「――いやあああああ!? こ、こっち来ないでえええええ!?」
本来、天界とは呆れるほど平和な世界である。
透き通る清水が流れ、七色の花が咲き乱れる土地はもちろんのこと、なによりこの世界に住んでいる天人という種族は、俗世のしがらみを捨ていわゆる悟りの境地へと至った者たちであり、恨みや妬みといった負の感情を一切持たず、日々を享楽的に遊んで暮らしている。無論、そんな天人たちが下らない争いなどを起こすはずもなく、天界は地上の人間たちから見れば、紛れもなく『天国』と呼んで差し支えない桃源郷なのだ。
本来であれば。
「ちょ、ちょっと待ってえええ! 一旦タイム、タイム! お願いだからやめてえええええっ!?」
「……」
桃の木陰に座って夏の日差しを凌ぐ月見は、目の前で繰り広げられる光景と、耳をつんざく少女の悲鳴を前に、深呼吸をするように長いあくびを噛み殺した。
広い天界の平原を、あてどなく必死に逃げ惑う少女。その後ろから猛然とした勢いで迫ってくる――三つの竜巻。
少女が草原を駆け抜ければ、巻き上がったかすかな風に夏の花々がさわさわと揺らめく。そしてそれから五秒くらいすると、続け様に三つの竜巻が到来して、花々は憐れ天空の花びらとなって青空の彼方へ消える。
触れるものすべてを容赦なく薙ぎ払う、大自然の猛威である。お陰様でこの日の天界は、少々、平和じゃない。先ほどから顔面に打ちつける風は強烈で、髪がばさばさと絶えず踊り狂っている。竜巻から十二分に離れた月見にしてみれば強めの扇風機に当たっているような心地よさだが、真後ろから追い掛けられる少女の心境はたまったもんじゃないだろう。
案の定、悲鳴。
「そっ、そこの狐さんっ、見てないで助けてよおおおおお!?」
「……いや、でもねえ」
右方向から少女の緊急SOS信号を受信した月見は、けれど腰を上げず、それどころか桃の木にゆっくりと背中を預けて、視線を左方向へ。
「だそうだぞー。もう少し手加減してやったらどうだー?」
「はっはっはー、こんなのまだまだ序の口じゃよー」
左の空で、操が呵々と笑いながら答えた。空中で器用に胡座をかいて、竜巻から逃げ惑う少女をおもしろおかしそうに観察している。少し前にようやく天界の空気に慣れた彼女は、むしろ今は大変絶好調な様子で、目の前の少女に大自然の脅威を叩き込む真っ最中なのだった。
「言わんでもわかってると思うが、手は出すなよー。これは儂とあやつの、手出し無用の
そう。俄には信じがたいことに、月見の目の前で繰り広げられているのは弾幕ごっこなのだという。……月見の記憶と認識が正しければ、確か弾幕ごっことは、霊力なり妖力なりで作り上げた弾に特定の軌跡を持たせて撃ち合うゲームだったはずではなかったか。逃げる少女。笑う操。暴れる竜巻。見渡す限り、弾幕などどこにも見当たらない。
けれど思い返してみれば、月見が唯一経験したフランとの弾幕ごっこ――とはお世辞にも呼べない戦闘――において、彼女はレーヴァテインという名の炎剣を縦横無尽に振り回していた。要するに、何事にも例外はあるということなのだろう。もしかすると弾幕ごっこは、究極的には回避不可能な攻撃さえ使わなければいいのであって、その攻撃方法について事細かな制限はないのかもしれない。
そうであれば、月見が口を挟むことはなにもない。右を向いて、
「というわけで、自分の力で頑張ってくれー」
「ばかあああああ!!」
少女は既に涙目だった。少女が右に曲がり左に曲がりいくら複雑に走り回って振り切ろうとしても、三つの竜巻はその後ろをぴたりとくっついていく。それどころか時には先回りをし逃げ道を塞ごうとするなど、生き物じみた狡猾ぶりである。
まあ、曲がりなりにも天魔の名を戴く操が操る竜巻なので、当然ではあろう。むしろ、そんな竜巻からもうかれこれ五分近く、全力疾走で逃げまくっている少女の方がすごい。酸素の薄い空高くで生活しているだけあって、化け物じみたスタミナである。
「もうやだあああああ!! なんでこんなことになってんのよおおおおおおおおっ!?」
そういえば、なぜだったろうか。
積乱雲を払い無事天界に辿り着いた月見は、とりあえず第一村人発見くらいの軽い気持ちで、空を描き舞い踊る少女に声を掛けたはずだった。
それが一体どうして、こんなことになっているのかといえば――
○
「なにしてるんだ?」
「ぅひゃい!?」
声を掛けた瞬間、少女が変な悲鳴を上げて飛び跳ねた。驚くあまり手にしていた剣がすっぽ抜け、地面に突き刺さる。バランスを崩して前につんのめりそうになり、必死に踏み留まって振り返った少女の相貌は、さながら万引き現場でも見られたような激しい動揺で戦慄いていた。
天界に辿り着いた月見が見つけた、天を描く少女――十中八九、彼女なのだろう。月見たちの体から霧が立ち上がる、この謎めいた現象の黒幕は。
先ほどまで詠っていた詩も、随分と怪しかったし。
「えっ……え、ええぇっ!?」
音程のズレた声とともに、少女が飛ぶように何歩も後ずさった。いきなり後ろから声を掛けた月見が悪いとはいえ、少々驚きすぎではなかろうか。
「な、なんで……どうして」
「ええと。とりあえず、驚かせて悪かったね」
とても話ができる状態ではなさそうだったのでひとまず謝ったら、少女は数秒ほど呆けてから、ぶんぶんと大袈裟に首を横に振った。
「いやっ、そのっ、確かに驚いたのは驚いたけど、別にいきなり声を掛けられたからじゃなくて、もっと別の理由があったのであって」
「はあ」
「と、とりあえず、はじめましてっ!」
「あ、ああ。はじめまして」
あれ? と月見は思う。つい先ほどまでいよいよ黒幕を見つけたと思っていたのだが、気のせいだったろうか。目の前で髪が宙で踊るほど勢いよく頭を下げる少女は、どこからどう見ても、黒幕らしい怪しさとは無縁の普通の少女だった。
人見知りの気でもあるのか、おずおずと、
「よ、ようこそ遥々天界まで……」
「ああ、なんだか私たちの体から気質がもれてるようでね。その流れを追ってきたらここに辿り着いたんだけど」
びくーん、と少女の肩がジャンプした。
「……」
「えっ、あっ……ええと、……なんのこと?」
それで誤魔化せると思っているなら、なかなかお花畑な頭をお持ちと見える。
月見は危うく拍子抜けしそうになっていた気持ちを入れ直して、
「やっぱりお前が黒幕か。私たちの気質を集めて、なにをするつもりだ?」
「え、えーっ、と……」
両手の指を交差させながら、少女は引きつった笑顔で言葉を濁した。その仕草がもう完全に私が犯人ですとメガホン装備で叫んでいるようなものだと、彼女は気づいているのだろうか。
そうやってしばらくうんうん唸った彼女は、結局観念したのか、最終的にわざとらしく胸を反らして開き直った。
「ず、随分と気づくのが早かったわね! それで、早速私を止めに来たってことかしら!」
「ん? いや、そういうわけではないけど」
「え?」
「え?」
間、
「……私を止めるために、わざわざ天界まで来たんじゃないの?」
「いや? ただ、誰がこんなことをしてるのか気になって……」
そこで月見は一度言葉を切り、く、と小さく笑う。
「というか、人から止められるようなことをしてたのか?」
この少女は、月見たちから気質の霧を集めている。それは間違いないとしても、気質を集めるという行為が具体的にどんな意味を持つのかについては、月見にはよくわからない。実際に集めてみた経験はないし、集めるとこんなことができます、などと解説してくれるマニアックな本を読んだ記憶もない。
一見、人道を積極的に踏み外していきそうな素行の悪い少女には見えないが、
「あ、あー、そうね、別に大したことじゃないのよ。だからあなたは気にしなくて大丈夫。うん」
「……」
少女の目は完全に泳いでいた。繰り返し思うが、彼女はそれで誤魔化せると思っているのか。
さてどうしたものか、と月見は考えた。夏の暇潰しという軽い気持ちでここまでやってきたはいいものの、思っていたより話がきな臭い。もし少女が企んでいる『人から止められるようなこと』が、幻想郷に悪影響を与えるものならば、この場でやめさせるべきか否か。
考え事をしていたら、背後からのそのそ近づいてくる人影に最後まで気づかなかった。
「つぅくみいぃぃぃ~……」
「おっと」
甘ったるい強請り声と同時に、腰のあたりが急に重くなった。恥も外聞もなく両腕回して抱きついて、こちらの脇腹にほっぺたをくっつけている操の脳天を、肘で小突く。
「こら、あんまり変なことするな。人前だぞ」
「う~……」
天界の清浄すぎる空気に慣れない操は、未だに船酔い患者みたいに絶不調だった。どう反応すべきかわからず固まっている少女に気づいても、うーうー呻きながら、
「誰じゃあこいつはぁ~……」
「今回の黒幕」
「ちょ、ちょっとバラさないでよっ」
バラしたのはお前の方だと月見は思う。主に自爆という意味で。
操の眉がぴくりと揺れた。あいかわらず具合悪そうではあったが、少なくともうーうーやかましかった呻き声は止まり、
「ほー、お前さんがのう。儂らの気質を集めて、なにをするつもりじゃ?」
「だ、だから別に大したことじゃないって」
「異変でも起こすのか?」
操の短い言葉に、少女の体が明らかに氷結した。呼吸すら止めたのが、月見の目からでもとてもよくわかった。
図星――しかし、
「……『異変』って?」
異変を起こす――言葉の意味はわかる。日常生活では見られない、なにか異常な現象を起こすこと。だがここで操が言っているのは、単にそういう意味だけでの『異変』ではない。操と少女の間だけで通じる、辞書を引くだけではわからない特別な意味があると月見は感じた。
「どれ」
よっこらせ、と操が月見の腰から離れ立ち上がる。月見の横を通り一歩前へ出る際に、「とりあえずここは任せておけ」と彼女は目で語った。特に異論のない月見は口を閉じる。
「……そうよ」
今更誤魔化すのも遅いと悟った少女が、俯き、苦々しく口を開いた。
ふうん、と操は一言、
「……なにが目的じゃ? 幻想郷でも乗っ取るのか?」
「失礼ね。そんなことしないわよ」
「じゃあなぜ」
「それは……」
逡巡、
「……つまらないから、よ。天界の生活は、毎日が歌って踊ってばかり。天人にとってはそれが当たり前で、誰一人として不満も退屈も感じていないんだけど、私は嫌なの。歌が嫌いなわけじゃない。踊りが嫌いなわけじゃない。でもそれだけじゃあ、毎日同じことを繰り返すだけの人形みたいで、生きている気がしなくて、嫌なのよ。
だから、異変を起こしてみようって。異変を起こして、それを解決しにやってきた人間たちと闘って、そして、」
短い間、
「――まあ、そうすれば少しは楽しくなるんじゃないかと思ってね、私の人生も。それだけ」
奥歯に物を挟んだような言い方だった。同時に月見たちに口を挟む間を与えぬよう、一刻も早くこの話を切り上げるよう、わざと口早に話している風でもあった。
まあ、なぜと問われ馬鹿正直に真実を語る黒幕もいないだろうが――
「私が異変を起こす理由は以上。次は私の質問に答えて頂戴」
少女が毅然と顔を上げた。握る拳に、一瞬、震えるように力がこもった。
問い掛けは静かに、
「――あなたたちは、私を止めに来たの?」
「いいや、別に」
操の答えは早かった。月見と違い、恐らくは『異変』という言葉の本当の意味を知りつつも、即答だった。
「異変の解決は、儂らの仕事じゃないしのー。一応訊いておくが、異変っつってなにをするつもりじゃ? あんまり被害がデカくなるようなのはダメじゃぞ?」
「わかってるわよ。……あなたたちから気質の霧を集めて、緋色の雲をつくるだけ。それで幻想郷の天気をめちゃくちゃにするの」
「ほー」
操と少女が対話の応酬を続けている間、蚊帳の外になっている月見も蚊帳の外なりに、ここまでの話を整理してみる。察するに『異変』とは、幻想郷規模でなんらかの異常現象を引き起こすことではないだろうか。気質を集め作り出した雲ならば、そこに住む人々の気質に応じて晴れ間が差し、雲が生まれ、雨が降り注ぎ、時には風が吹き荒び雷が轟くとしても不思議ではない。
それが人為的に起こされている現象だとわかれば、解決に名乗りを上げる者もいるだろう。そういった人々と闘って暇潰しをしようというのが――あくまで少女の話を鵜呑みにすれば――今回の真相ということらしい。
操は特に興味がないのか、「そうか」とあっさり頷いていた。
「じゃあ好きにやるといいさ。儂らは元々、なんで気質が集められてるのか知りたかっただけじゃ。それがわかったなら、もうやることはない」
「ふうん……本当にいいの? 止めなくて」
「止めてほしいか?」
びくっ、とあいかわらず動揺が体に出やすい少女。
「そ、それはちょっと困る、かな」
「ならいいじゃないか。……ああ、でも」
ふとなにかを思い出したように、操が青空に向けて大きく背伸びをした。それから肩を回したり、首を左右に傾けて伸ばしたり。天界の空気にも大分慣れてきたのか、血色がよくなってきた顔でニヤリと笑い、
「お前さんが異変を起こすというなら、ここは一つ、テストでもしようか」
「……テ、テスト?」
「うむ。異変となれば、必然的に鍵を握るのはスペルカードルールじゃ。異変の首謀者が実は雑魚でしたー、じゃあ霊夢も魔理沙も拍子抜けするだろうからな」
深く息をするように翼を広げ、淡い妖力の開放とともに。
「――ちょっと儂と、弾幕ごっこしてみようか」
○
というのが、少女が竜巻と追いかけっこをするようになった顛末である。
「うわああああああああん!!」
少女は涙目で逃げ続けている。時間としては、もうそろそろ十分が経過するだろうか。あんな大声で喚きながら全力疾走で逃げまくる少女のスタミナの限界は、未だに見えない。
しかしこの追いかけっこが始まっておよそ十分ということは、竜巻がここの平原を蹂躙し始めて十分ということである。七色の花々が咲き乱れる幻想的な美しさを秘めていた土地は、徐々にただの原っぱへと変わりつつある。
このままでは天人たちからクレームが殺到して、衣玖が忌避していた地上と天界の関係の悪化なんてこともありえそうだ。なので月見は左を見て、
「操ー、そろそろ許してやったらどうだー?」
「にょーっほっほっほー楽しいのーう」
弾幕ごっこを始めてからというもの、操は見違えるように絶好調だった。
少女がやはり涙目で吠える。
「弱い者いじめはんたああああああああっい!!」
「おっとこれはすまんかった。――じゃあお前さんを強者と認めて、本気で相手をしてやろう」
「ばかーっ!!」
操がとっても楽しそうな笑顔で右腕を振ると、少女の逃げる先で更に三つの竜巻が発生した。
「ひいいいいいいいい!?」
少女が青い顔で曲がれ右をすると、その先で更に更に三つの竜巻が発生した。
少女が血の気の失せた顔で回れ右をすると、その先で更に更に更に三つ竜巻が発生した。
四面楚歌、
「あっ、」
そして少女は天を舞った。
「きゃああああああああああ!?」
前後左右から竜巻たちのアツい抱擁を喰らい、少女の小さな体があっという間に空高く打ち上がった。綺麗な放物線を描いて落ちる先が幸いにもこちらの近くだったので、月見は妖術で巨大化させた尻尾をエバーマットみたいにして敷いておく。
落下してきた少女が、もふっと銀の海に呑み込まれる。
「ふわっ、」
そしてバウンド。弾力抜群のマットの上で少女は後ろに一回転し、弾んだ勢いを止められずそのまま尻尾からずり落ちて――どすん。
いったあ、と少女がお尻を押さえて呻いているが、背中から直に落ちるよりかはマシなはずなので大目に見てほしい。
月見が尻尾を元に戻すと、左から操の不満そうな声が飛んできた。
「なんだなんだあ、もうおしまいかー?」
「さ、さすがにもういいわよ!」
よろよろ立ち上がった少女が吠える。髪があちこちに飛び跳ねていてみっともない。
「なによあれ、あんなの反則でしょ!?」
「そうかー? ただデカいだけの単純な攻撃じゃないか。実際、お前さんだって長い間逃げ回ってたじゃろ」
海を漂うようにゆっくりと翼を動かし、操がこちらまで飛んでくる。
「で、お前さんでも逃げ回れるくらいなんじゃから、霊夢――異変の解決役である博麗の巫女なんかは、一瞬で躱して儂に反撃しとるよ」
確かに操のあの攻撃は、穿って見方をすれば、ただの竜巻に追尾性が加わっただけだった。速度だって女の子が走って逃げられる程度なのだ、躱して反撃するなり、追尾性を利用して操を巻き込もうとするなり、対処の仕様はいくらでもあったろう。月見が春に体験したフランの弾幕の方が、ずっと強力で非常識だった。
「何分も逃げ回るくらいなら、さっさと反撃すればよかったじゃろうに」
「そ、それは……ちょっと気が動転しちゃって! だ、だって竜巻に追い掛けられるなんて初めてだったし!」
「負け惜しみ乙ー、じゃな。……というわけで月見ー、勝ったんじゃよー! 褒めて褒めてーっ!」
両腕を大きく広げて抱きつこうとしてきた操の笑顔に、月見は尻尾を叩きつけてやる。
「あふんっ……ああもうあいかわらず冷たいっ、でもこれはこれでもふもふだから吝かじゃないのじゃー」
「ちょ、ちょっと待ちなさいっ」
少女が抗議の声を上げた。大股で素早く操に詰め寄り、胸倉を掴む勢いで、
「私、まだ負けてなんてないわよ!」
「んお? あー、もういいんじゃよそれは。どうせお前さん、今まで一度も弾幕ごっこしたことないクチじゃろ」
痛い図星を衝かれた顔をした少女に、操は尻尾をもふもふしながら嘆息し、
「動きが素人すぎるわ。ま、天界の連中は弾幕ごっこなんてまずしないだろうから、当然っちゃ当然じゃけどなー」
「えっと……せっ、接近戦は得意よ!」
「ほー。じゃあもう一回やるか?」
「……」
少女がへっぴり腰で操から後退していく。もう身も心も、少女の完全敗北なのだった。
操がヒラヒラと手を振って言った。
「安心せー、最初にも言ったがお前さんの異変を止める気はないよ。とはいっても、今のお前さんじゃ異変を始めたところで、博麗の巫女に一瞬でやられて終わりじゃろうがのー」
「く、くううっ……」
少女はスカートの裾を握り締めてひとしきりの屈辱に震え、それから恐る恐ると操に尋ねた。
「……あのさ。異変を解決に来る博麗の巫女って、あなたよりもっと強いの?」
「おー、強い強い。儂は立場上弾幕ごっこなんて滅多にやらんが、向こうは百戦錬磨のエキスパートじゃからなあ。弾幕ごっこに限れば、幻想郷でも五本指とかに入るじゃろ。このままじゃあ、『今回の異変は随分しょうもなかったわねー』なんて呆れられながら異変終了じゃね。かわいそうに」
少女が涙目でぷるぷる震えている。
「まー、さすがに気質が充分集まるのはまだ先じゃろ? それまで頑張って強くなるしかないじゃろうなー」
「強くなる……」
オウム返しで呟いた少女が、はっと両の手を打った。少女の頭の上で、ぴこーんと豆電球が光ったような気がした。
期待に満ちた眼差しで操を見て、
「ねえ、」
「断る」
「まだなにも言ってないでしょ!?」
操の鮮やかすぎる一刀両断に、少女はまた涙目になった。
「せめて最後まで聞いてよ!」
「……仕方ないのお。ほれ、言うてみ」
「うん。私が異変を起こすまで、修行に付き合ってくれない?」
「ほい、最後まで聞いたぞ。じゃあ月見、そろそろ帰ろうかー」
「うわあああん!!」
少女が地団駄を踏み始めた。
「な、なんで!? いいじゃないちょっとくらい!」
「儂は忙しいんじゃ。明日も朝から仕事をせにゃならんのでな」
「操。今のセリフ、椛に伝えておくから」
「まままっ待つんじゃ今のはちょっと言葉の綾というか、いやっ仕事があるのは事実なんじゃけど、椛が本気にしちゃうから伝えないでお願い!?」
まあ月見が伝える伝えないにかかわらず、明日の操は一日中執務室に監禁だろう。というか、仕事ができるような状態で明日を迎えられるのかどうかも怪しい。操を撫斬りにするのだと意気込んでいた、椛の笑顔が脳裏に甦る。
「と、ともかくダメったらダメじゃ! はっきり言って面倒くさ――ゲッフン、忙しいのは事実じゃからな!」
「……」
少女はとても物言いたげな目で操を睨んでいたが、弾幕ごっこでコテンパンにされた手前強く出ることもできず、
「じゃ、じゃあ……」
じゃあ、なんなのか。わざわざこちらから確認するまでもない。少女の期待の眼差しが今度はこちらに向いたので、月見も鮮やかに一刀両断した。
「断る」
「だ、だから最後まで聞いてってばあ!」
「まあ聞くだけでいいならいくらでも」
果たして少女は今日一日だけで、何回涙目になったのか。
月見は、浅くため息。
「大体私は、お前と同じで弾幕ごっこはしたことがないんだ。教師役なんて引き受けられないよ」
「え? そ、そうなの……?」
弾幕を撃たれた経験はある。だがそれは、あくまで撃たれただけであり、弾幕ごっこの経験とは厳密には別なのだろうと月見は思っていた。
なにせ月見は、スペルカードルールに必要不可欠なスペルカードを一枚も持っていないし、それどころか弾幕を撃った経験すらないのだ。幻想郷に戻ってきてから今まで、ただ、躱すか傍から眺めていただけ。弾幕ごっこのルールなど、知り合いがやっている姿見て漠然と把握している程度でしかない。それで一体なにを教えられるというのか。
話を切り上げるように、木陰で休めていた腰を上げる。
「だから、他を当たった方が賢明だと思うよ」
「ほ、他って……」
頼みの綱をあっさりと失って、少女は愕然としている。
「地上の知り合いなんていないわよ! 天人も、弾幕ごっこなんてしないし!」
「自主トレしかないんじゃないか?」
「なにすればいいのかわかりません!」
自信満々で言われても、そんなものは月見も知らない。
操が呆れ顔で、
「さすがにスペルカードは持っとるじゃろ?」
「それはもちろん……」
「んじゃあ、とにかく実戦を繰り返して場慣れすることじゃよ。習うより慣れろじゃ」
「一人じゃできないじゃない!」
「知るか。弾幕を撃てる知り合いの一人くらい、探せばさすがにいるんじゃないのか?」
ぐっ、と苦虫を噛んだように少女の顔が歪んだ。咄嗟になにかを言いかけた少女は口を噤み、伏し目がちになりながら誤魔化すように言った。
「……わ、私の知り合いにはいないわよ」
「じゃあ諦めるんじゃなー」
「お、お願い、ちょっとだけでいいから! せっかく異変を起こすのに、そんな、ボロ負けなんて嫌よっ」
どーするんじゃあー、と操は大変面倒くさそうな顔をしていた。月見としても少々面倒になってきているのだが、目の前の少女がまた涙目になりそうになっているので、仕方なく考えてみる。
習うより慣れだと、操は言った。それは月見も同意する。実際月見は、フランとの避けられない戦いの中で、弾幕の躱し方を体と本能に直接叩き込んだ。仮に誰かと弾幕ごっこをすることになったとしても、並大抵の攻撃には負けない自信がある。まあ、月見自身肝心の弾幕が撃てないので、勝てもしないだろうが。
しかし少女はスペルカードを持っており、弾幕を撃つ程度ならばできるという。であれば、習うよりも慣れるべきなのは回避の方。すなわち、どんな攻撃を前にしても決して涙目で逃げ出したりせず、果敢に立ち向かう精神力だ。
それを考えれば、今の少女に必要なのは、なにも弾幕を撃てる知人というわけではない。
「弾幕を躱す練習くらいなら、私でも手伝えるかもね」
「ほ、本当に!?」
少女の目が輝いて、操が怪訝そうに首を傾げた。
「でもお前さん、弾幕撃ったことないって」
「ああ、だから弾幕以外のものを使えばいい。……幸い、式神の扱いは得意だからね」
弾幕を撃った経験はないが、傍で見た経験なら何度もある。妖精同士が遊びでやっている簡単なものから、温泉客がひょんなことから水月苑上空で始める本格的なもの、フランに撃たれまくった非常識なものまで。その軌道を式神に組み込めば、擬似的な弾幕の再現も容易く可能だ。
月見の考えを察し、操が顎に手を遣って頷いた。
「あー、なるほど。確かに、それだったら訓練にはなりそうじゃな」
「そ、そうなんだ! よし、じゃあ私の訓練に付き合ってください! お礼はするから!」
先ほどは笑顔で断った月見だが、今改めて考えると、少女に付き合うのも悪くはないかと思っていた。ここで少女に協力すれば、幻想郷における『異変』というのがどういうものなのかを、極めて身近で知ることができる。操の話を聞く限りではなにやら霊夢が活躍するらしいし、気になるところだ。
しかし、同時に喉に引っ掛かる疑問がある。
「ところで、『異変』の黒幕に力添えするとか。そういうのって、やっても大丈夫なのか?」
少女は月見たちから気質の霧を寄せ集め、作り上げた緋色の雲で幻想郷の天候を乱そうとしている。つまりは悪いことをしようとしているのであり、果たして気軽に協力なぞしてよいものなのか。もしも幻想郷の住人たちから罪人扱いされるような可能性があるのなら、残念ながら力添えは無理だろう。
操は少し考えてから、
「大丈夫じゃと思うよ。お前さんは知らんだろうけど、最近の幻想郷では何年かに一回くらいは異変が起こっててな。紅魔館と白玉楼……あと永遠亭の連中も、かつては異変を起こしたことがあるんじゃよ」
「へえ……」
見知った名前が操の口から出てきて、月見は少なからず意外に思った。レミリアたちも幽々子たちも輝夜たちも、今でこそすっかり馴染んでいるけれど、かつては異変を通して、幻想郷の住人に害を為した立場だったらしい。
「そんなあやつらでさえ、今ではみんなに受け入れられてのんびり暮らしとる。……どれだけ迷惑掛けられても、異変が無事解決したら、宴会を開いてみんなで酒を呑んで、綺麗さっぱり水に流すってのが昔っからの伝統じゃ。今じゃあ、異変が始まると同時に『よし来た!』っつって宴会の計画を立て始める連中までいたりするくらいでなー」
「……そうか」
月見は喉だけで小さく笑った。ふと、思い出す言葉があった。幻想郷ができてまだ間もない頃に、紫が、まるで世界に刻みつけるように、熱意を持って繰り返していた口癖。
幻想郷は、すべてを受け入れる。
敵も味方も、悪意も善意も、幻想も現実も、すべて。
「だからまあ、黙っとけば問題ないんじゃないかー? 儂だってこやつが異変を起こすとわかった上で見逃すわけじゃし、同罪じゃよね。……ところで月見っ、同じ罪を共有した男女の仲って一気に深まると思うんじゃけど、そのあたりどう思う?」
月見は有意義に無視し、
「それなら、私でよければ手伝ってもいいよ」
「ほ、本当っ!?」
つまらないから。だから異変を起こすんだと、彼女は言った。それが真実かどうかはわからないが、すべてが嘘のでまかせでもなかったと、月見は思っている。
月見自身も、かつては似たような気持ちから、妖怪にして外の世界を選んだ身だったから。その、共感意識みたいなものだったのかもしれない。
「ただし、過度な期待はしない前提でね」
「ぜ、全然大丈夫よ!」
少女が、音がしそうなほどに強く首を振った。
「お願いしてもいいの!?」
「まあやるからには、なるべく力になれるように頑張るさ」
「やったあ! あ、ありがとう! ございます!」
飛び跳ねるように喜ぶ少女を見て、さて妙なことになったものだと月見はくつくつ笑った。気質を集めている犯人を突き止めに来たはずが、なんの因果か異変の手助けをすることになってしまった。
「ほら操、いい加減に尻尾放してくれ」
「えー、まだツクミンがへぶうっ」
尻尾にひっつく操を強引に振り落とし、月見は少女と向かい合う。
「じゃあ、これからよろしく。私は月見。ただのしがない狐だよ」
「え?」
そう言って右手を出したら、なぜか「なにやってるのこの人?」みたいな目をされてしまった。
それはまるで、こうやって握手を求められたこと自体が、初めてだったかのようで。
「……あ、そっか」
少し時間をかけてからようやく、本当にこれで正しいのだろうかと言うように恐る恐る、右手を持ち上げて。
「……比那名居、天子です」
月見の右手と重ね、微笑む、
「よろしく、お願いします」
「ああ。よろしく」
緊張で硬くなった声と、右手にこもった不安げな力加減。
小さくて不器用なその姿が、まるで、絵の具で描かれた拙い青空のようだと。
そう、月見は思った。
――かくして、彼は少女と出会う。ちょっぴり偉そうで、プライドが高くて、でも不器用で寂しがりな、一人の小さな少女と出会う。
これより始まるのは、少女が起こした異変の話。500年振りに幻想郷に戻ってきた彼が、生まれて初めて関わることになった異変の話。
空が、泣いた。
夏の、異変。
――東方緋想天。
「――あのー、月見? 月見さん? どうして儂を尻尾でグルグル巻きにするのでせう?」
「椛と約束したんだよ。絶対に逃げられないよう、責任を持ってお前を連れて帰るってね」
「ちょっお前さんなに勝手にそんな約束を!? い、いやじゃー! だって今帰ったら儂絶対撫斬りにされるじゃろこういうのはもっと時間を置いてほとぼりが冷めてから――待って月見さん絞めつけないであああああっ儂の体のあちこちから致命的な異音が!? かふっ……」
……東方緋想天。