竹の香りを感じて天子は目を開けた。
自分が知らない場所で寝ていることへの動揺は、これといってなかったと思う。本当に目が覚めたばかりで、まだ半分以上夢の中にいるような心地だったから、驚いたり焦ったりできるほど体も心も動いてくれなかった。
ひとつ、ゆっくり、大きく、息を吸った。
胸が上下する感覚と、かすかな痛み。
生きている。
「……」
竹の香りに混じって、薬の匂いがする。呼び起こされるように、今までのことを思い出す。
月見の腕の中で、眠りに落ちた記憶。背中にまだ、月見に抱かれた時のぬくもりが残っている気がする。なんだか、本当に夢を見ていたみたいだ。
息を、吐いた。
「……目、覚めた?」
掠れた声が聞こえて、天子はゆっくりと頭を傾けた。後頭部を丸々覆う大きなリボンと、腋のない大胆な巫女服が目に入ってくる。博麗霊夢が、びっくりするほど穏やかな面差しで、慈しむように天子を見下ろしていた。
神社を壊した天子に怒ったり、復讐に駆られる紫に怒ったりと、なにかと怒ってばかりだった霊夢からは想像もできないほど、その姿は深窓の人形めいて浮き世離れしていた。背もたれのない椅子に腰掛け、膝の上で両手を絡ませる姿は美しくて、ひょっとして別人なんじゃないかと疑ってしまったくらい。
ようやく少し、自分の表情が動いた気がした。
「よかった。随分と眠ってたわよ。丸々二日」
「……」
「どこか、具合悪いとことかある?」
緩慢な動きで、小さく首を振った。体が宙に浮いているみたいで変な感じはするものの、それだけ。傷の痛みだってこれといってひどくはない。もっとも目が覚めたばかりで、まだ口もロクに動かせないというのはあるかもしれないけれど。
というか、それよりも、
「ああ、私の声は大丈夫よ。ちょっと、喉痛めちゃってね。でもそれだけ。じきによくなるって言われたから、あんたは気にしないこと」
尋ねるより先に、全部言われてしまった。琴を弾いたように高らかで張りのあった霊夢の声が、見る影もないほど痛々しく掠れてしまっている。天子が眠っている間に、一体なにがあったのだろう。
「はいはい、そんな顔しない。自分の方がよっぽど重傷なのに、他人の心配とは随分余裕じゃないの」
だが見た限り辛そうではなかったし、なにか言うと叩かれそうだったので、早くよくなるといいね、とだけ思うことにした。
霊夢が、溜まったガス抜きをするように大きく伸びをした。それから、
「魔理沙、起きなさーい。天子が目を覚ましたわよ」
「んぉー?」
寝惚け半分に間延びした声が、天子の眠るベッドのちょうど向かい側から聞こえた。まだ首を上げられるほど体が動くわけではないので想像だが、きっと向かいにもベッドがあって、そこで魔理沙が寝ていたのだろう。「よく寝たぜ~」と、呑気にあくびをしているのが聞こえる。
足音、
「おう天子。生きてるか?」
にゅっと突然視界に入ってきた魔理沙が、白い歯を見せる笑顔で天子を見下ろした。それが雨雲を吹っ飛ばす太陽みたいだったから、天子もつられて少し、笑った。
「なに失礼なこと言ってんのよ。生きてるから起きたんでしょうが」
「おお、そりゃあそうだな」
「はいはい、それじゃあお昼寝して体力が回復した魔理沙さんは、みんなを呼んできて頂戴」
「おう、眠気覚ましに軽く運動といくか」
魔理沙が壁に立てかけてあった箒を手に取り、長いスカートをものともせず身軽に跨がって、帽子を深く被り直すなりなぜかスペルカードを
「魔符・『スターダストレヴァリエ』ーッ!」
ばごん。
「……」
まだ心も体も覚醒しきっていないからだろうか。服を着るように魔力をまとった魔理沙が部屋の扉をブチ抜き消えていったのだが、いっそ清々しいくらいにまったく動揺しなかった。ただ、魔理沙は元気だなあ、とそんなお年寄りのおばあちゃんみたいなことを考えた。
真っ二つになった扉の崩れ落ちる音が、右から左に抜けていく。霊夢も、なにも起こらなかったみたいに何食わぬ顔で、
「あんたが寝てた間のことを補足すると――ってまあ、私も昨日目を覚ましたばっかりなんだけど。とりあえずここは永遠亭っていって、幻想郷にある診療所ね」
知っている。天界から月見の姿を追いかける傍らで、幻想郷の主要な地名や建物はひと通り覚えた。迷いの竹林の奥深くに建つ診療所で、月の世界からやってきた人間や兎たちが、優れた医術を駆使し人々の助けとなっている場所だったはずだ。
月見にご執心なお姫様がいるらしいことも、知っている。月見の交友関係は、性別も年齢も種族も生まれた世界も選ばない。
「結果から言うと、月見さんがなんとかやってくれたみたい」
その名を聞いた途端、すっかりのんびり屋になっていたはずの天子の心臓がどきんと跳ねた。ただ月見という名前そのものに、天子の意識が隅々まで傾き、雪崩れ込んでいく。
心臓の鼓動、全身を巡る血の感覚が一気に戻ってきて、やっと本当の意味で目を覚ましたように思う。
「でも、一件落着ってわけでもないみたいね。私も詳しくは聞けてないんだけど、紫はまだ――ってこらっ、なに起き上がろうとしてんのよ! 安静にしてなさいって!」
起き上がろうとすると、胸の傷がたちまち軋み始める。痛むわけではないが、せっかく塞がった傷がまた裂けて広がっていきそうな、とにかくすごく嫌な感じだ。無意識のうちに躊躇してしまって、なかなか上手く起き上がれない。
それでも。
「月見、は」
咄嗟に伸ばされた霊夢の腕にしがみつき、声を絞り出して問うたら、呆れ顔で苦笑された。
「なに、そんなに月見さんに会いたいの? 大丈夫よ、さっき魔理沙が呼びに……っと、噂をすれば」
廊下の方から、バタバタと忙しない足音が聞こえてくる。
「――ほら月見っ、早くしろって! 天子が目を覚ましたんだぜ!?」
「わかってる、わかってるから。だから尻尾を引っ張るのはやめてくれ……」
その声を聞いた瞬間、ただでさえどきどきしていた天子の心臓が、輪を掛けて大暴れし出した。突き飛ばされたみたいに霊夢の腕から離れて、ピンと背筋を伸ばす。なぜかはわからない。わからないが、とにかくそれくらい緊張したのだ。
「天子ー! 月見連れてきたぜー!」
「あ……」
転がっていた扉の残骸を蹴飛ばして、魔理沙が銀の尻尾を引っ張りながら部屋に入ってくる。すると一拍遅れて、遠慮を知らない魔理沙に困り顔な、彼の姿が現れて。
その途端、今までの緊張が嘘だったように、天子の心を満たしたのは安らぎだった。力んで凝り固まっていた表情筋があっという間に弛緩して、ひょっとしたら少しだらしないくらいに、自然と笑みが浮かんでいた。
「……やあ。よく眠れたか?」
聞き心地のいい穏やかなバリトンも、全部を包み込んでくれるような微笑みも、なにひとつ天子の記憶と変わらない。
天子の思い描く通りの彼に、また会えた。それが、震えるほどに嬉しかった。
「――月見」
このたった三つの音が、どうしようもなく天子を安心させてくれる。
「おはよう」
「ああ、おはよう。天子」
また彼に、名を呼んでもらえることが。
涙すらにじむほどに、幸せだったのだ。
○
「――ねえ魔理沙、ちょっといいかしら」
「なんだ永琳。今結構いい雰囲気なんだから、水を差すのはナシだぜ」
「いえね、なんだか部屋の扉が真っ二つになってる気がするんだけど。これって私の気のせい?」
「ああ、それか。頭の悪いやつにはそう見えるんだぜ」
「へえ、そうなの。……ところであなたのスペルカードは素晴らしい威力ね。こんなにしっかりした扉をものともしないんだもの」
「いやあ、照れるぜ。ま、何事も火力が大事ってことでちょっと待て永琳やめろやめろわかった私が悪かった謝るってすみませんでしただからその青紫色の注射器をしまって、あっ、ちょ」
ということがあってせっかくの再会の雰囲気をブチ壊されてからしばし、天子の包帯を交換し終えた永琳が、その陶器みたいに美しい指先をゆっくりと膝の上に戻した。
「さすがは天人、ということかしら。完全でないとはいえ、もう傷が塞がってる。これなら、あと二~三日もすれば退院できるでしょう」
「ありがとうございます」
「ただ、傷が浅くなかったのは事実だから……跡は、残るかもしれないわ。そこは、ごめんなさいね」
とんでもないです、と天子は首を振った。謝られることなんてなにひとつもない。命が、助かったのだから。傷が残る程度、どうってことないと思った。
真っ白い病衣を着直したところで、永琳が廊下に向かって声をあげた。
「月見、もう入ってきて大丈夫よ」
「……なあ永琳、魔理沙のやつ本当に大丈夫なのか? さっきからずっと震えっぱなしなんだが」
「お仕置き用の痺れ薬だもの、痺れるのは当然よ?」
「いや痙攣っていうんじゃないのかこれは……」
本来であれば扉があったはずの空間を通して、床に投げ出されビクンビクンと震えている少女の足が見える。気にしたら負けだと思うことにする。
永琳を含め、月見、霊夢、衣玖、あと一応魔理沙も――みんなが一堂に会した病室で、口を切ったのは霊夢だった。
「そんじゃま、改めておはよう、天子――って言っても、もう昼下がりだけどね。話しても大丈夫かしら。それとももう少し寝てる?」
「ううん、大丈夫」
天子は首を横に振った。今はなによりも、確認したいことがある。
「あの……みんなは怪我、大丈夫なの?」
「それを一番重傷なあんたが訊くか」
霊夢に呆れられたが、だって、それでも、みんなが天子を守るために傷ついてしまったのは事実なのだ。
特に、
「衣玖……右腕は」
「見た目ほど、大したことはないですよ」
天子が紫に斬られる間際、衣玖の右腕が鮮血を振りまき宙を舞ったあの光景は、今でも脳裏に染み着いて離れない。
衣玖は右腕全体を包帯で覆い、首から下げた布で固定している。だがその痛々しい姿とは裏腹に、彼女が浮かべた笑顔はあっけらかんとしていた。
「これは、腕をくっつけるのに固定しておく必要があるのでやっているだけです。利き腕が使えないのは不便ですけど、それだけですよ」
「……く、くっつけ?」
なにやら今、人間の常識ではありえない表現が聞こえたような。
「無理やり千切られたりしてしまうとまた生えてくるのを待つしかないんですけど、幸い、傷口がとても綺麗でしたので。多分、明日にもなれば元通りになりますよ」
「は、生える?」
いや、妖怪の再生能力が人間と比べものにならないのは知っているけれど。
本当に? と月見に視線で問うたら、本当だよ、と二つ返事で頷かれた。
「腕は千切れてもまた生えてくるよ。私の時もそうだった」
「あら。あなたの腕を千切ったなんて、一体どこの化け物の仕業かしら」
「鬼子母神」
「……本当に化け物だったわね」
月見と永琳がなにか話をしているが、混乱しているせいでまったく頭に入ってこない。どうやら妖怪の再生能力は天子の想像の遥か上を行くようだ。もしかして、体を真っ二つにされたら断面からそれぞれ再生し、最終的に二人に分裂してしまったりするのだろうか。ありえないとは言い切れない。
「ちょっと待って月見さんなにそれあなた鬼子母神となにやってんの」
「昔の話だ、どうでもいいじゃないか。それよりも、今は天子の質問だ」
なにやら霊夢が騒いでいるのだけれど、やはり頭に入ってこない。とりあえず、医者である永琳がなにも言わないのだから、元通りになるという衣玖の言葉は真実だと判断できる。だったらそれでいいではないか。深く考える必要はない。ほっと胸を撫で下ろすと、心のしこりがひとつ取れたような気がした。
混乱していた頭を落ち着かせ現実に帰ってくると、ちょうど霊夢と目が合った。
「私はちょっと打撲して喉もやっちゃったけど、どっちも大人しくしてれば治るから大丈夫よ。魔理沙……も大丈夫でしょ。多分」
視界の片隅で、魔理沙の足がビクンビクンしている。気にしたら負けなんだと、もう一度強く自分に言い聞かせる。
最後に月見が、
「私は……というか、私が一番軽傷だったからね。特に治療も必要なく、一日で勝手に治ったよ」
「輝夜が治療したじゃない」
「永琳、お前の常識ではあれを治療というのか」
「いえ、いわないわね」
なにかを思い出したらしい彼は渋い顔をして永琳に笑われていたが、ともかく、みんな大丈夫そうだ。……ただし魔理沙を除く。
「よかったあ……」
「ちょっと、まだ安心するのは早いわよ」
安堵のため息をこぼしたら、すぐに霊夢から鋭い声が飛んできた。
「じゃあ本題ね。月見さんのお陰で一応紫は止まったみたいだけど、まだ完全にあんたを許したわけでもないみたい」
「……」
「月見さん。そのあたり、天子が目を覚ましたら話すって約束だったわよね?」
皆の視線が、自然と月見に集中した。どこか朗らかだった空気が一変して、息をするのも躊躇われるほどに張り詰めていく。天子はもちろん、霊夢も、衣玖も、永琳でさえ、その面持ちを険しくして月見の言葉を待っている。
あの時天子が、月見の腕の中で眠ったあとに、一体なにがあったのか。八雲紫は、まだ天子を許したわけではない。ならば天子が目を覚ました今、紫は一体なにを願うのか――。
「そうだね――」
月見がゆっくりと息を吸い、吐いた。腕を組み、言葉を迷うように目を伏せる。それは単に、どこから話すべきなのか考えているからなのか、或いは語るには憚られる事実が待ち受けているからなのか。
心臓を鷲掴みにされるような沈黙。やがて彼は口を開く。
「紫は」
「月見いいいいいいいいっッ!!」
「ぐはっ」
そして、天井から降ってきた紫に押し潰された。
「……は?」
緊張が一瞬で消し飛びなにもかもが氷結したのも束の間、月見のお腹に馬乗りする紫は涙目で、
「ねえ月見聞いてっ!? 藍ったらひどいのよ!? 今日のおやつね、橙にはいちごのショートケーキを作ってあげてたのに、私にはチロルチョコだったのっ! しかも一個! なんなのよこの差! なんでご主人様の方が貧相なの!? 遠回しに痩せろって言ってるの!? 確かにこの前自棄食いして体重増えちゃったけどっ、でもだからって十円はひどくない!? ズルいズルい羨ましい私もいちごのショートケーキ食べたかった――――――ッ!!」
などと喚き散らしながら、月見の胸をぽかぽか叩く。月見は、どうやら押し倒された際に鳩尾に紫の膝が入ったらしく、青い顔をしてぷるぷる震えている。
幻想郷最強格の恐ろしい大妖怪――だったはずの八雲紫が、なにやらおやつの内容に発狂しヒステリーを起こしている。それだけでも天子の頭は既に容量オーバーだったのに、更に廊下の方からズドドドドドと地響きがして、
「スキマアアアァァ!!」
「きゃあ!? あ、現れたわねこのひきこもりっ! ここで会ったが百年目よ!」
もしもそこに扉があれば、魔理沙に負けない勢いでブチ破っていたであろう。身の毛もよだつ絶叫とともに飛び込んできた少女が、足を止めるどころかむしろ加速して紫に飛び掛かり、
「ギンといちゃつくなああああああああっ!!」
「きゃあああ!?」
「げふっ」
紫の胸倉を掴んで引きずり落とし、ついでに月見の鳩尾に膝を叩き込み、
「つ、つつつっ遂にやってくれたわねこの残念金髪!? 私の家でギンを押し倒すなんて、なによっ、私のことバカにしてるのこのバカチンッ!」
「バ、バカチン!? 言ってくれるじゃないこのひきこもりっ! ってかそもそも、だァれがあなたの家なんかで月見を押し倒しますかっ! 押し倒すんだったら自分の家で、ちゃあんとお布団の上で押し倒しますー! どっちかっていえば押し倒されたいけどっ!」
「それが辞世の句ってことでオーケー?」
「ふんだ! そっちこそ、いつまでも私がやられてばかりだと思わないことねっ!」
上等よ! と紫の頭をぺしぺし叩く少女、少女のほっぺたをむいむい引っ張る紫、青白い顔で動かなくなった月見、ため息をつく霊夢、呆気にとられて固まっている衣玖、眉間を覆って嘆息する永琳、ビクビクしている魔理沙の足、そして天子は、
「……なにこれ?」
頭の上に疑問符をたくさん量産しながら、とりあえず、自分のほっぺたをむいーっと引っ張ってみた。
普通に痛かった。
○
八雲紫は二人いるのかもしれない。
だって、斬られたのだ。自業自得とはいえ殺されかけたのだ。故に天子にとって紫は紛れもない恐怖の対象であったし、妖怪の賢者と呼び称えられるのだから常に冷静で、合理的で、大妖怪の恐ろしさを全身で体現する女傑なのだと思っていた。
それがこれである。
「落ち着いたかバカ娘」
「はいぃ……ごめんなさぁぁぁい……」
妖怪の賢者が、仁王立ちする月見の正面でしおしおと正座している。
鳩尾の痛みから復帰した月見が笑顔で振り下ろした鉄拳は、傍から見ても背筋が凍るほどだった。紫の帽子の下では、できたてほやほやのたんこぶが湯気を上げていることだろう。月見の背後に金剛力士像的ななにかが見えるのは、果たして目の錯覚なのか。
「……何事にも、場の雰囲気とタイミングというものがあると私は思うんだよ。お前、こうやって色々ブチ壊すの、今回が初めてじゃないよな? むしろ結構頻繁に台無しにしてくれるよな? どうしてこうも空気が読めないんだお前は」
「はんせえしてまぁぁぁす……」
紫が鼻をぐすっとすすった。彼女は完全に涙目だった。天子の中にある紫のイメージが、もはや完璧に行方不明だった。
二人いると考えれば、辻褄は合うのだ。天子を斬ったのは、常に冷静で合理的で大妖怪の恐ろしさを全身で体現する女傑である八雲紫姉。今目の前にいるのは、姉とは対照的に幼く女の子らしい八雲紫妹。付き合いの長い月見や霊夢はそれはわかっているが、天子には当然見分けがつかない。そういうカラクリなのではないか。
ぐるぐる回る天子の混乱を、霊夢は表情から察したらしい。
「天子……あんたの気持ちはよくわかるけど、これが普段の紫よ」
「あ、うん。わかってるわかってる。双子の妹さんでしょ?」
「紫は紫よ。これって現実なのよね……」
マジですか。
いや、そういえば天界から月見の生活を眺めていた頃、彼の後ろを子犬みたいについて回る金髪の少女を見かけた気がする。あれが紫だったのだろうか。しかし幻想郷で金髪といえば黒の次くらいにちらほら見かける色なので、あまり自信がない。
でも、そっかあ、怖い人じゃなかったんだ。
ちょっぴりほっとしたような、元々怖くない人を本気で怒らせてしまった自分の失敗がますます申し訳ないような。そんな微妙な気持ちの天子の先で、月見の説教は更に熱を増している。立て板に水を流すが如き糾弾を一身に受ける紫の姿は、もはや親に叱られて反省している子どもであり、飼い主に怒鳴られてしょんぼりしている小動物のそれだった。もしも天子の体が満足に動く状態だったなら、「もうやめて! この子だって反省してるじゃない!」とか言って庇っていたかもしれない。それくらい哀れだった。
なお紫と喧嘩していた黒髪の少女は、月見に負けず劣らずイイ笑顔な永琳に襟首を掴まれ、いずこかへと引きずられていった。血の気の失せた顔で猛抵抗していた少女の命乞いが、今はぷっつりと途切れてしまっていることについては、あまり考えてはいけないような気がする。
魔理沙はあいかわらずビクンビクンしているし、黒髪の少女は生死不明だし、紫は月見の説教で半泣きになっているし。
確か天子たちは、張り詰めた空気の中でとても大切な話をしようとしていたはずではなかったか。なんだろうかこのカオスは。
衣玖と一緒に茫然自失としていたら、いつの間にか月見の説教が終わっていた。
「まったく……だがまあ、お前の方から来てくれたのはちょうどいい。ほら、天子が目を覚ましたから、話するぞ」
「はぁい……」
ぐずずっと一際大きく鼻をすすり、手の甲で涙をぐしぐし拭う紫のせいで、旅立ってしまった緊張感がイマイチ帰ってこない。
立ち上がり、まだ赤くなったままの瞳で天子を見据えた紫は、最初の反応としてため息をついた。体からそっと力を抜くような、嫌みのない穏やかな吐息だった。
「……まず、あなたを斬ってしまったことは謝るわ。ごめんなさい」
「……!」
面食らった。まさか開口一番で謝罪されるとは思っていなかった。
瞠目する天子に、紫が弱々しい笑みを見せる。
「でもそれだけ、博麗神社を壊されたのが……簡単にいえばショックだったの。それは、それだけは、どうか理解してくれないかしら」
「……はい」
天子は重く頷き、それから頭を下げた。自分で言えた義理ではないかもしれないけれど、充分に理解しているつもりだ。頭を下げた状態で視線を下に動かすと、己の胸元を覆う真っ白い包帯が見える。
「取り返しのつかないことをしてしまったと、自分でもわかってます。私の勝手な行動のせいで……」
「私たち幻想郷の住人と交流する、きっかけが欲しかったんですってね。……まったく、別に異変なんか起こさなくても、足を動かして口で伝えれば済む話なのに」
「うっ……ご、ごめんなさい」
足と口を動かせばそれで済んだ話。まったくもって同感だ。たった一歩を踏み出す勇気すら持てなかったあの頃の自分が、本当に恥ずかしいし情けない。
てっきり非難されたものと思ったが、紫はどこか懐かしそうに目を細めていた。
「……でも、わからなくもないわ。私も昔、人間たちに興味を持って色々といたずらしてた頃があった。道具を隠したり、物音を立てたり。自分で歩み寄る勇気がなかったから、そうやって向こうの方から気づいてもらおうと思ってたのね」
吐息、
「あなたは、昔の私にそっくりだわ。……もちろん、あなたほどやんちゃはしなかったけどね」
「ご、ごめんなさい」
「それはさっき聞いた」
紫の瞳に敵意がないのはわかっていたけれど、それでも一度斬られた相手だからか、ふとした拍子につい体が竦んでしまう。気が小さいわねー、と霊夢が呆れ笑いをしていた。霊夢が豪胆すぎるだけだと思う。
「あなたのことは月見から全部聞いた。……だから私も、あなたに話すわ。あなたの処遇も含めて、すべて」
「……わかりました」
だがこれは、天子が向かい合わねばならないこと。小さく深呼吸をして、紫の瞳をまっすぐに見返す。せめて、目だけは逸らさないでいようと思う。紫の言葉を徹頭徹尾すべて、正面から受け止めようと思う。
紫はゆっくり、薄雲を伸ばすように息をついて。
顔とまぶたを伏せ、過去を思い返す痛みに唇を噛み締めながら、静かに重い口を切った。
「――心にぽっかり、孔が空いた気分だった」
○
もしも心というものが形を持っていて目に見えるなら、今の紫の心には、向こう側まではっきり見通せるほどの孔が空いているはずだ――。
他人事みたいにそう思った。痛みなど感じなかった。崩れ去った博麗神社を目の当たりにして紫ができたことといえば、気を失ったみたいに立ち尽くして、神社だった欠片をただ眺め続けることだけだった。
一体どれほどの間、自分がそうやって呆けていたのかはわからない。数秒、数分、数時間、数日、数週間、数ヶ月、数年、あらゆる表現が当てはまるような気がしたし、言葉で言い表せるほど具体的な感覚ではなかったようにも思う。
きっかけは、ふいに頬を伝ったくすぐったい感触だった。目元から顎先へ、重力に引かれなにかが落ちていくむず痒さを感じてようやく、随分と前から止まってしまっていた頭の動きが帰ってきた。
雨でも降ってきたのかと思って空を仰いだけれど、その瞬間夏の太陽に目を刺されてすぐにやめる。
涙だと気づくまで、笑えるくらいに時間が掛かった。
その時になってようやく、紫は自分が悲しんでいるのだと理解した。
紫の『幻想郷の管理者』としての記憶は、博麗神社から始まっている。妖怪たちが欲望のまま縄張り争いしていた無法地帯を、幻想郷として創り上げるまで――そして幻想郷が生まれてからの長い年月で、常に紫とともに在ったのは博麗神社だった。
目も当てられないくらいズタボロになっていた神社を、萃香たちの力を借りて復活させた時から、すべてが始まった。ここが、すべての出発点だった。
嬉しいことがあった時、宴会をやってお祝いした場所は、ここ。
前途多難な幻想郷創世の道すがら、イライラが溜まって我慢できなくなった時、みんなを集めて自棄酒を呑み交わした場所も、ここ。
なんとなく人肌が恋しくなった時、友人知人を招待してお泊り会を開いた場所も、ここ。
特になにをするでもなく、縁側から景色を眺めて一息ついた場所も、ここ。
調子が悪い時、悲しい時、辛い時、ただ足を運ぶだけで元気を分けてくれた場所だって、この博麗神社。
常に一緒だった。紫にとって幻想郷の記憶とはすなわち、博麗神社とともに過ごした時間の蓄積でもあった。
きっと紫は、博麗神社が大好きだった。
今の今まで考えたこともなかったけれど、きっと、そうだった。
博麗の巫女の仕事柄、妖怪の襲撃を受けることが多かったこの土地に、自ら結界を張って守護したのも。
神社を破壊しようと群れを成した妖怪たちに立ち塞がり、神社に手を出すなら容赦はしないと啖呵を切ったことも。
博麗の巫女が大事だっただけではない。それ以上に。
ただ、博麗神社が、大好きだったから。紫にとって博麗神社は、愛する幻想郷そのものでもあったのだと。
こうして失って、初めて気づいた。
「――紫様」
後ろから誰かの声が聞こえた。ようやく回復した頭の動きがまだ本調子ではなくて、咄嗟に顔が浮かんでこない。
振り返ると、ちょうど藍が、体を揺らすほど大きく息を呑んだところだった。
「……どうしたの、藍?」
どうやら、紫の顔を見て驚いたらしい。そんなにひどい顔なんて、していないはずだけれど。
藍が逃げるように目を泳がせた。なにかを言おうとして唇を動かすが、あと一歩のところで音にならない。聡明で思慮深い藍には珍しく、その相貌からは激しい動揺と困惑の色が見て取れる。
「? 藍?」
「……紫、様」
口にすることすら躊躇うような、弱くたどたどしい声だった。
「泣いて……」
「……ああ」
言われてようやく、涙も拭わずにいたことに気づいた。
指の腹を目元にさっと走らせ、微笑む。
「大丈夫よ。……私は、平気」
「……」
けれど、あまり上手くは笑えなかったようだ。藍は安堵するどころか、目元をますます辛そうに歪めて黙り込んでしまった。普段はダイエットしろと言っておやつを作ってくれなかったり、自分でやれと言って仕事を手伝ってくれなかったりするいじわるなのに、こういうところでだけは心配症な式神であった。
藍がいてくれてよかったと、心の底から思っている。もしも藍がいなかったら、今頃自分はなにをしていただろうか。きっとなにもしてはいなかったのだろう。目の前の現実を受け入れられずに錯乱し、わけのわからないことを口走りながら泣き叫んでいたかもしれない。博麗大結界の状態や霊夢の安否すら、確かめないまま。
隣に信頼できる従者がいる。その事実が、紫を最低限ではあるが冷静にさせていた。
「……神社が倒壊した原因ですが」
言いたいことはもっと別にあったことだろう。だが藍は喉まで出かかっていた言葉を理性で飲み込み、従者としての務めに徹した。
「地震、で間違いなさそうです。相当揺れたようでした」
「……そう」
「かなり、老朽化していましたから……」
博麗神社を大々的に修復したのは、幻想郷創世を始める際の一度だけだ。それ以降はとりわけ痛みのひどい箇所を部分的に補修するだけで、外の世界で行われる遷宮のように、社殿を丸々建て替えたことは一度としてない。
他でもない博麗の巫女が、そういった手間と時間をよしとしなかったのだ。紫自身、博麗神社の古く寂れた佇まいや、数百年を経てくたびれた木材の肌触りと香りが好きで、全部造り替えてしまうのはなんとなく嫌だったというのもあるかもしれない。
過去に起こった大きな地震は、龍宮の使いの警告を目安に念入りな補強を行うことでやり過ごしてきた。これからも、そうなっていくのだと思っていた。
だが結局、今回に限って、龍宮の使いは動いてくれなかった。
それを、頭ごなしに非難することはできないけれど。
「……あの、紫様」
藍がまた、黄金色の瞳を迷いでさまよわせた。
「……その。地震が起こった、原因なのですが」
紫は沈黙を以て先を促す。束の間俯いた藍がやがて意を決して紡いだ言葉は、まるで鉄砲水を吐き出したようだった。
「何者かによって、人為的に引き起こされた可能性が」
「――……」
『人為的』という単語の意味を思い出すのに、少し時間が掛かった。
「周囲の鳥獣に話を聞きましたが……揺れたのは、神社の近辺のみだったと。この山を少し離れると、地震が起こったことすら知らない者もいました」
決して意味を取り違えぬよう、藍の言葉をひとつひとつ慎重に解体していく。
老朽化していたとはいえ神社一棟を倒壊させた地震だ、その揺れは幻想郷の全土を駆け巡ったことだろう。人里あたりなら多少の被害も出ているかもしれない。博麗神社の状況はわかったから、このあとは他の場所の様子も見て回らなければならない。
そうじゃないのか。
「博麗神社だけが揺れた――自然現象ではありえないです。ということは、短絡的ではありますが……」
ああ、と紫は思った。目の前のもやが晴れていく心地がした。果たしてその表現が的を射ていたかはわからないけれど、少なくとも大切な思い出を抉られ空虚となっていた紫の心に、ひとつの明確な意思が生まれた。
藍は、こう言っているのだ。
博麗神社は、壊れたのではなく――
(――
ああ、そうか。
つまり今、幻想郷で起こっている異変は、
妖怪の山の上に広がっている、緋色の雲は、
全部、
「………………………………」
感情の方向性が決まった。
己の過失は認める。日頃から神社をしっかりと補修していれば、回避できていた未来だったかもしれない。龍宮の使いに頼ったりせず、初めから自分で動くべきだった。失ってから初めて気づくとは我ながら愚かだった。
自然に起きた地震だったなら、割り切れていただろう。
だが、これは、違う。
緋色の雲――地震雲が持つ大地のエネルギーを操り、博麗神社にだけ狙いを定めて。
そうして崩れ去った神社の残骸を見て笑っているやつが、いるのかもしれないという事実。
心を焼かれる音が聞こえる。
「赦さない……!!」
抉り取られた思い出の孔を埋めた感情は、怒りという名の、黒にも似た赤い炎だった。
「だから私は、あいつが赦せなかったの……!」
赦せなかった。
赦せなかった、はずだったのだ。少なくとも比那名居天子の体をこの手で斬り裂く瞬間まで、紫は本気でそう思っていた。
けれど天子を斬った瞬間に、なにもかもを理解した。
自分は決して、比那名居天子を殺せないのだと。
「傷つけられたんだよ、私の思い出を! 穢されたんだよ、私の幻想郷を……!! だから、赦せなくてっ……!」
目の前に、月見がいる。天子を助けた月見がいる。広大な天界の平原には、わかる範囲で彼以外の姿が見えない。萃香や操が場所と時間を作ってくれたのだと知って、だから紫はもう我慢もできなくて、ずっと聞いてほしかった心の叫びを月見にぶつけていた。
「なのに……! なのにっ……!」
比那名居天子の体は既に、射命丸文によって永遠亭へ運ばれた。あとは八意永琳の手厚い治療のもと、間違いなく一命を取り留めるだろう。
月見が来てしまったからだと、すべての理由を押しつける真似はしない。
だって、思い返してみれば初めからおかしかったのだから。
赦せなかったのなら、復讐が目的だったのなら、さっさとやってしまえばよかったじゃないか。霊夢と魔理沙が割って入ってきた時点で、事態が好ましくない方向に進んでいるのはわかりきっていた。だからさっさと終わらせてしまえばよかったのだ。紫にはそれができたはずだ。
どうして自分は、霊夢と魔理沙に割り込まれ、龍宮の使いに邪魔をされ、思わぬ形で総攻撃を喰らってしまうその時になるまで、比那名居天子を斬らなかったのだろう。
赦せなかった、はずなのに。
「死んじゃえって、思ってたのに……! ダメだった……っ!!」
天子を斬った瞬間に、なんとなくだけれど、それがわかった。
扇に妖力の刃をまとわせ、振り下ろした瞬間に――無意識のうちに、躊躇ってしまった。知らないうちに、手を緩めてしまった。殺すつもりで放ったはずの一閃は、命を刈り取るには程遠い、なんてことはないただの袈裟斬りでしかなかった。
最後まで復讐に徹することができるほど、非情になりきれなかった自分がいた。
死んでしまえとすら思っていたのに、殺したくなかった。
致命的な矛盾。滑稽な話。霊夢も魔理沙も、龍宮の使いも萃香も操も藍も橙も、月見も、誰一人として関係ない。
誰が味方だろうが誰が敵だろうが、初めから無理だったのだ。
体当たりするように、月見の胸に飛び込んだ。
「月見のせいだよ! 自分でも知らないうちに、きっと私は、あなたから影響を受けすぎてた……!」
月見と出会う前の紫だったら、殺せていたはずだ。殺せなかったのはきっと、月見と出会い、変わってしまったから。
優しくて甘いこの妖狐に感化されて、いつの間にか紫まで甘くなってしまっていた。それこそもう、人をひとり殺すことすらできなくなってしまうほどに。
知らず識らずのうちに、くすりと小さな笑みがこぼれた。果たしてそれは、自嘲だったのか。
「なんだかなあ……本当に、なんだかなあだよ……」
結局自分は、なにがしたかったのだろう。月見と対立して、藍と橙に辛い役目を押しつけて、霊夢と魔理沙を傷つけまでして、その果てに得られたものといえば、月見のお人好しが自分にも感染していたらしいという事実くらい。大切なものを傷つけられ、全身が沸騰するほどの怒りを覚えたはずなのに、外に向けて当たり散らすこともできず、内側に抱えて耐え忍ぶだけで、むしろ初めよりも悔しさが増していた。
空気が抜けていくような虚脱感が、全身に広がっていくのを感じる。月見の襟元をくしゃくしゃにしたまま、胸元に顔を押しつけたまま、紫はもう色々と限界で、無性に泣いてしまいたくなって、
「紫」
震えていた紫の背を、月見の両腕が、
「お前の気持ちは、こんな私でもわかってるつもりだ。でも、それでも」
紫は、月見の腕の中で、
「……思い留まってくれて、本当に、よかった」
泣いた。何時振りかもわからないくらいに本気で泣いた。声を押し殺すこともしないで、それはもう、ずっと昔に返ったように大泣きした。ぽかぽかぽかぽか、月見の胸を手当たり次第に両手で叩いた。
「悔しいんだよ!? 悔しかったんだよ!? 辛いんだよ!? わかってるの!? 本当に、わかってるの……っ!?」
もう立っていることもできなくて、月見と一緒になって座り込んで。
「月見のバカ!! バカ!! バカバカバカバカッ、ばかっ、ばか、ぁ……っ!!」
月見を責めているわけではなかった。本当に我慢の限界で、月見の一言で最後の砦を破壊されて、とにかくどんな形でもいいから、体中に溜まった不純物を吐き出さずにはおれなかった。軽い幼児退行みたいなものだったのかもしれない。
目の前にいるのが月見だったから、月見にぶつけた。そんな、月見からすれば傍迷惑もいいところな、八つ当たり。
「ああ。……ああ」
けれど月見は、文句のひとつも言わずに優しく抱き締めてくれた。だから紫も、もう我慢しなくていいんだと思って、感情が振り切れるままに全部を吐き出した。
或いは目の前にいるのが月見だったからこそ、吐き出せたのかもしれない。自分の弱い姿を見せられるのは、今も昔も、月見だけだったから。
このあたりは、月見の掌の上だったのかもしれない。そう思うとちょっと癪だったけれど、まあ。
たとえ八つ当たりであっても、思いっきり泣いて思いっきり吐き出して、静かに抱き締めて静かに受け止めてもらえたら、涙が自然と治まる頃には、少なからずすっとしてしまった気がするので。
やっぱり月見には敵わないなあと、紫はつくづく思うのだ。
泣きやんだ紫の背を優しく撫でながら、月見が言った。
「『幻想郷はすべてを受け入れる』って、お前は昔から言っていたね」
「……」
反射的に、身構えてしまったと思う。幻想郷はすべてを受け入れるんだから天子も受け入れてやれ、なんてひどいことを言われると思ったから。
けれど落ち着いて考えてみれば、月見がそんなことを言うはずがなかった。
「天子がなにを思って異変を起こしたのかは、お前ももうわかったはず。だからもう少しだけ、見てやってほしいんだ。幻想郷の住人たちが――幻想郷が、あの子をどう受け入れるのか」
まだできあがって間もなかった頃とは違って、今の幻想郷はもう、紫があれこれと手を焼かねばならないほど子どもではない。紫も幻想郷の管理者を名乗ってこそいるけれど、結界の維持を含めた重要な仕事は徐々に藍へ引き継ぎしているし、橙だってゆくゆくは八雲の名を継ぐだろうし、恐らくはそう遠くない未来のうちに、紫は幻想郷の母としての使命を終えるだろう。
紫が母親面してあれこれ口を挟むことなど、今となってはなにもないのだ。例えばある日異変を起こした余所者がいたとして、そいつを仲間と見なし共生するか、敵と見なし拒絶するかは、幻想郷に住まう人々が決めること。そしてどちらの結果となろうとも、たとえその先に待っているのが幸福でも不幸であっても、幻想郷はすべてを等しく受け入れる。
そうやってすべての種族の者たちが、自らの手を取り合いつくりあげていく楽園になればいいと願っていた。
目先の怒りに囚われて、そんなことも忘れてしまっていた。
どうせ、自分にはもうなにもできないと理解したのだ。ため息をつき、
「……わかった。月見の言う通りにする。あとのことは、幻想郷に、任せるわ」
もしも天子が霊夢たちと和解し、この幻想郷に居場所を作ることができたならば。
その時は素直に、認めよう。たった一歩を踏み出す勇気も持てなかった――どこか昔の自分に似た、臆病で不器用な少女のことを。
だが、ひとつだけ、
「でも……月見を疑うわけじゃないけど、私の目で確かめさせて? あいつの、本当の気持ちを」
地上とつながるきっかけがほしかった。博麗神社を倒壊させるつもりは全然なかった。それが天子の本当の気持ちなのだと――こういう場面で月見が嘘を言わないのはわかっているけれど、でもいくら月見の言葉であっても、そのまま鵜呑みにしてしまうことはできなかった。
他でもない紫自身が、大切な思い出を踏みにじられた記憶に打ち勝ち、比那名居天子という少女を認めるために。
彼女の心を試すくらいの権利は、今の紫にもあると思う。
「……具体的には?」
「大したことじゃないわ」
どこぞのお姫様のように、無理難題を押しつけてやるつもりはない。その気になれば紫が手を下すことだって容易にできるけれど、あえて天子に任せてみようと思う。
こうしていられるのももう終わりだろうからと、月見の腕の中にいるあたたかさを全身に刻みつけながら、紫は言った。
「それは――」
○
「――それは、あなたが気質を集めてつくりだした緋色の雲を、消滅させること。消滅させて、幻想郷に地震が起こらないようにすること。……要は、後始末はきちんとしましょうってことね」
紫が滔々と紡ぐ言葉を、天子は静かに受け止める。
「自分の過ちに後悔があるのなら、罪を償う誠意があるのなら、できるはず。そしてそれさえできるのならば、私はもうとやかく言いません」
決して容易な要求ではない。胸の傷もあるがそれ以上に、空を覆う雲を一部とはいえ消し飛ばすなど、人の手が届く範囲を外れているかもしれない。
できるか、と自問すれば――できる、とは断言できない。
けど、それでも。
「……信じさせて。あなたの想いを」
目の前に広がる可能性に、一度目は手を伸ばせなかった。勇気を持てずに目を逸らし、異変を起こすという楽な手段に逃避した。
だから、今度こそ。
今度こそ逃げずに、手を伸ばそうと。
真っ白いシーツを握る己の指に、人知れず決意の力がこもった。