銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方緋想天 ⑦ 「天へ昇れ ②」

 

 

 

 

 

「――あんた、なに?」

 

 などと、初対面でいきなり正面切って言われた時のことは、今でも本当によく覚えている。

 百年近くは遡る話だ。衣玖が初めて天子と顔合わせした経緯は果たしてなんだったのか、そこは記憶が曖昧だが、ともかく会った瞬間いきなりこう言われた。どちら様? でも、あんた誰? でもなく、ただ無表情のまま、あんたなに、と。

 比那名居天子はすこぶる唯我独尊で、とにかく傍若無人で、途轍もなく傲岸不遜な少女であった。世界は自分を中心に回っていると、結構本気で思っているらしい節があって、他人など、この言葉からも読み取れる通り、同じ生物として見ているのかどうかすら怪しい。そんな少女だった。

 泣かしてやろうかこの小娘、とプッツンいきかけたのをよく覚えている。空中放電したい気持ちを抑え、なんとか愛想笑いで誤魔化したあの時の衣玖は、もっと賞賛されてもいいはずだ。

 その日の天界は、日差しの柔らかな青空にもかかわらず、どこかの雲でゴロゴロと雷が鳴っていた。

 

 ところで衣玖は、他人があまり好きではない。かといって嫌いでもない。興味がない、という表現が最も正鵠を射る。

 龍宮の使いは生涯のほとんどを雲の中で暮らすので、他人と関わりを持つことに意味を感じていないし、独りでいることを苦痛に思うこともない。衣玖個人ではなく、そもそも龍宮の使いという種族自体が、人との交流を望まない淡泊な性格なのだ。

 そんな龍宮の使いである衣玖が、すこぶる唯我独尊でとにかく傍若無人で途轍もなく傲岸不遜な少女と出会えば、果たしてどうなるか。

 比那名居天子を、『超絶どうでもいいやつ』のカテゴリーに分類した。

 ちなみにカテゴリーは、上から順に『どうでもよくないやつ』『ちょっとはどうでもよくないやつ』『大体どうでもいいやつ』『超絶どうでもいいやつ』『ビリビリ』の五段階である。『ビリビリ』とは、出会った瞬間に感電させたくなるくらい嫌いなやつのことである。

 天子を『ビリビリ』に分類するかどうかは悩みどころだったが、まあ一応、初対面だし良家の娘だし。

 そんな感じで衣玖はそれから一切、『超絶どうでもいいやつ』である天子と関わるのをやめた。元々必要以上の理由で関わるつもりもなかったので、大して差はないだろうが――ともかく初対面でいきなり物扱いしてくれた腹いせに、衣玖もまた、天子を生き物として見ないようにした。まれに偶然顔を合わせても、特に挨拶もなくすれ違うだけ。衣玖は天子を無視し、天子もまた衣玖を無視する。どちらからなにを言うでもなく、自然とそういう関係に落ち着いた。

 

 変わったのは、つい最近のことだった。

 ほんの数ヶ月前である。幻想郷がまだ、過ごしやすい穏やかな春だった頃。その日衣玖は偶然、天界で天子と出くわした。そして、今まで通り一言も言葉を交わすことなく、すれ違ってさようならになるはずだった。

 だがその間際、

 

「おっ……おは、よう」

 

 は? と、総領娘相手になかなか失礼な反応をしてしまったが、うべなるかな。なにせ、衣玖がなにをするでもなく、天子の方から挨拶をしてきたのだから。

 今まで何十年間も、ずっとなにも言わなかったのに。

 耳がおかしくなったのかしら、嫌だわまだ若くてピチピチなのに、とか現実逃避をしていたら、また、

 

「お、おはよう」

「……」

 

 さてこの子は誰だろう、と衣玖は本格的に分析を開始する。外見はどこからどう見ても比那名居天子その人だが、しかし彼女が、知人はともかく衣玖のような他人相手に自分から挨拶をするとは考えにくい。となれば目の前にいるのは比那名居天子ではなく、大人しくて礼儀正しい双子の姉か妹、もしくは今日が新任一日目の影武者かなにかと見なすのが妥当。

 

「あ、あのー……」

「……」

 

 現実逃避もいい加減にしよう。

 わかっている。彼女は間違いなく比那名居天子だ。なぜ今日になっていきなり挨拶をしてきたのかはわからないが、そんな不安げな上目遣いをされてしまえば、とりあえず返事をしないわけにはいかなかった。

 

「ええ、おはようございます。総領娘様」

 

 軽い愛想笑いとともに会釈をすると、たったそれだけのことなのに、天子は一世一代の告白に大成功したみたいになった。

 

「――! え、ええ! おはよう! ございます!」

 

 ……この時彼女が弾けさせた笑顔を、衣玖は未だにはっきりと覚えている。頬や眉のかすかな動き、安堵であふれた息遣い、そのすべてが鮮明に網膜に焼きついている。同性の衣玖ですら、こんな顔で笑えたんだと感心し、見惚れてしまったほどだった。

 その日を境に、比那名居天子という少女は変わった。まるで裏返しになったみたいに、人に対して友好的になった。長らく傲岸不遜だったせいか、その姿は実にぎこちなく不器用ではあったけれど、それでも相手を気遣おうと心を砕く姿勢は、なんとも微笑ましく衣玖の目に映った。

 性格も丸くなった。人の悪口を言わなくなったし、笑顔も増えて、年頃の女の子らしくなった。本当に、姉とか妹とか影武者とか言われた方がまだ納得できるほどの変わり様だったのだ。

 であれば当然、一体なにがあったのか、悪い物でもたらふく食べたのではないか、どこかで頭を打ってネジが外れたのではないかと、天子の正気を疑うのが道理。

 

「総領娘様……大丈夫ですか? 色々と」

「……なんでかしら。なんでかわかんないけど、今すっごく失礼なこと訊かれた気がする」

 

 不服そうな天子の半目はさておき。

 

「でも総領娘様、なんだか今までとは別人みたいですよ」

「わ、悪かったですねー。別にいいじゃない、私にも色々と考えることがあったのよ」

「はあ。それってもしかして、最近妙に地上を覗いてるのと関係あるんですか?」

 

 びくーん、と天子の肩が跳ねた。オマケで、「うえっ」と変な声までついてきた。

 気づいたのはごく最近だ。天子の変わり様があまりにも別人すぎたから、ついつい気掛かりになって後ろを尾けているうちに、日に何度か地上の世界を覗き見しているらしいことに気づいた。

 

「なにか、気になるものでも見つけたんですか?」

「……ま、まあ、ちょっとね。ほんと、大したことじゃないんだけど」

 

 嘘つけ、と衣玖は思う。視線が完璧に宙を泳いでいる。比那名居天子は、嘘をつくのが壊滅的に下手くそだった。

 

「ひょっとして、気になる人でも見つけたとか」

「ぶっ……ち、違っ! 確かにちょっと気になってはいるけど別に全然変な意味じゃなくって、ってなに言わせんのよもおっ!」

 

 総領娘様は案外アホの子、と天子の評価を大幅に書き換えておく。

 ともあれ、果たしてどういう意味での『気になる』なのかは触れないとしても、地上の誰かを観察しているのは間違いなさそうだ。近頃天子の性格が改善されつつあるのも、その人の影響だったりするのだろうか。

 地上ねえ、と衣玖は考える。天子が変わり始めたのは、春がまだとても過ごしやすかった頃。その頃に、幻想郷で話題になった人物といえば――

 

(――ああ)

 

 さほど悩むまでもなく、衣玖はすぐに思い至った。ちょうど衣玖自身も、機会があったら行ってみたいなあと思って、頭の片隅にメモを取っていたのだ。

 

 春といえば、幻想郷に新しく温泉宿ができた。

 そこで亭主を務めているのは、外の世界からやってきたばかりの、銀の狐だという。

 

 

 

 

 

 ◯

 

 

 もちろん、本人に確認したわけでもない一方的な想像だ。けれど、あながち的外れではないし、それどころかど真ん中に大当たりだろうと衣玖は自負している。

 だってそりゃあ、月見と知り合ってからの天子を観察していれば、嫌でも確信せざるをえないというものだ。

 まず、身嗜みが念入りになった。衣玖も同じ女性だし、身嗜みには結構気を遣っている方なので、そのあたりの観察眼は鋭いつもりだ。衣服は皺ひとつないし、髪も一本一本の毛先に至るまでしっかり整えられている。かすかに桃のいい香りがするのは、朝にお風呂に入るか香水をつけるかしたからだろう。月見と会う日の天子はいつもそうだった。逆に、月見と会わない日の彼女からは、桃の香りはしなかった。

 そして、なんというか、とにかく幸せそうになった。今まで笑うことも珍しかった彼女が、鼻歌を交じえながら毎朝ご機嫌に出かけていって、月見と修行をし、毎夕充実感でいっぱいの顔で帰路につく。明日も修行があるのならその後も就寝するまでずっと笑顔だし、修行がなければ段々寂しそうになっていく。修行がない日はどことなくしょんぼりしながら、地上を――多分、水月苑を――眺めている。

 恋愛どうこうというよりかは、憧れの先輩とお近づきになれて舞い上がる新入生みたいな。

 だから衣玖は、天子が緋想の霧を集める異変を起こしても、見て見ぬふりをすることにした。元々異変になど興味がなかったし、幻想郷における異変がどういう趣旨で解決されるのかは知っていたし、そうでなくとも天子と月見をつないでいる唯一の架け橋に、わざわざ口を挟むのは野暮だと思った。

 たとえその結果、緋色の雲が巨大化し、幻想郷を大地震が襲うとしても。

 雲の中で生き、ただ龍神の言葉を人々に伝えることだけを使命とする自分にとっては、些細なこと。

 

「というわけで、さりげなく地震が起きます」

「……」

 

 物言いたげな操の半目を有意義に無視して、衣玖は会釈をした。

 

「確かに伝えましたので。――では次に行きます」

「こら、待て待て」

 

 だが踵を返しかけたところで呼び止められたので、仕方なく振り返った。

 

「なんですか。他にも回らなければならないところがたくさんあるんですが」

「お前さんはほんっとあいかわらずじゃな。物事には順序ってものがあるだろうに」

 

 天狗の大屋敷の一角にある、天魔の執務室だ。いずれ幻想郷を襲うであろう地震の脅威を皆に知らせて回るため、まずは最寄りにあたる天狗の縄張りにまで足を運んだのだけれど。

 要件のみを手早く伝えた衣玖に、書類の山に囲まれた操は不満げだった。

 

「お前さんさあ、要点を簡潔に話すのはいいけど、かといって要点しか話さないってのもどうかと思うぞ。もっとこう、他愛もない世間話をして場の空気を和ませるとか」

 

 なんでそんなことしなきゃならないんですか、と衣玖はため息。

 

「なるべく手短にお願いしますと、あなたの部下さんからお願いをされてしまいまして。実際、無駄話はしない方がよさそうですよね。その書類の山を見る限り」

「むう……」

 

 積み重ねられたりぶち撒けられたりした書類たちで、執務机のスペースはほとんどが制圧されてしまっている。操と顔を合わせて話すのは久し振りだが、馬鹿みたいに仕事を溜め込む悪い癖は一向に改善されていないようだ。

 手短に終わらせていただけると助かります……と申し訳なさそうに苦笑していた、当代の『犬走』である少女の姿を思い出す。彼女も先代同様、自由奔放過ぎる主人の性格に胃をとことん痛めつけられているのだろう。まだ若いのに不憫なことだ。

 

「それにあなたなら、今の説明だけでも充分でしょう?」

「いやまあ、そりゃあそうじゃけどー」

 

 宏観(こうかん)異常現象と呼ばれる、緋色の雲による地震の発生。空を生きる天狗の長を、曲がりなりにも務めている操が知らないはずはない。

 衣玖は素っ気なく言う。

 

「他の天狗たちにも、伝えておいてくださいね。今はまだ普通に毛が生えた程度ですけど、今後の成長次第ではそこそこ被害が出る可能性もありますので」

「ふーん」

 

 背もたれに深く体重を預けた操は、天窓を通して空を見上げる。

 

「そんなところまで大きくなったのか」

「まあ、そういう異変ですからね。いい加減に解決しておくべきだと思いますが、人間たちはなにをやっているんですか?」

「博麗の巫女は絶賛夏バテ中でなー。他のやつらもまだ気づいてないっぽいんじゃよねー」

 

 ペンを鼻と上唇の間で挟んで、

 

「んー、屋敷に被害が出るのは困るなあ。……おーい、椛ー」

 

 パンパン、と手を二回叩けばすぐに、外で待機――というか操が知らぬ間に逃げ出したりしないように監視――していた部下が入ってきた。胃の具合が気遣われる白狼天狗、犬走椛は、まず衣玖に折り目正しく頭を下げてから、次に操には白い目で、

 

「なんですか? 休憩は二十分前にしたばかりなのでダメですよ」

 

 まっさきに休憩を疑われるあたり、この天魔は本当に部下から信用されてないんだなあと衣玖は思う。

 操が椅子にふんぞり返っていた姿勢から飛び起き、その拍子に鼻と唇で挟んでいたペンが床に落ちた。

 

「ち、ちがわいっ、ちょっと大事な話じゃよお。なんでも、近いうちに地震が起こるっぽくてな」

「はあ……?」

 

 一瞬、「仕事をサボる言い訳にしては随分低レベルな……」みたいな感じで白けた顔をした椛は、すぐに衣玖が龍宮の使いであったことを思い出して、ああと納得した。

 

「そういうことですか。じゃあ、お屋敷の補強をしないといけないですね」

「そうそう。だからちょっと、そのあたりの話をみんなに伝えに行かなきゃなんなくて」

「はい、私が手配しておきますね」

 

 操が悲しそうな顔で椛を見た。椛は圧力のある微笑みで応えた。

 

「そうやって仕事から逃げ出そうとしても無駄です」

「ぎ、ぎっくー」

「ダメですよ? 天魔様にはその書類を片付けるという立派な仕事があるんです。地震の件は私の方で処理しますから、天魔様は仕事をしてください」

「ぐ、ぐぬぬ」

 

 山ができるほど仕事を溜め込んでなお隙あらば逃げ出そうとし、そしてそれをあっさり看破されて縄で縛られる操を、衣玖は白い目で見ていた。

 

「はい、ちゃんとお仕事ができるように椅子に縛りつけてあげます。これで大丈夫ですね?」

「儂はお前さんをそんな風に育てた覚えはないぞー!?」

「奇遇ですね、私にもありません」

「も、椛がグレてしまったあっ……! 昔はあんなにいい子で甘えんぼ――って待ってキツいキツいキツい!? いやあああ嫁入り前の体に傷が……だからキツいって!?」

 

 椛の手つきは実に熟練していて、さながら水が流れるようだった。恐らく、何度も同じことを繰り返してきたから慣れているのだろう。先ほど操の目論見をあっさり看破したことといい、椛が『犬走』として優秀であればあるほど、今までにどれだけ苦労してきたのかが察せられて、衣玖はやっぱり不憫な気持ちになった。

 などと同情しているうちに、椛は手早く操を縛り終えていた。

 

「はい、終わりましたよ。それじゃあ頑張ってくださいね」

「く、くそー!? 右腕以外を全部縛りつけるとは、なんと卑劣っ! これじゃあ書類に捺印するくらいしかできないじゃないかーっ!」

「してくださいよ、捺印。今日中に終わらせてくださいね」

「うわーん!」

 

 ところで、もう帰っていいだろうか。

 

「衣玖さん、助けてーっ!」

「……」

 

 助けを求められたので、帰ることにした。

 

「では、私はそろそろ失礼しますね」

「おまっ、無視か!? ああもう、本っ当に淡白なやっちゃな! 儂が憐れじゃないのかー!?」

 

 確かに憐れではある。主に、「こんなのが天魔……」という意味で。

 こんな天魔に振り回される不憫な従者をせめて労ろうと思って、衣玖は椛にだけ向けて微笑んだ。

 

「椛さん、頑張ってくださいね」

「あ、はい! ありがとうございます!」

「衣玖さん儂にもなにか一言!」

 

 操には真顔で、

 

「仕事しろ」

「ひーんありがとうございまーす!」

 

 ちくしょー! と椅子の上でロデオみたいに暴れ回る操を見ていると、本当にこれ以上は馬鹿馬鹿しくなってきたので、衣玖はさっさと次に行こうと思った。

 距離を考えれば、次に向かうべきは河童たちのところだろう。最近このあたりにできたという神社にも、一言伝えた方がいいかもしれない。それが終われば水月苑。ああそういえば、地震が起きたらあそこの温泉にも被害があるかもしれないから、今のうちに入りに行くべきかなあ。

 

「――天魔様」

 

 などと考えながらドアの前まで行ったところで、向こう側から静かな、けれどよく通る芯の太い声があがった。聞き覚えのない男の声だった。

 

「天魔様、緊急の報告があります。しばしお時間を」

「……んあー? なんじゃ、とりあえず入ってこい」

 

『緊急』と聞かされ露骨に嫌な顔をした操が、なんとも面倒くさそうにそう返したので、衣玖はひとまず脇に避けて道を譲る。

 失礼しますと短く前置きし、粛々とした空気をまとって入ってきた男は大天狗だった。女として決して身長の低くない衣玖ですら、高く見上げなければならないほどの大男だ。恐らく、それなりに地位も高い。

 大天狗は、椅子に縛りつけられた操を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに表情を戻し淡々と、

 

「先ほど、子飼いの鴉から報告がありました」

「あーもう、この忙しい時になんじゃよお。大したことないやつならお前さんたちで適当に」

「博麗神社が倒壊した模様」

 

 空気が変わった。

 空気を読む能力を持つ衣玖だからこそ気づけた、などという程度の低い話ではない。肌で感じるのはもちろん、目で見、耳で聞くことすらできそうなほどの重圧。肌が粟立ち体が竦む、世界そのものが変わったと錯覚せしめるまでの、あまりに凄絶な変容だった。

 天ツ風操。

 

「……ふうん?」

 

 口端を曲げて不敵に笑う彼女は、つい先ほどまでのおちゃらけた姿とはあまりにかけ離れている。たとえ瞳に映る姿形が変わりなくとも、映らぬ奥深いところにあるものが、まさしく別人ともいえるほどに。

 

「それは、また」

 

 心に直接刻み込ませるように、ひどく蠱惑的な声だった。

 

「嘘偽りはないか」

「かようなこと、冗談などでは申しますまい」

「そうか。……どれ、椛。縄を解け」

「は、はいっ」

 

 操を椅子に縛りつけた張本人である椛が、完全に萎縮しきっている。縄を解きにかかる動きに、迷いや疑いの類は一切ない。ありえるわけがない。ひとたび操がこの姿を見せたなら、たとえ『犬走』といえども逆らう権利などありはしない。

 どういう芸当かは知らないが、天ツ風操には完全に隔たった二つの顔があることを、衣玖はもう何百年も前から知っていた。天魔とは思えないほど不真面目でお調子者な顔と、天魔という名の重圧をすべてをもって体現する顔。知ってはいたが、実際に切り替わる(・・・・・)瞬間を目の当たりにするのは初めてだった。お陰様で少し気圧されてしまって、心臓の鼓動が速くなっている。

 縄を解かれた天魔は立ち上がり、大天狗へ向けて滔々(とうとう)と問う。

 

「博麗のやつは」

「ちょうど井戸から水を汲む最中だったようで、外傷はありませぬ。それと、ようやく異変に気づいて調査に乗り出したようですな」

「倒壊の原因は」

「明け方、なんでもひどい地震があったとか」

「地震? ……だそうだが、衣玖?」

 

 問われ、衣玖は少なからず狼狽した。――知らない。もちろん龍宮の使いとて、この世で起こる地震を一切合切すべて網羅しているわけではない。前以て警告する必要もない小規模なものは平気で無視するし、本当に小さなものは把握してすらいない。

 だが、建物を倒壊させるほど大規模な地震を見逃すなど、ありえない。

 困惑する衣玖の瞳を見て、ふむ、と天魔は顎に手を遣った。

 

「心当たりなしか。……儂も、今朝に地震があったなどとは初耳だな。椛はどうだ?」

「いえ……私も、心当たりはありません」

「ええ。……妙なことに、地震が起きたのは博麗神社の周辺のみだったとの報告があります。それが真なら、ここが揺れなかったのも道理かと」

「……!」

 

 衣玖は小さく息を呑んだ。自然現象ではありえない、極めて局地的な地震を発生させる。そんな芸当ができてしまう人間に心当たりがあった。

 恐らくそれは、天魔も同じだったのだろう。まぶたを伏せ、吐息し、

 

「……わかった。報告ご苦労だったな」

「ああ、天魔様。僭越ながら、もう一点」

 

 天魔は沈黙を以て促す。大天狗はやはり淡々と告げる。

 

「博麗神社の倒壊を受けて、八雲紫が動き出した模様」

「――……」

 

 その言葉が示す意味を、衣玖は直感的に理解することができなかった。或いは無意識のうちに、理解するのを拒んでいたのかもしれない。

 思考が先に進むのを拒否している。

 倒壊した――否、倒壊させられた(・・・・・)博麗神社を見て、八雲紫が、一体なにをするために動いたのか――

 

「……そいつは、少し不味くないか?」

 

 なにが、不味いのか。

 ぽつりと言った天魔は、まっすぐに衣玖を見て、

 

「衣玖。お主とあの小娘の関係は詳しく知らんが、まったくの他人という訳でもなかろう?」

 

 そうだ。あの小娘――比那名居天子とは、互いに友人と呼び合うほどではないけれど、会えばそれなりに話をするし、衣玖だって、今はもう悪い感情は抱いていない。

 だがそれが、一体どうしたと

 

「あの小娘、殺されるぞ」

 

 心臓を刺されたような気がした。ただでさえ巡りの悪かった思考が完全にシャットダウンした。目の前が真っ暗になった――もちろんそれはただの錯覚だが、脳が目に映るものをなにひとつ認識しなくなったのは確かだ。呼吸の仕方すら忘れて、喘ぐこともできずに、衣玖はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

「――行け(・・)衣玖(・・)

「――ッ!」

 

 けれど不思議と、天魔のその一声で、衣玖はすべてを取り戻すことができた。暗闇に落ちた思考を再起動し、息を吸い、床を強く蹴って駆け出した。

 自分が行って、幻想郷最強の大妖怪相手になにができるのかなど、わかりはしないけれど。

 足下から水が迫り上がるような焦燥の中で、衣玖は生まれて初めて、龍宮の使いの勤めに背くと決めた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 あーやっちまったなー、と霊夢は心の底から思う。紫に向けて弾幕を撃った。直撃した。すなわち、もう後戻りはできないということだ。ここから先は出たとこ勝負。月見が駆けつけてくれるまで、腹を括って時間稼ぎをするしかない。

 後悔はない。だがやはり、心臓の鼓動が速い。

 

「魔理沙、紫見といて」

「おう」

 

 霊夢と魔理沙の弾幕は、同時に叩き込まれたことで図らずとも爆発を引き起こしたが、まさか幻想郷屈指の大妖怪がその程度で倒れるはずもなし。警戒を魔理沙に任せて、今のうちに天子のもとへ駆け寄る。

 紫に散々弄ばれたことで、夏空に虹をかけたようだった服は無惨に擦り切れ、破れてしまっている。しかし紫の言葉通り、体だけは人間離れして頑丈らしく、傷は浅いし意識もはっきりしているようだった。

 霊夢に抱き起こされ、天子は驚愕で目を剥いた。

 

「あなた、なんで……」

「詳しい話はあと! さっさと立ちなさい!」

 

 無駄話に精を出す余裕はない。怪我人を抱えながら戦う余裕だってない。天子には申し訳ないが、痛む体に鞭を打ってでも戦力として役立ってもらわなければ、到底現状を切り抜けることなど――

 

「――ねえ、霊夢。なにしてるの?」

 

 鳥肌が立った。

 耳元。

 

「なんで、そいつを助けようとするの?」

 

 首筋を、蛇が這うように指が撫でた。たったそれだけで、霊夢の体は完璧に凍りついた。

 

「ダメだよ、そんなことしちゃあ……」

 

 指が這い上がってくる。首、頬、目元と近づいてくるにつれて、妙に甘い香りが漂い、意識がぼんやりとしてくる。あ、マズいなこれ、と心のどこかで焦りながらも、体はまるで動かない。気づいた時には、夢に落ちていく直前の、足が地から離れる独特の浮遊感が――

 

「――どっせーいッ!!」

「ッ!」

 

 威勢のよい相方の声が、真っ暗になりかけた霊夢の意識に活を入れた。その途端、漂っていた甘い香りが散り散りに霧散し、真後ろに迫っていた巨大なプレッシャーが、横殴りの打撃音とともに吹き飛んでいったのを感じた。

 箒に跨がった魔理沙が、上空を縦に旋回して霊夢の隣に降り立った。

 

「霊夢、起きろ!」

「ッ……起きてるわよ」

 

 まぶたの上に残る不気味な眠気を、霊夢は強く頭を振って払い落とした。恐らく、相手の意識を断つ力を持った妖術。魔理沙が横槍を入れてくれなければ、とっくにやられていた。

 魔法による障壁を展開した上での、全速力の突進攻撃だった。この状況だから魔理沙とて手加減はしなかっただろうに、吹き飛ばされた紫はすぐに空中で体勢を整え、痛みを知らぬ涼しい顔であっさりと着地してみせた。

 魔理沙が、渋い顔で舌打ちをした。

 

「結構全力でやったんだから、ちょっとは痛そうな顔してほしいんだけどなあ……自信なくすぜ」

「……仕方ないでしょ。相手が相手だもの」

 

 弾幕が直撃し爆発をモロに喰らっても、服の所々が(すす)けただけ。傷らしい傷は、恐らくまったくといっていいほど負っていない。

 所詮スペルカード、所詮弾幕とはいえ、加減を捨てれば相応の殺傷力は発揮できるものだ。いくら体が頑丈な妖怪だって、直撃すれば無傷で済む道理などないはずなのに。

 ひとたび弾幕ごっこという制約を取り払えば、人間と大妖怪という、彼我の実力差がここまで開くのだと――目の前でまざまざと見せつけられて、気が遠くなる思いがする。なるほど確かに、月見が「お前では絶対に止められない」と言い切ったのも納得だ。

 八雲紫は、大妖怪の中でもとりわけ化物だ。人間一人二人が立ち向かったところで、どうにもならないほどに。

 

「……立ちなさい。いつまで私の世話になってる気?」

「う、うん……」

 

 とりあえず、天子を立たせる。天子はまだ今の状況を理解しきれず困惑していたが、痛む体を押して立ち上がってくれた。

 それを魔理沙とともに前に出て庇うと、紫は静かに首を振り、嘆かわしく息をついた。

 

「……あなたたち、自分がなにをしてるかわかってる?」

「わかってるわよ」

 

 霊夢は即答した。それがどうした、と思った。

 

「わかってるわよ。これ以上、あんたの好きにはさせないわ」

「……」

 

 紫が、手にした扇で口元を隠し、目を細めた。そこに浮かんだ感情を隠すように。

 

「どうして、そんなことするの?」

「どうして……? あんたのしてることがおかしいからよ!」

「どうして? なにがおかしいの?」

「おかしいことだらけよ! なんでいきなり、この天人を殺そうとするわけ!?」

「だってそいつは、霊夢の神社を壊したのよ? 私の大切なものを壊したのよ?」

「だから殺すっていうの!?」

「私の大切なものを壊したやつに仕返しして、なにがおかしいの? 悪いことをしたやつを裁いて、なにがおかしいの?」

「……!」

 

 正直なところ霊夢は、まだ心のどこかでは、紫のことを信じたかったのだ。なにか事情があるんじゃないか、とか。話せばわかることもあるんじゃないか、とか。この期に及んでなお甘いことだけれど、それでも紫は、霊夢にとって最も母親に近い存在だったから。

 だが、

 

「そいつは悪いことをした。許せないことをした。だから私は、八雲紫として仕返しをする。幻想郷の管理者として、罪を裁く。……なにも間違ってないでしょう?」

 

 ああ、と霊夢は愕然とした。無駄だと思った。手を伸ばした程度ではどうにもならないほどの隔絶だった。たとえどれほど信じたくとも、認めたくなくとも、やはり目の前にいる八雲紫は、霊夢の知っている八雲紫ではなかった。

 これが、月見のことが大好きなんだと、常日頃から惚気(のろけ)ている少女の言うことなのか――そう思ったら、握り込めた爪が肉を抉るほどに悔しくなって、霊夢は怒りのままに叫んでいた。

 

「わけわかんないっ! なんでその程度のこと(・・・・・・・)で、この天人が殺されなきゃならないの!?」

「……」

 

 紫の反応は静かだった。始めの五秒、紫は指先のひとつすら動かさずに佇んでいた。そして六秒が経ったところでまぶたを下ろし、なにかを諦めるようにゆっくりと首を振って、ひとしきり長く、ため息をついた。

 十秒。

 扇を、

 ――パチン。

 

「――ッ!?」

 

 息ができなくなった。息が止まるほどのプレッシャーが、勢いと物量だけで相手を圧し潰す瀑布のようになって、霊夢と魔理沙の全身にのしかかった。

 膝が折れなかったのは――霊夢たちの抵抗が勝ったからなのか、それとも膝すら折れなくなるほどに、体が氷結してしまっていたからなのか。

 

「……その程度のこと、かあ」

 

 感情の消えた声で、紫が呟いた。

 

「霊夢なら、わかってくれると思ったんだけどなあ……」

 

 深く俯いたその表情は見えないが、霊夢にはわかる。紫は今、なんの表情も浮かべていない。紫の胸の奥底で渦巻いているのは、声や顔で表せるほどなまやさしい感情ではないのだと。

 

「……私はね、博麗神社とずっと一緒に、この幻想郷をつくってきたの。ずっと、ずっとよ。本当にずっと。霊夢だったら、何回も転生しないといけないくらい。……私にとってあの神社は、幻想郷の始まりであって、幻想郷そのものでもあったの」

 

 なにかを言わなければいけないと、霊夢の本能が警鐘を鳴らしている。今ならわかる。霊夢はやってはいけない失言をしてしまった。束の間の怒りに我を忘れ、博麗神社の倒壊を『その程度のこと』と切って捨ててしまった。他でもない、紫にとって我が子にも等しい霊夢自身が。

 だから言い訳でもなんでも、なにかを言わなければならなかったはずなのに、紫の重圧で氷結した体では、ただ乾いた舌で息をすることしかできなかった。

 

「……お、おい。霊夢? 霊夢さん? お前、なんてことしてくれちゃってるんですか?」

 

 魔理沙の言葉遣いが変になっている。冷や汗で顔をぐっしょり濡らして、口の片側だけが釣り針でも引っかけられたみたいにひきつっている。霊夢も同じ顔で笑った。ああやっぱりとんでもない間違いをしちゃったんだ、と泣きそうになりながら笑った。

 天子ひとりを守るだけでよかったはずだ。紫の狙いは天子ひとり。博麗の巫女である霊夢と、その相方にあたる魔理沙は、傷つけることが躊躇われる相手。だから霊夢と魔理沙がともに天子を庇えば、紫にとってこの上ない妨害となるはずだった。

 その関係が崩れた。

 

「でも、そっか。その程度のこと、なんだ。霊夢にとっては、博麗神社なんて、その程度のことだったんだ。そっか、そっか、………………そっか」

「あ、あはは……」

 

 紫の、怒りの矛先が、

 

「霊夢。……霊夢にも、おしおき」

 

 天子から、

 霊夢に、

 

「――ごめん。地雷踏んだ」

 

 須臾。紫が一体なにをやったのかは、霊夢にはわからなかった。油断していたわけではない。見逃したわけでもない。足を前に動かした様子も、スキマを開いた様子もなかったのに。

 気がついた時には、紫が既に手の届く距離にいて。

 一閃、

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 紫の怒りは至極当然のものだ。己の人生でたったひとつ、何物にも代えられない大切なものが、見ず知らずでどこの馬の骨かもわからない他人に破壊されたのだ。

 大切な場所を穢されれば、神様だって怒り人間を祟り殺す。だから同じことをされれば、妖怪だって。

 当然のことだ。だから天子は、決して死にたいと思っていたわけではないけれど、死にたくないと足掻くこともできなかった。それほどまでに打ちひしがれていた。結局月見にすら打ち明けられなかった、バカみたいに自分勝手な願望のために、たくさんの人に迷惑を掛ける異変という手段を選んだ。そして挙句の果てには、故意でないとはいえ博麗神社を倒壊させてしまった。

 もし一歩でも間違えていたら、霊夢は瓦礫に押し潰され死んでいたかもしれないのだ。

 バカすぎて、笑えもしない。

 そんな自分に、死にたくないと、言える権利なんてないんじゃないかと――霊夢に助けられるまでは、そう思っていた。

 住む場所を奪った許せない相手のはずなのに。実際紫が現れるまでは、泣いても無駄だと天子を絶対に許さなかったのに。

 それでも、天子が殺されるのはおかしいと、強い声で、庇ってくれた。だから紫が霊夢までにも腕を振り上げた時、天子は、今だけはすべてを振り絞って足掻くと決めた。

 自分の命を守るためではなく。

 博麗霊夢を、守るために。

 

「せいっ、やあっ!!」

 

 体を蝕む痛みなど気にならなかった。自分の意志で緋想の剣を握り、前へ出て、一気に斬り上げる。霊夢の眼前まで迫っていた紫の扇を、力任せに弾き飛ばす。

 返す刃。

 

「ふっ……!」

 

 斬り下ろす。焦りもなければ動揺もない静かな動きで、一歩退がり躱されるが、そんなのは刃を返す前から想定済みだ。

 振り切った刃の軌跡から、無数の光線を生み出す。

 

「……っ」

 

 ほぼ刃が届くほどの超至近距離で放たれた雨に、さしもの紫も背後へ跳躍した。その隙に呆然としていた霊夢の手を取り、紫から距離を取る方向に駆け出す。

 

「ナイスだ!」

 

 霊夢と一緒にここまで昇ってきた少女――確か、魔理沙といったか。彼女もまた弾幕を放って、天子の後退を援護してくれた。

 しかし――天子は紫を見る。あくまで牽制とはいえ、物量に物を言わせた攻撃が掠りもしない。邪魔な木の枝を躱すような、本当に何気ない表情のまま、すべてを鮮やかにいなされている。弾幕の方が彼女を避けているのではないかと、そんなありえない疑問すら抱いてしまうほどだ。

 

「……お前、傷は大丈夫なのか?」

 

 紫から充分な距離を取り終えると、魔理沙がつと天子の体を一瞥した。気遣いの色はなく、向けられた視線はどこまでも胡乱げだ。

 戦えるのか、と暗に問われているような気がした。端的で、わかりやすい。

 答えた。

 

「大丈夫」

 

 確かに、服はボロボロで見てくれこそひどいものだけれど、傷そのものはさほど深刻ではない。霊夢たちが庇ってくれていた間に、痛みも大分楽になった。妖怪並みに頑丈な天人の肉体の賜物だ。

 大丈夫。戦える。

 

「……ありがとう。助かったわ」

 

 それだけ短く言った霊夢が、握られっぱなしになっていた天子の手を強引に振り解いた。天子を拒絶したのではなく、怪我人に庇われた己の不甲斐なさを悔いているようだった。再び天子の前に立ち、札を構え、縫いつけるかの如く鋭い眼光で紫を睨みつける。

 

「そこまで動けるんだったら、悪いけど手を貸してくれないかしら。このままだと自分がどうなるのかくらい、わかってるでしょ」

「……うん」

 

 殺される……のかはわからないが、無事で済まないことだけは確かだ。それほどに、大切なものを破壊された紫の怒りは深く重い。

 

「……」

 

 紫は、十二分に開いた彼我の距離を詰めようともせず、鼻白んだような目つきでじっと天子たちを見据え続けている。攻撃の意思を見せないのは、いつでも手を下せるのだという余裕の宣言なのか。こうしてただ向かい合って立つだけでも、その圧倒的な存在感は天子の肌を震えさせる。

 三対一でも、この状況を切り抜けるビジョンがまったく浮かばない。

 だから、深呼吸をした。

 

「……霊夢、魔理沙」

「なに? なにか作戦でもある?」

 

 紫から目を外さず問うてきた霊夢に頷き、言う。

 

「二人とも、もう帰って」

 

 絶対に油断が許されないこの状況で、霊夢と魔理沙が、紫から完全に意識を外したのがわかった。

 

「……はあ?」

「なに言ってんだ、お前?」

 

 理解不能。まったく取り合うつもりもない、下らない冗談を一蹴するような態度。それを、天子は少しだけ嬉しく思う。二人が揃って天子を庇い、紫と戦うことしか考えていなかったから、そうやって不可解な顔でこちらを振り返るのだろう。

 その上で天子は、もう一度、

 

「ここから先は、私一人で大丈夫だから。だからあなたたちは、もう帰った方がいい」

 

 ここまで言えば、さすがに二人の表情も強張った。

 

「……自分がなにを言ってるのか、わかってる?」

「死ぬ気か?」

 

 死ぬ気。そうなのだろうかと自問してすぐに、そうなのかもしれないと納得した。死ぬつもりはないが、紫と一対一で戦うという選択は、死神に自ら首を差し出すようなものなのかもしれない。

 納得した上で、

 

「だってあなたたちは、この戦いに関係ない。本来なら、ここに立っている人間じゃない」

 

 これは、天子の罪だ。そして八雲紫は、天子が(あがな)わなければならない罰そのものだ。

 霊夢と魔理沙を巻き込む必要性を感じない。そもそも、自分の願いを叶えるためだけに異変を起こし、その結果博麗神社を倒壊させてしまう過ちを犯した天子に、彼女たちから差し伸べられた手を取る権利があるとは思えなかった。

 なのに図々しくも彼女たちの善意に甘えて、二人をこれ以上の危険に晒してみろ。それでもし万が一のことがあったら、天子はもう救いようのない愚か者だ。自分の利益だけを考えて、平気で他人を利用し傷つける、あの頃の天子と同じままだ。

 もし天子が昔のままの自分であったなら、これ幸いと霊夢たちを盾にしただろう。二人の善意を都合よく利用して、狡賢く保身に走ろうとしただろう。それどころか、博麗神社を倒壊させた己の罪を、罪と認めることすらしなかったかもしれない。

 仮定の話だ。今は違う。

『あの人』の姿を見て、変わろうと決めたのだから。愚かだった昔の自分と、決別しようと決めたのだから。

 

「私は、大丈夫。だから、お願い。もう帰って」

「そっちの方が、私としても助かるわね」

 

 割り込んだ声があった。八雲紫の声は、待ちくたびれたように()んでいた。

 

「霊夢と魔理沙が一緒にいられると、やりにくいことこの上ないし。是非そうしてほしいものだわ」

 

 これは天子と紫の問題であり、そのどちらもが霊夢たちの介入を必要としていない。だから霊夢たちは帰るべきという、至って当然の帰結である。

 紫の扇が、パチンと小気味の良い音を鳴らす。

 

「……そういうわけで、霊夢たちはもう帰りなさい? 他でもない、こいつ自身が望んでいることだもの」

「ええ」

 

 天子は頷く。

 

「気持ちだけ、受け取っておくから。ありがとう」

 

 緋想の剣とともに、前に出る。

 この選択の意味を、天子もなんとなくは理解している。

 最期になるかもしれない。

 だからこそ、自らに誇れない選択はしない。

『あの人』だってきっと、そうするはずだから。

 

「……?」

 

 だが、霊夢の横を通り過ぎたところでふと足が止まった。止められた。袖を引かれている。

 博麗霊夢が、深く俯き、口を引き結んだまま、なにも言わずに天子の袖を掴んでいる。

 

「……どうしたの? 今のうちに早く帰って、」

「バッカじゃないの?」

 

 揺れる声で、断ち切られた。

 少し、間があって、

 

「――なによそれ。バッカじゃないの?」

「……霊夢?」

「バカよ。ふざけてる。バカみたい」

 

 ヒステリーを起こした子どもみたいなことを言う。

 また、肩を震わせながら息を吸う間、

 

「なに、一人で勝手に決めてんのよ。本来ならここに立っている人間じゃない? なによそれ。なに勝手に決めてんの」

「……でも、実際そうでしょう? 私が、あなたの神社を壊すなんてバカな真似をしていなければ、」

「――ここに立っているべき人間だとかどうだとか、そんなのどうだっていいのよ!!」

 

 殴られるように、胸倉を掴まれた。霊夢が顔を上げた。眉間にひどい皺を寄せて、歯を剥き出しにして、博麗霊夢は怒っていた。息を呑むほど近い距離で、天子に怒声を張り上げた。

 

「あんたは知らないだろうから、教えてあげるわ! 私はね、あんたを守れって頼まれてるのよ!」

「え、」

「誰にだと思う!? まさかわからないなんて言わせないわよ!」

 

 鼓膜が痛み脳が痺れる中、天子の意識の片隅で、銀が揺れた。天子が知り霊夢が知る『誰か』など、それしか心当たりがなかった。

 

「その人が、どれだけ必死な声で私に頼んできたかわかってる!? 私が頷いた時、どれだけ救われた声で、『ありがとう』って言ったかわかってる!?」

「……ぇ、あ」

 

 期待がなかったと言えば嘘になる。もしかしたら、ひょっとしたらと、甘えるように考えてしまったことがあったのは事実だ。

 だが、すぐに首を振って否定した。確かに天子の知る『彼』ならば、どんな事情があれ友人を無言で見捨てる真似はしないだろう。しかし、怖かった。駆けつけた彼が天子の味方をしてくれるとは限らない。博麗神社を破壊してしまった過ちを、紫とともに糾弾するかもしれない。それは嫌だった。すごく嫌だった。想像するだけで泣いてしまいそうになったのだ。もし本当に現実になってしまったら、きっと天子の心は耐え切れずに壊れてしまう。

 嫌われたくなかった。

 だからわざと、考えないようにしていたのに。

 

「あああぁぁぁぁぁもうッ、あっきれた!! 本ッ当に、呆れ果てるくらいの自己満足だわ!!」

 

 天子の胸倉を掴むのとは逆の手で髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、霊夢が吼えた。体を越え、心を貫き、魂にまで刻みつけんとするように。

 

 

「あんた、自分がどれだけ月見さんから想われてるのか、全ッッ然気づいてないでしょ!?」

 

 

 天子の目の裏に広がる神経がすべて、焼かれたように一気に熱くなった。それがあんまりにも痛かったから、いつの間にか涙がにじんだ。

 

「いるのよ、あんたを助けたいと思ってる人が! いるのよ、あんたに死んでほしくないと思ってる人が! ――いるのよ! あんたを助けに、全力でここに向かってきてくれてる人がッ!!」

 

 言葉が出てこない。同時に、なにかを言おうとも思わなかった。懸命に唇を引き結んだ。そうしないと、嗚咽がこぼれてしまいそうだったから。

 天子にとって、すべてのきっかけとなってくれた人が。

 月見が。

 天子を、助けようとしてくれている。

 

「私はね、あんたを守るって月見さんと約束したの! なのに今更どの面下げて帰れっていうのよ! 帰り道で月見さんとすれ違った時、どうやって言い訳すればいいのか教えてくれる!?」

 

 霊夢の叫ぶ一言一句が、今までに体験したことのない未知の鼓動を以て、天子という少女の一番深いところまで浸透していく。心が震え、肌が粟立ち、意識が白熱する。頬を伝った一雫には、命の、熱さが宿っている。

 キンキンと悲鳴を上げる鼓膜の痛みも、胸倉を掴まれたまま激しく揺すられる痛みも、あいもかわらず焼けるような目の奥の痛みも。

 そのすべてが、天子という少女の中で鼓動を刻んでいる、命の痛みだった。

 

「さあ、どう!?」

 

 だから、

 

 

「――『もう帰って』なんて、もっかい言えるもんなら言ってみなさいッ!!」

 

 

 ――今までの人生で一番、死にたくないと、思った。

 随分と長い間、黙ってしまっていたように思う。無論それは、十秒にも満たないような僅かな時間だったけれど、天子にとっては十分にも一時間にも感じられるほど、途方もなく尊い時間だった。

 

「……そっ、か。月見が、来てくれてるんだ」

 

 本当は不安に思っていたのだ。自分と月見は、本当に友達なのかと。月見はとても優しい性格をしているから、ひょっとしたら嫌々天子に付き合っていたんじゃないかと。友達なんて、社交辞令みたいなものだったのではないかと。

 けれど月見は、やっぱり月見だった。やっぱり彼は、天子が憧れた通りの彼だった。

 涙と一緒に、笑った。

 

「……どうしよう。なんかそれ聞いたら、本当に、どうしようもないくらいに死にたくなくなっちゃった」

 

 月見に会いたい。会って、『ありがとう』を言いたい。応援してくれてありがとう。友達になってくれてありがとう。私を変えてくれてありがとう。

 そのために霊夢たちの力を借りたいと願う天子は、愚かだろうか?

 

「どうしようもなにも、それでいいのよ」

 

 ハン、とうんざりしたように鼻で笑って、霊夢が天子の胸倉から手を離した。

 

「まったく、ようやく話がまとまったわね。まあ少しは時間稼ぎになったからいいけど。……魔理沙もいいでしょ?」

「んあー? なんだ、話は終わったか?」

「んあーって……あんた、話聞いてた?」

「まあ、半分くらいはな」

 

 霊夢の半目が魔理沙の背に突き刺さった。……そう、背だ。魔理沙は天子も霊夢も見ていなかった。油断のない構えで、じっと正面の紫を見据え続けていた。

 

「お小言はなしだぜ。お前らがあーだこーだやってる間、私はあいつを見張ってやってたんだからな。むしろ感謝してくれ」

「あらそうなの、ご苦労様」

「まったくだぜ。敵が目の前にいるってのに、よくあんな堂々と立ち話ができるもんだ」

 

 そこでようやく天子は疑問に思った。魔理沙の言う通り、今は目の前に戦うべき相手がおり、ここは紛れもない戦場なのだ。いくら魔理沙が気をつけてくれていたとしても、紫が口のひとつも挟んでこなかったのはなぜなのか――

 

「……そう。やっぱり、月見はこっちに向かってるのね」

 

 紫は、その瞳になにも映していなかった。まぶたを下ろし、感情の読めない口振りで、今しがた霊夢が告げた事実を反芻させていた。

 眉をひそめたのは霊夢だ。

 

「……なに、あいつ。月見さんが来てるってわかってたのに、随分余裕なのね」

 

 天子は、月見と紫の関係を詳しく知らない。しかし紫は、霊夢の叫びを聞くまでもなく、月見がここに向かってきていると予想していたようだった。それを考えれば、お互いのことをよく理解し合った、親友とも呼べる間柄なのかもしれない。

 そんな親友が、自分ではなく、大切なものを壊した憎い敵を助けようとしている。信頼できる友との対立。いくら妖怪の賢者たる八雲紫であっても、動揺しないはずがないのに。

 なのに目の前の紫は、あまりに落ち着きすぎている。

 紫が静かに言った。

 

「……月見なら、来ないわ」

「……え、」

「藍と橙がお話(・・)に行ったから。だから来ない」

 

 霊夢と魔理沙が、隠そうともせず舌打ちをした。藍と橙という名が誰のものなのかは知らないが、紫の言う『お話』が文字通りの意味ではないことくらい、天子にだって容易に理解することができた。

 即ち、足止め。

 月見が駆けつけるだろうことは予想済みだった。霊夢や魔理沙だけでなく、無二の親友にまで立ち塞がられてしまえば、いくら紫でも分が悪すぎる。だからどうか、すべてが終わるまで天界に近づけないようにと。

 

「――それがなによ。月見さんは来るわ」

 

 しかし、霊夢の否定は速かった。月見がやってきてくれることをなにひとつとして疑わない、強くまっすぐな言葉だった。

 

「約束したもの。だから絶対に来てくれる」

「……どうかしら。いくら月見でも、そう簡単には行かないと思うけど」

「あら、不思議ね。私にわかるんだから、あんたにだってわかるものと思ってたけど」

 

 笑みすら、見せて。

 

「月見さんは、こういう約束を破ったりなんて絶対にしない。違う?」

「……」

 

 紫は、答えなかった。……なにも言い返せなかったように、天子の目には見えた。

 

「当たりでしょ? じゃあ、やっぱり来てくれるわよ」

「同感だな。『悪い悪い、遅くなった』とか言って、すぐにひょっこりやってきてくれるだろうさ」

 

 それが本当に、心の底からその通りだと思えたから、天子も自然と笑えていた。もしかしたら殺されてしまうかもしれないのに、月見のことを想うと全然怖くなくて、それどころかこうやって笑顔すら浮かべてしまえる。

 やっぱり、月見はすごい。

 私が憧れた人は、本当にすごい。

 

「……そう」

 

 紫の声は、冷えていた。しかしそれは、にじみそうになる感情を必死に押し殺し、冷静を偽ろうとした不完全な声だった。

 だからこそ天子は、なぜ紫がここまで落ち着いているのかを唐突に理解できた。

 紫は、葛藤している。それが友と敵対することへの恐怖なのか、友が敵対したことへの悲嘆だったのかはわからない。だが紫の心の中ではなんらかの感情が氾濫を起こしかけていて、それを必死に悟られまいとするがために、体が不自然なまでの落ち着きを見せていたのだ。

 そして紫は恐らく、その内なる感情を封殺した。

 

「――じゃあ、その前にさっさと終わらせましょうか」

 

 直後に放たれた桁違いの妖力は、悪寒を越えて、肌が痛みすら覚えるほどの重圧となって天子たちを襲った。

 

「……ッ!」

 

 地の唸る音が聞こえる。圧倒的な妖力の波濤が、かすかではあるが、天界の広大な大地を確かに震わせている。

 多分、紫は――覚悟を決めた。

 

「……例えば遠い昔、幻想郷がまだ影もなくて、妖怪たちが日本中を跋扈(ばっこ)していた時代のことだけど」

 

 感情を封殺し切った声音で、紫は言った。

 

「当時の人間たちもね、私たち大妖怪を倒そうとしたことは何度もあったわ。陰陽師に修験者、お侍さん。数十なんてのじゃ利かないくらいの人数で討伐隊を組んで、万全を期して大妖怪に挑んで……でもそれでも、人間たちが敗れることも珍しくなかった」

 

 大妖怪と呼ばれる相手に、挑む。

 

「……霊夢、魔理沙。最後に訊くわ」

 

 その意味を問う、最後通告だった。

 

「――その選択で、本当にいいのね?」

「あんただって聞いてたでしょ。私は月見さんと約束してんの」

 

 即答であった。

 

「任せときなさいって、大口叩いて言っちゃったのよ。ダメでした、じゃあ立つ瀬がないでしょ」

「私は別に約束なんざしてないが、まあ、今更帰るのも後味悪いしな」

 

 もう帰れとは言わない。今更天子がなにを言ったところで、霊夢たちは絶対に引き下がらないだろう。霊夢は荒っぽくて向こう見ずだし、魔理沙は人を喰ったように飄々としているけれど、さすが月見の知り合いだけあって、二人とも根は心優しい少女たちだ。

 だから天子は、二人を守る。それがいずれやってきてくれるであろう月見のために、天子ができること。

 そして、『ありがとう』を言うんだ。今まで全部の『ありがとう』を言って、今度こそ本当のことを言おう。天子が異変を起こした本当の理由も、その理由に至るまでに歩いた道も、すべて。

 それさえできれば、どんな罰でも甘んじて受けよう。

 だから、ねえ、月見。もう一度だけ、あなたに会いたいって、願ってもいいのかな。私を助けたいと言ってくれた、心優しいあなたに。

 

「月見さんが来るまで、なんとしても堪えてやるから」

「窮鼠猫を噛むって言葉もあるしな。楽に行くと思うなよ」

 

 霊夢と魔理沙が、霊力と魔力を解放する。無論、紫の重圧を真っ向から跳ね返せるほどの力はなかったけれど、それでも天子にとっては震えるほどに頼もしかった。

 たった、二人。

 でも、二人もいてくれる。月見も入れれば三人だ。頼もしすぎて、どんな強敵だって撥ね除けられそうじゃないか。

 その気持ちを疑いはしない。今は疑わなくていい。自分を信じろ。霊夢を信じろ。魔理沙を信じろ。月見を信じろ。紫なんてあっちいけだ。

 緋想の剣を渾身の力で握り締め、霊力を解放。三人分の力の波濤は、ほんの一瞬だけ紫の妖力を押し返したが――完全に拮抗するには、あとほんの一歩だけ足りない。

 

「くっ……!」

 

 これが、大妖怪。人間と一線を画した妖怪から、更に一線を画して進化した存在。霊力や妖力の大小だけで勝敗が決まるわけではないが、相手の力に呑み込まれれば精神は瞬く間に摩耗し、体の動きはひどく鈍る。

 紫の妖力が、更にその重圧を増した。

 

「ッ……わかってはいたけど、やっぱり無理か!」

 

 霊夢が吐き捨てた。

 

「魔理沙、砲撃! 呑み込まれるより先に、こっちから仕掛けるっきゃないわ!」

「任せとけ!」

 

 紫の妖力は天子たちの霊力を見る見るうちに押し退け、戦場を制圧しようとしている。魔理沙が小型の八卦炉に似たアイテムを構え、紋様が描かれた先を紫に向ける。一度天子を救ってくれたあの巨大な熱光線で、迫り来る妖力の土手っ腹に風穴を空ける。

 しかし。

 

「――?」

 

 八卦炉のチャージが完了するよりも先に、天子の背を押すもうひとつの妖力があった。

 

「――ああ、よかった。どうやら、間に合ったみたいですね」

「……この、声……!」

 

 天子は息を呑んだ。感じたことのある妖力に、聞き覚えのある声。しかしそこから導き出される名前を、俄に信じることができなかった。

 人のためになにかをするような、善意のある妖怪ではなかったはずだ。傲慢で人を見下しているのではなく、純粋に自分以外の他人に興味がなくて、ただ龍神から受けた命令を履行するだけ。何度か話をしたことはあるが、言動はどこか機械的で慇懃無礼。顔を合わせるのは大抵が偶然のすれ違いで、プライベートな理由で待ち合わせたことなど一度もない。

 そんな、彼女が。

 

「随分と大事になってるみたいですねえ。……私の名前、覚えてますか? 別に覚えてなくてもいいですけど」

 

 正直言って苛々することも多かった歯に衣着せぬ物言いに、こんなにも心が(たぎ)るのは初めてだった。

 

「お久し振りですね、総領娘様」

 

 なにか返事をしなきゃと思うのに、込み上がってくる感情を抑えるのに精一杯で、いつまで経っても口ひとつ動かせない。

 絹のように薄い雲をまとい、緋色の羽衣をなびかせて、天よりも更に高いところから降りてくる――龍宮の遣い、永江衣玖。

 その姿があんまりにも美しかったから、私なんかよりもよっぽど天女みたいじゃないかと、天子は涙のにじんだ視界で思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 金と銀が交錯する。

 緋色の空に金色の稲妻が走れば、迎え撃つように銀の光が瞬き、衝突し、弾ける。飛び散った妖気の残滓は刹那の炎となって、緋色の空を彩る星屑となる。

 月見と藍の戦いは、拮抗していた。黄金色の九尾によって展開される藍の苛烈な攻撃を、月見は同じく九つの尾でやり過ごし、息つく暇もない連携を見せる十二神将には、残りの二本で対応する。

 今日ほど、己の十一尾をありがたいと思ったことがあっただろうか。

 とは、いえ。

 

「――!」

 

 この圧倒的に不利な状況で墜とされずにいるだけ大したものなのだろうが、そうやって時間を重ねれば重ねるだけ、月見の心には焦燥が募った。

 少しずつ、少しずつ、近づけてはいるけれど。

 空の彼方は、未だ途方もなく遠い。

 

「ッ……!」

 

 上下左右から迫ってきた金毛九尾を弾き、背後に回り込んできた十二神将の一体を狐火で焼き尽くすと、ふと、藍からの攻撃が途切れた。

 月見と対峙する先で、藍はため息をつくように微笑んでいた。

 

「……本当に、さすがですね。月見様」

 

 表に浮かぶ表情こそ控えめだったが、心から、感服したような声だった。

 

「こんなにも、私に有利な条件下なのに。……正直、勝てる気がしません」

「……そうかい」

 

 そんなことを言って、どうせ勝つ気などないのだろうと月見は思う。藍がこの場に立ち塞がる目的は、あくまで足止めだ。月見を倒すことではない。

 

「……月見様。どうか退いては、くれませんか」

 

 藍は祈るようにそう言った。

 

「私は、月見様と戦いたくありません。……橙だって」

 

 常に藍の傍に付き従い、月見の反撃を封じ込める最大の障害となっている少女は、戦闘が始まる前からずっと泣きそうな顔をしている。

 月見は苦笑、

 

「だったら、お前たちの方からどけてくれると助かるんだけどね」

「……それは、できません」

 

 唇を噛み、きつく拳を握り締める。そうやって胸の中で渦巻く感情を抑え込んで、藍は言う。

 

「私は紫様の式です。今の紫様の気持ちが、私には痛いほどに理解できるんです」

 

 それは決して比喩などではない。藍ほど高度な式神となれば、主人の心理状態をある程度共有する力をも備えている。たとえ主人の命令がなくとも、その危機を自ら察して、助けに行けるように。だからこそ主人が抱いた悲しみを、意図せずとも共有してしまうことだってあるだろう。

 

「博麗神社を壊されたことが、紫様にとってどれほど辛く、悲しいことなのか。……月見様にも、わかるでしょう?」

「……ああ」

 

 月見だって、紫がどれほどの悲しみを抱いたのかは理解しているつもりだ。月見は彼女の式神ではないが、それ以上に、付き合いの長い友人だから。

 少なくとも月見がかつてここで生活していた500年前ですら、紫は博麗の巫女を我が子のように可愛がり、博麗神社を我が家のように大切に想っていた。だから普段はどうしようもなく面倒くさがりな彼女が、自ら結界を張ってまで神社を守護していた。月見が今まで幻想郷を離れていた年月でも、それは変わらなかったことだろう。

 心はもちろん、体すら抉られた心地がしたはずだ。幻想郷の始まりから、ずっとともに歩み続けてきた博麗神社が。謂わば自らの半身といっても過言でなかったはずのそれが、無惨に崩れ果てた意味のない瓦礫と化した時。

 

「……もうすぐ終わります。紫様も言ってました。そうしたら神社を建て直して、それで全部元通りだって」

「……」

 

 紫の気持ちは理解できるつもりだ。紫のためにこうして月見の前に立つ藍の気持ちだって、理解できるつもりだ。紫たちは間違っていない。唯一無二の大切な物を破壊された時、抗いがたい憎しみを覚えるのは正当な感情だ。その憎しみを晴らすために報復に打って出るのも、生物として本能づけられた普遍の感情だ。

 わかっている。

 けれど、だからこそ、どうしても納得が行かなかった。

 

「……なあ、藍。全部元通りになるって、お前は言ったよな」

「はい。なにも変わりません。異変を終わらせて、博麗神社を建て直せば、なにも変わらずに――」

「女の子が一人死んでいるかもしれないのに、なにが元通りなんだ?」

 

 藍が、息を詰まらせた。

 

「お前だって、お前だからこそ、わかっているはずだ。紫が天子に下そうとしている裁きとやらが、一体どういうものなのか。……それで異変を終わらせて、博麗神社を建て直せば元通りになるだなんて、私には到底思えない」

 

 冷淡な言い方だけれど、壊れた神社は元通りにできる。元通りにできるならば、倒壊によって人々が受けた怒りや悲しみも、時間を掛けて癒していくことはできるだろう。

 だが、失われた命は決して元通りにならない。元通りにならない以上、人々の心に空いた喪失の孔を、どうやっても癒していくことなどできはしない。月見はそれを知っている。至上の友であった神古秀友との寿命の差を、月見は今でも本当に惜しかったと思っているし、『銀山』が死んだと思い込んでいた輝夜は、だからこそ『月見』が生きていたと知った時に、心からの涙を流した。

 天子の命は、もはや天子一人だけの命ではない。

 だから止めたかった。紫に問いたかった。お前の怒りは正しい。報復に打って出る感情も正しい。けれどそれで天子の命を奪ってしまうところにまで、なにひとつ顧みないまま走っていってしまっていいのか。

 お前の目の前にいる、我が子のように愛しい少女が、やめてくれと叫んではいないか。なぜ霊夢がやめてと叫ぶのか。そして、なぜ私がお前を止めようとするのか。目の前にある光景の意味を考えることすら放棄して、比那名居天子という少女をなにも知ろうとしないまま、憎しみにだけ囚われてしまっていいのか。

 

「教えてくれないか、藍。私にはどうしてもわからない。女の子が一人死んでるのに、それでどうして元通りになるのか、教えてくれないか?」

「っ……」

「私は、真実を知りたい。なぜ天子が博麗神社を倒壊させるなんて真似をしたのか。そこに悪意はあったのか。……なにか、運の悪いすれ違いをしているだけではないのか。そのために、紫を止めないといけない」

 

 だから、

 

「……行かせてくれ、藍」

 

 藍は答えなかった。砕け散りそうなほどに拳を握り、俯き、歯を軋らせ、耐えがたい葛藤と必死になって戦っていた。傍らの橙が、揺れる瞳で主人の横顔を見上げた。せめぎ合う藍の心を気に掛けているようでもあったし、どこか、これ以上誰も傷つかないで済むことを祈っているようでもあった。

 しかし、

 

「――十二神将」

 

 藍が小さく呟いた直後、その背後に控えていた式神たちが一斉に再生を始めた。傷ついていた者は元の姿を取り戻し、月見の狐火で依代を焼かれ消滅していた者には、新たな体が与えられる。

 完全無欠の十二神将が、再び月見の行く手に立ち塞がる。

 

「……藍ッ!」

「でも!! ――でも私は見たんですよ、紫様が泣いていたのを!!」

 

 返ってきた声は、悲鳴にも近かった。

 

「これが天災だったなら、私も、紫様も自分を納得させることはできたでしょう! でも博麗神社は、壊れたのではなく、壊されたんです! あの時紫様は泣いたんじゃない! 泣かされた(・・・・・)んですよ、あの天人に!!」

「……!」

 

 だからこそ藍は、月見の前に立つことを選んだ。式神として、紫の助けになりたかったのは紛れもない事実。しかしそれ以上に、ともに幻想郷を創り上げた家族として。

 紫を悲しませた天子のことが、許せなかったのだ。

 

「だから、私は! ……私、は……っ!」

 

 八雲藍は止まらない。金毛九尾が揺らめく。十二神将が構える。

 なんとなく、確信があった。このまま再び戦いの火蓋を切って落とせば最後、藍は月見を倒すか、自分が倒れるかするまで絶対に止まらない。だからこの瞬間は、藍を言葉で止める最後の隙だった。

 

「……」

 

 しかし月見はなにも言わずにまぶたを下ろし、ひとつ、細く長い息をついた。その行いの善悪を度外視して、本当に素晴らしい式神だと思った。心から主人に共感し、主人を助けるために自ら考え、同族と敵対することも厭わずに、主人だけを想ってその力を振るう。すべての式神の規範ともいうべき、絵物語のような従者の姿が、今月見の目の前にある。

 無理だ。

 月見では、藍を絶対に止められない。

 倒すしかない。それ以外の方法では、藍は絶対に止まらない。

 完膚なきまでに、理解した。

 だからこそ、微笑み、呟いた。

 

「――お前が来てくれて、本当によかった」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 十二神将が、一体残らず消滅した。

 直接その光景を見て確認したわけではない。しかし『式神を操る程度の能力』を持つ藍は、振り返るまでもなく直感した。背後に待機させていた十二体の式神がすべて、一瞬で消滅し、吹かれれば飛ぶだけのただの紙片へ返ったのだと。

 

「――なっ、」

 

 硬直した。直感に頭の理解が追いつかなかった。藍はずっと、月見から目を離さなかった。だから断言できる。月見はなにもしていない。視認できないほどの神速だったわけでも、藍が油断して見逃したわけでもない。本当に、月見はなにもしていなかった。なにもしていなかったのなら、十二神将が術式を破壊され紙に返されてしまうはずがない。だが事実、十二神将はひとつの例外もなく消滅した。

 ありえないことが、起こった。

 

「……!」

 

 月見が動いた。十一尾を瞬く間に一尾へ戻し、飛行術を爆発させる。驚異的な速度で打ち出された彼の体は一瞬で藍の頭上を取り、そのまま天界まで駆け抜けんとする。

 

「くっ……!」

 

 藍は咄嗟に反応した。なぜ十二神将が突然破壊されたのか、考えてもわからないことは早々に切り捨てた。消滅したのならまた召喚し直せばいいだけのこと。だから今は、なんとしてでも月見を止めるのが先。

 振り向く、

 

「――『現世斬』」

「ッ……!?」

 

 静かな宣言。上空の月見を目で追っているうちに、何者かに懐を取られている。

 対応しなければならないと、頭では理解していた。懐に入り込んできた闘気をいなし、更に天界へ向かう月見の行く手も遮る。容易ではないが決して不可能でもないと、頭では理解できていたはずだった。

 それでも頭より体が先行してしまったのは、大妖怪とはいえ逃れえぬ獣の性なのか。

 

「――!」

 

 肌を粟立たせる懐の闘気に、体が馬鹿正直に反応した。瞬間的に、月見の存在が意識から抜け落ちる。橙の腕を掴んで背後に跳躍し、それでも追い縋ってきた神速の銀閃を、硬化した九尾を盾にして防ぐ。

 それからようやく理性が本能に追いついて、唇を噛んだ。――やられた。

 空を、白い綿毛が舞っている。

 否――それは綿毛などではなく、季節外れな雪の欠片なのだと気づいた瞬間、藍は言葉にならないほどの悔しさが己の中で燃え上がったのを感じた。

 なるほど。なるほど確かに彼女ならば、十二神将を一瞬で無力化することもできるだろう。紙を依代にして作成される式神は、平たく言えば紙に命を宿らせたもの。だからその命を奪われてしまえば、式神は問答無用でただの紙へと戻り沈黙する。藍の『式神を操る程度の能力』にとって、彼女の『死を操る程度の能力』は、この世で最も相性の悪い天敵だった。

 けれど、藍が悔しさに震えるのはそこではない。十二神将を破壊されたこと自体ではなく、その結果として彼女が月見を助けたという事実こそが、理解不能と評せるほどの激情となって藍を襲っていた。

 だって。だってあなたは、紫様の親友のはずなのに。ひょっとしたら月見様よりも、この世界の誰よりも、紫様を深く理解してくれているはずなのに。あなたは月見様と違って、あの天人となんらかの関係を持っているわけではない。月見様と違って、あいつに味方する義理も理由も、ないはずなのに。

 なのに。なのにどうして。

 どうして紫様じゃなくて、月見様に、あの天人に、味方するんですか。

 博麗神社を壊した、紫様を泣かせた、あの天人に。

 

「どうしてなんですか、幽々子様……ッ!!」

 

 答えはなかった。真夏の雪空の下で響くのは、悔しさを振り絞った、引き裂くような藍の叫びだけ。

 西行寺幽々子はなにも答えず、そのお家芸ともいえるぽやぽやとした顔で、ふっと藍に微笑みかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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