ちょっとだけ。そう思ったのが運の尽きだった。
ほんの何十分か前まで、月見はたまにはいいかと思って、初秋が訪れた庭園を眺めながら月見酒をしていたのだ。何者にも邪魔されず、ひとりで静かにのんびりと、鈴虫の優しい歌声を聞きながら、青白い満月の下で楽しむ酒はまことに風流であった。
過去形である。
「ほらぁー月見ー、手が止まってるぞぉー。もっと呑めぇー」
「……うん」
月見の膝の上を陣取った萃香が、足をばたばたさせながら伊吹瓢を振り回した。心地よかった鈴虫たちの歌声が、少女たちのわいのわいのと賑やかな喧噪に押しやられて今はほとんど聞こえない。賑やかといえば響きはいいが、要は風流とは縁遠い宴会である。唯一変わらない満月だけが、月見に柔らかい月光を落として同情している。
萃香に藤千代、紫に藍に橙、幽々子と妖夢、操と椛。
ひとりきりの月見酒のはずが、いつの間にかすっかり大所帯なのであった。
「まったく……なんでお前らは、人が酒を呑んでるときに限ってこぞって集まるんだ」
「不思議ですよね~」
幽々子は酒に酔うと、普段にも増して雰囲気がふわふわぽやぽやになる。わたあめみたいな笑顔で月見の右腕に体重を預けた途端、その奥で紫が「なにひっついてるのよぉっ!?」とわめき声をあげた。更にその奥では藍が、嫉妬で狂う主人をまあまあと宥めている。幽々子がまったく怯んだ様子もなく、「じゃんけんで負ける方が悪いんですーっ!」と言い返す。
「お酒は、みんなで呑む方が楽しいですよー?」
左腕には、藤千代がひっついている。
「とっても賑やかで、いいじゃないですかー」
「まあ、そうだけど」
床に投げ出された月見と藍と椛の尻尾を、橙と操が一緒になって触って回り、「どれも素晴らしいもふもふです……!」「もふもふ天国じゃね……!」と戦慄している。月見と藍は慣れているが、椛は少々恥ずかしそうである。どさくさに紛れて妖夢が、月見の尻尾をさりげなくもふもふしている。
そんな感じの大所帯だった。萃香が、月見の胸板にこてんと頭を押しつけた。
「そうだぞー。お酒呑むなら声掛けてくれればいいのにー。黙ってひとりで楽しもうとするのが悪い」
「たまには、ひとりでのんびりってのもいいかと思ったんだよ」
「ダメですー。幻想郷の住人たるもの、みんなと一緒に仲良くお酒を呑む義務があるんですー」
大の酒好きであり宴会好きである萃香は、仲間から酒に誘ってもらえないのがなにより大嫌いだった。ひょっとすると彼女は、体の一部を霧状にして飛ばすことで、自分に黙って一杯やっている仲間がいないか幻想郷中を監視しているのではないか。月見はふっとそんなことを考える。
「月が綺麗ですねー……」
屋敷を囲む池を眺めて、幽々子がうっとりとため息をついた。水月苑の名の通り、池の形に切り取られた夜空の中では
「なんだか、あのときのことを思い出しますわ~」
月見越しに藤千代が反応した。
「それってあれですかー? 紫さんの力で、月の都に遊びに行った」
「遊びて。まあ、お前さんにしたらその程度のもんだったんじゃろうけどー」
操が月見の尻尾を撫でくり回しながら、
「……まあ確かに、あのときはこんな感じの月だったのー」
「……藍様、なんの話ですか?」
橙が藍の裾を引っ張る。藍は苦笑する。
「あれは……なんていうのかな。いろいろと理由があって、紫様が妖怪を引き連れて月に戦を仕掛けたんだけど……」
「どっかのだぁーれかさんのせいで、大変なことになっちゃったのよねー……」
紫がじとーっと半目で藤千代を見る。藤千代はにこにこ笑っている。
橙以外はみんな心当たりがあったようで、話題はどんどん広がっていった。妖夢が幽々子に、
「幽々子様、もしかしてあれのことですか? おじいちゃんが狂ったっていう……」
「そうそう。ふふふ、あのときの妖忌は傑作だったわね~」
操が椛に、
「椛はあのときのこと、小父貴から聞かされてたっけ?」
「ええ、大雑把には……天魔様を全身全霊で折檻したと」
「よりにもよってそこ!?」
「あの駄天魔は駄天魔は駄天魔はって、百回くらい言ってました」
「むぎいいいぃぃ!!」
わいわいとまた賑やかになった少女たちの声を聞きながら、月見は記憶を遡っていく。幽々子と一緒の月面観光。文明のかけらもない荒涼とした白の大地。月見の話に耳を傾けてくれた心優しい少女。藤千代と互角の戦いを演じてみせた、月見が知る限りで最も強い人間。
「懐かしいね」
「ええ、とっても~」
この世でただひとつ、月見がどんなにしつこく拝み倒そうとしても、紫が断固として首を縦に振ることのない願いがある。
『月に行きたい』。
かつて月見は、月の兵器で一度殺されかけたことがあるから。それは紫にとって、悪夢すら赤子に思えるほど恐ろしい記憶だから。当時のお忍び月面観光はどこかの誰かさんのせいであっさりとバレてしまい、それはもうこっ酷く怒られたし、泣かれもした。『月に行きたい』なんて、月見はもう、たとえ冗談であっても口にはできなくなってしまった。
あれが、月の世界をこの目で見た最初で最後だった。
「……」
月見は夜空を見上げる。何年も何千年も、月は久遠の時を変わらぬ姿で刻み続けている。
では、そこに住む人々は。
月に広がる世界は今でも、あの頃から変わっていないのだろうか。
○
今でこそ日本という国は人間の天下であり、妖怪は表からほとんど姿を消してしまったけれど。
過去に一度だけ、この構図が逆転しかけたことがある。つまりは人間の数が減りに減り、妖怪の数すら下回ろうとしたことがある。
理由は、いろいろあった。冷夏や暖冬などの異常気象、暴風雨や地震の自然災害、火災、飢饉、疫病、戦、略奪――およそ考えうる限りのあらゆる災難が降りかかり、正視に耐えないほど多くの人間が命を落とした時代だった。その中で、異常気象や疫病の原因と考えられていた魔の存在――妖怪への恐怖はかつてないものとなり、それが現実の妖怪を最果てなく勢いづけた時代でもあった。
当時、人間たちは疲弊しきっていたのだ。
そして妖怪たちは、まるで裏を返したように、どうしようもないほどの力を持て余していた。人が人ならざるモノを『迷信』と否定することでその力が失われるのなら、逆もまた然り、人が人ならざるモノを過剰に恐怖することで妖怪は凶暴化する。暇潰し感覚で人間を襲う者が各地で急増し、時には決して少なくない命が闇雲に奪われることもあった。今こそ人間に代わって我々が天下を取るべきではないか、などと過激な思想を唱え出す連中もいた。
当然、八雲紫は黙っていられない。
妖怪と人間がともに暮らす楽園を築くため、それはなんとしても乗り越えねばならない試練だった。あのときばかりは月見も手を貸した。紫とともに東奔西走し、暴れる妖怪たちを抑え込み、過激派の連中と対話を重ね、どうにかこうにか早まった行動だけはさせないギリギリの均衡を維持させていた。
その間に人間たちが元の生活を取り戻してくれれば――妖怪への恐怖が薄まりさえすれば、話はまだ単純に片が付いていたはずだった。だが現実はそうならなかった。
異常気象や疫病が治まることを知らず、総人口の実に三分の一もの人間が命を落とすという事態となって、妖怪たちは遂に暴走の寸前を迎えることとなる。
世の中の妖怪たちは、もう、暴れたくて暴れたくて自分を抑えきれなくなっていた。
だから紫は、実際に暴れさせてやることにした。
「――ねえ、みんな。そんなに暴れたいんだったら、私に力を貸してくれない?」
各地の有力な大妖怪を一堂に集めて、八雲紫はかく語った。
「思う存分暴れられる最高の戦場を、あなたたちに与えてあげる」
月見は、訳あってその場にはいなかった。故に、あとになって藤千代や操から聞かされた話だけれど。
「――私と一緒に、月の世界を侵略してみませんこと?」
そのときの紫は珍しくカリスマ全開で、事実、次の日は大雨が降ったらしい。
早い話、月見はハブられたのだ。
かつて月人の攻撃で死にかけた月見を、月の世界へ連れて行くなど言語道断。すべてを知れば必ずついてきたがるはずだから、そもそもなにも教えなければいい。
紫はそう考えたらしい。
誤算だったのは、彼女の友人に、こういうことでは口の軽いぽやぽや少女がいたことだろう。
「ねえ、月見さーん。今度紫が月の世界に行くみたいなんですけど、知ってました~?」
「詳しく聞かせてくれ、幽々子」
「は~い♪」
だいたいぜんぶ、幽々子が悪い。
○
西行寺幽々子という少女について、実のところ月見はあまり詳しくを知らない。より正確にいえば、月見はまだ人間だった頃の彼女を知らない。紫から紹介されたときにはすでに、幽々子は
以前から紫は、人間の友という存在にある種の憧憬ともいえる感情を抱いていた。月見にとって神古秀友がいたように、種族の違いや寿命の差を跳ね返し、別れたあとも強く心に焼きつく絆というものに焦がれていた。そんな中で出会ったのが、西行寺幽々子という少女だったそうだ。
幽々子の父はある有名な歌人で、桜をこよなく愛していた。その想いは、最期は立派な桜の木の下で往生したいと願うほどで、事実彼はその言葉通りに生涯を終えた。すると彼を慕う者たちまでもが同じ場所で後を追いたいと願い始め、その桜の下では、両手の指では到底足りないほどの命が消えていくこととなった。
それは見ようによっては、桜が人間を取り殺しているようにも見えただろう。無論、真実は違う。しかし真実がどうであれ、『噂』という道無き道を歩かされることとなった桜は、いつしか見る者を死へと誘う妖怪桜――西行妖の名で、人々から恐れられるようになった。
父の愛していた桜が、父の形見ともいえる大切な桜が、人々から謂れない噂で化物呼ばわりされている――その耐え難き現実がどう影響したのか、幽々子の『死霊を操る程度の能力』が、ある日を境に『死を操る程度の能力』へと変質してしまった。そして自らまでもが人を死に誘うだけの化物なのだと悟った幽々子は、すべてに絶望し、誰にもなにも言い遺すことなく西行妖の下で命を絶った。
否。
西行妖によって、
そういう
この世ならざる力を持つ少女の精気を吸収すれば、更に強大な力を得ることができるから。
西行妖の誘惑に抗うだけの気力など、この世に深く絶望した少女には残されていなかった。
――幽々子の精気を取り込んだ西行妖の力は、もはや紫ですら迂闊に手出しできないほどだったという。このままではいずれ、数えきれないほどの人間の命が失われることとなってしまう。彼岸まで巻き込んだ議論の末、幽々子の死体を核に使い、西行妖に封印を施す運びとなった。
魂に刻まれた『死を操る程度の能力』を持つ限り、幾度転生を繰り返そうと、幽々子が救われる日は永遠に来ない。
ならばいっそ魂のまま、輪廻の輪を外れ、すべてを忘れて、そうして死後の世界で暮らしていくのが救いなのではないか――。
生前の記憶をすべて失い、紫のことも忘れてしまったけれど。
けれど、どういう形であれ、大切な友達が今でも傍にいてくれる。
それだけが、悪夢から覚めたあとにただひとつ残された救いだったのだと。
そう、聞いている。
○
「――というわけで、次の満月の晩、戌の刻頃に決行みたいですわよ~」
しかし目の前の少女のほわほわと呑気な笑顔を見ていると、そんな凄惨な過去の話も月見はすっかり忘れてしまう。亡霊として甦った幽々子は記憶を失ったのみならず、生前のしがらみから解き放たれたせいなのか、この世に悩みなどないとばかりに明るく呑気な性格をしていた。生前はとても物静かで、陰りのある笑みが目立つ少女だったらしいけれど。
昔の名残は見目麗しい外見のみで、それ以外はほぼ別人だと紫は言っている。それが幸なのか不幸なのかは、月見にはわからない。
さておき話を終えた幽々子に短い相槌を返して、月見は考えた。
幽々子の屋敷にお邪魔をするのも、これでもう何度目かになる。今回寄ったのはただの寄り道なのだが、その結果としてとても興味深い話を聞けたのだから、たまには道草も食ってみるものらしい。
その、『とても興味深い話』について要約しよう。
――日本各地で力を持て余す妖怪たちを兵力にして、紫が月の世界へ戦を仕掛けようとしている。暴れたい者に思う存分暴れられる戦場を与え、あわよくば、月の優れた技術を手に入れることで、自分たちの生活を豊かにしようとしている。
まとめれば、たったこれだけの話である。
だからもちろん、裏がある。月見は腕を組み、胸を撫で下ろすような一息をついた。
「なるほど。月人との模擬戦……ね」
「意外ですわよね~」
まさか久方振りの戦に息巻く妖怪たちは夢にも思わないだろう。此度の一件が、紫と月人の間で結ばれた密約のうちであることなど。
人間が魔の存在を過剰に恐怖することで、今の妖怪たちはかつてないほど血気高ぶってしまっている。言葉で抑え込むのはもはや限界が近く、ここから先はもう実際に暴れさせてやる他ない。かといってそれで人間を襲うのは論外だし、妖怪同士で争わせるのも躊躇われる。
皆の溜まりに溜まった鬱憤を晴らしてやるには、どうすればいいのか。どうするのが最善なのか。紫は真剣に考え、一生懸命に考え、そして思い出した。
かつて大妖怪の月見にいとも容易く瀕死の傷を負わせた、月人という名の存在を。
「私はよく知らないんですけど、月の世界にいる人間たちは、私たちのことを汚らわしい存在と思ってるんですってね」
「ああ」
当時のことは、月見もよく覚えている。傷を負わされてからの記憶はどうも曖昧だが、その前に月人と交わした言葉の数々は、殊のほか鮮烈な記憶となって脳裏に焼きついている。
虫を見下すような。
そんな言葉だった。
紫とてそれは理解していた。月人はまさに月とスッポンといえるほど地上を超越した技術を有しており、空を飛ぶ舟を開発し、都を丸々覆う幻術を展開し、大妖怪の月見を一発で瀕死に追い込む武器を使う。戦を仕掛ければ、ほぼ間違いなく負ける。多くの同胞の命だって失われることになるだろう。
しかし、それでも。
今も災害や疫病に苦しみ命を落とし続ける人間たちと、体がちょっと丈夫なのをいいことに、今こそ人間を支配すべきだのなんだのと驕り高ぶる妖怪たち。人間を更なる危機から救い、調子づく妖怪に灸を据えることを考えれば――。
苦肉の策だったはずだ。紫だって、決してこんな選択をしたくはなかった。この試練の時代を、どうか血を流すことなく乗り越えようと必死に尽力していた。
だがとうとう、背に腹は代えられないところまで来てしまった。遂に力を抑えられなくなった妖怪が、ひょっとすると明日にでも徒党を組んで人間を襲い始めるかもしれない。ただでさえ災害や疫病で苦しんでいるのに、妖怪どもまで一斉に襲いかかってきたら、人間たちはもう立ち直れなくなってしまうかもしれない。
今まさに氾濫しかねない大河を、目の前にしているような。
だから、手遅れになってしまうよりかはずっといい。そう思い宣戦布告に赴いた月の世界で――しかし紫の悲壮の覚悟は、いっそ呆気ないほどの肩透かしを食らうこととなったのだけれど。
月人のお偉いさんに、言われたそうである。
『――断る。誰が好き好んで、貴様ら地上の妖怪と戦いなどするものか』
――私たちを汚らわしい存在と思っているはずなのに、なぜ。
『だからこそだよ。確かに我らの力があれば、貴様らに戦を仕掛けられたところで勝利するのは容易い。だがその結果として、月の土地を穢してしまう。貴様は自分の家に虫が入ってきたら、その場で踏み潰すのか?』
――虫扱いされるのは癪ですが、確かに。
『加えて、我らにとって「穢れ」とは単なるよごれの類ではない。我らに死という名の限界をもたらす、病のようなものなのだよ』
――病?
『本来、生命とは生まれながらにして不死であり、寿命とは穢れによってもたらされる不治の病だ。貴様らが生まれた瞬間に死への道のりを歩み始めるのは、すべてが穢れのせいなのだ。だから我々は地上を捨て、一切の穢れなきこの月の世界へ移り住んだ』
――まあ、それらしくは聞こえます。
『事実だ。貴様には理解できんだろうがな。……故に我々は穢れを忌避し、穢れを生み出す殺生を忌避する。戦を仕掛けられたところで貴様らを虐殺するのは容易だが、貴様らの血で月の土地を穢すのは避けねばならん。……地上を戦場にしてよいのであれば、いくらでも殺してやるが? 地上がどれほど穢れようと知ったことではないしな』
――……いえ。それでは私がここまで来た意味がありません。
『だろうな。よって、貴様の申し出を受けるつもりはない。戦の相手をしてほしい? 驕り高ぶる妖怪どもに灸を据えてほしい? 寝言は寝てから言ってくれたまえ』
――……。
『……だからこそ』
――え?
『それでもなおこの世界へ攻め入ろうとする愚か者がいるならば、我々は土地を穢さぬために、極力命を奪うことなく撃退しなければならない』
――……それって。
『このところ玉兎たちも実戦経験を積めていないと聞くし、いい折となるだろう』
――……。
『そんな愚か者どもがいればの話だがな』
――…………。
かくして。
こちらは妖怪たちを思いっきり暴れさせてやることができるし、向こうは貴重な実戦経験を積める。双方にとって利益があったからこそ、
当然、紫が語る『月の技術を手に入れて生活を豊かに』云々など、同胞を焚きつけるための真っ赤な嘘である。
「……汚らわしいからこそ、自分たちの土地で殺すような真似はしない、か」
月見の記憶の中にいる月人が、なぜ言葉も通じぬほどの敵愾心で満ちていたのか、今ようやく理解できた気がした。
いくら穢れようと知ったことではない地上だったから。とうに穢れで満ちた地上は、月人にとって唯一殺生が禁じられない世界だから。逆を言えば、然るべき場所で相対されすれば、決して話が通じない相手ではなかったということだ。
少し、安心した、と思う。言い出しっぺの紫はもちろん、戦ができると聞けば萃香や勇儀といった腕自慢も食いつくだろう。彼女たちが月の兵器で命を奪われるようなことはないと――幽々子の話を聞く限りでは、どうやら信じてもよさそうだった。
ふとしたように、幽々子が言った。
「それで、月見さん。もしよろしければなんですけど、私と月面旅行でもいたしません?」
「は?」
「だって月見さん、行きたいと思ってるでしょう?」
それはまあ、月の世界を知る千載一遇の好機だし、殺される心配がないのであればこっそり参加してしまおうとも思っているが、
「模擬戦とはいえ戦だぞ? 旅行ってほど愉快なものにはならないと思うけど」
「それはまあ、そうなんですけど」
幽々子はそこで言葉を切った。ぼんやりとした目で庭を眺めて、気をつけなければわからないほどのかすかなため息をついた。
「……冥界の管理者の件が、そろそろ正式に決まりそうなんです」
「……そうか」
前々から話には聞いていた。西行妖の封印には彼岸も一枚噛んでいたらしいから、彼岸としては、危ないものは手の届くところに置いておきたい意味合いもあるのだろうと月見は思っている。
「正式に決まれば、私は妖忌と西行妖を連れて、冥界へ移り住むこととなります。……そうなってしまったら、もう、あんまり会えないと思いますから」
「……」
「だからその前に、思い出……というほどでもありませんけど。月見さんと一緒に、どこかへお出掛けしてみたいんです」
それはむしろ、屋敷の外へ向けた憧憬であったのかもしれない。生前の記憶を一切失った幽々子は、この屋敷以外の世界をほとんど知らない。その危険すぎる能力故、外に出ることをほとんど禁じられている。冥界へと送られてしまえば、現世との関わりはほぼ断たれると考えていい。紫のスキマを頼りでもしないと、月見の方から会いに行くのは不可能になるだろう。
だからその前に、少しでも。
そう、庭を眺める幽々子の寂しげな横顔は、語っているような気がした。
「……じゃあ最初の質問だけど、仮に私たちが月面旅行したところで、周りは立派な戦場だよ。雰囲気なんてあったもんじゃないし、危ない目にも遭うかもしれない。それでも行きたいかい」
「はい」
答えるときにはもう、幽々子はいつも通りの笑顔だった。
「月見さんと一緒なら、どこへでも」
月見は苦笑する。幽々子は、本気なのか冗談なのかいまいちはかりかねる言い回しを好んで使う。妖忌という青年も、よくそれでからかわれている。
あまり深く考えず聞き流すのが、この亡霊少女と上手く付き合うコツだった。
「それに、もし危なくなっても、月見さんが守ってくださるでしょう?」
「ッハハハ、随分と信頼してくれてるんだね」
「それはもう。紫が、この世で一番信頼しているお友達ですもの」
「それはお前の方じゃないか?」
「そんなことないですわよ~。もー紫ったら、私のところに来るといっつもいっつも、あなたがああ言ったこう言ったって、そればっかりなんですもの」
「変なこと吹き込まれてないだろうね」
「さあ、どうでしょう?」
ははは、ふふふ、と二人揃って笑った。
「……それじゃあ、行ってみようか?」
「ええ、是非」
月見は一度、月人の攻撃で重傷を負い死にかけた(らしい)身である。月見はよく覚えていないが、そのとき一生懸命治療してくれた紫はトラウマになっているようで、だからこそ月見に此度の戦を黙っているのだと思う。もしこっそり参加していたことがバレれば、幽々子ともどもこってり油を搾られることになるだろう。
しかし、それでもこんな機会、もう二度とあるかもわからない。月の世界をこの目で見て、この体で知ることができる、人生で最後の好機かもしれない。
であれば月見は、紫に誠心誠意謝る方を選びたい。
ところで、
「妖忌はどうするんだ? 今回の件に参加するなんて言ったら、絶対暴走するだろうあいつ」
この屋敷では、住み込みの庭師兼幽々子の剣術指南役、兼お目付け役兼護衛兼世話係という大層な肩書きを背負って、魂魄妖忌という青年が働いている。主人である幽々子に、藍が赤子に見えるほど堅苦しく生真面目で絶対的な忠誠を誓っていて、屋敷に男が寄りつくことすら認めておらず、寄らば刀を抜くという徹底ぶりであった。月見も斬りかかられた。その後、「私の大切なお友達に斬りかかる妖忌なんて大嫌いッ!!」と幽々子に怒鳴られ、二週間ほど寝込んだそうである。
幽々子は笑みを動かしもしない。
「適当に誤魔化すので心配要りませんわ~」
そういえば、今日は屋敷が随分と静かである。
「姿が見えないけど、あいつはどこに? 買い出しか?」
「ええ、ちょっととおーくまで行かせました」
幽々子はあくまで笑顔のまま、
「だって、月見さんとお話するのに邪魔なんですもの」
「……」
頑張れ、青年。
「……そういえば月に行ったとして、その場合は私がお前を連れ出したってことになるのかな」
「大丈夫ですわ~。妖忌の警護が目障りで逃げ出したってことにしますから」
……頑張れ、青年。
○
かくして、満月であった。
紫が指定した集合場所である湖畔は、ひと目で数える気が失せるほど無数の妖怪であふれかえっていた。紫は日本中を回って声を掛けて歩いたそうだが、それで本当に日本中から集結してしまったらしい。
つまりはそれだけ、暇を持て余し、力を持て余す者たちが多かったということだ。これだけの数が人間に牙を剥いていたかもしれなかったのだと思うと、さすがの月見も肝が冷えた。
月見と幽々子は、集結した黒山の最も外側から、更に距離を置いた場所の木陰にひっそりと紛れ込んでいる。いや、実のところかなり目立っている。月見は珍しい銀の毛並みを持つ妖狐だし、幽々子の水色の着物だってそうそう見かけるものではない。どちらも月明かりの下ではよく映える。普通ならただ突っ立っているだけで周囲の目を引き、どこからか全体を見渡しているだろう紫にも気づかれてしまうはずだ。
普通なら。
「すごいですわね~、この御札。誰も私たちに気づかないなんて」
「こうやって静かにしてれば、だよ。あんまり大声は出さないように」
月見も幽々子も、着物の裏地に一枚の札を貼りつけている。月見がこの日のために丹精込めて作った、簡単な隠形の札である。簡単とはいえ作り込んでいるので、こうして隅の方で静かにしている限りは、紫の目だって欺けるはずだ。効果は今日一晩ほど続く。
月見は隣の幽々子に、
「それにしても、よく抜け出せてきたね。どうあいつを言いくるめてきたんだ?」
もちろん、妖忌のことを言っている。超絶的に生真面目な彼であれば、主人を戦場へ行かせるのはもちろん、そもそも夜に一人で出歩かせることすら断固反対だろう。血相を変えて幽々子を引き止めている姿が目に浮かぶようだし、百歩譲っても自分を護衛につけろと喚き散らすはず。適当に誤魔化すとは言っていたが、一体どんな魔法を使ってきたのか。
幽々子はあっけらかんと答えた。
「なんてことはないですわ。疲れたからもう寝るって言って、ぐっすり休みたいから絶対に起こさないでって釘を刺して、私の寝間着を着せた案山子をお布団に突っ込んでおしまいです」
「は?」
耳を疑った。
「……じゃあ、もしかして妖忌って」
「ええ」
幽々子はなぜか自信たっぷりに頷いて、
「なーんにも知らず、案山子の警護をしております」
「……」
月見は目を覆った。真っ暗になった視界の中で、このあと自分に襲いかかってくる未来が見えた気がした。
幽々子はころころと笑っている。
「だって、本当のことを話したら屋敷から出られなくなっちゃうじゃないですか~」
「そうだけど……そうだけどさあ……」
闇の中で、月見は修羅と化した妖忌に怒涛の斬撃を浴びせられている。おのれ妖怪め、貴様が幽々子様を誑かしたのか、今日という今日こそ成敗してくれる。すっかり頭に血がのぼって、月見はもちろん幽々子の言葉にもまるで聞く耳を持たない。仕方がないので、池に叩き込んで冷却してやる。
そこまで未来が見えたところで月見は目を開けた。ため息、
「……もうどうにでもなれ」
「楽しみですわね~」
幽々子の途方もない能天気っぷりが、今はどうしようもなく羨ましかった。
黒山は着々とその規模を増してきている。鬼や天狗をはじめとする妖怪の一大勢力はもちろん、人の形をとれぬ異形の者まで。赤の他人が圧倒的に多いが、中には見覚えのある顔もちらほらと交じっている。しかし月見たちに気づく者はいない。この札を身に着けている限り、たとえ誰とすれ違おうとも、
袖を引かれた。
「おーい」
「ん?」
童女であった。屈強な妖怪が数多く集まったこの場では、異質ともいえるほど小さななりをしている。淡く紫がかったようにも見える黒髪は背を隠すほど長く、左の前髪を一房、耳の上に回して雅な藤の髪飾りで留め、白く艷やかな肌を同じ藤の着物で覆い隠す様は、力仕事など生まれてこの方したことがない深窓の箱入り娘にも似ている。しかしその幼い見た目とは裏腹に、大樹が根を張ったような底の知れぬ存在感を放っており、月見を見上げる藤色の瞳はただただ深い。
頭からすらりと、美しく伸びた二本角。鬼である。
というか、思いっきり顔見知りである。
「こんばんはー、月見くんー」
しかもバレている。
幽々子が途端に不安げな顔で、
「月見さん……この御札、大丈夫なんですの?」
月見も自信がなくなってきた。
少女が、えへんと大きく胸を張った。
「ふふん。なにやら術を掛けているようですが、私の前では無意味なのです」
「……一応訊くけど、どうしてわかった?」
「え? 私が月見くんを見逃すわけないじゃないですか」
そんなことを真顔で答えられても困る。しかし同時に、妙に説得力がある気もする。
名を、藤千代という。月見が己より長生きしている狐を知らぬように、彼女もまた、己より古くから生きる同胞を知らぬ鬼である。しかし月見とは比べ物にならぬほど、神々が間違って創り出したのではないかと疑うほど、規格外で非常識な力を持った大妖怪でもある。ある戦では数万人分の戦力差をたった一人でひっくり返し、月見を半分遊びながらボロ雑巾にした。
ここに彼女がいるということは、
「お前も参加するのか?」
「もちろんですよー。お月様に住んでる人間たちと戦えるなんて、またとない機会ですもの」
「……そうか」
月人逃げてー。
幽々子から話を聞いた限り、紫が交渉を行った月人のお偉いさんは自信満々だったそうだ。驕り高ぶっているのでも妖怪を見下しているのでもなく、実際それに値するだけの力を連中は持っている。空を飛ぶ舟も、都を丸ごと夢に落とす幻術も、大妖怪の月見を一撃で瀕死に追いやった武器も、すべてが妖怪の持つ力を超越してしまっている。
しかも、それはもう百年以上昔の話だ。であれば今の月の技術は、当時より確実に進化を遂げているはず。たとえ殺生禁止という制約の中であっても、妖怪を一撃で戦闘不能にする程度は息をするようにやってのけるかもしれない。
――けれど藤千代って、なんというか、突然隕石が降ってきてこの星の生命体が根こそぎ死滅しても、ひとりでケロリと生き残ってそうだし。
本当に自分は、この少女に勝ったことがあるのだろうか。あれは夢だったのではなかろうか。夢だったような気がしてきた。
「操ちゃんも参加しますよー」
「へえ……いや、大丈夫なのかそれ。次期天魔候補だろう、あいつ」
「一週間ゴネり倒したみたいですよ。でも、こわ~い護衛の方がついてるので大丈夫でしょう」
幽々子が前屈みになって、
「あのー、藤千代さ~ん」
「え?」
首を傾げた藤千代はキョロキョロと周囲を見回し、十秒ほどしてからようやく月見の横をして、
「……あっ、幽々子さんじゃないですかー。いつからそこに? 全然気がつきませんでした」
「……月見さん。どうやらこの御札、大丈夫みたいですわね」
「……そうだね」
むしろなぜ月見だけ一発でバレたのか。随分と理不尽な少女である。
幽々子は気を取り直し、
「この前ご挨拶に伺ったきりでしたけど、覚えていてくださったんですね」
「そりゃあもう、紫さんのお友達ですからねー。幽々子さんも参加するんですか?」
「いえいえ。月見さんと一緒に、ちょっと月の世界を歩いてみようかなと」
藤千代は少し考え、ほどなくして納得した顔で、
「ああ。そういえば幽々子さんは、もうすぐ冥界の管理人さんになるんでしたか」
「そうなんです。だからその前に、少しでも思い出を作りたくって」
「なるほどー。……月見くんと一緒にお散歩なんてとても羨ましいですけど、そういう事情であれば私はお邪魔虫ですね。楽しんでくださいねー」
「あら……ありがとうございます」
幽々子が目を丸くして頭を下げた。月見も、やけに物分かりがいいなと意外に思う。
ちっちっち、と藤千代は指を振る。
「好きな人の後ろをついて回るだけなら犬でもできます。時には空気を読んで身を引くのも、いい女の条件なのですよ」
「なるほどね。見直したよ」
「ふふふ、これで月見くんの好感度が鰻登りですねっ。計画通りです!」
「見損なったよ」
「えーっ!!」
なんでですかー!! と藤千代がぷんすか飛び跳ねたところで、集まっていた妖怪たちが俄にどよめいた。全員が湖の中心に目を向けて、背伸びをしたり立ち位置を変えたり、必死になにかを見ようとしている。月見の位置からは少々遠すぎて、なにが起こったのかはわからないけれど、
「そろそろ時間かな?」
「かもですねー。では私、みんなのところに行きますので! よい旅を!」
「そちらも御武運を~」
小さい体を存分に活かして、藤千代は黒山の隙間を華麗巧みにかいくぐり、あっという間に月見たちの視界から消えた。それから月見が少し視線を上げると、湖を舞台とした中空で、一人の少女らしき影が着物の裾をなびかせているのが見えた。
紫のはずだ。
「――みなさん、今宵はお集まりいただきありがとうございます」
月見の場所からは遠く離れているにもかかわらず、不可解なほどよく響く言葉だった。なにかしら境界をいじっているのだろうと月見は推測する。
月見の前ではいつも元気にはっちゃけている紫だが、このときばかりは賢者の名に恥じない妖しさと艶やかさとたたえていた。まず声の質からして違う。月見が聞いたこともないくらい低く、堂々たる響きである。ただ耳を傾けているだけで体が引き締まる思いだったし、実際周囲からはそこはかとない緊張感が生まれ始めている。
雰囲気だって右に同じだ。月見が感じ慣れている幼く愛らしい気配は見る影もなく、よくいえば妖艶で、悪くいえば不気味である。これが八雲紫の、妖怪の賢者としての顔なのだろう。ここまでまざまざと見せつけられたこともそうないので、月見は腕を組みながら唸った。
「……あいつでも、やるときはちゃんとやるんだね」
「そうみたいですね~」
きっと、藍に助けてもらいながら一生懸命考えて、一生懸命練習した口上なのだろう。貫禄ある気配を振りまき語る姿は大変堂に入っており、周囲からの反応も悪くない。
「おお、なんとお美しい声音か……拙者が最後にお目にかかったときは、まだ童女ほどであったが。むう、遠すぎてお姿がよくわからぬ」
「見違えるほどお美しくなられているぞ。顔や背丈はもちろん……胸もな」
「そうか……遂に胸が来たか」
「ああ……胸だ。おっぱいだ」
名も知らぬ男二人が手をわきわきさせている。幽々子が生ゴミを見る目をしている。
さておき、紫の口上である。どうやって月の世界まで行くのかはずっと気がかりだったが、曰く、湖面に映った満月の境界をいじくって、空に浮かぶ本当の満月と入れ替えたとのこと。あとはただ湖の月めがけて飛び込むだけで、あっという間に向こうまで行けてしまうと賢者は語った。
改めて思う。
「紫の能力って、本当になんでもありなんだねえ……」
「すごいですわよね~……」
間違いなく、この世のあらゆる能力と比べても規格外だろう。
今か今かと浮き足立つ妖怪たちに囲まれ、紫は声高に叫ぶ。
「さあ――進軍します!!」
耳を割らんほどの喊声があがった。
月見は木の幹に預けていた背をあげて、
「私たちも行こうか」
「はい」
歩き出そうとしたところで、幽々子にいきなり手を握られた。
「……どうした?」
「いえいえ」
いつも通り柔らかくも、どこか強引な笑顔だった。
「離れ離れになりでもしたら大変ですもの。さあ、行きましょう?」
そしてそのまま、月見の返事も待たずに歩き出してしまった。月見は疑問符を浮かべながらも幽々子の横へ並び、つと彼女の横顔を盗み見た。
「~♪ ~♪」
これから戦場に行くとは思えない、それはそれは、どうしようもないほど楽しそうな笑顔。
○
「――幽々子様あああああ!! どこに行ってしまわれたのですかああああああああっ!?」
なお湖畔で妖怪たちが喊声をあげたとき、某所では庭師も喚声をあげていたとか。