銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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第74話 「好敵手という名の――」

 

 

 

 

 

 夏は終わりだとばかりに太陽が燦々輝いて、蝉が鳴いていた。

 いつも深い霧が立ちこめている迷いの竹林で唯一、透き通った空を見上げられる場所がある。そういう特別な場所だからなのか、ここから望む青空はいつもとまた違って美しく見える。白と青のコントラストが目覚ましく、凹凸すら感じられそうなほどくっきりしていて、自然の風景というよりかは人工の絵画を見ているような。

 その穴場の名を、人は永遠亭と呼ぶ。

 幻想郷最高の医療施設でありながら交通の便が最悪という、実にクセモノな診療所である。

 

「れーせん、れーせーん! お酒呑むから持ってきてー!」

「え!? ……姫様、まだ昼間ですよ!?」

「いいからいいからー。早くしてねー!」

 

 藤原妹紅は、その実にクセモノな診療所と、幻想郷で最も関わりが深いといえる人物の一人である。竹林の外から永遠亭までを往復する回数で、妹紅の右に出る者はいないだろう。また、妹紅が竹林の案内役に抜擢されさえしなければ、永遠亭が診療所として機能することもなかっただろう。

 ある意味では妹紅こそが、今の永遠亭の在り方を決定づけたと言えるほど。

 そんな永遠亭と関わりが深い妹紅だけれど、竹林を切り拓いて建てられたその純和風なお屋敷に、お邪魔をしたことは実のところほとんどない。不老不死の妹紅が医療の助けを借りることなどまずないし、そうでなくとも永遠亭は妹紅のライバルが住む場所であり、要するに敵の根城であり、そんな場所に自分の方からのこのこ入っていく理由も義理もありはしないのだ。あくまで竹林の案内役の務めに従って、人里の病人を護衛し、導いてやるだけなのだ。

 ではなぜ今、妹紅は永遠亭の縁側で胡座をかいて、夏の青空を見上げてなどいるのか。

 

「……あれ? そういえば、あんたを屋敷に招待するのって初めてだっけ?」

 

 その元凶が、妹紅のすぐ隣で正座をしている。女としてそこそこ自信のある妹紅のプライドが、ひと目見ただけで木っ端微塵になりかねないほどの美貌である。少女の名は蓬莱山輝夜であり、かつて『かぐや姫』の名で都の男を虜にした美少女であり、妹紅が今なお殺し合いを続ける好敵手(ライバル)であり。

 そして今日、妹紅を永遠亭へ招待した張本人である。

 床に散らばった長い黒髪が、陽の光を受けて黒瑪瑙のように輝いている。妹紅の白髪も同じように散らばっているが、正直言って質の差が月とスッポンだ。輝夜の黒髪が宝石だとすれば、妹紅の白髪は紙くずみたいなものだ。お互いが不老不死であることを考えれば、これは日頃の生活習慣や手入れの違いによるものではなく、純粋な生まれながらの差なのだろう。

 髪ひとつ取っただけですでにこれなのだから、肌や目鼻立ちについては、言わずもがな。

 相手が地球外生命体である以上、人間離れしているのはある意味当然とはいえ、ここまで歴然たる差があると女として結構凹む。

 胡座の膝に頬杖をついた。

 

「ま、私がここにお邪魔したのって、気絶したあんたを運んだか気絶してあんたに運ばれたかのどっちかよね」

 

 殺し合いの話だ。基本的に勝敗が決したら気絶した相手は放置だが、気が向いた時には永遠亭まで運んでやったり、逆に運ばれたりすることもある。

 

「でもあんた、目が覚めたらいっつもすぐ帰っちゃうじゃない。やっぱり初めてみたいなもんだわ」

「……かもね」

 

 こんな日がやってくるなんて、思ってもいなかった。妹紅と輝夜は今でこそ和解しているけれど、かといってすっかり仲良しさんかといえばそうでもない。仲がいいといえるほどよくはないし、悪いといえるほど悪くもない。赤の他人ではないけれど、友達でもない。

 好敵手。こいつにだけは、絶対に負けたくない。きっと輝夜も、そう思っているだろう。

 輝夜と一緒に酒を呑むのは初めてではない。以前、博麗神社で宴会をやった時に、成り行きで酒を注いだり注いでもらったりしたことがある。

 けれどあの時は、他にもたくさんの人間や妖怪がいた。だから輝夜と二人きりで酒を呑むのは、今日が紛れもない初めてのはずだ。

 きっとこれも、先生のお陰なんだろうなと思う。

 なぜなら、妹紅と月見の関係が輝夜にバレたのだから。

 

 

 

『……あれ、輝夜? 水月苑に行ったんじゃなかったの?』

『……行ったわよ。ええ、行きましたとも。でも留守だったわ』

『あー、そっか。タイミング悪かったね』

『ええ、まったく。――なんでギンがあのスキマと外の世界に遊びに行ってるの!? なんなの!? デートなの!? 二人きりなの!? 私が一体いつからギンと二人きりになれてないと思ってるのようわああああああああん!!』

『……ああ、そういうこと』

『なんなのよおっ……! 私だってギンと二人きりで遊びたいわよ! 二人でたくさんお話したいわよ! 毎日じゃなくていいの、一週間に一回とかでもいいの! なのにダメなの!? 私そんな欲張ったこと言ってる!?』

『いっそ泊まりにでもいけばいいじゃん』

『泊まりに行くとスキマに邪魔されるのっ!!』

『あ、そう……。せめて永遠亭が竹林にさえなければ、先生の方から来てくれたりするのかもしれないけどねえ』

『うう、引っ越そうかなあ……――って、え? 先生?』

『ん?』

『あんた今、先生って言ったわよね?』

『言ったけど』

『よね。ギン――月見が? 先生?』

『え?』

『え?』

『……』

『……』

『……言ってなかったっけ?』

『い、言ってないわよ!? いや、あんたが「先生」って呼んで慕ってる人がいるのは知ってるけど、でもそれがギンだなんて全然まったくちっともさっぱり聞いてないわよ!?』

『ああ、そうだったんだっけ。ごめんごめん。――じゃあ私はこれで』

『まっ、待ちなさあいっ!! あんた、ぎ、ギンとどういう関係なの!? ……まさかっ!?』

『いやなにがまさか?』

『――わかったわ。妹紅、あんたこれから暇よね? ついてきなさい』

『やだよ、これから釣りに』

『いいからついてきてよっ! 拒否権なしっ!! あんたがギンとどういう関係なのか、ぜんぶ聞かせてもらうんだからあっ!!』

『あ、ちょ』

 

 

 

 なんとも強引なお姫様もいたものである。そういう意味では、招待されたというよりかは拉致されたといった方が近い。

 

「姫様ー、お酒持ってきましたよー」

「あ、ご苦労様ー」

 

 妹紅がしみじみ記憶を遡っていると、徳利二本と猪口二つをお盆に乗せた鈴仙が突き当たりを曲がってやってきた。どうやら酒を呑ませて洗いざらい聞き出してやろうという魂胆らしいが、妹紅ははじめからぜんぶ話すつもりなので、はっきり言って無意味である。タダ酒ごちそうさまです。

 

「足りなかったら呼んでください。新しいのを持ってきますから」

「瓶ごと持ってきてくれてもよかったのに」

「このお酒は冷やして呑むのが美味しいんです。丸ごと持ってきたら、ぬるくなっちゃうじゃないですか」

「ふーん」

 

 輝夜はあまり気にしていないようだった。酒の味に拘るタイプではないのだろう。鈴仙の言葉を鵜呑みにして徳利を受け取るその顔つきは、日本酒なんてぜんぶ同じ味じゃない、なんて失礼なことを考えていそうだった。

 一方で妹紅は、鬼ほどでないにせよ酒好きの自覚があるので、鈴仙の気遣いはありがたい。

 

「よし……じゃあ妹紅、洗いざらい吐いてもらうわよ! 覚悟せよー!」

「はいはい」

「あはは……頑張ってくださいね」

 

 鈴仙の苦笑いは、果たしてどちらへ向けたものだったのか。鈴仙の後ろ姿が突き当たりを曲がって消えるなり、輝夜が徳利を妹紅の目の前へ持ち上げた。

 

「ほら、酌したげる」

「ん、ありがと」

 

 猪口をひとつ取って差し出すと、とっくりとっくり、小気味のいい音を立てながら酒が注がれていく。真昼間の酒は、陽の光を吸収して鏡みたいに光り輝いていた。月明かりを受けて妖艶に光る酒は美しいが、こうしてまばゆく透き通った姿もなかなか悪くない。

 妹紅も徳利を取って、酒を注ぎ返す。

 乾杯はしなかった。ニッと口端を曲げ、

 

「そんじゃまあ、そこまで聞きたいんだったら語ってあげましょうかね。私と先生の深い仲ってやつを」

「むっ……、わ、私だって負けてないわよ」

 

 その反応が予想通りすぎたから、妹紅はつい声をあげて笑ってしまった。かつて、都の男たちを虜にしたかぐや姫が。妹紅の父をも魅了し、そして妹紅の生活をぶち壊してくれた女が。あろうことか妹紅に嫉妬しているだなんて、なんておかしくて、愉快な話なのだろう。

 

「ちょっと、そこでなんで笑うの」

「さぁてね」

 

 勢いよく酒を呷り、夏の空へ薄い雲を引くように、火照ったため息をつく。

 

「私が先生と出会ったのはね、私が、ほんとにまだ駆け出しの陰陽師だった頃」

 

 そうやって妹紅が語り出せば、物言いたげだった輝夜も諦めて、お姫様らしい上品な手つきで酒を口へ、

 

「――私が、先生を退治しようとしたのがきっかけだったっけ」

「ぶしゃんっ!?」

 

 直後、酒を噴射した輝夜にいきなり頭をぶっ叩かれたのを、妹紅は心底理不尽だと思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そもそも妹紅が陰陽師として妖怪退治をするようになったのは、不老不死となって軽く四半世紀ほどが経ってからだった。

 その四半世紀に至るまでは、常軌を逸した苦労の連続だった。いや、『苦労』なんて言葉で軽々しく言い表せるようなものでもなかっただろう。外見が成長しないから、ひとつの地に長く留まることはできない。白い髪と赤い瞳を気味悪がられ、誰とも交流することができない。怪我が瞬く間に治っていく光景でも見られようものなら、化物の子として排斥される。

 そして、独りで生きていく力を持たない自分自身がなにより足枷となった。

 妾の子とはいえ貴族であったから、妹紅の生活はそこそこ裕福な方で、食べる物も着る物もただ息をしているだけで勝手に出てきた。そういう生活に慣れすぎていた。だから不老不死となり家を捨てた時、金を得る方法がわからず、食料を得る方法がわからず、生きていくためにできることがなにひとつとしてなかった。

 野垂れ死んで当然だったのだ。

 だが妹紅は死ななかった。死ねなかった。不老不死だから。どんなに飢えようがどんなに渇こうが、死んでは甦るの繰り返しで、終わりなどなく永遠に苦しむだけの地獄。あれで、よく気が狂わなかったものだと思う。

 違うか。

 あの時の妹紅は、すでに狂っていたのだろう。自ら手首を掻き切り喉を切り裂き、血を失って体が冷たくなっていく感覚は、今でも思い出せるほど鮮明な記憶となって刻まれている。忘れることはない。忘れるには、妹紅はあまりに自害を繰り返しすぎた。

 まともに生きられるようになるだけで、数年が経っていた。

 

 妖怪退治を始めたのは、他に選択肢がなかったからだといえる。独りで旅をする道中の安全を確保し、人並みに稼ぎ人並みの物を食べて生きるために、妖怪退治――陰陽師という職はこれ以上ないほど都合がよかった。

 かつて戦った妖怪の呪いのせいでこうなった、とか。そんなことを適当に言っておけば、白い髪と赤い瞳にも一応説得力を持たせられたのが一番大きかっただろう。妖怪を退治する善人として振る舞えば、少なくとも不老不死だとバレない限り排斥される可能性は低くなり、生活も随分としやすくなる。

 だから、学んだ。あの頃は、輝夜への復讐心などさっぱり忘れていたと思う。ただ毎日を生きるのに必死すぎて、復讐まで頭を回す余裕がなかった。思い出したのは、ある程度術を覚え、ひとりで生きることに慣れ、心がゆとりを持ち始めてからだった。

 

 ただし、ここでもまた呆れるほど時間が掛かる。

 才能がなかったのだ。今でこそ陰陽師として一流の実力を手に入れているが、それは妹紅が不老不死だったからであり、普通の人間ではどうやっても真似できないほど途方もない時間を、陰陽術の研鑽に費やしたから。学び始めて間もない頃の妹紅なんて目も当てられなかった。

 師事できるような知り合いもいないから、すべてが独学と試行錯誤の繰り返しだった。ある程度術を使えるようになるまで三年。ある程度妖怪と戦えるようになるまでまた三年。その間は何度も何度も妖怪に殺された。殺されて、殺されて、しかしそのたびに生き返って、殺して――そうやって、蝸牛(かたつむり)が這うよりも遅い足取りでしか、強くなっていくことができなかった。

 気がつけば十年が経っていた。十年経ってようやく妹紅は、ひとりで全国を巡り歩き、必要に応じて金を稼ぎ、人並みの物を食べて生きていけるようになったのだ。

 

 月見と出会ったのは、その十年からまた少しばかり時が過ぎて、普通に毛が生えた程度の陰陽師となった頃だった。

 

「なるほど。化け狐……ですか」

 

 小さな村だった。人口は百に満たず、土地も世間話をしながら軽く回ってしまえる程度で、むしろ集落といった方が妥当だったかもしれない。山をひとつ下り次の山へと続く道を大きく外れ、緑の中で紛れるように築かれたその場所へ、妹紅が立ち寄ったのはただの偶然だった。

 見るからに長閑な生活をしていて、妖怪に悩まされているとは思えない。稼ぎはできそうもないが、山ひとつを越えて疲れた足を休ませるにはちょうどいい。

 その当てが見事に外れた。村人たちは妹紅が陰陽師であると知るや否や、こちらから尋ねるまでもなく妖怪退治の依頼を持ってきてくれた。本当によかった助かったと早くも妹紅を拝み始めた老人たちを落ち着かせ、詳しく話を聞いてみれば、

 

「何度か村の若い衆が捕らえようとはしたのですが、ぬらりくらりと逃げられてしまい……。そこで是非とも、陰陽師殿に退治していただきたく」

「話はわかりました」

 

 なんでも、化け狐に作物や酒を盗まれて困っているとか。少し前からぽつぽつと被害が出ていたが、今日になって突然、開いた口が塞がらなくなるほどの量を盗まれたらしい。

 村長である老爺の話にひとまず相槌を打ち、妹紅は腕を組んで考えた。

 化け狐――つまりは妖狐。狸と双璧を成す妖怪随一の悪戯好きで、よく人間を化かしてからかっては遊んでいる。実力は上と下の幅が広く、上は九尾の狐と呼ばれ人間はおろか妖怪からも畏れられるが、下は普通の人間が農具を持っただけでも勝てるほど弱い。人を化かすという厄介な力を持つ反面、人の血肉を求めて彷徨うことは滅多になく、危険度は数いる妖怪の中でも低い。

 こんな辺境の村でチマチマと盗みを働くようなら、そう強い妖狐の仕業ではないだろう。陰陽師として駆け出しにちょっと毛が生えた程度の妹紅でも、充分に対処は可能だと判断できる。

 頷いた。

 

「わかりました。そのご依頼、承ります」

「ああ、ありがとうございます……!」

 

 途端、張り詰めていた老爺の表情がほろりと崩れた。両手を合わせて、深々と頭を下げたりまでする。頭を上げてくださいとか、まだ気が早いですよとか妹紅は苦笑して返すが、内心はそうそう悪いものではない。

 誰かに感謝されるなんて、今までの生活では考えられなかったことだから。何年も何十年も、人から罵倒され、排斥されてばかりだったから。だからちょっとくらい、誰かの力になれるという事実に優越感を覚えたって、神様も見逃してくれる。

 もちろん、優越感に浸るだけで終わったりはしない。ここまで深々と感謝された手前、失敗しましたではまるで示しがつかない。格下の妖怪相手に油断して、殺された経験も何度かある。たかが狐といえど楽観はできない。楽観が許されるほど、妹紅は大層な実力者ではない。

 依頼がなんであろうと、相手がどんな妖怪であろうと、持てるすべての力を尽くす。

 その決意を胸に、夕暮れまでまだ少し時間があるからと、妹紅は山へ調査に向かう。

 これが自分の人生に大きな意味をもたらす『彼』との出会いになるなど、無論、夢にも思っていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 夜に歩く山がどれほど危険で恐ろしいかを知ったのは、妹紅がまだ、独りで生きることに慣れていなかった頃だ。

 まあ、平たくいえば死んだ。食料ほしさに軽い気持ちで足を向けたのが運の尽きだった。ものの見事に遭難し、日が落ちても山を下ることができず、自分自身の姿すらまるで見えない闇と恐怖の中で、よくわからないうちに妖怪に喰い殺されていた。

 山は異界だ。特に、夜の山は。人間が我が物顔で闊歩できるのは、山脈で覆われたこの島国に水たまりのように存在している平地だけで、一歩山へ足を踏み入れればそこはもう人の領域ではない。鳥獣、妖怪、或いは神々たちの世界。近頃は修業目的で山ごもりをする仏僧というのがいるようだが、そういう連中はきっと正気じゃないんだろうなと妹紅は思っている。

 死んだこともないからそんな真似ができるのだ。

 死亡経験アリの妹紅が言うのだから、間違いない。

 ともあれ、山だった。天を衝くように屹立した木々が枝葉を壮大に広げ、空模様すらロクにわからない有り様である。この緑の膜が夜になると月明かりを根こそぎ奪い、自分の掌すら見えない本物の闇を作り出す。まだ太陽は沈んでいないはずなのに、あたりはもう夜が迫ってきているかのように薄暗かった。

 あとすこし粘ってなんの手掛かりもなれば、今日のところは引き返そうと思う。

 恐らくあの山にいると思います、といういささか頼りない証言を信じてやってきてはみたものの、さすがにちょっと歩いた程度でどうにかなるほど甘くはなかったようだ。式神をいくつか飛ばして広範囲を捜索しているが、狐の住処を暴く手掛かりはひとつも見つかっていない。

 というか、妹紅はただ山道に沿って歩いているだけで、周囲の散策をしているのは実質式神たちだけだ。駆け出し陰陽師の妹紅では式神の精度も高が知れているけれど、もうすぐ日暮れだし、どんな妖怪が棲息しているかわからない初めての山だし、進んで迷う危険を冒していく勇気がなかった。

 幾度となく踏まれることで草花が枯れ、土が固められた、ほとんど獣道に近い山道を進んでいく。静かな山だ。山を歩くのは、かつて遭難して死んだ過去のせいでいつも気が進まないが、一方でどこか荘厳な雰囲気は好きでもあった。人の世界では決して味わえない、異界の空気。なんとなく居心地がよいと感じるのは、妹紅が人ではなくなったせいなのか。

 息を吸った。

 

「……さてと」

 

 そろそろ、捜索に放った式神たちが戻ってくる頃合いだ。四半刻探してなにも見つからなければ戻ってこいと、式神たちへは命じていた。

 その場で少し待っていると、燕さながら軽やかに木々を交わして、人形(ひとがた)の式神たちが戻ってきた。時間いっぱいまで飛び回っていたということは、結果は訊くまでもなくハズレだろう。案の定式神たちは、妹紅の周囲をくるりと一度、左回りで回った。

 

「はいはい、ご苦労様……って、あれ?」

 

 そして戻ってきた人形を回収しているところで、妹紅はふと気づく。数が一枚足りない。数え間違えたのかと思ったが、もう一度やり直してみてもやはり、

 

「……あー、もしかして逃げられちゃった?」

 

 たまにあるのだ。こういった下級の精霊を憑けて使役する類の式神は、術者の力量が不十分だと満足に命令を聞いてくれなかったり、勝手な行動をしてどこかに消えてしまったりする。式神をどれほど意のままに操れるかが、陰陽師の実力を平たく示すひとつの指標だった。

 なおこの指標に基づくと、式神にお遣いの途中で逃げられるような者は、例外なくただの青二才である。

 

「……はあ」

 

 ため息が出た。現実を見せつけられた気がした。十年以上修業を続けて、自分にもちょっとくらいはと思い始めていたけれど、自惚れもいいところな幻想だったようだ。

 式神には逃げられ、妖狐の住処を暴く手掛かりもなし。

 結果としては、散々もいいところだろうか。

 

「……明日は頑張んないとなあ」

 

 今日は元々時間がなかったから仕方ないとしても、もし明日一日かけてまるで駄目だったなら、『その程度』の陰陽師として見切りをつけられるだろう。

 故に妹紅が今すべきことは、あとちょっとだけと悪足掻きをするのでなく、明日へ疲れを残さぬようしっかりと休むこと。

 そう思い、すっぱり諦めて踵を返す、

 

「……ん?」

 

 その間際、視界の端で小さく白いなにかが躍った。

 最後の一枚だった。

 

「あ……なんだ、遅れてただけか」

 

 どうやら、逃げられたわけではなかったようだ。妹紅がほっと安堵したのも束の間、最後の一枚はおよそ一分遅れで戻ってくるなり、妹紅の周囲とくるりと右回転で回った。

 

「……」

 

 なにも見つからなかったら左回り。なにか怪しいものを見つけたら右回り。

 そう命令していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あとちょっとだけだ。

 せっかく式神がなにかを見つけてくれたのに無視するのはあんまりだから、ちょっと確認してみるだけなのだ。

 決して、手ぶらで帰って「なにもわからなかったです」と報告するのが恥ずかしいとか、そんなことは断じてないのだ。

 その式神が案内したのは、山道を大きく外れた山の奥深くだった。迷わないよう木に目印をつけてなお、自分の居場所がわからなくなりはしないかと不安になるほどだった。『この音』さえ聞こえてこなければ、きっととっくの昔に、遭難する恐怖に負けて引き返していただろう。

 喧騒が聞こえる。複数の集団が自由気ままに笑い合う、宴会めいたどんちゃん騒ぎが。

 こんな鬱蒼とした山の中で馬鹿騒ぎをする連中となれば、人外に違いない。

 

「……ありがとう。あとは私ひとりで大丈夫」

 

 小さく礼を言って、妹紅はここまで案内してくれた式神を回収する。ゆっくりと深呼吸をして、引き締めていた気を更に限界まで研ぎ澄ませる。声はもう目と鼻の先だ。深い森に遮られその姿は確認できないが、騒ぎの規模からして相当の数が集まっているとみえる。万が一不用意な音を立てて見つかってしまえば、そのまま数に任せて袋叩きにされるなんてのも否定はできない。

 落ち葉の少ない土を選び、足音を殺し息を殺して、一歩、また一歩と進んでいく。道はいつしか、緩やかな上り坂になっている。声は、この斜面を登り切った先から聞こえる。

 登った。

 森が拓けていた。

 

「っ……」

 

 一瞬の判断だった。妹紅はとっさに、太い木の幹の裏へ逃げ込んだ。物音が立たなかったのは奇跡に近い。

 腰を落とし、手頃な藪に紛れながら、蝸牛を見習う慎重な動きでもう一度『それ』を見る。

 

「……」

 

 それは、三十も超えようかという群れだった。普通の狐とそう変わり映えしない妖狐たちが、森を拓いてできた空間でぴょんぴょん飛び跳ね、料理を楽しみ、また酒を愉しんで思い思いに騒ぎ散らしている。

 大当たり。

 そして、大当たりだからこそ、

 

(どうしよう……ここで叩くべき?)

 

 妹紅は次に自分が取るべき行動を迷う。普通に考えれば、妖狐たちをまとめて退治し依頼を見事達成する好機である。しかしそれは、妹紅に数の差を跳ね返せるほどの実力があればの話だ。自分が駆け出しの陰陽師であることを忘れてはならない。

 緊張で高鳴る鼓動を抑え込み、見える範囲で妖狐の数を数え直してみる。あちこち元気に飛び跳ねているのでやや手間取ったが、何度やってもやはり三十はいる。これほど多くの妖怪を一度に相手取った経験は、今の妹紅にはまだない。

 これが鬼や天狗であれば脇目も振らず逃げ出すのだが、妖狐という、妖怪全体で見れば決して強くない種族というのが妹紅を迷わせた。

 息を吐く。

 

(……焦りは禁物。とりあえず、もう少し様子を見てみよう)

 

 焦って手柄をものにできるほど、自分は体も心も強くない。まずはなにより、状況を正確に把握しなければならない。

 結論をいえば、その判断をしていて正解だったと心の底から思った。

 銀の狐がいた。

 

(……ッ!)

 

 その狐は、妹紅の視界を遮る木々の、ちょうど真後ろに隠れていた。切り株に腰掛け酒を盃で楽しみながら、穏やかな瞳で仲間たちを見守っている、

 人の姿をした、狐であった。

 

(……危ない。様子見してて正解だった)

 

 功を焦って飛び出していたら、山の新しいトラウマがひとつ増えていたところだったかもしれない。

 人の姿をした妖怪が、なぜ危ないか。中には鬼や天狗などはじめから人の形をして生まれてくる者もいるが、本来獣であるはずの妖怪が人の姿をしているということは、元の姿を捨てしまえる程度の力と知能を持っているからだ。獣のまま獣のように生きていた妖怪が、一段上の次元に進化した形とでもいおうか。

 当然その分、普通の妖怪よりも強大である。世に名高い大妖怪と呼ばれる者たちは、そのほとんどが人の姿をしている。

 顔を覆った。

 

(あちゃー……こりゃあ、私の手に負える依頼じゃなかったかな)

 

 強そうには見えない。妖狐の実力を示す基準となる尾の本数は一だし、仲間たちを見守る瞳は父親のようだし、見るからに優しそうだ。だがどんなに低く見積もっても、そのあたりでぴょんぴょんしているただの狐どもよりかはずっと上のはず。

 ただでさえ数が三十以上で分が悪いのに、そこに人型の妖怪までご登場となれば、妹紅が取るべき行動はもはやひとつであった。

 逃げよう。前向きにいえば一旦退いて、相応の支度を整えよう。

 決して物音を立てないよう、戻る道順を念入りに確認する。

 

「……しかし、私なんかのために宴会まで開いてもらってよかったのか?」

 

 声が聞こえた。耳に心地よい低さと深さを兼ね備えた響きは、あの銀狐の声であった。

 妹紅は耳を貸さず、これからの自分の行動を頭の中で思い描く。行く手を阻む下り坂を、狐たちから見つからないよう中腰のままで、足音ひとつ立てずに下りていくのはいくらなんでも無理だ。少々情けない恰好ではあるが、四つん這いで後ろ向きになりながら、一歩一歩慎重に下りていくべきかもしれない。

 今度は、別の狐と思われるしわがれた声が、

 

『良いのですよ。偶然とはいえ、月見様のような御方とお会いすることができたのですから。見てください、皆のこのはしゃぎ様を』

「みんな見事に酔っ払ってるねえ。……そういえばこの酒、なかなか美味しいけど、どこから仕入れてきたんだ?」

『え? あ、ああ、それは……ええと、どうでしたかな、なにしろ若い者に任せきりだったもので』

 

 どうせ村から盗んだ酒だろうと妹紅は思う。

 ともあれ、やはり四つん這いで行くのが無難だろう。どうせ見ているやつなんていない。服が汚れてしまうかもしれないけれど、見つかる危険性を考えれば遥かにマシだ。

 まずは、下り坂の手前まで、

 

『そ、それにしても、これほどまで愉快な宴も随分と久し振りです。月見様のお陰ですかな。ハッハッハ』

「そうかね。……でもまあ、愉快なことは確かだね」

 

 地に両手をつき両膝をつき、ゆっくり、ゆっくり、それこそ蝸牛になった心地で、

 

「――どうやらこの雰囲気に惹かれて、お客さんもやってきたみたいだしね」

(は?)

 

 ちょっと待ってそれってどういう、と妹紅が思った時にはすでに遅く、

 

「そこの茂みに隠れてるやつ。どちら様だい?」

 

 ギョロリ、と。

 狐たちの視線がぜんぶ、一斉にこちらへ向いたのを感じた。

 動けなくなった。

 

(……あー)

 

 しまった。

 バレてた。

 銀狐が喉で笑って、

 

「この感じ、妖怪ではないな。人でも迷い込んだか」

 

 さて。

 どうしよう。

 とりあえず、見つかってしまった以上は四つん這いを続ける意味などない。いっそ走って逃げるか。いや、森の中の追いかけっこで獣に勝つのは無理だろう。

 そもそも、逃げるっていってもどこに逃げるのか、とか。

 めでたく妖狐たちに見つかった状態で、まさか村まで逃げ帰るわけにはいかないだろうとか。

 そんなことをぐるぐると考えていたら、なんだかもう進退窮まってしまったような気がして、

 

「……ふむ、だんまりかな?」

『確かめさせましょう。おい、誰か、』

 

 そのしわがれた声が引鉄となって、妹紅は一気に飛び出した。

 逃げる方向ではなく、進む方向へ。同時に札を抜き放つ。もうやるしかない。ここまで来たらヤケクソだ。手始めに最大火力をぶつけて、飛び跳ねて驚いている狐どもをある程度始末できれば上々。

 が、

 

「――ぅきゃん!?」

 

 視界が真上に吹っ飛んだ。なにが起こったのかまるでわからなかった。そのままたたらすら踏めず後ろにひっくり返って、みっともなく尻餅をついてしまう。

 当然、発動間際だった炎の術も綺麗さっぱり消し飛んだ。

 おでこがじんじんと痛いしお尻がひりひりするし、涙で前がよく見えない。不老不死でも痛いものは痛いのだ。一体なにが起こったのか、いや、そんなことよりも今は早く持ち直さないと、

 

「……あーっ!?」

 

 涙を拭って前を見た瞬間、妹紅は思わず場違いな大声をあげた。

 狐たちが料理を背中に載せたり尻尾でお酒を持ったりして、すたこらさっさと退散を開始している。

 

「……ちょ、ちょっと! 待ちなさいっ!」

 

 てっきり全面対決になるものと思い込んでいたので、すっかり反応が遅れた。慌てて追いかけようとするも、

 

「待っ――ひんっ!?」

 

 またなにかにおでこをぶっ叩かれる。

 そして今度はそれだけで終わらず、立て続けに頭のあちこちをビシバシビシバシ、

 

「あっ、ちょっ……いたっ、あっ、あうっ、いたたたたた!?」

 

 にゃー!? と両腕をぶんぶん振り回すがまるで意味がない。ほとんど目を開けていることもできなくなって、その場で情けなくしゃがみ込んでしまう。けれどギリギリのところで踏み留まった意地と敵愾心が、妹紅の感覚を研ぎ澄まさせた。

 なんとなくわかってきた。

 鳥のような影が、妹紅の周りでひゅんひゅんと風を切っている。本物の鳥なのか、それとも鳥の形をした別のなにかなのかは定かでないが、どうあれさっきから人の頭をビシバシビシバシと、味方でないのは明らかである。

 

「こんっ……のぉっ!」

 

 焼き払ってやった。自分を中心にして手加減無用の豪火を発生させ、飛び回る影を力ずくで絡め取る。炎に呑まれ燃え尽きた紙の残滓が、妹紅の目の前をはらはらと散っていく。

 

(――式神?)

 

 それは、妹紅が山の探索で用いたのと同じ、人の形を模して作った紙の式神だった。

 なぜ。

 

(あの銀狐か……!)

 

 妹紅の解答は早かった。力ある妖怪のごく一部は、そこらの陰陽師よりよっぽど達者に式神を操ると聞いたことがある。妹紅の術が完成するよりも早く式神を放ち、巧みな操作で妨害と足止めを行う。ただの狐にそんな芸当ができるはずもないから、犯人はあの銀狐で確定だ。

 しかして件の銀狐は、やはりと言うべきか、他の狐たちと一緒にすたこらさっさしており、

 

「このっ……待てって言ってるでしょうがあっ!!」

 

『ここは無理をせず、自分も退いて体勢を立て直す』という選択肢など、思いつきもしない。

 妹紅の怒りを体現したかの如く燃え上がった炎で、深紅の翼をつくりあげ、空を駆けた。妹紅の叫びを聞いて振り返った銀狐が、おっ、と少し意外そうな顔をした。

 無論、駆け出し陰陽師な妹紅のことなので、空を自由に飛び回れるほど達者な翼ではない。飛ぶというよりかは、吹っ飛ぶといった方がふさわしい有様である。おまけに方向転換がほとんどできないし、一度飛び出してしまったら最後、減速もロクにままならないというポンコツ技だ。

 しかし少なくとも、熱風を破裂させることで生まれるその速度は、走るよりかはよっぽど速い。

 狐たちの頭上を飛び越え、前に出た。

 

「……!」

 

 着地し、飛行の勢いをひたすら地を抉ってなんとか殺す。脚を痛めたが気にも留めない。どうせすぐに治る。振り向き、同時に札を抜き放つ。

 今度こそと、思っていた。

 

『――狐舐めんなああああああああっ!!』

「ひあ!?」

 

 啖呵を切った狐の一匹に、顔面めがけて飛びかかられるまでは。

 咄嗟にしゃがんで躱したが、今度は一匹どころか、

 

『お前たちも続けえええええっ! このままじゃ丸焼きだぞぉっ!』

『『『うおおおおお!!』』』

「えっちょっ、ふわひゃあっ!?」

 

 料理を捨て酒を捨て、黄金色の砲弾となった狐の群れにあっという間に押し倒されてしまった。顔も腕も腹も脚も、ぜんぶがもふもふで埋め尽くされる。いっそ都合がいい、このまま焼き尽くしてやると思ったが、術が発動しない。そこでようやく、札が噛み千切られてボロボロになっていると気づく。

 一気に血の気が落ちた。喰い殺されると思った。喰われたところで不老不死の妹紅は再生するだけだが、かといって喰われるのが平気かとなればそれも違う。痛みだって感じるし、こんなだって女としての尊厳がある。何十匹という狐たちに群がられ、肉のひとつも残さず喰らい尽くされるなんて、想像したくもない。

 かつて山で妖怪に喰い殺された、恐怖の記憶が甦った。

 

「や、やだっ……!」

 

 今まさに、喉笛を噛み千切られるのではないか。脳が白熱し、体が凍りつき、狐たちを追い払おうともがくことすら満足にできなかった。ただその場で身をよじり、ぎゅっと目を閉じて涙をこらえることしか、

 

『ちょっと待てぇっ、よく見たらかなりの可愛い子ちゃんじゃねえか!』

『『『な、なんだってぇっ!?』』』

『女だー!』

『ぷにぷにのお腹だー!』

『もちもちのほっぺだー!』

『つるつるな脚だー!』

『『『くんかくんか!!』』』

「待てえ――――――――――――ッ!!」

 

 恐怖が一瞬で激怒に変わった。

 

「なにしてんじゃあんたらあああああ!?」

『久し振りの女を堪能してます!』

『お腹ぷにぷにですね!』

『ほっぺもちもちですね!』

『脚つるつるですね!』

『『『くんかくんか!!』』』

「やめろ――――――――――――ッ!! あっこらっ、どこに顔押しつけてんだへんたああああああああああいっ!!」

『ぺろぺろ』

「いや――――――――――――ッ!?」

 

 荒い息遣いで迫ってくる狐たちの隙間から、気の毒そうな苦笑いをしている銀狐が見えた。その足元にはくたびれた毛並みの老狐もいて、

 

「そういえばこのあたり、雌が少ないって言ってたっけ」

『……お恥ずかしい限りです』

「まあ、やりすぎなければいいんじゃないかい。退治されちゃうのは勘弁だし」

「見てないで助けろ――――――――――――ッ!!」

 

 絶叫しながら、妹紅はほっぺを舐めようとしてきた狐に拳を叩き込む。しかしこの狐ども、いくら殴っても蹴っても『ありがとうございます!』としか言わず怯みもしない。チリひとつ残さず焼き尽くそうと札を取り出しても、『させるかぁっ!』と一瞬で噛み千切られてしまう。

 傍から見れば、動物にじゃれつかれる女の子という微笑ましい光景だったのかもしれないけれど。

 でもこいつらは妖怪で、どうやら雄らしくて、お腹を足でぷにぷにされるわ、脚にすりすりされるわ、あちこち匂いを嗅がれるわ舐められるわ、なんかこれ、いっそ喰い殺された方がマシだったような、

 

「いい加減にしろこの変態狐ども――――――――――――ッ!!」

『『『ありがとうございま――――――――――――っす!!』』』

 

 妹紅の絶叫は、夕日が完全に暮れるまで野山に響き続けていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 お嫁に行けなくなるかと思った。

 いや、不老不死になった時点ですでに行けないのだろうけど、まあともかく。

 

「ふ、ふふふ、ふふふふふ……」

 

 肩をひくつかせながら妹紅は立ち上がる。周囲では、頭にたんこぶをつくって気絶した狐たちの肢体が転がっている。中には、顔面に足跡をくっつけているものもある。殴りに殴って蹴りに蹴って、ようやく変態狐どもを成敗した妹紅である。

 結局最後まで助けてくれなかった銀狐を見て、ひくひく笑いながら、

 

「つ、つつっつ次は、あんたの番よ……!」

「私はなにもしてないだろう?」

「うるさぁいっ! あんたがこの狐どもの親玉でしょ!? だったら部下の責任はあんたの責任よ!」

『いやあの、月見様はただ旅の途中に立ち寄ってくださっただけで』

「うるさいってばぁっ!!」

 

 銀狐の足元で老狐がなにか言ったが、妹紅は耳も貸さなかった。服はよれよれで、体のあちこちがべとべとで、女としての尊厳を割とボロボロに砕かれた妹紅はとにかく怒髪天を衝く勢いだった。変態狐を数十匹ボコった程度じゃまるで治まりがつかない。だいだい、この銀狐が式神で邪魔さえしてくれなければ、はじめの一瞬でほとんどケリがついていたはずなのだ。つまり、妹紅の体のあちこちが涎でべとべとしているのは、この銀狐のせいだといえるのだ。

 札を抜いた。

 

「ぜっっったい許さない!!」

「わかったわかった」

 

 銀狐が、腹を括るようにため息をついた。

 

「じゃあ、お前の気が済むまでお相手するよ」

『月見様……よろしいのですか?』

「だって、このままにしといたら一生追いかけられそうだぞ?」

 

 地の果てまで追いかけて焼き尽くしてやると思う。

 

「大丈夫。こんな女の子に負けたりはしないさ」

『それはそうでしょうが……』

「ふんだ。女の子だからって高括ってると、痛い目見るんだから」

 

 実際、小娘相手だと油断していた妖怪をぎゃふんと言わせた経験は多い。自分の手札――不老不死を最大限に活かせば、人型とはいえ一尾の妖狐くらい倒してみせる。

 銀狐は、これといって妹紅の挑発を面白がりもしなかった。

 

「ほら、お前は下がってて。どうやら炎の術を使うようだ。巻き込まれたら大変だよ」

『……わかりました』

 

 頷いた老狐が、遠く離れた茂みの方へ駆けていく。それを見送ってから妹紅は霊力を開放し、燃え上がった炎で紅蓮の翼をまとう。

 足元に転がっていた変態狐どもに引火した。

 

『『『あっちゃあああああ!?』』』

『ありがとうございま――いやこれはさすがに無理だあああああっ!?』

 

 ぎゃんぎゃんと悲鳴を上げながら、一斉に飛び起きた変態狐どもがどこか森の奥へ吹っ飛んでいく。もう二度と顔を見せるなと思う。

 深呼吸、

 

「――行くわよ!」

「ああ。いつでもおいで」

 

 銀狐は腕を上げることも腰を落とすこともせず、自然体のままで佇んでいる。緊張感の欠片もない静かな表情をしている。構えるまでもないという向こうの余裕が嫌というほど伝わってきて、ひどく癪に障った。

 構いやしない。油断したければ勝手に油断していろ。

 代償は命だ。

 

「――っ!!」

 

 二枚目の札で、妹紅は自分の体を丸々呑み込むほどの豪炎を生み出す。様子見なんてまどろっこしい真似はしない。予想外の反撃で致命傷をもらったって、それはそれで結構。殺されたふりをして、向こうが勝ちを確信した隙を衝けばいい。

 蛇のように走った豪炎が、山の一角を赤々とした光で染め上げた。

 

 

 

 ……だがまあ、ぶっちゃけた話。

 いつ気を失ったのかは、まったく覚えていないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がついた時には、何者かの背中でこそばゆい揺れを感じていた。

 

(――あれ?)

 

 掠れた視界と霞がかった頭で、妹紅はぼんやりと疑問に思った。自分は一体どうなったのだろう。そして、どうなっているのだろう。夢でなければ、自分の記憶は、紅蓮の翼を打ち鳴らしあの銀狐に勇ましく突っ込んでいったところで途切れている。

 誰かにおぶわれているのだと気づくまで、そう時間は掛からなかった。

 夢だったのだろうか。それとも、今が夢なのだろうか。

 もう何十年もの間感じていなかった、人と肌が触れ合うぬくもりだった。

 

「ん……」

 

 思わず、小さな声がこぼれていた。自分がどういう存在になってしまったのかを理解して以来、もう二度と感じることはできないと諦めていたぬくもりに、気がついた時には心が弛緩してしまっていた。

 もしもこのまま何事もなかったなら、きっと眠ってしまっていただろう。

 掠れた視界が治った瞬間、やたら見覚えのある銀色の髪が広がって、跳ね起きた。

 続けざまに、憎いくらい見覚えのある銀の狐耳が飛び込んできて、叫んだ。

 

「――やああああああああああっ!?」

「いだっ!?」

 

 目の前のつむじに拳骨を叩き込み、妹紅は全身を躍動させて暴れに暴れた。あの銀狐におぶわれている。なにがなんだかわからないが、とにかくそれが事実である。であれば当然、妹紅の矜持が今の状況を許すはずもないのである。

 しかし、人におぶわれた状態で暴れれば当然、

 

「あっ、」

 

 腿を支えてくれていた銀狐の手がすっぽ抜け、妹紅の体は後ろへひっくり返り、

 落下、

 

「――え?」

 

 しなかった。恐る恐る目を開けてみると、妹紅の体に銀の尻尾がくるりと巻きついている。

 その状態で、妹紅は宙に抱えあげられていた。

 

「あっ……こらっ、放しなさい! 放せえっ!」

「……まったく。つくづく元気な女の子だこと」

 

 見下ろす先では、銀狐が迷惑そうな顔でつむじのあたりをさすっていた。蹴っ飛ばしてやろうと思って両足をじたばたさせるが、あと一歩のところで届かない。ならばいっそ、この体に巻きつく尻尾の毛をむしりとってやろうかと思って、

 

「自分の立場を理解してくれると助かるよ。それとも、痛い目を見ないとわからないかな?」

「っ……」

「このまま絞めあげたっていいし、地面に叩きつけてやってもいい」

 

 そこまで冷たく言い切った銀狐は、重く長いため息をついて、

 

「……だから頼む、いい加減に大人しくしてくれ。そしたらなにもしないから」

「……」

 

 それがこちらへ頼み込むような、頭のひとつでも下げるような口振りだったので、不意を衝かれた妹紅は毛をむしりとる寸前で動きを止めた。

 両手いっぱいに掴んだ銀の毛並みは、今まで感じたことがないくらいふさふさもふもふだった。

 

「……その言葉、信じられる証拠は?」

「お前に危害を加えるのが目的なら、こうやって話をしたりなんかしていない」

 

 まあ、確かに。

 

「じゃあ、私をおぶってたのはなぜ? 一体どこに連れていくつもりだったのかしら」

「麓の村まで」

「はあ?」

 

 こいつは嘘を言っているのだろうか、と妹紅は考えた。だって、妹紅をわざわざ麓の村まで運ぶ理由が彼にはない。自分の巣まで持ち帰って餌にするか、その場で捨て置く方がよっぽど合理的である。

 妹紅は周囲を見回した。一体どれほど眠っていたのだろう、日はほとんど落ちきって、山は冷たい不気味な闇で包まれ始めている。あとほんの少し時間が経つだけで、ここら一帯は完全な闇に呑み込まれてしまうだろう。昔のトラウマが音もなく甦ってきそうになって、妹紅は寒がるように体を震わせた。

 ここが山のどのあたりなのかはわからない。山道どころか獣道すら見当たらず、木々と落ち葉ばかりが闇の奥深くまで広がっている。本当に村へ向かっているのか、それとも、人知が及ばぬ山奥まで妹紅を引きずり込む最中なのか。

 

「信じられない」

「信じられないなら、自分が行きたい方へ行くといい」

 

 妹紅に巻きついていた尻尾がいきなり解けた。妹紅は驚きながらも、危なげのない動きでしっかりと着地、

 

「夜の山をちゃんと歩けるなら、だけどね」

「う……」

 

 銀狐の不遜な笑みが目に入って、そこで妹紅はようやく、望む望まざるにかかわらず自分には選択肢がないのだと気づいた。当然、まともに動けるわけがない。ここがどこなのかも村がどっちの方角なのかもわからないし、間もなくやってくるであろう夜の山に独りで取り残されたら、昔のトラウマが完全復活してしまって、体育座りをしながら一晩中すすり泣いてしまうだろう。

 独りになるのだけは嫌だ。たとえ目の前にいるのが、妹紅をひどい目に遭わせてくれたいけ好かない妖怪であっても。

 釘を刺すように銀狐を睨んだ。

 

「……もし嘘だったら、死に物狂いで大暴れしてやるからね?」

「ッハハハ、肝に銘じておこう」

 

 耳に優しい声音で笑って、銀狐が歩みを再開した。あっという間に闇の向こうへ消えそうになった背中を、妹紅は慌てて追いかける。

 

「ちょっと、速いってば!」

「ああ、悪い。なんだったらまたおぶろうか?」

「ふざけないで!」

 

 完全なる闇は、刻一刻と近づいてきている。山のどこか遠くでは、狼か野犬の遠吠えが響いている。風が吹くたび、周りの木々が妹紅を包囲するようにざわざわと揺れる。銀狐が気を利かせて狐火を灯したが、それでも闇は一歩も引くことなく、隙あらば妹紅を呑み込んでやろうと鳴りをひそめ続けている。

 夜の山だ。かつて妹紅がその命を容易く奪われた、人が踏み込んではいけない恐ろしき異界。

 

 でも、なぜだろう。

 今日の夜の山は、思っていたよりもあんまり、怖くなかった。

 

 

 

「……そういえば、私っていつ気を失ったの?」

「覚えてないのか?」

「覚えてるんだったら訊いてない」

「ほら……炎で翼をつくる術。あれで一気に飛び出して」

「うん」

「上手く止まれなかったのかな。木にぶつかって」

「……」

「ばたんきゅう」

「…………」

 

 つよくなりたい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――宴であいつらが出した料理と酒って、村から盗んできたものだろう」

 

 そう、銀狐が言った。

 

「で、食料を盗まれて困った人間たちが、折りよく村を訪れたお前に依頼を出したと」

「なんだ、気づいてたの?」

「いや。お前を運びながら、そうなんじゃないかなと考えてた」

 

 夜の中を進む。月明かりは鬱蒼と茂った木々に遮られ、銀狐が尻尾の先に灯した狐火以外は、自分たちを照らすものがない闇の中である。先を進む銀狐から三歩ほど離れた距離を保ちながら、妹紅は道なき道を歩いてゆく。

 とりあえず山を下ってはいるようだが、この先に本当に村があるのかどうかは、やはりわからないままだ。

 

「お前は、陰陽師としてはまだ若いようだ。そんな子が、たったひとりで、好きで私たちに喧嘩を売ったとはどうも思えなくてね」

「ご明察。村の人たちから依頼されたのよ。悪い狐たちを退治してってね」

 

 話す声と、歩く音と、狐火の燃える音だけが響いている。

 

「道理で、よくあれだけの料理を準備したものだと思ったよ」

「……ねえ。あれって、あんたが盗んでくるように命令したわけじゃないのよね?」

 

 妹紅はぽつりとそう問うた。妹紅が宴を木陰から盗み見していた時、銀狐は仲間に、この酒はどこから仕入れてきたのかと尋ねていた。自分で盗んでくるよう指示したのならあんなことはまず訊かない。

 背中越しに、銀狐が頷く。

 

「信じてもらえるかはわからないけど、そうだね。私がこの山に入ったのは、今日の昼頃でね。そこであいつらと出会って、まあ、成り行きで宴をすることになって」

「それで支度ができるまで待ってるあんたに黙って、あの狐たちがやったのは村へ盗みに入ることだった――と」

「まあ、そうなるんだろうね」

 

 あーあ、と妹紅は頭の後ろで手を組んだ。

 

「村の人たちに、どう報告しようかなあ……」

 

 退治すべき対象には逃げられ、盗まれた酒も食料も取り戻せなかった――結果としては散々もいいところだ。謝罪しなければならないのは確定だし、報酬だって当てにはできまい。路銀はまだ蓄えがあるのでどうでもいいが、村の人たちの感謝と期待を裏切ってしまうのは心苦しかった。

 銀狐が振り返り、苦笑した。

 

「悪かったね。詫びといってはなんだけど、あいつらは私から油を搾っておこう。盗んだ物も……そっくりそのままは無理だけど、それに見合うだけの物は返させる」

「はあ?」

 

 思いがけない提案に、妹紅はつい頓狂な声をあげた。

 

「なによそれ。妖怪が人間の味方をするの?」

「味方もなにも、悪いことをしたのはこっちの方だろう」

「……それはそうだけど」

 

 あくまで腕っぷしの強さだけで捉えれば、妖怪は人間よりも上位に君臨する存在である。そのせいか、人間を虐げたり、人間から金品を搾取するのは、強者として当然の権利だと陶酔している妖怪が少なからずいる。そこまでは行かずとも、大半の妖怪たちは、人間に対して罪の意識を感じるということを知らない。

 人間相手に進んで謝罪し、かつ詫びまでしようと言ってくる妖怪がいることを、妹紅は生まれて初めて知った。同時に、今ひとつ信用できなかった。疑心暗鬼となって沈黙していると、銀狐がまた妹紅に背を向けて歩き出す。妹紅もそれについていく。

 少し、夜の静謐(せいひつ)に浸る間があった。

 

「昨夜ね。私も、あそこの村で世話になったんだ。一宿一飯の恩ってやつだね」

「……ちょ、ちょっと待って」

 

 あんた一体なにして、

 

「私は旅の狐でね。寝床に困ったら、人間に化けて宿を貸してもらったりする。珍しい話でもないだろう? 狐は、人間たちに最も近い妖怪だ」

 

 銀狐が言っていることはわかる。今のご時世、人里に妖怪が出たとなれば、ほとんどか狐か狸、もしくは(むじな)川獺(かわうそ)の仕業と相場が決まっている。人間に化けて人里へ入り込んだ狐や狸の噂も、職業柄、耳にする機会は決して少なくない。

 だがそういう連中の目的は大抵がいたずらであり、この銀狐がいう一宿一飯の恩なんてのはまったく次元が違う話であり、

 

「そういうわけだから、宿を恵んでくれた相手に砂をかけるような真似はしたくないんだ」

「……それ、どう反応すればいいのよ私は」

 

 わかった、信じるわ――なんて、まさか妖怪相手に二つ返事できるはずもない。かといって彼の口調は、嘘を言っているわけではないように聞こえる。肯定するにも否定するにも突飛すぎる話で、妹紅は見えもない夜空を振り仰ぐ。

 

「そうさな、まずは明日の朝までに返せるものは返すよ。手をつけてない酒とかね。それから一週間くらいは毎朝、村の入口にでも食料を届けさせよう。村人たちにはそう伝えてくれれば」

「――変な妖怪ね、あんた」

 

 銀狐の言葉を遮って、妹紅は毒を抜かれた心地で笑った。世にはここまで変な妖怪がいるんだと。そう思った。

 妹紅の理解が正しければ、彼はただとばっちりを受けただけのはずだ。村での盗みは仲間たちが勝手にやったことであり、彼は指先ひとつ分も関与していない。宴で振る舞われた料理と酒が盗品であることすら、教えてはもらえなかった。まったく与り知らぬ罪で妹紅に目をつけられて、さぞやいい迷惑だったことだろう。

 なのに彼は、妹紅を村まで送り届けると言い、仲間たちに代わって盗みの謝罪をし、果てはその詫びまでしようと買って出た。

 これでは、まるで、

 

「あんた、実は人間だとかじゃないでしょうね?」

 

 まるで人間の考え方だ。妹紅の前を進み闇をかき分けていく男が、人の姿をした狐というよりかは、狐の姿をした人間に見えてくる。なるほどこの男のような妖怪なら、なに食わぬ顔で村にもぐりこんで、誰にも怪しまれることなく一宿一飯をいただくこともできるかもしれない。

 銀狐が、喉だけで笑った。

 

「よく言われるよ」

「……そう」

 

 森が拓けた。月明かりを遮る緑の膜がなくなり、少しだけ周りが見えるようになった。そこは山道のすぐ脇であった。下る方向に目を遣ってみると、そう遠くない距離の向こう側で、橙色の灯りがいくつか輝いているのが見えた。

 山の入口。

 

「村の人間たちが、お前を心配して目印()を焚いてるのかな」

「……」

 

 ――本当に案内してくれたんだ、この狐。

 正直、騙されていることも覚悟していたのだけれど。

 

「ここまで来れば、あとは一人でも大丈夫だよな。灯りくらいは自分で出せるだろう?」

「……バカにしないで」

 

 妹紅はすばやく札を取り出し、炎の術を発動した。炎は鳥の形となって飛び立ち、妹紅の周りを旋回する。夜の道を照らす明かり程度なら、これくらいもあれば充分だろう。

 銀狐が、満足そうに頷いた。

 

「それじゃあ、ここでさよならだ。今日は面倒を掛けたね」

「……そうね」

 

 本当に、今日は散々な一日だった。依頼は達成できないし、変態狐どもにあちこち舐め回されるし、木にぶつかって自滅するという大失態を犯して敗北するし、踏んだり蹴ったりもいいところだ。

 けれど、

 

「でも、まあ……そこまで気にしてもいないわ」

 

 そんな言葉が、妹紅の口から自然と紡がれていた。今になって思い返すと、なぜだろう、そう悪いことばかりでもなかったなと思ったのだ。

 妹紅は陰陽師だが、陰陽師を職として選んだ理由は、別に妖怪に恨みがあったからでも人を助けたかったからでもない。あくまで、白い髪と赤い目に理由を与え、人並みの路銀を得ることができるからだ。今でこそ誰かの助けとなる喜びを実感してはいるものの、人を困らせる妖怪はぜんぶ滅してやろうとか、困っている人々をすべて救ってやろうとか、そういう義憤に駆られているわけではない。

 妹紅は、妖怪が嫌いではないのだ。むしろ妹紅もまた人外である分だけ、妖怪相手の方が気が合うのではないかとすら思っている。

 人の生活を脅かす妖怪は悪だが、互いが傷つかずに済むのであれば、それに越したことはない。

 仲良く暮らせればいいのに。そう思ったことが何度かある。

 ひょっとすると妹紅は、人を理解してくれるこの銀狐と出会えたのが、嬉しかったのかもしれない。感謝の言葉も、顔馴染み相手のように自然と言えた。

 

「ありがとね。お陰で助かったわ」

「どういたしまして」

 

 初めはいけ好かないやつだと思っていたけれど、まあ。

 実際こうして助けられてしまえば、信じないわけにもいかないと思ったので。

 

「そういえば、名前を訊いてなかったわ。私は藤原妹紅。あなたは?」

「月見。ただのしがない狐だよ」

「月見、ね」

 

 そう呟いて、妹紅は山道までの斜面を下りていく。それから振り返り、銀狐――月見に向けて、鋭く指を突きつけた。

 突きつけて、大胆不敵に笑った。

 

「助けられちゃったし、今日のところは退いてあげる。でも、次はこうは行かないからね」

「次って」

「私、こう見えて結構執念深い女なの。……私のこと、大した陰陽師じゃないって思ってるでしょう?」

 

 答えが返ってくるまで、失礼なほど結構な間があった。

 

「……いや、まだ子どもなのに大したものだと」

「だから、今度会ったらコテンパンにしてあげる。コテンパンにして、ぎゃふんって言わせてやるんだから」

 

 半分は本当だ。木に激突して自滅では全然納得できないし恥ずかしすぎるので、次はきちんと勝ち負けを決めたいと思っている。

 半分は嘘だ。世の中には『言霊』という概念がある。こんな風に言っておけば、いつかまたどこかで、ぱったりと再会できるような気がした。

 人を想う、この狐に。

 だから、妹紅は言うのだ。

 

じゃあ(・・・)またね(・・・)

 

 怖い怖い、と月見は笑った。

 

「病気や怪我に気をつけてね。次戦う時に、言い訳の余地があっちゃあいけない」

「そうね」

 

 死を捨てた自分には関係のないことだが、妹紅は頷いておいた。

 背を向ける。炎の鳥で足元を照らし、ほとんど麓近くの山道を下っていく。

 葉擦れの音が聞こえた。振り返ると、まるではじめから誰もいなかったように、そこにはもう誰の姿もなかった。

 夢だったとは思わない。

 この記憶が幻でないことは、花びらのように舞い散る赤い残火が証明していた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――んで次の日になったらお酒が返ってきて、それから毎朝、本当に食料が届けられるようになってね。あの時は笑ったよ」

「ふうん……」

「とまあ、私と先生が出会った頃の話はこんな感じ」

 

 そう言って話を締めながら、よくここまで覚えてるもんだなあと妹紅は思った。あの村の次にどこへ向かったのかとか、あの村の前はどこを歩いていたのかとか、そういうのはさっぱり覚えていないくせに、月見と出会った時の記憶だけは昨日の献立よりも鮮明に思い出せる。思い出すのに時間が掛かったところなんてひとつもなかった。それだけ、当時の出来事は妹紅にとって鮮烈だったのだ。

 語りが弾んだお陰で酒も進み、もう五回ほど鈴仙をおかわりに呼んでいる。猪口の中身をぐっと呑み干し、徳利を手に取ってみると、半分ほど注いだところで空になってしまった。また鈴仙を呼ばなければならない。

 そこでふと、輝夜のどこか小骨が引っかけた表情に気づいた。

 

「どったの」

「ん? いや……あんたとギンって、初めからぜんぶ知ってたわけじゃなかったんだなって。ほら、ギンが私と知り合いだってこととか、あんたが不老不死だってこととか」

「あー、そだね。そのあたりはもうちょっとあとからだよ」

 

 何度か別れては再会するのを繰り返して、十年くらいが経った頃だったろうか。成長しない体をさすがに怪しく思われて、妹紅は自分が不老不死であることを明かした。月見が輝夜と面識があることを知ったのも、ちょうどその頃だった。まさか都の有名人だった『門倉銀山』が月見だったとは、あの時は本気で度肝を抜かれたものだ。

 

「で、酒がなくなったから鈴仙呼んで」

「またぁ!? ちょっと、ついさっき呼んだばっかでしょうが!」

「徳利一本なんてすぐなくなっちゃうって。いっそ瓶ごと持ってきてもらった方がいいかな?」

「……あんた、鬼とも呑み合えるわよ」

 

 呆れ顔のまま、れーせーん、と輝夜が声をあげる。どこからか、もうですかあ!? と驚いた声が返ってくる。妹紅はくつくつと笑う。

 

「私は先生が好きだよ。でも、好きじゃない」

「え?」

「なんていうかな……敬愛? 感謝と憧れと尊敬と親愛。『人として好き』ってやつで、『異性として好き』ではない。要するに、あんたが心配してるような関係じゃありません」

 

 目をパチクリさせている輝夜を覗き込んで、ニヤリと口端を曲げて、

 

「安心した?」

「……ふ、ふん。ならいいのよ。これ以上ライバルが増えるのは御免だわ」

 

 逃げるように、ぷいとそっぽを向かれた。妹紅はくひひと笑って、半分だけの酒を一口で空にした。

 

「ねえ。私からもいっこ訊いていい?」

「な、なによ」

「輝夜って、先生のどこが好きなの?」

 

 前々から気になっていたことだった。輝夜には、かつての都で貴族からの婚姻を断りまくったという実績――もしくは前科――がある。すでに意中の相手がいるのではないか、もしくはひょっとして男嫌いなのではないかと、あの頃はいろんな憶測が都中を席捲していたものだ。

 言い寄る貴族たちをすべて追い払い、月見を選んだ。その理由が一体なんなのか、彼を先生と呼び慕う者として興味津々なのである。ここで是非輝夜を問い質して、あとで先生をからかってやりたいと思う。

 答えが返ってこない。

 

「ちょっと輝夜、聞いてる?」

 

 まさか悩んでいるわけじゃないだろう、一日中先生のことばかり考えているようなやつが――と思って、横を見たら、

 見たこともないくらい真っ赤になって湯気をあげている、輝夜がいた。

 蚊の鳴くような声が聞こえた。

 

「……ぜんぶ」

「え」

 

 妹紅はぽつりと言った。輝夜はぽそりと言った。

 

「ぜんぶ、すき」

「……」

「ぜんぶ、だもん……」

「…………、」

 

 ……うわぁ。

 うわぁ。

 ちょっと待って、いま猛烈に酒が呑みたい。辛い酒を喉の奥底まで一気に流し込みたい。じゃないとなんかすごくムズムズゾワゾワするというか、奇声をあげて髪を両手でかきむしりたくなるというか、とにかく鈴仙早く来て早く酒持ってきてじゃないと私このまま爆発しちゃうああもう幸せそうでヨカッタデスネコンチクショウ!!

 

「お待たせしましたー。持ってきましたよー」

「よくやった鈴仙!」

 

 突き当たりを曲がってやってきた鈴仙に妹紅は飛びついた。「はえ!?」と目を白黒させる鈴仙に構わず徳利を奪い取り、そのまま一気に自分の口へ傾ける。喉が焼けるような辛さと、よく冷えた呑み心地の奥で確かに感じる熱さが全身へ染み渡り、妹紅の体を蝕んでいた不純物を焼き尽くしていく。

 

「くいいいぃぃ……!」

「ちょ、なにやってるんですか妹紅さん!?」

「うっさい今は緊急事態だ!」

 

 徳利の酒はまだ半分ほど残っている。流れる動きで輝夜の口にねじこんだ。

 

「もがぁ!?」

「おら輝夜ぜんぶ呑めやぁっ!」

「がぼがぼがぼごぼ!?」

「姫様ー!?」

「がぼごぼ、……あいふんほほほあ――――――――――――ッ!!」

「ぐはあっ」

 

 殴られた。妹紅は床に転がり、輝夜は徳利を吐き出し、

 

「けほっけほっ……いきなりなにしてくれてんの!? 死ぬかと思ったわよっ!」

「うっさい! そっちこそ、なぁにいきなりノロけにノロけて天元突破してくれちゃってんの!? 吐くかと思ったわよっ!」

「吐!? し、失礼なあっ! だいたい、訊いてきたのはあんたの方でしょうが! 私は正直に答えただけよ!」

「あはははははぜんぶ好きって幸せそうで羨ましいですなあ! 私が不老不死になってどんだけ苦労してきたと思ってんのよ、私に対する当てつけかっ!?」

「知りませんそんなのーっ! ってかなによ、その自分だけが苦労してるみたいな言い草! 私だってね、今までずっとギンが死んだと思ってたのよ!? その悲しみと苦しみに比べたら、あんたの苦労なんてさかむけ(・・・・)みたいなもんですーっ!!」

「……あのー、私もう戻っていいですか?」

「ハン、今が幸せなやつの言うことは全然響かないわねえ!」

「不幸な自分アピールご苦労様ですーっ!」

「……あの、じゃあ私、もう戻りますから」

 

 妹紅は輝夜の頭をビシバシ叩き、輝夜は妹紅のほっぺたをむいむい引っ張る。この争いはやがて永遠亭の上空を舞台とした弾幕ごっこへ発展し、夏の青空を華麗に彩り、永遠亭の一部を華麗に破壊し、ブチ切れた永琳によって共々矢で撃ち落とされることとなるのだが――

 

「……あの、師匠」

「なに?」

 

 そんな未来の話はさておいて、永琳のところまで戻ってきた鈴仙は、小さく首を傾げながら言った。

 

「姫様と妹紅さんって……実は結構、仲良しですよね?」

 

 作業の手を止めた永琳は、やれやれ調子なため息をもって答えた。

 

「なにを今更」

 

 永遠亭の縁側では、お互いのほっぺたを引っ張り合いながら、二人の少女が転げ回っている。

 わーわーぎゃーぎゃーと、揃って仲良く騒ぎ散らしながら、転げ回っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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