銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方緋想天 後日談 「その後の少女たち」

 

 

 

 

 

「いっ、た――――――――いっ!?」

 

 鐘のような悲鳴であった。

 戦いにおいて、人間の体と妖怪の体とは能力的に大きな隔たりがある。妖怪の体は総じて強靱で荒事に向いているが、一方で人間の肉体は非力で脆い。拳で戦えばまず勝ち目はないから、刀や弓などの武器に頼らざるをえないし、祈祷や祭祀などといった呪術も編み出された。だがそういった力を我が物とし妖怪に対抗したのも一部の人間のみで、脆く非力なまま妖怪に蹂躙された人間も決して少なくはなかった。

 幻想郷という楽園が完成した今でも、妖怪がその気になればいつでも人間を害せるのは変わっていない。

 つまるところ今回も、月見のデコピンが霊夢のおでこを打ち抜いたのであり、

 

「……はい、おしまい」

「むー……」

 

 博麗霊夢は本日も、赤くなったおでこを押さえて涙目なのだった。

 牽制の弾幕が途切れた隙に一気に距離を詰め、素早い動きで的を絞らせないままバチン。妖怪の山に霊夢の悲鳴が木霊し、月見の連勝記録はいよいよ五十の節目へと突入した。

 ひょっとすると三日坊主で終わるのではないかと疑ったりもしたが、意外にも霊夢は飽きることなく水月苑までやってきて、月見と実戦形式の試合に勤しんでいた。天子を守り切れなかった一件が、それだけこたえたということなのだろうか。博麗神社の再建から十日近くが経ち連敗記録が五十になっても、飽きっぽいはずの霊夢は決して匙を投げなかった。水月苑の上空を色鮮やかな弾幕が飛び、ついでに霊夢の悲鳴が飛ぶのは、今となっては天魔の悲鳴に並ぶ山の新名物となりつつある。

 霊夢は頬をぷっくり膨らませている。

 

「……月見さんって、何気に弾幕躱すの上手いわよね。スペルカードも持ってないのに、どこで覚えてきたのよ」

「まあ、ちょっとね。……でも、近づかせないために弾幕で撹乱するってやり方は悪くないと思うよ」

 

 無論、スペルカードルールで用いられる遊びの弾幕ではない。魅せることではなく相手を墜とすことを最大の目的とした、戦いのための弾幕だ。大妖怪相手にはやや威力が心許ないが、牽制としては充分光るものを発揮している。

 ただ、霊夢の弾幕がそうやって鋭くなればなるほど、月見も慣れてどんどん躱すのが上手くなっているので、どこまで行っても差が縮まらないイタチごっこになっているけれど。

 

「撹乱するつもりが逆に撹乱されてれば世話ないけどねー」

「そのあたりは、いいようにやられたら大妖怪の面子がなくなるってことで」

「むう……あーあ、遠いなー」

 

 霊夢としては、自分一人で月見たち大妖怪と渡り合うのが理想かつ目標らしいが、それは至難の道だと月見は思う。その昔、陰陽師と呼ばれた者たちは、いや陰陽師でなくとも、人は強大な妖怪を討つ際には必ず複数人で武器を構えた。もしくは真っ向勝負を避け、妖怪からしてみれば卑怯とも思えるような策を弄した。たった一人では埋めようのない力の差を、人間たちは数と策で補う他選択肢がなかったのだ。

 霊夢は才能あふれる少女だ。それは、ここしばらく試合に付き合っている月見もよく肌で感じている。試合とはいえ、大妖怪相手に彼女ほど物怖じせず立ち向かえる人間は、幻想郷を探しても二人といないだろう。

 だがそれでも、人間と大妖怪の力の差は、才能だけで覆せる限界点を振り切っている。大妖怪と単身で同じ舞台に立つことができるのは、途方もない才能に、途方もない研鑽を上乗せした者だけだ。――その昔、人の身でありながら『風神』と呼び讃えられた、どこぞの御老体のように。

 己をあの次元まで昇華させるためには、霊夢はまだ、若すぎる。

 

「でも、焦ることはないさ。正直、この調子だとそのうち追いつかれそうだって冷や冷やしててね」

「ふーん……」

 

 とはいえさすがは博麗の名を継ぐ者ということなのか、修行を開始してから早十余日、霊夢の成長速度には目を見張るものがあった。なにより、彼女の持つ妖怪退治の道具が強力だ。相手を自動追尾する御札や妖怪の力を封じる封魔針など、昔の陰陽師が見たら喉から手が出るほど欲しがるに違いない。

 加えて、霊夢自身の勘もいい。理屈よりも直感が勝るタイプなのだろう、十数歳の少女とは思えない動きを見せられることも少なくなかった。

 涼しい顔をしているが、実は月見もなかなか手を焼いているのだ。このまま霊夢の成長が続けば、一年を待たないうちに歯が立たなくなってしまうかもしれない。

 もっともそれはあくまで、『試合』という範囲内での話だけれど。

 

「それじゃあ今日はここまでにして、お昼にしようか」

「待ってました!」

 

 むすっとしていた霊夢の仏頂面が、一瞬で空の彼方に吹っ飛んだ。健気に修行を頑張る霊夢をささやかながら応援しようと、昼食をご馳走し始めたのは数日前からだが、ひょっとすると彼女が修業を頑張る本当の理由はこれなのかもしれない。

 霊夢がうきうきと、

 

「今日のお昼ごはんはなにっ?」

「魚はどうだ? 昨日の夜に池で釣りをしていったルーミアが、何匹か置いていってね」

「いただきます!」

 

 ちなみにあの小さな闇の妖怪は、魚を置いていく際には決まって「これ、いつもお世話になってるので、お供え物です!」と仰々しく頭を下げていく。いよいよ本格的に月見を神様だと勘違いしているようなので、近いうちに指摘しておこうと思う。

 

「えっと……なにか手伝う?」

「お客さんに手間を掛けさせたりはしないさ。作っておくから、温泉に入って汗でも流しておいで」

 

 霊夢が大根を鷲掴みし肩より高い位置で包丁を構えたのを見た瞬間、月見は静かに、彼女に料理を教える道を諦めた。

 

「それじゃあ、戻ろうか」

「うん。いつも悪いわねー」

 

 そんなこんなで、今日も幻想郷はいつも通り、平和、の二文字である。

 緋想天の異変が終わって、十余日。

 すべてが夏の幻であったように、今までがずっとそうであったように、突き抜けて平和の限りなのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「さー、見てなさぁい! これが、私が数十年かけて磨き上げたボール捌きよー!」

 

 その十余日の間に、天子を受け入れたのは人里の住人たちだった。

 もちろん彼女を受け入れたのは山の妖怪たちも同じなのだが、山にいればいいのにと残念がる『天子ちゃんマジ天使!』クラブの訴えを断って、人里を選んだのが天子の方だった。天人とは要は天の世界で生活している人間のことだし、特に天子の場合は元々地上で生活していた人間だったともいうし、同族が集まる場所には自然と惹かれたのかもしれない。

 ちょうど人里では、天子に打ってつけの天職があった。総領娘――つまるところお嬢様としての英才教育で培った知識を遺憾なく発揮し、同時に里人たちとの交流も幅広く行える職――。

 とはいえまさか天子が、人里で寺子屋の先生を始めようとは、月見は未だに意外で意外で仕方ないと思うのだ。更にはそれが大成功を収め、一躍、里で噂が絶えぬ人気教師となってしまったのだから面白い。

 

「天使先生すげー! ボールが生きてるみてー!」

「ふふふ、天界でやってた蹴鞠の経験がこんなところで活きるなんてねー。何事も無駄にはならないもんだわ」

 

 お昼の休み時間である。苦しい勉学から解放され、ボールと一緒に元気いっぱい跳ね回る子どもたちの中で、新任教師の天使()先生が、その一際突出したプレーで周囲の視線を独占している。外の世界のプロサッカー選手顔負けで、ボールを手足のように操っている。

 昼食を片付けた月見が人里まで足を伸ばしたのは、ある用事を済ませるためというのが大半だけれど、天子の様子が気になったというのも立派な事実だった。もっとも彼女は、もう月見がわざわざ心配する必要もないほど上手くやっているようだったが。

 世辞を抜きにして、天職だったのだろう。お嬢様育ちだから学力は申し分ないし、こういってはなんだが子どもっぽい性格をしているので、生徒たちとの相性もよい。おまけに天界からやってきたというステータスのお陰で、生徒たちの好奇心を完全に独り占めだ。

 天界からやってきた天使様だから、天使先生。その人気たるや、初日から慧音の存在が霞むほどだったという。

 寺子屋の一教師というよりかは、勉強を見てくれる近所の世話好きお姉さんのような。人里屈指の堅物である慧音が営む寺子屋に、天子のような清涼剤は必要だったことだろう。

 

「もうすっかり馴染んでるみたいじゃないか、慧音」

「ああ、そうだな。本当に助かってるよ」

 

 お陰様で、月見が子どもたちの遊び相手をしていたのも昔の話。今ではこうして慧音と一緒に、みんながはしゃぐ姿を広場の隅から見守る立場である。

 もっとも、体を動かすのが得意ではない物静かな生徒たちは、今でも月見の周りに集まって、尻尾をもふもふしたり耳を引っ張ったりしているのであるが。

 尻尾を撫で回している女の子が言う。

 

「天使先生ねー、すごいんだよ。けーね先生のわっかりにくい授業を、すごくわかりやすく解説してくれるの」

「……慧音」

 

 そういえば何度か寺子屋の授業風景を覗いたことがあったが、慧音の振るう教鞭はもっぱら生徒たちから不評だったか。

 慧音があからさまに狼狽える。

 

「い、いやっ、そんなことはないぞ!? 確かに天子は、初めてにしてはなかなか筋がいい方だが、私だって」

「みんな、もう天使先生が全部授業すればいいのにって思ってるよー」

「く、くうっ」

 

 上白沢慧音、完全敗北。新任教師に生徒の人気も信頼もすべて奪われ、先輩教師としての面子は丸潰れだった。

 わからなくもない。慧音の授業は、いささか理に落ちているというか、まるで教科書の内容をそのまま朗読しているかのような授業なのだ。教科書といえば、外の世界では多くの子どもたちを夢に誘ってきた歴戦の睡眠誘発剤なので、授業の受けが悪くなってしまうのも必然なのだろう。その一点だけに限れば、恐らく、月見が教鞭を執っても慧音には勝てる。

 女の子がまた、

 

「それにけーね先生、ボール遊びも苦手だもんねー。いいとこなしだね」

「お、おまっ、先生相手にそこまで言うか普通!?」

「……」

 

 そういえば阿求に幻想郷縁起を読ませてもらった時、慧音のページにそんなことが書かれていた気がする。顔面でボールを受け止めたり、ボールを空振りしてすっ転んだりしている……だったろうか。

 

「よーし、行っくわよー霊夢ー!」

「えっ、ちょっと待っあう!?」

 

 きっと、ちょうど今、天子からのパスを顔面で受け止めた霊夢みたいな感じなのだろう。

 彼女も彼女なりに天子のことを心配していたのか、月見の後ろにくっついてこそこそとやってきて霊夢だったが、今はなぜかボール遊びに強制参加させられていた。子どもらしい遊びなどしたことがないのだろう。ボールの扱いが予想外に下手で、鼻っ面を押さえてふぬぬと呻くところを子どもたちに笑われていた。

 慌てて霊夢のところまで走っていく天子の姿を目で追いながら、月見はふっと笑って、

 

「ま、本当に上手くやってるみたいでよかったよ」

 

 つられるように、慧音も笑った。

 

「なんだ、随分と心配してたみたいじゃないか?」

「そりゃあそうだ。あれだけのことがあったんだから、上手く行ってくれないと大弱りだよ」

 

 緋色の雲を消し飛ばしてしばらくの間は、十一尾について知人友人みんなから相当しつこく追い回されたけれど、天子が子どもたちと仲良く遊ぶこの光景を見たあとなら、呆れるほどに安い代償だったと思える。

 汚名返上名誉挽回を狙う虎視眈々とした瞳で、霊夢がボールを蹴っ飛ばすため助走を取っていく。

 

「……世話好きなのは、相変わらずだな。初めて人里にやってきた時から変わらない」

「年だからかね」

 

 そうやって霊夢が放った渾身の右足は見事に真芯を外し、ボールはほぼ真横に転がって月見の足元までやってくる。

 天子が両腕を挙げて、元気に大きく手を振っている。

 

「月見ー! ごめーん、ボール取ってー!」

「巫女のお姉ちゃん、どこ蹴っ飛ばしてるんだよー」

「下手っぴー」

「く、くううっ。み、見てなさいよ。博麗の巫女の名にかけて、こんなのすぐにマスターしてやるんだから」

 

 幼子特有の、悪気のない、けれど人をやや小馬鹿にしたような物言いに、天使先生がすかさず反応した。「こらっ」と鋭く子どもたちをたしなめ、

 

「霊夢は初めてボール遊びしたんだから、そんな風にからかっちゃダメよ。あなたたちだって、初めてで上手くできないのに笑われたら嫌でしょ?」

 

 なかなかどうして、生徒をきちんと叱るその姿は立派に教師然としていた。そして天使先生と呼び慕われる人気故か、子どもたちも素直に反省して霊夢に謝ったりしていたので、ひょっとしたら慧音よりも教師らしいかもしれない。

 月見は足下のボールを拾い、

 

「天子ー、行くぞー」

 

 投げる。ボールは綺麗な放物線を描いて、ちょうど天子がいる位置に、

 

「え? ――へぷっ」

 

 ちゃんと反省してくれた生徒たちにうんうんと満足げだった天子は、見事に反応が遅れた。数秒の時差があってから振り向くなり、少し前の霊夢同様、顔面でボールを受け止めることとなった。

 ボール遊びは終わり、鬼ごっこの始まりである。

 無論月見が、追われる側で。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そもそも、鬼ごっこをするために人里に行ったのではないのだ。ちょうど人里に行く用事があったので、そのついでで寺子屋を覗いてみただけなのだ。

 というわけで鬼ごっこを適当なところで切り上げた月見がやってきたのは、冥界、白玉楼であった。

 自分の方からこの場所を訪ねるのは久し振りだ。綺麗に掃き掃除された石段を一歩一歩と登る、その足音に誘われて、昔の記憶が鮮明に甦ってくる。奇声を上げて斬りかかってくる妖忌を尻尾で弾き飛ばし、そのまま石段の一番下まで転がしてやったものだ。もしくは庭の池に叩き込み、尻尾で頭を押さえ千を数えさせたことなど。

 郷愁の念に浸っていると、石段を登り切った先の、屋敷の方から声が聞こえた。

 

「妖夢ーっ、妖夢ー! お菓子がなくなっちゃったわ、買ってきてー!」

「えっ、もうなくなったんですか!? 二日前に買ってきたばかりですよ!?」

「知らないわよそんなのー! なくなったものはなくなったのっ、今すぐ買ってきて頂戴!」

「そ、そんなあ~……」

 

 どうやら、図らずとも最高のタイミングらしい。石段を登り切った月見は門をくぐり、庭先を進みながら掌を拡声器代わりにして、

 

「幽々子ー、妖夢ー。異変のお礼を持」

「はあいお待ちしてましたわ月見さんようこそ白玉楼へっ!」

 

 縁側の襖を吹き飛ばし、西行寺幽々子が満面の笑顔で宙を舞った。比喩ではなく、本当に宙をくるくると舞った幽々子は月見のところまで飛んできて、

 

「現世より遥々、ようこそいらっしゃいました。ところで尻尾から下げたその風呂敷の中身は箱ですわねお菓子の箱ですわねっそうですわねっ」

 

 月見と目を合わせたのなどほんの一瞬で、あとは月見が尻尾から提げた風呂敷、及びその中の大福の箱を、星屑振りまく瞳で上から下から観察していた。

 月見が人里で果たしたかった用事とはすなわちこの大福を買うことであり、この大福は、異変で月見を助けてくれた少女たちへのささやかな感謝の気持ちだった。風呂敷で包まれた箱は全部で四つあり、渡したい相手は魔理沙、幽々子、妖夢、衣玖だ。

 なお元々は五つあったのだが、ひとつは霊夢へ既に渡している。「月見さんっ、大好きっ!!」と人里のど真ん中で歓声をあげられた。天子たちに大変余計な誤解をされた。

 幽々子がきらきら輝く瞳でこちらを見上げていたので、月見は風呂敷から箱をひとつ取り出し、

 

「遅くなってしまったけど、異変で助けてもらった礼だ。好きに食べるといい」

「わーいっ!」

 

 その瞬間、幽々子の姿が消えた。そして大福の箱も消えた。

 月見の脳が状況を理解した時には既に、幽々子は縁側で正座をして、鼻歌を歌いながら、丁寧な手つきで箱の包装を解きにかかっている。恐らく今の一瞬に限って、射命丸文の幻想郷最速の異名は陥落したはずだ。

 包装を解き終えた幽々子が、桐箱に刻まれた大福の銘を見て瞠目した。稲妻が走り抜けるエフェクトとともに、

 

「こっ、これは……っ!? まさか幻の大福、『白雫』ですか!?」

「な、なんですってえーっ!?」

 

 廊下の突き当たりから妖夢がすっ飛んできた。どうやら掃除の途中だったらしく、三角巾とエプロンとはたきと雑巾を装備した彼女は主人と同じ驚愕の顔で、

 

「ほ、本当だ! 幽々子様、これ本当に白雫ですよ! 完全予約生産なのに店主が気紛れでしか作らないから向こう十年まで予約がいっぱいになっちゃってて手に負えなくなった店主が『もう作らなくてよくね?』って匙を投げかけてる幻の白雫ですよ!?」

「妖夢近寄らないで埃がつく!」

「ひどい!?」

 

 と、まあ。

 やけに詳しい妖夢が勢いで解説してくれた通り、巷では幻の呼び名をほしいままにしている最高級大福らしい。その名になにひとつ恥じることのない、それこそ白い雫が結晶化してできあがったような一品は、しかし口に入れた瞬間たちどころにとろけ、食べた者の凝り固まった疲労や癒え切らない心の傷までをもとろかすという。

 人里の住人たちを対象に調査した、一生で一度は味わいたい食べ物アンケート、十年連続ぶっちぎりの第一位。

 病に伏した老人が、最期に一口食べたいと望むのは白雫。

 人間はもちろん、大妖怪や神々からも恋い焦がれる。

 そんな、都市伝説めいた謎のヴェールに包まれた白雫である。そんな製造中止寸前の白雫なので、手に入れるまで十日近く掛かったのである。

 妖夢はもはや、この世のものではないなにかを見る目をしていた。

 

「つ、月見さん、どうやってこれを!?」

「店主と話をしていたら成り行きでね。作ってもらえることになった」

 

 月見がその和菓子屋を訪ねたのは、博麗神社の落成式が終わった次の日のことだった。中途半端なものは買わないと決めていた。月見を、そして他でもない天子を救ってくれた少女たちへは、相応の品を贈って感謝の気持ちとしなければならない。店主に、「この店で一番美味しい品は?」と尋ねる。

 すると、「誰への贈り物だい?」と店主。ひと目見ただけで贈り物を探していると見抜く眼力はさすがといったところか。月見は正直に答えた。

 ――助けたい人の命を助けるために、力となってくれた人。その人がいなかったらきっと、女の子がひとり、笑顔を失っていた。だから、なるべくいい礼をしてやりたいんだ。

 そんな感じのことを言ったら、店主が咽び泣いていた。

 

『へっ……そんな話を聞かされちゃあ、下手な品を出すわけにゃあいかねえな。何人分だい? ……五人か。よし、十日だ。十日くれ。その十日で、今の俺に作れる……いや、今の俺にもまだ作れねえような、最高の菓子を作ってやらあ』

 

 そして今日、店主が満を持して完成させた品が、この白雫だった。曰く、「これは俺が今まで作ったどの白雫とも一線を画す――そう、云うなればスーパー白雫だっ!」とのことだが、まあそれを彼女たちに伝える必要はないだろう。

 月見を見上げる幽々子の笑顔は、まるで生きているかのように血色がよく、太陽もあざむく眩しい希望と歓喜で満ちあふれていた。

 

「月見さんっ、ありがとうございます! 私、もう何年も前からこれを食べてみたいって思ってたんですけど、妖夢ったらいつまで経っても買ってきてくれなくて!」

「こ、これは買おうと思って買えるものじゃないんです! ……と、ところで幽々子様」

 

 妖夢が白雫の箱を見下ろしながら、涎を垂らしそうな口で、

 

「わ、私にもひとつだけでいいので」

 

 幽々子の姿が消えた。そしてやっぱり、白雫の箱も消えた。

 逃亡。

 

「……」

 

 ひょー、と夏にしてはやけに肌寒い風が吹き抜けていく中、一拍遅れて状況を理解した妖夢の顔が、くしゃっと音がしそうなほど大きく歪んで、

 

「……ひっく」

「あーほら、泣かない泣かない」

 

 一生に一度出会えるか否かの名品を、目の前で持ち去られた絶望は如何なるものや。情緒を根本から粉砕された妖夢はあふれでる涙を隠すこともできず、ぐずぐず鼻をすすりながら月見の裾に縋りついてきた。

 

「月見さんっ、こんなのってあんまりですよおおおぉぉ~……!」

「そうだな。だからほら、妖夢の分もあるよ」

「ぅえ?」

 

 感謝の品はしっかり人数分、別々の箱で。幽々子と妖夢が同じ場所に住んでいるからといって、ひとつの箱にまとめるような手抜きはしない。

 月見は風呂敷からもうひとつ箱を手に取り、それを妖夢の目の前へ。

 

「開けてご覧」

 

 箱を受け取った妖夢は、まさかそんな、こんなことがあっていいのかと――箱を縁側に置き、震える両手で恐る恐る包装を解いて。

 そして現れたのが白雫の桐箱だとわかった瞬間、顔を両手で覆い膝から崩れ落ちた。

 

「う、うえっ、うえええぇぇ~……!」

「……おーい、だから泣くなって」

 

 泣きやんでもらうつもりが大泣きさせてしまった。顔を覆った両手の隙間から、涙が湧き水のようにあふれでてきている。一度手で拭う程度ではまるで意味がなく、妖夢は目元を何度も何度もごしごししながら、

 

「ご、ごめんなさい、その、私、誰かからこんなに、優しくしてもらえたのって、すごく久し振りで、その、うっ、うえええ~……!!」

「……苦労してるんだな」

 

 一体どれほどの思いをすれば、あんなに小さな瞳から、ビー玉みたいな涙がぼろぼろあふれでてくるのだろう。とてもではないが、贈り物をされた人間の反応とは思えない。どうして幻想郷の従者たちは、誰も彼も苦労をしてばかりなのか――やるせなくなった月見は、すすり泣く妖夢の背中を優しく撫でてやることしかできなかった。

 数分後、ようやく泣きやんだ妖夢が、

 

「月見さんっ、月見さんも一緒に食べましょう!」

 

 未だ涙の跡を残しながらも、ものすごく真剣な表情で月見を下から覗き込んだ。

 有無を言わせない気迫のようなものを感じる。天下に名高き伝説の白雫、確かに月見も一口食べてみたいと思っていたのは事実であるが、

 

「……いいのか? もう二度と手に入るかもわからないんだ、思う存分味わったらどうだい」

「これは、月見さんがいてくれなかったら手に入らなかったものです! なので月見さんも食べないとダメです!」

 

 体が密着するほどの距離。いつもの妖夢なら悲鳴を上げて後ずさるはずなのに、今はむしろ、更にぐいぐいと寄ってくるほど鬼気迫っている。その一途な姿が頑固者だった妖忌にそっくりだったから、ああやっぱりこの子はあいつの孫なんだなと、月見は改めて思い知らされた。

 

「お願いです、一緒に食べましょうっ! じゃないと、私の気が治まりません!」

「わかった、わかった。それじゃあお言葉に甘えていただくよ」

 

 そろそろ、冗談抜きで抱きつかれてしまいそうだ。月見が苦笑しながらそう言うと、妖夢の顔が夜明けみたいに明るくなった。

 

「はいっ! それじゃあ私、お茶を淹れてきますね! ちょっと待っててください!」

 

 結局、白玉楼の縁側で、妖夢と早めのおやつタイムとなった。包みを解いた白雫が文字通り輝くほどの美しさだったから、妖夢はしばらく口をつけることすらも躊躇っていたが、やがて意を決して頬張り、

 

「っ~~~~! 美味しい! すっごく美味しいです! 生地はお餅みたいに優しい弾力があって、でもさくっと簡単に噛み切れて、口の中で雪みたいに溶けて……! 甘さは芳醇ですけど決してしつこすぎず、舌の上に残る仄かな香りがお茶ともとってもよく合います!」

 

 蕩けそうになる頬を必死に抑え、けれど抗い切れずふにゃふにゃになって、えへへぇ、とだらしない笑顔で、

 

「月見さんっ、ありがとうございます! 私、今までの人生で一番幸せですっ!」

「……それはよかった」

 

 口の周りを白い粉だらけにして言う妖夢があんまりにも幸せそうだったから、月見はもう、隣に座っているだけでお腹がいっぱいなのだった。

 もちろん白雫は、噂に違わず大変美味な大福だった。自分の分も余計に頼めばよかったと、思わず後悔してしまったほどに。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 問題は衣玖だ。

 白玉楼で早めのおやつを終え、魔法の森で魔理沙にも大福を渡し、風呂敷の中の箱はいよいよ残りひとつ。これを腐るより前に衣玖へ渡せるかどうかが、目下月見を悩ませる最大の問題だった。

 雲の中を漂って暮らす龍宮の使いは、姿を見ること自体が稀という非常に珍しい妖怪だ。どこか決まった場所に住処を持っているのかも不明で、会おうと思って会える相手なのかすら怪しい。天子に話を聞いてみても、たまに偶然見かけたりするくらいで、会おうと思って会ったことは一度もないという。

 そんな相手に直接贈り物を渡すとなれば、当然、一筋縄でいくはずもない。月見が衣玖を見つけ出すのが先か、それとも白雫が腐るのが先か。一分一秒も無駄にできない戦いの火蓋が、今切って落とされようとしていた。

 

「……あ、月見さん。よかった、危うくすれ違いになるところでした」

「……」

 

 はず、なのだが。

 水月苑の太鼓橋の上で、張本人にぱたりと出くわした。

 博麗神社の落成式が終わって以降、天女が空へ帰るように龍の世界へ戻っていったはずの衣玖が、なんか普通にいた。

 月見はぽそりと、

 

「……まさかこうも簡単に会えるとは」

「え? もしかして、私のこと捜してたんですか?」

「ああ、ちょっとね」

 

 なんだか拍子抜けだったが、あてもなく空を延々飛び回るよりかはずっといい。

 

「異変の時、天子を助けてくれただろう。だから礼をしたくてね」

「……あら」

 

 白雫の箱を手渡す。受け取った衣玖は、まるでこういった贈り物を生まれて初めてされたかのように目をパチクリさせている。

 

「人里で有名な大福だ。迷惑でなければ是非。味は保証するよ」

「……これはこれは、どうもありがとうございます」

 

 言葉に反して衣玖に笑顔はなく、ただ呆然と箱を見つめて、

 

「えーと、その、すみません。私、こういった贈り物をいただけるのは初めてで、どうしたらいいか……」

「顔を見ればわかるよ」

「龍宮の使いは、同族以外の方と親しくなることが滅多にありませんから……。え、ええとあのっ、こういうのってただ受け取るだけでいいんでしょうか? 私からも、なにかお礼をした方が……」

「そこまで心配しなくても大丈夫だよ」

 

 おろおろそわそわしている衣玖が少しおかしくて、月見はくすりと笑ってしまった。

 

「それに、お礼で渡したものにまたお礼をされたら、イタチごっこじゃないか」

「む、むむ」

「受け取ってもらえれば、それで充分」

「そ、そういうものなのですか……」

 

 見返り目当てで人に贈り物をするほど、月見は卑しい性格はしていないつもりだ。

 衣玖はしばらくの間難しい顔で葛藤していたが、やがて心の整理がついたのか、箱を両腕で抱き締めて微笑んだ。

 

「……ありがとうございます。大切にしますね」

「……いや、生ものだから早めに食べた方がいいと思うよ?」

「そ、そうですよねっ!?」

 

 なに言ってるんでしょうね私! あははは! と赤くなった頬を笑って誤魔化す姿は、さながら世間知らずなお嬢様といったところだろうか。思い返せば初対面の時も、不可抗力ながら変質者扱いされ涙目でびりびりされたのだ。龍宮の使いという大変珍しい種族とはいえ、浮世離れした美貌を持っているとはいえ、心はあくまで普通の女の子なのだった。

 

「と、とりあえず、ありがとうございます。美味しく頂戴しますね」

「ああ。……それで、お前はここでなにをしてたんだ?」

 

 危うくすれ違いになるところだった、ということは彼女もまた月見を捜していたのだろう。しかし、衣玖から捜されるような心当たりはない。

 

「あ、はい。私も月見さんを捜してまして……待っていれば会えるかと思ったので、勝手ながらお庭の景色を眺めていました」

 

 落ち着きを取り戻した衣玖は、雄大に広がる水月苑の池泉庭園を見渡して、

 

「素敵なお庭ですね」

「お前にそう言ってもらえるとは光栄だね」

 

 もっとも、これら絢爛な庭園をプロデュースしたのは主に妖夢であり、手入れをしているのも妖夢であり、月見はといえばちまちまと草取りをしている程度なので、威張れないけれど。妖夢に教わりながら、庭の手入れ方法は目下学習中だ。

 衣玖は苦笑、

 

「それじゃあまるで、私がこういうのに五月蝿い女みたいじゃないですか」

「ああ、深い意味はないよ。単純に、お前みたいな美人さんのお眼鏡に適って光栄だって話だ」

「び」

 

 龍の世界の住人だけあって衣玖は浮世離れした美貌を持っているから、美的感覚も浮世離れしているのではと思っただけのこと。そんな彼女が素敵と評するのだから、やはりこの庭園の出来栄えは極めて見事なものなのだろう。今度妖夢と会った時に、忘れず伝えておこうと思う。

 

「……月見さんって、まるで息をするみたいにそういうことを言いますよね……」

 

 か細い抗議の声が聞こえたので見てみれば、微妙に頬の赤い衣玖が、上目遣いの半目で月見を睨んでいる。

 そういうこと、とは。

 

「そういう言葉は、私じゃなくて総領娘様に言ってあげたらいいと思います……」

「なんの話だ?」

「ですからその、あの……、……びじんだ、とか」

 

 衣玖はちょっともじもじしていた。まるで、私なんか全然そんなことないです、とでも言うように。

 

「私の目がおかしいってことはないはずだけど」

「で、ですからあっ! そういうことをさらりと言っちゃうのがどうかと思うんですっ!」

「? そうか」

 

 月見としてはただ、綺麗なものを素直に綺麗と言っただけなのだが。

 まあ、あまりストレートに褒められるのは好きでないのだろう、と思って納得しておく。

 

「そ、そもそも私、こういう話をしにここまで来たのではなくてですねっ」

 

 衣玖は赤くなった顔を隠すように横を向いて、深呼吸をし、そして空咳をした。

 深々と、頭を下げた。

 

「月見さん。……ありがとうございました」

「どうした、突然」

 

 衣玖は顔を上げこそしたが、答えずにそのまま、

 

「総領娘様は、あなたと出会ってからとても幸せそうになりました。……月見さんは知らないと思いますけど、昔の総領娘様は本当にひどかったんですよ。何度びりびりしてやろうと思ったことか」

 

 昔の天子は、とんでもないわがままでやりたい放題をやっていたという。具体的にどういった有り様だったのか、興味本位で本人に尋ねてみたところ、アハハアハハと笑いながら誤魔化されたことがある。

 

「荒れていたというか、毎日がすごくつまらなそうだったんですよ。きっとあの時の総領娘様は、自分を取り巻くあらゆるものに興味を持っていなかった。自分の命にすらも」

「……」

「でも、あなたと出会ってからはそれが変わりました」

 

 独りぼっちで寂しく生きていたからこそ、人に囲まれ、妖怪に囲まれる月見に憧れた。天界で初めて出会った時から――いや、月見がまだ、比那名居天子という少女のことも知りもしなかった頃から。彼女はずっと、月見の背中を追いかけ続けていた。

 

「まるで別人ですよ。この子にこんな笑顔ができたのかって……実は性格が逆の双子の妹がいたんじゃないかって、一度は本気で疑いましたもの。

 そして……」

 

 まぶたを下ろし、

 

「総領娘様を笑顔にしたのも、その笑顔を守ったのも、全部月見さんなんだなって。そう思ったらやっぱり、改めてお礼を言いたくて」

 

 また深く、頭を下げた。

 

「総領娘様と出会ってくれて、ありがとうございました」

「……、」

 

 ――出会ってくれて、と来たか。

 

「……そのために、わざわざ?」

 

 やっとの思いでそれだけ言った。それしか言えなかった。天子を助けてくれてありがとう――そんな言葉であったならまだ、言えることもあっただろうに。

 

「ええ。このため、です」

「……お前は、息をするみたいにそんなことを言うんだね」

 

 少し前の意趣返しをするように、衣玖は笑った。

 

「あら、なんの話ですか?」

「なんでもないよ。……まったく。これは、充分すぎるお返しをもらってしまったね」

 

 月見の渡した大福が、霞んでしまうくらいの言葉だったではないか。女性のまっすぐで真心のこもった言葉は、いかんせん男の心に届き易すぎて困る。

 うなじのあたりを掻いた。

 

「まあ、なんだ。よかったら、家でゆっくりしていくか? ここには温泉があってね。今なら貸し切りだよ」

「えっ」

 

 衣玖が虚を衝かれて目を丸くした。それが、突然の誘いに驚いたというよりかは身構えたように見えたので、

 

「覗きなら心配ないよ。紫が特殊な結界を張っててね、浴場は外から覗けないようになってる。そうでなくともそんな不埒な真似をする輩は、鴉天狗の新聞で晒し上げられて、世間体が地獄の底まで失墜して、ついでに紫のスキマで本当に地獄行きだ」

 

 かつて水月苑開業初日に覗きを企てた愚か者どもは、藤千代らの手によってボロ雑巾となり、更に性根を叩き直すという名の下、映姫から容赦ない人格改造を施された。山の男たちに大きな衝撃と恐怖を植えつけたあの一件は、今でも覗きを防止する素晴らしい抑止力となってくれている。

 苦笑、

 

「もちろん、お前が私を信用してくれていれば、だけどね」

 

 月見が覗くかもしれない――という疑いも、なきにしもあらず。心外だが。

 衣玖が慌てて首を振った。

 

「い、いえ、決してそういうわけではなく……」

 

 それから肩を縮め、ぽそぽそと、

 

「私、そんなにわかりやすい顔してましたか……?」

「……ん?」

「で、ですから……温泉、とか」

 

 温泉を勧めたこと自体に、これといって意味があったわけではない。ああもまっすぐで真心のある礼を言われてしまえば、ちょうど屋敷の前にいることだし、お茶くらいは出すべきだろうかと思っただけのこと。そして水月苑でゆっくりしていくということはすなわち、温泉でゆっくりしていくということと同義なのだ。

 衣玖は、隠していた本音をズバリ言い当てられたような、とても恥ずかしそうな上目遣いをしていた。

 ということは、やはり彼女も、

 

「その……私はどうも、他の方々と一緒に入浴するのが苦手といいますか、一人でゆっくり入るのが好きといいますか……ここの温泉には私も前々から興味を持っていたんですけど、さすがに一人で使わせていただくのは無理だと思って、今まで来たくても来られなかったところがあるといいますか」

 

 なにやらぶつぶつ言っているが、要するに、

 

「それじゃあ、一名様ご案内……ってことでいいか?」

「……はい」

 

 しおしおと縮こまりながら、小さく、そう頷いたので。

 やはり女の子とはかくも、温泉が大好きなのだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 貸し切り温泉を思う存分堪能しご満悦な衣玖を見送ると、ほぼ入れ替わるタイミングで、今度は藍と橙がやってきた。だから月見は、ああもうそんな時間なのかと、次第に薄暗く変わりつつある青空を見て思った。

 

「こんばんは、月見様」

「こんばんはー」

 

 片や堅苦しく、片や愛くるしく頭を下げる二人を、月見は緩く息をついて出迎える。

 

「こんばんは。やっぱりというべきか、今日も来たね」

「はい。今日もお邪魔させてください」

 

 博麗神社の落成式が終わってからほどなくである。突然水月苑にやってきた藍が、橙と一緒にお詫びをさせてほしいと訴えてきたのは。

 なんでも異変のさなか、主人のためとはいえ月見と敵対してしまったことへの詫びだという。

 

「別に私は、気にしちゃいないんだけどね」

「そういうわけにもいきません」

 

 いかにも、堅苦しすぎる嫌いのある藍らしい。

 確かにあの時、二人と戦わざるをえなかったのは決して望ましいことではなかった。月見も藍も、戦いたくて戦ったわけではなかった。しかし同時に、互いに譲れないものを秘めた、避けられえぬ衝突でもあったのだ。

 今更、話を蒸し返す真似をするつもりはない。幸いにも、異変は最悪を迎えることなく終結したのだから。月見はもう、とっくの昔に水に流している。

 けれど生真面目すぎる式神は、断固として首を縦に振ろうとしなかった。

 

「月見様がよくても、私がダメなんです。私の気が済むまでやらせていただけると、そういうお話になったはずですが」

 

 確かにそういう話ではある。ただし月見が許可したというよりかは、死んでも引き下がろうとしない藍の気迫に無理やり押し切られたという方が正しい。

 しかして藍が選んだ『お詫び』の方法は、月見の身の回りのお手伝いなのだった。夕食の支度、日用品の買い出し、屋敷の掃除にその他雑用。助かっているのは事実なのだが、しばしば藤千代や咲夜と出くわしては火花を散らしているのはなんなのか。

 今日も藍の両手には、食材をたっぷり入れた袋が二つ提げられている。藍が水月苑の夕食事情を牛耳り始めて以来、「なんで私を呼んでくれないのよーっ!」と紫までもが突撃してくるようになったので、揃える食材も四人分だ。

 

「わかったわかった。今日も世話になるよ」

 

 話の通り藍の気が済むまでは、月見がなにを言おうとも無駄なのだろう。

 藍の凝り固まっていた表情が、多少和らいだ。

 

「はい。腕によりをかけて作りますので」

「藍様っ月見様っ。私、お魚食べたいですっ」

「いつもの場所に釣り竿があるから、好きに使ってくれて構わないよ」

 

 水月苑の池で魚が手に入ると知って以来、橙は釣りの常連客だ。同じく魚釣り妖怪と化したルーミアとともに妹紅へ師事し、その腕前を着々と高めてきている。

 

「では、月見様はゆっくりなさっていてください」

「手伝うか?」

「いいえ。お詫びをする方のお手を、煩わせるわけにはいきません」

 

 生真面目すぎてもはや素気ない返事に、月見は苦笑、

 

「じゃあ、橙と一緒に釣りでもしてようかな」

「え、いいんですか?」

「いいもなにも、逆に私の方が訊きたいけど」

「もちろんいいですよ! 月見様と一緒のお魚釣りは、楽しいので!」

 

 藍とは対照的に、頭をわしゃわしゃ撫で回したくなるくらい愛くるしい笑顔だった。こういう時にしばしば、この子は本当に藍の式神なのだろうかと疑ってしまうことがある。藍はただ教育するだけでなく、橙の天衣無縫な姿から是非、柔らかな人柄というものを学びとっていってほしい。

 同時に、藍の生真面目すぎる部分が橙まで伝染らなければいいな、とも。

 

「それじゃ、四人分釣れたら持っていくよ」

「はい。よろしくお願いします」

 

 藍と別れ、橙とともに釣り竿を引っ提げ外へ出る。水月苑の周囲に架かる太鼓橋が、屋敷の庭園も山の景観も一度に楽しめる絶好の釣りスポットだ。

 

「魚は四匹釣ればいいかな。どっちが多く釣れるか、競争でもしようか」

「はい! 負けませんよー」

 

 橋の欄干は小さい子どもの背丈と同じくらいの高さがあるので、橙やルーミアは大抵、欄干に直接座って釣り糸を垂らす。橙が猫らしく軽やかな跳躍で欄干に飛び乗ると、月見はその腰にクルリと尻尾を巻きつける。なにかの拍子で池に落ちてしまうといけないので、即席のチャイルドシートである。ふかふかもふもふの肌触りは、橙からもルーミアからも好評だ。

 お互い同時に釣り竿を振って、まず橙が一匹目を釣り上げた頃。

 

「……月見様は、私と藍様がこうやってお手伝いするの、迷惑ですか?」

 

 ぽつりと聞こえた言葉に、月見は水面から視線を上げた。

 

「ん? そんなことはないが……どうしてだ?」

「その……私の気のせいだったらいいんですけど」

 

 橙は針に掛かった魚を外しながら、

 

「私たちがお手伝いに来ると、月見様、少し困ったような顔をしてるので……今日も」

「……ああ」

 

 確かに、困った顔はしていたかもしれない。橙にすら気づかれるほど顔に出ていたのだとしたら、少し失礼だっただろうか。

 微笑む。

 

「迷惑だったからあんな顔をしていたわけじゃないよ。こうして手伝ってくれるのはすごくありがたいし、助かってるさ。でもだからこそ、ここまで手伝ってもらって、逆にお前たちの負担になってるんじゃないかと思ってね」

 

 特に藍は、昼夜を問わず主人の身の回りの世話がある。そしてその主人が紫なので、時には仕事を押しつけられたり面倒事に巻き込まれたり、精神肉体ともども疲れ果てる日は多いだろう。そんな中で、毎日のように水月苑までやってきて夕食の支度だの掃除だの、並の体力と精神力でできることではない。

 

「もし少しでも負担になってるんだったら、無理はしなくていいんだよ……とは思うんだけど、まあ、藍はそういうのは絶対に首を縦に振らないからね」

「ああ、わかります。藍様、頑固ですからね」

 

 大人びているように見えて、あれで結構わがままなのである。

 

「異変はなんとか上手いこと収まったわけだし、もう私は気にしちゃいないからね。だから余計に、苦労をかけてるんじゃないかと不安なわけだ。……そういう意味では、確かにちょっと困ってるかもね」

 

 とりわけ藍に限ったことではないが、幻想郷の従者たちは、もっと自分に甘くなってもいい気がする。雑事を手伝ってくれる咲夜にせよ、庭を手入れしてくれる妖夢にせよ、「疲れてるんだったらいいんだよ」としばしば声を掛けてはいるものの、「いえ、大丈夫です」以外の返事が返ってきたためしがない。

 当初は屋敷が広すぎるから仕方ないと割り切っていたが、しかし、いつまでも年下の少女たちに助けられっぱなしなのは男としてどうなのか。

 魚を桶に移し終えた橙がタオルで手を拭いて、また釣り竿を振るう。その姿を見ながら月見はふと、

 

「……私も、式神をつくってみようかな」

「式神ですか?」

「ああ」

 

 強引なやり方だが、式神にすべての雑事を任せることで、無理やり手伝いが必要ない状況をつくりだすという方法。自分がやるまでもなく綺麗に掃除された水月苑を見れば、少女たちが手伝いをする理由もなくなるだろう。

 

「でもそれだと藍様、『やっぱり私ではお邪魔だったんですか……!?』って誤解しちゃいそうです」

「あー、そうだよなー。そうなんだよなあ……」

 

 ショックのあまり涙目でふるふる震えているところまで完璧に想像できる。あいつなら絶対にそうなる。

 あとなんとなく、咲夜もへそを曲げそうだ。なんとなく。

 藤千代だって、「それじゃあせっかくの通い妻計画が台無しじゃないですかーっ!!」と暴走してしまうかもしれない。

 

「どうしたものか……」

 

 釣り竿がひくひく動いたので、一気に引き上げる。右へ左へ元気に暴れる魚を片手で押さえつけ、針を、

 

「それに藍様、今は今で結構幸せみたいですから……。こういうの、夢だったみたいですし」

「おっと」

 

 外した瞬間、見計らったタイミングで魚が火事場の馬鹿力を発揮し、危うく逃がしてしまいそうになった。池へ落とすよりも先に、桶の中へ叩き込んだ。

 

「びっくりした。……ところで橙、今、なにか言ったか?」

「いえ、なんでもないですよ」

「? そうか」

 

 橙が小声でなにかを言っていたような気がしたが、魚に夢中で聞き逃してしまった。

 まあ、なんでもないと笑顔で首を振るくらいだから、単なる独り言かなにかだったのだろう。

 

「もしも式神をつくるとしたら、月見様はどんなのがいいですか?」

「そうだなー、橙みたいないい子がいいかなー」

「うええっ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げた橙が、危うく欄干から滑り落ちそうになった。もふもふチャイルドシートをしていて助かった。

 

「大丈夫か?」

「は、はい、どうもお手数を……で、でもっ、いきなりびっくりさせないでくださいっ」

 

 尻尾をぱたぱたさせながら可愛らしく怒る橙に、月見は笑いながら、

 

「ッハハハ、私の式神は嫌かね」

「い、いえ、決してそういうわけではないですけど、私は既に藍様の式神で……それに、私を式神にするなんて話じゃないですよね!?」

「まあ、それはそうだ」

 

 仮にこの案を採用するのであれば、月見は紙の式神を使うだろう。その方が、『誰かに手伝ってもらっている』という感覚がなくて済む。橙のように、生物に式神を憑かせて使役することはない。そうやって、誰かの生活を縛ってしまうのは好きではないから。

 

「そうですか……もし月見様が式神をつくって、私たちのお手伝いが必要なくなったら、藍様悲しんじゃいますね」

「……」

 

 幼子らしい率直で素直な橙の発言が、月見の心をささやかに抉る。

 手伝いをしてくれる気持ちはありがたいのだが、やはり何事も行きすぎると息苦しくなるよなあと。

 そう改めて実感しながら月見は、さてお手伝い熱心な少女たちをどうやって説得したものかと、あれこれ頭を悩ませるのだった。

 

 ちなみに釣り勝負は、月見が一匹で橙が三匹、完敗だった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「なあ、紫。今度、私と外の世界に遊びに行かないか」

「!?」

 

 藍渾身の懐石料理みたいな――いや、実際懐石料理だったのだろうが――夕食を食べ終え、藍が橙を連れて温泉に行った頃。

 麦茶を飲みながらのんびりしていた紫にそんなことを言ったら、天と地がひっくり返ったような顔をされた。

 口をあんぐり開けて石化している紫に、月見は半目で、

 

「なんだその顔」

「えぇっ!? だ、だってそのっ、つっつつつ、月見の方から、でっ、デートに誘ってくれるなんて!?」

 

 誰もデートとは言っていないが。正気に返った紫は赤くなった頬を両手で押さえ、「うへへへ」と気味の悪い笑みを浮かべていた。

 月見はため息、

 

「喜んでるところ悪いけど、お前が想像してるのとはちょっと違うと思うぞ」

「えっ」

「外で、ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。ただ、手伝ってもらうだけじゃあ悪いから、用事が済んだら一緒に街を歩いてみないかってことだね」

「……にへへへ」

 

 ダメだコイツ。

 

「だってだってっ、月見の方からそんな風に誘ってくれることって滅多にないじゃない!」

「まあ、そうかもしれないけど」

「手伝ってほしいことってなに!? 私にできることならなんだってするわよ!」

 

 紫の瞳は、あふれる希望で子どもみたいに光り輝いていた。冗談でもなんでもなく、今の彼女なら頼めばなんでもやってくれるのだろうなと月見は思う。

 

「大したことじゃないよ。外の世界で生活してた頃に、溜め込んでた荷物があってね。向こうで置きっぱなしになってるから、そろそろこっちに持ってきてしまいたいんだ」

 

 長年気ままな一人旅に勤しんできた月見は、あまり両手が塞がる以上の荷物を抱える主義ではないけれど、旅先では主に知り合った人からの贈り物という形で、不可抗力的に手持ちが増えてしまうことも多かった。なので、なかなか捨てるに捨てられないそれらを置いておく目的で、適当なアパートを一室借りていたのだ。

 どうせ外に戻る予定はしばらくないのだし、放置して無駄に家賃を払い続けるよりかは、いっそこちらへ持ってきてしまおうと思う。殊に物の運搬という点では他の追随を許さない、紫のスキマを使わせてもらえれば一瞬だ。

 

「なるほど……もちろんいいわよっ! 私のスキマでちゃっちゃと終わらせて、たくさん遊びましょっ!」

「助かるよ。……日時は任せるよ。ただ、今は外も蒸し暑いだろうから、ある程度涼しくなってからだといいかな」

 

 幻想郷の夏ももちろん暑いが、外の世界はそれ以上だ。特に都心部の暑さは筆舌に尽くしがたいものがあり、さながら高層ビルで覆われた蒸し釜である。毎年多くの熱中症患者が病院へ運ばれるのも、あれでは当然としか言い様がない。

 なので夏がその猛威を振るい始める頃になると、避暑と称して北側の地方、もしくはいっそ南半球にまで逃げるのが、外で暮らす月見の毎年の恒例行事だった。夏には夏の魅力があるのはわかっているけれど、暑さは寒さと違って、着る物で調節しづらいから少々苦手だ。過ごしやすさという一点だけでいえば、月見は夏よりも冬を選ぶ。

 外の世界の蒸し暑さには心当たりがあるのか、紫は苦笑いをしていた。

 

「そうね、外の暑さはこっちの比じゃないものね……。うん、じゃあ涼しい日があったら迎えに来るから、一緒に行きましょ!」

「ああ。ありがとう」

 

 とまあ、ここまでを傍から見れば、楽をするために紫を利用していると思われるかもしれないけれど。

 本当のところをいえば、荷物運びこそがついでであり、本命は紫と遊ぶ方なのだ。所詮は自己満足でしかないけれど、今年の夏は、紫にとって決していい季節ではなかったはずだから。だからせめて、少しくらいは、辛い記憶を束の間でも忘れられる、楽しい時間というものがあってもいいはずだろうと。

 口に出すことはしない。それはきっと、恩着せがましくて卑しい行いだから。

 紫の笑顔が、眩しい。

 

「お礼を言うのは私の方よ! ……ありがとう、月見! 私、すっごく楽しみ!」

「……そっか」

 

 この際、いっそのことデートでも構いやしない。それで紫が楽しんでくれるなら。

 早速当日の予定を考え始めた気の早すぎる少女を見て、月見はそっと、ため息をつくように笑った。

 

 

 

「……ただいまあがりまし――って、どうしたんですか紫様。そんな気味悪く笑って、頭でもおかしくなりましたか」

「ひどいっ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ところでこのところ、月見の一人暮らしが名ばかりのものとなりつつある。

 とにかく客が多いのだ。大した用事があるわけでもなく日中から居座る者や、夜にやってきてはそのまま泊まっていく者まで。ひどい時は、示し合わせたわけでもないのに次々と人が集まり、自然と宴会が始まってしまうなんてこともある。彼女たちの中では、この屋敷は月見の家である以前に温泉宿であり、気軽に立ち寄って騒ぐのが当然という認識なのかもしれない。

 無性に霖之助と酒を呑みたくなってきたが、それはさておき。

 だからなのか、食べ物を持ち込んだり差し入れたりしてくれる少女というのがちらほらといる。このところ水月苑の夕食事情を牛耳る藍もそうだし、咲夜や妖夢、映姫、早苗、妹紅、ルーミアなどは、まるで自分が屋敷の玄関をくぐる対価とするように、思い思いの食材やお菓子を持ち寄ってくる。客の多い水月苑でさほどエンゲル係数が高騰せずに済んでいるのは、ひとえに彼女たちの気遣いのおかげだ。

 天子もそうやって、水月苑に差し入れを持ってきてくれる少女の一人だった。

 ただ、

 

「……天子。差し入れを持ってきてくれるのは嬉しいんだけど、もう少し、こう、程度というものをね?」

「ご、ごめんなさい……」

 

 三日連続で朝っぱらからダンボールいっぱいの桃を持ってこられれば、さすがに困惑せざるをえないというものだったが。

 台所で三段積み重ねられた桃のダンボールたちを見て、申し訳なさのあまり縮こまっている天子曰く、

 

「なにかお礼をしたくて……つ、つい」

「まあ、もっと早くに言わなかった私も悪いけど……」

 

 中に詰め込まれた桃の数は、低く見積もっても合わせて百は下るまい。ダンボールを抱えた天子が二日連続でやってきた時点で、なんとなく嫌な予感は覚えていたものの、まさかそんなと高を括ってしまったのは失敗だった。いくら客が多い水月苑でも、これはちょっと消化が間に合わない。

 

「しかし、こんなに持ってきて大丈夫なのか?」

「それは大丈夫。これでもまだまだ、食べきれないくらいあるから」

 

 桃は天界で最もメジャーな食べ物であり、それ故にみんな食べ飽きており、毎年途轍もない量が余るとか。木の数を減らそうにも、天界の空気を浄化してくれる極めて重要な植物なので、増えないように管理するのが関の山なのだそうだ。

 天界で育ったこの神聖な食べ物は、地上でしばらく置けば邪気を祓う力が失われ、妖怪でも美味しくいただけるようになるという。

 天子が、髪が翻るほど勢いよく頭を下げた。

 

「ごめんなさいっ。その、邪魔だったら持って帰るから……」

「いや、ありがたくいただくよ。持って帰るのも大変だろう?」

 

 このダンボールを水月苑まで運んでくる時点で、天子は顔中真っ赤の汗だらけだったのだ。今だって頬にはまだ熱が残っていて、血色のいいピンク色になっている。

 あんな姿になってまで持ってきてくれた心ある差し入れを、まさか突き返すなどできるはずもない。

 

「でも、さすがにこの量は……」

「手がないわけじゃないさ。水月苑の、新しい名物にでもしてみるのはどうかな」

 

 客だけは多い水月苑だ。特に週末は、夏故に客足がいくらか少なくなったとはいえ、そこそこの人たちが温泉目的で訪れる。温泉で火照った体に染み渡るようキンキンに冷やして、爪楊枝付きの一口サイズで提供すればウケがよさそうだ。

 

「へえ……! うん、いいんじゃないかしら。とっても素敵だと思う」

「それじゃあさっそく、今度からやってみようかな」

「私も手伝います!」

 

 暗かった顔つきを吹き飛ばし、天子が元気よく手を挙げた。

 

「桃、一人で切るのは大変でしょ?」

「それはそうだが」

 

 ちゃっかり水月苑の若女将を自称している紫では、桃を切る要員としてとても心許ない――というかそもそもお手伝いとして心許ない――ので、手伝ってもらえるならありがたいけれど。

 

「いいのか? ……というか、包丁使えるのか?」

「つ、使えるわよそれくらい!」

 

 天界で退屈極まる日々を過ごしていた頃に、暇潰しで包丁の扱い方はマスターしたのだと天子は胸を張った。りんごの皮を全部つなげたままで剥けるし、うさぎさんも作れるという。お嬢様育ちというだけで、反射的に壊滅的な腕前を想像した自分を反省する月見である。

 

「私だって女の子だもの、これくらいできないとっ」

「……そうだな」

 

 お嬢様育ち=料理下手という先入観を月見に植えつけた元凶である、輝夜の姿が脳裏をよぎる。そういえば、料理と称してボヤ騒ぎを起こした輝夜の素晴らしい料理センスは、未だに健在なのだろうか。

 緩く首を振った。

 

「じゃあお言葉に甘えて、力を貸してもらおうかな」

「任せてっ。頑張るから!」

 

 命を救われた恩を返すためなのか、それとも単に憧れの存在として強く慕っているからなのか。とにかく天子は、どれほど小さなことでもいいから月見の手助けをしようと躍起になっているフシがあった。そして、手助けすることを己の最上の喜びとしているフシも。今だって彼女は、まるで自分のことみたいに満足げな笑顔で、ほのかな鼻歌を口ずさんでいる。

 差し入れはもちろん、水月苑の掃除やらなにやらまで率先してやろうとするから困りものだ。主に、咲夜や藍と出くわして火花を散らしているという意味で。

 

「じゃあこれくらいの桃じゃ足りないかもしれないから、もっと持ってこないと!」

「いや、どれくらい食べてもらえるかわからないし、今回はこれで様子を見ような?」

 

 少々後先を考えない性格をしているので、こうやって空回りしてしまうのも珍しくない。

 

「そ、そうよね。ごめんなさい……」

「天子。やる気になってくれるのは嬉しいんだけど、もうちょっと冷静になろうな」

「はい……」

 

 肩を叩いてたしなめると、天子は恥ずかしさのあまりしおしおと縮こまっていくのだった。

 

「――さて。そろそろ行かないと、寺子屋に間に合わないんじゃないか?」

「あ、そうかも」

 

 里の寺子屋は慧音を中心に、何人か手伝いの大人たちが交代交代で勤めることで運営されている。しかし天子は毎日休まず出校し、今や手伝いを超え立派な一教師へと成長した。里で一番人気の新任教師は、たった一日休むだけで生徒たちからブーイングの嵐だという。先輩教師としての立場をどんどん失っていく慧音は、きっと教室の隅で暗い雲を背負っているのだろう。

 天子を見送りに、外へ出る。太陽の下で一度伸びをした天子が、スカートを可憐に揺らし振り返った。

 

「えっと……それじゃあ、いってきます」

「ああ、いってらっしゃい」

 

 こうして月見が見送りをするたびに、天子はいつも決まって幸せそうな顔をする。ほんのりと色づいた頬で、俯きがちになりながら、こそばゆそうに淡くはにかむ。いつのことだったかその仕草を偶然目撃した哨戒天狗が、鼻血をまき散らしながらくるくると池へ落下したことがある。

 

「……あ、あの、月見っ」

「なんだ?」

 

 天子の頬を染める赤が、この青空の下で、まるで夕日を受けたみたいに濃くなっていく。

 

「その……ちょっと、後ろ向いててくれない?」

「? どうかしたのか?」

「い、いいからっ。ほら早くっ、寺子屋に遅れちゃう」

 

 わたわたと挙動不審な天子を不思議に思いつつも、月見は言われた通り回れ右をした。

 後ろを向けば、水月苑の玄関が視界いっぱいに広がる。土間が少し砂埃で汚れているので、掃除をした方がいいなと思う。先日橙と釣りをした時に思いついた式神の案を、一度試してみてもいいかもしれない――

 ――と、

 

「……天子?」

「……」

 

 柔らかな感触がした。ふわふわと舞い降りてくる、真っ白な羽根のように。

 天子に、抱き締められていた。

 

「……え、えっと」

 

 後先を考えない突発的な行動だったのか、天子は自分でも焦った声をしていた。月見のお腹あたりに、天子の両腕が戸惑うように回されている。風に乗って香る桃の匂いが鼻腔をくすぐる。背中越しに、今にも暴走しそうな天子の胸の鼓動を感じる。

 

「……」

「……」

 

 一体全体どうしたのか、しばらく待ってみてもさっぱり反応がなかったので、月見は気絶でもしてるんじゃないかと思って、

 

「天子?」

「え、ええっと! なんていうかな!」

 

 慌てに慌て半分以上裏返った声で、天子がいきなりまくし立てた。途轍もないほど緊張しているのか、知らず識らずのうちに体が強張り、月見をぎゅっと抱き締めながら彼女は、

 

「――私、幸せ! すっごく幸せっ! だから、ありがとうっ!」

 

 そこまでだった。少し苦しいくらいだった天子の腕の感触がふっと消える。振り返れば、全身の血液が集結したんじゃないかと思うほど真っ赤っ赤な天子の笑顔が、逃げるように遠ざかっていく。

 

「あ、あはは……そ、それだけっ! ごめんね、変なことしちゃって!」

 

 破裂寸前だった天子の胸の鼓動が、まだ背中を叩いている気がする。

 確かに後先を考えない天子だけれど、それにしたって予想外な行動だった。真っ赤っ赤になって、しどろもどろになって、笑って誤魔化すことしかできなくなってまで、なぜいきなりあんなことをしだしたのか。

 その憶測を呑み込んで、月見は笑った。

 

「よかったよ。お前が、幸せで」

「っ……」

 

 天子が、よろめいた。

 

「そ、そんなこと言わないで……」

「なぜ?」

「だ、だって……、」

 

 天子は顔を両手で覆い、今にも消えてしまいそうなか細い声で、

 

「……………………だって、すごく、嬉しくなっちゃう……」

 

 天子の頭からは、ジュウジュウと白い湯気が立ち上がっているような気がした。

 人からの好意に、触れ慣れていない子なのだろう。ファンクラブの連中から食事はどうかとかデートはどうかとか誘われるたび、顔を真っ赤にして狼狽えていると聞く。今まで傲岸不遜の限りを尽くし、人から嫌われそれが当たり前となっていたが故に、人から好かれてしまうと途端にどうしたらいいのかわからなくなって、勢いで変なことをしてしまう。

 今しがたの大胆な行動も、その延長線だったのだろうと――今はまだ、そう思っておくことにしよう。

 

「ほら、早く行かないと。本当に遅刻しちゃうぞ」

「そ、そうよねっ!? じゃあ、いってきます! また――」

 

 勢いのまま最後まで言ってしまいそうになった言葉を、天子はぐっと飲み込んだ。深呼吸をして、咀嚼するように唇を動かして。

 最後は決して誤魔化しの笑顔ではなく、心から。

 

 

「――またね」

「ああ。いっておいで」

 

 

 ――幻想郷は本日も、穏やかな平和の二文字である。緋想天の異変が終わって十余日、すべてが夏の幻であったように、突き抜けて平和の限りである。

 

 時には誰かが涙を流し、怒りに震えることもあるけれど。

 

 それらをすべて乗り越えて、今日も幻想郷は、笑っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、おはよう天子。今日は遅かったな――って、顔が真っ赤だぞ!? 風邪でも引いたのか!?」

「……あー、うん、その。……引いちゃった、かも」

「大丈夫か? 今日は休んで安静にした方が……」

「ううん、そういう意味じゃなくて……体は大丈夫なんだけど、こう…………心の風邪というか」

「はあ……?」

「と、とにかく大丈夫っ! 心配しないで、いけないと思ったらちゃんと休むから!」

「まあ、一応元気そうだからいいが……もし万が一があったらちゃんと言うんだぞ。体調管理も教師の仕事だ」

「はあい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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