銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第8話 「レコンサリエーション ①」

 

 

 

 

 

 天上に黒が満ちていく。

 嫌な雲だと、紅美鈴は浅く体を震わせた。

 

 空から青はとうに失われていた。コールタールを混ぜ込んだような、黒く粘ついた雲で塗り潰されている。春風はひどく冷え込み、荒々しく木々を薙ぐ。ざわざわと響く不穏な音に、美鈴の心も感化されていた。

 やがて、大雨になるだろう。

 

「……中国」

 

 凛と響く声に、美鈴は空へもたげていた頭を降ろした。いつの間にか、真横にメイド服姿の女性が立っている。あいかわらず心臓に悪いことだ、と美鈴は内心苦笑した。とはいえ、彼女とももう長い付き合いになるから、驚くことはもはや稀なのだが。

 

「どうかしましたか、咲夜さん?」

 

 紅魔館を実質的に執り仕切るメイド長にして、レミリア・スカーレットが絶対的な信頼を置く懐刀――十六夜咲夜。彼女もまたこの空模様に感じるところがあるようで、空を見上げ、端正な顔立ちを不快げに歪めていた。

 

「中に入りなさいな。すぐに降り出すわよ」

「ですが……」

「土砂降りの中で立たせるほど、私もお嬢様も悪趣味じゃないわ。それに、もうすぐ昼食だし」

 

 確かにそうだ。土砂降りの中を構わず立ってろなんて言われたら、いくら美鈴でもストライキを起こす。それにもうすぐ昼飯時、お腹が空いてきたのも事実だ。

 更にもう一つ、付け加えれば。

 

「……」

 

 頭上。汚れた黒で塗り潰された空が、美鈴の体に重苦しくのしかかってくる。本当に嫌な雲だ。なにか、よくない物事の前触れであるかのような。

 できることなら、この雲の下にはいたくない――そう、美鈴は思った。

 不意に落ちてきた雨粒に、頬を叩かれる。

 

「……降ってきたみたいね。ほら、中国」

「……そうですね。わかりました」

 

 促す咲夜に、やがて美鈴は頷いた。思いがけずもらえた休み時間だ。こういう風に気が滅入りがちな時は、自室でのんびり羽根を伸ばすに限る。

 咲夜が既に館に向けて戻り始めていたので、美鈴は足早にその背を追いかけようとした。

 

「あー、ちょっと待った、そこの二人!」

 

 直後、聞き慣れない男性の声に呼び止められる。低く落ち着いた、聞き心地のいいバリトンの声音。この紅魔館で最も多くの来訪者を迎えてきた美鈴すら、聞き覚えのない。

 

「……」

 

 ……ポツ、ポツ、と雨粒が地面を打っていく。その中を、ひどく慌てた様子でこちらに走ってきているあの男は、果たしてこの空と関係があるのだろうか。

 ため息一つとともに、咲夜が隣を通って前に出ていく。いよいよ土砂降りも秒読み段階に入った中、追い返すのも酷だからと、彼女はあの男を迎え入れるだろう。

 けれど――本当に迎え入れても、いいのだろうか。

 

「…………」

 

 ――どうか、何事も起こらなければいいけど……。

 天上に広がる黒を、美鈴はひどく暗澹(あんたん)と睨みつけた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その男は、自らを月見と名乗った。

 このあたりでは見慣れない、銀の毛を持つ妖狐であった。

 

「いや、すまないね。いきなり押しかけて、雨宿りまでさせてもらって」

「いえ……」

 

 その妖狐、月見を客間へと先導しながら、美鈴は短くそれだけを返した。

 外は既に雨足強まり、篠を突く大雨となっていた。窓はもはや外の景色を映さない。ギリギリのタイミングで雨宿りの場所を見つけ出した彼は、まさしく幸運であったといえよう。……その場所が、紅魔館でなかったならば。

 

 紅魔館の門番である美鈴は、或いはメイドである咲夜は、来客があった際には必ず主人に報告を行う義務を負う。当たり前の話だ。主人に報告なく招き入れた客が万が一問題を起こしたら、一の召使いとして、どれだけ平謝りしても足りることではない。

 だからこそ、この狐は運が悪い。

 美鈴たちの主人であるレミリア・スカーレットは、吸血鬼だ。そして、美鈴がこう評価するのもあまり感心できた話ではないだろうが――『紅魔館の主人』を名乗れるだけの人格が、未だ形成されていない。

 有り体を言えば、幼いのだ。彼女は幼く、わがままで、一方で強い矜持を持つ。

 それは、美鈴たちが彼女に強く忠誠を誓う一つの魅力でもあるのだけれど、この場合は最大の難点となる。吸血鬼は夜行性。昼日中である今はちょうど、睡眠時間の真っ只中だ。

 

 であれば、安眠を妨げられたレミリアが、どうしてこの狐を快く迎え入れなどしようか。

 

 眠りを邪魔された怒りを彼に吐き捨てる――レミリアならばやりかねない。報告へ向かった咲夜が、上手くやってくれればいいのだが……。

 そうこう思案しているうちに、美鈴たちは客間の前まで辿り着いた。

 

「……とりあえずは、こちらの部屋でお待ちください」

 

 扉を開けて促すと、中では既に咲夜が紅茶の準備を整えて待っていた。紅茶を準備しているということは、月見を雨宿りさせる許可が得られたのか。それとも――。

 

「……?」

 

 月見は、咲夜を見てやや不思議そうに首を傾げていた。「お嬢様に報告して参りますので、客間にてお待ちを」――咲夜がそう月見に告げてからほんの二~三分だ。レミリアに報告を終えて紅茶の準備を整えるには、あまりにも短い。

 それは、彼女が持つ能力故に為せる芸当なのだが――この場では話す必要のないことだろう。美鈴は中央の座椅子を示す。来客の応接を行うためにこしらえられた、一対の座椅子。彼の向かい側にレミリアが座るような事態には、ならなければいいのだけれど。

 

「どうぞ、お掛けください」

「……ああ、ありがとう」

 

 月見は結局気にしても仕方がないことだと判断したようで、促されたままその座椅子に腰を下ろした。そして手前のテーブルに、すぐに咲夜が紅茶を整える。

 香るカップを彼に差し出し、告げた。

 

「間もなく、お嬢様がこちらにいらっしゃいます。どうかごゆるりとお待ちを」

「……」

 

 その言葉に眉をひそめるのは、月見ではなく美鈴の方。レミリアがこの場にやって来るという事実を意外に、そして心苦しく思いながら、また一方で冷静に受け止めた。

 月見に一礼しこちらに戻ってきた咲夜が、小さく耳打ちしてくる。

 

「……私も、まさかお嬢様が彼に会おうとするとは意外だったわ。適当に迎えてやれと、それだけ言って眠り続けてくれればよかったのだけど」

「……そうですね」

 

 もしそれだけだったなら、まさしくそれだけで終わったことだったろうに。

 あの寝坊助な吸血鬼が、貴重な眠りの時間を削ってまで、わざわざ彼に会おうとするのだ。レミリアを突き動かしている感情は、まさに美鈴が危ぶんでいた通りのものなのだろう。

 

「まだ確定ではないでしょうけど、恐らく……」

 

 告げる咲夜の表情には、月見に対するかすかな同情の色。その色を見て、きっと私もこんな顔をしてるんだろうかと、美鈴は思った。

 窓外を叩く滂沱(ぼうだ)の雨が、痛いくらいにやかましい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 一方の月見は、自分が置かれたそんな状況を微塵も気にかけることなく。

 あ、この紅茶美味しいな――なんて、考えていた。

 

 紅魔館。外壁が血を被せたかのように赤黒く塗り固められていて、まさに文字通り、建物自体が紅い魔物であるかのような洋館。不気味で、近寄り難くて、悪趣味で、この館をデザインした者はきっと相当な偏屈者だったのだろう。

 

 してこの館の主、レミリア・スカーレットは、月見の来訪を直接出向いて歓迎してくれるようだった。夜行性の吸血鬼だというのに、なんとも寛大なことである。

 もっとも、文字通りの“歓迎”をしてもらえれば、ではあるが。

 意識を集中させれば、感じる。こちらに段々近づいてくる何者かの気配。そして、その者から抑え切れずあふれ出した、棘にまみれた冷たい感情を。

 

「月見様。間もなく、レミリア・スカーレット様がお見えになります」

「ああ、わかってるよ」

 

 さしずめ、せっかく眠っていたところを叩き起こされたので、虫の居所が悪いのだろう。傍らの十六夜咲夜という少女は、そのことに気づいているのだろうか。

 どうしたものかなあ、と月見は考える。レミリアは己の感情を露骨に隠そうとしていない。ならば一度顔を合わせてしまえば、その怒りの矛先が自分に向かないとは到底思えなかった。

 ――はてさて、どうやって宥めたものか。

 やはり、昼間のうちからこの屋敷を訪れたのは失敗だったろうか。雨宿りくらいはさせてもらえると、踏んでいたのだが――。

 

 そして、客間の扉が開く。

 

 小さな少女だった。顔は幼く、背は低く、体つきは華奢。主の名を背負うにしてはあまりに小さく、若い。

 だがそれでも、背中から伸びた一対の黒の羽が、彼女が吸血鬼であることを雄弁に物語る。可愛らしく微笑んだ表情の奥、深紅の双眸が、確かな敵意を以て月見を威嚇していた。

 彼女――レミリア・スカーレットは、流麗な足取りで月見の向かい側の椅子へ。その所作には確かな教養の跡が見て取れる。幼い矮躯にはむしろ不相応だと思えるほどに、垢抜けていた。

 けれど、彼女から主としての品格を感じ取れたのは、そこまで。

 

 次の瞬間、殺意すらも覗く強大な妖力の波動が月見を打ちつけた。

 

「……」

 

 ……さて、やはり紅魔館の主殿は大層ご立腹なようだ。

 本当にどうしたものかと頭を悩ませる月見に、ほどなくしてレミリアから声が掛かる。

 

「――はじめまして、名も知らぬ狐さん」

 

 鈴のように高い声音も、今は確かな殺意で汚れていた。いつの間にかレミリアの隣に移っていた咲夜が心配そうにこちらを見てきたけれど、月見はわずかに笑んで、暗に大丈夫であることを伝えた。

 月見には、レミリアを恐れるような理由がない。打ちつける妖力は、なるほど、吸血鬼の名に違わず確かに強大なものだ。……けれど、それだけ。

 幼い子どもが本気で怒りを露わにしたところで、恐怖を覚える大人は稀だろう。それと同じだ。

 

「はじめまして、紅魔館の主よ」

 

 咲夜に向けた笑みをそのままに、レミリアへ答える。

 

「私は月見。見ての通り、しがない一匹の狐だよ」

「……私はレミリア・スカーレット。この館の当主よ」

「そうか。……まず、眠りを邪魔してすまなかったね。そして、突然にも関わらず、雨宿りをさせてくれてありがとう」

 

 頭を下げると、レミリアは意外そうに片眉を上げた。襲い来る妖力がほんのわずかに弱まる。

 だがそれも一瞬のことだ。すぐに、月見を小馬鹿にするような冷笑が鳴った。

 

「へえ。てっきり私の眠りを妨げるだけの礼儀知らずかと思ったけど、意外と教養はあるみたいね」

 

 ――それをお前が言うか。

 月見からしてみれば、いくら機嫌が悪いとはいえ初対面でいきなり殺気をぶつけてくるレミリアの方が、よっぽど礼儀知らずなのだが……もちろんおくびにも出さず、話を合わせておく。この妖力に真っ向から対抗するような真似は、なるべくしない方がいいだろう。どうにかして上手く宥められれば、それに越したことはない。

 

「でもね、今も言った通り、私は眠りを邪魔されて機嫌が悪いの。ねえ。月見、といったわよね……?」

 

 だが、このレミリアという少女の幼さは、月見の予想の上を行った。

 にやり。口角を吊り上げて不敵に笑った彼女は、一息。

 

 

 当然、そんな私の機嫌を気遣うような素敵な贈り物は、用意しているんでしょう――?

 

 

「――……」

 

 月見だけではない。レミリアの隣で静かに事を見守っていた咲夜でさえ、表情を変えた。

 

「お嬢様……」

 

 (いさ)めるように小さく口を開いた咲夜を、しかしレミリアは無視して続ける。

 

「是非見せてくれないかしら。物次第によっては、まあ、許してあげないこともないわよ?」

 

 ただ悠然と、一方的に、言葉を重ねていく。

 

「どうしたのかしら? まさか、なにも用意してないなんて言わないわよね?」

「……」

 

 対して、月見はなにも答えない。……否、なにも答えられなくなっていた。

 まさか、こんな恐喝紛いのことをされようとは思ってもみなかった。雨宿りに来ただけで金品を要求されるなんて、予想できるはずもなかった。

 

(……うーん、どうしたものか)

 

 月見の心を中に、ある感情が急速な勢いで広がっていく。それは肥大した呆れであって、或いは『失望』という言葉でも表現できたかもしれない。

 月見は、かつて風の便りで伝え聞いた、ある言葉を思い出す。

 

 ――吸血鬼とは、実に誇り高く、実に高貴で、実に美しい種族である。

 

 レミリアの振る舞いは、この言葉にはとてもとても当てはまるまい。たとえ見た目は幼くとも、魂には確かな吸血鬼の血が通っていることを、ほのかに期待していたのだけれど……読みが外れただろうか。

 吐息し、背もたれに体を預ける。

 

「贈り物ねえ。……あ、尻尾もふもふするか? それでよければいくらでも」

「……なるほど。お前は私の眠りを邪魔しただけで飽きたらず、そうやって私を愚弄するのね。いい度胸じゃない」

 

 ――しまった、逆効果だった。

 紫あたりはこうするととても喜ぶから、ついつい同じノリでやってしまった。いかんいかん、と月見は己を叱責。

 けれど、そうしたところで妙案が浮かぶわけでもない。今の月見は手ぶらなのだ。贈り物にできるような品など、到底持ち合わせてはいない。

 

「うーん、じゃあなにもないかなあ……。陰陽術の札なんて、興味ないだろう?」

「ええ、皆無ね。……なるほど、つまりあなたは私の眠りを邪魔しに来ただけなのね」

 

 レミリアがそう冷たく言い切って、――転瞬。

 月見の喉元に、深紅の槍が突きつけられている。

 

「……」

 

 鮮血を圧し固めて作り上げたかのような刃は、しかしよく目を凝らせば、かすかに陽炎のごとく揺らめいている。金属ではない。レミリアの妖力が凝縮されているのだ。瞬き一つの間で妖力をこれほどの密度で凝縮させて槍と成す技量は、吸血鬼の名に違わぬ確かな辣腕(らつわん)であった。

 だが、その腕前に舌を巻くような余裕はない。

 

「……客の喉元に刃物を突きつけるのが、吸血鬼の礼儀なのか?」

「お前は客じゃないわ。……私の眠りを妨げた邪魔者よ」

 

 さて、ここまで来るといよいよ困ったものだ。レミリアが少し腕を前に動かすだけで、この深紅の槍は確かに月見の喉笛を貫くだろう。それを考えると、宥めすかすなどと悠長なことも言ってられなくなってくる。

 吐息。

 

「困ったものだ。私はただ雨宿りを、そしてできれば館を見学させてもらおうと思っただけなんだけど」

「お前に見せびらかすようなものなんて、なにもありはしないわ」

「否、それを判断するのは私だよ。ここに案内されるまでの間に少し廊下を歩いたよ。随分と長く伸びる廊下だった。……外から見た限り、この屋敷にあれほど長い廊下は存在できないはずだ。一体どれほどの空間が、ここには広がっているのだろうね? ……ほら、それだけで見学する価値は充分にある」

「それを許すかどうかを決めるのは私よ」

 

 鋭い声音に切り捨てられ、迸る妖気の刃が月見の喉元に肉薄する。

 

「そして答えを言いましょう。そんなこと許すはずがない。虫の居所が悪いのよ、私は。とてつもなくね。……そのことを、理解していて?」

 

 そして、肌に触れた。切っ先でかすかに、肉を圧される。

 

「……」

 

 その感触を感じながら、月見は――そろそろ限界だろうかと、思った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 客観的に判断すれば、非が大きいのはレミリアの方だろう。

 いくら睡眠を遮られて虫の居所が悪いとはいえ、恐喝紛いの物言いをしたり、ましてや相手の喉元に刃物を突きつけるなど、著しく品位を欠いた行為であることは言うまでもない。相手の顰蹙(ひんしゅく)を買うのは必然だし、実際の咲夜でさえ、できることならレミリアを諌めたいと感じていた。

 

 けれど咲夜には、もはやこの状況をどうにかすることなどできない。先刻レミリアに声を掛けたのを無視された時点で、咲夜は彼女らの間に割って入る権利を剥奪されたのだ。

 

 そして、レミリアと差し向かう妖狐――月見にも、あくまで咲夜の主観ではあるけれど、非は存在している。

 レミリアが果たしてどういう妖怪であるのか、それはあの恐喝紛いの言葉を受けた時点で既に知れたはずだった。だから、月見が自らの命を守るためにすべきことは、外聞構わず、ひたすらに謝罪の言葉を重ねることだけだったのだ。

 そうすれば、或いは、万に一つという確率かもしれないけれど、許される可能性があった。咲夜にだって言葉を挟み、擁護する余地が生まれたかもしれなかった。――けれど、正面から会話を続けたばかりに、それも消えた。

 彼は、判断を誤ったのだ。

 

(月見様……)

 

 レミリアが構える深紅の槍――グングニルは、既にその切っ先を彼の喉元に食い込ませつつある。彼女があと少し右手を動かすだけで、この槍のように紅い鮮血がテーブルを汚すだろう。

 なのに。

 それにも関わらず彼は、ただそこに座り続けていた。

 身も心も、一糸とも動かすことなく。欠片ほどの恐怖も、動揺すらもにじませることなく。

 ただじっと――レミリアを、見ていた。

 

「ッ……」

 

 静謐の水底を覗くような瞳。息が詰まる。心の中に入り込んでくる。見透かされているような気持ちになる。……この水面を波立たせてしまったらどうなるのか、怖くなった。

 不意に、舌打ちの音が鳴った。レミリアだ。彼の瞳に、或いは咲夜と同じことを感じたのかもしれない。槍を彼の喉元から離し、霧散させた。

 

「気に入らない……」

 

 低い声で吐き捨てる。それを聞いて、彼がたたえたのは柔らかい微笑だった。その笑みは、一体なにを意図したものなのか。もう一度舌を鳴らして、レミリアは彼から目を逸らした。

 

「なんなのよ、こいつ……」

 

 表情、声音には、困惑の色がある。

 レミリアが来客に対して子どもじみた怒りを露わにするのは、今回が初めてのことではない。この幻想郷に来てから、そして幻想郷に来る前にだって、何度も繰り返されていたことだ。咲夜が彼女に拾われるより以前を含めれば、それこそ数え切れないほどになるだろう。

 けれどそういった時、レミリアにグングニルを突きつけられた相手は、「舐めるな」と反抗するか「命だけは」と命乞いするかの二択。月見のようにただじっと見返してくる相手は、一人としていなかった。

 だからレミリアは、この男をどう扱えばよいのか、わからないでいる。

 

「気に入らない……気に入らないっ……!」

 

 心中に渦巻く困惑を、そうやって何度も吐き捨てようとする。

 

「気に入らないわ! 本当に……!」

「ッハハハ、そうか」

 

 睥睨(へいげい)するレミリアに、しかし月見は笑った。苦笑でもなく冷笑でもなく、大人が子どもを宥めすかそうとするような、受け入れようとするかのような、朗笑。

 レミリアの舌打ちが、また響いた。

 

「……いいわ。そこまでこの屋敷を見て回りたいなら、咲夜を案内につけてあげる。咲夜?」

「……え? あ、はい」

 

 まさか名を呼ばれるとは思ってもいなかった咲夜は、反応に一呼吸遅れた。それから、今彼女が告げた言葉の意味をようやく理解して、耳を疑った。

 仕方のないことではある。なぜならあのレミリアが、誰かに説得されたわけでもなく、自ら折れて相手の言葉を聞き入れたのだ。しかも相手はレミリアの友人でも知り合いでもなく、それどころか、ついさっき“邪魔者”だと切り捨てた赤の他人。

 

「……よろしいのですか?」

 

 よせばいいのに、わざわざ問い返してしまう。

 レミリアは、微笑みで応じた。

 

「ええ、構わないわ」

 

 許さないと言い切った舌の根もまだ乾いていない。まさか、月見のあの眼に恐れをなしたわけでもあるまいし、一体どうして急に――。

 疑念が消えず返事を返せない咲夜に、ほどなくしてレミリアの方から答えが示された。

 

「ちょうど、あいつに見せてやりたい部屋があったもの」

「ほう、そんな部屋があるのか?」

 

 興味深げに声を上げた月見に、レミリアは笑みを崩さず応ずる。

 

「ええ、是非見ていって頂戴な。……咲夜?」

 

 そして彼女は、一息。

 

 

「彼を、地下室に案内してあげて」

 

 

 ――ああ、そういうことか。

 すべて合点が行った。だからレミリアは、こうもあっさりと今までの態度を翻したのか。だからレミリアは、今、こうも婉然と笑っているのか。咲夜はすべてを理解した。

 

「いいわね?」

「……」

 

 レミリアがグングニルを月見の喉元から引いた時、もしかしたら――もしかしたら彼は助かるんじゃないかと、ほんのかすかに期待した。

 けれどそれは、結局はただの幻想。

 むしろ未来は、咲夜が思いつく限りで最悪の方向へと傾いていた。

 

 地下室にいるのは、“彼女”。

 レミリアはこの妖狐を、彼女にあげる(・・・)つもりなのだ。

 

「咲夜?」

 

 頷きたくなかった。咲夜は月見に出会ったばかり。その関係は、赤の他人と表現すれば充分に事足りる。

 だがそれでも、彼とは少なからず話をしてしまって。

 それになによりも、彼は咲夜の淹れた紅茶を、とても美味しそうに飲んでくれていたのだ。

 そんな相手を“彼女”のもとに案内しろなどという命令に、どうして快く頷くことができよう。

 

「咲夜。――返事はどうしたの?」

「ッ……」

 

 苦悩し、唇を噛む咲夜に、思いがけず月見から声が来た。

 

「いいよ。案内してくれないか?」

 

 彼は、たたえた笑みを崩していない。“地下室”がどういう場所なのか知らないのだから、無理もなかった。言ってやりたかった。地下室に向かったら今度こそ死ぬことなるんだぞと、教えてやりたかった。

 だが、傍らでレミリアが無言の圧力を掛けてくるこの場では、それも叶わない。

 唇を噛み切ってしまいそうなほどに苦しみ、やがて咲夜は首肯した。

 

「……わかり、ました」

「決まりね。さあ、行ってくるといいわ。きっと楽しんでもらえるはずよ」

「そうか……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 

 深まった彼の笑顔に、心が痛むのを感じながら。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 実際のところ月見は、これから案内される“地下室”がどういう場所であるかを、なんとなくではあるが察していた。

 根拠は二つ。一つは、“地下室”という言葉を出した時のレミリアの表情、そしてそれに対する咲夜の言動だ。咲夜は明らかに難色を示していたようだったし、レミリアに至っては、月見を罠に掛けようとするかのようにあからさまな笑みを浮かべていた。なら、“地下室”がおよそまともな場所ではないことくらいは簡単に想像が利く。

 もう一つは、その予想を裏付ける形ではあるけれど、こうして咲夜に地下室へ案内される中で、その方からよくない気配が漂ってくる点だ。

 近寄りがたい、本能的に足を向けるのを忌避するようななにか。この気配を、月見はどこかで感じたことがあるような気がするが、記憶に薄くて思い出せないままだった。

 

 長い階段を下りて地下に入れば、もはや雨が窓を叩く音は聞こえなくなる。光は届かず、薄い闇色が目の先に伸びている。道の両脇で灯されたランプの明かりが、月見たちの行き先を示す唯一の指標だ。

 

「……やっぱりこの館、外観よりも中が随分と広いね」

 

 月見が当初感じていた疑念は、既に確信に変わっている。ここに辿り着くまでに、また随分と長く廊下を歩かされた。恐らく、紅魔館の周囲を軽く一周できるだけの距離があったはずだ。やはりこの館の内部には、外観からは想像もできないような広大な空間が広がっている。

 あれだけ長い廊下が、どうやって館の中に収まっているのか。解答は、月見を数歩先で先導する咲夜が告げた。

 

「私が能力で空間を弄っているからです。……『時間を操る程度の能力』と言って、お分かりになりますか?」

「あー……時間と空間は互いに関係し合ってる、というやつか?」

「はい。時間を操ることができる私は、同時に、ある程度ながら空間を制御することもできます。……それで、館の内部空間だけを拡張しているのです」

「はあ……」

 

 思わず、月見の口から感心の吐息がこぼれる。

 時空、などという言葉が存在しているくらいだ。往々にして時間と空間は、密接に関係し合う概念として扱われることがあるらしい。……『らしい』というのは、月見自身、そういった分野には決して精通していないからである。精々本の情報を鵜呑みにしている程度でしかなく、時間を操れれば空間も操れるんです、などと言われても当然ピンとは来ない。恐らく紫や藍にでも尋ねれば、懇切丁寧に講義してくれるのだろうけれども……頭が痛くなるだけだからやめておこう、と月見は首を振った。

 

「しかし、あまり広くしすぎると掃除とかが大変にならないか?」

「そうですね。とても一日ではやり切れないので、時間を止めながらやっていますわ。……妖精たちをメイドとして雇ってますけど、ほとんど役に立ちませんので」

 

 なら元の広さに戻したらどうなのだろう、とは思ったが、そこはきっと複雑な事情があるのだろう。あの子どもじみた館主が、「もっと大きな屋敷に住みたいわ!」とでもわがままを言ったのかもしれない。

 

「……咲夜は、あの子のことをどう思ってるのかな」

「もちろん、お慕いしています」

 

 迷いない即答。確信と自信を伴った力強い声音だ。

 それを聞いて、月見は内心笑う。やはり、昼間にここを訪れてしまったのは失敗だったと思えた。

 

「すまなかったねえ。ここが吸血鬼の館だということはわかってたんだから、少し時間を考えればよかった」

「そんな、どうして月見様が謝るのですか。吸血鬼は夜行性ですから、どうしても他の方々と生活時間の差は生まれます。それは、お嬢様もよく理解しているはずなのです。ですから――」

 

 月見の目の前で、咲夜がふと歩みを止めた。表情は窺い知れない。けれど、その肩がわずかに震えていたのを、月見は見逃さなかった。

 

「……申し訳ありませんでした、月見様」

「おや、どうしてお前が謝る?」

 

 問いつつも、月見は既に咲夜の内心を察していた。咲夜は、レミリアの方にも非があることを認めているのだ。だからこうやって、主人の代わりに頭を下げている。

 なるほど、よい従者だ。月見が客間でレミリアと相対した時も、咲夜は彼女を諌めようと口を挟もうとしたし、また、彼女の命令に従うことをよしとしなかった。ただ主人に盲目的に追従するのではなく、他者を思い遣る優しさと公平な倫理観がある。

 そんな咲夜が忠誠を誓うくらいだ。あのレミリアという少女は、本当は大層大層魅力的な主人なのだろう。

 

「お嬢様は、本当は――」

「そうだね。それはわかってるよ」

 

 だから咲夜がそう口を切った時、月見は淀みなく自分の言葉を重ねることができた。

 咲夜が驚いたように目を見開いて振り返る。その瞳を、月見はまっすぐに見返した。

 

「本当はもっといい子だと、言うんだろう?」

「……」

「あの子にとっての昼日中は、私たちにとっての真夜中。そんな時間の来客では、やはり機嫌も悪くなろうさ。……まあ、さすがに槍を突きつけられた時はびっくりしたけど」

 

 肩を竦めて、おどけたようにして。言えば、咲夜は口をきつく引き結んで、なにかをこらえるように押し黙り、俯いた。

 そうして訪れた沈黙は、ほんの数秒だったけれど。

 

「……月見様」

「うん?」

 

 顔を上げた咲夜は、とても張り詰めた表情をしていた。もうこれ以上は我慢ならないと、そう体を震わせて、声を荒らげた。

 

「月見様、どうか逃げてくださいっ……!」

 

 切々とした叫び。耳朶を打たれ、月見は思わず目を細める。

 

「お教えします。お嬢様は、月見様を殺すつもりです。これから向かう地下室は、そういう場所なんです。ですから、ですからっ……」

 

 言葉を区切り、肩で息をし、彼女はつなげる。

 

「どうしてあなたがこんな目に合わなきゃならないんですか。最初は、どうなっても仕方がないことだと思ってました。でもやっぱり納得できない。ただ雨宿りに来ただけじゃないですか。あなたに、死ななきゃならない理由なんてないじゃないですかっ……」

 

 あまり感情を表に出さない大人びた子なのだと思っていたけれど、違った。体を震わせる彼女は、どこにでもいる普通の少女と変わらなく、小さく見えた。

 わずかに戸惑った月見は、その気持ちを落ち着けるように緩く息を吐く。

 

「……意外だね。まさかそこまで心配してもらえるなんて」

「……私の紅茶を美味しそうに飲んで下さった方が、死ぬかもしれないんです。見て見ぬ振りなんて、できるわけないじゃないですか」

 

 月見は思い出す。確かに、咲夜の淹れてくれた紅茶はとても美味しかった。紅茶を嗜まない月見ですら、また飲みたいと思えるほどに。

 その味を反芻すると、不思議と、戸惑っていた心も落ち着いた。

 

「そうだね。咲夜はまだ若いのに、紅茶を淹れるのが本当に上手だ」

 

 軽口を返せば、咲夜は唇を噛んだ。どうしてそんなに落ち着いているんですかと、こちらを責めているようだった。

 月見は微笑む。

 

「逃げるって言ってもね、そんなことしたらお前がレミリアに怒られちゃうだろう?」

「そっ――そんなのどうだっていいじゃないですか! どうして、どうしてご自身の心配をなさらないんですか!?」

 

 咲夜の叫びは、もはや悲鳴に近かった。総身を前に折って、胸を手で押さえて、今にも泣き出してしまいそうだった。

 だからこそ月見は、一層笑みを深めて言う。

 

「咲夜が心配してくれてるみたいだから、それで充分だよ」

「っ……」

「それに……個人的に、このまま帰るわけにもいかない事情があるというか」

 

 月見は咲夜の姿越しに、薄闇に伸びる廊下の奥を見遣った。“地下室”が近いのか、あの嫌な気配を今なら正確に感じ取ることができる。

 やはり月見は、この気配を知っている。禍々しい存在感に粟立つようにして思い出された記憶が、答えを告げていた。

 これは、狂気だ。生物の精神に巣食い、正気を狂わせるモノ。

 ここまで色濃いそれを感じるのは、月見も初めてになる。

 

「この先にいるのは、一体?」

「……」

 

 問いに、咲夜はしばし口を閉ざしたままだった。知らないまま逃げてほしいと、そんな躊躇いが、噛み締めた唇に染み込み色を白くしていく。

 咲夜がなぜここまで逡巡するのか、月見にはよくわからなかった。月見を先に行かせたくないから話を進ませたくないのかもしれないし、単純に口にするのも憚られるような存在が奥にはいるのかもしれない。けれど、月見はそれでも真摯に彼女を見つめ、答えを待ち続けた。

 やがて諦めるように浅く息を吐いた咲夜は、重苦しい動きでその口を開いた。

 

「……お嬢様の妹、です」

「……そうか」

 

 月見は眦を細めた。まさか妹という言葉が出てくるとは、予想してもいなかったから。

 

「……妹様は、生まれ持ったその強大な狂気のせいで、お嬢様に外に出ることを長年禁じられています。あそこに謹慎――いえ、幽閉されているんです」

「……」

 

 咲夜の告白に相槌を打つこともせず、もう一度、くゆる薄闇の奥を見据える。

 もともと、逃げ出すつもりなど毛頭なかった。この狂気の持ち主が誰であれ、言葉が通じれば話をするなりして、適当に煙に巻くつもりだった。狐はなかんずく、ものを誤魔化し相手を偽る手管にだけは長けているから。

 故に、狂気の持ち主がレミリアの妹だというのなら――なおさら、ここで帰るわけにはいかない。

 それを表情から読んだ咲夜が、痛みをこらえるようにきつく眉根を詰めた。

 

「行くん、ですね」

「ああ」

 

 握り締めた両拳が、エプロンの裾に深い皺を刻む。その手は、ほのかに震えているようにも見えた。

 けれど、月見の心は変わらない。

 

「こんなに寂しそうな顔をしてるんだ。見て見ぬ振りをするのも、後味が悪いだろうさ」

 

 感じる狂気は確かに強大で禍々しい。だが同時に、寂しそうでもあったのだ。ポツン、膝を抱えて独りで泣いているような、そんな寂しさ。

 だからだろうか。月見がこうにも、行かなければならないと感じているのは。

 

(……あいかわらずだね、私も)

 

 月見は苦笑で口尻を歪めた。好き好んで人間たちに関わって生きてきたからか、昔から厄介事を見かけるとついつい口を挟んでしまう嫌いがあったが、それは今でも変わっていないようだ。世話好きなのねえ、と紫に呆れられたのが懐かしい。

 

「……寂しそう、ですか」

 

 噛み締めるように、咲夜が呟く。

 

「そうですね。きっと私も、事実だと思います」

 

 でも、と眉を歪め、顔を伏せる。

 

「私にはどうすることもできませんでした。危険だからと、お嬢様から必要以上に関わることを禁じられていますし、実際に危ない目にあったこともありました。幽閉をやめるよう申し上げても、頷かれたことなんて一度もないんです」

 

 声音は、レミリアの妹だという少女に対し力になってやれないことを悔いていた。優しい子なのだろう。レミリアに尽くすのと同じくらいの忠誠を、その妹にまで捧げているのがよく伝わってくる。

 咲夜は瞳に縋るような色を宿して面を上げ、どうか、どうかと胸を押さえる。

 

「月見様、どうか妹様を――」

 

 そこから先の言葉を、しかし飲み込んだ。俯き銀髪に隠された唇は既に力なく、続きを紡ぐことはない。

 月見は内心で、ゆっくりと長いため息を落とした。改めて考えると、随分と話が大事になってしまったものだ。恐らく、月見のこれからの行動次第で、紅魔館そのものの命運が大きく左右される。そう言っても過言でないほどに、レミリアの妹とは複雑な存在なのだと思えた。

 けれども畢竟(ひっきょう)、月見がやることは変わらない。レミリアがそう望んだように、地下室に向かう。それだけだ。

 

「……案内、続けてくれるな?」

 

 咲夜はもう、逡巡することはなかった。

 どうかお願いしますと――それだけ言って、面差しが見えなくなるほどに、深く深く頭を下げた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 咲夜にはもう、どうすることが正解なのかわからない。散々思い乱れた思考は、月見自身の意志もあって、結局「レミリアの命に従う」という当初の義務に帰趨した。

 

 フランドール・スカーレット――この先にいる狂気の持ち主に対し、レミリアが来客を案内させることはさして珍しくもない。例えば素性の知れない外来人や、そのあたりの弱小妖怪。フランドールの“遊び相手”をさせるために、そういう者たちを今までに何度も地下室へと放り込んだ。

 それがすなわちなにを意味するのか、月見が気づいていないということはないだろう。それでも、彼は決して足を止めようとはしなかった。知ってなお、望んでフランドールと相対することを選んだ。咲夜の思いに応えて本気で力になろうとしているお人好しなのか、なにも考えず流れに身を任せているだけの呑気者なのか……どうあれ、咲夜にはもう祈ることしかできない。

 

「……ここです」

 

 正面に鉄扉が見えた。一切の侵入者を拒むように屹立する、無骨で巨大な鉄の塊。フランドールが幽閉される部屋への入口だ。

 ひとたびこれを開ければ、もはや後戻りは利かない。咲夜は背後の月見へと振り返り、問うた。

 

「最終確認です。……本当に、よろしいのですね?」

「ああ。覚悟が上だよ」

 

 月見からの答えには、やはり微塵も迷いがなかった。だから咲夜も、もう心配するのはやめて迷いなく応じた。

 

「わかりました」

 

 月見のもとに歩み寄る。そうして目の前に立つと、彼が自分よりも頭一つ分くらい背が高いことに気づいて、やっぱり男の人なんだな、なんて考えてしまう。

 

「どうか、無事に帰ってきてくださいね。死なれたら後味悪いですから」

 

 月見は肩を竦めて、苦笑した。

 

「頑張るよ」

「ええ、頑張ってください」

 

 こんな風に男の人を応援するのは初めてで、なんだか変な感じだ。

 でも、決して不快なんかじゃない。

 

「じゃあ、全部終わったらまた紅茶をご馳走してもらおうかな。そうすればとっても頑張れそうだ」

 

 妙なところで子どもらしさの覗く彼の言動が、逆に親しみやすかった。

 

「ふふ、いいですね。なら、最高級の一杯をご馳走して差し上げますわ」

「おや、それは楽しみだ。ますます死ねなくなったね」

 

 不安など一切感じさせないその笑顔を見ていると、なんとなく、予感させられる。きっと心配なんて必要ない。この人は私が予想もしないような方法で、この死地を切り抜けるに違いないと。

 

「妹様に、変なことしないでくださいね? 犯罪ですから」

「……いや、しないからね? 私をなんだと思ってるんだい」

「そうですね。お人好しで能天気な狐さん、でしょうか」

 

 もしかしたらこれが最期の会話になるかもしれないのに、軽口を言うような余裕まであった。

 軽口を言ってしまうくらいに、いつしか、心を許してしまっていた。

 

「手厳しいなあ」

「だったら、無事に帰ってきてくださいね。そうすれば、少しくらいは見直してあげます」

 

 参った参ったと両手を挙げる彼がおかしくて、クスリと笑みがこぼれていて。

 

「信じてますから」

「はいはい」

 

 ――ああ、こういうのも案外、悪くない。

 

「……いってらっしゃいませ、月見様」

「ああ。行ってくるよ、咲夜」

 

 願わくは、天にこの祈りが届きますように。

 彼が鉄扉を押し開け奥に消える、最後まで。

 

 どうか、どうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 やがて月見は、少女と出会った。

 

「あら、だあれ? 妖怪のお客さんなんて久し振り」

「ん、お前がレミリアの妹だね」

 

 レミリアよりも更に幼く、華奢で、小さくて……しかしその体に大きな狂気を宿した少女と。

 

「お姉様のお友達?」

「まあ……そうなれたらいいなと思ってるところかな」

「?」

 

 この出会いがどう転ぶのかはわからない。

 色々話ができるかもしれない。話なんてできないかもしれない。

 傷つけられるかもしれない。傷つけてしまうかもしれない。

 殺されてしまうかもしれない。案外なにもされないかもしれない。

 彼女のためになにかしてやれるかもしれないし、なにもしてやれないかもしれない。

 

「――初めまして」

 

 そのすべてを覚悟し、月見は名乗った。

 

「私は月見。……しがない一匹の狐だよ」

「まあ……!」

 

 目を爛々と輝かせてほころんだ彼女が、ずっとこんな風に笑えるような未来になればいいと――そう、思いを馳せながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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