銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方緋想天 ⑧ 「天へ昇れ ③」

 

 

 

 

 

「……どうされるんですか、天魔様?」

 

 問われた操は腕を組み腐心した。それを今まさに考えているところなのだが、かといって彼女にその忖度(そんたく)を乞うのは酷だろう。大天狗が去ったのち、操の傍らでただひとり指示を待ち続ける椛の顔には、傍目でも見て取れる強い動揺の色があった。

 博麗神社が倒壊したとなれば、当然の反応だ。

 操は天狗だし、仏道を邪魔する魔物と考えられている天狗だし、神への信仰心など持たない以上は神社が壊れようがなんだろうが興味はない。椛だってそうだろうし、他の妖怪たちだって同じだろう。

 しかしあの場所が、少なくとも八雲紫にとって特別な意味を持った聖地であったことくらいは、幻想郷に住む妖怪ならば知能の高低を問わず誰だって知っている。その聖域を穢した時にどんな報いを受けるのかもまた、誰だって知っている。

 博麗神社が倒壊した。しかも、どうやら何者かの仕業によるものらしい――。

 ある程度知能のある妖怪がこの話を聞けば、皆が大口を開けて呆れるだろう。

 ――誰だか知らねえけどやっちまったなあ。ご愁傷さん。

 誰だか知らない相手なら、操だってそう思う。

 

「……」

 

 だが今回の場合、黒幕は操の知らぬ相手ではない。実際に確かめたわけではないが、十中八九、比那名居天子で確定だ。地震を呼ぶ緋色の雲。異変による異常気象。気質を集める力。天子の手札を充分に活かせば、特定の場所だけを襲う超局地的な地震を起こすことも可能だろう。彼女が幻想郷の外の人間であることを考えれば、博麗神社の重要性を知らず標的にしたとしても不思議はない。

 なら実際に天子が神社を倒壊させたとして、それは彼女の計画の内だったのか。

 否だと、操は思う。

 天界で出会って、弾幕ごっこをして、少なからず天子の人柄は理解したつもりだ。彼女は、とても不器用な子だった。嘘をつくのがヘタクソで、弾幕ごっこがヘタクソで、人と付き合うのがヘタクソだった。

 月見とおっかなびっくり話をしていた小動物みたいな姿は、『初々しい』という言葉でも言い換えられただろう。今まで悪人として生きていた人間が、急に改心して、善人になろうと努力し始めたばかりのように。

 そんな不器用な子が、初めから壊すつもりで博麗神社を攻撃したとは思えない。

 つまり、不慮の事故。

 

「しかし、月見がついていながらこうなるとはな……」

 

 操にとって最も予想外なのはそこだ。天子の傍には、弾幕ごっこの修業を通して仲を深めたであろう月見がいたはずなのだ。まさか紫の最大の理解者である彼が、博麗神社への攻撃を天子に許したとは考えられない。

 月見は、知らなかった。

 月見に知らせないまま、天子は独断で神社を標的にした。

 そうして二人は、すれ違ってしまった。

 

「いや、むしろ……月見だからこそ、か」

 

 月見は、妖怪の中では類を見ないほど人がいい男だ。物静かで、穏やかで、声を荒らげて人を怒ったりなんて滅多にしない。妖怪だろうが人間だろうが神様だろうが、常に何者をも理解し受け入れようとする、美点とも欠点ともいえる癖がある。

 たとえ厄神が話し相手でも、絶対に距離を取ったりはしない。

 レミリアにいきなりグングニルを突きつけられても、どうってことない。

 何百年も昔の話を引きずって文に毛嫌いされても、大したことじゃない。

 望んでもいない馬鹿でかい屋敷をプレゼントされたって、まあ仕方ない。

 一人でのんびり地底に出掛けて、嫌われ者の橋姫や覚妖怪と、簡単に知り合いになって帰ってくる。

 閻魔様に週一くらいで家庭訪問を食らうのだって、もう慣れた。

 いい意味でも悪い意味でも、月見は人に穏やかすぎる。

 もしかすると彼は、比那名居天子という少女を受け入れすぎていたのかもしれない。

 

「……まったく」

 

 倒れるように椅子に座り込み、天窓を見上げた操は深くため息をついた。本当に面倒なことになった。紫が動けば月見も動く。そして紫が天子を敵と見なすならば、月見がつくのは天子の側だ。

 幻想郷でも指折りとされる、大妖怪二人の対立――考えるだけで目眩がしそうになってくる。

 

「――あはは、あいかわらず『そっち』のあんたは考え事好きだねえ。普段の方とは大違いだ」

 

 姿なき三人目の声が突如として響いて、驚いた椛の尻尾が逆立った。

 操は天窓を仰いだまま、

 

「……ノックくらいしてくれんか。鬼とてそのくらいの礼儀は知っておるだろう」

「ごめんごめん。『そっち』のあんたを見るのは久し振りだったから、ちょっと観察しちゃってたあ」

 

 執務室の隅――誰もいないはずの壁際から、霧を晴らすように現れるのは大きく捻れた二本角。無骨に鳴った鎖をこする音に、逆立っていた椛の尻尾が安堵でへにゃりと垂れ下がる。

 許可なくここまで入り込んできた闖入者を、縛り上げる真似はしない。しようとするだけ無駄なことだ。彼女を縛り上げられる者など、果たしてこの幻想郷にいるのかどうか。

 

「なんの用だ」

「んー、いやー、どうするのかなーって。あんたも、あの天人とは知らない仲じゃないんでしょ?」

 

 朝にもかかわらず酔いの回った赤ら顔と、ふらふらと安定しない足捌き。強い酒気を放つ酒虫入りの瓢箪と、三本の鎖をじゃらじゃらと引きずる。

 椛に窓を全開してくるよう指示しながら、操は目を細めて問うた。

 

「そういうお主はどうするんだ、萃香」

「んぅー。まぁー、行くだけ行ってみようかなーって」

 

 ふらふら操の対面までやってきた萃香は、よいしょっとぉ、とそんな声をあげて、書類が散乱している執務机を椅子代わりにした。執務室の窓をすべて開け放って戻ってきた椛が、うわあっと顔を青くした。

 

「萃香さん、大事な書類があるんですからやめてくださいっ」

「ん? あー、ごめんねー」

 

 萃香が座ったあたりの書類を素早く回収し、一枚一枚鬼気迫った形相で確認する。幸い折れ曲がったりしたものはなかったようで、椛はほっとため息をついていた。

 萃香は悪びれる様子もなく、ころころと笑っていた。

 

「それで? お主は行くと言っていたが」

「まあ、一回だけだけど一緒に弾幕ごっこした相手だしさ。このまま黙って見捨てるのもあれかなあって」

「だがその場合、相手は紫だぞ」

「うん。だから止めるんだよ。あの天人のためってのもあるけど、それ以上に紫のため」

「……親友なればこそ、というやつか」

「そんな感じー」

 

 くひひと変な声で笑って、萃香が瓢箪の中身を直接口に傾ける。いつ酒をこぼされてもいいように、椛が卓上の書類を目覚ましい速度で整理し始めている。

 操は椅子に深く腰を預けたまま、

 

「親友といえば、幽々子は?」

 

 彼女もまた萃香と同時期に天界へ昇り、弾幕ごっこで天子をコテンパンにした一人だと聞いている。

 

「幽々子は、庭師連れて月見の方に行ってるよー。なんか、藍に足止め食らってたみたいだから」

「そうか。……なんだ。結局、全員揃って紫を止めるつもりか」

 

 月見に萃香に幽々子。紫と最も近い位置にいる親友三人は、皆が紫と敵対し天子を守る道を選んだ。

 萃香は、特に表情を変えなかった。酔っ払って緩くなった表情筋を緩くしたまま、弓にしなった瞳で、

 

「そりゃあそうだよ。今はね、神社が壊れたショックでちょっと周りが見えなくなっちゃってるだけ。このままやりたいようにやっちゃったら、ぜえったいに後悔するよ、あいつ」

 

 だから、私たちが止めてやんないとねー。

 手の掛かる友人に、しょうがないなあ、と苦笑いするような。そんな、穏やかな声だった。

 

「……しかしだとしたら、お主、なぜわざわざ儂のところに来た。儂がどう動くかなんて放っておいて、さっさと天界に行った方が」

「あー、いやねー? それはそうなのかもしんないけど、ほら、万が一ってこともあるじゃん。月見が上手く言葉で止めてくれればいいけど、紫もかなーり不安定な状態だろうし、ほら……ね?」

 

 なんとなく、わかった。

 

「藤千代と短時間とはいえ互角に戦ったあんたがいれば、備えあれば憂いなしでしょ。……まあ、あんなやつどうでもいいって言うんだったら、しょうがないからひとりで行くけど」

「……いや」

 

 緩く首を振って、操は立ち上がった。

 萃香と違って、紫を止めようという世話焼きな気持ちがあるわけではない。ただ純粋に、比那名居天子を死なせたくないと思う。

 操が起こした竜巻から、涙目で逃げ惑っていた姿を思い出す。月見に修業を手伝ってもらえることになって、飛び跳ねながら喜んでいた姿を思い出す。

 あんな風に振る舞えるかわいらしいやつを、黙って見捨てるのも忍びない。そう考えてしまうのは、ずっと昔から月見や藤千代の隣で、影響を受け続けてきたからなのか。

 

「儂も行こう」

「おっ、そうこなくっちゃねー」

「……え? 天魔様、行ってしまわれるんですか?」

 

 ひと通り書類の整理を終えていた椛に、笑うのが苦手なこの人格なりに精一杯、微笑んで言う。

 

「さすがにこの状況で、仕事を続けろとは言わんだろう?」

「……」

「……待て、目からハイライトを消すな!? ええい仕方ないだろう、今は緊急事態というやつだ!」

 

 仕事くらいちゃんとしてなよ……と萃香から白い目で見られた。

 お前にだけは言われたくないと、心の底から思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 桜の花が散るように、雪が舞い落ちていく。遠いどこかで蝉が鳴く季節とは裏腹な白い欠片が、淡い緋色の空にとてもよく映えている。

 月見の頬に落ちた欠片がひとつ、すぐに雫と変わって滴り落ちていく。そのひやりとした涼しさが、焦燥に浮かされていた月見の頭を徐々に冷却していく。

 ――なぜ、雪が降っているのか。

 天子の力でつくりあげられた緋色の雲が、人それぞれの気質に応じて自在に天気を変えるからだ。夏に雪が降ることだって十二分にありえる。

 ――しかしなぜ、雨でも風でもなく、雪なのか。

 彼女が来たからだ。

 遮るもののなくなった天を見上げ、深く、息を吸った。

 

「――まさか、来てくれるとは思ってなかった」

 

 月見のすぐ後ろで、互いの背中が触れ合うほどすぐ後ろで、西行寺幽々子はのほほんと答えた。

 

「ふふ。私、月見さんや紫のことならなんでもお見通しなんですの」

 

 本当にそうなのかもしれない、と月見は思う。くすくすと心地よい笑みとともに紡がれるこの軽口が、決して冗談でなかったとしても月見は驚かない。現世(うつしよ)幽世(かくりよ)の狭間を生きる存在だからか、本当にそうなのかもしれないと思わせる底の深さが、事実として幽々子には宿っていた。

 ほんの数日前にも、目の前でまざまざと見せつけられたばかりだ。

 月見の背後で、藍が布を裂くような叫びをあげた。

 

「どうしてなんですか、幽々子様……ッ!!」

 

 月見と対峙した時とは比べものにならない、そこには筆舌に尽くしがたい怒りと悔しさがにじんでいた。

 月見に代わり藍と対峙する幽々子は、その問いには答えなかった。

 

「行ってください、月見さん」

 

 祈るような声だった。

 

「紫を……お願いします」

「……」

 

 初めは、どうしてなのかは月見にもわからなかった。幽々子と天子はまったくの赤の他人でこそないが、それでも、所詮は一度弾幕ごっこをしただけの関係にしか過ぎない。月見とは違う。天子と紫を天秤にかければ、秤はすぐさま紫の側に傾くはずなのだ。

 なのに幽々子は雪の降り積もった冥界から遥々駆けつけ、月見を助けてくれた。

 月見を助ける行為がすなわち天子を助け、紫を否定することにつながるのだと、幽々子が気づいていないとは思えなかった。だからこそ藍は今にも歯を噛み砕きそうなほどの激情を燃やして、幽々子を、幽々子だけを()めてつけている。

 今ならわかる。

 幽々子は、紫を助けてほしいのだ。

 だからこそ月見を助け、天子を助け、紫を否定するのだ。

 月見の問い掛けは短く。

 

「任せて、いいか」

「もちろん」

 

 返される声は、気負った様子もなく朗らかだった。もうそこに祈るような色はなく、いつも通りぽやぽやと、

 

「でも、お礼は期待してもいいですわよね~?」

「……ああ」

 

 人里で、最高級の饅頭を買ってやろうと思う。彼女だけではない。祖父を彷彿とさせる見事な剣技で藍を牽制してくれた、半人半霊の従者にも。

 

「――ありがとう」

 

 それだけ言って、月見は飛んだ。心強い味方となってくれた彼女たちを最大限に信頼し、すべての力を、ただ天へと昇りゆくためだけに注ぐ。

 振り返ることはない。

 月見はもう、天界だけを見ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 背後で炸裂した烈風に、ひゃっと小さな悲鳴がもれた。吹っ飛ばされそうになった帽子を慌てて両手で押さえる。振り返れば既に彼の姿はなく、遥か天上で、針で空けたような小さな点と化している。

 来るとわかってはいたものの、ここまで強烈な置き土産をされるとは予想外だった。凄まじいとしか言葉が出てこない。これほどの速度で飛べる狐を――いや、妖怪を、幽々子は未だかつて見たことがなかった。

 藍に月見を追う素振りはない。追えるわけがない。ここまで決定的な差が開いてしまえば、スキマでも使わない限り追いつくのは不可能に違いない。

 

「……幽々子様、これでよかったんですか?」

 

 幽々子の前に立ち油断なく剣を構える妖夢は、けれどその瞳に明らかな疑問の色を浮かべていた。結局幽々子は、「月見さんが困ってるから助けに行く」としか顛末を説明しなかった。精神的に未熟なところの多い妖夢では、すべてを語れば逆に大きな困惑や迷いを生むだろう。

 短く答える。

 

「いいのよ。……それよりも、さっきの『現世斬』は見事だったわ。まるで妖忌が戻ってきたみたい」

 

 世辞ではない。あの太刀筋は本当に見事だった。まだまだ半人前のくせに、毎日の雪かきで筋肉痛になっているくせに、戦闘になった途端やたらと光るものを発揮し出すのだから、剣術バカの血は争えないなと幽々子は思う。

 突然褒められて、妖夢の頬がさっと赤らんだ。

 

「えっ……あ、ありがとうございます」

「その調子で、もう少しだけ頑張って」

「は、はい……」

 

 えへへ、と照れくさそうにしたのはほんの一瞬で、すぐ正気に返った妖夢は心新たに藍へ剣の切っ先を向ける。その瞳にもう揺らぎはない。こうやってすぐ丸め込まれるところが彼女の半人前たる所以なのだけれど、まあ、それはそれでいいのかもしれない。

 少なくとも、従者としてあまりに優秀すぎる藍よりかは、幽々子の性に合う。

 

「幽々子様……ッ!!」

 

 普段の藍からは想像もできないほど、激しい怒りの叫びであった。

 

「なぜあなたが――紫様の友であるあなたが、あの天人に味方するのですか!?」

 

 肌に突き刺さるほど荒れ狂う妖気の波動を、嚥下し、幽々子は微笑んだ。

 

「あら。私は月見さんを助けただけで、あの天人に味方したつもりはないわよ?」

 

 藍が、今にも狐火をぶっ放しそうな顔をした。

 幽々子は苦笑、

 

「確かに私は紫の友達だけど、友達だからって、いつどんな時でも意見が一致するとは限らないでしょう?」

「……つまり幽々子様は、紫様が間違っていると?」

「ええ」

 

 当然のことだったので、即答した。

 藍が、その瞳を冷たい不快感で眇めた。

 

「――なぜ」

「じゃあ、逆に訊くけど。このまま紫が、怒りに任せてあの天人を……そうね、殺したとしましょうか。それは本当に、紫にとって最善なのかしら?」

 

 紫の怒りは、仕方のないことだと思う。紫にとって、博麗神社は本当に大切なものだったのだ。幻想郷の始まりであり、幻想郷とともに歩んだ思い出を詰め込んだ場所であり、幻想郷そのものでもあった。その聖地を、比那名居天子に、理由はどうあれ踏み躙られたのだ。

 紫の怒り自体を否定するつもりはない。ただ、

 

「もし、あの天人を本当に殺しでもしちゃったら……紫、あとになってから絶対に後悔するわよ」

「……」

「だってあの天人、月見さんと仲いいもの。殺しちゃったら、冗談抜きで月見さんとの関係まで壊れちゃうと思わない?」

 

 紫がやろうとしていることは、結局のところは復讐だ。そして復讐とは、見事恨みを晴らせばそれで綺麗さっぱりおしまいとはならないものだ。復讐は新たな復讐を生むとまでいうつもりはないけれど、なにかしら禍根をひび割れのように残していく。

 月見は、優しすぎる妖怪だ。たとえ天子を殺されてしまったとしても、月見はそれすらも受け入れるだろう。紫を責めるような言葉はすべて呑み込んで、ただ自分だけを責めて、苦心し、上手く折り合いをつけられる場所を見つけ出し、やがては紫の行動そのものを正当化してしまうのだろう。そして表面上はなにも変わらない日々を紫と過ごしながら、目に見えないところでは、天子を助けられなかった己を永遠に悔いていく。

 彼ならきっと、そうなのだろうなと思う。

 そうなってしまった時に、紫は果たしてどんな感情を抱くだろう。

 決まっている。お前は間違っていなかった、仕方のないことだった――そんな痛々しい言葉で許される自分を、許せなくなるだけだ。

 天子は死に、月見は心に大きすぎる傷を負い、紫は取り返しのつかないことをしてしまった自分を一生後悔する。誰も幸せになんてなれやしない。これを間違っていないと言わずして、他になんと言えばいいのか。

 

「そんなこともわからなくなっちゃうなんて、神社を壊されたのが本当に許せなかったのね。……だから、周りが気づかせてあげないと。そうでしょ?」

「っ……」

「私が月見さんを助けたのは、月見さんの言葉が一番、紫の心に届くから。あなたも、それがわかっているから月見さんを困らせてたんだと思うけど」

 

 藍は、紫が月見に勝てないことを知っている。紫はなによりも月見の言葉に弱いし、月見の感情に弱かった。心底惚れてしまった弱みというやつで、月見に頼られればなんであれ手伝ってあげたくなるし、やめろと言われればなんであれ躊躇いが生まれてしまう。月見に殺すなと止められた時、紫の怒りが容易く迷いに変わりかねないことを、八雲藍は知っている。

 だが、博麗神社が破壊されて、紫は本当に傷ついていて、たとえ犯人が月見の知り合いであっても許すことなんてできなくて、じっとしてなんかいられなくて。もし月見に止められて、殺すなと言われて、それで本当に殺すのをやめてしまったら、まるで天子の行いを認めてしまうようで、どこにもぶつけられなくなった怒りと悲しみは、紫の中でずっと彼女を苦しめ続ける。そんなのは彼女の式神として見ていられないから、耐えられないから、藍はどうしても、紫と月見を会わせたくなかった。

 理解はできる。

 共感はしない。

 

「……そんなの、わからないじゃないですか……っ!」

 

 藍は、泣きそうな顔をしていた。

 

「それでも私は、あの天人が許せません! 紫様を泣かせたあいつが許せません! 月見様だって、あいつに騙されて、利用されているだけなのかも……」

「や、それはないわよ」

 

 一蹴した。それから、本当にそれだけはありえないなあと思って、つい笑ってしまった。

 

「ねえ、藍。あなた、あの天人とお話したことある?」

「……ありませんが」

「じゃあ、なんでもいいから一回お話してみるといいわよ」

 

 幽々子は天子と一度弾幕ごっこをしたきりの関係だが、それでも知っている。

 比那名居天子は、かわいいやつだ。妖夢と同じで、人の嗜虐心をつんつんと刺激するタイプだ。弾幕ごっこで割とあっさり幽々子に敗北し、涙目でぷるぷる震えて悔しがっていた姿には、妖夢に負けずとも劣らぬものがある。

 というのはまあ、個人的な趣味の話だが。

 それに天子は、恐らく相当なレベルで月見に懐いている。もしも月見との縁が切れたら、冗談抜きで泣くんじゃないかと思うくらい。弾幕ごっこでコテンパンにしてやった時、「せっかく月見に鍛えてもらったのにっ……!」といじけていたので、月見さんの知り合いなの? と興味本位で尋ねてみたらあとはまあ。

 ああもうほんっとにわかりやすいわねこの子~とか、これは紫に新たなライバル出現かしら~とか、とても微笑ましい気持ちになったものだ。

 

「なんていうかね、毒を抜かれると思う」

 

 あれは、博麗神社をぶっ壊してやろうなどと目論むような悪人ではない。誰かの悲しむ姿を見て喜ぶような異常者ではない。「月見は、その……私にとっては大事な人っていうか……いや、別に変な意味じゃないのよ!? 私のこと、友達って言ってくれて、それで……!」だのなんだのとわたわた慌てて勝手に自爆したあのアホの子を見ていると、あれこれ邪推する自分が馬鹿らしくなってくるのだ。

 

「あの子は、悪い子じゃないわよ。神社をわざと壊したってこともないと思う。だから、どうしてこんなことになってしまったのか、話を聞いてみるくらいはしてもいいと思わない?」

「っ……」

 

 藍が、遠目でもはっきりとわかるほど強く唇を噛んだ。

 

「幽々子様まで、そんなことを言うのですか……!?」

 

 決定的な心のすれ違いを、拳が震えるほどに悔しがっていた。

 

「もし本当に、あの天人が悪人でなかったなら……紫様の心に空いた孔を、一体なにが埋めてくれるのですか!?」

「だからといって、月見さんの心にまで孔を空けてやろうというの?」

「っ……!!」

 

 見ていて痛々しくなるほどに、藍は葛藤し、苦悩していた。苦しむ息遣いが、幽々子の耳にはまるで嗚咽のようにも聞こえた。

 藍だって、心のどこかではわかっているのだ。自分の行動は、紫のしようとしていることは、決して最善の選択ではない。比那名居天子を裁いたところでなにも根本的な解決にはならないし、それどころか今の幻想郷に新たな禍根を刻んでしまうことにも気づいている。

 心のどこかでは、わかっている。

 じゃあ。

 じゃあどうすればいいのだ。

 比那名居天子を許せというのか。大切なものを壊されたのに、思い出を傷つけられたのに、黙って泣き寝入りをしろとでもいうのか。

 ――もう、どうすればいいのかわからない。

 藍の苦しみを、この場の誰しもが理解していた。事情を知らない妖夢ですら刀を持つ手が震えていたし、橙に至っては既に涙すら流して、藍の裾を一生懸命に握り締めていた。

 

「私は! 私、はっ……!!」

「――まあまあ。そんなに思い詰めないの」

 

 だからこそ幽々子は、微笑んだ。私がここにやってきたのは、きっとこのためでもあったのだろうなと思いながら。

 

「そうやって苦しいことぜぇんぶ背負い込んでも、なんにもいいことないわよ? だからほら、ここいらでパーッと発散しちゃいましょ」

 

 藍は初めは不思議そうな顔をしていたが、スペルカードを抜いた幽々子を見て、目を見開いた。

 

「月見さんは、もう天界に辿り着くでしょうし……あとは、紫自身が決めること。だからあなたは、紫がどんな選択をしても受け入れられるように、溜まったもの全部吐き出しておきなさいな」

 

 この異変、一番悲しんでいるのは間違いなく紫だが、一番苦しんでいるのは間違いなく藍。

 紫は、月見が。

 だから藍は、私が。

 

「胸を貸してあげるから、遠慮せずにど~んと来なさい! 私も遠慮しないわよ~?」

「……」

 

 藍はしばらくの間、呆然と幽々子を見つめていたが――やがてため息をつくように、淡く笑った。

 

「……まったく、幽々子様には敵いません」

 

 ですが、と続けて、

 

「ひとつ訂正させてください。――あくまで実力という点では、胸を貸すのは私の方です」

「…………ふぅん、そう」

 

 ちなみに『胸を貸す』とは、上の者が下の者に稽古をつけてやることである。

 

「ゆ、幽々子様? あの、あんまり無茶は……」

「……大丈夫よぉ、お茶目な狐さんとちょぉーっと遊んであげるだけだから。――だから下がってなさい、巻き込んで墜とさない自信はないわ」

 

 ひいっ!? と顔を真っ青にした妖夢が、逃げるように――というか逃げた。脇目も振らずにすたこらさっさだった。

 

「ら、藍様? あの、なんだか笑顔が怖……」

「大丈夫だよ。ちょっと、どっちが上かはっきりさせるだけだから。――だから離れててくれ、な? できるな? な?」

 

 はひいっ! と顔面蒼白で敬礼をして、橙も逃げ出した。そうして合流した二人の従者たちは、互いに寄り添ってガタガタと震え上がっていた。

 

「……そういえば、あなたと弾幕ごっこをするのは初めてかしら」

「そうですね。……言うまでもないでしょうが、手加減は無用ですよ?」

「もちろん~」

 

 ――とまあ、藍の口車に乗せられているのは完全に演技なわけだが。せっかく藍がやる気になってくれたので、合わせているだけだ。

 それでいいのだと、幽々子は思う。これが今の幻想郷の在り方だ。嫌なことがあったら、弾幕ごっこで気分転換。苦しいことがあったら、弾幕ごっこで憂さ晴らし。そうやって、今の幻想郷は回っているのだから。

 もちろん、負けてやるつもりなど毛頭ない。今の幽々子は、いつもよりちょっとハイテンションなのだ。

 

「言っておくけど、今日の私は手強いわよ~?」

 

 ありがとうと、月見に礼を言われたのだから。ただの礼と侮るなかれ、そんじょそこらの『ありがとう』ではない。月見からの、魂すらも込めたような、無上の感謝で満ちた『ありがとう』だ。紫ですら言われたことがないかもしれない、大変貴重な『ありがとう』なのだ。

 あんな風に感謝されてしまったらもう、最後まで、月見さんのために頑張んないとなあ、と思うので。

 

「なんてったって――」

 

 軽妙洒脱にスペルカードを構え、開戦を告げる声は朗々と。

 

「――今すっごく、有頂天なんだからっ!」

 

 桜の如く雪が舞い散る夏空の下で、解き放たれる力の波濤は二つ。

 力は決して途切れぬ弾幕の嵐となって、緋想天に無数の流星を散らした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 別にこれといって仲がよかったわけではない。会えば、まあ、挨拶と世間話くらいはする。偶然道ですれ違うことはあっても、二人で予定を合わせて落ち合ったりはしない。天子と衣玖は精々その程度の関係であり、たとえどれほど自惚れても、『友人』という表現は当てはまらないだろうと天子は思っていた。

 だからこうして――己の身の危険も厭わずに、前に立って守ってもらえる光景など、考えたこともなかった。

 

「なんで……」

「なんででしょうね」

 

 衣玖らしい、慇懃無礼な答えであった。天子を振り返りもしない。

 

「なんでかわかりませんけど……なんとなく放っておけなくて、来てしまいました」

「な、なんとなくって……」

 

 天子はたじろいだ。衣玖が衣玖らしい声で、衣玖らしくないことを言っている。一瞬、ほんとに衣玖よね? とつい疑ってしまったほどだ。けれど風を受けて優雅にたゆたう緋色の羽衣は、間違いなく天子の記憶と一致している。

 天子の認識が間違っていなければ、衣玖は、いや龍宮の使いは、『なんとなく』などというひどく適当な理由で、自らを危険に晒すほどいい加減な妖怪ではなかったはずだ。今この状況で八雲紫と対峙することがどういう意味を持つのか、理解していないわけがないのに。

 

「……意外ねえ。龍宮の使いが割って入ってくるなんて」

 

 同じことを考えたのか、紫の声音には静かな驚きの色がにじんでいた。また同時に、新たな闖入者の姿に苛立ってもいた。

 

「あなたたちは、もう少し利口なものだと思ってたけど」

「そうですねえ。自分でもちょっと意外です」

 

 だったら、なぜ。

 衣玖は苦笑、

 

「――まあ、なんだかんだで、総領娘様も『ちょっとはどうでもよくないやつ』になってたってことなんですかね」

 

 独り言のような言い方だった。そしてそれで、衣玖は勝手に自己完結したらしかった。

 

「そうですね。……もしも総領娘様が昔のあなたのままだったら、私はこの場にいなかったでしょう」

 

 ですが、と続け、

 

「あなたは変わった。見違えるほどに。……これって全部、あの銀の狐さんのお陰なんでしょう?」

 

 霊夢と魔理沙が、えっなにそれ初耳、みたいな顔をした。天子はどう答えればいいのかわからず、とりあえず曖昧に笑い返しておいた。

 否定はしない。というか、ど真ん中に百点満点の大当たりだ。けれどそれを月見以外の人前で認めるのは、ちょっと恥ずかしかった。

 

「私は、あまり他人に興味がないですけど。……でもあなたと月見さんは、もう少し、見ているのも悪くはないかなって、思います」

 

 ひょっとするとそれは、彼女なりの最上の褒め言葉だったのかもしれない。いつも愛想笑いを張りつけている衣玖が、この時ばかりは演技とは思えぬほど穏やかに、頬を緩めていたから。だから天子は、ああ、とため息をつくように感嘆した。

 これが、月見だ。

 温厚な人柄で、ただ色々な人たちと友誼を結ぶだけではない。本人は別に意識もしていないのだろうが、不思議と、いつの間にか、結んだ友誼を他の人々まで広げてしまう。彼の周りでいつもいつも、人間も妖怪も神様も、みんなみんな好き勝手に笑い合っているのがその証拠。

 天子が、憧れた光景。

 そうして彼は、天子と衣玖の間をも、いつの間にかつないでくれていた。

 

 ――ああもう、やっぱり死ねないじゃないか。

 あなたのお陰で、私は変われた。あなたのお陰で、助けてくれる仲間ができた。

 なのにこのまま、ありがとうも言えずにさよならだなんて、絶対に嫌だ。

 会いたい。

 会いたいよ、月見。

 

「……紫さん。確かに総領娘様は、あなたにとって許されないことをしてしまったかもしれません。ですが、どうか今一瞬、思い留まってはくれませんか?」

 

 そーよそーよ、と霊夢が便乗した。

 

「こいつはね、悪気があったわけじゃないの。神社を壊しちゃったこと、本当にすごく後悔してて、何度も私に謝ったわ。だから、」

「――もう、そういう次元の話じゃないのよ」

 

 霊夢の言葉を遮り、紫が唐突に笑った。嘲笑とも自嘲ともとれる、力のないシニックな笑みだった。

 

「相手に悪意があるかないかにかかわらず、絶対に越えてほしくない一線って誰にでもあるでしょう? 理屈を超越した感情って、誰しもが抱くものでしょう? 私にとっては、それが博麗神社だったのよ。もう、理屈で納得できるような次元じゃないの……!」

 

 悪気はなかったんだから許してやれ、なんて。そんなの、大切なものを踏みにじられた被害者からしてみれば、屈辱以外のなにものでもない。それで許してなんになる。壊されたものが元に戻るのか。傷つけられた心が元に戻るのか。そんなので救われるのは、罪を都合よく許されたことになる加害者だけだ。許したことにさせられて(・・・・・)しまう被害者は、なにひとつとして救われやしない。

 衣玖の言葉も霊夢の言葉も、紫にとってはただ心の傷を広げる刃でしかない。まるで泰然自若としていた紫の表情に、初めて、痛々しい歪みが浮かんだ気がした。

 霊夢は言い返す。

 

「だからって、あんたはいちいちやりすぎなのよ。月見さんに嫌われるわよ」

「っ……、そうやって月見月見って、月見の名前を出せば私が躊躇うと思わないで……!」

 

 紫は声を荒らげる。心の奥でずっと封殺していた感情に、深いひびが走ってしまったかのように。

 それが引鉄となったのかはわからないが、紫の周囲に目でも追えないほどの速度で弾幕が形成されていく。

 だあー!? と魔理沙が悲鳴をあげた。

 

「なぁーんでお前は、向こうがトサカに来るようなことばっか言うかな!?」

「じ、事実でしょ!?」

「一言多いんだよ、明らかにっ! ……こなくそっ、『マスタースパーク』ッ!!」

 

 紫が弾幕を掃射すると同時に、魔理沙がミニ八卦炉を使い、天子の視界を潰すほどの熱光線を放つ。迫り来る弾幕を片っ端から喰らい尽くし、紫の懐まで穿つ風穴を空ける。

 

「っ……」

 

 紫は舌打ちひとつで扇を振るい、眼前に巨大なスキマを展開する。それだけでマスタースパークはあっさりと異空へ呑まれ、光すら残さずに消え失せる。

 ぬぐぐ、と魔理沙が呻いた。

 

「スキマは反則だろ……。あれじゃあどうやったって、こっちの攻撃なんて当たりっこない」

 

 紫の妖力は途切れない。なおも嵐の如く巻き上がり、第二派となる弾幕の空を作り上げていく。嫌というほど冷静だった紫の姿は、もう見る影もない。腹立たしげに、苦しげに、拳を震わせ、歯を軋らせ、前を見て、天子だけを睨めつけて、まとわりつく望まぬものをすべて振り払おうとするように、感情を力に変えてゆく。

 

「――是非もありません。一度、彼女を止めます」

 

 口早な衣玖の発言に、首を振る理由はないが、

 

「つっても、どうするんだ? お前だって見ただろ、あのスキマ相手じゃ――」

「私が彼女の動きを止めます」

 

 霊夢が眉をひそめた。

 

「……できるの?」

「任せてください。なのでみなさんは、その隙に上手いことやっちゃってください」

 

 詳しい説明はなにひとつとしてなかったし、そんな悠長なことをしている時間もなかった。紫はなおも弾幕の数を増やしていく。その物量は、もはやスペルカードルールの制約を逸脱していた。引鉄を引けば、天子たちの立つ平原を容易く更地へ変えるだろう。

 このままでは、やられてしまうだけ。

 

「とにかく、行きます」

 

 衣玖が、羽衣を揺らし前に出る。天子は霊夢たちと視線を交わし、頷き、互いの意思を確かめ合う。

 ――直後、鼓膜を打ち抜くほどの轟音が木霊した。

 

「……!?」

 

 駆け抜けた閃光で、刹那の間視界が白で染まる。驚いたなどという程度の低い話ではない。背筋が震え上がる本能的な恐怖すら感じて、天子は脊髄反射で己の前方を凝視した。

 紫の体が、驚愕と苦悶の表情とともに『く』の字に折れ曲がっていた。

 ――以前、衣玖に興味本位で歳を訊いた時のことを思い出した。

 衣玖の『空気を読む程度の能力』は、応用次第で雷を生み出すことも可能であり――だから私を怒らせるとビリビリしますからねー気をつけてくださいねー、と黒い笑顔で脅された経験がなければ、紫の体を貫いたのが雷なのだと気づくことはなかっただろう。

 展開されていた無数の弾幕が、空へ溶けるように消滅していく。弾幕を維持することすらできなくなるほどのダメージが、紫の体を駆け抜けたという証左。

 紫の動きが、止まった。

 

「――皆さん!」

「……!」

 

 絶好の隙だった。

 

「やるわよッ!」

「ああ! 人間様の意地を見せてやるぜ!」

 

 二人の声に背を押され、天子は空へ飛んだ。天界と呼ばれるこの場所よりも、更に高い天の先へ。

 迷いがないといえば嘘になる。だがそれ以上に、今の天子にはもう、このままやられるわけにはいかない理由があるのだ。

 天子を支えてくれる人がいる。助けたいと言ってくれた人がいる。

 だから、馬鹿な失敗をしてしまった自分だけれど、取り返しのつかないことをしてしまった自分だけれど、諦めてしまいたくなかった。

 この異変を通して、天子が本当に願っていたこと。諦めかけた夢の欠片に、もう一度手を伸ばしたかった。

 その想いを、燦然と輝く緋色の波動へと変える。

 

「ッ……!」

 

 紫が苦悶を押して体を動かそうとする――が、衣玖の方が速い。

 

「させません」

 

 二度目の閃光と轟音、

 

「――ッ!?」

 

 紫の体が、今度は『く』の字から反対方向に跳ね上がる。弾幕はもちろん、スキマの展開すら許さない。

 充分だった。

 響く宣言は三つ、

 

「『夢想封印』!!」

「『ファイナルスパーク』!!」

 

 それは、片やひとつひとつが紫を呑み込むほど巨大な七色七発の弾幕であり、片やマスタースパークを遥かに凌駕し、立ち塞がるものすべてを等しく嚥下する『砲撃』。

 そして、

 

「――『全人類の緋想天』!!」

 

 開放した霊力を最大限に、天子が放つは天より降り注ぐ緋色の彗星。ファイナルスパークほどすべてを呑み込む派手な物量はないが、代わりに限界まで凝縮され研ぎ澄まされた軌跡は、万物を貫く剣が如く。

 

「――!!」

 

 三人の全力が紫を貫き、包み込み、嚥下し――星屑を撒き散らし、爆ぜる。

 それは奇しくも、弾幕ごっこの決着を告げる、光の終止符と同じ輝きをしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 あとには静寂だけが残った。

 直視が敵わないほど激しい閃光が消えれば、天子たちの眼前にはただひとつ――八雲紫の倒れ伏した姿。着物の随所が破れ、焼け落ち、うつ伏せで、身動きひとつする様子もない。押し潰されそうになる妖力のプレッシャーもすでになく、かつての静けさを取り戻した平原の姿が、かえって不気味すぎるほどだった。

 

「……終わったと思うか?」

 

 天子が地に降り立つと同時、半信半疑で呟いた魔理沙に、誰も反応を返すことができなかった。

 三人が全力を撃ち込んだのだ。いくら大妖怪とはいえ、気を失うこともあるだろう。

 だが一方で、幻想郷最強の地位に君臨する彼女が、こうもあっさり膝を屈しなどするものなのか。

 

「……とりあえず、今のうちに逃げちゃえばいいんじゃないの」

 

 紫の狸寝入りを疑うような、神経質な声だった。

 

「本当に、ちょっと目を回してるだけかもしれないし。だったら今のうちに月見さんと合流しちゃえば、私たちの勝ちだわ」

 

 霊夢が、紫から遠ざかる方向を指さして言う。本来であればスキマを操る紫から逃げるなど不可能だが、それも彼女の意識が健在であればの話だ。こうして彼女が沈黙した以上、月見の到着を馬鹿正直に待ち続ける必要はない。

 

「ちょっと待ってて、月見さんに連絡取るから」

 

 霊夢が、懐から一枚の札を取り出した。垢抜けした草書で描かれた術式に、自然と、一瞬――ほんの一瞬、皆の視線が霊夢へと引き寄せられる。

 その一瞬が、どうしようもない命取りになった。

 天子が紫から視線を外したのは、本当に一瞬だったはずだ。一秒か、二秒か、ともかく誰だって簡単に数えられる程度の刹那でしかなかった。

 

「――あ、」

 

 その一瞬で、ゆらり、まるで幽鬼のように前触れなく、唐突に、八雲紫が立ち上がっていた。

 全身の肌が粟立ったのと、霊夢と魔理沙の体が吹き飛んだのは同時。

 理解の範疇を振り切っていた。背後から二人の小さな悲鳴が聞こえて、ようやく紫の姿が消えていることに気づいた。振り返る。霊夢と魔理沙の体が、何度も地面を跳ねて転がっている。だが紫はいない。どこにもいない。

 

「下がって!!」

 

 衣玖に肩を引かれた。爪が食い込み跡を残すほどの力に、まるで投げ飛ばされたような心地がした。

 

「『龍魚ド――

 

 衣玖の声が、あまりにも不自然な位置で途切れる。天子は倒れそうになる体で慌ててたたらを踏み、振り返る。

 赤、

 

「あ、」

 

 本来あるべき場所を離れ、鮮血とともに宙を舞う衣玖の右腕(・・・・・)を見た時――ようやく、意識が現実に追いついた。

 

 追いついた時にはもう、終わってしまっていた。

 

 痛みはなかった。けれど確かに、自分の右肩から袈裟の方向へ、体が斬り裂かれていくのを感じた。

 だからきっと――見たこともないこの赤い飛沫は、

 私の、血。

 

「――……」

 

 走馬灯なんて流れなかった。黒で潰れていく天子の意識を埋め尽くしたのは、すべてのきっかけになってくれた、心優しい銀の狐の姿だった。

 

 ――体が崩れ落ちていく。

 

 わがままお嬢様だった天子に、変わるきっかけを与えてくれた。ちょっとだけいじめられたけれど、弾幕ごっこの修行を手伝ってくれた。水月苑にいつでも来ていいと言ってくれて、天子と友達になってくれた。

 

 ――真っ暗になっていく。

 

 そんな彼と、もう一度会うこともできずに終わってしまうのが悔しかった。紫を非難する資格なんて天子にはないけれど、それでも最期に、少しだけでいいから、ありがとうの一言くらいは伝えさせてほしかった。

 

 ――なにも聞こえなくなっていく。

 

 もう一度会いたかった。もう一度話をしたかった。もう一度、いっしょに修行をしたかった。もう一度、尻尾を触りたかった。もう一度、また明日と約束をして別れたかった。もう一度、月見のことを考えながら眠りたかった。もう一度、天界に昇ってくる月見を待っていたかった。

 もう一度、おはようと、一緒に笑い合いたかった。

 

 

 ――すべての感覚が消えていく。

 

 

 もう一度……。

 もう、一度……。

 

 

 ……………………。

 

 

 

 …………。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 …。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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