銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方緋想天 ⑨ 「ヘヴンリー・クライ」

 

 

 

 

 

 始めはささいな出来心だった。その出来心を、今では手放しで褒めちぎってやりたい。

 今から何ヶ月か前の春の日だ。その日、喉から少女らしからぬ呻き声が出てきそうなほど退屈していた天子は、頭の中をカラにしながら地上の世界を見下ろしていた。

 頭の中をカラにしていたということは、なにか面白いものを見たかったり、見つけたかったりしていたわけではないということ。歌に飽き、踊りに飽き、読書に飽き、勉強に飽き散歩に飽き運動に飽き料理に飽き食事に飽き昼寝に飽きてしまえば、やりたいことがなんにもなくなって、ボケーっと地上を眺めるくらいしかできなくなってしまっていた。

 いつからだろう。これといった目的もなく、欲望もなく、日々を惰性のまま生きるようになったのは。

 昔はまだ楽だった。曲がりなりにも比那名居一族の総領娘として、ある種の英才教育というか、学ばなければならないことはとかくたくさんあった。勉強は好きでなかったが、好きでなくともやらねばならないことがあるという状況は、今思えばそこそこありがたかったような気がする。

 粗方の教育を修了し、自由時間が多くもらえるようになった途端、天子は自分を見失った。いや、初めのうちはまだ大丈夫だったのだ。自分の欲望が赴くまま、総領娘の権力を悪用して傍若無人の限りを尽くし、本来とはまた違った意味での『不良天人』の名をほしいままにした。

 十年くらいは持っただろうか。いつしか、自分勝手に振る舞うのにも飽きてしまった。

 もともと、飽きっぽい性格だったのだ。

 だから遂に、生きることにも飽きてきたのだと、それだけの話。

 こうして地上を見下ろしているのだって、特に理由があるわけではない。ベッドに寝転がってボケーっと天井を眺めることもできたし、天界の街中をボケーっと歩くこともできたし、清水の流れをボケーっと見続けることもできた。そんな中で天子が地上観察を選んだのは、やはり出来心だったのだろう。

 銀の狐を見つけた。

 

 

 

 初めは、変な狐だとしか思わなかった。普通、狐の毛色は黄金であり、稲荷神であれば白と相場が決まっている。銀狐と呼ばれる狐もいることにはいるが、どれも黒と白が入り混じった、あまり銀とはいえない色をしている。しかし彼は、陽の光を星屑にして返すほど、徹頭徹尾が美しい銀色であった。彼ほど銀狐という言葉が似合う狐を、天子はその時になって初めて目の当たりにした。

 妖怪だろう。稲荷神ではない。稲荷信仰において神の遣いは白狐であり、銀狐は金狐と並んで悪しき存在として扱われている。信仰されない狐――それはすなわち、妖狐ということだ。

 変な狐。しかし所詮は、ちょっと毛の色が珍しいだけのこと。天子がそれ以上、彼の姿を目で追い続ける理由などなかった。

 彼が人里のど真ん中で、子どもたちにじゃれつかれながら買い物をしてさえいなければ。

 妖怪の前では人間など赤子みたいなものだというのに、子どもたちに妖狐を恐れている素振りはまったくなかった。子犬みたいに後ろをついて回り、子猫みたいに尻尾にじゃれつき、小猿みたいに背中をよじ登ったりしている。一生懸命妖狐の手を引いて、うちのお店も見てってよーとせがんでいる子どもまでいる。

 子どもが子どもなら、大人も大人だ。妖狐の怒りを買ったって文句は言えないほどはしゃぐ子どもたちを、たしなめる者など一人もいない。みんながにこにこと笑顔を浮かべて、微笑ましそうに妖狐一行を見守っている。中には子どもたちに便乗して、尻尾をもふっと触っていく連中までいる始末だ。

 そして子どもが子どもで大人が大人なら、妖狐も妖狐である。つきまとわれるわ尻尾を触られるわ背中によじ登られるわ手をぐいぐい引っ張られるわで、相当目障りで失礼なことをされているはずなのに、青筋のひとつも浮かべやしない。さすがに耳を引っ張られた時だけは顔をしかめるものの、それ以外は満更でもなさそうな様子で、子どもたちのされるがままになっている。子どもたちと一緒にのんびり歩いて、のんびり買い物をして、時には立ち止まりのんびり遊んでやったりしている。

 それは、異様な光景であった。確かに地上の世界では、人間と人外の距離は思いの外近い。過去に地上観察をした時にも、買い出しをする金毛九尾、居酒屋をはしごする鬼、置き薬を配って回る兎、人気和菓子店の行列に並ぶ半人半霊などを目撃している。そもそも、人里の代表からして半人半妖である。

 だが彼は、その中でも群を抜いて人に友好的すぎた。人間が狐の耳と尻尾をつけて歩いているかのようだ。いや、同じ人間同士ですら、あそこまで面倒見のいいお人好しは稀だろう。

 少し、興味が湧いた。どうやら相当な変人みたいだから、暇潰しで眺めるにはちょうどいい。

 

 

 

 のんびりと買い出しを終えた妖狐は、やはり子どもたちにぐいぐい手を引かれて、里の広場の方へ向かっていった。一体なにをするのかと思えば、ベンチに座り両目を手で覆った妖狐を置いて、子どもたちが一斉に里中に散らばっていく。

 かくれんぼらしい。

 素で、はあっ? と尻上がりな声が出た。そんな馬鹿なことがあるかと思った。恐らくいい歳をしているであろう妖怪が、人間の、しかも子どもの遊びに付き合うだなんて。

 妖狐がゆっくり数を数えている間に、子どもたちは実に手慣れた様子で、思い思いの場所に身を隠していく。八百屋からダンボールを借りて頭から被る者、ストローを装備し池に飛び込む者、屋根に登り地上からの死角を衝く者など。レベルが高い。

 そして六十を数え終えた妖狐が立ち上がり、こちらもまた手慣れた様子で子どもたちを捜し始める。のんびりふらふらと歩いているくせに、悩むことも迷うこともなく、次々と子どもたちを見つけ出していく。子どもが隠れそうな場所は既に把握しているのだろう。

 手慣れているということは、それだけ経験があるということだ。一体彼は何度、ああやって子どもたちとのかくれんぼに付き合ってきたのか。

 更には子どもたちを捜す中でも、人里の代表を務める少女に感謝されたり、椿の髪飾りをつけた少女になにやらしつこく追い回されたり、メイドな少女と親しげに談笑したり、子どもたちの親から貰い物をしたり。

 笑顔、だった。

 彼の傍らには、常に誰かがいた。常に誰かが、楽しそうに、嬉しそうに、微笑ましそうに、笑っていた。

 こんな世界があるのかと――その時天子は、愕然としていたと思う。お嬢様育ちな天子にとって、笑顔とは、単に相手のご機嫌を取るための処世術でしかなかったから。最後に愛想笑い以外の笑顔を浮かべたのは、一体いつの話だろう。

 ああもあたたかい笑顔であふれる世界があることを、初めて知った。

 だから天子はふと気がつけば、彼の姿ばかりを追いかけるようになっていた。

 

 

 

 新しい日課ができた。それ以来天子は毎日天界の縁まで駆けていって、池の魚を覗き込む子どものような目で、地上の世界を眺めるようになった。

 あの妖狐の姿を、追い続けた。

 すぐに、あの妖狐が、最近になって山の麓あたりにできた温泉宿の亭主であることを知った。週末になると、北は妖怪の山から南は迷いの竹林、東は博麗神社から西は無縁塚まで、幻想郷の至るところからたくさんのお客さんが集まっていた。冥界や彼岸といった、この世とは異なる世界から足繁く通う者もいた。お客さんを迎え入れる妖狐の周りでは、まるで宴会のような笑い声が木霊していた。

 ある時は、夜中に突撃してきた吸血鬼の姉妹を迎えて、庭でバーベキューをしていた。

 ある時は、不老不死の少女や常闇の妖怪や化け猫と一緒に、屋敷の池で釣り大会をしていた。

 ある時は、藤の着物を着た鬼の少女にメイド服の少女、守矢神社の巫女に冥界の庭師、更には地獄の閻魔様に金毛九尾といった面々と一緒に、温泉宿の大掃除をしていた。

 屋敷の周囲だけに限った話ではない。人里はもはや言わずもがな、山に登ればすれ違う天狗や河童たちみんなから手を振られ、紅魔館に寄ったついでで門番に差し入れをすれば感動でむせび泣かれ、霧の湖に立ち寄れば氷の妖精から弾幕ごっこをけしかけられ、魔法の森を歩けば偶然出会った人形師に逃げられ、香霖堂のドアベルを鳴らせばその後何時間も出てこず、博麗神社にお賽銭を入れれば貧乏巫女から厚く感謝を捧げられ、永遠亭に行けば月のお姫様に抱きつかれる。

 屋敷にいても外を歩いても、やっぱり妖狐の傍にはいつも誰かがいて、やっぱり楽しそうに笑っている。そしてその中で生きる妖狐は、なんというか、命を謳歌しているように天子の目には映った。ああも日々を楽しんで生きているやつがいるのに、それに比べたら今の自分は一体なんなんだと、嫉妬すらしてしまうほどだった。

 故に、天子は豁然(かつぜん)と悟った。

 ――私に足りないものは、これ(・・)だ。

 天子と妖狐の決定的な違いは、隣人の存在だった。ともに笑い合える仲間だった。『不良天人』として傍若無人を尽くした天子に、友達とか、知り合いとか、そういう存在は一人としていない。だが、妖狐の周りにはたくさんの人たちがいる。老若男女も種族の違いも超えて、たくさんの人たちが妖狐と一緒に生きている。

 対極だ。自分とはまるで正反対の場所に、あの妖狐はいる。

 ――もしかして、今の私の人生がこんなにも退屈なのは。

 それは私が、独りぼっちで生きているからなんじゃないか。

 そんな気がした。独りぼっちでいるのを寂しいと思ったことはなかったし、むしろそっちの方が、人間関係に悩まない分だけ気楽でいいとも思っていた。けれどたくさんの人々に囲まれて生きる妖狐の姿を見て、自分の根底が決定的に揺らいだのを感じた。

 もしも私に仲間がいれば、あんな風に、笑って毎日を過ごせるようになるのだろうか――。

 だから天子は、妖狐の姿を追い続けた。彼の生き方を知れば、生きることにすら飽きてしまった自分の人生を、なにかしら好転させる手掛かりが得られるような気がした。

 春の終わり。

 いつしか天子は、人々に囲まれる妖狐の姿に、憧憬を抱くようになっていた。

 

 あんな風に。

 月見みたいになりたいと、思ったのだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――あああああああああああああああああああ!!」

 

 血を吐くほどに、喉が震えた。

 人が出すような声ではなかったと思う。自分の小さな体の、一体どこをどう動かせば、これほどの声で叫ぶことができるのか。ただ少なくとも、途中で本当に血を吐きそうになって、霊夢の叫びは感情の半ばで途切れた。

 天子が倒れている。

 大空みたいに青かった髪を、天そのものみたいに綺麗だった服を、直視すら躊躇われるほど赤黒く染め上げて崩れ落ちた彼女は、動かない。

 もう、ぴくりとも、動かない。

 

「……ッ、ハッ、ハ……ッ!」

 

 動かない天子を見下ろし、紫が肩で息をしている。霊夢たちの総攻撃で、紫は決して軽くない傷を負った。服は破け、帽子は消し飛び、肌には血もにじんでいた。しかしそれらの痛みをすべて、怒りという感情の爆発だけで強引に振り切って、紫は天子を斬り捨てた。

 霊夢の短く揃えられた爪が、土を抉った。

 

「ゆぁ、いっ…………!!」

 

 きっと、喉をやってしまったのだと思う。声が掠れて上手く出てこない。だが声が出ずとも、体が動かずとも、霊夢の奥底を這いずり回る激情だけは治まりようがなかった。

 信じられなかった。信じたくなかった。無論霊夢とて、紫が不殺の妖怪などとゆめゆめ思っていたわけではない。霊夢が知らないだけで、人を殺したことも、喰ったこともきっとあるだろう。人と妖怪が、完全とはいえないまでも幻想郷で共存を始めたのは、高々ここ数百年程度の話だ。

 だが霊夢の目の前で、霊夢が殺すなと何度も訴えた少女を、こいつは。

 潰れた喉で、霊夢は咆えた。紫に一撃をもらい、地面を何度も打ち転がった体はまるで石のようだ。赤熱した脳でどれほど命令しても、汚れた指先が再度土を抉るだけ。

 関係ないと思った。

 隣では、同じく一撃をもらった魔理沙が完全に気を失って動かなくなっている。龍宮の使いも、この状況で姿が見えないということはやられてしまったのだろう。

 霊夢しかいない。

 あいつをぶっ飛ばせるのは、霊夢しかない。

 

「――ぐ、あ、ああああああああ……ッ……!!」

 

 そんな体で立ち上がったところで、満身創痍のお前になにができる? ――そう自問する声が聞こえた。

 関係ない、と答えた。

 なにができるとか、できないとか、そういう次元の話じゃない。

 博麗霊夢は、今は、たとえこのまま一生動けなくなるとしても今だけは、動かなければならない。

 ――だから、動いてよ。

 動いてよ、私の体。

 なんで動かないのよ。

 動いてよ。

 動けよ。

 今すぐ動いて、目の前のあいつをぶっ飛ばしてやれよ。

 荒く肩を上下させる紫が、横目で霊夢を捉えた。

 

「……やめなさい、霊夢。獣みたいだわ」

 

 獣だっていい。

 それで紫をぶっ飛ばせるなら、獣にだってなってやる。

 ――だから動けよ、私の体!!

 

「……まったく」

 

 だが、駄目だった。たとえ満身創痍の体でも、気力だけですべてを覆すなんて。そんなの、所詮は御伽噺の中だけの話で。

 静かなため息の音。結局、首を振った紫に真横に立たれ、額をそっと指で這われても。

 それでも霊夢の体は、最後まで動いてくれなかった。

 

「もう、忘れなさい。悪い夢だったのよ」

「っ……ぅ……」

 

 甘い香り。夢に落ちる感覚。あの時と同じだ。あの時は魔理沙が助けてくれたが、今は、誰もいない。

 これで終わりだという、あまりにも鮮明すぎる絶望だった。

 

(……ああ、もう)

 

 全身から力が抜けて、霊夢を唯一突き動かしていた怒りすらも消えた。これ以上足掻く精神力を根こそぎ奪われ、あとに残ったものはといえば、自分のすべてを否定したくなるほどの自己嫌悪だった。

 情けない。悔しい。天子を守れなかった己の無力が惨めすぎて、涙すら流れない。

 もしも。

 もしも自分に、もっと力があれば。

 天子を守ることも、月見との約束を守ることも、できたのだろうか。

 もっと、力があれば――。

 だが、そんなの夢想したところでもう意味はない。これでなにもかも終わりだ。きっと霊夢はすべてを忘れる。天子のことも、この異変のこともすべて忘れる。紫の術が脳を髄まで染み込んでしまえば、次に目が覚めた時に待っているのはなにもなかったことにされた偽りの日常だ。

 終わり。

 霊夢は天子を守れなかった。月見との約束を守れなかった。そしてすべてを忘れた。それで終わり。

 終わりなのだ。

 悲しいとも思わなかった。涙は最後まで、流れなかった。

 まぶたを閉じた、

 

「――はい、そこまで」

 

 

 

 紫が術を完成させる間際、後ろから肩に手を添える者があった。

 それに一瞬気を取られた直後、紫の視界が回転した。

 投げ飛ばされている。

 

 

 

「――お疲れ様、霊夢。頑張ったねえ」

 

 聞き馴染みのある声が聞こえた。紫の術が完成する間際だった。額を這う指の感覚がどこかに消えて、代わりに一回り小さな、けれど抱き締められるように温かい掌が、霊夢の頬を優しく撫でた。

 もうほとんど微睡んだ意識では、それが果たして誰の掌だったのか、判断することはできなかったけれど。

 

「大丈夫だよ、あの天人は生きてる。月見が今、助けた。だから、もうだいじょーぶだ」

 

 けれど、なにを言われているのかはわかった。

 これで全部終わりではなかったのだと、わかった。

 

「でしょ?」

「ああ。もう大丈夫だよ」

 

 あの人の声。

 

「――ありがとう、霊夢」

 

 涙が流れた。

 それですべて救われたかのように、霊夢は意識を手放した。

 もう大丈夫なのだと。

 本当に、そう信じることができたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なにが起こったのかは、肩に手を添えられた時点で理解していた。その上で紫の心に湧いたのは、憤怒でも悲嘆でも焦燥でもなく、染み渡るように静かな諦念だった。

 回転した体勢を整え、地を足で踏む。

 

「紫ったら、随分と暴れたねえ」

 

 意識を失った霊夢を庇い、童子と見紛うほど小さな少女が立っている。ふらふらとおぼつかない足下で、一見すれば隙だらけに見えるが、その異様な存在感は金縛りのように紫の肌を痺れさせる。

 

「でも、もうこのへんにしといてやったら? 私は、やめといた方がいいと思うなあ」

 

 木の枝めいた華奢な細腕に宿るのは、一振りで大地をも砕く鬼の怪力。たとえどれだけ幼い見た目をしていようとも、内に秘めた力は紫にも引けを取らない――否、ことその体一つの戦闘能力に限れば紫すらも凌ぐ、小さな小さな大妖怪。

 鬼の四天王として伝説に名を残す少女――伊吹萃香は、そうやっていつも通りに、伊吹瓢の中身をのんびり喉へ傾けていた。

 

「……」

 

 萃香まで来たかと、静かに思う。予想していなかったわけではない。彼女だって紫と同じで、人間という種族に肩入れしている妖怪の一人だ。紫が怒りを理由に人間に危害を加えれば、止めようとすることもあるだろうと考えてはいた。

 その上で、考えなかったことにした。

 月見は、仕方ない。殺されそうになっている命があればまず止める。そういう妖怪だから、仕方ない。でも萃香は違う。

 紫が月見と出会うよりも前から、ずっと親睦を深め合ってきた親友同士だから。

 だから、萃香が敵に回ることを考えたくなかった。紫の怒りを我が身のように理解し、共感してくれるのではないかと願っていた。

 結局、ただの独りよがりだったのだ。

 紫に共感し、自らの意思で力を貸してくれたのはたった一人だけ。その一人だって紫の式神なのだから、言ってしまえば手を貸してくれるのが当たり前だ。

 そういう意味では、紫に本当の味方など一人もいない。月見も萃香も、霊夢も魔理沙もみんなが紫の敵で、博麗神社を壊した悪い天人の味方。

 寂しくて、泣いてしまいそうだ。

 ねえ。ねえ、そいつはそうやって、みんなから守られるのに値するやつなの? 確かに私は、絶対に正しいことをしてるわけじゃない。でもそれは、博麗神社を壊したそいつだって同じ。なのに、誰にも味方してもらえないくらいに間違ってるのは、私なの?

 ねえ。

 ――ねえ、教えてよ。月見。

 立ちはだかる萃香の奥。天界を吹き抜ける夏風の中で、陽光を弾き返す強い銀色が揺れている。

 月見はなにも言わず、もう決して離すまいとするように、天子の体を強く腕の中に抱いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 名前を呼ばれたような気がして、天子はゆっくりとまぶたを上げた。そうしたら目の前に月見の顔があったから、夢かな、と思ってしまった。

 ひょっとしたら神様が、最期に願いを叶えてくれたのかしら。

 

「……遅くなってごめんな、天子」

 

 耳をくすぐる、聞き心地のいいバリトンの声。少しずつ、周りの状況が頭に入ってくる。どうやら天子は、月見の腕の中にいるらしい。背中に腕を回される、優しいぬくもりを感じる。

 本当に夢みたいだと思ったけれど、ふと、びっくりするくらいに真っ赤になった自分の体が見えたので、夢ではなさそうだ。

 紫に、斬られた。

 でも、不思議だ。普通、これくらい出血したら、意識なんてあっという間になくなってしまいそうなものなのに。それとも、見た目ほどひどい傷ではないのだろうか。そういえば痛みもほとんど感じない。月見の腕の中にいる温かさだけを感じる。なんて都合がいいんだろう。

 やっぱり神様が、願いを叶えてくれたのかな。

 唇を動かす。

 

「――月見、」

 

 血を吐くこともなく喋れたので、そのまま続ける。

 

「……私ね、ずっと、月見に憧れてたんだ」

 

 月見が、虚を衝かれたように眦を持ち上げた。

 

「私と月見が出会ったのは、少し前の天界が初めてだけど。でもそれより前から、私はあなたのことを知ってたの」

 

 思い出すのは、幻想郷がまだ春だった頃。

 

「ものすごく退屈してて、本当にどうしようもなくなってた時に、暇潰しで地上を眺めてたら……月見を見つけたの」

 

 あれからずっと、月見の背中ばかりを追い掛けてきた。

 

「……私、天界の中じゃあ『不良天人』って呼ばれてて……まあ、嫌われ者、なのかな。昔はすごいわがままで、やりたい放題やって、たくさんの人にたくさん迷惑を掛けてたから。……でも、今は違うよ。自分で言うのもなんだけど、ずっと丸くなって、ちょっとは女の子らしくもなったつもり」

 

 当時の天子が今の天子を見たら、きっとなにがなんだかわからなくて放心してしまうだろう。別人だと言われても仕方ないと思う。

 私がこんなにも変われたのは、

 

「全部、月見のお陰なんだ……。月見って、お友達たくさんいるでしょ? 人間だったり妖怪だったり、男の人だったり女の人だったり、たくさんの人たちがあなたの周りにはいる。でも、嫌われ者の私にはいなかった。……だからかな。あなたを……ううん、あなたと、あなたの周りにいる人たちを見ていたら、今の自分がすごく寂しい生き方をしてるって、気づいたの。

 月見みたいに、なりたいって、憧れて……」

 

 月見の傍に――地上に行きたいと、考えた。

 今になって思えば、きっとそこが運命の分水嶺だったのだ。そして天子は間違えた。あの時己の心を奮い立たせ、天界を下り、地上に降り立つことができていれば、きっと博麗神社を壊してしまうことも、紫に斬られてしまうこともなかった。

 ということはつまり、天子は降りられなかったのだ。いざ天界の縁に立って地上を見下ろすと、足が震えて動けなかったのだ。

 地上に降りていったとして、天子がみんなに受け入れてもらえる保証などどこにもない。むしろ『不良天人』である自分に、誰かと上手くやっていく力があるとは思えなかった。今は、遠くただ眺めているだけだからなにも心配はない。一度地上に降り立ってしまえば、もうそんな甘えは通用しない。

 もしもなにか間違えてしまって、地上の者たちから拒絶されてしまったら。天界がダメで、地上でもダメになってしまったら。

 長い間独りで生きてきた天子は、人の心を汲み取る力に弱かった。どうすれば人と仲良くなれるのかがわからなかった。だからもしものことを考えてしまうと、急に怖くなって、足が竦んだ。

 

「……だから、異変を起こそうって思ったの」

 

 別に、異変を起こさなければならなかったわけではない。異変を起こしたかったわけでもない。数ある選択肢のうちで一番理想的だったのが、『異変を起こす』という手段だった。だから異変を起こすと決めた。

 自分から降りられないのなら、向こうから昇ってきてもらえばいいのだから。

 

「暇潰しだなんて、嘘っぱち」

 

 そんなのはただの建前で、本命は、月見と――地上の人々とつながるきっかけを作ること。異変を利用すればそれが可能だった。ちょうど幻想郷では、いくつかの前例があったのだから。

 過去に異変を起こした者たちが皆、最終的に幻想郷の住人たちと和解し、受け入れられてきたという前例が。

 

「ただ、みんなに、私を、見つけてほしかっただけで」

 

 だから同じことをやれば、私だって、みんなに受け入れてもらえるかもしれないと思った。地上に降りていくことすらできない情けない自分でも、異変を利用すれば、あの輪の中に入れるきっかけを得られるかもしれないと期待した。

 その結果がこのザマだ。

 

「馬鹿だよね、私……」

 

 異変を起こすまではよかった。憧れの月見と一緒に修行をして、ちょっといじめられたりもしたけれど、あの時の天子は幸せだった。

 異変を起こしてからがダメだった。幻想郷の天気がおかしくなってすぐに、亡霊と鬼が天界に昇ってきてくれたが、彼女たちに異変を解決する気はまったくといっていいほどなかった。だから、やっぱり博麗の巫女が動かないといけないんだと思って、博麗神社をターゲットに小さな地震を起こすことにした。度重なる地震に不審を抱いた霊夢は原因の調査に乗り出し、やがて天子の待つ天界へと辿り着くはずだった。

 けれど霊夢は夏バテになってしまっていて、小さい地震を起こす程度じゃあ全然気づいてくれなくて。

 それでつい、少しヒヤリとさせるくらいじゃないとダメなのかと早まってしまって。つい、神社の脆さを計算に入れないまま強い地震を起こしてしまって。

 

「ほんと、ばかだなぁっ……!」

 

 少し、鼻の奥がツンとしてきたのを感じて、天子はゆっくりと深呼吸をした。泣いてはダメだ。自虐をしている場合でもない。最期かもしれないのだから、最期くらいは、ちゃんと笑顔で、ありがとうを、

 

「――、」

 

 ありがとうを。

 言う、はずだったのに。

 

「……月見?」

 

 なんの前触れもなく、ぎゅうっと、月見の胸の中に抱き締められてしまったから。

 あ、と小さく呟いた時には、もう遅かった。

 感情が、決壊していた。

 

「――ごめんね……! ごめんね、月見……ッ!」

 

 結局、天子が伝えたかった言葉は『ありがとう』などではなかった。そんなの、ただの子どもじみた強がりだった。

 修行を手伝ってくれてありがとう、ではなく。応援してくれてありがとう、ではなく。友達になってくれてありがとう、ではなく。

 修行を手伝ってくれたのに、応援してくれたのに、友達になってくれたのに、

 

「ごめんなさいっ……! うまく、できなかったよぉ……!」

 

 月見の胸に顔を押しつけて、必死に嗚咽を噛み殺した。目を痛くなるくらいに閉じて、必死に涙をこぼすまいとした。けれど全部無駄だった。いつまで経っても月見が放してくれなかったから、天子は少しの間、ぐちゃぐちゃになってしまって、赤子みたいに泣きに泣いた。

 本当に、馬鹿だ。

 変わりたいと、月見みたいになりたいと願って、少しくらいは彼の背中に近づけたつもりだった。でも実際は、なにひとつとして変われてなどいなかった。自分の都合だけで勝手な行動を起こして、他人に迷惑を掛けて、傷つけて、その上関係のない人たちまで巻き込んで、怪我をさせて。

 住む家を破壊されたのに、それでも天子を守ろうとしてくれた霊夢も。本当に赤の他人なのに、それでも一緒に戦ってくれた魔理沙も。他人に興味なんてないはずなのに、それでも駆けつけてくれた衣玖も。

 月見だって、服の至るところが傷んでいる。鋭利ななにかで斬り裂かれた跡があり、炎で焼かれた跡があり、薄い血がにじんだ跡がある。紫が放った足止めに苦しめられながら、それでも乗り越えて、天子を助けに来てくれた。

 みんなみんな、泣いてしまいたいくらいに優しい人たちばかり。

 なのに、なのにどうして私だけが、こんなにもダメなのだろう。

 

「悔しいっ……! 悔しいよぉぉぉ……!!」

 

 足が竦み、地上に降りられなかった自分が悔しかった。異変を起こすという楽な手段に逃げた自分が悔しかった。軽い気持ちで地震を起こし、博麗神社を壊してしまった自分が悔しかった。

 なにひとつ変われていなかった自分が。

 これで最期かもしれない自分が。

 涙も止められないほどに、悔しかったのだ。

 

「ごめんね……! ごめんね……っ!!」

 

 謝ってなにかが変わるとは思わないが、ただそうすることしかできない。嗚咽を何度も噛み、月見の胸に顔を押しつけ、涙はもう滂沱(ぼうだ)のようで、天子はただ、

 

「――謝ることはないさ」

 

 声が、止まった。

 月見の大きな掌が、優しく、柔らかく、天子の髪を梳いた。

 

「ああ。少なくとも、お前が私に謝ることなんてひとつもない」

 

 一体、いつぶりなのだろう。誰かの腕の中に包まれ、赤子をあやすように頭を撫でられるのは。

 そんな家族みたいなことをしてくれる人は、もう天子には、何年も何十年もいなかった。魂の奥底まで染み渡っていくような深い深い安らぎを感じて、気がつけば天子もまた、月見の背に両腕を回していた。

 止まったのなどほんの一瞬で、天子の頬を再び涙が伝っていく。けれどこの涙は、今まで流していたものとは少し違っているような気がした。

 あたたかい。

 

「むしろ、謝るのは私の方だ。このままじゃあダメかもしれないって、お前に焦られるようなことを言ってしまったしね」

「それは、」

 

 違うよ、と否定するよりも先に、

 

「だから、あとは私に任せてくれ」

 

 普段の柔和で穏やかな声とは違う、凛と耳朶を打つ強い響きだった。

 

「――こんな世界、私がどうとだって変えてやる」

 

 背に回された月見の指先が、まるで爪を立てるような力を帯びた。そこに宿っているのは瞋恚(しんい)ではなく、仁義でもなく、どこまでもまっすぐに澄んだ決意だった。

 月見の両腕が、まるで自分のすべてを――命そのものを包んでくれているような気がして、なんだかどうしようもなく安心してしまって、気づけば全身から力が抜けていた。

 力が抜けて、全部を月見に委ねていた。

 

「だから、今日はもうお休み」

 

 なんだか眠くなってきた。けれど恐怖はなかった。不思議と、このまま眠ってしまっても、また必ず目を覚ませるような。

 目を覚まして、また、月見と話ができるような。

 そんな、気がした。

 

「……また、助けられちゃうね」

 

 本当に助けられっぱなしだ。天子に変わるきっかけを与えてくれた。新しい日常を与えてくれた。弾幕ごっこの修行を手伝ってくれたし、友達にもなってくれた。

 もしも月見と出会えていなかったら、天子は今でも天界で独り、退屈に日々を喰われ続けていた。

 

「大したことじゃないさ」

 

 天子の耳元で、月見が静かに微笑んだ。

 

「お前を助けられなかったら、私としても実に目覚めが悪くてね。そういう意味では、自分が嫌な思いをしたくないだけさ。自分を守るためにやっているだけ。大したことじゃない」

「……ばか」

 

 天子も、笑った。

 

「……ありがとう、月見」

 

 一番初めに伝えたいと思っていた言葉は、自分でも拍子抜けしてしまうほどあっさりと、口からこぼれ落ちていた。

 天子の胸に満ちている気持ちは、こんな言葉では到底伝えきれなかったけれど。

 

「礼を言うには早いよ」

「早くないよ」

 

 月見の腕の中で、身じろぎするように小さく首を振って。

 大きな背中に、また、両手を回して。

 

「……ぜんぜん、早くない」

「……そうか」

 

 それから、ああもう眠るな、と思った。頭の中がぼんやりしてきて、まぶたが重くなってくる。明かりを消して布団に潜り込んだ時と同じ心地で、体が眠りに沈んでいくのを感じる。

 月見が優しく、髪を梳いてくれた。

 

「……おやすみ」

「……ぅん」

 

 まぶたが落ちる。今までの人生で一番暖かい寝床に体を預け、天子は透き通るような眠りに落ちていく。

 意識が途切れる寸前で、唇を動かした。

 ――あなたに会えて、本当に、よかった。

 果たしてこの言葉は、音になっただろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――だってさ。ちゃんと聞いてた、紫?」

 

 確かに。

 確かに、不可能ではないのだろう。スペルカードルールによる決闘は禍根を残さない。恨みっこなしの一本勝負。異変がスペルカードルールで解決されれば、それは事実上の仲直りだ。レミリア・スカーレット然り、西行寺幽々子然り、八意永琳然り、八坂神奈子然り――萃香だって、かつては異変を通して霊夢たちと対立し、敗北と和解を経て、幻想郷の住人たちに受け入れられてきた。今までみんなそうだった。和解できず幻想郷から居場所を失った者など一人もいない。

 だとすれば、「幻想郷に受け入れられること」を目的に異変を起こすことだってできるだろう。だがまさか本当にそんなことを考えるやつが出てこようとは、萃香にしてみれば痛快すぎて、声をあげて笑ってしまいそうだった。喉の奥をひくつかせ、口端を曲げるだけに留めておくけれど。

 

「っ……」

 

 萃香の問い掛けに、正面で佇む紫は答えなかった。俯き加減でよく見えないが、口元が唇を噛むように動いたから、聞いていなかったわけではないのだろう。同時に、聞きたくない言葉でもあったことだろう。

 壊したいから壊した。いっそのことそうであったなら、迷わずに済んだだろうに。

 

「どうする? まだ、やる?」

「……」

 

 紫はなおも答えない。だが地面に向かって伸びる棒切れと化したその両腕に、再び力がこもることもない。

 いい加減、紫だって気づいただろう。確かに本来、妖怪は人間を喰らうものであり、その命を奪うことに心を痛めない者は多かった。萃香も、紫も、生まれて間もない頃はそうだった。特にあの頃は、人を喰らって強くならねば他の妖怪に喰い殺されかねない、弱肉強食の世界であったから。

 今はもう違う。

 萃香だって、紫だって、今はもう変わったのだ。人を喰っていた頃とは違う。息をするようにその命を奪えていた頃とは違う。

 自分の中の致命的な矛盾に、紫はもう、気づいたはずだ。

 

「……ぅおお~い、月見ー!」

 

 聞き慣れた声が背後から聞こえて、萃香は首だけで振り返った。天界の縁の方から、こちらへ向かって飛んでくる人影がちらほらと。呑気に月見の名を呼びながら率いているのは、すっかりいつもの調子に戻った操であり、

 

「ちょっと天魔様ぁー、こんなところまで連れてきて一体なんなんですかー?」

「だぁから、お前さんらの力が必要だって何度も言っとるじゃないかっ。はいはい口よりも羽を動かす!」

「はぁ……ここ、空気が綺麗すぎてあんまり長居したくないんですけど……」

 

 慣れない天界の空気にため息をついているのは、幻想郷最速の異名を持つ射命丸文と、彼女ほどではないにせよスピード自慢の天狗たち。なーるほどねー、と萃香は口端を曲げた。

 人手を集めるから先に向かっててくれ、なんて言ってどこかに飛んでいったと思えば。

 

「ほら文っ、あいつじゃ! あの天人をばびゅーんと永遠亭に運ぶ! 怪我しとるから大至急っ!」

「ぜ、全然話が見えないんですけど……」

「とりあえずそのあたりは儂が責任持つから気にしないでっ! ハイ他のみんなも、ええと、霊夢と魔理沙と衣玖じゃな! キビキビ運ぶんじゃー!」

 

 紫を止める方ばかりに気を取られてすっかり失念していたが、確かに怪我人の搬送も重要だ。

 操にしては気の利いた行動に、月見は胸を打たれたような顔をしていた。

 

「操、あいつ……」

「にゃはは、こりゃーあとでお礼言っとかないとダメだねー」

「……そうだな」

 

 月見の腕の中では、天子が苦しさを感じさせない安らかな呼吸で眠っている。袈裟の方向に大きく走った裂傷には、幾枚もの札が折り重なり貼りついて、あふれ出てくる出血を見事に抑え込んでいる。止血の符、とでもいったところだろうか。昔から古今東西様々な術に手を出しては、気まぐれであんな風にオリジナルの符を作っていた月見だった。

 傍目ではあるが、楽観できるほど浅くはないにせよ、致命的なまでに深い傷でもないようだ。止血も既に終わっていることだし、このまま永遠亭まで運べば間違いなく助かるだろう。

 

「……そいつを運べばいいわけ?」

 

 月見の傍に降り立った文が、不機嫌な声で口早に確認した。月見との関係云々よりかは、単純に天界の空気から早く逃れたくて、先を急いでいるかのようだった。

 

「ああ。永遠亭まで、どうか頼む」

「そう」

 

 月見から託された天子の体を、服が血で汚れることも厭わずに受け入れる。二度ほど揺り動かし、決して落とさぬように、堅く。

 

「……深くは訊かないけど、大丈夫なんでしょうね?」

「ああ」

 

 主語のない問いではあったが、答える月見に迷いはなかった。萃香の頭上を超え、紫を見据えたその瞳は、強い。

 

「ならいいけど」

 

 ぶっきらぼうに肩を竦めた文は、それからぼそっと、

 

「……頑張りなさいよ」

 

 それっきりだ。突風が吹き荒び、萃香が一瞬目を瞑ればもう、そこに文の姿はない。天界の縁から下界へ向かって消えていく人影が、見間違いかと思うほど束の間、視界の隅で音もなく動いただけだった。

 あっさりと置き去りにされた天狗たちが、霊夢たちを抱え慌てて追いかけていく。操が、よろしく頼むぞー! と手をぶんぶん振って見送る。

 

「へー。まさかあいつが、あんたを応援するなんてね」

 

 月見と文の仲が改善したのは知っていたが、まさか文の方から「頑張れ」などという言葉を口にするほどだとは思っていなかった。新聞の新刊を毎回水月苑まで直接届けに行っているというし、意外と仲良しになっているのだろうか。

 月見は苦笑、

 

「もちろん、頑張るさ」

「ん。じゃあ私らは、万が一に備えて待機してるからー」

「ありがとう。でも、手間は掛けさせないよ」

 

 前を見た。唇を噛むでもなく、両手を握り締めるでもなく、体を震わせるでもなく、静かな悲しみだけに囚われ佇む紫を。

 手間は掛けさせない――その言葉には、どこか確信にも似た響きがあった。

 月見も気づいているのだろう。紫の矛盾に。

 ――紫はもう、比那名居天子を殺せない。

 一歩を踏み出す。

 

「……紫」

 

 名前を呼ぶ。答えはない。それでも月見は名を呼んだ。歩みを進めた。

 どうとでもしてやると少女に誓ったこの世界を、変えるために。

 辛いこともあったけれど、それでも最後には、みんなが笑えるように。

 

「紫」

 

 八雲紫は、なにも言わない。

 泣き出しそうな顔で、月見だけを見ている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――この異変、きっと本当に悪いやつなんていないんだよ」

 

 荒れ果てた平原で辛うじて倒れずにいた桃の木の陰に座り込んで、萃香が開口一番そう言った。

 

「天子も、月見も、紫も、霊夢も、私だって、みんなが等しく間違った。その皺寄せが、偶然あの子に行っちゃったんだ」

「……」

 

 足を前に投げ出し両手を後ろにつく子どもらしい座り方で、差し込む木漏れ日に目を細める。その表情は、喜怒哀楽の哀が欠如しているような彼女には珍しく儚げだった。

 お前さんもそんな顔をするんだなと心の中で呟いて、操は隣で胡座を掻く。

 

「天子は博麗神社を倒壊させてしまったし、そもそも起こす必要もない異変を起こした。月見は天子に、必要以上に手を貸しちゃった。紫は、神社壊されて怒るんだったら日頃からちゃんと修理しとけって話だし、霊夢だってわかりやすく異変が起こってるのに、神社が壊れるまで腰を上げなかった。……私だってまあ、一回天子と闘ったのに、目的も訊かないで見逃しちゃったわけだしね」

 

 静かだった。夏風が吹いて、桃の枝葉と、足元の草花が涼しげに揺れている。その音だけで満たされている。この平原の、本来あるべき姿だった。

 操が見据える先では、ちょうど指先くらいの大きさになった月見と紫が、互いに寄り添って話をしている。その声は、ここからでは遠すぎて聞き取れないけれど。

 

「とりあえず、儂らはなにもしないで済みそうじゃなー」

「そうだね」

 

 月見が紫を言葉で止められず、やむをえず戦ってしまうこともあるだろうと思っていた。月見の言葉にも耳を貸さないほど、紫は怒りで我を忘れているのではないかと思っていた。すべて杞憂だったようだ。

 

「紫も、段々冷静になってきたんだろうね。だからきっと、もう大丈夫だよ」

 

 こんな時でもこんな場所でも伊吹瓢をがぶ飲みして、萃香はいつも通り、にへらっとだらしなく笑った。

 

「それにしても、まさかみんなと仲良くなりたいためだけに異変を起こしちゃうなんてねえ。笑っちゃうよ」

 

 異変を起こした者たちは、異変を起こしたからこそ幻想郷に受け入れられる――本来それは、スペルカードルールがもたらす副次的な結果でしかないし、別にそういう決まりが存在しているわけでもない。地上に馴染むきっかけほしさに異変を起こすなんて、無軌道だし破天荒だしなにより遠回りすぎる、なんとも傍迷惑極まる発想だ。

 だからこそ、面白い。

 

「あんなに面白いやつを殺すなんてあんまりな話だよ。いっぺん酒でも呑みながら、とことん話し合ってみるべきだね」

 

 呑めるのだろうか、と操は思う。今や事態は収束しつつあるが、一方で傷つけられたものはあまりにも大きい。今までのように後腐れなく酒を呑んで馬鹿騒ぎして、それで笑いながら日常に戻っていけるほど、単純な話ではないように思う。

 けれど、

 

「だから……だからさ」

 

 萃香が、祈るように、

 

「だからさ、月見。どうか、綺麗に終わらせて。誰も苦しまないで、みんなが笑えるようにさ」

 

 否――事実として彼女は、祈っていたのだろう。両手を胸の前でひとつに握り締めて、そっとまぶたを下ろして、神へ捧げるように紡がれるのは、確かに祈りの言葉だった。

 

「誰も笑えないような終わり方なんて、私はやだよ」

 

 操は、前を見た。

 

「この異変が終わったら、みんなで。――みんな(・・・)で、宴会するんだから」

 

 操だって、そう思う。

 この願いは、届くのだろうか。

 操が見つめ、萃香が祈る先で、月見と紫の対話は続いている。

 風が流れる音よりも静かに、続いている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 決着であった。

 花びらめいた光の粒子が飛び散り、爆薬を炸裂させたように、派手な轟音と烈風が巻き上がる。風はあっという間に幽々子の背後へ吹き抜けて、着物の裾を躍るようにはためかせる。

 弾幕ごっこの決着を告げるこの終止符を、こうして外から眺めている以上は、勝利を手にしたのは幽々子だった。

 それが現実だ。

 だから胸を貸したのは、幽々子の方なのだ。

 ボロボロになった体を押さえ、ゆっくりとひとつため息をついた藍に、笑みを以て告げた。

 

「私の勝ちね、藍」

 

 藍は苦笑した。

 

「……そうですね。まったく、幽々子様には本当に敵いません」

 

 若干の悔しさは残るものの、憑き物が落ちたような顔だった。

 本当に、スペルカードルールとはありがたいものだと幽々子は思う。幽々子は相手の命を奪って勝つのは得意だが、命を奪わずに勝つのは苦手だ。妖忌の代から続く剣術稽古もどちらかといえば精神修行の意味合いが強く、故に幽々子は、スペルカードを除けば敵を攻撃する手段というものをまるで知らない。できるのは、能力を使い、相手の命を問答無用で奪うことだけ。

 幽々子のようなただの亡霊と、藍ほどの大妖怪が対等の舞台で力を競えるのだから、やはりスペルカードルールとは偉大なものだ。

 

「お疲れ様でした、幽々子様。……お怪我はありませんか?」

 

 傍らまで飛んできた従者が、幽々子の見てくれを確認するなり気遣わしげにそう言った。幽々子の服も藍に負けず劣らずボロボロになっていて、傍から見ればどちらが勝者かわからないかもしれない。

 幽々子は嘆かわしく首を振り、

 

「あんまり大丈夫じゃないわねえ。早く怪我を治すために、明日はたくさんお饅頭を食べないと」

「大丈夫みたいですね。安心しました」

「ぶーぶー」

 

 こんなみすぼらしい格好になるまで頑張った主人に対して、なんと冷たい発言。ボロボロの藍に、「大丈夫ですか!? お怪我はないですか!? なにかお手伝いできることはありますか!?」と一生懸命詰め寄って苦笑されている向こうの従者を見習ってほしい。多分向こうに同じことを言ったら、「お饅頭ですか! わかりました、買ってきます!」と大真面目に返されそうな気がする。今だけ従者を交換したい。

 ため息、

 

「まあそういうわけだから、藍。あなたはもう大人しくしてなさいな」

 

 天を見上げた。

 

「というか、行くだけムダでしょうね。あんなにすごかった紫の妖力が、すっかり収まってるもの」

 

 藍と弾幕ごっこをする中ですら感じられた紫の妖力が、いつの間にか消えている。幽々子たちが決着したのと同じように、向こうも終わったのだ。

 月見が間に合ったのか、それとも間に合わなかったのかは、わからないけれど。

 

「あとは紫たちが決めること。私たちにできることはない。そうでしょ?」

「……そう、ですね」

 

 散々張っていた気が抜けたのだろうか。わずかにふらついた藍を、橙が小さな体で咄嗟に支えた。

 

「大丈夫ですか、藍様……?」

「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」

 

 家族のような絆を見せる向こうの従者と、主人に肩を貸しもしない冷酷な従者を見比べて、明日は饅頭をこっそり五つ食べてやろうと幽々子は心に決めた。

 その気遣いができない冷酷な従者は、迷いの多い瞳で空を見つめており、

 

「……月見さんは、間に合ったのでしょうか」

「そうねえ……」

 

 間に合ったはずだと、幽々子本人は思っている。月見さんならきっとやってくれたはず、と信じている。しかしそれは所詮個人の願望であり、絶対だと断言できるものではない。

 翻って妖夢の迷いない視線が、幽々子を捉えた。

 

「幽々子様。なにが起こっているのか、教えていただけませんか」

「……」

「紫様はなにをしようとしていたのか。なぜ月見さんは、紫様と敵対してまでそれを止めようとしたのか。……この異変でなにが起こっているのか、教えてください」

 

 ここまで来れば、断る理由はなかった。

 

「私も全部知ってるわけじゃないから、話せるのはちょっとだけよ。それでもいいなら」

 

 妖夢が頷いたのを確認し、幽々子もまた空を見上げた。

 

「この異変はね――」

 

 緋色の向こうで広がる白の世界へと、静かに思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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