銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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東方緋想天 ⑪ 「届け」

 

 

 

 

 

 しかし、決意を固めた瞬間問題にブチ当たった。

 一言で雲を払うといってもどうすればいいのか、まるで想像ができない。

 

「――緋色の雲は、地震のもととなるエネルギーを詰め込んだ容器です。なので、容器を壊す……つまり雲を払えば、中身は大気に溶けて消えるでしょう」

 

 山の上空を覆う緋色の雲について、専門家である衣玖の講釈を聞きながら、天子は思考の渦へと落ちていく。

 

「確認しますと、緋色の雲は決して大きいものではありません。仮に今の状態で地震が起こったとして、建て付けの悪い屋根の瓦が落ちる程度はあるでしょうが、建物が倒壊したりとか、そういった被害にはならないはずです」

 

 それは天子もわかっている。幻想郷中から気質を集め、緋色の雲をつくりあげたのは他でもない天子だ。幻想郷の天気を狂わせるのに最低限であり、かつ大きな地震は起こらないよう、調整には最大限気を遣った。

 謂わば緋色の雲は、放っていてもとりわけ問題のないもの。それを払うなど普通は考えもしないし、やれと言われたところでやろうとは思わない。

 紫に認めてもらいたいという、嘘偽りのない想いがない限りは。

 

「まあ、博麗神社みたいに脆い建物がなければですけど」

「だってよ、紫」

「はいはい、すみませんでしたー」

 

 想いはある。紫に認めてもらいたいと願う、小さな灯火のような想いに嘘はない。今度こそ、逃げずに手を伸ばすのだ。方法があるのなら死力を尽くそう。

 けれど、その方法が。

 

「そういうわけなので、これといって危機感を持つ必要はないかと」

「ちょっとー、そういう言い方はやめてくれなーい?」

「もちろん、雲を払う使命感を持つのは大事です。ですが、危機感まで持つ必要はないという話ですよ」

「……まあ、結果的に雲を払ってくれるならどっちでもいいですけどー」

 

 顔を上げると、紫が唇を尖らせながら月見の尻尾をもふもふもふもふ、

 

「真面目にやれ」

「あう」

「……」

 

 月見にチョップされた。額を押さえてぶーたれる紫の姿に愛想を尽かして、せっかく戻ってきた緊張感がまたどこかに旅立っていったのを感じる。

 衣玖と目が合った。

 

「とはいえ、雲としての規模は大きくないといっても、私たちの目から見れば充分巨大です。雲を払うと言葉で言うのは簡単ですが、実行はかなり難しいですね」

 

 相手が雲でなく、なにか物体であるなら話は単純だった。緋色の雲は、形を持っているように見えるのは地上から見上げるからであって、実際は視認も難しい気質――気体が寄り集まってできている。斬る叩くといったやり方は通用しない。

 手がないわけではないのだ。緋想の剣には、気質を集めると同時に気質を斬り裂く力がある。空に集まった気質を片っ端から斬り裂いて消滅させていけば、最終的には緋色の雲も消せるかもしれない。

 だがそれは、湖の水を柄杓ですべて掻き出そうとするようなもの。相手の規模が桁違いすぎる。

 または、気体の集まりなのだから強力な風かなにかで吹き飛ばすことも可能かもしれない。しかし天子が操れるのは大地の力であり、空の力ではない。

 

「地震が起きるまでは……今朝確認したところだと、最長で五日です。具体的な時間帯は私にもわかりません。五日後かもしれませんし、ひょっとしたら今日中にでも起こってしまう可能性はあります」

 

 しかも、じっくりと作戦を練る時間までもがないと来た。諦めたくはないけれど、どうしても理性が自問してしまう。

 ――あの雲を払うことなんて、今の天子に可能なのだろうか?

 

「……ちょっと紫、いくらなんでも無理難題すぎるでしょうが。天子の体の状態、あんただってわかってるでしょ?」

 

 同じことを考えたらしい霊夢が、非難のこもった視線で紫を射抜いた。対して紫は、素知らぬ顔でそっぽを向いて、

 

「知らないわよ。そいつが勝手に撒いた種でしょうが」

「だからってねえ……」

「ふんだ。怪我をさせたのは私だし、さすがに一人でやらせるのは無理だってくらいわかってるわよ。誰かと一緒にやればいいでしょ」

 

 え、と天子の声がこぼれた。紫は明後日の方に顔を向けたまま、

 

「一人だけよ。霊夢でもいいし、そこの龍宮の使いだっていいし、月見だっていい。なんだったら、ここにいない誰かでも構わないわ。もしもあなたに力を貸してくれる誰かがいるのなら、その一人と協力することを認めます。協力よ。その人に全部任せちゃうのはダメ」

 

 吐息、

 

「……これが、私にできる譲歩の限界」

「……」

「あなたはもう、独りじゃないんでしょう?」

 

 天子を見つめて、淡く微笑んだのはほんの束の間。次の瞬間には表情も雰囲気も一変させて、いよぉし! と両手を固めて立ち上がる。

 

「じゃあ私は帰るわね! 藍に、なんとしてもショートケーキを作ってもらうんだからっ!」

 

 ああ、諦めてなかったんだ。

 黄金の瞳を使命と欲望で燃やした紫は、スキマを展開し、赤黒い眼差しが蠢く異界の中へと消えていく。

 スキマが閉じる間際に月見が、

 

「太るぞー」

 

 閉じたはずの空間の向こうで、紫の悲鳴が木霊した気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 もちろんそれで紫が戻ってくることもなく、あとには締まりきらない微妙な空気だけが残った。

 

「ほんと、色々とブチ壊してくれるやつよねえ……」

「まったくだ。どうしてああも空気を読んでくれないのか」

 

 霊夢と月見が、一緒にしみじみと頷き合っている。今まで何度も似たような場面に遭遇してきた経験者の面差しだった。そして自由奔放すぎる所業に呆れつつも、どことなく、すっかりいつも通りな彼女の姿に安堵しているようでもあった。

 あれが本当に八雲紫なのかどうかを今更疑ったりはしないけれど、こびりつく『恐ろしい大妖怪』という先入観を修正するには、今しばらく時間が掛かりそうだ。

 霊夢が胸の前で両腕を開き、肩を竦めた。

 

「ま、あんなのはいつものことだしどうだっていいわ。それよりも、雲をどうにかする方を考えましょ」

「といっても、総領娘様が助けを求められる相手なんて高が知れてると思いますけど」

「うぐっ」

 

 衣玖の何気ない一言が、天子の心をかなり深いところまで抉った。

 

「あー……そういえば、友達いないんだっけ」

「あうっ」

 

 更には霊夢から若干生温かい目で見られて、なんだから胸の傷口が開きそうだった。

 だが、負けじと反論する。そう、今の天子はもう昔とは違うのだ。

 

「い、いるもんっ。……月見とか」

「月見さんとか?」

「……月見とか」

「月見さんしかいないんですね」

 

 あれ、なんだか目から汗が。

 

「でもま、月見さんが適任でしょうね。私と魔理沙じゃあ、さすがにあの雲はどうしようもないし」

「私は龍宮の使いなので、龍神様の許可なく雲を消すことはできませんし」

「月見さん以外に友達もいないし」

 

 なんで、霊夢と衣玖の息がこうもぴったり合っているのだろう。なんだか仲のいい友達同士みたいじゃないか。月見しか友達がいない天子への当てつけか。いじめか。いじめなのか。

 しょんぼりする天子を尻目に、霊夢は月見へと微笑みかけた。

 

「月見さんも、まさか嫌だなんて言わないでしょ?」

 

 とっておきの秘密をバラすように、意地悪く口端を曲げて、

 

「だってあんなに真剣な声で、『天子を死なせないでくれ』って私に頼み込んできたんだしね?」

「ッハハハ。覚えられてたか」

「当たり前でしょー? あんなに、なんていうのかしら、切実っていうの? そんな月見さんの声聞くのって初めてだったもの」

 

 そういえば、と天子は思う。霊夢と魔理沙が天子を助けてくれたのは、他でもない、月見にそう頼まれたからだった。天子を助けたいと思っている人がいる。天子に死んでほしくないと思っている人がいる。天子を助けるために、全力で駆けつけようとしてくれている人がいる。

 自分がどれだけ月見から想われているのか、全然気づいていないだろうと――そう、胸倉を掴まれ、怒鳴られた。

 だったら、

 

 ――だったら私は、一体どれだけ、月見から想ってもらえているのだろう。

 

 無論そこに、男女の違いを根本とする恋愛感情があるとはゆめゆめ思わない。天子を見る時の月見の眼差しが、いつも優しく澄んでいるのには気づいている。例えば異性として興味を抱いているとか、あけすけに言って体を狙っているとか、そういった俗っぽい感情とはまるで無縁だ。きっと女の子が相手であれば、彼は誰にでも同じような眼差しを向けるのだろう。

 自分だけが例外、というわけでは決してない。

 けれど、もし――もしも、たくさんいる知人友人の一人としてではなく、そこから一歩先へと進んだ、大切な友として認めてもらえているならば。

 だからこそ霊夢がこうやってからかうくらいに必死になって、天子を助けてくれたのならば。

 そう考えると、なんだかこう、すごく、ものすごく、

 

「ほら見なさいよ、月見さん。天子のこのだらっしない顔」

「――はっ。ま、待って、今のは違っ……!」

 

 天子ははっと我に返った。どうやら相当ひどい顔をしていたようで、霊夢が呆れ、衣玖がくすくすと笑い、月見が照れくさそうに頬を指で掻いていた。身をよじりたくなるほど幸せだった心地が一気に吹っ飛んで、身をよじりたくなるほど恥ずかしくなった。

 だって、仕方ないじゃないか。憧れの相手なんだから。

 憧れの人から大切に想われているとわかったら、そりゃあ嬉しいに決まっている。ついだらしない顔になってしまうのも仕方ないではないか。人として当然の反応だ。不可抗力だ。自然の摂理だ。ばか。

 

「……もちろん私でよければ、最大限協力させてもらうさ」

 

 嫌に生暖かい空気を物ともせず、月見が穏やかに口を開く。

 

「せっかくここまで来たんだしね。もう一息、頑張らないと」

「月見……」

 

 傷口に染みるような心の震えが、天子の身も心をも覆い尽くした。本当にありがたい――いや、もはやありがたいなどという言葉では足りない。たとえどれほど知恵を絞り言葉を尽くそうとも、天子の全身を満たすこの感情を言葉で言い表すことなどできやしない。

 なにからなにまで、本当に助けられっぱなしだ。

 月見がいたから、今の自分がいる。月見がいなかったら、今の自分はありえなかった。

 どんな言葉でも贈り物でも足りない。この恩を返すためには、もう、自分のすべてを捧げるしかないんじゃないかとすら、

 

「……」

 

 すべてを、捧げる。

 ささげる。

 すべてを。

 ささげ、

 

「――~~~~ッ!?」

 

 なにやら変な妄想が吹き出てきそうになって、天子はぶんぶんと首を振った。

 霊夢と衣玖がにやにやしていた。

 

「一体なにを妄想したのかしらね」

「な、なんでもない! です!」

「きっとあれですよ。月見さんに恩を返すためには、もう自分のすべてを捧げ」

「ひああああああああああ!?」

 

 衣玖の顔面めがけて枕をぶん投げた。

 かいしんのいちげき!

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 穴に入りたい。

 穴があれば、迷うことなく、水へ還る魚のように飛び込んでいたはずだ。穴を掘る道具があれば、躊躇うことなく手に取って全力で動かしたはずだ。実際、穴ではなかったけれど、天子は布団を頭の先まで被ってダンゴムシみたいになって、身を焼くほどの羞恥をひたすら耐え忍んだんだから。

 だと、いうのに。

 月見の背におぶさって空を飛んでいるこの状況は、一体なんの公開処刑なのか。

 大したことはないと何度も言ったのだ。胸の傷はまだ塞がったばかりだが、違和感こそあれ痛みがあるわけでもないし、一人でも飛んでいけると何度も主張したのだ。だが霊夢は「せっかくだから月見さんに運んでもらいなさいよー」とにやにやして聞く耳を持ってくれず、衣玖も「そうですね、その方がいいと思いますよ」と頷くばかり、更には永琳の「運んでもらえるならそれに越したことはないわよ」がトドメとなって、結局月見の厄介になることとなってしまった。

 まあ、自分が怪我人だからというのは百歩譲るまでもなく納得できる。しかし、運んでもらう相手が必ずしも月見である必要はなかったはずだ。魔理沙がようやくビクビク状態から復活したのだから、箒に二人乗りでもさせてもらった方が色々と無難だったのに。

 

「天子ぃー。月見さんの背中、堪能してるー?」

「その話はもうやめてよー!?」

 

 にやにや顔で茶々ばかりを入れてくる霊夢に、天子はそろそろ涙目だった。

 せめて一矢報いる気持ちで睨みつけたら、一蹴するように肩を竦められた。

 

「本当に嫌だったらそう言えばよかったのよ。でもあんた、最後の方は自分から月見さんの背中に乗ったじゃない」

「う、ううっ」

 

 そう。そうなのだ。一人で大丈夫だだの魔理沙の方がいいんじゃないかだの散々抵抗したくせに、月見におぶってもらうチャンスなんてこれが最初で最後かもしれない、と思った瞬間もうダメだったのだ。だからこそ一層、霊夢のにやにや顔が心に刺さる。

 もちろん、白状する、それさえ我慢すれば夢のようだった。天子が思い描いていたよりも意外と固くて、そして温かくて、天子の体がすっぽり収まってしまいそうなくらいに大きい。ふと気が緩めば寄りかかってしまいたくなるほど、不思議と安心させられる。男の人の背中とは、みんなこうなのだろうか。

 これが天子と月見だけだったなら、ちょっと寄りかかってみたりもしたのかもしれないけれど。この場でやろうものなら、霊夢はもちろん衣玖や魔理沙からもなにを言われるやらなので、あくまで月見の肩に手を掛けるだけで我慢する。

 

「まったく、おアツいこって」

 

 理性と欲望の狭間で格闘する天子を眺めて、魔理沙が舌打ちするようにそう言った。永遠亭を飛び立つ際に「香霖にもこれくらいの甲斐性があれば……」と呟いていた彼女は、面倒見のいい月見に終始誰かの姿を重ねているようだ。天子に嫉妬しているわけではないらしい。

 やがてそれも無駄なことだと悟ったのか、上空――緋色の雲を仰いでため息をつく。

 

「……しっかし、あの雲をどうにかしろって、紫も無茶苦茶言いやがるぜ。月見よ、あんなの吹っ飛ばすなんてほんとにできるのか?」

「まあ、なんとかなるんじゃないか?」

 

 作戦は至って単純だ。月見が狐火で雲を払い、天子はそれに必要な霊力を貸し与える。

 問題は、緋色の雲を焼き払うなど本当に可能なのかということ。天子や魔理沙に限らず、霊夢と衣玖もそこを疑問に思っているのだが、月見はまったく気負った素振りもなく、いつも通りのんびりとした笑みを浮かべている。

 月見の実力はよく知らないが、尾を増やすごとに力を増すという妖狐の鉄則を考えれば、一本の月見はごくごく普通の妖怪だ。普通の妖怪が、緋色の雲を煙も残らず吹き飛ばすのはさすがに無理だろう。あれを払えるのは、八雲紫クラスではないにせよ、大妖怪と呼ばれる者たちだけなのではないか。

 なのに月見が「なんとかなる」と焦った様子も見せないのは、なんらかの強力な『能力』を持っているからなのか。そういえば天子は、月見がどんな能力を持っているのかを未だ知らない。

 しかし真実がどうであれ、天子はただ月見を信頼するだけだ。霊力を貸し与えるだけの役目でも全力を尽くす。霊力が枯れ果てる最後の一滴まで、すべてを彼に捧げよう。

 すべてをささげる。

 

「……! ……!」

 

 またアレな妄想が広がりそうになって、天子はぶんぶん頭を振った。違う違う。そんなの全然まったく望んでなんてない。そういうのもちょっといいかもしれないな、とか絶対に思っていない。絶対。断じて。

 暴れたものだから、月見に気づかれてしまった。

 

「おっと。どうかしたか?」

「はえ!? いや、ええっと……そ、そのっ、重くないかなって、思って!」

 

 口走った言葉は完全な出任せだったが、一方で月見におぶさった当初から気掛かりなことでもあった。幸い、今まで散々怠惰な生活を続けたツケが体に出ていない天子だけれど、状況が状況なのでどうしても意識してしまう。

 月見はからからと笑った。

 

「まさか。そんなに貧弱に見えるかい、私」

「大丈夫ならいいんだけど……やっぱり、気になっちゃうというか」

「心配しなくていいさ、本当に大丈夫だからね。軽すぎて、背負ってること自体忘れそうになるくらいだよ。あまり妖怪の体力を舐めないでいただこう」

 

 そこまで言われてしまったら、怪我人の天子は引き下がるしかない。ふと横を見ると、霊夢たち三人が寄り合って、空を飛びながら器用にひそひそ話をしていた。霊夢があいかわらずにやにやしていた。しにたい。

 そんなこんなで、無事妖怪の山に到着。まず月見が、そのあたりを哨戒していた白狼天狗を捕まえて声を掛けた。

 

「ちょっといいか?」

「……おっと、月見さん。こんちゃッスー」

 

 立ち止まった白狼天狗の青年は緩い挨拶をして、月見の周りを見るなりため息、

 

「あいかわらず両手に花で。見せつけてくれますねえ」

 

 月見は苦笑、

 

「成り行きだよ」

「成り行きで両手に花持つとか、羨ましいッスわー」

「月見さんが持ってるのは天子だけで、私たちはただの付き添いよー」

「霊夢さんわかってないッスねえ。たとえ付き添いでも、女の子と一緒にいるのはそれだけですごいことなんスよ!」

「あんた友達いないの?」

「うわーこれ男友達も女友達もみんな同じだと思ってるやつだー!!」

 

 リア充爆発しろ!! と青年がよくわからないことを叫んでいたが、『りあじゅー』って一体どういう意味だろう。

 ともあれ。

 

「で、なにか御用ッスか? 天魔様なら、少し前に椛に引きずられてきましたけど」

「……またやってるのかあの駄天魔は」

「まあ、一日一回の恒例みたいなもんで。今じゃあ、天魔様が何分間逃げられるかでみんなで賭けやったりしてますよ。大体十分くらいが限界みたいッスけどねー」

 

 ここで青年が、んん? と疑問顔で天子を凝視した。

 

「ってか、『天子』って……ひょっとしてあれッスか? あの雲つくって異変起こしてるっつー……」

「……っ」

 

 天子は小さく息を呑んだ。今回の異変となんの関係もない、ごくごく普通の天狗が天子の名を知っている――天狗がゴシップ好きだとは知っていたが、まさかここまで情報の浸透が早いとは思っていなかった。

 ひょっとしたら、今回の異変について文句のひとつでも言われるのではないかと、月見の肩に掛けた指が自然と強張る。青年は天子を矯めつ眇めつ観察すると、なにかを噛み締めるように深く頷き、いきなりキリッと表情を改めて、

 

「初めまして天子さん。ところで、俺とお友達通り越して恋人から始めるってのはボグロ」

 

 霊夢が弾幕を叩き込んだ。

 

「なにすんスか霊夢さん!?」

「悪い虫は駆除されて当然よ」

「だって天子さんってあれッスよね!? こう、俺ら幻想郷の連中と仲良くなるきっかけがほしくて異変起こしたとかいう人ッスよね!? その張本人がこんなかわいこちゃんとなればもうこの俺がお友達どころか恋人すら吝かでない覚悟で」

「魔理沙、やっちゃってー」

「おっけえー」

「魔理沙さん、お手伝いしますよ」

「おっ悪いな」

 

 続け様に、魔理沙のマスタースパークと衣玖の雷撃が青年を呑み込んだ。

 

「天子さあああああんお返事お待ちしてまああああああああ……」

 

 青年の断末魔が下方向にフェードアウトしていく。生い茂る木々の枝葉をバキバキと粉砕し、緑の大海原に落ちて消える。

 静寂、

 

「……天子、気をつけなさい。天狗の連中にはああいう下心見え見えのクズが多いわ。男がみんな月見さんみたいなのじゃないわよ」

 

 いや、そんなのは当然わかっているけれど、

 

「総領娘様、世間知らずですからね。ダメですよ、甘い言葉に騙されちゃ」

「いや、今の甘かったか? ま、クズってのは同意だがな」

 

 なんでみんな、そんな唾でも吐き捨てるみたいに。

 

「つ、月見……いいの?」

「ん? ああ」

 

 月見にこっそり耳打ちして尋ねてみたが、彼は事もなげに、

 

「ここではよくある光景だよ。あの天狗もちょっとすれば復活するから、気にしなくていい」

「そ、そうなんだ」

 

 天子みたいな『不良天人』は例外だけれど、俗世を捨てた正統な天人たちは皆争いを好まないため、天界では、誰かが誰かを武力で傷つける争いなどまず起こらない。もし起こればそれだけで大騒ぎだし、厳しい刑罰だって用意されている。

 しかし地上では、あれが本当に日常茶飯事の光景らしく、

 

「さて、とりあえず操のところまで行こうか。雲を払うんだったら、話くらいは通しておかないと」

「あの方なら、これを利用して仕事をサボろうとしそうですね」

「さっさと終わらせて宴会しましょー」

「そうだなー、最近やってなかったしなー」

「……」

 

 天子以外の誰しもが疑問を挟むことなく、緑の海へ沈んだ青年を置き去りに、天狗の屋敷目指して山を登っていく。

 月見の背で天子はふと、昔の私って本当に地上で暮らしてたのかなあと疑問に思った。自分の常識と幻想郷の常識が、なにか決定的にズレているような気がした。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 執務室で椅子に縛りつけられ泣いていた天魔に事情を説明し、場所は山の上空へと移る。

 

「……ねえ。本当に、できるかな」

 

 この場所から見上げる緋色の雲は、天子の視界を埋め尽くしてしまうほどに大きい。これだけの雲を残らず焼き払うためには、一体どれだけの火力が――そしてどれだけの霊力が必要になるのか、まるで想像ができない。

 できないなどと思いたくはないけれど、この大きさを前にしてしまってはそれも揺らぐ。

 表情の曇った天子とは対照的に、隣の月見はあっけらかんとしていた。

 

「まあ、なんとかなるんじゃないか?」

「なんとか、って……」

「それじゃあ訊くが、他にいい方法でもあるかい」

「……むう」

 

 それを問われると、返す言葉もない。実際、胸に塞がったばかりの傷という爆弾を抱えた天子では、霊力を貸す以上にできることがあるとも思えない。であれば、月見がこれしかないと言うのであれば、天子にとっても『これしかない』わけで。

 不安という感情など露知らず、月見はやんわりと微笑んだ。

 

「まあ、心配は要らないよ。……それよりも、問題は」

 

 それから物憂げに眉をひそめると、緋色の雲とは逆の方向――真下に広がる山の頂を見下ろして、

 

「……まったく、どうしてこうなったかなあ」

「えーっと……さあ?」

 

 眉間を押さえてため息をつく月見に、天子は歯切れの悪い苦笑を返すことしかできなかった。

 山頂は、妖怪や神はもちろん人間まで集まりごった返して、ちょっとした宴会みたいな騒ぎになっていた。

 

「ふれぇー! ふれぇー! つっ、くっ、みぃーっ!!」

「月見くーん、頑張ってくださいねーっ! 応援してますよー!」

 

 山頂を制圧している集団は三つある。ひとつは天魔と鬼子母神を筆頭に、月見へ元気なエールを飛ばす女の子たちの集まりであり、

 

「つくみーっ、頑張ってねー!!」

「こらフランッ、日傘から出ちゃダメよ! ちょっとは落ち着きなさい!」

「咲夜、あなたもフランみたいに声出して応援しないと。そんな熱心に見つめてるだけじゃ、いつまで経っても月見には届かないわよ。色々と」

「はいっ!? い、いえ、私は別に……」

 

 日傘の下で元気に跳ね回る吸血鬼の姉妹であったり、こんなところにやってきてまで読書をしている魔法使いであったり、顔を赤くして狼狽えているメイドであったり、

 

「頑張れーっ、月見さーん! ……ほら妖夢、あなたも応援しないとっ」

「幽々子様、お饅頭食べながら応援するのはやめてください……恥ずかしいですよ、もお~……」

 

 ビニールシートを広げてピクニック気分でお菓子を摘んでいる亡霊であったり、その亡霊を呆れながら諫める半人半霊であったり、

 

「尻尾ーッ!! 尻尾もふーッ!! 放せえええええッ私はあの尻尾をもふもふするんだあああああッ!!」

「おっ、おおおっ落ち着いてください諏訪子様ぁ!? お気持ちは大変よくわかりますが、今は邪魔しちゃダメですよぉっ!?」

「もふううううううううううっ!!」

 

 血走った目で半狂乱になっている小さな神様であったり、それを必死に羽交い締めする巫女であったり、

 

「あの雲を払うってなれば、こりゃあ久し振りに月見の本気が見られそうだねえ。楽しみだよ」

「そうだね、酒の肴にはもってこいだ……うん、美味しい! もう一杯ー!」

 

 木陰に座ってのんびり酒を呑み交わす、注連縄を背負った神様と捻れた二本角を持つ鬼であったり、

 

「……椛? あの、椛さん? どうしてこんなところで、大剣を砥いだりしているのでせうか?」

「あら、にとりさん。……ふふふ。本当は、こんなところに来てる場合じゃないんですよ。片づけないといけない書類がたくさんあるんです。このあと、どさくさに紛れて逃げられたら面倒じゃないですか? だから今のうちに、切れ味を整えておかないとって思って」

「あ、あはは。そうなんだ。アハハハハハ……」

 

 黒い笑顔で大剣を砥いでいる白狼天狗であったり、その光景を見て後ずさりしている河童であったり、

 

「……はたて? あんた、なんでこんなところに」

「んー、なんか面白そうなことになりそうだし、新聞のネタにでもしてみようかと思って。そういう文こそなにやってるのよ。月見さんでも見に来た?」

「別に……暇だっただけよ」

 

 恐らく新聞のネタ集めにやってきたのであろう鴉天狗であったり、とにかく、たくさんの少女たちであった。

 それだけでも充分賑やかなのだが、もう片方の集団も負けてはいない。

 

「フルゥエエエ~!! フルゥエエエ~!! 天! 子! ちゃあああああん!!」

「ガンバルゥエエエ~!! ガンバルゥエエエ~!! 天! 子! ちゅああああああ!!」

『うおおおおおおおおおお!!』

 

 一体どこから調達してきたのか、『天☆子』などとプリントされた謎の応援旗を振り回して、山に棲む天狗や河童の男衆が、もはや絶叫と呼んでも差し支えないほどの大声を張り上げている。額に『天☆子』のハチマキを装備し、応援旗を持っていない者は『天☆子』のうちわを装備し、更には背中で『天☆子』の文字が煌めく法被まで装備して、漢たちはカルトめいた集団の化していた。

 応援は嬉しいのだが、正直怖い。

 そして最後の一団が、霊夢に魔理沙、衣玖など、どちらのテンションにもついていけず、「えっなにやってんのこいつら」みたいな顔で呆然と立ち尽くしている者たちなのだった。

 声援。

 

「「「つくみーっ、ガンバー!!」」」

「「「ガンバルゥエエエエエッ、天子ちゅあああああん!!」」」

「あのなあお前ら、これは見せ物じゃないんだよ! 怪我しても知らんからな!」

「「「もーまんたーい!!」」」

 

 ああもう、と月見がすべてを諦めるように投げやりなため息をついている。天子は苦笑し、やかましくて、理解不能で、けれど決して不快ではない喧噪に耳を傾ける。

 

「天子ちゃあああああん! これが終わったら是非俺と友達に! いやいっそ恋人に!」

「隊長。会員No.28が天子ちゃんの独占を目論む発言を」

「殺せ」

「ラジャー」

「ぎゃあああああ!?」

「愚かなやつよ……天子ちゃんは誰のものでもない。天子ちゃんはその名の通り、天界より我ら俗界へ降臨なすった天使。一切の邪を交えず、敬虔な心で信奉することこそが、我ら『天子ちゃんマジ天使!』クラブの鉄の掟で」

「――あぁんたらさっきから天子がどうとか、まぁた変なこと考えてるんじゃないでしょうねえ!? ……成敗ッ!!」

「あっ霊夢さん違うんですこれはただぐあああああ!?」

「隊長ー!? あっヤベこっち来た総員退避いいいぎゃあああああ……」

 

 変な恰好をした男たちが霊夢の弾幕で次々吹っ飛ばされていく様は、まったくもって滑稽で、

 

「霊夢さんちょっと落ち着いてください俺たちはこの通り健全な青少年で――あああああっ俺の天☆子フラグが流れ弾で真っ二つにいいいいい!?」

「ふっ……どうやら選択肢を誤ったようだな。これでお前の天子ちゃんルートは完全消滅――貴様なに俺の天☆子フラグまで叩き折ってくれてんじゃあああああ!!」

「うるせえええええ!! ふはははははこうすれば相対的におんなじじゃざまあみやがれえええええ!!」

 

「上等じゃあ!!」と『天☆子』の応援旗を折られた青年たちが半狂乱になって喧嘩し出す姿は、まったくもって無軌道で、

 

「――はーい、それじゃあみんな準備おっけー? いっくわよー、いっせぇーの、」

「「「ぎゃああああああああああ!?」」」

 

 霊夢の掛け声を合図に、少女たちが男めがけて一斉に弾幕を叩き込む光景は、まったくもって馬鹿馬鹿しくて、

 

「……あ、は」

 

 けれど天子は、自然と笑えていた。無軌道でも、理解不能でも、馬鹿馬鹿しくても、そこでは妖怪も人間も関係なく、みんなが一緒になって絆を育んでいる。天界の暮らしと比べれば非常識ばかりだけれど、非常識だからこそ、こんなにも天子の心を惹きつけてやまない。

 この輪の中で暮らせたら。

 きっと、すごく、楽しいのだろうなと思う。

 

「……ねえ、月見」

 

 天子は胸を両手で押さえ、まっすぐに月見を見つめた。

 

「私はもう、言葉じゃ言い表せないくらいに、あなたに助けられちゃったけど」

 

 きっと天子は、月見に一生頭が上がらないだろう。月見はもはや、単なる憧れだけの存在ではない。憧れよりも一歩向こう側の世界にいる、無二の恩人であり、かけがえのない大切な人となってしまった。

 なんだってできる。冗談抜きでそう思う。

 月見のためなら、どんなことだってできてしまえるような気がする。

 だから今は、今だけは、もう一度、

 

「もう一度だけ、手伝ってください」

 

 これ以上月見を頼るのは申し訳ないと、考える気持ちがないといえば嘘になる。だが、今更なのだ。もう天子は、散々なくらいに月見に助けられてしまった。だからいっそ開き直って、最後まで助けてもらえばいい。

 助けてもらって、そのあとに、思う存分恩返しをすればいい。

 

「もう一度だけ、力を貸してください」

 

 私はまだ、強くないけれど。一人ではなにもできない、弱い女だけれど。

 でもいつか必ず、あなたみたいに強くなるから。

 強くなって、たくさん恩返しをするから。

 だから、今だけは。

 

「――もう一度だけ、助けてください」

 

 山が凪いでいる。風が静まり返り、束の間、山頂から響く少女たちの声援すら消えていたように感じた。

 だからだろうか。月見が微笑んでくれた息遣いが、本当によく、耳に響いて。

 

「ああ。任せておけ」

「……うん」

 

 頷いた。任せられる。月見になら、自分のすべてを委ねられる。

 月見と一緒なら、絶対に負けない。

 ほら。空を覆う緋色の雲が、息を吹きかければ消えるただの煙に見えるじゃないか。

 

「さて。では、やろうか」

「うん」

 

 傷の具合を確かめながら、天子は少しずつ霊力を開放していく。月見もまた十一の尾を雄大に揺らし、水が湧き出すように妖力を――

 

「……?」

 

 あれ? と天子は思った。気のせいだろうか。今しがた自分の目に映った光景の中で、なにかひとつ、絶対に見落としてはならない決定的な違和感があったような。

 天子は月見を見た。

 

「……どうした?」

 

 月見が首を傾げる。その奥で、十一の尾が、ゆっくり波打つように揺れている。

 天子はごしごしと目をこする。十一の尾が、ゆったり白波のように揺れている。

 天子はぱんぱんと両頬を叩く。十一の尾が、さわさわと渚のように、

 十一、

 

「「「――えええええええええええええええ!?」」」

 

 大騒ぎになった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「ああ、そういえばお前には言ってなかったっけ」

「言ってなかったわよ!? 全然まったくちっともさっぱりこれっぽっちも言ってなかったわよ!?」

 

 月見が、金毛九尾ならぬ銀毛十一尾だった。

 なにがなんだかよくわからないが、とにかく十一本だった。

 

「悪い悪い。まあそういうわけだから、」

「どういうわけでしょうかっ!」

 

 狐につままれた、なんてかわいらしい話ではない。長い助走をとって、全力疾走で跳び蹴りを食らわされたかのような衝撃だった。十一尾の妖狐など、無論、見るのも聞くのも生まれて初めてである。

 だって。

 だって狐の尻尾って、九本までしか。

 口をパクパクさせる天子の心を読んだ月見は、肩を竦めて事もなげに、

 

「何事にも、例外はあるものだよ」

「そ、そうかもしれない……けどぉ!」

 

 なにがなんだかよくわからなくなっているのは天子だけではない。山頂では、目を点にしてフリーズしている者、口をあんぐり開けて機能停止している者、何事かわけのわからない言葉を叫びながらお互いの頬を引っ張っている者など、上を下への大騒ぎが勃発している。

 しかしよく気をつけて見てみれば、鬼子母神や天魔、吸血鬼の姉妹や亡霊の少女など、一部まったく驚いておらず、それどころか周りの混乱を楽しむように眺めている者たちがいる。

 つまり、知っている人はちゃんと知っている事実というわけで。

 

「……私、もしかして騙されてた!?」

「悪かったって。でも騙すつもりはなかったんだよ。尻尾の本数なんて大した話じゃないし」

「現在進行形で大騒ぎになってますがっ!」

「うおおおおおおおおおお!! もっふうううううううううう!!」

「す、諏訪子様落ち着……きゃあああ!?」

 

 月見の尻尾に異様なまでの執着を見せていた守矢の神が、もっふもふの十一尾を前にしていよいよ理性を破壊された。巫女の羽交い締めを力ずくで振り切り、己自身が一発の弾丸となって、波打つもふもふ天国めがけて一直線に、

 

「ひっさぁぁぁつ! 諏訪子だいびーんぐっ!!」

 

 武器を持たず、神力をまとうこともせず、ただ己の肉体だけで突撃する姿にはどこか神々しさすら

 ぺしん。

 

「あああああぁぁぁー……」

 

 尻尾に弾かれ緑の海へ落ちて消えた。「諏訪子様ー!?」と巫女が悲鳴を上げた。

 月見はやはり事もなげに、

 

「そういうわけで、私は実はちょっとした狐でね。……あの雲を払う程度、ゴリ押しでどうとでもできる」

「……!」

 

 思い返せば、どうしてその可能性を考えなかったのだろう。八雲紫の友人で、妖怪からも神からも一目置かれ広く慕われる彼が、なんの変哲もないただの妖怪である方がおかしいではないか。

 十一尾の妖狐など、規格外もいいところだ。「なんとかなる」。あの言葉は決して根拠のない楽観や驕りではなく、己の実力から導き出されたごくごく自然な確信だったのだ。

 これならば緋色の雲など、既に払えたも同然であり、

 

「……けれど私は、あくまで協力するだけだ」

「……え、」

 

 天子の心に希望の光が灯った直後。

 月見の低い呟きが咄嗟に理解できず、天子は首を傾げ、

 

 炎に、呑まれた。

 

「――ッ!?」

 

 悲鳴が口を切るすんでのところで気づき、理解する。炎ではない。しかし炎とも呼べるほど熱く気高い、圧倒的なまでの妖力の奔流だった。

 月見。

 

「あの雲を払うんだったら、最低でもこれくらいの霊力はほしいな!」

「……!?」

「さあ! お前の力、私に届かせてみせろ!」

 

 銀が煌めいている。迸る力のあまりの濃度に、妖力そのものが熱を持ち、色を宿し、目に見える流れとなって回転する。その軌道が風を生み、音を生み、烈風、或いは爆風とも思える力の坩堝へ、問答無用で天子の体を叩き落とす。

 ほとんど目を開けていることもできない中で、声が聞こえた。

 

「心配するな、本当に足りない分は私が補ってやる! だから気兼ねなく全力で来い! この程度、お前なら簡単に超えられるはずだ!」

 

 もう月見がどこにいるのかもわからないけれど、その声は、笑っていた。だから天子は、唐突に、突きつけられるように理解せざるを得なかった。

 試されている。

 体を労りながら、なんて甘っちょろいやり方じゃあ、紫は絶対に天子を認めてくれない。己の想いを示すために、逃しかけた夢を今度こそ掴み取るために、立ち塞がる壁を力ずくでブチ破り、胸の傷が開くことも厭わない覚悟があるのか。

 これくらいはやってくれないと、紫は納得してくれないぞと。

 月見は天子を、試していた。

 

「そ、そんな……っ!」

 

 動揺なんて言葉では足りなかった。あんなにも心強く、そして優しく天子の心を支えてくれた月見が、今は越えなければならない壁という事実。まるで自分が世界でたった独りになってしまったかのようで、頭が真っ白で、ぐちゃぐちゃで、なにがなんだかわからなくなってしまう。

 

「さあ、どうした!」

「……っ!」

 

 耳朶を叩かれ、言われるがまま霊力を開放する。しかし月見の、暴力的とすらいえる妖力が渦巻く中では、さながら嵐の下でロウソクに火を灯そうとするようなものだった。

 

「く、う……っ!」

 

 必死で霊力を放つも、そうした傍から嵐に呑まれ、散り散りになって消し飛んでしまう。これではまるで足りない。霊力の出力を上げる。だがある程度行ったところで胸の傷に嫌な感覚が走り、これ以上はダメだと本能が警鐘を鳴らす。

 

「ちょ、ちょっと待って! こんなの無理っ、無理だよ!」

 

 もはや、声は返ってこなかった。どこが天でどこが地かもわからない世界で、ほんの一瞬、月見の姿が見えた。彼は笑っていた。口端を曲げ、天子を値踏みするように大胆不敵な瞳で、ただ待ち続けていた。

 理解した。

 月見はもう、助けてくれない。

 

「……あ、」

 

 それを悟った瞬間、天子の中でなにかが崩れた。やるべきことはわかっている。上も下もない銀の暴風を押し退け、己の霊力を月見まで届かせればいい。お前の力を見せてみろと月見は言っている。だがわかったところでそれがなんだ。天子は怪我人だ。そうでなくともちょっと長生きしただけのただの天人だ。人間なのだ。

 常識を外れた大妖怪の力に、人間が、打ち勝つなんて。

 できる、わけが。

 

「――……」

 

 意思が、歩みを止めていた。

 すべてが麻痺している。月見の圧倒的な妖力を前にして、天子という存在そのものが呑み込まれ始めている。抵抗できない。抵抗しようとも思えない。ただ銀の波濤に押し流されるだけの、人形でしかない。

 諦めという名の毒が、天子の体を、心をゆっくりと蝕み、目の前が暗く、

 

 

「――頑張れ、天子!!」

 

 

 声が、聞こえた。

 大気の悲鳴を押し退け、銀の奔流を薙ぎ払い、麻痺した天子の感覚をも突き破って、強く、強く。

 霊夢の声が、聞こえた。

 

「あんたねえ、月見さんの妖力に呑み込まれてどうすんのよ! そんな腑抜けを、紫が認めてくれるとでも思ってんの!?」

 

 喉を潰し、掠れてしまった声なのに、その響きはなによりも強く、

 

「こんなの無理だ、とか思ってんじゃないでしょうね!? なにやる前から勝手に諦めてんのよ! 傷が開くのでも気にしてる!? そんなの、終わったら私たちがすぐ永遠亭に運んでやるから心配しないっ!」

 

 まだ喉は治りきっていなくて、きっと声を張り上げるのはすごく辛いはずなのに、それでも決して途切れることなく、

 

「紫に認められたいなら、後先考えないで思いっきりやりなさい!! 紫に見せつけてやりなさいよ、あんたの想いを! ここで諦めたら、あんた絶対、一生立ち直れないくらい後悔するわよ!?」

 

 天子の心の奥底を、殴りつけるように、

 

「――だから頑張れ、天子!!」

 

 目を、開けた。

 目まぐるしい銀の嵐。どこが天でどこが地なのかもわからないと思っていた。けれど、冷静になってみればなんてことはない。上が天で下が地、初めからなにも変わっていない。

 下を見た。銀の風の隙間から、みんなの姿が見えて。

 言葉の波濤が、押し寄せてきた。

 

 頑張れ。頑張れー。やってやれえ。できるよ。頑張れー。天子ー。頑張れ。やっちゃえー。行けー。天子ちゅあああ。大丈夫。信じてるよー。頑張れー。ファイト。それいけー。ガンバルゥエエエ。いけるよー。ファイトー。

 頑張れ、天子。

 天子。

 ――天子。

 

「――……」

 

 山頂に集結していた、すべての者たちが。弾幕で黒コゲにされたはずの男衆が、月見に声援を送っていたはずの少女たちが、周囲の盛り上がりについていけず立ち尽くすばかりだった者たちが。

 そのすべてがひとつとなって、天子を、天子ただひとりを、応援してくれていた。

 

「なん、で……」

 

 天子は、余所者だ。しかもそんじょそこらの余所者ではなく、異変を起こしたくさんの人に迷惑をかけた余所者なのだ。名前を知らない人がたくさんいる。顔も知らない人が大多数である。なのにその初めて見たばかりの人たちが、誰一人として外れることなく天子の背を押そうとしてくれている。

 それは一体、どうして。

 

「わからないか?」

 

 銀の嵐が吹き荒ぶ中でも、眼下から絶え間ない声援が押し寄せる中でも、月見の声はとてもよく通る。

 

「お前は異変の首謀者だし、まあ、博麗神社を倒壊させた張本人でもあるから、このあたりじゃああっという間に噂が広がった。……お前がなぜ異変を起こしたのかってのと一緒にね」

 

 彼は笑っている。不敵に口端を曲げた、天子を試す笑みではなく。

 そっとまぶたを下ろし、天子の動揺を解きほぐすように、

 

「だからみんなも、お前に興味を持ってるんだよ。異変を起こしたとか博麗神社を壊したとか、そういうわだかまりはさっさと取っ払って、早く話をしたくてウズウズしてるんだ。……それは、男どもを見れば一目瞭然だね」

 

 結局、簡単な話だったんだよ。そう、彼は言った。

 

「初めから、異変を起こす必要なんてなかったんだ。ただ、天界から降りてくるだけでよかった。それだけであいつらは、きっとお前を受け入れていた」

 

 まぶたを上げ、穏やかに笑みを深め、

 

「不器用で、臆病で、回りくどくて――でも、どこか愛らしくて、憎めない。そんなお前を、あいつらが受け入れないはずがなかったんだ」

 

 まっすぐに、天子を見る。

 

「さあ――まだ無理だと思うか?」

 

 天子に、手を差し伸べる。

 

「私は、どうってことないと思うけどね」

 

 ほんの数歩前へと進んで手を伸ばせば、指が掛かる距離。

 

「あと、たったこれっぽっち(・・・・・・・・・)だ」

 

 とっておきの隠し玉を炸裂させるような。

 こんな時でなければ見惚れてしまっていたかもしれないくらいに、無邪気で若々しい笑顔だった。

 

 

「――お前が夢見た世界は、ここにあるぞ」

 

 

 この時全身を満たした感情の名を、天子は知らない。歓喜。感動。高揚。次々と浮かんでは消える言葉をすべて向こう側へと飛び越えた、知りようのない未知の感情だった。

 心から湧き上がった火種のような熱が、頭の先へ、指の先へ、足の先へ、そして全身へと浸透し、

 

「あ、――」

 

 体が震え、喉が震えた。その小さな綻びからこぼれ落ちた火種は、けれどその瞬間に、天子の全身を焼き尽くす凄絶な烈火となった。

 

「――あああああああああああああああ!!」

 

 叫んだ。全身が炎のようだった。心は炎となっていた。自制という(くびき)を粉々に破壊し、破裂するようにあふれ出た激情が生んだものは、すなわちこの叫びであり、そしてもうひとつ、銀の奔流を薙ぎ払い顕現した、煌めく青の道筋だった。

 体が赤熱し、思考が白熱し、天子はただ突き進むだけの塊と化す。

 

「う――あああああああああああああああッ!!」

 

 全身が悲鳴を上げた。塞がっていた胸の傷が再び開く嫌な感覚。本能が警鐘を鳴らす。理性がブレーキを掛けようとする。だが止まらない。迷いや躊躇いが頭を過ぎることすらない。本能からも理性からも切り離され、今まで感じたことのないなにか別の存在に突き動かされて、天子はただ、あらん限りの霊力を、青を、

 

「――、」

 

 自分の中で、音を立てて壊れていくものがあった。

 それはきっと、限界という名の、楔だったはずだ。

 青が、銀を、突き破った。

 

「――上等だあああああ!!」

 

 月見が吼えた。普段の穏やかな姿からは想像もできない、獲物に突き立てるような鋭い犬歯が覗く、獰猛な獣の笑みであった。

 突然、天子の体がふわりと持ち上げられる。驚く間もなく、月見の両腕が背中へと回る。顔が月見の胸に埋もれて、月見の匂いがいっぱいに広がって、突然すぎてなにがなんだかまったくわからない。

 なにがなんだかまったくわからないまま、天子の霊力が、滝壺へ落とすように呑み込まれていく。

 

「火傷するから、じっとしてろよ!」

 

 そして身を焦がすほどの熱気を感じてようやく、天子の理解が追いついた。

 炎。天を衝くほどに巨大化した月見の十一尾が、十一尾そのものが、燦然と火の粉を散らす銀の炎となって、鎌首を空高くへと持ち上げている。

 生まれて初めて見る色の炎。肌はおろか心すら焦がすほどの大炎はどこまでも気高く、とめどなく舞い散る銀の細氷はどこまでも美しく――綺麗だと、天子は思った。

 

「――行くぞ」

 

 静かな声が耳をくすぐって、天子の肩を抱く大きな掌に力がこもる。

 天子は、頷いた。

 

「――うん」

 

 銀が蠢く。天を捉える。顎門を開ける。更に燃え上がる、

 

「全天を焼け……!!」

 

 刹那、大気が哭いた。

 

 

「――銀火!!」

 

 

 見上げる視界が、空が、ただ一色の銀で染まった。広大に広がっていたはずの緋色の雲が、呆気ないほど一瞬で銀の向こう側へと消えた。天子の全霊力を注ぎ込んで生み出された炎は、月見の妖力を起爆剤にして天への道を突き進む。

 銀の炎が、咆吼を上げた。

 それは、獣だった。触れる者すべての命を灰燼(かいじん)に変えることしかできない、死を振り撒く銀の獣だった。

 なのに空を征くその後ろ姿は、猛々しく、勇ましく、気高く、天子の瞳と心を惹きつけてやまない。

 叫んだ。

 月見と、ともに。

 

「「届けえええええええええええええええ!!」」

 

 全天が焼ける。生物だろうがなんだろうが関係ない。ただ目の前に行く手を遮るものがあるならば、銀の炎はすべてを等しく呑み込み、焼き尽くし、去る道に影すらも残しはしない。

 

 それがたとえ、空を覆う巨大な緋色の雲であろうとも。

 天を焼いた銀がやがて消えれば、代わりに空を彩るのは青。

 青い青い、夏の空だけが、広がっている。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 当事者である月見たちを差し置いて、眼下から喝采が競り上がってきた。見下ろせば、喜びで万歳をしている者、ハイタッチをしている者、拍手をしている者、なぜか殴り合いをしている者。宴会みたいな馬鹿騒ぎになっている彼ら彼女らの姿を見て、月見もようやく、終わったのだと思えた。

 尻尾を一尾へ戻し、己の腕の中で、天を見つめたまま呆然としていた天子の頭を、

 

「天子」

「……あっ」

 

 そう言って優しく叩けば、ぴくりと震えた彼女がゆるゆると月見を見上げた。

 

「月見、私……」

 

 目の前の光景に頭が追いつかず、夢と現と彷徨うその瞳に、月見は微笑んで。

 

「お疲れ様」

「……!」

 

 天子の瞳が、小石を投げ込まれた水面のように揺れた。頬が強張り、口端が引きつり、目元がくしゃりと歪んだところで彼女は、

 

「っ……!」

「おっと」

 

 月見の胸に抱きつき、顔をぎゅっと押しつけて、それから静かに、声のない嗚咽で肩を震わせた。

 

「……本当に、お疲れ」

 

 涙を耐え忍ぶ小さな背を、月見はあやすようにゆっくりと撫でた。本当に、天子はよく頑張った。

 あんなド派手なやり方でしか、雲を払えないわけではなかった。天子の傷の具合に気をつけながら少しずつ消していく方法もあっただろうし、むしろその方が安全で確実だったはずだ。

 ただ、きっと、紫が求めていたのはこういうことなのだろうなとは思う。誰でもできるような安全策など見たくはない。怪我の具合など二の次で、紫の言葉に応えること――自らの想いを示すことだけにすべてを注ぐ覚悟。そのための荒療治であり、強行策であり、必要悪だった。

 もちろん、あの時の妖力が月見の全力というわけではないけれど。

 かといって、情けをかけていたわけでもなかった。実際、霊夢の声援がなければ危なかったのではなかろうか。

 天子はもう独りではない。危なくなった時には、声を張り上げて背中を支えてくれる仲間がいる。幻想郷の住人たちは、天子という少女を既に受け入れ始めている。そしてできたばかりの仲間たちに背を押され、天子は立ち塞がる壁を鮮やかに斬り払い、突き破り、限界を超えて、想いを示してくれた。

 これ以上、この子に望むことなどなにもない。

 

「天子ー、大丈夫ー!?」

「生きてるかー!?」

 

 霊夢と魔理沙が一直線に飛んでくる。びくりとした天子は慌てて月見から離れ、顔を上げて目元を拭い、なんとかこしらえた即席の笑顔で彼女たちを迎えた。

 

「霊夢。魔理沙」

「お疲れ。……で、怪我は大丈夫なの? 傷、開いたりしてない?」

「必要なら送ってくぜ?」

 

 ぴっちり包帯を巻かれているとはいえ、天子は月見の目の前でなんの恥じらいもなく胸元を確認すると、

 

「……ちょっと開いちゃったかも」

「……まあ、そんなにヤバそうな感じじゃないからいいけど。このあと、ちゃんと永遠亭に戻るわよ」

 

 怪我の具合が深刻でないのなら、先に確かめなければならないことがある。霊夢が、どこを見つめるでもなく虚空へ向けて声をあげた。

 

「紫、見てるんでしょ? 出てきなさい」

「――はーい。呼ばれて飛び出て、紫ちゃんでーす」

 

 霊夢の背後の空間がパクリと裂け、現れたスキマの奥から、紫が勿体振ったよそ行きの顔で――

 

「「「……」」」

 

 瞬間、月見たちの間を駆け抜ける、言葉にすることのできない微妙な空気。

 

「……え? なに、どうしたの? 呼び出しておいてその反応?」

 

 心外そうな顔をしている紫は、どうやら気づいていないらしい。「……なあ、これってツッコんだ方がいいのか?」と魔理沙が目線で訴えてくる。「ほんとにこいつは色々と台無しにしてくれるわね……」と霊夢が半目になっている。どう反応すればいいのかわからず、天子が下手な愛想笑いをしている。

 代表して月見が、

 

「……紫」

「つ、月見っ、なんでそんな目で私を見るのっ? やめてっ、このままじゃなんだか目覚めちゃいけない私に目覚」

「ほっぺたに生クリームついてるぞ」

 

 紫がものすごい勢いでスキマの奥に引っ込んでいった。

 五秒、

 

「――はーい。呼ばれて飛び出て、紫ちゃんでーす」

「ケーキは美味しかったかしら?」

「見なかったことにしてよ霊夢のバカーッ!!」

 

 せっかくカッコつけて出てきたのにいいいっ! とさめざめ涙を流している紫は、完全にバカの姿だった。どうしてくれるんだろうこの空気、と月見は心の底から思う。

 紫がしゃっくりをしている。

 

「ぐすっ……仕方ないじゃないっ、だって藍のショートケーキすっごく美味しいんだもん! 官能的よ! 悩殺的よ! あれは世界も狙えるわ!」

「もう帰っていい?」

「霊夢のばかあああっ!!」

 

 ここまで台無しにされると、逆に清々しくなってきた。

 パンパン、と両手を叩く。

 

「はいはい、それじゃあ本題」

「……ううっ、月見がフォローしてくれなぁい……」

 

 知ったこっちゃない。

 紫はしばらく唇をへの字にしていたが、やがて天子と目が合うと、吐息。

 

「……最後に、ひとつだけ訊かせて」

 

 いつしか『幻想郷の管理者』としての静かな面持ちで、彼女は祈るように、こう問うた。

 

「あなたは、幻想郷が好きですか?」

 

 そこに紫が、一体どんな、どれほどの想いを乗せたのかは、月見には到底想像しきれないけれど。

 わずかに揺れた天子が、氷を溶かすように時間を掛けてつくった、空の果てまで透明な微笑みは。

 

「――はい」

 

 そしてそのたった一言に詰め込まれた途方もない想いは、どうやら紫の目には、及第点として映ったようだった。

 

「比那名居天子。――私は幻想郷の管理者として、あなたの想いを認めます」

 

 笑顔。

 しょうがないなあと。本当にしょうがないなあと。子どもの過ぎたいたずらを、親が愛に負けて許すような。指先ひとつまみの、ほんのちょっぴりの悔しさを混ぜ込んで、八雲紫は笑っていた。

 

「それだけの気持ちがあれば……きっと、私がなにも言わなくても、大丈夫でしょう」

 

 霊夢と魔理沙が天子を振り返る。また感極まって震えている泣き虫な女の子に、三日月みたいににんまり笑って。

 

「「――やったああああああああああ!!」」

 

 随分と遠回りをして、辛い思いをして、時間ばかりが掛かってしまったけれど。

 天子が伸ばした掌は、ようやくその中に、焦がれて已まなかった夢の欠片を掴み取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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