言葉の意味は理解できた。だが、なぜ彼女がそんなことを言うのかはわからなかった。だから聞き返した。
「……なんだって?」
理解したくなかった、というのもある。
魔理沙が、霊夢を連れて水月苑を訪ねてきた。彼女はあいかわらず人を喰ったように飄々と笑っていたが、一方で霊夢は、今にも舌打ちの一つでも飛ばしそうなほど機嫌が悪く、月見と目が合ってもろくに挨拶すらしなかった。
最初は、夏バテしているところを無理やり連れ出されたから虫の居所が悪いのだろうと思っていた。しかし、それにしてはどうにも険悪すぎるというか、さすがに挨拶もなく黙り込んだままなのはおかしいと思い、なにかあったのかと尋ねた月見に、肩を竦めて答えたのは魔理沙だった。
「ま、つい聞き返しちまう気持ちもわかるが……これは立派な事実だぜ。なんだったら今すぐ見てくるといい。変わり果てた姿が拝めるぜ」
――そうか、と思う。唇を噛み、歯を軋らせるように思う。
こんな言葉が。
こんな言葉が、返ってくるのか。
「――今朝早く、博麗神社が地震で倒壊した。跡形もなく、木っ端微塵にな」
その時月見の脳裏を過ぎったのは、博麗神社が崩れ去る光景でも、天界で霊夢たちを待ち侘びている天子でもなかった。
ただ、この幻想郷を誰よりも愛する、小さな管理者の姿だった。
○
博麗神社は、古い建物だ。歴史書を
当然だ、あの神社から幻想郷が始まったのだから。すべてあそこから始まった。立っている場所こそ、幻想郷の端の端という辺鄙なところだけれど、博麗神社は間違いなくこの世界の中心であり、『すべて』と評しても過言ではない場所だった。
だから博麗神社は、八雲紫によって守護されていた。人里がそうであるように、周囲には特殊な結界が構築され、害意ある妖怪を近寄らせないようになっていた。
博麗の巫女を守り、それ以上に、博麗神社という場所そのものを守るために。
――地震というのは、盲点だったと言わざるをえない。博麗神社に張られる結界は、博麗大結界と同じ理論の結界だ。害意ある敵を退けることはできても、善も悪もなくすべてを等しく呑み込む自然現象を防ぐことはできない。
博麗神社は古く寂れた見た目の通り、建造物として実に貧弱で、必要最低限の遷宮を行っていたのかどうかすら怪しかった。地震で倒壊してしまうほど、神社の状態が経年劣化していたとしても、月見はこれといって不思議に思わない。
だから今、月見がこんなにも思考をめまぐるしく動かすのは、別の違和感。
そもそもの話、今日の朝に、地震など起こっていなかったはずなのだ。
霊夢に、地震が起こった時間を確認した。朝食を摂っていた時間だった。揺れなんて、一瞬たりとも感じなかった。
月見が、考え事に耽りすぎていただけなのかもしれない。しかし、劣化が激しいとはいえ建造物ひとつを潰すような地震に気づかないなど、ありえるだろうか。
水月苑と博麗神社は、土地が狭い幻想郷だ、互いにそう離れているわけではない。なのに片や博麗神社は倒壊し、片や水月苑は揺れもしないなど、そう安々と頷ける話ではない。
やや、突飛な飛躍ではあるけれど。
その地震は、本当に自然現象だったのだろうか。
自然では考えにくいことが起こったのだから、そこになんらかの人為的な介入を疑うのは、突飛ではあれ的外れではない。それに、意図的に地震を起こせるだけの力があり、なおかつ起こすに足る動機を持っている人物に、一人だけ心当たりがあるのだ。
――比那名居天子。
互いに友人同士を名乗る間柄だ。数日間修行の手伝いをした中で、天子という少女について色々なことを聞かされたし、月見の方から訊きもした。
例えば、天子が持っている剣は『緋想の剣』と呼ばれる天界の宝剣で、気質を自由自在にコントロールする力を持っている、とか。
例えば、天子は『大地を操る程度の能力』を持っていて、地震など大地の自然災害をある程度制御できる、とか。
霊夢曰く、博麗神社では何日か前から地震が頻発していたらしい。しかし少し揺れる程度の些細なものだったので、「なんか地震が多いわね」と不思議に思うだけで、それが異変によるものだとは考えもしなかったという。
そして今日になって突然強い地震が起き、神社が倒壊した。
例え話だ。
数日前、月見から地上の様子について――人間たちはまだ誰も異変に気づいていないと――報告を受けた天子は、異変解決の最有力候補である博麗の巫女をターゲットに、己の能力と集めた気質を上手く使って地震を引き起こす。しかしちょっとした程度の揺れでは一向に気づいてもらえなかったため、焦れた天子はつい、神社の強度を計算に入れないまま強い地震を起こしてしまって――。
なんの確証もない想像だ。
そして同時に、ありえないと否定できる材料もない。
「……ねえ、……」
ただ、十中八九これは事故だ。博麗神社の破壊が目的なら初めからそうすればいいだけの話だから、わざわざ数日前から小さな地震を繰り返し起こす理由がない。
それに、天子を妄信するわけではないけれど。
一歩間違えば、崩れる神社に押し潰され霊夢が死んでしまう可能性もあった。誰かを、殺すなど、あの子が企むとは考えられない。神社の度を超えた経年劣化は、天子にとっても甚だ予想外だったはずなのだ。
「ねえ、月見さん……」
だがもう一方で、たとえ故意でなかったとはいえ、神社を倒壊させてしまったのは立派な事実。しかも、このままでは霊夢は動かないかもしれないと、天子に焦られるような報告をしたのは他でもない月見だ。月見の言葉があったからこそ天子は、博麗神社に地震を起こすという手段を考えるに至った。
だとすれば、博麗神社倒壊の原因となった、根本的な引鉄は――
「ちょっと、聞いてるの……?」
大したことはないと高を括っていたのは、月見も同じだ。月見の不用意な発言が、天子の背を悪い方向に押してしまった。
「ねえったら……」
ならば月見は、一体どうするべきなのだろう。
一体どんな顔をして、天子に。
紫に、会えば――
「――月見さんっ!」
「!」
ピシャリと響いたその声に、月見の意識は現実に引き戻された。
○
「ちょっと月見さん、どうしたの? ボーッとして……」
「寝不足かー?」
目の前で、仲良く煎餅をかじる少女が二人、怪訝そうな顔でこちらを見つめている。今回の異変について話を聞かれている最中だったことを思い出した月見は、緩く首を振って、強張っていた肩から力を抜いた。
動揺しているらしい。目の前の、霊夢と魔理沙の存在すら忘れ、思考の渦中に落ちてしまうほどに。
「……いや、すまない。少し、考え事をね」
「私の神社が壊れちゃったのよっ、考え事なんてしてる場合じゃないわっ」
霊夢が、テーブルをべしべし叩いて頬を膨らませた。悪い悪いと月見は謝りながら、中央のお菓子を詰めたお盆に、棚の饅頭やら煎餅やらを補充した。
物でご機嫌を取ろうなんて失礼ねっなどと口では憤慨しながらも、霊夢は満更でもなさそうな顔になって、
「というわけで、この異変についてよ。どんな小さなことでもいいんだけど、なにか知らない?」
疑念や動揺は絶えないが、まずは彼女の質問に答えるのが先だ。とはいえまさか知っていることすべてを話すわけにもいかないので、月見は言葉を選びながら、
「……幻想郷で起きてる異常気象が異変の影響だというのは、お前たちも気づいてるな?」
「ええ。私のところがずっと快晴続きだったのも、そのせいみたいね。まったく迷惑極まりないわ」
「私だったら霧雨だな。カビが生えやすくなって、こっちもいい迷惑だぜ」
「魔理沙、ちゃんと掃除はしてるだろうな」
「今はそんなこと話してる場合じゃないだろ?」
さもありなん。
「原因は……私たちの気質が、大気中に過剰に漏れ出してしまったから」
「だから、その人の気質に応じて天気が変わると。……ところで月見さんの気質は?」
「白虹だよ。太陽の周りに、丸くて白い虹ができてる」
「へえ、そういうのもあるのね……」
口ではそう言いつつも、実際のところ大して興味はないようで、霊夢はお茶をすすったり新しいお菓子に手をつけたり。その一方で魔理沙は席を立ち、縁側まで行って空を見上げ、「おお、本当だ」と小さく声をあげていた。
月見は続ける。
「普通、人それぞれの気質に応じて自在に天気が変わるほど、気質が過剰に漏れ出すなんてありえないことだ。……私たちの気質を集めている黒幕がいるのは、間違いない」
「そうね。私の神社を壊したのもそいつに違いないわ! 私の勘がそう叫んでる!」
霊夢がテーブルに強く両手を打ちつけた。その衝撃で湯呑みがグラリと傾き、お茶が数滴こぼれるけれど、怒りに燃える彼女の瞳にはまったく映っておらず、布巾に手を伸ばす素振りもなかった。
縁側から戻ってきた魔理沙が、気の毒そうに苦笑いをした。
「まったく、黒幕が誰かは知らんが同情するぜ。これじゃあ、私の出る幕なんてないかもな。面白そうだからついてくが」
「問題はその黒幕の居場所ね」
布巾を取ってこぼれたお茶を手際よく拭く、意外な気配りを見せる魔理沙に、しかし霊夢は見向きもしない。
「山の上に緋色の雲ができてるし、なにより私の勘が向こうが怪しいって叫んでるんだけど、月見さんはどう思う?」
「……そうだね。私もそこが怪しいと思うよ」
『天界』という言葉は出さない。霊夢だって博麗の巫女なのだから、山頂まで行けば自ずと目的地が天であることを知るだろう。あまりに的確すぎる助言は、不審を生む。
霊夢が右手を拳にし、跳ねるように立ち上がった。
「よぅし、月見さんも怪しいって言うなら間違いないわね! ほらさっさと行くわよ魔理沙、いつまでのんびりしてるの置いてくわよ!」
そして魔理沙の肩をグイグイ引っ張るのだが、彼女はどこ吹く風と涼しい顔で、
「落ち着けよ、出されたお茶はしっかり味わってやるもんだぜ」
「……」
呑気にお茶を傾ける彼女を見ていくらか冷静になったのか、霊夢はそそくさと座り直して、お盆の中の饅頭に手を伸ばした。確かに食べられる時は食べておかないと損よね、と小さな呟きが聞こえた。特に饅頭はそろそろ処分しないといけないものなので、遠慮なく食べてくれるとありがたい。
さておき、饅頭をむぐむぐと咀嚼する霊夢に、月見は一枚の札を差し出した。
「霊夢、これを持って行け」
「?」
札を見た霊夢は、きょとんと疑問顔で、
「なによこれ」
「交信用の札。霊力を込めて話しかければ、私が持っているもう一枚の方に声が届くようになってる。……もしかしたら、なにか力になれることもあるかもしれないしね」
霊夢が天界に昇った先で、なにか話がこじれないとも限らない。その時は、月見が、駆けつけてやれればと思う。
「ふーん……まあ、一応もらっておくわ。ありがと」
霊夢はやはり興味がなさそうだったが、かといって訝るでもなく、素直に受け取って懐の奥にしまった。もらえる物はもらっておく主義なのだろう。
それからしばらく、彼女はお菓子を端から端まで堪能して。
「――よし、お腹も膨れたしそろそろ行きましょうか」
「だな。月見、御馳走さんだぜ」
「ああ、お粗末様」
席を立った二人に続いて、月見も立ち上がった。お盆の中は完全にすっからかんだ。賞味期限の危ないものは粗方処分できたので、次もまたお願いしたい。
博麗霊夢、そして西行寺幽々子。水月苑にとっては貴重な、賞味期限の近いお菓子処分係である。
「で、お前はこれからどうするんだ?」
魔理沙の問いに、二つ返事をするように返した。
「私は、博麗神社を見に行くことにするよ」
行ってなにかをできるわけではないけれど、行かずに、なにもしないわけにもいかない。博麗神社がどのような姿になっていても、この目で見て、逃げずに受け止めなければならないと思う。
「神社は壊れちゃったし、行ってもなにもないわよ?」
「普段からなにもないけどな」
霊夢の鋭いチョップが決まる。
「あ痛ー……」
「お賽銭箱も瓦礫の山に埋もれちゃったし。……あ、そういうわけでお賽銭なら私が直接受け取るわよ!」
輝く期待とともに突き出された霊夢の右手に、月見は苦笑しながら、小銭を一枚置いてやった。
「わーい、ありがとー! やー、さすが月見さんだわー」
なんの懐の足しにもならないであろうたった一枚の小銭に、霊夢はもう、札束を受け取ったみたいに大喜びだった。「見なさい魔理沙、これが人として正しい行いよ!」「意味がわからんぜ」と呆れられている彼女の姿を見つめながら、月見は思う。
本当に、強い子だ。
博麗神社の倒壊。奪われたものは、決して自分の寝泊まりする場所だけではないはずなのに。傷つけられたものは、決して目に見える部分だけではないはずなのに。
確かに霊夢は、怒っているだろう。けれどその怒りは、どちらかといえば苛立ちに近い感情であり、賽銭を一枚手に入れるだけであっさり引っ込んでしまうようなものであり――『本気』の怒りではない。
……なら、『彼女』はどうなのだろう。
倒壊した博麗神社を見た時、大切な思い出を傷つけられた時、彼女は怒りに我を忘れるのだろうか。悲しみに涙を流すのだろうか。
この幻想郷を、この世の誰よりも深く愛する、あの少女は。
「じゃあ、行ってくるわね月見さん!」
「……ああ」
玄関先で、気概あふれる霊夢と魔理沙を見送る。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「任せといて! 月見さん、異変解決したら宴会だからねっ!」
「ちゃっちゃと解決してくるぜー」
山の頂上向けて飛んでいく二人の背は、あっという間に木の陰に隠れて見えなくなる。強い夏の日差しと対照的に、月見はその面差しにふっと影を落とし、ゆっくりと長い息をつく。
緋色に染まった、雲の下で。
「……私も、行こうか」
やがて、月見も動き出す。
心のどこか片隅に、一抹の胸騒ぎを覚えながら。
○
言葉は、出てこなかった。
小さく、古く、寂れ、それでもどこか不思議な温かみのあった神社は、文字通り瓦礫の山と化していた。折れ、砕け、崩れ去り、意味のないただの木片と成り果てた『博麗神社だったもの』が、無造作に月見の眼前に転がっているだけだった。
山肌をぽつりと拓いた土地故に、いつもどこかで小鳥の鳴き声がした緑豊かな境内が、今は物音ひとつなく静まり返っている。生き物の声はもちろん、葉擦れの音すら聞こえない。
現実から、ここだけが切り離されてしまったかのようだ。
それほどまでに、目の前の光景は信じがたかった。
なんとなく――なんとなく、大丈夫な気がしたのだ。魔理沙の言葉を信じていなかったわけではないし、霊夢の怒りを演技だと思っていたわけでもないけれど、境内に入ればきっと、そこにはいつも通りの風景が広がっている気がしたのだ。
打ち砕かれた。
覚めたくない夢から、覚めてしまった心地だった。
「……そうか」
噛み締めるように呟く。己が目で見てなお嘘だと首を振れるほど、月見は年若くない。認めたくない気持ちを残しつつも、目の前の光景は地に引かれる雨粒のように、すとんと月見の胸まで落ちてきてしまう。拝殿はもちろん、本殿も、手水舎も社務所も母屋も全部。これでよく、霊夢に怪我ひとつなく済んだものだ。
足下に転がる無骨な神社のかけらを見下ろしながら、く、と月見は喉だけで笑った。自嘲だった。夢なら覚めればいいと思って、笑うことしかできなかった。
体の一部を、もがれたような。
さして博麗神社と深い関わりを持たない月見でさえ、ここまでなにも言えなくなるのだ。幻想郷が始まった時から――否、幻想郷が始まるよりもずっと昔から、ずっとこの神社に寄り添って生きていた『彼女』の心は、一体どれほど打ちのめされるのだろう。
緩く首を振った。確定だ。博麗神社は間違いなく倒壊したし、状況とタイミングを考えても、まっさきに疑うべき犯人は天子の他にいない。
けれど――どうしても、小骨のように喉に引っかかるものがあった。
なぜ、博麗神社は倒壊したのか。簡単だ。幻想郷の各地で異常気象が続きつつも、人間たちが、博麗の巫女である霊夢が、異変の発生を見抜くことができなかったから。だから月見は「別の方法を考えた方がいいかもしれない」と天子に助言をしたし、彼女はその言葉に従って、博麗神社に地震を起こすという手段を実行した。そして恐らくは不運な事故で、博麗神社を倒壊させてしまった。
簡単なことだ、けれど。
「……」
しかし――どうして、博麗神社なのだろう。
どうして、博麗神社『だけ』だったのだろうか。
異変の解決には人間の力が必要であり、その最前線を担っているのは確かに霊夢だろう。だが幽々子が「妖夢に解決させたい」と言っていたことからして、必ずしも博麗の巫女が異変を解決しなければならない決まりがあるわけでもないはず。人間であれば魔理沙でも、咲夜でも早苗でも、極端な話人里の一般人でも、異変解決に名乗りを上げることはできるのだ。
博麗神社を狙ったのは、理に適っている。
しかし博麗神社『しか』狙わなかったのは、一体なぜなのか。
人間なら誰でも構わなかった、はずなのに。
どうして、霊夢だけを。
「……」
考えても仕方のないことだ。そしてだからこそ月見は、自分も天界に向かわなければならないのだと思った。異変が解決されるまで傍観するなどと、悠長なことはもう言っていられない。
打倒天子に燃える霊夢を、引き留めてでも。
天子に真実を、問わねばならない。
瓦礫の山から目を外し、振り返る、
「――うっひゃー、一体なんだってんだいこりゃ。派手な喧嘩でもあったのかねえ……」
勢いのいい少女の声が耳朶を打った。視界の端で揺らめいたのは、トレードマークの緋色のおさげと、肩で担ぐほど巨大な長鎌。
小野塚小町が、神社の長い石段を登り切って、ちょうど境内に入ってきたところだった。
「ん? おや、月見じゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だね」
月見の姿に気づくなり、小町は人懐こい笑顔で駆け寄ってきた。変わり果てた神社を目の当たりにしても、普段と変わらない明るさで人に声を掛けられる胆力には、いい意味でも悪い意味でも感心してしまう。
あまり人と話をしたい気分ではなかったのだが、名を呼ばれた手前無視するわけにもいかなかった。できる限り笑顔を意識して、
「そっちこそ。こんなところまで来るのは珍しいんじゃないか?」
「ん? ま、そうかもねえ」
彼岸屈指のサボり魔として名高い彼女は、よく人里の甘味処で団子を頬張っているし、温泉好きということで水月苑を訪れることも多いけれど、遥々博麗神社にまで出没するとは初耳だ。
「また、サボりかい」
「いいや、今回ばかりは大丈夫だよ。……本当だって。だからそんな胡散くさそうな顔しない」
さてこの少女は、何度非番を騙り温泉に入っては映姫を召喚し、閻魔様の説法会at水月苑を開催させたか覚えているだろうか。
「本当に本当だって。ちょっと気になることがあって、ちゃんと四季様から休みもらってるんだよ」
「……本当にそうなら、いいけどね」
まあ、月見には関係のないことだ。仮にここで、あの説教好きな閻魔様が小町を連れ戻しにやってきたとしても、月見は絶対に付き合わない。今だけは、なにがあっても。
小町は目の前の光景に特に衝撃を受けた風でもなく、ただちょっと珍しいものを前にしたような目で、変わり果てた神社の残骸を眺めていた。
「で、これは一体何事? まさかあんたがやったわけじゃないでしょ?」
「今朝早くに、地震が起きたって聞いてるよ」
「地震かあ。やっぱり、今起こってる異変が影響してるのかねえ」
まったくここの巫女さんがさっさと解決してくれないから、こっちもちょっと迷惑してるんだよー、と小町がぼやいた。月見にはよくわからないが、今回の異変は冥界のみならず、完全に別世界である彼岸にまで影響を及ぼしているらしい。
こういってはなんだが……今の月見にはどうでもいいこと、だけれど。
「……ねえ、月見。あんたの気質って、なんだい?」
「ん?」
小町がふと、威勢がよかった声の調子を落とした。彼女には珍しく、気遣わしげに沈んだ声だった。
横目で月見を一瞥して、
「気質ってのは幽霊……言ってしまえば人の本質さ。だから、気質によって変化した天候を見れば、そいつの本質や未来の姿が見えたりする。……気質診断、要は簡単な占いだよ」
言っていることはわかるが、なぜ、急にそんなことを。
小町の答えは、腫れものに触るか否か迷うように、歯切れが悪かった。
「いや……なんか、悩んでるみたいだったから。気休め程度にしか、なんないかもしれないけど」
「……」
悩んでいる――か。
月見は心の中で小さく笑った。そりゃあそうだ。一年に一度あるかないかといっても過言でないくらい、今の月見は悩んでいる。一寸先も見えない霧の中にいるようなものだ。天子のこと、霊夢のこと、紫のこと、そしてなにより、自分自身のこと。天子への助言を誤り、博麗神社倒壊の根本的な原因を作ってしまった、自分のこと。
とりあえず、小町の質問に答える。
「太陽を見てご覧」
「太陽? ……ああ、なるほど」
手を庇にしながら空を見上げた小町が、すぐに納得の声をあげた。空には今も、輝く太陽を丸く囲むようにして、色濃い白虹が浮かび上がっていることだろう。異変が起こり始めてから今までずっとそうだったのだから、今更確認するまでもない。
黙って、小町の診断結果を待つ。
「ふうん、『白虹』ねえ。白虹といえば、」
しかし、そのまま答えへとつながっていくはずだった言葉が、
「ん? ……いや、待って。あれって……」
「……どうした?」
月見は小町を見た。彼女はこちらの問いに答えず、眉根を詰め、厳しい表情をして、睨むように太陽を振り仰いでいた。
つられて、月見も空を見上げた。夏の強い日差しで一瞬視界が白に染まるけれど、すぐに慣れて空の色がわかるようになる。
なんてことはない。普段と変わらない太陽に、見慣れた白虹。異変が始まってから、もう何度も見上げた光景。
だが、
「……ありゃ、白虹貫日じゃないか」
唯一白虹の位置だけが、少し、今までとは変わっている。太陽の周囲を均等に囲んでいた虹の輪郭が、今は一部が太陽と重なっている。
さながら虹が、太陽を貫いているかのように。
小町が顔を歪めた。
「白虹は白虹でも、あれは相当に佳くない。もっぱら、災いの前兆だね。古代の中国じゃあ、白虹は
『白虹日を貫けり』――白虹貫日は古来より、その神秘的な姿とは裏腹に不吉をもたらす前兆である。
おかしい。少なくとも昨日までは、白虹は正常に太陽の周りを囲っていたはずだ。今日になって――博麗神社が倒壊した今日になって、それが変わった。これではまるで、神社の倒壊が月見にとって災いになるとでも暗示しているかのよう――
「――……」
息、が、止まった。
気づいた。
気づいて、しまった。
「まあ、言い伝え、迷信程度のことだけどね。でも今は、気質が天候を変えるという条件下だ。あんたに君主って呼べる存在がいるのかはわかんないけど、とにかく、もしかしたら誰かによくないことがあるかもしれないよ」
小町の言葉がまるで遠くに聞こえる。自分の体が冷たくなっていくのがわかる。なのに心臓だけが焼けるような熱を帯びて、音が脳に反響しそうなほど、激しく月見の胸を叩いている。
考えすぎだと思った。馬鹿げたこじつけだと思った。
君主と呼べる存在なんて、月見にはいないけれど――
けれど、
そんなふざけたことが、あってたまるものかと、笑い飛ばしたかった。
『――月見さん!!』
なのに――なのに、月見の懐から声が響く。交信用の札の片割れを通して、霊夢の、悲鳴にも似た叫びが響く。
『月見さん、聞こえてる!?』
起こってくれるなと、思っていた。頭の片隅で、考えうる限り最悪の事態として想像はしていたけれど、どうか起こってくれるなと切に祈っていた。
『大変、大変なの!!』
信じていたかったのだ。確かにこの現実は、辛いものだけれど。でもあの子は、人間を愛しているから。人と妖怪を共存させるために幻想郷という世界を創り上げてしまうほど、優しい少女だから。だからきっと大丈夫だと。たとえ涙を流しても、
そう、信じたかったのだ。
『お願い、今すぐ来て! 今すぐ来て、あいつを止めて!!』
甘かった。あの子の愛を見くびっていた。月見が思っていたよりもずっと、あの子の愛はまっすぐで、ひたむきで、それ故に危険なものだった。
『じゃないと――』
あの子は、幻想郷を愛していた。
『じゃないとっ……!』
八雲紫は、博麗神社を、愛していた。
『――あの天人が、殺されちゃう!!』
――大切な場所を壊された現実に、怒りで我を忘れるほどに。
「――ッ!!」
もう、余計なことはなにも考えなかった。考えられなかった。あらん限りの妖力を開放する。放たれた妖力は大気の流れを生み、切り裂くかの如き烈風を織り成す。瓦礫の一部が崩れ、小町が瞠目し息を呑むが、意識にも入れない。
飛ぶ。変わり果てた神社の景色も、小町の悲鳴も、心の中に広がっていた迷いすらも、すべてを置き去りにして。
その先に、ただ一つ――
天界だけを、見据えて。