上に築かれた世界。悟りを開き、俗世を捨て、享楽に身を委ねた究極ののんびり屋たちが住む世界を、月見たちは『天界』と呼ぶ。

 

「……」

 

 この気質の流れが人為的に起こされたものであるならば、天人が犯人という可能性はありえるだろうか。俗世を捨て地上を去った天人たちが、わざわざなんの目的で。

 まあ……そもそも、これが本当に人為的な現象なのかすら、まだわかっていないのだけれど。

 

「なにはともあれ、昇ってみないことには始まらないか」

 

 せっかくここまでやってきたのだ、今更引き返すのも勿体ない。

 空を征く。更に青の彼方へ。

 この選択が、やがて月見が初めて『異変』に関わることとなる、小さな小さなきっかけだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 予想外の敵が立ちはだかった。

 山頂と天界とをまっすぐ結んだ道の途中に、どれほどの大きさなのかも見当がつかない巨大な雲。山頂から見上げた時にはなかったはずが、空を昇る月見がおやと思っているうちに、あっという間にできあがってしまった。

 

「……うーむ」

 

 地上を見下ろせば、この雲が幻想郷に大きな影を落としている。それに急に風が強くなってきたし、空気も湿ってきたようだ。

 もしかすると、積乱雲の類かもしれない。この見当もつかない大きさといい、雲の内部から感じる言い知れないプレッシャーといい、そんじょそこらの雲とは違う。

 積乱雲は、空には激しい対流現象をもたらし地上には豪雨をもたらす、夏の代名詞ともいえる雲の名だ。内部では気流が乱れ、気温が氷点下を下回り、それによって生まれた水滴や氷の塊が飛び交って、ついでに『雷雲』の別称の通り雷までもが暴れ回っているという、ちょっとした世紀末を凝縮した世界になっている。例えば飛行機が積乱雲の中に迷い込んでしまうと、気流の乱れで正常な飛行はまず不可能になり、機体は氷点下の気温で凍りつき、更には飛び交う氷の塊でボコボコにされてしまうとか。

 実際に経験したわけではないのであくまで上辺だけの知識だけれど、地震や台風などと並んで、自然が生み出す脅威のひとつである。

 月見が持つ選択肢は二つ。この積乱雲を大きく迂回して天界を目指すか、諦めて出直すかだ。強行突破は考えない。不可能ではないだろうが、危険なのは間違いないし、そのリスクに見合うだけの結果が得られるとも限らないのだ。夏の間のささやかな気晴らしで、ハイリスク・ノーリターンは避けたいところだった。

 

「さて、どうしよう」

 

 などと呑気に考えているうちに、風は更に強まりつつある。上昇気流が発生しているらしく、油断したら一息で雲に吸い込まれてしまいそうだ。そう、例えばちょうど、下から吹き上げられてきているあの鴉天狗みたいに――

 

「――って、」

「月見ー!? た、助けてー!?」

 

 誰かと思えば操だった。他の鴉天狗よりも一際大きい双翼が、上昇気流を馬鹿正直に受け止めてしまっているらしく、決して小さくはない彼女の体が木の葉さながらにもてあそばれている。このままではあっという間に積乱雲の中へと吸い込まれ、光が届かない世界で上下に左右に掻き回され、氷点下の気温でじわじわと凍りついて、やがてすべてが終わった頃に、『操だったモノ』だけが静かに地上へ落下していくことだろう。

 ……さすがにそれは可哀想なので、助けてやることにした。舞い上がってきた彼女の体を抱き留める。

 

「つ、月見ー!!」

 

 操の両目からアツい感動の涙があふれだす。しかしその翼がなおも大きく開かれたままだったので、次の瞬間、月見ごと一気に吹き上げられそうになった。

 慌てて踏ん張り、叫ぶ。

 

「おい、翼畳め!」

「む、むむむっ無理じゃよ! 風が強すぎて、もう畳むこともできないんじゃー!」

「毟り取るぞ!」

「それはヤメテ!?」

 

 お互い世紀末の世界に放り込まれる一歩手前なので、恥も外聞もなく結構激しく抱き合っちゃったりしているのだが、あいにくそんなことを気にしている場合ではない。

 

「操、能力! 能力使えばなんとでもなるだろ!」

「ハッ! そ、そうじゃね! よし、ちょっと待ってて!」

 

 操がまぶたを下ろし、静かな表情で何事かを呟く。途端、強烈に打ちつける上昇気流を容易く押し返して、黒の双翼が一気に畳められた。――『暗示する程度の能力』。自己暗示を掛けて身体能力を底上げする程度、操にとっては造作もない。

 

「よし、このまま離れ――」

「いや、儂に任せておけ!」

 

 つい先ほどまで風にもてあそばれるだけだった情けない姿とは打って変わり、凛と響く力強い声音だった。その声が耳に届いた時には、既に月見の天地は逆転している。月見の背に両腕を回した体勢のまま、操の双翼が大きく打ち震え――

 

「――!」

 

 滑空――否。

 上昇気流を一文字に切り裂き、墜落する。

 

「う、お……!」

 

 逆巻く気流が全身を直撃し、目も開けていることすらできない。五感の情報がなにひとつとしてわからなくなって数秒、突如として落下する感覚がなくなって、足の裏側がなにかに触れた。

 ……目を開けてみれば、どうやら山頂に戻ってきたらしい。積乱雲が遥か天高くにある。あれほどの高さからものの数秒で落ちてきたとなれば、恐らく隕石にも似た落下速度だったことだろう。

 とりあえず、ふ~とこれ見よがしに額の汗を拭っていた操を、軽く肘で小突いた。

 

「あ痛。なんじゃよお、せっかく頑張ったのに」

「限度ってものがあるだろう。付き合わされるこっちの身にもなってくれ、心臓に悪い」

 

 もしも操が翼の制御をちょっとでも誤っていたら、山頂はぐちゃぐちゃになってよくわからない肉塊と、真っ赤な血の池が広がる地獄絵図と化していただろう。外の世界のジェットコースターとか、バンジージャンプとかスカイダイビングとか、そのあたりを遥かに超えた卒倒モノのアトラクションだった。月見ですら寿命が縮まった思いがするのだから、気の小さい妖夢やアリスあたりなら泡を吹いて失神する。

 とはいえなんとか無事に戻ってこられたのに変わりはないので、月見はため息で胸を撫で下ろしつつ、

 

「操、いい加減に放してくれ」

 

 ところで、未だ月見たちは落下時の状態のまま――つまり月見は、操にぎゅっと抱き締められてしまっているわけで。

 わざとらしく両腕に力を込めながら、操はニヤニヤと、

 

「えー、もう少しツクミンを補給――あああああっアイアンクローはダメじゃーダメじゃーっ!」

「操、お前もか?」

 

 ツクミンは、月見に接触することで摂取できる栄養素である。炭水化物、たんぱく質、脂質、ビタミン、そしてミネラルと並んで六大栄養素と呼ばれており、欠乏すると禁断症状が云々。藤千代をアイアンクローしてやった春が懐かしい。

 うぐおおお、と側頭部を押さえて蹲る操を無視して、やっとこさ身の自由を確保した月見は空を見上げる。

 

「……さて、どうしようかな」

 

 危うく積乱雲に吸い込まれる窮地は脱したが、行き先が明るくなったわけではない。積乱雲に覆われた空は昼間なのに薄暗く、吹き荒ぶ風はひょうひょうと不気味に鳴いていて、今にも一雨降ってきそうだ。今日は諦めて出直した方がいいだろうか。

 

「……なー、月見ぃ」

「ん?」

 

 いつの間にかアイアンクローの痛みから回復した操が、蹲ったまま恨めしそうに積乱雲を睨みつけている。

 

「さっきさあ、儂、あの雲のせいで大分情けない姿を晒したじゃないか」

「いつものことだ、気にしてないよ」

「それってフォローされてなくない!?」

 

 空咳。

 

「……まあそれはそれとして、天魔って天狗の一番えらーいやつじゃろ? 空の支配者みたいなもんじゃろ? そんな儂が、たかが図体デカいだけの雲如きにやられっぱなしで引き退がるなんて、天魔として、それ以前に一の天狗として、いかがなものかと思うんじゃよ」

「……」

 

 操の瞳の奥で、逆襲の意志を宿した不穏な光が瞬いている。

 彼女が言わんとし、またやろうとしているところを察した月見は、もう一度空を振り仰ぎ、

 

「……私さ、天界に行こうと思ってたんだよ」

「うむ。あれじゃろ? 儂らの体から出てる霧」

「なんだ、気づいてたのか」

「モチのロンじゃ」

「死語だろそれ……」

「げ、幻想郷ではまだまだ現役じゃよ!」

 

 しかし考えてみれば、この気質の流れに気づいていないのだったら、わざわざ好き好んで積乱雲に近づく阿呆もいるまいか。

 

「まあそういうわけじゃから、あの積乱雲が消えてなくなれば、儂は汚名返上名誉挽回できるしお前さんも天界に行けるし、いいことだらけじゃよね」

「そうだね」

「うむ」

 

 月見と操は頷き合い、

 

「――というわけで、ちょっとぶっ飛ばしますのじゃ」

 

 瞬間、妖気が弾けた。普段からなにかと面倒くさがりで争いを好まない操が、自ら進んで妖力を開放したのは、月見が幻想郷に戻ってきてから初めてだろうか。積乱雲が生み出す気流とは明らかに違う、肌を切り裂くような猛々しい烈風に、月見の服が狂ったようにはためいた。

 

「ほれほれ、ちょっと離れといて」

「ああ」

 

 言われずとも、やる気になった操の傍にのこのこと立ち続けるほど馬鹿ではない。たとえ普段がどんなに情けなくても、どんなにダメな鴉天狗でも、それでも操は天魔の名を継いだ大妖怪なのだ。彼女の実力を妖怪の中で上から数え上げれば、わざわざ五指を折るまでもない。

 月見は速やかにその場を離れ、山頂の隅へ。その標高故に緑がほとんど残されていない荒涼とした大地の中心で、操は右の袖を一気にまくり上げると、華奢な腕に目視すら可能なほど色濃い妖力を集中させ、握り締めた拳を脇腹に据える。

 そこでようやく、月見は疑問に思った。

 

「おい、ちょっと待」

「ひっさーつ……!」

 

 月見の制止の声は、もはや操には届かなかった。彼女が放つは、鬼子母神と呼び畏れられる少女が使う、かつて乾と坤の神々の戦場を荒野に変えた一撃。

 

「『吼拳』! ――操ッ、ばーじょんっ!!」

 

 万物を喰らい尽くす空気の波濤、風を支配する天魔に放てぬ道理はなし。

 天へと拳を突き上げ、そこから放たれた妖力が、瞬く間に積乱雲から風の支配権を奪い取る。藤千代の放つ吼拳がどこまでも猛々しい野獣の咆吼とするならば、これはさながら、天へと昇り征く龍そのもの。触れる風をすべて取り込み巨大化し、上昇気流すら己の(きざはし)にして、螺旋を描き昇り征く龍は一呼吸の間に積乱雲へ牙を突き立てる。

 炸裂。

 操がはしゃいだ。

 

「どっかーん!」

 

 その言葉通り、空が爆ぜていた。かつての諏訪大戦で月見が目の当たりにした光景と、そう大した差異はない。ただ空気の咆吼に喰われ薙ぎ払われるのが、大地か空かの違いだけ。

 そして数秒遅れて、波濤は月見たちのもとにも押し寄せる。大地が根こそぎ奪い去られるほどではないにせよ、到底顔も向けていられないほどの暴風に、踏ん張りきれなかった小石たちが次々山頂から薙ぎ払われ、巻き上がった土煙は落ちることなく虚空へ消えていく。

 およそ、十秒。ようやく目を開けられるようになった月見が空を見れば、そこにはもう積乱雲など影も形もない。

 あるのはただ一色の青空と、天界を乗せた恒常の白雲のみ。

 空の道を遮る壁は消え去り、これで晴れて、あの白雲の上を目指せるようになったわけだ――が。

 

「よっしゃー決まったーっ! 儂に勝とうなんざ千年早いんじゃぶぁーか!」

 

 ぴょんぴょん何度も跳び上がり、欣喜雀躍を全身で表現している操を尻目に、月見は顔を手で覆いながらため息をついた。心底思う。他にやりようはなかったのだろうかと。

 山の空を覆い尽くすほど巨大な積乱雲を、影も残さず吹き飛ばす一撃なのだ。ぶっ放す前に、もうちょっと安全確認とか、誰かが巻き込まれでもしたらどうするつもりなのか。

 もし仮に、万が一、巻き込まれてしまった不幸な誰かがいるとすれば、到底無事では済むまい。そう例えば、ちょうど空から落ちてきているあの人影のように、全身ズタボロで完全に気を失い、頭から真っ逆さまになって――

 

「――って、」

 

 それが本当に巻き込まれてしまった哀れな犠牲者だと気づいた瞬間、月見は飛び出していた。あれに巻き込まれて五体満足でいるということは、体の丈夫な妖怪だろうが、妖怪とはいえあれほどの高さで頭から落ちたら無事では済まない。地を蹴り空を駆け、月見は落ちてきた人影を間一髪で抱き留める。

 

「っと。……誰だ?」

 

 知り合いではなかった。髪はバサバサ、服はボロボロ、目をグルグル回して気絶している、なんとも惨めったらしい有り様の女性だった。天狗ではない。それどころか山に住んでいる妖怪ですらない。しかし山の妖怪でないなら一体誰が、積乱雲の付近を飛び回った挙句操の『吼拳』に巻き込まれるというのだろう。

 

「おーい、大丈夫かー?」

「う、う~ん……」

 

 軽く揺すってみれば、寝言みたいなかすかな呻き声が返ってきた。大事はなさそうなので、ひとまずは未だにぴょんぴょんしながら「いやーさすが儂じゃねー」と自画自賛しまくっている操のところに戻ることとする。

 見知らぬ女性を抱えて戻ってきた月見に気づいて、操が裏切られたように目を剥いた。

 

「お、お前さん、なに新しい女侍らせとるんじゃ!? 流れ的に侍らせるなら儂じゃろ!?」

「黙れ元凶」

 

 お花畑な操の脳天を、すかさず尻尾で一閃。

 

「あ痛。……ってなんだ、衣玖じゃないか」

「知り合いか?」

「んー、まあ知らん仲ではないな。どうしたんじゃこいつ。あっはっはこんなにボロボロになって、まるで儂の吼拳に巻き込まれたみたいじゃないかー」

 

 月見は真顔になって操を見た。操はとても気不味そうにさっと目を逸らした。

 

「……操」

「うぐっ……」

 

 呻いた操は言い訳がましく月見を横目で窺いながら、ぽそぽそと、

 

「いやほら、そいつ、竜宮の使いなんじゃけど。竜宮の使いって、基本的に雲の中を泳いで暮らしとるやつらなんじゃよね。だから多分、偶然、たまたま、儂が吹っ飛ばしたあの積乱雲の中を、泳いどったんじゃない、かなー……?」

「……」

 

 なるほど、竜宮の使い。竜の世界と人間の世界の狭間を漂い、竜の言葉を地上の生き物たちに伝える役目を担う妖怪たちだ。操の言う通り人生の大半を雲の中で過ごしているため、吼拳に巻き込まれて空から降ってきたとしても、特別おかしな話ではない。

 吐息。

 

「……とりあえず気を失ってるみたいだから、どこかで休ませてやってくれないか?」

「ん? そいつ、起きとるぞ?」

「は?」

 

 月見は下を見た。竜宮の使い――衣玖というらしい――の、透き通る緋色の瞳と目が合った。一体いつの間に起きたのだろうか。

 衣玖は、つくりのいい目をパチパチしばたたかせながら月見の顔を見上げて、次にゆっくりと月見の胸元あたりを見て、最後に俗にいうところをお姫様抱っこをされている自分の状況を見て、

 三秒、

 

「――きゃああああああああああ!?」

「づあ!?」

 

 バチッと来た。目の前が瞬間的に真っ白になって、ふっと全身から力が抜ける。しかし崩れ落ちる寸前でなんとか踏み留まって、頭を振り、目を数回開け閉めしてようやく視界が回復すれば、衣玖の姿がどこかに消えていた。

 微妙に灰色がかった視界で捜してみると、衣玖は月見から十メートル以上念入りに後退した場所で、尻餅をついたような体勢で蹲っていた。ぜえぜえと肩で息をし、月見を睨みつける視線は若干涙目だ。電気を発生させる能力でも持っているのか、周囲ではバチバチと空中放電が起こっている。

 どうやら先ほどバチッと来たのは、彼女が生み出した電気に感電したからのようだ。ほんの一瞬の出来事で助かった。もしどこぞのアニメの如く何秒間もバチバチやられていたら、今頃月見は操に担がれて永遠亭行きだったろう。

 

「なななっ、なんですかあなたは!?」

 

 衣玖はすっかり平常心を失っていた。顔を真っ赤にし、両腕で主に胸のあたりを守って、尻餅をついたままじりじりと後退していく。目が覚めたら知らない異性に抱きかかえられていたとなれば、うべなるかな。

 

「なっ、なんで私にあんな……も、もしかして変質者の方でしょうかっ! ビリビリしますよ!?」

 

 既にされたが。

 

「あー、衣玖ー? 衣玖さーん? 儂の姿が見えるかー?」

 

 見る見る激しさを増す空中放電に、操が顔を引き攣らせながら間に入ってきた。顔見知りの登場に、グルグルと混乱の極みにあった衣玖の表情がいくらか冷静になる。

 

「……天魔さん?」

「うむうむ。とりあえず事情を説明すると、こやつは空から落ちてきたお前さんを助けただけじゃよ。別にやましいこととか考えてたわけじゃないから、許してやってくれ」

「はあ……って、え? 空から落ちてきた?」

 

 吼拳の破壊力故か、衣玖は記憶まで混乱しているようだった。眉をひそめてしばらくうんうん考え込むと、やがて赤かった顔があっという間に真っ青になって、

 

「お、思い出しました! 天魔さん、あなたなんてことしてくれたんですか!?」

「あー、うん、すまん」

 

 怒りで肩を震わせ立ち上がった衣玖から、操は逃げるように顔を逸らした。

 胸倉を締め上げる勢いで、衣玖が大股で元凶に詰め寄る。

 

「冗談抜きで死ぬかと思いましたよ!? ああもう、羽衣はボロボロだし、帽子だってどこかに吹っ飛んでっちゃったじゃないですか! お気に入りだったのに!」

「雲が邪魔じゃったらつい……」

「ついで殺されかけてたまりますかっ! 私だったからこの程度で済んだものを、並の妖怪だったら雲と一緒に消し飛んでいたところです!」

「だ、だからすまんかったって! ちょ待っ、電気出てる電気出てる落ち着いて!」

 

 まるで椛みたいにガミガミ怒鳴ってくる衣玖(空中放電付き)を、操は懸命に押し返しながら、

 

「そ、そういうわけだから、こやつに悪気はなかったって話はおーけーか?」

 

 衣玖の怪訝そうな瞳が月見を捉えた。月見はとりあえず、また感電させられるんじゃないかと衣玖の空中放電を警戒しながら、敵意のない笑顔をひとつ。

 怒りではない別の色で顔を赤くした衣玖が、弾かれたように背筋を伸ばして頭を下げた。綺麗な四五度だった。

 

「も、申し訳ありません! 先ほどはそのっ、気が動転してしまって。助けていただいたのに、とんだご無礼を……」

「……こっちこそ、驚かせて悪かったね」

 

 衣玖の空中放電が収まっていく。とりあえず、またビリビリされる心配はなさそうだ。

 

「本当にすみませんでした……。い、痛かったですよね?」

「一瞬だったから大したことはないよ。……ただそう、びっくりしたけど」

 

 月見が苦笑とともにそう言えば、衣玖はもう恥ずかしさと申し訳なさのあまり湯気のひとつでも上げそうになりながら、しおしおと縮こまっていくのだった。

 浮世離れした美貌を持つ少女である。地上の穢れと無縁な竜の世界で生きているからなのか、肌は真水で濡れたような艶があって、潤んだ桃色の小さな唇は、それだけで下卑た男の理性を奪うだろう。……ただ今は、髪も服もボロボロにやつれていて大変みすぼらしい。操の吼拳に巻き込まれてさえいなければ、生糸のようにきめ細かな髪とフリルが踊る衣装は、さながら空を泳ぐ天女の如く妖艶な波を描いていたのだろうが。

 下着が見えてしまうような破け方をしていないのが、不幸中の幸いだった。

 

「私、永江衣玖と申します。……すみません、こんなみすぼらしい格好で」

「月見だよ。よろしく。……服の方は仕方ないさ。悪いのは操だ」

「だ、だから、すまんって何度も言ってるじゃないかー……」

「まったくですよ」

 

 肩身が狭そうにしている操を、衣玖は恨みたっぷりの半目で睨んだ。

 

「大体、なんでいきなり雲を吹っ飛ばしなんてしたんです? 一雨来るのがそんなに嫌だったんですか?」

「いや、それはほら……」

 

 操は人差し指同士をつんつんしながら、

 

「ちょっと天界に行こうと思って……。あんな大きな積乱雲に立ち塞がられたら、行こうにも行けないじゃないか」

「それはそうかもしれませんけど……しかし、天界ですか?」

 

 衣玖が不思議そうに首を傾げる。

 

「なぜそんなところに?」

「ちょっと気になることがあっての。月見と一緒に調べてみようと思うんじゃ」

「? ……よくわかりませんけど、妙なことはしないでくださいよ? 天界と地上の関係の悪化は、龍神様も望むところではありません」

「わかっとるって。さすがの儂もそこまでバカじゃあないよ」

 

 暗に自分が少なからずバカだと自覚していると思われる発言を残しながら、操が翼を大きく動かして、ふわりと空に飛び上がった。

 

「そんじゃ月見ー、さっさと行くぞー。ほれほれ、はよぉせー」

「ああ……?」

 

 生返事をしながら、月見は首を傾げた。気のせいだろうか。操の相貌に、そこはかとない焦りの色が浮かんでいる気がする。別に急ぐ理由などないはずなのに、まるで一刻も早くこの場を離れようとしているような――

 声。

 

「――天魔様ああああああああっ!!」

「げえっ!? 来おった!」

 

 ああなるほど、と月見は思った。

 麓の方から飛んできた耳を突く絶叫は、操のお目付け役である少女のもの。確かに、積乱雲を吹き飛ばすほどの一撃を独断でぶっ放しなどすれば、あの子が黙って自分の仕事を続けるはずもない。

 振り向き見れば、果たして狂ったような勢いで翼を羽ばたかせ、犬走椛がすっ飛んできている。

 大剣装備で。

 

「天魔様あああっ!! さっきのって絶対天魔様の仕業ですよね!? 一体なんてことやらかしてくれてるんですかあああっ!!」

「くっ、あいかわらず仕事真面目なやつめ! ……悪いが衣玖、この場は任せたのじゃ! 適当に空気読んで足止めしといて!」

「は!? ちょっと、あなた待」

「んじゃ月見、儂は先に行っとるからなー!」

 

 無茶振りされた衣玖の抗議の声も聞かず、操は舞い散る黒い羽根だけその場に残し、あっという間に青空の小さな点となってしまう。

 幻想郷最速の鴉天狗とタメを張れるほど見事な逃げ足に、数秒遅れて山頂に到着した椛が、くっと悔しげに歯を軋らせた。

 

「逃げられた……! 本当に逃げ足だけは速いんですからあの駄天魔は……!」

「椛」

「あっ、月見様! おはようございます!」

 

 しかし月見が声を掛けるなり、パッと眉間の皺を吹き飛ばし笑顔で挨拶してくるのだから、その百面相ばりの切り替えはさすがというべきか。ところで、駄天魔とは一体なんだろうか。あまりに操にぴったりな二つ名である。

 行儀のいいお辞儀から頭を上げた椛は、月見の隣で半ば呆然としている衣玖を見て、疑問符を浮かべた。

 

「そちらの方は?」

「あっ……どうも、はじめまして。永江衣玖と申します」

「はじめまして、犬走椛です。天魔様の、まあ、お目付け役みたいなものをしています。遺憾ながら」

 

 最後に付け足された一言から、椛の普段の苦労がありありとにじみ出ていた。妖怪の山では一日一回必ず、椛が怒り狂って操を追い回すという。椛の胃は大丈夫だろうか。

 衣玖はみずぼらしい自分の恰好ばかりが気になって、そこまで気が回らなかったようだった。気恥ずかしそうに小さく笑って、

 

「すみません、こんなボロボロの格好で」

「……あの、つかぬことをお訊きしますが、それってもしかして天魔様が……」

 

 その惨憺たる有り様を見て頬を引き攣らせた椛に、少々答えづらそうにしながら、

 

「……ええ、まあ」

 

 その瞬間、椛が弾けるような笑顔を咲かせて言った。

 

「わかりました。天魔様はあとで撫斬りにしておきますね」

「「……」」

 

 ひょっとすると椛は、幻想郷で一番怒らせてはならない従者なのかもしれない。未だかつて、ここまで清々しい笑顔で主人討伐を宣言した従者がいただろうか。

 さておき。

 

「椛。操なんだけど、今すぐ撫斬りにするか?」

「そうしたいのは山々なんですけど……」

 

 大剣の腹を撫でながら残念そうに言う椛は、結構怖い。

 

「でも今は他に仕事があるので、天魔様が戻ってきてからにします」

「なるほど。……じゃあ私と操は、ちょっと天界で調べ物をしてくるから。終わったら逃げないように連れて帰ってくるから、今は見逃してくれ」

「あっ、いいんですか? ありがとうございます、そうしていただけるとすごく助かります」

 

 椛の大剣が、太陽の光を不気味に反射してゆらりと揺らめいた。嬉しそうに耳をひくひくさせる椛はとても可愛らしかったのだけれど、なぜだろう、月見は背筋の寒気が止まらなかった。

 自分の笑顔が乾いている気がする。

 

「それじゃ、行ってくるよ」

「わかりました。お気をつけてくださいね」

 

 椛に見送られながら、空へ。後ろに衣玖が続いた。

 

「では、私も戻ります。お着替えをしないといけないですし」

「……すみませんでした、天魔様が」

「いえ、大丈夫です。そのかわり、ちゃんと注意してあげてくださいね」

「ええ、そうはもう! 任せてください、しっかり言って聞かせますから!」

 

 多分、体に直接言って聞かせるんだろうなあ、などと思いながら。

 

「じゃあ」

「はい、いってらっしゃいませ!」

 

 随分とすったもんだしてしまったが、椛と別れ、月見はやっとこさ天界へと向かう。

 体よりうっすら立ち上がる霧は、未だまっすぐに、空の遥か高くへ昇り続けている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もしもこの世に桃源郷が存在するのなら、きっとこういう風景をしているのだろう。

 足の裏を優しく押し返す、絨毯のように柔らかな緑で覆われた平原には、七色の花々が咲き乱れ、雲の下まで透き通るほど澄み切った清流が流れている。清水は遠く離れた岩山から湧き出しており、滝となって流れ落ちる途中で幽かに虹を作り出している。川辺には清水に育てられた清浄な桃の木が並び、地上から昇ってきた邪気を光合成のように取り込み、浄化している。風が吹けば、浄化された空気がたくさんの花びらを運び、淡い霞が広がる世界に七色の彩りをちりばめる。

 俗世のしがらみから解き放たれたこの天上の世界を、人は『天国』と呼び崇めるだろう。清浄に包まれた世界はそれ故にひどく夢想的であり、なるほど確かに、自分がこうして生きていることすら忘れてしまいそうだった。

 

「……おー、来たかー」

 

 操は、雲の縁から天界に上がってすぐのところで原っぱに寝そべり、夏風邪でも引いたみたいにぐだぐだと寝返りを打っていた。顔色がいつもより少し白くなっている。

 

「大丈夫か?」

「うー、微妙に息苦しいのじゃあ……」

 

 その原因はわかりきっている。天界の澄み切った空気は、清浄すぎるが故に、妖怪にとっては馴染めないものなのだ。海の魚にとって、真水が毒となるのに似ているかもしれない。月見も、体調を崩すほどではないが、先ほどから吸い込む空気に違和感を覚えている。

 

「もういやじゃー。つくみぃー、おぶってぇー……」

「先行ってるぞー」

 

 そんな操を容赦なく置き去りにして、月見は先に進んだ。こうして天界に辿り着いた以上、彼女の下らないわがままに付き合うつもりはない。一直線に、平原の中央――そこに立つ、一人の少女のもとへ。

 詩が聞こえる。

 

「天にして大地を制し 地にして要を除き 人の緋色の心を映し出せ――

 緋色の霧、それは非想の気 非想の気、それは生物の本質 天気とは即ち、非想天の本質なり――」

 

 夏の晴れ空よりも青い髪をなびかせ、天を生み。

 エプロン状に広がる衣服をはためかせ、雲を作り。

 右手に握られた緋色の剣に太陽を乗せて、光を映し。

 腰から下がった紙垂にも似た七色の飾りで、虹を描く。

 天界という世界をその小さな体に詰め込んで、広大な平原の中心でたった一人、詩とともに舞い踊る少女。極小の空を描き出すその姿は、まるで天女のようだと――思い、実際に彼女は天女なのだと気付いて、月見は含むように笑う。

 空は、晴れている。雲の上に築かれた天界だけあって、見上げる先に白はなく、どこまでも青一色で染め抜かれている。

 夏の空。

 遠い昔に、『門倉銀山』が、竹取翁の屋敷から望んだのと同じ。

 なにかが起こりそうな、夏の空だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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