銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方緋想天 ⑥ 「天へ昇れ ①」

 

 

 

 

 

 やっとこさ白玉楼周辺の雪掻きを終えた妖夢を出迎えたのは、幽々子の必殺脳天幹竹割りだった。

 

「いたい!?」

「まったくもう、妖夢~! 遂に最後までこの異変に気づかなかったわね!? このっこのっ」

 

 そのままタックルをくらって押し倒され、馬乗りでおでこをペチペチペチペチ、

 

「ちょ、ちょっと待ってください幽々子様、意味がわかりませ、いたたたっ!?」

「本当にわからないの!? あっきれた!」

 

 ぷりぷり怒っている幽々子曰く、

 

「だ~か~ら~、異変が起きてるのよ! ここでずっと雪が降ってたのはそのせいなんだってば!」

「そ、そうなんですか!? てっきり幽々子様が降らせてるものだとばかり……」

「そうだけど、そうじゃないの~! いくら私でも夏に雪を降らせるなんてできるわけないでしょ!? 異変が起きてるからこそ、こうやってあたり一面まっちろけにできたんだってば!」

「わ、わかりました! わかりましたからやめてくださっいたっ、いたいいたいいたい!?」

 

 ちゃんと雪掻きしなさいって命令したの幽々子様じゃないですか!? と反論したが、当たり前のように無視された。荒れ狂う幽々子の右手は収まることを知らず、絶え間なく妖夢のおでこを強襲し続けている。

 

「不甲斐ないっ! 不甲斐ないわよ妖夢っ、あんなにグダグダしてた霊夢だっていよいよ動き出したってのにあなたはなに!? 今日もせっせと雪掻きだなんて、仕事熱心なのはいいことだけど、そんなんじゃあダメよ!」

「む、無茶言わないでくださいよ~!」

「無茶じゃないわっ。主人の命令をただ聞いてるだけじゃあまだまだ半人前よ! 一人前の従者は、主人の言葉の裏まで読んで自ら行動しないとっ」

「わっ、わかりました! わかりましたから、もう叩くはやめてくれませんか!?」

「妖夢の半人前ーっ!」

「ひん!?」

 

 ベチーン、とトドメの一撃。それっきり幽々子は妖夢の上から降り、頬を膨らませたまま四つん這いで、煎餅の置かれたテーブルまでのそのそと這っていった。

 

「もうっ」

 

 そして素早い手つき煎餅を一枚かっさらい、口の中へと放り込む。バリボリバリボリバリボリと惜しみない咀嚼音が響く中で、妖夢はすっかり赤くなったおでこを涙目でさすりつつ、幽々子の言葉を頭の中で整理してみることにした。

 まあ今になって思えば確かに、夏に雪が降るなんて普通では考えられない異常気象なのだから、まっさきに異変を疑ってもよかった気がする。ちょうど妖夢には、春に雪が降る異変を幽々子とともに起こした前例があるのだし。ただでさえ量が多い掃除洗濯炊事買い物に更に雪掻きまで加わって、毎日クタクタな忙しい日々を送っていたからか、まったく頭が回っていなかった。

 しかし仮に異変だと気づけていたとしても、今の私じゃあんまり力になれないだろうなあ――と、妖夢はすっかり筋肉痛になった両腕をさすりながら苦笑した。剣の修業は、少しの間だけお休みになりそうだ。

 ――バリボリバリボリバリボリバリボリ、

 

「――って幽々子様、一体いくつ食べてるんですか!? お煎餅は一日五枚までですよ!」

「まだ三枚目でーす」

「じゃああと二枚だけ取ってください。残りはしまいますから」

 

 十枚くらいかっさらっていった。

 

「なにしてるんですかあああああっ!!」

「ふんだっ! 今の私は虫の居所が悪いのよっ、もう誰にも止められないわ!」

「自棄食いだけはやめてください! お菓子が! 食べ物が! お金が! エンゲル係数があああっ!?」

「そんなの知りませーん!」

 

 幽々子が煎餅を両腕に抱えて走り出した。妖夢はすぐさま追跡した。

 白玉楼を走り回る二人分の足音が、ひっきりなしに響き渡る。

 

「大体幽々子様、昨日だってお饅頭五つ食べてたじゃないですか! 一日三つの約束なのに!」

「一昨日食べてなかったからその分ですー!」

「一昨日は四つ食べてましたよね!?」

「……」

「待ちなさあああああい!!」

 

 普段から白玉楼の雑用を一手に任されている身であり、更には剣術の道に生きる者であるのも相俟って、鬼ごっこなら妖夢が断然有利……のはずなのだけれど、不思議と幽々子との距離は一向に縮まらなかった。それどころか、ちょっとでも気を緩めるとすぐ引き離されそうになってしまう。運動神経がいいようにはちっとも見えないのに、殊に食べ物が絡む時だけ、西行寺幽々子は驚異的な身体能力を発揮するのである。その実力を剣術稽古の時にも少しは発揮してほしいと云々。

 襖続きの座敷を通過し、渡り廊下を走り抜ける。一足先に突き当たりを曲がって消えた主人の背を追って、妖夢も床板を強く打ち鳴らしながら体の向きを変えた瞬間、

 

「きゃっ」

 

 なにかにぶつかって尻餅をついた。突き当たりを曲がっていきなりで一体なににぶつかるのかと、妖夢がびっくりして目を開けると、そこにはつい先ほどまで追い掛け回していた水色の背中があった。

 脊髄反射で反応する。

 

「あっ幽々子様! やっと観念してくれたんで――」

 

 立ち上がり、前に回り込んで、幽々子が抱いている煎餅たちを取り返す、

 

「……?」

 

 直前にふと、眉をひそめた。幽々子からの反応がない。妖夢が試しに煎餅の一枚を手に取ってみても、まるで微動だにせず、棒立ちのまま。

 普段の幽々子であれば、絶対にありえない反応――。

 

「幽々子様……?」

 

 幽々子は妖夢を見ていなかった。表情を消し、目を細め、冥界の彼方――幻想郷が広がる方角を見(はる)かしていた。

 ――音が、消えていた。

 息をすることすら躊躇われる、体を締めつけられるような静寂だった。妖夢は眦を開いて、目の前に立つ主人から一歩後ろへ、すかさず距離を取った。

 今ここにいるのは、普段から妖夢を困らせてばかりな、自由奔放な亡霊の少女ではない。閻魔王からこの世界の管理を命ぜられた、唯一無二の冥界の姫君。

 その場に跪いた。ひとたび幽々子が『冥界の管理者』の衣をまとった以上、妖夢に余計な口出しをする権利などなかった。ただこうして、片膝をついて、間もなく与えられるであろう命を待つのみ。未だ幽々子の両腕に抱かれる煎餅のことなど、切って捨てるように意識から外した。

 ひらり、桜の花びらの如く舞い落ちた雪が、渡り廊下の上で前触れもなく溶けた。それを繰り返すような声で、幽々子は呟いた。

 

「……そう。やっぱりあなたはそうするのね、紫……」

「……幽々子、様?」

 

 片膝をついたまま、妖夢は幽々子を見上げた。幽々子は今まで見つめていた方角からふっと視線を外すと、手近な襖を開けて座敷に入って、その一角に持っていた煎餅をすべて置いた。

 

「お煎餅、とりあえずここに置いておくから。忘れないでおいてね」

「は、はい」

「それじゃあ、ついてきなさい妖夢。私たちも動くわよ」

「ま、待ってください!」

 

 無礼を承知で、声をあげた。

 

「一体、なにがあったのですか?」

 

 急に追いかけっこをやめて、じっと幻想郷の方角を見霽かすなり、ただ一言、ついてこいと。無論、幽々子にそう命ぜられれば妖夢は付き従うだけなのだが、これでは一体なにがなんなのか、動揺する己の心に整理をつけることができない。

 幽々子は腕を組んで、緩く息をついた。

 

「ちょっと、向こうで面倒なことが起こってるみたいだから」

「面倒……ですか」

「そう。だからちょっと、お友達を助けに行こうと思って」

 

 幽々子のお友達といえば、

 

「紫さん……ですか?」

 

 幽々子は答えなかった。一度、首を振って、

 

「一刻を争いそうだから、今は動きましょう。そのあたりは、行きながら教えてあげるから」

「……わかりました」

 

 ただ……多分、只ならぬことが起こっているのだと思う。幽々子がなにを見たのかはわからないが、大したことでなかったのなら彼女がこんな顔をするはずがない。

 冥界の管理者としての仮面をつけなければならない、なにかがあったのだ。

 幽々子とともに玄関に回り、素早く身支度を整えて、外へ出る。急ぐ中でも、戸締まりだけはきちんと確認して。

 

「行くわよ」

「はい」

 

 すぐに飛び立つ。夏の銀世界が広がる冥界を越え、幻想郷へ。

 心のどこかに感じる病巣のような不安が、どうか杞憂であればいいと、思いながら。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 天界にやってくるのは初めてだった。

 曲がりなりにも博麗の巫女として、幻想郷の雲の果てにそういった世界が存在しているのは知っていたけれど、実際に見るのも足を踏み入れるのも人生初である。ガラスの如く透き通った清流と、虹を砕いてちりばめたような七色の花々。そして神々しい霊力を帯びた桃の木が彩る世界は、芸術的感性に滅法疎い霊夢ですら、思わずため息をつく程度には現実離れしていた。一瞬、遠路遥々こんなところまでやってきた理由を忘れかけたくらいだ。

 美しい景色に見入るのもそこそこに、当初の目的を思い出した霊夢は、目つきを鋭くして周囲を見回した。霊夢たちの体から漏れ出した気質は、最終的にこの天界まで昇ってきているようだった。今はこれといって不審な人影は見当たらないが、気質はなおも、この平原の中心に向けて流れていっている。

 黒幕は近いと、霊夢の勘が告げている。であれば一刻も早く気質の流れを追って、神社を倒壊させてくれやがった犯人の胸倉を絞め上げてからの背負投げに持ち込みたいのだけれど、

 

「……で、あんたはなにダウンしてるのよ」

 

 その、前に。隣を見れば、元気だけが取り柄なはずの普通の魔法使いが、完全にへたり込んでグロッキーになっていた。どこか具合がよくないのか、やけに顔色が悪い。

 

「ちょっと、大丈夫?」

「……むしろ私は、なぜお前が大丈夫なのか訊きたい」

 

 なによそれ、と霊夢は眉をひそめた。それではまるで、体調を崩していない霊夢の方がおかしいみたいではないか。

 魔理沙は息苦しそうに肩で呼吸しながら、呻くように、

 

「一応確認するけど、お前、どこもおかしくないんだな?」

「?」

 

 質問の意味がまるでわからない。

 

「ただ空を昇ってきただけでしょうが。どこがおかしくなるってのよ」

「……あー、くそ。これも才能ってやつなのか? 理不尽だぜ……」

「??」

 

 彼女がなにを言いたいのかさっぱりだが、霊夢は深く考えなかった。大方、毎日暗くじめじめした場所で生活しているものだから、邪気を払う桃の神聖な霊力にあてられたのだろう。妖怪みたいなやつである。

 そんなことよりも、黒幕探しだ。

 

「歩ける?」

「ちょっと休む……。先に行っててくれ。あとで適当に追いつくから」

 

 魔理沙が大の字で倒れて動かなくなったので、そ、と霊夢は素っ気なく回れ右をした。回復するまで待ってやるつもりなど毛頭ない。霊夢の頭の動きは既に、間もなく出会うであろう黒幕との距離を如何に詰め、如何に胸倉を絞め上げるかのシミュレーションに費やされている。

 やはり、発見と同時に一気に掴み掛かるのがいい気がする。息つく暇も与えぬように。そうすればたとえ相手が人外でも、虚を衝かれて反応が間に合わないはず。

 あとは適当に、弾幕でケシズミにすればオーケーだ。

 気質の流れに注意し、七色の花が揺れる天界の平原を進む。草花は、まるで極上の寝具かなにかみたいにふわふわしていて、霊夢の足裏を心地よい感触で押し返してくる。せせらぐ清流の水音は霊夢の心を透き通らせるし、霊気をまとった桃の木の姿は、怒髪天の怒りすら忘れさせそうだ。天人は滅多なことでは争いをしない平和主義者だというが、その理由の一端が、この天界の景観にあるのだろう。これほど神聖に満ちた場所で争うのがいかに無粋な行為なのかは、巫女でありながら信仰心の薄い霊夢でも、直感に近い領域で理解できた。

 まあ、どうでもいいことだ。そう、無粋とかマジどうでもいい。黒幕は絶対に許さん。

 だが、

 

「……にしても、人っ子一人いないわねえ」

 

 天人が住む世界という割には、その天人の姿がどこにも見えなかった。ここは、天界でも人が寄りつかない外れの方なのだろうか。どこまで進んでも、見えるのは草花と桃の木と、清流と霞のかかった岩山ばかり。

 観光に来たんじゃないってのに。

 どこまで行っても変わり映えしない景色に、霊夢が少し、苛々し始めた頃だった。

 

「……あら」

 

 足を向ける先に立つ、桃の木の木陰に、ようやく人影を見つけた。まだ遠目だが、同年代くらいの少女のようだ。両膝を深く抱え込んで座るその傍らには、たった今炉から上げたばかりのように光り輝く、一振りの剣がある。

 自分の体から漏れ出した気質が、その剣に集まっていっているのに気づいた瞬間――霊夢は怒声を張り上げた。

 見つけた。

 

「そこのあんたぁ!!」

「……!」

 

 少女が弾かれたように顔を上げる。霊夢は半ば駆け足で、足元の草花を次々薙ぎ倒しながら、少女との距離を詰めていく。このまま喰ってかかるつもりだった。少女が黒幕だと確定したわけではないが、あの剣が霊夢たちから気質を集めている以上、彼女が異変に関わる重要人物なのは間違いない。胸倉を絞め上げ情報を聞き出し、本当に黒幕ならそのまま背負投げだ。

 そう、内心黒く高笑いしながらやる気満々だったのに、

 

「あ……」

 

 年長者から怒られそうになって、怯える、子どものような。

 そんな顔をされてしまったので、舌の先まで出掛かっていた啖呵が、みんな奥に引っ込んでいってしまった。

 足は、既に止まっていた。

 あくまで、霊夢の経験上だけれど。

 異変を起こす者、或いはそれに協力している者というのは、誰しもが傲岸不遜で、恐れを知らずに霊夢と敵対してくる。紅霧異変のレミリア然り、春雪異変の幽々子然り、永夜異変の永琳然り、みんな意味深な笑顔を張りつけて、止められるものなら止めてみろと言わんばかりに、小生意気に行く手を阻んでくる者たちだった。

 なのに、目の前の少女には、

 

「……あんたが、異変を起こしてる黒幕?」

「っ……」

 

 その強さがまるでない。控えめに尋ねてみても、口を堅く引き結び、沈黙するだけ。膝を抱えて座り込んだまま、立ち上がろうともしない。

 まるで、弱い者虐めでもしている気分だ。

 

「……えーっと、違うなら他当たるけど」

 

 気質を集める緋色の剣という決定的な証拠があるにもかかわらず、一瞬は本気で人違いを疑ってしまったほどだ。彼女が異変に関わる重要人物なのだと、頭ではわかっているのに、適当に謝って回れ右をしてしまいたくなってくる。

 少女の唇が、うなされるように動いた。

 

「博麗、の、巫女」

 

 譫言めいた言葉でも、その声音はまるで竪琴を弾いたように美しかった。

 

「……確かに、私が博麗の巫女だけど」

「……」

「はっきりさせたいんだけど、あんた、異変に関係ある人?」

 

 少女がまた俯いてしまった。かすかに肩が震えている。初対面でこうもあからさまに怖がられてしまうと、いくら霊夢といえど心外である。霊夢はただ、黒幕の胸倉を絞め上げて往復ビンタを喰らわせたのち背負投げしてトドメに弾幕でケシズミにできればいいのであって、別に命まで取ろうとしているわけではないのに。

 だがいつまで待っても答えが聞けそうになかったので、さて他にあたりますか、と踵を返しかけた瞬間、

 

「……私が、異変を、起こしたのよ」

 

 一気に距離を詰めて胸倉を掴み取った。

 そのまま力ずくで引き上げ、無理やり立ち上がらせる。

 

「っ……」

「へえ。あんたが、異変を起こしたんだ」

 

 苦悶に歪む少女の顔など構いもしない。

 

「ってことは、今までの地震もあんたの仕業なのよね」

「……」

 

 ほんのかすかだが頷かれたので、拳に一層の力を込めて思いっきり突き飛ばした。少女が桃の木に背を打ちつける、したたかな音、

 

「ッ……!」

「よくもやってくれたわね!? お陰様で、秘蔵のインスタントお味噌汁が全部瓦礫の下よ! 見つからなかったらどうしてくれるの!?」

 

 つい先日紫が差し入れしてくれたばかりだった、外の世界のインスタント味噌汁を想う。今回は丁寧に箱詰めされた高級ギフトセットで、なんと十種類にも及ぶ多種多様な味噌汁が揃えられていた。一袋当たりの単価は、一般的なお賽銭の金額よりもずっと上。それが一種類三袋で計三十袋なのだから、霊夢には冗談抜きで宝の山に見えていたのだ。

 せっかく、敬虔な思いで神前にお祀りしていたのに。

 

「あああああ思い出したらムシャクシャしてきた! どうしてくれんのよちくしょーっ!」

 

 両手で髪をグシャグシャに掻き乱しながら、霊夢は夏の大空に向かって吠えた。あの高級ギフトセットはもちろんのこと、今となっては、他のインスタント味噌汁たちまで全部瓦礫の下だ。井戸で水汲みをしていた時に地震が起きたため霊夢本人は事なきを得たが、代わりにインスタント味噌汁たちが犠牲になったのだ。

 この行き場のない怒りをどうすればいいのか――否、行き場ならある。この怒りの吐口とするべき黒幕が、目の前にいる。スペルカードを抜き放つ動きに、躊躇いなどあるはずがない。

 

「さあ、ケチョンケチョンにしてやるから覚悟しなさい! 今更泣いて許しを乞うてもムダよ!」

「……ごめん、なさい」

「早くあんたもスペルカードを――なんですって?」

 

 霊夢はひどく眉をひそめた。桃の木に寄りかかったまま、俯き、唇を引き結んで、スカートをぐしゃぐしゃにしながら震えている少女が見える。

 霊夢はため息、

 

「あのね、今更謝ってもムダだって」

「ごめん、なさい……!」

「……だからね、」

「私、本当に、取り返しのつかないことを……っ!」

 

 込み上がってくる感情を懸命に抑え込もうとして、崖っぷちの場所で一進一退の攻防を繰り返す、決壊寸前の声。スカートを握り締める両手が、血の気を失って白くなるほどの。

 

「……、」

 

 続けるはずだった言葉を見失いながら、霊夢はこの光景の意味を考えた。まさか、本当に謝ってくるとは思っていなかったのだ。しかも決してその場凌ぎなものではなく、恐らくは強い後悔と罪悪感に苛まれながらの、聞くに堪えない憐れな懴悔。

 動揺した。大体望んで異変を起こすような連中なんて、どいつもこいつも自己中心的で、自分が悪いことをしているなんて欠片も思っていなくて、こうして霊夢がスペルカードを抜いたって、それすらも一興とばかりに反撃してくる面倒なやつらばかりなのだ。

 レミリア・スカーレットにせよ、西行寺幽々子にせよ、八意永琳にせよ、みんなそうだった。

 だから、今回も当然そうなるものと思っていた。そうなるはずだから、勢いに任せて弾幕を撃ちまくって、多少なりとも怒りを発散できると思っていた。

 なのに、ごめんなさいと、本気で謝られて。

 霊夢は、自分が一体なにをするために天界まで昇ってきたのか、唐突にわからなくなってしまった。

 

「ま、待ちなさいよ。まさか、神社が倒壊したのはただの事故だとでも?」

 

 辛うじてスペルカードを構えた右手だけは下ろさずに、霊夢は問う。少女は頷く。

 

「信じて、なんて言えないけど……。でも、神社を壊すつもりがなかったのは本当なの……! ただあなたに、異変に、気づいてほしくて……」

 

 今回の異変、確かに霊夢は完全に出遅れた。異常気象による連日快晴続きで、暑さにやられ、夏バテを起こし、ろくに空を見上げもせずに、毎日座敷でぐうたら寝返りを打つばかりだった。数日前から小さな地震が頻発しても、大したことないだろうしなにより面倒くさいと自分に言い訳をして、うだうだと腰を上げようともしなかった。

 例えば。

 例えばもしも霊夢が、異常気象や頻発する地震にもっと疑問を持ち、面倒くさがらずに行動を起こしていたならば――

 

「……!」

 

 その可能性に気づいた時、霊夢は体中から血の気が落ちていくのを感じた。スペルカードを構え続けていた右腕からも完全に力が抜けて、地面に向かって垂れるだけの木の枝と化した。

 なによそれ、と――なによそれと、本気で思った。

 

「――お、いたいた。おーい、霊夢ー……って、なんだこりゃ?」

 

 背中の方から、相方の声と足音が聞こえてくる。体調は回復したらしくすっかり元の血色を取り戻した魔理沙が、霊夢の隣に立って、桃の木の袂でただ謝罪の言葉を繰り返す少女を見て目を丸くする。

 

「おい霊夢、なに泣かせてるんだよ。気が立ってるのはわかるが、無関係の相手を泣かせるのはよくないぜ」

「……無関係なんかじゃないわよ」

 

 霊夢は、だらりと垂れた腕に力を込めることもできぬまま、

 

「それどころか、張本人だわ……」

「は? ……張本人って、異変を起こした? こいつが?」

 

 そう。闘う意志ひとつも見せることもなく、涙を忍び、懴悔と謝罪の言葉だけを繰り返す、この少女が。

 

「……おいおい、一体なにがあったってんだよ。お前、こいつになにをやったんだ?」

「なにもやってないわよ……」

 

 そう。霊夢はなにもしていない。少女を突き飛ばし、桃の木に叩きつけはしたけれど、今彼女が涙を耐え忍ぶ理由はもっと別。

 

「……ほんとにどういうことだ? 休んでた魔理沙さんにもわかるように説明してくれ」

「……そんなの、私にだってわからないわよ」

 

 そう。なにがなんだかわからない。少女は霊夢に、異変に気づいてほしかったと言った。だから地震を起こしたのだといった。どうして、気づいてほしかったのか。なぜ、気づいてもらわなければならなかったのか。

 この少女だって、なにか目的があって異変を起こしたのだろう。幻想郷を紅い霧で覆おうとしたレミリアのように。幻想郷中から春を集め、西行妖を咲かそうとした幽々子のように。

 そういった目的を果たすためには、異変の解決役である博麗の巫女など、動かないでいてくれた方が好都合のはずなのに。

 なぜ自分は、この少女に呼ばれたのか。

 問おうと、霊夢は思った。このまま一方的に謝られるだけでは、いつまで経ってもなにもわからないし、変わらない。少女ばかりが罪悪感に押し潰されていく姿など、見ていて面白くもなんともない。

 己の過失に罪を感じるのは勝手だ。事実彼女は、霊夢の住む家を破壊するという、謝罪だけでは済まないことをしてくれたのだから。

 ――だがその結果私に頭を下げるというならば、それ相応の理由と事情をはっきりさせやがれ。

 なにもわからぬまま押しつけられる謝罪の言葉ほど、聞いていて不愉快なものはない。

 

「――ねえ、教えてよ」

 

 故に霊夢は問うた。なぜこの少女は、涙をこらえ、壊れたように謝り続けるのか。そもそも謝るくらいならなぜ、幻想郷で異変を起こしなどしたのか。

 

「ごめんなさいだけじゃ、なにもわからないわよ」

 

 少女の言葉が止まる。

 

「教えてよ。あんたが異変を起こした目的を」

 

 霊夢は深く、息を吸う。

 

「――ねえ。どうして?」

「……」

 

 それ以上、霊夢はなにも言わなかった。言うべきことはすべて言ったから。魔理沙はなにも言えなかった。なにを言えばよいかわからなかったし、口を挟むべきでもないと思ったから。

 そして少女もまた、なにも言えなかった。一度、口を動かそうとした気配はあったものの、霊夢からは見えないなにかが歯止めとなって、結局答えは出てこなかった。

 苛立つほどの沈黙だった。

 

「――言えるわけない……!」

 

 少女が嗚咽とともに大きく息を吸って、両手で顔を覆った。

 それは、拒絶の言葉だった。

 

「こんなの、言えるわけない……ッ!」

「……っ」

 

 絶望的な隔たりを感じた。霊夢には、少女の心がわからなかった。ただ、重く分厚い扉で何重にも覆われ、誰からも見えないように閉ざされていることしかわからなかった。当然といえば、当然なのかもしれない。自分からなにをするでもなく、自然と人や妖怪を周囲に集めてきた霊夢だ。自分の方から歩み寄る術を、霊夢は知らない。

 知らないことを初めて、拳を握るほどに歯がゆいと思った。

 脳裏を、銀の尾を持つ狐の姿が掠めた。人の心を解きほぐす不思議な力を持った彼なら、少女の心の扉を、ひとつひとつ開けていくことができるのだろうか。霊夢が知るべき問いの答えを、心の奥から掬い上げることができるのだろうか。

 爪が肌に痕をつけるほど、強く拳に力を込めた。

 

「……そんなんで、引き下がると思わないで」

 

 なるほど確かに、霊夢に人の心の扉を開けていく力はないだろう。誰かの話を聞くのは苦手。誰かに優しくするのも苦手。そもそも他人に興味がない。そんなスタンスで生きてきた霊夢が今更人を理解しようとしたところで、できることなど高が知れている。

 だから霊夢は、優しくしない。あの銀狐のように、相手の心を少しずつ解きほぐしていくなんて、できっこないから。

 力ずくで、ぶち破ってやる。

 

「納得できないわよ。なんであんたが異変を起こしたのかもわかんないのに、そんな風に馬鹿の一つ覚えみたいに謝られたって、許せるもんも許せないわ」

 

 それこそもう一度、胸倉を絞め上げてでも。霊夢は霊夢なりの方法で、少女から真実を引き出してみせる。

 引き出さなければならないのだと、思った。

 

「教えてもらうわよ、全部。……力ずくでも」

 

 天界にまでスペルカードルールが普及しているのかはわからないが、異変を起こしておいて知らないなどとは言わせない。

 

「私が勝ったら話してもらう。話したくないんだったら、私を倒してみせなさい」

 

 どの道この少女が異変の黒幕である以上、霊夢は闘わねばならないのだ。闘う理由が、異変を止めるためから、真実を問い質すために替わるだけ。

 俯く少女の顔には未だ迷いがあるが、構いはしなかった。その迷いごと、ぶち破ってやるのだと。

 棒切れとなっていた腕に力を通わせ、再びスペルカードを構える、

 

 

「――まあいいじゃないの、霊夢」

 

 

 その、動きが、止まった。止められた。

 背後から肩に伸びてきた、作り物みたいに綺麗な、少女の手で。

 

「――……」

 

 なぜだろう。なぜか霊夢はこの時――心臓が止まりかけたように感じた。不意を衝かれて驚いたとか、怖かったとかじゃなくて、なんの前触れもなく腹を刃物で刺されたような、筆舌に尽くしがたい感情で体が竦んで、一切の動きはもちろん、呼吸までをも止めざるをえなかった。

 肩に乗せられた小さな手を、振り解くことができない。ただ振り返ることすらも、できない。

 

「言えるわけがない理由を、無理に聞き出す必要なんてないわ」

 

 甘い声だった。耳にまとわりつき、甘ったるい粘性をもって徐々に皮膚の奥へと染み込んでいくような。鳥肌が立つくらいに、震え上がるほどに、神経を侵す、甘い声。

 今まで聞いたことがないほど優しいその声音が、なぜかこんなにも恐ろしい。

 

「ええ、理由なんてどうだっていい」

 

 なにも特別なことをしているわけではない。内に秘めた感情を発露するのでもなく、あらん限りの妖力を開放するのでもなく、ただその静かな声音だけで、彼女は万象一切を抑え込んでいる。霊夢も、魔理沙も、少女も動けない。滴り落ちる汗を拭うことすらできないし、しようとも思えない。

 手を乗せられた己の肩が、砂に変わって崩れ落ちそうだと、霊夢は思う。

 

「大事なのは、ただ」

 

 止まっていた呼吸に、体が軋み始めた。だから霊夢は息を吸った。己を抑え込む楔を打ち砕かんと、大きく深く、

 

「――あなたが博麗神社を壊したという、結果だけ」

「――!」

 

 振り返った。振り返ることができた。だがもはや、そこには誰の姿もない。

 

「初めまして、比那名居天子」

 

 既に霊夢の隣を通り過ぎ、少女の目の前まで距離を詰めている。

 

「私は、八雲紫」

 

 なんてことはない挨拶だった。そしてそれだけで終わってくれたなら、一体どれほど幸いだっただろうか。なんだ、考えすぎただけじゃない、ほんと馬鹿みたい、と霊夢は自分で自分を笑うことができた。

 ――八雲紫が、キレて(・・・)いるなんて。

 私の馬鹿な勘違いだったと、笑うことができたのに。

 悲鳴、

 

「――ッ!」

 

 今度こそ、霊夢は彼女の姿を捉えた。八雲紫。強く振り切った右腕に、目に見えるほど色濃い妖力の残滓が残っている。

 

「突然で、悪いんだけど」

 

 少女の体が吹き飛んでいる。蹴り飛ばされた路傍の小石のように、何度も大地を打ち転がっている。

 

「美しく、残酷に」

 

 紫じゃないと、霊夢は思った。彼女は間違いなく八雲紫であり、しかし霊夢が知る八雲紫とは、凄烈なまでに違う。

 妖怪にとっては毒となるはずの、邪気を払う桃の霊力すらも封殺して。

 

「――この世界から、消えて頂戴」

 

 幻想郷の生みの親。霊夢の母親代わり。月見に恋する少女。そのどれでもない。

 幻想郷最強の大妖怪――八雲紫だった。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 なにひとつ理解できていなかったのだと思った。

 所詮はたった一週間そこらの関係なのだから、多くのことを理解できる方がおかしいのかもしれない。けれど曲がりなりにも友を名乗る者として、比那名居天子という少女を、この異変越しに少しでも理解できているつもりだった。

 なにひとつ、理解できていなかった。

 そもそも天子は、自分が異変を起こした本当の目的すら月見に話していない。そして月見は、その本当の目的を聞き出そうとしなかった。その時点で理解など程遠く、すれ違ってしまっていたのだろう。

 

 ――ひょっとすると天子は、霊夢に異変を解決してほしかったのかもしれない。

 

 なんの根拠もないことだけれど、私怨など個人的な感情を除けば、博麗神社に拘る理由などそれくらいしかないように思えた。幽々子と萃香に手痛い完敗を喫したあとも、彼女は妙に霊夢の動向を気にしていた。

 天子は自らが異変を起こした目的を『暇潰し』だと言っていたが、あれは十中八九嘘だ。本当に暇潰しが目的なら、もっと多くの人々に異変を知らしめるべきであり、博麗神社だけを狙って地震を起こす必要がない。

 単純に霊夢と闘いたかったという線も、恐らくない。そんなの、博麗神社に直接殴り込んでしまえばそれで済む話だ。腕試しが目的だとすれば、地震はもちろん、そもそも異変を起こす理由すらなくなってしまう。

 だから天子の本当の目的は、霊夢と闘った、その先にあるもの。

 それが一体なんなのかは、天子をなにひとつとして理解できていなかった月見にはわからない。

 わからないからこそ。

 

「……霊夢。ひとつだけ、頼まれてくれないか?」

 

 握り締めた交信用の札――その霊夢に渡した片割れに向けて、声を飛ばす。自分の口から出てきたとは思えないほど固く、張り詰めた声だったが、特に不思議に思わなかった。むしろ、心が最低限冷静を保っているだけ上々。それだけ事態は逼迫している。

 大妖怪の中でも指折り強大な力を持つ紫が怒り狂えば、人間一人の命など、蝋燭の炎よりも容易く掻き消されてしまうものなのだから。

 札から返事の声が響く。

 

『なに? まさか、手を出すななんて言うつもり?』

 

 札越しに届く霊夢の声もまた、普段の彼女からは想像できないほどに強張っていたけれど、その言葉は月見にとってなによりも心強く響いた。霊夢は、紫を止めようとしてくれている。住む家を破壊した憎むべき相手であるはずの天子を、助けようとしてくれている。

 心が少し、落ち着きを取り戻した気がした。

 答える。

 

「紫を止めろとは言わない。紫がもし本気で――本気で天子に怒っているのなら、人間のお前では絶対に止められない」

『……ちょっと、月見さん』

「――だから、時間を稼いでくれ」

 

 苛立ちを孕んだ霊夢の声を、静かに制して続ける。

 

「今、私は全力でそっちに向かっている。でも、どうしても、どうやっても、あと数分時間が掛かるんだ」

『……』

「お前にとって、その天人は神社を破壊した憎い相手かもしれない。それを承知で、どうか聞き届けてくれないか。私がそっちに向かう間だけ、どうか――」

 

 一息、

 

「――どうか彼女を、死なせないでくれ」

『当たり前でしょ』

 

 即答だった。言われる前から答えを決めていたように。言われるまでもないことだと一蹴するように。

 

『私はね、なにも納得なんてしてないのよ。まだ、あいつが異変を起こした理由も聞いちゃいないんだから。そんな状態で、なにもわからないまま終わらせられるなんて御免だわ』

「……霊夢」

『それに、初めて会った時に約束したしね。……困ったことがあったら、二回くらいなら力になってあげるって。これはその一回目』

 

 顔の見えない札越しでもはっきりと、霊夢が微笑んだ気配がした。

 

『うん。だから、なんとか上手くやってやるわ。本気で怒ってる紫を見るのは初めてだし、ちょっとだけ怖いけど……頑張る』

「……任せて、いいか?」

 

 辛いことを押しつけてしまうと月見は思う。紫の実力がどれほど常識を外れているかは、娘同然に育てられた霊夢だってよく知っているはずだ。藤千代と双璧を成す幻想郷最強。その強大無比なる能力の前では、月見だって無力に等しい。

 そんな相手に時間稼ぎをしろだなんて、とても人間に頼んでいいようなことではないはずなのに。

 

『――任せなさい』

 

 それなのに霊夢は、己の胸を叩くように、力強く応じてくれる。

 

『約束するわ。あいつは絶対に、死なせない。……あ、でもなるべく急いでね、ほんと時間稼ぎくらいにしかならなそうだから』

「……、……ありがとう」

『お礼はあとでたっぷりしてくれていいわよ。……じゃ、そろそろ本格的に割り込まないと危なそうだから。またね』

 

 充分だと、月見は思った。その言葉だけで、今の月見がどれほど救われたか。どれほど心の中で、有り難いと思ったか。理由はどうあれ、天子に死んでほしくないと、ともに願ってくれる味方がいる。それが、こんなにも心強い。

 だからこそ、月見は飛ぶ。視界に映る森羅万象を、すべて背後に置き去りにして。打ちつける風で体が切り裂かれそうになっても、それでもなお速く、月見は一直線に天界へと、

 

 

「――狐火」

 

 

 ひどく平坦な声だった。流れる景色と一緒にして、気にも留めず通り過ぎてしまうほどの。それでも月見が辛うじて反応できたのは、声が聞こえたからというよりかは、獣としての本能が冷たい敵意を感じ取ったからだった。

 

「……ッ!」

 

 目の前を唐紅の大炎が埋め尽くす。躱すには、今の月見はあまりに速く飛び過ぎている。

 当たる――ならば。

 

「狐火!」

 

 月見は尾を振るい、狐火で己の体を包み込んだ。相殺する必要はない。これほどの勢いで飛んでいるのだ、炎に身を焼かれるのは一瞬。その一瞬だけ、凌げればいい。

 抜ける。

 

「ッ……、と」

 

 緋色の残火が散る中で、月見は裾をはためかせながら静止した。着物の随所に焼け焦げた跡。まあ、大した問題ではない。

 それよりも。

 

「……できれば、出会いたくはなかったんだけどね」

 

 消え行く炎が、空に溶け込む赤い花びらとなって舞っている。美しく、そして強力な狐火だった。直撃していれば、月見とて空を飛ぶことすら敵わなくなっていただろう。

 それほどの炎を扱える妖狐など、妖怪の楽園たる幻想郷でも数が限られている。限られすぎて、そのまま名指しで断言してしまえるほどに。

 

「なあ。――藍」

 

 月見が顎を上げて見据える先。天界へ続く(きざはし)を遮るのは、金毛九尾。

 八雲紫の懐刀――八雲藍が、感情の読めない静かな瞳で、じっと月見を見下ろしていた。

 それだけではない。

 

「……橙も」

「っ……」

 

 八雲藍の式神――橙もまた、ひどく思い詰めた顔をして、藍の裾を皺ができるほどに握り締めていた。

 なぜお前たちがここに、と月見は問うたりしない。ここにいて当然なのだ。藍と橙は、八雲紫の従者なのだから。

 

「……さすがですね、月見様」

 

 賞賛の言葉に反して、藍の声音はどこまでも無感動だった。

 

「今の一撃で終わってくれれば、楽だったのですが」

「それはまた、随分と物騒だね」

 

 言われるまでもなく、あの狐火が月見を墜とすために放たれた一撃だったのは明白だ。

 普段であれば、藍が月見に牙を剥くなど考えられないことだけれど。

 

「……ここから先へは、月見様でも、月見様だからこそ、行かせられません。すべてが終わるまでは、どうか」

 

 すべてが終わるまで――紫が天子を裁き終えるまでの、足止め。

 

「……紫の命令か?」

「……いいえ。紫様は、なにも言いませんでした」

 

 すなわち、黙認。半分は紫の意思であり、もう半分は藍自身の意思といったところだろうか。

 彼女たちが、月見と天子の関係をどこまで知っているのかはわからない。すべて知っているのかもしれないし、なにも知らないのかもしれない。だがひとたび紫が天子を裁こうとすれば、必ず月見が止めに来ると、それだけは確信していたのだろう。だから藍は自ら月見の足止めとなることを選んだし、紫もそれを止めなかった。

 月見は緩く首を振って、細く長い息を吐いた。やはり――やはり彼女たちは本気なのだと、諦観するように、理解せざるをえなかった。

 

「少しの間、お付き合いいただきます」

「……」

 

 表面上冷静を装いつつも、月見の胸中には確かな焦りがあった。内心で舌打ちもした。藍の介入は、決して望んでいたことではないが予想はしていたし、実力差に物を言わせて押し通せるとも考えていた。怒りで我を忘れた紫が凶刃を振り下ろしてしまう前に、天子を助けるためには、そうしなければならなかった。

 たとえ藍の背後から、霧の奥から現れ()でるように、十二体の式神が召喚されてもだ。

 

「……お前がそれを使うのは、久し振りに見るね」

「そうですね。確かに、久し振りに使います」

 

 十二神将――六壬占に由来を持つ、かの大陰陽師安倍晴明が使役した式神。蛇の姿をしている者の他、女神の姿、文官の姿など様々だが、共通しているのは、一体一体から大妖怪に匹敵するだけの力を感じることだろうか。

 一対十三――まさに四面楚歌ともいえる状況だが、これでもなお、月見には押し通せる自信があったのだ。伊達に何千も年を食って生きてきたわけではない。紫や藤千代のような常識を逸脱した例外を除けば、月見より右に並べる大妖怪などそうそういない。

 問題なく突破できるはずだった。

 橙さえ、いなければ。

 

「……橙」

 

 眉を歪め、その名を呼んだ。橙は、どれほど過大評価しても『普通』以上にはなりえない幼い式神だ。しかし、だからこそ、藍よりも十二神将よりも、月見にとって厄介なのは彼女だった。

 金毛九尾の藍と、一体一体が大妖怪に匹敵する十二神将が相手だ。いくら月見とて、実力的にも状況的にも、手を抜いて戦う余裕などない。

 では、強大な大妖怪二者がぶつかり合った時、なにも特別なものを持たない普通の妖怪が巻き込まれると、果たしてどうなってしまうのか――。

 苦笑した。

 

「藍……それはちょっとばかり、卑怯じゃないかな?」

「……言ったはずです。ここから先へは、行かせられないと」

 

 答える藍には、わずかだが迷いの色があった。当然だ。あれだけ可愛がっていた式神を、戦いを有利に進めるための盾に使うなど、顔色一つ変えずにできることではない。万が一があった時、橙の負う傷は決して軽いものでは済まないのだから。

 だがそれでも藍は、ただ主人のために、月見を足止めできる最も有効な手段を選んだ。

 さて――追い詰められたなと、月見は思う。月見が取れる選択肢は二つ。足を止めて戦うか、構わずに天界へ突き進むか。

 もし戦う場合――橙を最低限巻き込まないよう配慮しつつ藍を倒すなど、ほとんど無理難題だ。不可能とは思わないが、一分一秒が惜しいこの状況で選ぶべき選択肢ではない。

 なら、二人を無視して突き進むか――だがどうにかこうにか天界に辿り着いたとして、今度は紫を止めなければならない。彼女が怒りで我を忘れている以上、力ずくの強攻策だって迫られるかもしれない。そこに藍と橙まで合流でもしたら、それこそ本当の無理難題だ。

 可能ならば、ここで藍と橙に退場してもらうのが理想なのだ。しかしそれでは、結局馬鹿正直に足止めを食らうこととなってしまい、最悪の場合は霊夢との約束を果たせないかもしれない――。

 

(……くそ)

 

 ここで戦うべきではない。そして同時に、戦わずに突破するべきでもない。まったくもってよくできた状況じゃないかと月見は思う。

 

「――橙!」

 

 一縷の望みに縋るような思いで、橙の名を呼んだ。橙は心優しい妖怪であり、月見を、父親みたいだと慕ってくれていた。そんな相手と対峙しなければならないこの状況を、彼女は心の底から(いと)うだろう。今だって橙は、藍の裾を両手でぎゅっと握り締めて、泣き出しそうな顔で佇んでいる。

 橙だって気づいているはずだ。こうして月見の前に対峙することで、自分は一人の少女を、間接的に殺してしまうかもしれないのだと。

 

「そこを、どいてくれ。……お前だって、気づいているんじゃないのか?」

「ッ……」

 

 橙の瞳が揺れた。小さく息を呑み、唇を歪め身を竦める様は、走った心の痛みに呻いたようでもあった。

 しかし、

 

「ごめんなさい、月見さん……!」

 

 悲痛な声でそう叫んだ橙に、月見はひとつ、緩く息をついた。

 

「これで本当にいいのかは、私にもよくわからないんです……! でも紫様は、藍様は、私なんかよりもずっとずっと頭が良くて、きっと私じゃ思いつきもしないことを色々考えて、その上でこうしてるんだと、思うからっ……!」

 

 藍も橙も、良い意味でも悪い意味でも、主人を想いすぎる式神であった。彼女たちは契約で結ばれた主従の関係であり、そしてそれ以上に、長い年月を掛けて絆を深め合った家族であった。

 善悪ではない。ただ、辛い思いをしているその人の傍にいて、せめて自分だけは、支えてあげたいから。

 

「だから、ごめんなさいっ……!」

 

 だから藍は望んで月見の前に立っているし、橙は望んで藍の傍にいる。

 式神としてではなく、家族としての選択。

 それを、月見にとやかく言う権利などないけれど。

 

(こうなるんだったら、小町も連れてくるべきだったか……)

 

 せめてあと一人味方がいれば状況も変わるのだろうが、望むべくもない。式神を遣いに出し援軍を求めるにしても、やはり一分一秒が惜しい現状、自分一人の力で切り抜けてしまうのが最良。

 やるしかない。

 やらなければ、全部終わってしまうだけなのだから。

 

「……では、行きます」

「……」

 

 感情を押し殺して宣言した藍に対し、月見はただ、己が妖力を開放することだけで応えた。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 月見と交信を終えた霊夢は、すぐさま行動を起こした。札をしまい、代わりにスペルカードを抜いて走り出す。

 紫は、正気かどうかすら疑わしいほど、完璧にキレて(・・・)いる。扇とともに繰り出す斬撃は桃の木を容易く斬り飛ばし、弾幕は大地を抉り取る。こんなことを考えたくはないけれど、恐らく紫は、あの天人を殺そうとしている。

 博麗神社を壊されて、怒りに駆られる気持ちはわかる。実際霊夢も、瓦礫の山になった神社の姿を思い出すだけで、腸が煮えくり返りそうになるのだから。

 しかし、霊夢は知っている。あの天人は、神社を壊してしまった己の過ちを、本気で後悔していた。一言発するたびに命すらすり減らすような、あんなにも痛々しく鬼気迫る謝罪は、とても演技でできるようなものではなかった。

 情状酌量を与えるつもりはない。

 だが最低限の事情も聞かずに一方的に殺そうとする行為が正しいなどと、霊夢は絶対に認めない。

 

「……おい、霊夢!」

 

 走り出すなり、魔理沙に背を呼び止められる。霊夢は立ち止まり、けれど振り返らず、苛立たしい気持ちを抑えながら応える。

 

「なによ? 見りゃわかるでしょ、切羽詰まってるから早くして」

「……本気か? 本気で、あれに割り込むつもりか?」

 

 霊夢とて博麗の巫女だ。妖怪退治の名目で、名も知性もない野蛮な妖怪を退治した経験は幾度もある。

 それとは比べ物にならない。比べようとすることすら間違っている。

 世界が変わり果てていく。清流は斬撃で抉られ流れが曲がり、霞を戴いた岩山は弾幕で砕かれ崩れ落ちる。スペルカードとは根本的に違う、命を奪うための攻撃だ。

 天人の少女がそれらを紙一重で躱し、辛うじて生き長らえているのは、単なる紫の気まぐれでしかない。

 その事実を前に、恐怖がないといえば嘘になるけれど。

 

「……行くわよ」

 

 銀の狐と、約束をした。霊夢の力では紫を止められないけれど、彼ならばきっとできるから。だから彼がここに辿り着くまでの間、時間を稼ぐと約束をした。

 恐怖はあるが、迷いはない。だって月見は、霊夢が任せなさいと答えた時、本当に救われた声をしていたのだ。

 どんなことがあっても泰然自若としている月見の、こういってはなんだが情けない声は、今まで聞いたことがなかった。月見があんなになるまで心を砕く相手なのだ。あの天人は、絶対に悪人なんかじゃない。殺されるなんて絶対に間違っている。

 だから霊夢は迷わない。振り返り、逆に問う。

 

「……あんたはどうするの? ま、怪我じゃ済まないかもしれないし、逃げるなら今のうちだけど」

「ははは、――冗談」

 

 お気に入りの帽子の鍔を掴んで、大胆不敵に笑った魔理沙に、だったら初めから訊くなと霊夢も笑った。

 

「目の前で殺されそうになってるやつがいるのに、放っておけるわけないだろ」

「そういうことよ。……でもほんとにいいの? 下手したら死ぬかもよ?」

「まあ、お前の陰に隠れてれば大丈夫だろ。いくらあいつでも、博麗の巫女のお前にゃあ、あんま手は出せないだろうし」

「ひどいわね。人を盾扱い?」

「援護射撃は任せろだぜ」

 

 上等だ、と頷く。互いの腹は決まった。

 

「う、あぐっ!?」

 

 突き刺すような悲鳴に耳朶を打たれ、霊夢は慌てて正面を向いた。視界の端をなにかが掠める。遂に紫の一撃をまともに受けた少女が、血の気が引くほどの速度で地面を何度も跳ねて転がっていく。

 一体どれほどの力が加われば、人の体とはああも小石のように打ち飛ばされるのだろう。少女の体がようやく止まった時、もう、霊夢の位置からその姿はほとんど見えなかった。

 心底辟易した様子で、紫がため息をついた。

 

「さすがは天人、と言ったところかしら。ほんと、体だけは丈夫なのね」

「っ……」

 

 どこまでも倦いた声で、

 

「でも好都合だわ。あなたにはそれなりに苦しんでもらわないと、私の気が済まない」

「……魔理沙、覚悟はいい? そろそろ行くわよ」

 

 問う霊夢は迷わず、答える魔理沙は躊躇わない。

 

「……ああ!」

 

 宣言する。己のスペルカードを。

 この身を縛りつける恐怖を、力ずくで弾き飛ばすように。

 

「霊符・『夢想妙珠』!」

「恋符・『マスタースパーク』!」

 

 紫は、まさか自分が攻撃されるとは夢にも思っていなかったのだろう、七色の弾幕と極太の光線に、まったく反応することができず、光の中に呑み込まれていく。

 直撃――けれどこんなもの、きっと時間稼ぎにもならない。

 霊夢は祈る。時間は稼ぐと、約束した。けれど、果たしてどれほどの間踏ん張ることができるのか、自分でもまったく想像ができない。

 十分か。

 三分か。

 一分か。

 三十秒か。

 もしかしたら、十秒と持たないかもしれない。

 だから。

 

 ――だからお願い、早く来て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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