銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方緋想天 ④ 「正常性バイアス」

 

 

 

 

 

 白虹(はっこう)と呼ばれる自然現象がある。太陽や月に薄い雲が掛かることで、内部の氷晶がプリズムの役割を果たし、周囲に光の輪を作り出す現象のことである。白い虹を背負った太陽の姿はさながら後光が差しているかのように神秘的で、見上げる者に大自然の奥深さを教えてくれる。

 こうして白虹の掛かった青空を見上げるのは、いつ以来なのか思い出せないほどに久し振りだ。

 なぜいきなりこんな話をしたかといえば、つまるところ月見の気質は、この『白虹』だったらしい。天子の修行が完了した翌日、水月苑の温泉の開放日。縁側から見上げる太陽の周りには、眩しさに目を細めてなおくっきりとわかるほどに、色の濃い白虹が浮かび上がっていた。

 

「ふうん……」

 

 どこかで蝉がじわりと鳴き始めたのを感じながら、月見はぽつりと独りごちた。このタイミングで、こうも珍しい自然現象を目にかけられるのだ。天子による異変が、いよいよ本格的に始まったと考えるべきだろう。水月苑に限らず幻想郷の至るところで、その土地に住む人々の気質に応じて、様々な天候が現れているはずだ。

 外に出づらくなるような天気は嫌だなあと常々思っていたところだったので、白い虹ができるだけというのはありがたい。

 

「温泉の方も、これなら問題ないだろうね」

 

 というわけで、あいもかわらず蝉が元気な、真夏日だけれど。

 今週も温泉宿『水月苑』は、いつも通りに営業開始である。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 春に比べれば当然客足は少なくなったが、それでもタオル片手にやってくる者たちはそこそこいる。暑い日に入る温泉もそれはそれで味があるらしく、少女たちは、暑いですねーやんなっちゃいますねーなどと文句を言いながらも元気なものだ。

 水月苑の営業初日に、覗きを企てた鴉天狗数名が文字通り地獄送りにされて以来、同じ轍を進もうとする愚か者どもはぴたりと現れなくなった。単純に身の程を弁えたのはもちろんのこと、紫が境界を操る能力を遺憾なく発揮して、外から中が見えなくなるという特殊な結界を温泉周りに張ったことが大きい。隠しカメラによる内部からの盗撮も、にとり率いる女性河童チームが探知機フル装備で警戒中だ。お陰様で月見は、本日も名ばかりの温泉宿亭主を体現しつつ、居間でのんびりゆっくりとお茶を飲んでいるのである。

 

「月見さ~ん。こんにちは~」

「おや」

 

 月見がこれからの予定を考えていると、ふと縁側の方から、桜餅みたいに柔らかい少女の声が飛んできた。誰がやってきたのかは振り向くまでもない。もちろん、振り向くのが礼儀なので、そうするけれど。

 

「いらっしゃい、幽々子」

「やっほ~。温泉に入りに来ましたわ~」

 

 温泉セット片手にふよふよ漂い、お家芸のぽやぽや笑顔を浮かべた西行寺幽々子が、縁側から亡霊独特の色白な手を振っていた。幻想郷でもかなりの温泉好きである彼女は、週末になれば必ず水月苑を訪れる常連客だ。この日も冥界から、決して近くない距離を遥々飛んできたと見える。

 

「今日は遅かったね」

 

 いつも開店とほぼ同時に駆け込んでくる彼女が、『こんにちは』の頃になってからやってくるとは珍しい。

 幽々子は頬に手を添えて、そうなんですよお、と物憂げにため息をついた。

 

「今日はちょっと、朝から一悶着ありまして」

「ふうん? なにかあったのか?」

 

 月見が問えば、白虹が光る空を見上げてぽつりと、

 

「……やっぱりここでは降らないか。まあ、ここは月見さんの家だし当然かしら」

「……」

 

 低く呟くなり、またぽやっと笑って、

 

「月見さん。――比那名居天子って女の子、知ってますわよね?」

 

 いきなり抜き身の刀で斬りかかってきた。月見に構える隙を与えないほど、あまりに鮮やかな太刀筋であった。

 月見は喉の奥で笑った。一見なにも考えていない能天気な少女に見えて、西行寺幽々子は時折、こうしてなんでもお見通しであるかのように、突然深く核心を衝いてくることがある。彼女が幻想郷でも指折りに油断できない相手であることを、こうして切り込まれるまで、月見はすっかり忘れてしまっていた。

 人差し指で、玄関を示した。

 

「入っておいで。お菓子でも出そう」

「お饅頭がいいですわー!」

 

 元気よく玄関へすっ飛んでいった幽々子に苦笑しつつ、月見はちゃっちゃとお菓子の支度を整える。壁際の棚から饅頭やら煎餅やらを適当に引っ張り出し、お盆に突っ込んで振り返ると、幽々子がうきうきした顔でお菓子の到着を待っていた。

 

「――それで、さっきの質問だけど」

 

 お菓子で満たされたお盆をテーブルの中央に置くなり、幽々子が早速饅頭をかっさらっていったのを眺めながら、月見は片腕で頬杖をついた。

 

「比那名居天子。確かに知っているよ」

「ああ、やっぱり。そうだと思いましたわ」

 

 幽々子は嬉々として饅頭の包装を解きながら、

 

「今朝、一悶着があったってお話なんですけど。実は、白玉楼に雪が積もったんです」

「ほう?」

 

 白玉楼――すなわち冥界は死者の世界であり、元々は結界によって現世から隔絶されていた。だが今では仕切りとなっていた結界が消滅したため、ある程度、こちら側と近い世界になりつつあると聞いている。

 その影響もあってか、異なる世界とはいえ冥界も異変の影響を受けているようだ。幽々子、もしくは妖夢の気質が、本来ではありえない夏の雪を降らせたと見るのが妥当だろう。

 

「それで、妖夢に雪掻きを任せてる間に、ちょっと調べてみまして。天界の方まで行ってみたところ、いたんですね、比那名居天子という子が」

「なるほど」

 

 頷いてから、月見はふと疑問に思った。天界に行って天子に会ったということは、幽々子は彼女と闘ったのだろうか。

 

「そしたら、修業の成果を見せるんだっていきなり喧嘩吹っかけられたので、適当に返り討ちにしたんですけど」

 

 天子……。

 月見は心の中で、顔を手で覆いがっくりため息をついた。幽々子にコテンパンにされ涙目な天子の姿が、目の前にいるかのようにくっきりと浮かんできた。

 

「話を聞いてみたら、幻想郷中の気質を集めて異変を起こしてるんですってね。道理で、夏なのに雪が降ったりしたわけですわ」

「そのようだね。……私の気質は、『白虹』なのかな。朝からずっと掛かっててね」

「ああ、そういえば掛かってましたわね。とてもくっきり出ていたので、よく覚えてますわ」

 

 幽々子が饅頭を、ひょいと口の中に放り込んだ。健啖家らしい豪快な食べ方だ。顔の下半分を総動員して味を堪能し、広がった甘味に、「ん~♪」と目元はふにゃふにゃになる。

 そんな人畜無害に可愛らしい幽々子が、一体なにを考えて異変の話を振ったのか、月見にはさっぱりわからなかった。単なる好奇心なのかもしれないし、なにか狙いがあるのかもしれない。亡霊の名を体で存分に表す掴みどころのなさはさすがといったところだ。幽々子が相手だと、どうにも会話の主導権を握りにくい。

 幽々子が天子を下した今、異変はもう終わってしまうのか否か――それとなく話してくれるよう誘導するよりかは、いっそ素直に尋ねてしまった方がいいのかもしれない。

 などと月見が考えていると、饅頭を飲み込み恍惚なため息をついた幽々子が、

 

「でも、月見さんったらさすがですわ。私もそこそこ早く気づいた自信がありますのに、一体いつから気づいてらしたんです?」

「今週の頭だね。多分、一番乗りだったんじゃないかな」

「まあ」

 

 驚いたようにそんな声をあげるが、ただの演技なのが丸わかりだ。薄々感づいていたか――もしくは隠し事の下手くそなあのお転婆天人が、また勝手に自爆するなりしたのか。

 まあ後者だろうなあ、と月見は思う。

 

「月見さんって、異変についてご存知だったんですか?」

「多少ね」

 

 月見が異変について持っている知識は、ほとんどが操と天子の会話から断片的に採集したものでしかないが、認識としては間違っていないと思っている。

 

「そういえばお前も、異変を起こしたことがあるんだってね」

「ええ。幻想郷中の『春』を集めて、西行妖を満開にしてみようと思ったんです。その影響で、幻想郷では春なのに雪が降った――というか、季節が冬に逆戻りしたんですの。それで、異変という扱いになりまして。……結局、桜を咲かす前に霊夢たちに負けちゃったんですけど」

 

 なにやら、西行妖をどうとか、さらりと末恐ろしい言葉が聞こえてきたが……まあ、幽々子がこうして今でも存在し続けているということは、大丈夫だったのだろう。

 当時の記憶を失っているので当然だが、自分がどれほど恐ろしい真似をしたのか、幽々子はまったく理解していないようだった。早くも二つ目の饅頭に手を伸ばしつつ、裏の読めない笑顔で語り続けた。

 

「うちの妖夢も、異変解決に行ったことがあるんですよ。半人前のあの子にはいい修行になりますから。なので今回も妖夢に行かせようと思って、まあ、私が天界に行ったのはその下見ですわね。

 というわけで、私は天界で比那名居天子と会ってきましたし、闘って勝ちもしましたけど、異変を止めてはいないのです。異変を解決するのは、あくまで人間の役目ですから」

「ふうん……」

 

 つまり、これからも異変は続くわけだ。あれだけ修行をしたのにもう終わりでは、天子はもちろん月見まで不完全燃焼なので、少なからず安心する。

 また、豆を食べるように饅頭を口に放り込んだ幽々子が、

 

「あ、ほうえひはふふひあん。ひふあおいひっへおへはいあ」

「……」

「……むぐむぐ」

 

 しばらく黙って饅頭の飲み込み、

 

「あ、そうでした月見さん。実は折り入ってお願いが」

「なんだ?」

「今回の異変なんですけど、月見さんはどう動かれます?」

「どうって……」

 

 幽々子がやってくる直前まで、考えていたことだ。答えは既に、ほとんど出かかっている。

 

「特別、妙なことをするつもりはないよ。このまま水月苑でのんびり傍観してるさ」

 

 そもそも異変が無事に始まった時点で、月見が天子と関わる目的は達成されたも同然なのだ。霊夢と一緒に異変を解決するのはもちろん、天子とともに人間たちの前に立ちはだかるのだって、月見にとってはなんの意味もない。

 あとはただ、この異変の結末を見届けられればそれで充分。

 幽々子が、安心したように両の掌を合わせた。

 

「ああ、それでしたらよかったです。さっきも言いましたけど、異変解決は、妖夢にとってとてもいい経験になると思うので」

「ああ。……ひょっとして、妖夢に自分の力でやらせるとか?」

「ええ。なので、そうですね、異変が起きてるよって人間たちに教えて回ったりするのは遠慮していただきたいんです。自分の力で異変の発生を見抜けるかどうか――それも、ひとつの立派な修行ですから」

「ふむ。私は構わないよ」

 

 それでなにか月見にデメリットがあるわけでもなし、断るような理由はない。

 

「ありがとうございます。今度、お礼を致しますわね」

「そこまでのことじゃないよ。元々、人間たちに協力するつもりはなくてね」

「月見さんは、比那名居天子の味方だから――ですか?」

 

 ああ、と月見は思う。やはりこの少女は、初めから全部お見通しで月見に異変の話を振ってきたらしい。まあ、薄々感づいていたので驚きはしない。

 肩を竦める。

 

「天子のやつ、本当にあれこれ口を滑らせたんだな」

「ええ、まったく」

 

 幽々子は、楽しそうだった。

 

「月見さんったら、あんまり紫を困らせちゃダメですわよ?」

「……やっぱり不味かったかな、異変に協力したのは」

「ふふふ、違いますわよお」

 

 くすくすと笑うなり、月見から目を逸らしてぽつりと、

 

「……いえ、あながち間違いでもないわね。ある意味では」

「?」

「じゃあお話は終わりましたし、私、温泉に入ってきますね~」

 

 ぱんと両手を打って、幽々子がそそくさと席を立った。話はこれで終わりだと言い切らんばかりに、疑問符を浮かべる月見など見て見ぬふりで、

 

「お饅頭、ごちそうさまでした~」

「……ああ」

 

 月見は追及しない。したところで、幽々子は絶対に答えてくれないだろう。意味深な笑みを浮かべる彼女になにを言おうが、それこそ幽霊を素手で捕まえようとするように、のらりくらりと躱されるだけだ。口先で、幽々子に勝てるとは到底思えない。

 ご機嫌そうに浴場へ向かう幽々子の背をひとしきり見送って、誰もいなくなった空間で、月見はゆっくりと長いため息をつく。

 白虹は片時も消えることなく、夏の空で輝き続けている。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

「――まあそこそこやる方ではあったけど、私に言わせりゃまだまだだね」

 

 とは、朝一で気質の流れを追って天界に昇り、比那名居天子を撃破して、その帰り道で水月苑に立ち寄った萃香の弁である。

 

「確かに、躱す方は上手だったよ。私もちょっと手を焼いたさ。でも肝心の弾幕がダメだね。悪くはないけどよくもない。素人なのが丸わかりだよ」

「そうか。わかったから降りろ」

「やだぁー」

 

 こちらの膝を占領しご機嫌で酒を呷る萃香に、月見は無言のままがっくり肩を落とした。曇り空が広がりいつもより涼しい夏日とはいえ、こうも密着されてしまえばやはり暑い。そして酒くさい。

 水月苑の営業二日目、男性専用の温泉開放日。夏にもかかわらず、やはり露天風呂の方からはお客さんの元気な笑い声が響いてきている。萃香も笑っている。月見だけがため息をついている。

 萃香曰く、

 

「ここは、私のずっと昔からのお気に入りの場所だよー? ちゃんとまあきんぐしておかないとね、あのレミリアの妹に取られないように」

「酒の臭いでか」

「まあなんでもいいよ」

 

 萃香とフランが水月苑で出会うと大抵、月見の膝の上を巡って喧嘩を始める。「月見は私のものなのーっ!」「いいや私のだねっ!」などと大変誤解を招く口論をしながらお互いのほっぺたをむいむい引っ張っているので、実際輝夜に誤解されて三つ巴の大乱闘に発展しかけたこともある。やめさせようとは常々思っているのだが、萃香はもとより、普段はいい子なフランすら頑に首を振って聞かないので、めぼしい成果は上げられていない。

 

「そもそも、人の膝の上は椅子じゃないって何度も言ってるはずなんだけどね……」

 

 ため息混じりにそう言ったら、ちっちっち、などと生意気な反応をされた。

 

「月見はわかってないねー、この座り心地が。一度座ったら病みつきだよ」

 

 自分で自分の膝の上には座れないので、わからなくて当然だが。

 

「硬くて座りづらいんじゃないのか、普通」

「この硬さがいいんだよー」

 

 誰にも邪魔されることなく月見の胸板に体を預けて、萃香は大変ご満悦な様子だった。ふいに、昔はこういう風にこいつを子守りをしてたっけなあと懐かしくなって、月見は萃香の頭をぽんぽんと叩いた。

 

「ところでさあ、月見」

「ん?」

「月見って、あの比那名居天子とかいう天人と仲いいの?」

「……幽々子にも似たようなことを訊かれたっけね」

 

 洞察力の鋭い幽々子ならさておき、飲兵衛な萃香までもがあっさり気づくのだから、天子の自爆癖は相当なのだろう。月見も心の底からそう思う。

 萃香が頭で、月見の胸元をコンコンと小突いた。

 

「さてはまた新しい女を作ったんだなー。紫を泣かせちゃダメだぞー」

「そんなんじゃないって。友人だよ」

「友人ねえ……」

 

 疑り深い半目で呟いた萃香は、まあいいけどお、とそっぽを向くように酒を呷って、

 

「ぷは。……ということはなにさ? 今回の異変って、月見も一枚噛んでるの?」

「噛んでるっていっても、異変が始まる前に、あの子の弾幕ごっこの練習を手伝っただけだよ。ここから先はなにもするつもりはないさ」

「あはは、賢明だね。スペルカードも持ってない月見じゃあ、霊夢たちにボコボコにされるのがオチだよ」

 

 霊夢は知り合いにも容赦ないからねー。そう言って伊吹瓢を置いた萃香は突然、寝返りを打つように月見の胸に顔を押しつけた。

 

「宴会が楽しみだねえ。……そんじゃあ、今日はここで昼寝するぅー……」

「……布団敷くから、そっちで寝てくれないか?」

 

 せめて諏訪子みたいに、尻尾を抱き枕にして寝るとか。こんなほとんど抱きつかれた状態で昼寝などされたら、身動きがとれなくなってしまう。そして暑い。

 月見の顎のすぐ下で、萃香の頭がいやいやと揺れた。

 

「やだぁー。わーい、月見の匂いだぁー……」

 

 そして月見がなにかを言うよりも先に、あっという間に穏やかな寝息を立て始めてしまった。月見の静かなため息が、萃香の夕日色の髪をさらさらと撫でた。

 浴場で元気に騒ぐ男たちの声と、疲れを知らぬ蝉の大合唱で満たされる中、呟きはかき消されそうなほど小さく、

 

「……足痺れた」

 

 男一匹月見、我慢の時。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 天子曰く、コテンパンにやられたらしい。

 新しい週の頭を迎え、月見が早速天界へ様子を見に行ってみれば、天子から返ってきたのはしょぼくれたため息だった。

 

「ごめん、月見……。あんなに修行手伝ってもらったのに」

「そんな、謝らなくても」

 

 そよ風に吹かれて、平原全体がさわさわと優しい声をあげている。桃の木陰で穏やかに揺れる枝葉を見上げていると、季節が春に戻ったかのような心地よさを覚える。天界の清浄すぎる空気にも、もうすっかり慣れた月見だった。

 そして自然と笑顔もこぼれる月見の横では、両膝を抱え込んだ天子がどんより雲をまとっているのだった。

 

「だって、本当に完敗だったんだもん……」

「あいつらは、弾幕ごっこに関しては相当なやり手みたいだからね。負けても仕方ない」

 

 弾幕ごっこは妖怪と人間の実力差を平等化する手段として知られているが、使い手のポテンシャルに応じて、弾幕の質が上下するのは立派な事実。片や死を操る冥界の最高責任者、片や鬼の四天王となれば、その実力は語るまでもない。

 天子が、これで何度目になるのか早くもわからなくなったため息をついた。

 

「でもせめてもうちょっと、一矢報いたかったなあ……。これじゃあ、月見との修行でなにも成長できてないみたい……」

 

 そこまで呟いたところで、ハッと顔を上げて、

 

「いや違うの、今のは月見の教え方が悪かったとかじゃなくて! たくさんのことを教えてもらったのに、それを全然活かせてない私が情けないって話で……」

「そうか? 私の教え方が悪かったってのも、あると思うけどね」

 

 指南役に勤しんだ三日間を思い出し、月見はやんわりと苦笑した。月見はただ弾幕の躱し方を天子の体に叩き込んだだけであり、しかもそれだって、本物の弾幕すら使ったわけではなかった。例えば弾幕ごっこに精通した他の誰かが教鞭を執っていれば、天子はもっともっと成長していけたはずだ。

 しかし、天子はふるふると首を振る。

 

「そんなことない。月見が自分で思ってる以上に、私はたくさんのことを、月見から教えてもらってるんだから」

「ふうん……?」

 

 天子は、不思議と強い目をしていた。膝を抱え込む両腕に押しつけられ、半分以上隠れた横顔。その表情は見えないけれど、唯一覗く緋色の瞳には、自分の言葉が決して嘘ではないと、まっすぐに信じる想いが表れていた。

 こんな年寄り狐の背中になにを学ぶようなことがあるのか、月見にはいまひとつ、わからなかったけれど。

 

「まあ、幸い異変を止められたわけじゃないんだ。次はもっと頑張らないとね」

「それはもちろん! ……でも、どうして異変を止められなかったのかしら。私、負けたのに」

「異変を止めるのは、あくまで人間ってことなんだろう」

 

 幽々子は、妖夢に異変を解決させるための下調べで。萃香は、単純に誰が異変を起こしているのか気になって。そうして空を昇った彼女たちは、しかし解決自体は人間の役目だからと、天子を見逃して立ち去った。

 

「人間、か……。やっぱり霊夢じゃないとダメってことなのかな」

「そうかもしれないね。昔の異変も、全部霊夢が中心になって解決していたみたいだし」

 

 だが今回に限っては、その霊夢こそが問題なのである。

 

「そういえば、霊夢ってまだ動いてないの? もう異変は始まってるのに……」

「夏バテ中だ」

「えっ」

「……夏バテ中だ」

 

 月見とて今回の週末、いつものように温泉宿で名ばかりの亭主になっていただけではない。空いた時間で博麗神社まで足を伸ばして、霊夢がどうしているか様子を見に行った。

 だが境内に入った月見が見たのは、

 

『……霊夢、生きてるかー?』

『ああぁぁぁううぅぅぅ~……し~~ぬ~~……』

 

 母屋の座敷で干物みたいになっていた、変わり果てた霊夢の姿であり、

 

『もうやだぁぁぁ~……昨日くらいから、ただでさえ暑かったのが更に蒸し暑くなって……しぃぃぃぬぅぅぅ……』

 

 恐らく、霊夢の気質が『快晴』かなにかなのだろう。ギンギンに輝く太陽から注がれる惜しみない熱光線は、博麗神社一帯の温度を三十度の大台にまでのし上げていた。干物ができあがるわけである。

 霊夢の夏バテ具合たるや、不憫に思った月見が団扇で扇いでやっただけで、「わ~い月見さん大好きぃ~……愛してるうぅぅ~……」と現金極まる発言が飛び出したほどだ。霊夢は今日も家の座敷に寝っ転がり、己の体が干からびるまでのカウントダウンを刻一刻と刻んでいっている。

 天子が引きつった顔をした。

 

「そ、そうなんだ……それはちょっと、予想外かな」

「もしかしてなくても、このままだと霊夢は動かないかもしれない。もっと別の方法で、異変が起こってるんだと気づかせでもしないと」

 

 霊夢に限った話ではない。一日二日天気がおかしくなった程度でまさか異変を疑う人間がいるはずもなく、人里あたりの様子ものんびりとしたものだ。少なくとも月見が知る限り、異変の発生に気づいている人間はまだ一人もいない。

 人間というのは存外、実際に自分の身に危険が及ぶまで、異常な事態を異常と認識することができない。例えば非常ベルが突然鳴った時、大半の人は誤作動かなにかだと思い込んで、避難することなど微塵も考えない。もしくは目の前の異常に薄々気づきながらも、大したことはないだろうと高を括ってなにもしない、など。

 人の危機感は思いの外鈍感だ。ましてやちょっと天気がおかしくなるだけでは殊更、人の脳は束の間の違和感を覚えるだけで終わりだろう。

 こんなことなら、『異変が起こっていることを人間たちに吹聴したりしない』などと、幽々子の前で約束しない方がよかったかもしれない。

 天子が難しそうに唸った。

 

「……うーん、じゃあ別のやり方も考えてみるわ」

「そうした方がいいだろうね」

 

 少しくらい危機感を煽るくらいでないとダメなのだろう。かつて幽々子が起こした異変だって、春が冬に逆戻りするとなれば作物への被害が大きかったはずだ。外の世界ほど農業技術が発達していない幻想郷では、それなりに死活問題になる。

 己の身の危険を感じて初めて、人々は重い腰を上げる。

 

「ま、それはこれからゆっくり考えるとして……」

 

 そこで言葉を区切った天子が、月見の袖をクイクイと引っ張った。

 

「ねえ月見、よかったら練習に付き合ってくれない?」

「? 今日は式神は持ってきてないけど……」

「そっちじゃなくて。躱す方はそこそこできるようになったから、今度は撃つ方を練習したいの」

 

 萃香曰く、天子は躱すのは上手いが撃つ方がダメダメだという。本人も一応自覚しているようで、要は月見に的になってくれということらしい。

 

「別に構わないけど……自分で言うのもなんだが、躱すのはそこそこ自信あるぞ?」

 

 挑発するように月見が言えば、大胆不敵に、天子は笑った。

 

「へー、じゃあ手加減は要らないわね! 今までの修行でいじめられた分、たっぷり仕返ししてあげるから!」

「さて、そう簡単に行くかな?」

 

 月見はよっこらせと腰を上げ、天子は意気揚々と走り出す。月見が肩を回したり首をひねったりして準備体操する先で、弾幕ごっこに必要な距離を取った彼女は振り返り、緋想の剣片手にぴょんぴょんと飛び跳ねる。

 

「さー、行っくわよー!」

「ああ、遠慮なくどうぞ」

 

 初めのどんより沈んでいた空気は、もう嘘だったかのように綺麗さっぱり吹き飛び、すっかり上機嫌になった天子はその後も終始笑顔で、月見目掛けて弾幕を撃ちまくった。

 結局天子の弾幕は、ほんの数発が掠っただけだったけれど。

 それでも最後に元気よくお礼を言う天子は、月見が見ていて眩しいと思うくらいに、晴れ晴れとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸せだった。楽しかったとか、嬉しかったどころの話ではない。天子の体中を隅々まで満たし、あふれだしそうになるほどの充実感は、紛れもなく幸福と呼ぶに相応しいものだった。

 月見と出会ってからの日々は、満ち足りていた。

 もう異変なんて、途中でやめてしまってもいいんじゃないかと思うくらいに、満ち足りていた。

 けれど天子は、やめなかった。やめてもいいんじゃないかと思ってすぐに、今の天子と月見の関係は、異変によってかろうじてつながれているものなのだと気づいた。

 月見がこうして天界までやってきてくれるのは、天子が異変を起こした張本人だから。このまま人間たちに知られることなく異変をやめてしまえば、きっと天子と月見の関係もまた、終わりを迎える。月見にはもう、わざわざ天界まで昇る理由がなくなってしまう。

 そうしたらきっと、また逆戻り。

 また、ひとりぼっち。

 だから天子は異変を続けた。やっぱり、なによりも、異変を起こした本当の目的を果たさなければならないのだと思った。果たさずしてやめるわけにはいかないのだと再認識した。

 成し遂げて初めて、きっと、自分はこの檻から外に飛び立てるのだから。

 故に今度は、少し手荒な手段になったっていい。夏バテして引きこもっている霊夢を動かすためには、むしろヒヤリとさせるくらいでなければならないのだと。

 

 そうして天子は、間違えた。

 

 いや――きっと初めから、間違えていたのだ。

 初めから、全部。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このまま終わるのだと思っていた。今はまだ時でなくとも、やがて人々は異変の発生に気づき、博麗の巫女が動き出し、そうして解決されていくのだと思っていた。

 

「ん……霊夢か? 夏バテはもう大丈夫なのか――っと、魔理沙も一緒か」

「おう、魔理沙ちゃんも来たぜ。……とりあえず、上がってもいいか?」

「構わないけど」

「んじゃ、お言葉に甘えるぜ。……ほら霊夢、お前も」

「……お邪魔します」

 

 甘かった。大したことにはならないだろうと高を括っていた。天子なら大丈夫だと――そこで思考を止めて、彼女のことを、なにも正しく理解しようとしていなかった。

 

「……それで? こんな朝っぱらからなにかあったのか?」

「……それは」

「あー、まあ、ちょっとばかし面倒なことがあってな」

 

 月見にならできたはずだ。異変が始まる前から、天子と最も近い位置にいたのは月見だった。気づけるのは、月見しかいなかった。

 だが、気づけなかった。

 

「簡潔に言うと、少し前にちょっとした地震があったらしくてな」

 

 本当に天子を理解しようとしていれば、いくらでもやりようはあった。

 その上で目を逸らしたのは、月見の方。

 

 

「――博麗神社が倒壊しちまった。瓦礫の山になっちまったぜ」

 

 

 人知れず狂った歯車が、月見と天子を、引き裂こうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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