銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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第70話 「姫海棠はたての災難な取材記録」

 

 

 

 

 

「――あ、あの、初めまして。私、姫海棠はたてという鴉天狗の新聞記者です。本日は、月見様に是非取材をしたいと思い、お伺いしました。宜しければ、少しお時間をいただけないでしょうか……」

 

 舌を噛みそうだった。

 というか、さっきは噛んだ。

 その日、鴉天狗の姫海棠はたては、自分の家でぬいぐるみに向かってそう話しかけていた。

 断じて頭がイカれたわけではないと断っておく。傍から見ればそう疑われても仕方のない光景ではあろうが、これはこれでちゃんとした理由があってのことなのだ。やりたくてやっているわけではない。

 

「……ご、ご質問はこれで以上です。お忙しい中、どうもありがとうございました。新聞が発行されたら、是非ご覧になってみてください――。

 ……って、こんな感じでいいのかしら……?」

 

 う~~~~んと重苦しい声で唸り、はたてはぬいぐるみを抱き締めてベッドの上に転がった。柔らかな枕に半分顔を埋めて、はあ、とため息をつく。

 

「ううう、緊張する~……」

 

 月見さんに取材をしよう。

 柄にもなくそんなことを決心したのは、夏を賑わせた緋想天の異変が終わってから間もなくの頃だった。

 緋想天の異変が終わって間もなくとは、だいたい、今から三週間前のことである。

 すなわち三週もの間ずっと、はたてはぬいぐるみ相手に取材の練習をしては、こうしてベッドの上を悶々と転がっているのである。

 

 はっきりいって内弁慶なのだ。はたては天狗の仲間内であれば至って気さくで強気なのだが、それ以外となると実に弱気で口下手な小心者なのだ。さすがに人と目が合っただけで逃げ出すどこぞの人形師ほどではないが、緊張して思うように話せなくなってしまう程度には、はたても人見知りという病を患っているのだった。

 トラウマ、というやつだ。

 生まれて初めての取材で。

 全然上手くできなくて。

 それで、ひどいことを言われてしまって。

 以来、見知らぬ他人と話をするのが苦手になってしまった。曲がりなりにも新聞記者のくせして情けないと、同僚の文には何度も笑われたが、口から生まれてきたようなやつには私の気持ちなんて絶対にわからないとはたては思っている。しかしいつまで経っても笑われてばかりでは大変不愉快なので、ここいらで月見への取材をきっかけに、人見知りを少しでも改善しようと思い立ったのである。

 なぜ月見か。

 月見が、恐らくは幻想郷で一番温厚な妖怪だからだ。

 どこの新聞だったかは忘れたが、みんなのお父さん、みたいなことを書かれていた気がする。子どもに好かれやすいらしい。常闇の妖怪と一緒に釣りをしたり、尻尾を猫じゃらしにして化け猫少女と遊んだり、吸血鬼の妹を肩車して散歩したり、生意気な氷精をお菓子で餌付けしたりする姿は、同僚たちの間で時おり話題になっているのを聞く。また彼の屋敷は週末になると温泉を一般開放するが、近頃は比那名居天子と連携して、天界の桃を無料でご馳走してくれるようになったという。

 面倒見がいいのだ。

 面倒見がいい彼なので、取材の練習相手としては最適なはず――と、そういう話なのだった。

 とはいえ、

 

「優しいってわかってても、緊張するものは緊張するなー……」

 

 はたては、月見と直接顔を合わせたことすら一度もない。同僚に誘われて温泉に行った時、ちらっと横顔を見かけた程度だ。きっと月見は、姫海棠はたてという鴉天狗がいることなど知りもしていないのだろう。

 彼がはたてにとって他人である以上、優しいという前情報もあまり意味がない。だいたい普段が温厚で優しい人ほど、いっぺん怒るとヤバいと相場が決まっているのだ。十一尾の妖狐という彼の実力を考えれば、はたてなど文字通りイチコロである。

 ぶんぶん首を振った。

 

「い、今更後には引けないわ。文にも言っちゃったし……」

 

 へええ~そうなんですか~結果を楽しみにしてますね~と、あの慇懃無礼な鴉天狗はニヤニヤしていた。どうせ失敗するんだろう。そう決めつけて疑っていない顔だった。

 あいつをギャフンと言わせるために、なんとしても成功させなければならない。失敗などしてはもう嫌というほど笑われるだろうし、内容次第では『文々。新聞』で晒し上げられるなんて可能性もありうる。

 天井を見上げ、ため息をついた。

 

「……もう一回だけ練習しとこ。なるべくつっかえないで、自然な感じで言えるように……」

 

 体を起こし、ベッドに正座して、目の前にぬいぐるみを置く。そうして姫海棠はたては、本日二十回目を数えた予行練習に没頭していく。

 

 あんなトラウマを植えつけられるなんて。

 今はもちろん、知らないままで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一日目、昼。

 天狗の縄張りから水月苑へは、山を麓まで下るだけで到着する。個人の家とは思えない大屋敷が山紫水明を切り開き、池泉庭園が太陽の光を弾き返す光景は、何度見ても圧巻のため息がもれてしまう。

 

「あいかわらず、すごいお屋敷……」

 

 八雲紫と鬼子母神、そして我らが天魔様を主導とする山の住人たちが、月見の「普通の家でいい」という要望を完全無視してつくり上げた傑作だと聞いている。勝手にこんな大屋敷を押しつけられていい迷惑だったろうに、それでもきちんと温泉宿亭主の肩書きを背負っているあたり、月見という男の懐の広さが窺える。

 

「さて、と……」

 

 とはいえ今日はあいにく、庭園の観光に来たわけではない。はたては山の新鮮な空気で深呼吸をして、手早く身嗜みを確認した。服よし、髪よし、ペンよしメモよし覚悟よし。玄関まで降り立って戸を叩けば、いよいよ取材スタートだ。

 

「よ、よし。やってやる。やってやるわよ」

 

 ぬいぐるみ相手の予行練習は、あと一回だけあと一回だけと思いつつ、結局深夜までやってしまった。しかも、緊張してなかなか寝つけないというオマケつきだった。お陰でだいぶ寝不足だが、その分、あんなに練習したんだからきっとできるはずだと、出所不明の自信が湧いてきているのを感じる。

 両手を拳にし、ふんす、と気合いを入れて、

 

「……あれ? 誰あんた?」

「え?」

 

 こうして声を掛けられて初めて、正面の空に誰かがいるのだと気づいた。

 同じ女のはたてが見惚れるほど、浮き世離れした美貌の持ち主だった。初めて知ったのだが、どうやら黒という色も光り輝くものであるらしい。雨が降ったわけでもないのに、どうしてその黒髪が夏の日差しを易々と呑み込み、控えめで、けれどしたたかな光を宿すことができるのか、はたてはいくら考えてもわからなかった。言葉で表現すれば同じ『肌色』のはずなのに、彼女の肌ははたてのそれとは決定的に質が違って見える。手も足も隠れてしまうほど裾の長い豪華な着物が、彼女の美貌を際立たせるただの脇役と成り下がっている。これほどの違いを見せつけられればもう、目の前の少女が『かぐや姫』なのだと気づくまで、さほど時間は掛からなかった。

 

「……あ、えっと」

 

 思いがけない人物の登場で、はたての頭が一瞬真っ白になった。「誰?」と訊かれたのだから名乗らなければいけないのに、いつまで経っても自分の名前が出てこない。火炙りにされているのかと思うほど顔が緊張の熱を帯び、目の前がぐるぐる回り出したような感じになる。当然、さっきまでの自信など木っ端微塵に砕け散っている。

 知らない人からいきなり声を掛けられると、すぐこれだ。

 待って待ってどうしようどうしようと右往左往するはたての心など知る由もなく、少女――蓬莱山輝夜は、不思議そうな顔ではたてを上から下まで観察した。

 

「……あんた、ギンに何か用?」

「え、え? ギン?」

「あー、月見よ月見」

 

 眼下の水月苑をちょんちょんと指差して、

 

「この屋敷に住んでる狐」

「え、えっと、」

 

 そこではたては、今ようやく思い出したかのように息を吸った。大丈夫、慌てることはない。全然大したことのない普通の質問じゃないか。取材を始める前のウォーミングアップだと思って、軽い気持ちで答えてしまえばいい。

 息を吐いて、

 

「そ、そうです。新聞の取材をしようと思って……」

「……ふーん。そう。そう……」

 

 そう答えた途端、輝夜がどんより雲をまとってがっくりと項垂れた。そのまま墜落していきそうなくらいだった。

 

「え、あの」

「ああ、ごめん、気にしないで」

 

 今にも崩れ落ちそうな顔をしてよく言う。

 はたてはおずおずと、

 

「あの、もしかして月見さ――月見様と会う約束をしてたとか?」

「そういうわけじゃないんだけど……まあ、会おうと思ってはいたわ。できれば二人で」

 

 悔しさのにじんだ輝夜の言葉を聞いて、ああ、とはたては思い出した。そういえば蓬莱山輝夜は、どういう経緯かは知らないが、月見に心底お熱な少女のひとりだったはずだ。一時期は筋金入りのひきこもりとして有名だった彼女が、水月苑近辺――というか月見の近辺でよく目撃されるようになり、天狗の男どもが歓喜と嫉妬で狂っていたのは記憶に新しい。

 輝夜はぶつぶつ言っている。

 

「なんでよ……私、なにか悪いことしてるの……? 神様のばかー……」

「え、えっと、なんだかすみません」

 

 ここまで思い出せれば、目の前で輝夜が切実なため息をついているのも納得だった。好きな人と二人きりで会おうと勇んでやってきた彼女にとって、はたては完全にオジャマムシなわけだ。好きな人はいないから想像だが、たとえばはたてが輝夜の立場だったら、どう頑張っても嬉しい顔はできない気がする。

 輝夜がふっと笑った。砂の上に指で描いたような、薄ぼんやりとした儚い笑顔だった。

 

「いえね、別にあなたを責めてるわけじゃないの。ギンは私のものじゃないし、こうやっていろんな人から頼られるところはやっぱりギンだなって誇らしくもあるのよ。……でも、いくらなんでも多すぎでしょ? なんていうか、ギンと二人きりでゆっくりできる日ってないの? ギンは滅多にこっちまで来てくれないし、私の方から会いに来ても、スキマとかその式神とかその式神の式神とか鬼子母神とか天魔とかわんことか吸血鬼とかメイドとか霊夢とか魔理沙とか亡霊とか庭師とか風祝とか蛙とか注連縄女とか天人とか閻魔とか死神とか河童とか厄神とか闇妖怪とか妖精とか、いっつも誰か別の女がいるんですけど……」

「……あ、あはは」

 

 どうやらこの少女は、もうしばらくの間月見と二人きりになれていないようである。明後日の空を見つめた目の焦点が合っていない。顔で笑って心で泣くとは、まさに今の輝夜を指して言う言葉なのだろう。適当な愛想笑いをしながらはたては、わんこって椛のことかな、とそんなズレたことを考えた。

 苦笑、

 

「あの。そういう話だったら、私、また明日にするのでいいですよ」

「……え?」

「これといって、急ぎの用事でもないですし」

 

 嘘だ。急ぎの用事でないのは本当だが、そんなものは所詮ただの建前で、どうにも輝夜を月見と会わせてやりたくて仕方がなかったのだ。恋の味は知らずとも同じ女に生まれた者として、好きな人と二人で過ごしたいと願う切実すぎる輝夜を、あえてまで邪魔することなどできなかったのだ。

 輝夜がよろめいた。

 

「あ、あんたっ……!」

 

 目尻に涙を溜めて、

 

「あんたっ、いい鴉天狗ね!」

「う、うわわっ」

 

 両手をぎゅっと握られ、ぶんぶんと激しく上下に振られた。息が届くほどすぐ近くから覗き込まれて、不覚にもどきっとしてしまった。突然過激なスキンシップをされて驚いたのもあるし、間近で見たかぐや姫の満点の笑顔が、その美貌と合わさって息も止まるほどだったからというのもある。

 空の上で、輝夜は器用に飛び跳ねている。

 

「あんたみたいないい鴉天狗もいるのね! 私、鴉天狗っててっきり、『文々。新聞』のやつみたいなのばっかかと!」

「……えっと、とりあえず、あんなのと一緒にしないでください」

 

 どきどきしていたはたての心臓がいきなり冷静になった。あの慇懃無礼を絵に描いたようなやつが鴉天狗の基準になっているとは、なかなかぞっとしない話だった。はたては至って普通の常識人なのである。

 

「じゃあ私、戻るので。いい時間が過ごせるといいですね」

「本っ当にありがとうっ! あんたのことは忘れないわ!」

 

 そのくせはたての名を尋ねることもせず、輝夜はさっさと水月苑の方へ飛んで行ってしまった。長い黒髪がスキップを踏むように躍っていて、本当に嬉しそうだ。あそこまで喜んでもらえたなら、緊張でなかなか寝つけなかったのも、予定が一日狂うのも、まあ大したことじゃないかなと思えた。

 練習する時間が一日増えてラッキー。そう前向きに考えて、はたては来た空を引き返していく。

 

 この際だし、はっきり言ってしまおうと思う。

 今日この日にすべてを片づけてしまわなかったことを、はたては心の底から後悔した。

 

 

 

 

 

「ギ――――ンっ!!」

「はいはい。そんな大声で呼ばなくても聞こえてるよ」

「遊びに来たわよっ! ねえ、ひょっとして今、もしかしなくてもひとり」

「あ、輝夜だ。こんにちはー」

「……、」

「ちょうど今、天子が新しい桃を持ってきてくれてね。せっかくだし、ひとつ食べ――ってどうした、膝から崩れ落ちて」

「……そうですよねー、ひとりなわけないわよね。わかってたわよ。くすん」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 二日目、昼。

 

「さてと。じゃあ改めて、出発っと」

 

 昨日と同じ手順で服よし髪よしペンよしメモよし覚悟よしを確認して、はたては再び水月苑に向かった。昨日の反省を活かしてたっぷり睡眠を取ったため、頭の中がとてもスッキリしている。心も実に晴れやかで、さあ取材をしよう、と自然なやる気が湧きあがってきている。昨日のはダメだ。寝不足で頭が重たくて、やってやるやってやると必死な自己暗示で恐怖を誤魔化して、あんな状態でまともな取材ができたとは到底思えない。一日時間を置いて正解だった。あのタイミングで声を掛けてくれた輝夜には、感謝しなければならないだろう。

 そういえば彼女は、無事に幸せな時間を過ごすことができたのだろうか。そうだったらいいなと思う。立ち塞がる好敵手たちに負けず、これからも笑顔でいつづけてほしいものだ。

 また誰かと出くわすことはなかった。水月苑の玄関に降り立ったはたては、一度新鮮な空気を胸いっぱいに取り込んでから、決意を込めた拳でつくりのいい引き戸をノックした。

 決意を込めた声で、

 

「ごめんくださーい!」

 

 さあ、いよいよ取材スタートだ。これからの自分の行動をシミュレートする。月見が出てきたら、まずは聞き取りやすい声でしっかりと挨拶。きちんと四十五度で頭を下げて、それから用件に入る。取材の練習相手となってほしいこと。自分は人と話をするのがあまり得意でないので、なにか失礼なことをしてしまうかもしれないということ。それでも精いっぱい力を尽くすので、どうかお時間をいただけないかということ。引き受けてもらえたらちゃんとお礼を言う。今は都合が悪いと言われたら、いつなら大丈夫かを確認する。たとえ断られてしまっても嫌な顔はせず、話を聞いてくれたことにしっかりお礼を――

 

「……って、あれ?」

 

 いつまで経っても玄関が開かないし、それどころか返事も返ってこない。

 嫌な予感がしつつもはたてはもう一度、

 

「……ごめんくださーい!」

 

 さっきより少し強めに戸を叩いてみたが、やはりウンともスンとも言わない。

 試しに戸を引いてみると、開かない。

 がっくりと肩が落ちた。

 

「そっか……確かに、こういう場合もあるわよね……」

 

 月見が留守の可能性をまったく考えていなかったのは、自分がひきこもりだからだろうか。月見は散歩が趣味で、普段から家を開けることも少なくないと――どこかの新聞で読んだ一文が、今更のように甦ってきた。

 

「仕方ない、出直すかあ……」

 

 肝心の月見がいないのでは、どう頑張っても取材などできっこない。まさか飛び回って捜すわけにもいかないから、夕方あたりにまた出直すのがいいだろうか。

 ついてないなーとため息をついて、踵を返す。

 

「あら? もしかして留守なのですか?」

「あー、どうやらそうみたいで――」

 

 庭の飛び石を優雅に跨いで、ちょうど玄関に足を掛けた少女がおり、

 

「――って、うえあああっ!?」

 

 その少女が誰なのか気づいた瞬間、はたては文字通り跳びあがった。それから後ろにバランスを崩して、玄関の戸に背中を打ってしまう。じんわりとしたむず痒い痛みが背中を覆っていくが、はたては身じろぎひとつすることができない。

 絶句するはたてを見て、少女が眉をひそめた。

 

「む、人の顔を見るなりそこまで驚くとは失礼ですね」

(えっ――、)

 

 冠のように大きな帽子と、右手には記号にも見える文字を刻んだ悔悟棒。

 新聞の写真で見たことがある。

 

(え、閻魔様あああああぁぁぁ!?)

 

 幻想郷最強の双璧を組む八雲紫と鬼子母神ですら、この少女の前では恐れをなして逃げ出すという。己の口ひとつで最強を超える陰なる最強、四季映姫・ヤマザナドゥが、はたてのすぐ目の前でむすっと腕組みをしていた。

 自分の頭がおかしくなったかと思った。

 

「なっなななっ、なんで、あなたのような方が、こんなところに……!?」

「私も用があったんですよ、ここに住んでいる狐に。……でもそう、留守なのですか」

 

 用があったということは、彼女も月見の知り合いなわけだ。月見の交友関係は、年齢や性別や種族のみならず、どうやら世界の壁すらをも越えるらしい。彼岸から遠路遥々、閻魔様が個人の家を訪ねに来るなんて聞いたこともない。――もう月見さんなら宇宙人とも友達なんじゃないかなー。あーそういえばかぐや姫って宇宙人だったなー。わーい月見さんすごーいあははははは。

 現実逃避をしている場合ではない。幻想郷では、四季映姫という少女が閻魔であることを知らない者はいても、超がつくほどの説教好きであることを知らない者はいないのだ。おまけに、彼女の説教は相手を選ばない。強面の男だろうがか弱い乙女だろうが、我慢を知らない子どもだろうが足腰の弱い老人だろうが、一度閻魔様の怒りを買ったが最後、みんな仲良く地べたに正座させられる羽目になるのだ。

 さて今ここに、そんな閻魔様から目をつけられてしまった哀れな少女がひとり。

 はたては冷や汗をダラダラ流しながら、

 

「こ、ここっ、ここの方とは、親しいのですか……?」

「え? いえ、そんなことはないです。ただの監視対象ですよ、監視対象」

「そ、そうなんですかあー……」

 

 監視対象ってなによとか、超どうでもいい。超逃げたい。

 

「……そう、あの狐はあくまで監視対象であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。料理や掃除を手伝うのだって、どうせあの狐ひとりではなにもできないに決まっているからなんです。本当にそれだけなんですから」

 

 映姫が難しい顔でぶつぶつ独り言を言っていたが、はたてはすべて聞き流した。聞き流して、現状を無事切り抜ける方法を全身全霊で模索した。

 幸い映姫は、怒らせさえしない限りは無害な少女だ。よって、面倒になる前にさっさと逃げるのが吉である。今になって思えば月見が留守で助かった。そうでなければ、映姫が見つめる先で月見に取材するなどという公開処刑が行われていたかもしれない。

 

「……そういえばあなた、見ない鴉天狗ですね。あの狐になにか用ですか?」

「え、ええまあそんなところだったんですけど、留守みたいなので出直そうと思います! では失礼します!」

「あ、ちょっと」

 

 聞こえなかったふりをした。今の自分にできる精いっぱいの笑顔を貼りつけ、はたては一目散で家まで逃げ帰った。中へ飛び込み厳重に鍵をかけて、自分でもよくわからない奇声をあげながらベッドにダイブした。

 布団にぎゅっと縋りついて、ほぎゃあああああとバタバタゴロゴロ転げ回る。

 外に出たら、また閻魔様と出くわすかもしれない――そう思うと今日はもう、このドアの鍵は開けられそうにない。

 

 

 

 

 

「……なんだったのかしら。変なの。

 でも、これだけ騒いでも出てこないということは本当に留守なんですね。残念です……あ、いや、残念というのは決して変な意味ではなく! ええと……そ、そう、お説教ができないから残念なのです! あの狐、今回は上手く逃げたみたいですが次はそうは行きませんよ! ええ!

 ……。というか、私は一人でなにをやってるんだろう……。だ、誰も聞いてませんよね?

 ……。

 …………帰ろう」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 三日目、夜。

 

「……うーん、やっぱり昼は出掛けてることが多いのかな?」

 

 この日も昼に一度行ってみたが、月見はまた留守だった。なので夜を待ってから、はたては再度家を出発した。あまり遅くを訪ねては失礼かもしれないので、太陽が落ちきってからまだ間もない、薄闇が広がり始めた宵の口を狙う。

 幻想郷に夜の帳が落ち始めると、白々とした外壁を持つ水月苑は、まるで建物自体がぼんやりと光っているように見える。周囲の池が月の光を反射する鏡となっているから、そう錯覚させられるのかもしれない。ドーナツ状に切り取られた水の中ではドーナツ状の夜空が広がっていて、穴を空けたように水月が浮かんでいる。水月苑という名は文が名付けたものだと聞いているが、はたての目の前の景色とあまりにぴったりすぎて、勝負したわけでもないのに負けた気分になった。

 三度目の正直を祈りつつ屋敷の前へ回ってみると、常居にあたると思われる一角で、ほんのりとした柔らかな明かりが灯っていた。少なくとも、月見が帰ってきてはいるようだ。ひとりでいるとは限らないけれど。

 

「……とにかく、行ってみよう」

 

 月見がひとりでいるとは限らないが、月見以外の誰かがいるともまた限らない。玄関を叩いてみないことにはなにも始まらないのだ。周辺に誰の姿も見当たらないことを、鳥目な自分なりに頑張って確かめてから、はたてはまっすぐ玄関まで飛んだ。

 

「よし。今度こそ……」

「なにが今度こそよ」

「にゃいっ!?」

 

 しかし、二度あることは三度あるともいう。風をまといながら玄関に降り立つその間際、またしても背後からいきなり声を掛けられて、はたては空中ですっ転びそうになった。慌てて振り返れば、どうしてまったく気がつかなかったのか、二人の少女が揃って胡乱げな顔をしてはたてを見つめていた。

 二人ともとても背が低いので、庭の木か岩の陰に紛れて、鳥目のはたてからは見えなかったのかもしれない。本当に幼子かと思うほど背が低くて、片や蝙蝠を彷彿とさせる翼を、片や七色の宝石を吊り下げた不思議な羽を広げており、これじゃあまるで吸血鬼――

 って、

 

「まったく、なんなのよお前は。いきなり空から降りてきてびっくりするじゃない」

「お姉様、こいつ鴉天狗だよ。鳥目だから気づかなかったんじゃない?」

「――……」

 

 はたては貧血を起こしそうになった。こんなの予想できるものか。振り返ってみたら幻想郷でただ二人、誇り高き西洋の吸血鬼(ヴァンパイア)が立っていたなど。

 

(そっか……夜は夜で、こういう場合もあるのね……)

 

 どうしてよりにもよってこう、はたてがちょうどやってきたタイミングで鉢合わせるのだろう。しかも一昨日はさておいて、昨日が閻魔様で今日がスカーレット姉妹ときた。普段出くわすことなんてまずないのに、どうしてこういう時に限って。いじめか。

 辛い現実に打ちひしがれている場合ではない。レミリア・スカーレットはプライドが高く、気に入らない相手には一切容赦をしないという。水月苑の完成を記念して開かれた宴会では、それで鴉天狗を何人もボコボコにしたとか。

 そしてフランドール・スカーレットも、姉と違って幼く愛らしい性格ながら、手にする能力は『ありとあらゆるものを破壊する』などと物騒極まりない。もしなにかの手違いで彼女の機嫌を損ねてしまえば、はたてなど文字通り瞬殺だろう。

 思い返せば昨日の閻魔様はまだマシだった。彼女の説教は地獄のような苦しみだが、かといって決して死ぬわけでも怪我をするわけでもない。だが今回は違う。冗談抜きで生命の危機である。事実としてはたての生命を脅かせるだけの力が、彼女たちには備わっている。

 

(あ、あわわわわわわわわ……)

 

 蛇に睨まれた蛙みたいになっていたら、レミリアの深紅の瞳に射抜かれた。

 

「あなた、見ない鴉天狗ね。月見の知り合い?」

 

 当然、萎縮するはたてが嘘などつけるはずもなく、

 

「いやっ、別にそういうわけではないです!」

 

 大失言だと気づいた。

 

「へえ……知り合いでもなんでもない鴉天狗が、どうして一人でここまでやってくるのかしら」

「なんだか怪しいね、お姉様」

(し、しまったあああああ!?)

「しかも時間は夜、あたりはこの通り薄暗い。……なにか妙なことをするにはうってつけね」

「ものすごく怪しいね、お姉様」

(ひいいいいい!?)

 

 人生終了のカウントダウン開始である。あとは妹の方がちょっと能力を使うだけで、もしくは姉がその鋭い爪を振るうだけで、はたてが次に目覚めるのは永遠亭どころか三途の川だ。

 スカーレット姉妹が、顔を寄せ合い小声で何事か話し合っている。恐怖に支配されたはたての目には、怪しい鴉天狗をどうやって処分、もしくは料理するか相談しているようにしか見えない。

 

(に、逃げなきゃ、逃げなきゃ……)

 

 だが、吸血鬼相手から逃げられるのか。はたてはこれといって飛ぶスピードが速いわけではないし、鳥目のせいで薄闇の中では圧倒的に不利だ。しかし向こうは吸血鬼だから遅いはずがない上に、夜行性である以上は夜目も利くだろう。

 ああもうダメだ、おしまいだ。

 話し合いを終えた姉妹がいきなり両腕を挙げ、鋭利な牙を光らせる大声で叫んだ。

 

「ぎゃおーっ!!」

「がおーっ!!」

「ぎゃああああああああ!?」

「食ーべちゃーうぞーっ!!」

「ちゃーうぞーっ!!」

「いやああああああああああ!?」

 

 ――冷静に考えればそれは、特別恐ろしい光景ではなかったのかもしれない。たとえ吸血鬼とはいえ、決して背が高い方ではないはたてより更に頭一つ小さい女の子二人が、がおーがおーと一生懸命飛んだり跳ねたりしている姿は、もしかするとこの上なく愛くるしいものだったのかもしれない。

 しかし、まあ、先入観とは恐ろしいもので。

 もうおしまいだと絶望していたはたての目には、結構本気で、紅い瞳を炯々光らせ獲物を喰らい尽くそうとする悪魔に見えたので。

 

「ご、ごめんなさああああああああああい!?」

 

 逃げた。一目散だった。昨日の比ではないくらい全身全霊で逃げた。家で布団のかたつむりとなってガタガタガタガタ震えているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

 夢を見た。スカーレット姉妹にむしゃむしゃされちゃう夢だった。丑三つ時に跳ね起きてこっそり泣いた。

 

 

 

 

 

「あー、面白かった」

「すっごく怖がってたねー。楽しかったね、お姉様っ」

「……なんだなんだ? どうしたんだお前たち、こんなところで騒いで」

「月見ー! こんばんはー!」

「ぐふっ……。だからフラン、もうちょっと手加減してくれって何度も……というか、なにかあったのか?」

「そうね……月見、少し気をつけた方がいいかもしれないわよ。なんか怪しい鴉天狗がうろうろしてたから。とりあえず追っ払ったけど、また来るかもしれないし用心しときなさい」

「鴉天狗……?」

「あのブン屋じゃないわよ」

「そうか……一体誰だろうね」

「すごく怪しかったよー。月見、狙われてるの?」

「そんなことはないと思うけど」

「大妖怪のあなたを狙うなんて、とんだ命知らずもいたものね。……あなたなら心配ないと思うけど、なにかあったら言いなさい。まあ、その……世話になってるし、力くらい貸すわよ」

「私も手伝うよー! 月見を傷つけるようなやつは、けちょんけちょんにしてあげる!」

「ッハハハ、ありがとう。まあ大丈夫だと思うけど、もしもの時はよろしく頼むよ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 四日目、朝。

 

「あ、朝! 朝早くなら絶対大丈夫でしょ!」

 

 この日のはたてはわけもなくハイテンションだった。どうしようもなくわくわくどきどきしていて、居ても立ってもいられなくて、朝食も支度もそこそこに家を飛び出した。口の端から変な笑いがこみあがってきている。きっと失敗続きなはたてを憐れんでくれた神様が、こっそりと力を与えてくれたのだろう。神様、ありがとう。

 ヤケクソになっているわけではない。断じて。

 ここまで来たらもう、朝早くは失礼なんじゃないかとかそんな気遣いは二の次だ。変な連中と出くわすことなく、一人で安全に、確実に月見と会うことが最優先である。それさえできればあとはどうとでもなる。今のはたてならどうとでもできる。

『目的と手段が入れ替わる』という言葉が頭に浮かんだが、気にも留めない。

 しかし天は、はたてに力を与え、また試練をも与えた。木陰にこそこそ隠れて水月苑の様子を窺っていたら、屋敷へ続く太鼓橋をのんびり談笑しながら渡る、二人の少女の姿を見つけた。

 後ろ姿からでも誰だかわかった。半霊をふよふよ漂わせている方が魂魄妖夢で、よれよれの兎耳をつけている方が鈴仙・優曇華院・イナバのはずだ。新聞で見たことがある。

 ううむ、と唸った。

 

(そんなに嫌な相手ではないけど……)

 

 妖夢も鈴仙も、危険な存在だという噂は寡聞にして聞かない。むしろ、日頃から主人に振り回され苦労している、哀れむべき人物だったはずである。鉢合わせになったところで問題はなかろうが、今までが今までだけに、どうしても躊躇してしまう。

 どうしよーどうしよーとうんうん悩んでいたら、後ろから突然声を掛けられた。

 

「もしもし、そこの鴉天狗なあなた」

「は、はあい!?」

 

 最近、こんなのばっかりな気がする。

 つい大声を出してしまったせいで、橋を渡る途中だった二人に気づかれた。

 

「あ、咲夜さん」

「咲夜も、月見さんのお手伝いに来たのー?」

 

 二人がそう名を呼んだ通り、はたての後ろに立っていたのは十六夜咲夜であった。昨日はたてを散々な目に遭わせてくれた憎っくきスカーレット姉妹に仕える、完全で瀟洒な懐刀である。咲夜は駆け寄ってきた二人に軽くと挨拶を返すと、一転、鳥肌が立つほど冷たい瞳ではたてを見据えた。

 

「……で、あなたは一体何者かしら」

「え? 咲夜さんのお知り合いじゃないんですか?」

 

 妖夢と鈴仙が疑問符を浮かべる。咲夜は首を振り、

 

「どうしてこんなところにこそこそ隠れて、月見様のお屋敷を窺ってたのか」

 

 今が初対面のはずなのに、どうやらはたてへの好感度は既に最悪らしい。言葉を刃と成してはたての心へ突き立てるような、一切の情けも容赦もない氷点下の声音だった。

 

「まさかとは思うけど。――お嬢様たちが言っていた、月見様の命を狙ってるとかいう鴉天狗じゃないでしょうね」

「「「!?」」」

 

 時間の流れが止まったかと思った。

 

「「な、なんですってえっ!?」」

「ちょっと待ってえええええ!?」

 

 少女たちを未曾有の激震が襲った。妖夢が驚愕の表情で動きを止め、鈴仙が信じられないモノを見る目で大きく仰け反り、はたては頭の中が真っ白になった。

 なにが起きた。昨夜、はたてが家で布団を被って泣いている間になにが起こった。

 

「さ、咲夜さん……! それは本当なんですか!?」

「こんなこと、冗談で言うと思う?」

 

 むしろ本気で言っているのかこのメイドは。

 だってそんなの、普通ありえるわけがないじゃないか。月見は天魔の大切な友人であり、ひいては最強妖怪の二枚看板である八雲紫と鬼子母神が愛する男でもあるのだ。そんな男の命を狙おうものなら最後、はたてが目を覚ますのは、三途の川をすっ飛ばして閻魔の目の前だろう。

 というかそもそも、ただの鴉天狗なはたてに、十一尾の大妖狐である月見を倒せるはずがないのに。

 考えてみればそれくらい、この少女たちでも簡単にわかるはずなのに、

 

「し、信じられない……! そんなことしてただで済むと思ってるの!?」

「もちろん、ただで済むはずがないわ。……さて、覚悟はいいかしら?」

「ちょ、ちょっと待ってってばあっ!?」

 

 気がついた時には咲夜がナイフを構えていたので、はたてはもう全身を使って必死にかぶりを振った。

 

「ど、どう考えたっておかしいでしょそれ!? 話を聞いてっ!」

「そ、そうですよ。さすがに、ちょっとおかしくないですか?」

 

 妖夢だった。一番頼りなさそうだった彼女がおずおずと間に割って入り、どうどうと両の掌を出して咲夜を宥めた。

 

「月見さんが誰かから命を狙われるくらい恨まれるなんて、私には思えないです。なにか誤解があるんじゃないんですか?」

 

 どうしよう、この子が天使に見える。

「確かに……」と冷酷だった咲夜の表情が揺れた。己の潔白を叫ぶ最大のチャンスだった。感動の涙を拭い、はたては息を吸って声高に、

 

「そ、そうよ! 私は別に」

「いいえ、待って! 恨まれてなくても命を狙われることは充分にありえるわ……!」

「ちょっとそこの兎いいいっ!!」

 

 どうしよう、この兎の耳を根本から引き千切ってやりたい。

 

「師匠から聞かされたことがある! 世の中には誰かを強く想うあまり、殺傷行為に及んでしまう猟奇的な思考を持つ人がいるって!」

「なっ……ほ、本当ですか!? そんなことが……!」

 

 もうはたては白目を剥いている。

 鈴仙は重々しく頷き、

 

「そういう人たちは、こう考えるらしいわ……。愛する人を自分の手で殺せば、もう誰にも奪われる心配がない。心も体も命も、全部が自分のものになるって! 恨み以外の感情で人の命を狙ってしまうことだってあるのよ!」

「そ、そんなっ……ひどいです!」

 

 顔を真っ青にした妖夢が、口を両手で覆って体を震わせた。咲夜も冷静な面持ちを貫いてこそいたが、握り締めた拳が血の気を失って白くなっていた。

 誰かが呟くように言った。

 

「狂ってる……」

 

 あなたたちがね。

 

「間違いないわ……! そうすれば辻褄が合う!」

「合うわけないでしょ!? だから話を聞いてって」

「なるほど、危うく騙されるところでした……。そんな理由で月見さんの命を狙うなんて、許せません!」

「そうね。私たちの手で止めましょう」

 

 妖夢が刀の柄に手を掛け、咲夜がナイフを冷たく光らせ、鈴仙が指で銃の形を作る。

 ――あれ、私死ぬ? ここで死ぬ?

 一周回って冷や汗も流れないはたては、妖夢が鯉口を切った音を聞いた瞬間、

 

「誤解だってばああああああああああっ!!」

「あっ、逃げた!」

「追うわよ!」

 

 なんなのだろう。はたてはなにか、こんな天罰めいた不運を与えられてしまうような罪を犯したのだろうか。ただ一匹の妖狐に取材しようと思っただけだ。取材をして、ちょっとでも人見知りを克服したかっただけだ。

 なのになんで、ナイフとか、斬撃とか、銃弾とか。

 本当に、なんで、

 

「もうやだああああああああああ!!」

「「「待ちなさあああああい!!」」」

 

 一対三の弾幕ごっこ。勝てるわけがない。

 全身ズタボロになりながらも命からがら逃げ延びたはたては、家に飛び込んで鍵をかけて布団を被ってガタガタ震えながら、一日中さめざめと枕を濡らした。

 今なら厄神に、「厄い厄い。近寄らないで」とあっちいけされる自信がある。

 

 

 

 

 

「……逃げられたわね。やっぱり天狗だけあって逃げ足が速いわ」

「でも、これで懲りたんじゃないですかね。相当参ってたみたいですし」

「そうかしら……あんな猟奇的な思考を持ってるやつが、そう簡単に諦めるとは思えないけど」

「そうね……お嬢様に相談してみましょう。月見様の敵は、紅魔館の敵だし」

「私も、幽々子様に話をしてみます」

「じゃあ私も姫様に話そーっと。……月見さんを敵に回すのは、幻想郷そのものを敵に回すのとほとんど同じなのに。ほんと、なに考えてるのかわかんないわ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 五日目、昼。

 

「逃げちゃダメよ……逃げちゃダメよ……逃げちゃダメよ……」

 

 さっきからずっとこんなことばかりを言っている。精神的に追い詰められすぎて、段々目が血走ってきているはたてである。このままでは冗談抜きで、地獄で閻魔様とご対面する日が近い。

 現状を打破する方法は、たったひとつ。月見に直談判して、誤解を解いてもらうよう誠心誠意お願いする他ない。月見の周りにいる少女たちは、多分、はたての言葉になんて絶対に耳を傾けてくれない。暴走した彼女たちを止められるのは月見だけなのだ。

 もはや頼れるのは月見だけであり、それ以外はみんな敵だと思っている。それくらいの気持ちで臨まなければ生き残れないと、はたての生存本能が告げている。これはもう、取材などという生易しい次元ではなくなっている。やるかやられるか、喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの生存戦争だった。

 水月苑の正面である。

 

「よ、よし。今度こそ誰もいない……!」

 

 木陰から念入りに三十回ほど確認した。今度こそ自信をもって断言できる。間違いなく水月苑の周囲に邪魔者はいないし、遠くから向かってくる人影もない。

 今しかない。

 一気に行った。すれ違った木々がしなるほどの風をまとい、はたては瞬く間に水月苑の玄関へ辿り着いた。もう後ろも振り向かない。まっすぐ玄関の戸を叩く。

 

「ごめんくださーい!」

『――はいはい。ちょっと待っててくれ、すぐ行くよー』

 

 返事はすぐに返ってきた。耳に優しいバリトンの声音は、紛れもなく月見のものだろう。その途端、言葉にできない達成感がはたての胸に去来した。感極まって泣きそうになってしまった。会いたい人に会えるという、ただそれだけのことで、こんなにも胸が震えたのは初めてだった。神はいたのだ。諦めないで手を伸ばし続ければ、神は必ず微笑んでくれるのだ。

 

『お客さんか。ちょっと代わってくれるか、行ってくるから』

『あ、いいですよ。私が行ってきますから』

『そうか? 悪いな』

 

 神は必ず、微笑んで、

 

『はいはい、今行きますよー』

 

 微、笑んで――

 

「お待たせしましたー、ようこそ水月苑へ――あら」

(ああああああああああああああああああああ)

 

 目の前で微笑んでくれていたはずの神様がどっかに消えた。感動的な達成感が波よりも速く引いていった。天国の扉にすら見えていた水月苑が、あっという間に地獄の門へと変わり果ててしまった。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 カラカラ開いた戸からひょこりと顔を覗かせたのが、月見でなく、鬼子母神だなんて。

 あんまりにもあんまりだった。

 

(あ、は、ははははは……ははは……)

 

 精神の許容量を完全に振り切っていた。容量オーバーを迎えた脳は活動を停止し、はたてはひくひくと痙攣するように笑いながら、ただその場に立ち尽くすだけの人形と化した。

 傍から見れば真っ白に燃え尽きたようになっているはたてを上から下まで眺めて、鬼子母神――藤千代はたおやかに微笑んだ。

 

「あらあらー。初めて見る顔ですが、知ってますよー。月見くんからお話は聞いてます」

 

 微笑みの奥に、決して友好的ではない別の感情を宿らせて、

 

「――月見くんの命を狙ってる、悪ーい鴉天狗さんですよね?」

(あはははははははははははははははははははは)

 

 終わったー、とはたては思った。はたてはただのしがない鴉天狗、相手は幻想郷最強の大妖怪。もう完全完璧にゲームオーバーだ。鬼子母神の前でははたての命など、道端を歩く蟻ん子みたいなものだ。

 格が違いすぎて、逃げようとすら思えない。

 

「まったくもう、ダメじゃないですかー。月見くんにひどいことをしようとする悪い妖怪さんは、月見くんの将来のお嫁さんとして見過ごせません」

 

 ぽす、と藤千代に抱きつかれた。突然行動に戸惑う間もなく、背中に回された驚くほど華奢な腕が、唸り声を上げるようにはたての背骨を絞め上げる。

 空を衝くかの如き大巨人の手の中で、ギリギリと握り潰されそうになっているかのような錯覚。はたての体が宙に持ち上がる。あっ死ぬ、とはたては思う。

 

「操ちゃんの部下さんですから手荒な真似はできませんけど、まあ、とりあえずー……」

 

 走馬灯が駆け抜けた。鴉天狗として生まれ落ちてから今日に至るまで、そういえば、あんまり幸せな道は歩けなかったように思う。不幸ばかりだったわけではないけれど、かといって幸福が多かったわけでもなく、極めて平凡で面白味のない人生だった。

 もしもいつか再び、自分がこの世界に生を受けた時は。

 その時は、幸せになりたいなあと心の底から思う。人並みの幸せでいい。人並みにお金があって、人並みに友達がいて、人並みに楽しい人生を、人並みに笑って過ごせればそれでいい。

 宣告、

 

「――とりあえず、ぶっとばしますね?」

 

 ――ああもう、本当に、なんて理不尽なんだろう。

 思えば、輝夜に月見を譲った一日目、あの時にすべてを終わらせてしまえばよかったのだ。そうすれば、吸血鬼姉妹に誤解され、メイドと半人半霊と月の兎に誤解され、誤解が誤解を呼び誤解を重ね誤解まみれになった挙句、こうして鬼子母神直々にぶっとばします宣言をもらうこともなかった。あれが運命の分水嶺だったのだ。輝夜には申し訳ないが、あそこで月見を譲るべきではなかったのだ。

 そしてはたては選択を誤った。今この瞬間に限って、はたてはこの世の誰よりも不幸だった。断言できる。今のはたてより不幸なやつなんていやしない。妖怪の長い寿命の中でゆっくりと消費していくはずだった悪運を、この一瞬でチリひとつ残さず使い切り、そうしてはたては夜空で輝くお星様になるのだ。

 神はいなかった。

 だからはたては、もう祈らなかった。

 

「せーっ、のおーっ……」

 

 これからはたてを彼岸まで投げ飛ばすとは思えないほどの愛らしい掛け声。鬼子母神の両腕に妖力が迸る。たったそれだけで、はたての全身はチリチリに燃え尽きてしまいそうになる。視界が回転する。自分がどうなっているのかもうわからない。わかろうとも思わない。せめてなにもわからないまま終わればいいなと思う。痛いのは嫌だから。

 そして、

 

 

「――おいおい、なにやってるんだ。やめなって」

 

 

 神はいた。

 はたてが思っていたよりもずっとずっとすぐ傍で、優しく手を差し伸べてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ッハハハハハハハハハ!!」

「わ、笑わないでよ!?」

 

 笑われた。大笑いされた。月見さんってこんな風に笑ったりするんだ、と意外に思ってしまうくらいめちゃくちゃ笑われた。脳が沸騰したみたいに一瞬で熱くなって、はたては天魔の友人に敬語を使うことすらすっかり忘れて、テーブルを両手で打ちながら力いっぱい叫んでいた。

 

「本当に死ぬかと思ったんだから! ……あっ、いや、死ぬかと思ったんですからね!?」

「くくく……だって、なあ? なにがどうこじれれば、ただの新聞記者だったはずのお前が、私の命を狙う暗殺者になるんだい」

「そんなの私が知りたいわ――知りたいですっ!!」

 

 間一髪だった。月見という名の救世主が降臨してくれていなければ、はたては幻想郷の空を切り裂く打ち上げロケットと化していたところだ。月見の一言で藤千代の暴走はぴたりと治まり、それどころか何事もなかったかのようにはたてを歓迎し、今は慣れた手つきでお茶の支度をしている有り様である。やはりはたてが睨んでいた通り、暴走した少女たちを止められるのは月見だけなのだ。

 それにしても、

 

「く、く、く……いやー、これは傑作だ。腹が痛い」

「そうですねー。まるで作り話みたいです」

「う、うう……笑い事じゃないですよお~……」

 

 やっとこさすべてが理不尽な誤解なのだと訴えることができたとはいえ、それでこうも笑われてしまえば、はたてはその場でしおしおと縮こまることしかできないのだった。

 ようやく笑いが治まった月見が、話しながら桃を切る作業に戻った。

 

「しかし、迷惑を掛けたね。話を聞く限りじゃあ、あの子たちがお前の話も聞かずに勝手に誤解してるみたいだし」

「ええ、まあ……でもそれは、月見さん、いえ月見様が謝ることでは」

「月見様、か。無理に畏まらなくても大丈夫だよ。あんまり得意じゃないんだろう、そういうの」

 

 う、とはたては小さく呻いた。確かに尊敬語だとか謙譲語だとかは得意でないが、かといって天魔の友人たる相手に砕けた言葉など使えるはずもない。ただ、やっぱり心の広い人なんだな、とは思う。

 答えを迷うはたてに、まあいいけど、と月見は肩を竦め、

 

「それよりも、みんなには私から説明しておこう。さすがにこのままじゃあ、外もろくに歩けなくて困るだろう?」

「えっ……いいんですか?」

 

 はたては思わず身を乗り出した。元々そう頼むつもりだったとはいえ、まさか月見の方から切り出してもらえるとは思っていなかった。

 

「いいもなにも、私からでないとダメじゃないか? それともお前が頑張って説得するか?」

「い、いえ。助けてください、お願いします……」

 

 はたてが自力で説得を試みたが最後、弾幕をこれでもかというほど叩き込まれてボロ雑巾と化すのだろう。実際、昨日は一歩手前まで行った。

 

「今日中に式を飛ばしておくよ。……ほら千代、お前も謝ったらどうだ。お前にぶっとばされる直前まで行ったんだ、生きた心地がしなかったろうさ」

 

 もう死んだなって思いました。

 

「そうですねー。ごめんなさいはたてさん。私ってばどうにも、月見くんのことになると周りが見えなくなるタチでして」

 

 藤千代は反省しているのかいないのか、のほほんと微笑みながらお茶ができあがるのを待っている。文句のひとつくらい言ってやりたい気持ちはあったが……いや、ここは怪我なく助かっただけ御の字と思うべきなのだろう。

 

「悪いけど、今日明日くらいは家でゆっくりしていてくれるかな。念のために」

「いえ、そんなっ……どうもありがとうございます!」

 

 月見の心遣いが、人間不信一歩手前だったはたての荒んだ心に、じんわりと温かい熱を持って染み込んでいく。なんて常識的で優しい妖怪なのだろう。幻想郷のすべての生き物たちに、彼の爪の垢を煎じて飲ませてやりたかった。

 感動していたら、なんだか目元が湿っぽくなってきた。

 

「……月見くん月見くん、はたてさんが月見くんの優しさに痺れてますよ」

「よっぽど辛かったんだろうなあ……どれ、桃が剥けたよ。好きなだけ食べるといい」

「お茶もできましたよー」

 

 月見から綺麗に切られた桃を、藤千代から透き通る色合いのお茶を渡されて、不覚にもはたては少しの間、声を押し殺して泣いてしまった。月見の背後に後光が差している気がする。もしも仏様がこの世に顕れたら、きっと彼のように、慈愛あふれるあたたかな微笑みを浮かべているに違いない。

 一瞬は地獄の門にすら見えた水月苑だが、やはりはたてにとっては天国だったのだ。すべての恐怖と苦痛から解き放たれ自由となったはたての心は、まさに翼が生えているかのようで、もはや恐れるものなんてなにもなかった。こぼれ落ちる涙を拭い、震える指でメモとペンを取り出した。

 

「そ、それでですね。私、月見様に取材をしたいと思いまして」

「ああ、いいよ。迷惑料代わりだ、今日は好きなだけ付き合おう」

「あ、ありがとうございますっ。それでは、少々お時間をいただきまして――」

 

 辛いこともたくさんあったけれど、今になって思い返せば、あんまり大したことではなかった気がする。きっとこの言葉にできない幸福を感じるために、通らなければならない道だったんだ。

 もう忘れよう。

 今がこんなにも、満たされているのだから。

 

 

 

 

 

 ――結局はたては、この五日間の経験を通して、見事に人見知りを克服した。というか、鬼子母神にぶっとばされる寸前という最大級の地獄を味わったからなのか、取材の恐怖なんて全然大したことがないように思えて、生まれ変わったみたいに明るくなってしまった。

 取材が楽しいと、思えるようになった。

 だからはたては、新聞づくりにおいて能力の使用を封印した。気になったことがあればまず翼を動かし、口を使い、目を凝らし、耳を澄ませて、記事に必要な情報を自分の力だけで収集した。

 そうして発行した渾身の『花果子念報』は、従来の汚名を一気に返上する会心の出来となったので。

 近いうちにはたては、新聞の名前を変えてみようかなと、思っている。

 

 

 

 

 

「――さてと。それじゃあ私がここまで上手くやるなんて欠片も思ってなかった射命丸文さん、なにか言うことはある?」

「……新聞記者としてやっとスタート地点に立ったくらいで、調子に乗らないでくれる?」

「すぐに追いついてやるわよ。私の新聞、月見さんにも褒めてもらえて、これからの成長次第じゃあ取ってもいいって言ってもらえたんだから」

「……」

「そうしたら、月見さんが今取ってる新聞は用済みかしらねえー?」

「…………」

「『巧遅は拙速に如かず』なんて言葉もあるけど、速さくらいしか取り柄がない新聞ってのもねえー?」

「………………負けないわよ」

「え? それって、やっぱり月見さんには自分の新聞だけを取ってほしいってこと?」

「はあ!? なんでそんな話になるのよ!」

「いやだって、月見さんが私の新聞取るのは嫌なんでしょ?」

「新聞記者として、客を取られるのは屈辱だから! ただそれだけで、あいつなんて全然関係ないわよ!」

「ふーん。ま、そういうことにしておきましょうかー」

「こ、このっ……! はたて、あんた輪をかけて嫌な性格になったじゃない……!」

「褒め言葉として受け取っておきまーす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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