銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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月面戦争 ② 「天上天下古今無双」

 

 

 

 

 

 こっちは寂しいものだった。地上を遥かに超越した文明を持っているというからどんなものかと思えば、藤千代を迎え入れたのは草木の影も形もない荒れ果てた大地の姿だった。

 文明どころか、生命の気配すらない。藤千代は拍子抜けして呟く。

 

「……ここが、お月様?」

「ええ」

 

 紫が小さく頷いた。紫さんが言うならそうなんだろうな、と藤千代は思った。紫は少なからずお調子者で抜けているが、決して頭が悪いわけではない――むしろ育ちが悪い藤千代とは比べ物にならないくらい聡明なので、こういうところで間違ったことは言わない。

 それから目の前の景色を改めて見てみると、なるほど、やっぱりここは月なのかもしれないと藤千代は思い直した。地上から見上げる月はいつも白く、青白く、銀色に光り輝いている。そして、藤千代がいま空から見下ろしている大地はどこまでも白い。大地が白いから、地上から見ると白く見えるのは理に適っている気がする。もし地上と同じようにたくさんの人間が文明を築いているのなら、大地の白以外にも、明かりを灯す赤や橙色が見えていいように思う。

 納得したが、それはそれで新たな疑問、

 

「じゃがそうだとすると、月の文明とやらは?」

 

 一緒にやってきた操が代弁してくれた。紫は間髪を容れずに答える。

 

「私たちが住んでる地上はとても広いでしょう。都みたいに常に人の活気で満ちている場所もあるし、山奥のように人の手が入り込んでいない場所もある。藤千代、操、あなたが知らない場所だっていくらでもある」

 

 改めて納得した。

 

「なんでも月人たちは都の周りに結界を張ってて、その外側を『表』、内側を『裏』って区別してるみたいなの。私たちが普段地上から見てるのは、『表』なんだって」

「儂らが今いる場所は?」

「『裏』の隅のそのまた隅っこ。ご覧の通り、文明の欠片も見て取れなくなっちゃうくらい月人の都からは離れてるわ。ここまで来ちゃうと、景色は『表』とほぼ変わらないみたいね。模擬戦とはいえ、自分たちの生活圏内で戦うわけにはいかないってことでしょう」

 

 見上げる空は暗い。星空が、ここに来た目的を忘れて見入ってしまうほど美しく輝いている。その中で一際大きく、けれどほとんど暗闇に沈んで見えない星がある。傍で輝く太陽の光を受けて、輪郭だけが青白く幻想的な輝きを帯びている。

 紫が同じ場所を見上げて言う。

 

「あれが私たちのいた場所」

「へえー」

 

 普段藤千代たちが地上から月を見上げているように、月からも地上が見えるわけだ。であれば、あの中のどこかに日本があって、その中に藤千代の住む山があるということになる。藤千代の知っている地上のすべてが、拳大ほどのあの小さな球の中に凝縮されているらしい。なんだかあまり想像ができない。

 また疑問。

 

「あれ? お月様から太陽が見えるということは、ここって今、お昼なんですか?」

「そうなるわね」

「お昼なのに、空は暗いんですねー」

 

 紫は考える素振りも見せない。

 

「空気が地上と違うから。要は光の波長と拡散の話だけど、説明要る?」

「あー、難しくなりそうなので要らないでーす」

「右に同じー」

 

 操が藤千代と一緒に両手で耳を塞いだ。次期天魔候補という肩書きのため箱入り娘な彼女だが、大好きなのは体を動かすことで、勉学は机仕事と同じくらいに大嫌いなのだ。

 藤千代と操が浅学なのではない。むしろ、妖怪の学としては自分たちあたりが平均だと思う。つまりは光のハチョウだのカクサンだのと、至極当然のように話す紫がおかしいのであって、

 

「……紫さんって、ほんと知識だけはすごいですよね。普段はあんななのに」

「知識の深さと頭のよさが比例しないいい例じゃよねー」

「し、失敬なあっ。私だって頭いいわよ! 計算とか得意だもんっ!」

「いや、儂が言ってるのは、こう……勉学的な頭のよさじゃなくて……生き物としての頭のよさというか」

「つまり生き物としてバカってこと!? っていうか、それ操に言われたくないんですけどっ!」

「なんじゃとおっ!? こっちこそお前さんに言われとーないわっ」

 

 どっちも似たようなものだと思うけどなあと藤千代は思う。

 まるで影のように黙って控えていた従者二人――八雲藍と『犬走』――が、まったく同時に口を開いた。

 

「安心してください、紫様はバカです」「安心してください、お嬢はバカです」

「「キーッ!!」」

 

 仲が良いおバカ二人はさておいて、藤千代は前を見る。紫が開いた境界の扉を越えて、大地には続々と妖怪たちが集結しつつある。彼らが見据える先には、一様にして白い大地だけが広がっており、

 

「……月人さん、来ませんねー。まさか、どこかに隠れて待ち伏せしてるとか?」

 

 隠れるような物陰もないが。ともかくまだそれらしい姿のひとつも見えないので、開戦まではまだまだ時間が掛かりそうだった。

 紫が頬に手をやって思案げに、

 

「それはないと思うけど……だってすごく自信満々だったもの。いかにも、真正面からねじ伏せてやるーって感じで」

「ふふふ。本当にそうだとしたら、とっても楽しみですねー」

 

 自分の中で、煙のような高揚感がくゆるのを感じた。紫から聞かされた月人の言葉を思い出す。――月の土地を穢さぬため、命を奪うことなく撃退する。まったく随分な言い草ではないか。つまり、「殺そうと思えば簡単にできる」と暗に言い切ってしまっているのだから。

 あながち嘘ではないのだろう。月見を、妖怪の中でも一頭地抜けた力を持つ月見を、たった一撃で戦闘不能にまで追いやってみせたと聞く。地上とかけ離れた技術を持つ月人は、地上の人間とかけ離れた戦闘力まで持ってもいるのだ。

 もし叶うのであれば、互いに全力で戦ってみたかった。なにも我慢せず、なにも遠慮せず、この世のすべてを塵芥に変えるまで暴れ続ける、身を焦がすような、心を焼くような、耐え難い耐え難い戦の快楽。

 かつて月見と戦った、あの至福のひとときのような。

 紫に釘を刺された。

 

「一応言っておきますけどね。あなたまで暴れるとすんなり勝っちゃうかもしれないんだから、そのあたりはしっかり自重してよね。そういう約束で連れてきてあげたんだから」

「むう……案外大丈夫なんじゃないですかー? 月人さんの技術は、月見くんも一撃でやられちゃうくらい桁外れなんでしょう?」

「それはそうだけど……」

 

 苦い記憶を思い出した紫は一瞬顔をしかめて、すぐにふっと笑った。自分にはどうしようもできないモノを見たときの、焦点距離が遠い笑みだった。

 

「でも、あなたが負けるところなんて想像できないわ……」

「右に同じー」

 

 操も似たような目をしていた。ついでに藍と犬走も以下略。

 そんなことないのに、と藤千代は思う。自分は、自分が負けている姿を想像できる。だって、本当に負けたことがあるのだから。本当に勝てなかった相手がいるのだから。前々から何度も何度も言っているのに、紫も操もいまひとつ信じてくれない。

 とはいっても、それはそれ。藤千代は月見に負けている姿が想像できるからこそ、月見以外の誰かに負けている姿は想像できなかった。

 否、想像したくもなかった。月見以外の誰かに負けてしまったら、月見が自分の特別ではなくなってしまうから。

 藤千代を負かしたのは、後にも先にもこの世でただひとり、月見だけ。

 月見、だけ。

 それがいいのだ。

 だから自分は、いつか遠い未来に命を終えるそのときまで、もう誰にも負けはしない。

 操が上に伸びをした。

 

「……しっかし未だに人影ひとつ見えないんでは、向こうの準備が整うのは一体いつに」

 

 そのとき藤千代には、操の声が突然途切れたように聞こえた。実際は違うのだろうが、騒然ともいえる慌ただしいざわめきに、隣人の言葉は完全にかき消されてしまった。

 前を見る。

 

「……ねえ、紫さん」

「……なにかしら」

 

 妖怪たちをどよめかすその原因を見て、藤千代は目をこすりながら、

 

「……月人さん、いつの間にやってきたんですか?」

 

 ただただ白いばかりの荒廃した大地であったはずだ。身を隠せるような障害物はひとつもなく、多少の凹凸があるだけの真っ平らな地平線が広がるばかりだった。月人と思われる人影はもちろん、生命の気配すらどこを見渡しても見つけられなかったのだ。

 寸分の乱れもなく整列し、妖怪たちと厳かに対峙する武装集団など、絶対にいなかったはずなのだ。

 紫がはじめて答えに悩んだ。

 

「……恐らくだけど」

 

 淡く光が煌めいたかと思うと、武装集団の数が倍に増えた。

 

「私がお昼寝してたわけじゃないなら……一瞬で出てきたように見えたわね」

 

 紫が言い終わる頃にはもう四倍になっている。藤千代は思わず唸る、

 

「はあー……あれが月の技術とやらですか」

 

 それは異様な光景だった。一人二人ならまだ納得のしようもあっただろうが、数百にもなろうという集団が目の前で次々増殖を繰り広げる様は、地上の常識からすればただただ理解不能だ。操も目をひん剥いており、

 

「敵さんの能力か? スキマみたいな……」

「でも、紫さんのとはどう見ても違いますよねー。本当に一瞬で出てきてますし」

 

 藤千代たちは、紫が湖に開いてくれた境界の扉を通って、自分の足を動かしながらここへやって来た。だが向こうは違う。全員が寸分の狂いもなく整列した姿のまま、指一本動かすことなく、一瞬のうちに出現している。まるではじめからそこにいて、藤千代たちに見えていなかっただけのように。

 瞬間移動。

 怪しいのは精々、姿を見せる直前に淡く光の粒子が散る程度だろうか。

 

「……私、紫さんの能力ってとても便利ですごいって思ってたんですけど、これはあっちの方が上ですねえ」

「ぐぬっ……わ、私の能力は移動することだけじゃないもん。たかが瞬間移動する程度で」

「じゃが、お前さんでもさすがにあれは真似できんじゃろー?」

「で、できない……けどぉっ!」

「あの力があれば、紫さんのスキマはもう用ナシですねー」

「ううっ、私の賢者としての威厳が盗られたぁ……っ!」

 

 安心してください、そんなもの元々ないですから。

 増殖は続いている。敵陣の大半を占めているのは、妖怪とどっこいどっこいの軽装に身を包み、頭から白く長い兎の耳を生やした者たちだった。月の世界には『玉兎』という、月人の部下、あるいはペットという立ち位置で暮らしている種族がいると紫がどこかで言っていた。見た目から判断すれば、あれがそうなんだろうなと藤千代は思う。つまりは雑兵ということだ。

 しかしたかが雑兵とはいえ、まったく同じ武装に身を包んだ彼女らが碁盤の目へ沿うようにどこまで整列する様は、まさしく圧巻の一言に尽きた。無駄口を叩く輩もまるでいないように見える。戦に対する高い覚悟と使命、そして並外れた練度で統率された軍団であり、とても実戦経験が不足しているとは思えない。なにも考えずあっちこっちに散らばって、わいわいと好き勝手に騒いでいる妖怪とは雲泥の差だ。

 そんな無数の玉兎に混じって、獣耳を生やしていない人間と思しき人影も、少数ではあるが確認できる。あれが月人で、役目としては玉兎の指揮といったところだろうか。どうあれその月の軍団の姿は、藤千代にかつての大和国の(つわもの)たちを思い起こさせた。数がこちらより明らかに少ないので、少人数で効率的に敵を撃破する作戦を持っているのかもしれない。寡兵だからと高を括って、考えなしに進軍したら痛い目を見るかもしれない。

 まあだからこそ、真正面から突っ込むのだけれど。

 いつしか、増殖は収まっていた。

 

「そろそろですね」

「そうね」

「うむー」

 

 月の軍団の油断も隙もない佇まいに気圧されて、無駄口を叩く妖怪は次第に減ってきている。ピリピリとした、産毛の震えるような緊張感が生まれ始めている。藤千代の好きな空気だった。もちろんできる限り自重はするが、あまり長持ちはしないかもしれないなと藤千代は思う。

 犬走がまさしく影の如く動いて、操の隣へ立った。

 

「お嬢、言っておきますが前線には出しませんからね」

「えーっ!?」

 

 操の声はもはや悲鳴に近かった。

 

「なしてじゃ!? 小父貴、いいって言ったじゃないかーっ!」

「言いましたね、月に行くだけならいいと。戦に参加していいとは一言も言っていません」

「……ほ、ほら、次期天魔候補ともなれば、敵を華麗に撃破する華麗な実力も必要じゃろ!? そのためには実戦経験が必要不可欠で」

「ああ、普段の私の稽古では物足りなかったのですね。では次からもっと厳しく行きます」

「そういう意味じゃなくってぇ!?」

「安心してください、天魔の仕事は戦の前線に立つことではありません。ただ黙々と机仕事をしていればいいのです」

「にゃぎゃーっ!!」

「では後方に下がりますよお嬢。巻き込まれては大変ですからね」

「ちくしょー!!」

 

 襟首を掴まれた操がずるずる引きずられていく。それを手を振りながら見送って、藤千代は紫に問う。

 

「紫さんはどうするんですか?」

「私も下がってるわ。私が戦っちゃ元も子もないし……藍もそれでいい? それとも、ちょっと暴れてくる?」

 

 藍は苦笑、

 

「紫様、私は別に戦好きではないですよ」

「そう? でも、私とはじめて会ったときなんか結構」

「さあ紫様急いで下がりますよっ! 巻き込まれては大変ですからね!!」

「えっちょっと待って、あーっカッコよく号令するって決めてたのにー!?」

 

 紫が脂汗を流す藍に引きずられていく。それを手を振りながら見送って、藤千代はいよいよ前を見据えた。

 見渡す限り幾万の大敵、無数の妖怪、無量無辺の白い大地。息を吸う。地上とは少し違う味の空気に、喉が透き通り、引き締まる。

 言った。

 

「――それでは皆さん、準備はいいですかあー!?」

 

 音に聞こえた鬼子母神の号令に、大地を割らんばかりの野太い大合唱が返ってきた。

 

「今日は難しいことは綺麗さっぱり忘れて、思いっきり暴れちゃいましょーっ!!」

 

 応の咆吼で大気が震える。気圧された敵の隊列が少し乱れる。なんだか宴を始めるみたいだ。そう思ってすぐに、実際そうなのかもしれないなと、藤千代は小さく笑った。

 これは有り余った力を発散するための戦であり、積もり積もった鬱憤を爆発させる宴。

 だから、

 

「皆さんにとって、これが佳き戦となりますように――」

 

 どうか、みんなが心の底から楽しめる宴となりますように。

 想いを込めた腕を勇ましく振って、藤千代も吼えた。

 

「――ではでは、とっつげきーっ!!」

 

 もはや、月そのものが揺れているかのようだった。すべての妖怪が、それだけで敵を打ち砕かんほどの喊声をあげ、策などまったく用意せず、愚直なまで一直線に進軍する。

 藤千代も突撃した。

 どうにもやっぱり、我慢できそうになかったのだ。

 

「――儂もたまには暴れたいよおおおおおっ!!」

「――藤千代に出番取られたああああああっ!!」

 

 次期天魔候補と賢者の情けない叫びなんて、もう聞こえない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 その光景を、月見と幽々子はやはり離れたところから見ていた。

 

「始まったね」

「始まりましたね~」

 

 進軍の音は地響きに似ていた。白い大地を惜しげもなく踏み鳴らし、猪も回れ右で逃げ出しそうな猛々しい正面突破である。地を走る者、空を飛ぶ者の違いはあれど、敵の側面や後ろに回り込もうとする者は一人もいない。

 妖怪は人間と違って体が丈夫だし、力の顕示欲も強いので、いかに策を弄して最小限の手間で勝つかより、いかに己の実力で敵を叩きのめすかに重きを置く傾向がある。とりわけ鬼に代表される強大な妖怪の中には、小賢しい策を嫌悪し、そういったやり方に頼る人間を侮蔑する者もいる。妖怪にとっての戦とは、複雑怪奇な知略のぶつけ合いではなく、単純明快な力と力の一騎打ちなのだ。

 罠になど、嵌ってからどうするか考える。

 愚直ではあるだろう。せっかく人間と同等の知能を持っているのに、宝の持ち腐れであるかもしれない。けれど月見は、そんな愚かしいほどまっすぐな戦い方が決して嫌いではなかった。

 腹を割った一騎打ちの果てにやってくるのは、概して「なかなかやるな」「お前もな」なのだから。

 さて、そんな剛毅で愚直な妖怪に、月の民はどう立ち向かうのか。月の技術に物を言わせて無理やりねじ伏せるのか、それともその技術をもたらす優れた知能を活かし、神算鬼謀で幻惑するのか。

 正直なところ、なにが起こったのかを一度で理解することはできなかった。

 月人の側で一瞬光が瞬いたかと思うと、黒い塊と化して突き進んでいた妖怪たちが木っ端微塵に吹き飛ばされた。

 

「「「おぎゃーっ!?」」」

「……おお」

「わ~」

 

 幽々子がぱちぱちと拍手をした。

 月見の知識で説明すれば、藤千代が組手と称しながら仲間たちを吹っ飛ばす光景に近かった。藤千代が拳を振ると拳圧で衝撃波が生まれ、喰らった連中が大空へ跳ね飛ばされるのだ。それとなかなかよく似ている。吹き飛ばされた妖怪たちはひとりひとりが見事な放物線を描き、あちこちに「へぐうっ」と落下していく。

 地上だけではない。また月人の側で閃光、

 

「「「おぼふっ!?」」」

 

 空から進軍していた妖怪たちが木の葉同然に吹っ飛ばされ、

 

「ちょっ待っ、なんじゃこりゃ――ぎゃーっ!?」

「あいつらなんか飛び道具使うぞぉ!? みんな気をつけおぎゃんっ!?」

「田吾作ーっ!? おのれ月の人間め、この俺様が田吾作の仇をハアンッ!?」

「権兵衛ーっ!? あっ待ってなんかこっち来ぶしゃん!?」

「「「ぬわああああああああっ!?」」」

 

 妖怪たちが次々空を流れるお星様と化して、前線はあっという間の大混乱に陥った。

 一方、離れたところから戦場を眺める月見はようやくわかってきていた。かつて月見が戦った月人は不思議な光の弾を撃ち出す武器を使っていたが、どうやらそれと似たようなものらしい。弾速は速くかつ射程は長く、まだお互いの顔も見えないほどの距離を一瞬で駆け抜けていく。いくら身体能力が優れる妖怪でも、初見でいきなり対応することはできなかった。面白いようにぽんぽん吹っ飛ばされている。幽々子が感嘆の声をあげる。

 

「すごいですね~。あれが月の世界の技術ですか」

「どうやらそうらしい」

 

 しかし、妖怪とてただ吹っ飛ばされるだけではない。時間が経つに連れて目が慣れてきたのか、ちらほらと弾幕をくぐり抜け月人へ肉薄する連中が現れ始めた。その中の誰かが声高に叫ぶ、

 

「てめえらよく見てろおっ、この俺様の勇姿をなあ!」

「「「お、親方あっ!!」」」

 

 月人に迎撃の体勢を整える間も与えず、風を置き土産にしながら一気に間合いへ飛び込んで、

 

「――あばばばばばばばば!?」

「「「親方ああああああああっ!?」」」

 

 罠だった。月人の側から正体不明の光線が放たれ、喰らった妖怪はビクビク痙攣しながら地に崩れ落ちた。続け様に一匹の玉兎が素早く飛び出し、その妖怪の頭にペタリとなにかを貼りつける。妖怪の体が最後に一度だけビクンと震えて、それっきり一切沈黙した。

 幽々子が首を傾げた。

 

「あれって……」

「……遠目でわからないけど、妖怪を封じる札かなにかかな」

「月人って、そんなものも使うんですか?」

 

 わからない。けれど、使うとしてもそうおかしな話ではないと月見は考える。かつて月見を瀕死に追いやった一撃にも、傷の再生を阻害する術が仕込まれていた。ひょっとすると月人は、呪術や魔術といった分野でも地上を遥かに超えた力を持っているのかもしれない。

 ともあれ、これで月人側の基本的な戦法が明らかとなった。まとめて突っ込んでくる連中をはじめの光弾で吹っ飛ばし、浮き足立ったところを次の光線で各個撃破。トドメに封印の御札を張りつけてしまえば、その妖怪はもうただの無力な置物だ。

 本当に、妖怪たちの命を奪わずして勝つつもりなのだろう。

 

「月見さん」

 

 幽々子に、くいくいと手を引かれた。

 

「なんだか大丈夫みたいですし、私たちも行きましょう?」

「……そうだね」

 

 体の丈夫な妖怪たちが、光弾で吹っ飛ばされるもののすぐ立ち上がり、「こんにゃろおおおっやりやがったなああああああ」とまた元気に突撃していく。そしてまた空を舞う、もしくは光線を撃たれて「あばばばばば」となる。

 なんだか本当に、放っておいても大丈夫そうだったので。

 

「じゃあ、行こうか」

「ええ」

 

 ずっと握りっぱなしになっていた幽々子の手を引いて、白い大地を歩き出す。今のところは月人と妖怪の姿しかない荒野だが、進んでいけば景色も変わるかもしれない。

 幽々子は、月見の隣を歩かなかった。月見に手を引かれる恰好のまま、トコトコと目の前の背中を追いかけ続けていた。傍目であれば、月見に無理やり連れて行かれているようにも見えるかもしれない。もっともはじめはそう思った人も、幽々子のにこにこと楽しげな表情を見れば、首を振って考えを改めるだろうけれど。

 それは、月見に手を引かれて歩くという状況そのものを楽しんでいる顔だった。

 月見と一緒ならどこへでも、と幽々子は言っていた。あのときは冗談だと思っていたが、案外本気だったのかもしれない。本気だったからこそこんな殺風景な白い大地でも、彼女は心の底から楽しそうにして、月見の後ろにくっついてきている。

 声が聞こえた。

 

「……冥界なんて、行きたくなくなっちゃうなあ」

 

 ため息と一緒にこぼれ落ちたような声だった。

 

「紫も一緒に、もっと、もっと……」

「……」

 

 ――意外と、寂しがりな少女なのかもしれない。幽々子は友人とのんびり話をしたり、からかって遊んだりするのが好きな子だと月見は思っている。だから、決して今生の別れではないとはいえ、友人と離ればなれになってしまうのは、つまらなくて寂しくて嫌なのかもしれない。

 これからしばらくの間は、なるべく幽々子の屋敷から離れない方がいいだろうか――そう考える。せめて幽々子が現世に留まっている間は、紫と一緒に足繁く屋敷を訪ねて、何気ない世間話でもなんでもいい、ゆっくりのんびりと長閑な思い出を作るべきなのかもしれない。

 友人にそっと手を引かれるだけで、たまらなく幸せそうな顔をする少女なのだから。

 月見がそんなことを考えているうちに、幽々子はすっかりいつもの調子に戻っていた。足下を見て、

 

「それにしても、本当になんにもない場所ですわねえ」

「模擬戦とはいえ戦場に使う場所だからね、生活圏からは離れてるんだろう」

「月人さんの都、行けるなら行ってみたいんですけどね~」

 

 このままずっとずっと真っ直ぐ進んでいけば、恐らく月人たちの建造物も見えてはくるのだろう。しかし、調子に乗ってあまりここから離れてしまってはいけない。繰り広げられる戦が決着すれば最後、月見たちも潔く地上へ帰らなければならないのだ。調子こいてあちこちほっつき歩いているうちに、取り残されてしまいました、もしくは月人に捕まってしまいました――などとなってしまっては、ちょっと笑えない。

 白だらけの大地を進む。

 

「なにか見えますか~?」

「なにも見えないねえ」

 

 しかし大地はどこまでも、白に白を重ねた白だらけであった。

 月見は立ち止まり、ため息をついた。

 

「……このまま歩き続けてもダメそうだね。どうしようか」

「仕方ないですわね~……。じゃあ、一緒に星空でも見上げましょうか? あ、おみやげに月の石を持って帰るのもいいですわね」

 

 月見と手をつないだまましゃがみこんで、幽々子が手頃な大きさの小石を探し始める。戦場で石探しをする呑気な少女の姿に苦笑しつつ、月見は改めて月の世界を見回す。遠方から戦の喧噪が響いてきており、その反対側では、不気味なまでの静寂との虚無の空間。

 本当に、不思議な場所だ。見上げれば満天の星空が輝いており、同時に太陽が眩しすぎるほど己の威光を主張している。月見の常識に従えば、太陽が出ているということは昼である。一方で、暗黒の空に無数の星が散らばっているということは夜でもある。この世界は昼であり、また同時に夜でもあるのだ。太陽は青空で輝くものだと思っていた月見の常識が、根底から破壊された。たとえ月人の住む都は見れずとも、この光景だけで月までやってきた収穫としては充分だと思った。

 それに、昼と夜が同居する空に浮かぶ一番大きな星。地上から見上げる月より一回りも二回りも、手を伸ばせば掴めてしまいそうなほど大きな球体。闇の中に沈み、その一部の輪郭だけが太陽の光で青白く縁取られた姿は、月見の思考を未だ見ぬ天の世界へと引き込んで已まない。

 

「うーん、あんまりいい形の石がないですわ~。月見さんも手伝ってくださいな」

 

 見下ろせば幽々子が、足下の小石を拾っては捨ててを繰り返している。

 

「どんな形がいいんだい」

「記念にお屋敷に飾りたいので、置物として申し分ないのがいいですわ。角が立ってないやつとか」

「河原の小石みたいな?」

「ええ。ほらほら、一緒に探しましょ~?」

 

 幽々子にくいくいと手を引かれたので、月見は膝を折って適当なひとつを摘んでみた。たったいま砕かれたばかりのようにゴツゴツしており、なるほど置物として飾るには少々味気ない。

 軽く見回す限り、このあたりはどこもかしこも似たような小石ばかりのようだ。この中から丸い綺麗なものを見つけ出すのは、少しばかり骨が折れるかもしれ

 

「――Freeze」

 

 それがどういう意味を持つ言葉なのか、幽々子はわからなかった。月見はわかった。

 背後。

 

「……なんて言ってもあなた方はわからないと思いますが、要は、動くなってことです」

 

 仲良く土いじりをする月見と幽々子の脳天に、背後からなにかが突きつけられている。当然自分たちからは見えないが、どうせロクなものではあるまい。

 さすがの幽々子も表情を変えていた。息がもれたような声で呟く。

 

「……いつの間に」

 

 誰もいなかったはずなのに。

 月見もそう思う。物音はもちろん、気配までなにひとつとして感じなかった。まるで月見たちの背後に突然、かつ一瞬で出現したかのように。

 いや――紛れもなくそうだったのだろう。戦が始まる少し前を思い出せ。月の兵たちは事実そうやって、この真っ白い戦場に一瞬で出現してみせたではないか。

 声、

 

「そのまま両手を上げて、ゆっくりと立ちなさい。妙な真似をすれば――撃ちます」

 

 随分とうら若い少女の声だった。その響きから想像される外見は、紫や幽々子と比べてもそう大差ない。どうやら地上の人間とは違い、月の人間は少女でも関係なく戦場に立つものらしい。

 などと、のんびり考えている場合でもないか。残念ながら、月見特製の隠形の札も、月人相手にはまったく通用しなかったらしい。これはすなわち月人に見つかったのであり、月見たちの脳天に突きつけられているのは間違いなく月の兵器であり、生殺与奪の権利をほぼ握られたといっても過言ではない状況である。

 もしも背後にいる月人が、月見の記憶に刻まれた姿と同じであるなら――。

 不安げな顔をしている幽々子に目配せをし、両手を上げて立ち上がる。一拍遅れて幽々子も続く。

 首だけで振り返る。数は、月見が思っていたよりもやや多かった。月見と幽々子の頭に奇妙な棒状の武器――それが銃という名であることを月見はまだ知らない――を突きつけている玉兎が二匹ずつで、遠巻きには更に八匹。月の技術への絶対的な自信の表れか、戦に出る戦士とは思えないほどの軽装をしている。全員が若い少女である。頭からは長い兎の耳を垂らしており、例外なく厳しい視線で月見と幽々子の背を射抜いている。

 その中心、

 

「物分かりがよいですね。助かります」

 

 声の主はやはり少女であり、玉兎ではなく月人であった。遠巻きの八匹に守られ、場違いすぎるほどきらびやかな出で立ちをして彼女は立っていた。色が薄い金の長髪を結うこともせず、鍔が円を描く真っ白い帽子を乗せて、腿のあたりで大きく開いたスカートから大胆に脚を晒している。天気がいいからと散歩にやってきたような風体であり、そんな少女が複数の部下を従えて月見を包囲させている様は、お偉いお嬢様を通り越してお姫様のようでもあった。

 

(――姫様、か)

 

 あの夜のことを思い出す。月が天に白い孔を空けた夜のことを。自分たちの姫をも冷酷に捕らえようとした、血の気もない、冷たい冷たい月人たちの姿を。

 どうなのだろう。

 いま月見を取り囲む彼女らは、あの頃と同じ月人のままなのか、それとも――。

 

「まずは、名乗っておきますね」

 

 扇を広げ、あくまで優雅な佇まいのままで、少女は言った。

 

「私は綿月豊姫。……はじめまして、地上の妖怪さん?」

 

 好意的な笑顔であるわけがない。

 でなければ、月見たちの頭蓋に未だ武器が突きつけられている道理などないのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月の技術を以てすれば、迫り来る妖怪どもを近寄らせぬまま駆逐する程度は容易いことである。一度引鉄を引けば十の命を撃ち飛ばす銃器、一度スイッチを押せば万の命を消し飛ばす兵器が月にはゴロゴロと存在している。これが本当の意味での戦であれば、今頃妖怪どもは一匹残らず絶命し、月の兵士たちの(かちどき)が空へ轟いている頃合いだっただろう。

 ではなぜ、我が軍はわざと威力の低い武器を使用し、妖怪どもとご丁寧に白兵戦を演じてなどいるのか。理由はふたつある。

 ひとつは、殺生による穢れを生み出さないため。穢れは月人にとって死をもたらす病原菌であるため、それを生み出す行為は基本的に忌避されている。地上の妖怪となれば、死の際に振り撒かれる穢れも相当なものとなるだろう。だから、極力殺さずに勝利できるならそれに越したことはない。

 そして、ふたつ。

 スイッチを一度二度押した程度で終わらせてしまっては、自分がつまらないし面白くないからだ。

 もっとも。

 

「――来られませ、天津甕星(あまつみかぼし)

「「「おぎゃー!?」」」

 

 そんな思惑の甲斐もなく、すでに退屈な戦なのだけれど。

 天より降り注いだ無数の光の柱が消えると、あとにはすっかり目を回して動かなくなった妖怪どもが転がっている。みんな、いい感じに体がコゲて香ばしい煙をあげている。もちろん致命傷にはほど遠いが、すぐに目を覚ますほどの軽傷でもないらしいのは、すでに何匹もの妖怪を沈めて証明済みだ。自分が使役できる中ではこの『天津甕星』が、もっとも手早く、もっとも効率的に敵を行動不能にできる神だった。

 綿月依姫はそこで一度刀を納め、細く長いため息をついた。

 

「――いいですよ。あとはお願いします」

「わかりましたー」

 

 依姫が短く命じると、後ろから玉兎たちが飛び出し、動かなくなった妖怪の頭やら背中に御札をぺしぺし張りつけていく。「あふん!?」と妖怪どもは変な声をあげて一瞬震えたが、すぐにまた動かなくなる。

 月の技術で作られた、魔性のモノを抑え込む札だ。妖怪の力と動きを封じる効果があり、かつ、一度張りつければ妖怪では剥がすことができない。無理に剥がそうとすれば反魔の術によりダメージを受ける。多少斬ったり撃ったりした程度では倒れもしない連中を、問答無用で無力化する手段であった。

 月の優れた技術は、なにも科学だけで形作られたものではない。魔性のモノに対抗する呪術や魔術もまた、地上より遥かに高い水準で発達している。

 それぞれの武器や能力である程度ダメージを与え、敵の動きが鈍ったところに御札でトドメを刺す――多くの玉兎にとっては馴染みのない実戦だが、特訓の成果が出ているのかみんなよく健闘していた。戦況は終始優勢である。この調子で行けば、あと一時間を待つまでもなくケリがつくだろう。

 ケリが、ついてしまう。

 また、ため息。

 

「……もう少し、手応えのある敵がいると思っていたのですが」

「だったら、御力を使うのやめたらどうです? 依姫様なら、剣一本でも問題ないでしょう」

 

 横で苦笑した玉兎に、依姫は表情を変えず、

 

「二の力しか持たない相手を三の力で倒しても、つまらないことに変わりはありません」

「……おー、さすが依姫様」

「私は、百の力で渡り合える相手と出会いたい」

 

 綿月依姫は、月の民最強の剣士である。驕っているわけではない。事実として依姫は、今の月世界で自分より強い戦士というものを知らない。だからこそその実力を買われ、女でありながら『月の使者』のリーダーを務めているわけだし、玉兎の戦闘指南もその大部分を取り仕切っている。かつて自分の師であった八意永琳ですら、『戦い』という一点のみに限れば、依姫には決して及ばなかったほどなのだ。

 天才的な剣術の才能に加え、八百万の神々を己の肉体に降ろし使役するという、神の如き――いや、まさしく神そのものといえる能力。今しがた何匹もの妖怪を一撃で沈めた『天津甕星』すら、自分にとっては準備体操のようなもの。

 これではまったくもって、不完全燃焼――。

 違うか。

 自分はそもそも、まだ火がついてすらいないのだと。依姫は、三度目のため息をつきながらそう思った。

 

「どこかにいないのでしょうか、私が本気で戦える相手は」

「いたらいたで困りますけどねそれ。……と、すみません、通信です」

 

 二歩後ろへ下がった玉兎が、耳に手を当てた。

 

「はい、こちら第一部隊」

 

 その間、依姫は次の敵を探して戦場を見回す。無論、敵はどこに目を向けても充分すぎるほどいるのだが、その中で依姫の眼鏡に適う強者となれば皆無だった。強くはあるのだろうが、それだけ。数字でいえば十か二十がいいところであり、百の依姫には遠く及ばない。

 力を使わず剣一本で戦えば、まあまあ楽しめはするのだろうが。

 

「……え? 本当ですか? ……はい、……わかりました、依姫様に伝えます」

 

 玉兎が通信を終えた。依姫は目だけで報告を促す。

 

「第十一、及び十二部隊が苦戦しているようです。敵は、鬼が二人」

「ほう」

 

 ただの戦況報告だろうと高を括っていたが、存外、興味深い内容だった。

 たとえ実戦経験が浅くとも、此度の戦に参加している玉兎は皆、依姫が直々に手塩をかけて育てあげた戦士である。この戦に備えて特別訓練もやったのだ、断じて弱いということはありえない。弱かったらおしおきする。実際依姫が見回す範囲では、慣れない実戦で多少の緊張こそあれ、皆が一歩も怯むことなくよく戦っている。中には、一人で何匹もの妖怪を圧倒している者もいる。

 そんな戦士たちを、逆にたった二人で相手取っている猛者がいるらしい――。

 

「まだしばらくは持ちこたえられますが、援軍をいただけると助かる……と、そんな内容でした」

「……なるほど、わかりました」

「どうされます?」

 

 問われるまでもない。

 

「無論、行きます。……これでようやく、少しは楽しめそうだ」

 

『百』の敵だとは思えない。そんな猛者がいるならその存在はすでに通常回線(オープンチャネル)で共有されているはずだし、部隊の二つ三つはとっくに壊滅している。

 だがそれでも、少しでも手応えのある敵と出会えるならば。

 

「あはは、了解です。……じゃ、そう伝えますね」

 

 苦笑した玉兎が再び、耳元の通信機に手を掛けようとした。依姫は戦場の彼方まで意識を澄ませ、まだ見ぬ猛者の気配を少しでも早く感じ取ろうとした。

 いきなりだった。

 

「あのー、すみませーん」

「――っ!?」

 

 まず声が聞こえ、次に依姫は、己の右隣に立つ異質な存在に気づいた。そしてその瞬間にはもう、依姫の右腕は超人的な反射速度で愛刀の鯉口を切っていた。

 付き従っていた玉兎には、ただ、光が閃いたように見えたはずだ。

 己の不覚を悔いる暇もなかった。完全な反射故に全力で放たれてしまった依姫の居合いは、まさしく一筋の閃光と化していた。放った本人が咄嗟に止めることすらできない絶望的な速度。愛刀の剣先が描く銀の軌跡が、容赦なく、そこに立っていた人影をまるで容赦なく真っ二つに、

 

「おっと」

 

 信じられないことが起こった。

 真っ二つになったのは、依姫の愛刀の方だった(・・・・・・・・・・)

 

「――な、」

 

 振り切った刀が軽い。刀身の中ほどから先が綺麗さっぱり消失している。折れた刀身が、まるでその部分だけ時を止められたかのように、依姫の目の前で置いてけぼりになっている。

 なぜ。

 止められたからだ。

 小さな小さな鬼の少女に、親指と人差し指の、たった二本(・・・・・)で。

 

「もー、いきなり危ないじゃないですかー」

「っ……貴様、」

 

 玉兎が銃口を向けながら叫んだ言葉は、呆気なく途中で終わった。

 

「ちぇいっ」

 

 依姫の居合いを二本の指でへし折ってみせた少女が、反対の親指と中指で円を作り、それをデコピンの要領で玉兎へ向けて弾いた。

 思わず目を閉じかけるほどの旋風が起こった。あとは自分の背中で繰り広げられたことなので、詳しくはわからない。

 だがそれでも、くぐもった悲鳴をあげた玉兎の気配が、嘘みたいに彼方まで吹っ飛ばされていったことだけは理解できた。

 

「……あ。ごめんなさい、つい」

「っ……」

 

 依姫は大きく後ろへ跳躍し距離を取る。少女は追ってこなかった。軽く腕を振り、二本指で挟んでいた刀身をまっすぐ地面に突き刺した。

 

「でも、そっちだっていきなり斬ってきたんですからおあいこですよね?」

 

 おあいこなものか。少女は無傷でピンピンしているが、こちらは部下を一人――

 違う。

 一人ではない。相手から距離を取って、視界が広がった今だからこそ気づいた。

 妖怪どもに御札を貼って回っていたはずの部下が、全員倒れ伏してぴくりともしていない。

 

「っ、みんな……!」

「あ、大丈夫ですよ。ちょっと眠ってもらっただけなので」

 

 そういう問題ではない。此度の戦にあたって、自分たち月の戦士は全員が、月の科学と呪術を融合させた最新の戦闘服(バトルスーツ)を装備している。まとうだけで身体能力が飛躍的に向上し、部位を問わずあらゆるダメージを緩和する。顔面に銃弾の雨を食らおうとも、ちょっと鼻血が出る程度で済むほどの代物なのだ。

 その防御性能を突破して、依姫すら気づけないほど一瞬で、全員の部下を撃破してみせた少女――

 

「……何者ですか」

「ごくごく普通の鬼の女の子です」

 

 見た目相応に愛らしい笑みだった。藤の花を模した髪飾りが、しゃらりと小気味よい音で揺れた。

 

「さっき、空から光がバババ! って降り注いでたじゃないですか。あれ、あなたの仕業ですか?」

「……そうだとしたら?」

「是非」

 

 悪寒、

 

「――是非、お手合わせしてほしいなって」

「……!」

 

 そのとき依姫は、きっと、笑ったと思う。少女は表情をまったく変えなかったし、なにか特別なことをしたわけでもなかった。ただ依姫に向けて妖気を放っただけであり、なんてことはない戦闘の意思表示であるはずだった。

 鳥肌が立った。

 桁が違う。今まで対峙してきたどの妖怪よりも。

 愛らしい眼差しのまま放たれた妖気が、依姫の全身を波濤の如く呑み込んだ。全身の産毛が逆立ち、毒でももらったように肌が痺れる。両肩にのしかかる重圧に、気を抜いたら膝からひしゃげてしまいそうになる。

 天を背負っているかのようだと、依姫は思う。

 だから、笑ったのだ。

 

「……ははっ」

 

 なんだ。

 いるじゃないか。

 依姫の願いを叶えてくれるかもしれない、最高の敵が。

 問う。

 

「……先ほど、別の部隊から通信がありました。随分と強い鬼が二人いると。あなたがその片割れですか?」

「つーしん? えっと、たぶん萃香さんと勇儀さんですねー。私ではないです」

 

 だろうな、と思う。もしもこの少女が相手だったなら、部下は援軍を求める間もなくやられていたはずだ。

 更に問う。

 

「その鬼二人とあなた、強いのはどちらですか?」

「私ですね」

 

 即答だった。

 

「まだまだ、若い者には負けませんよー」

「……そうですか」

 

 見た目は童女と変わりないくせに、まるで老婆のような口振りだった。まあ妖怪は肉体が老いづらい存在だし、それに、もうこれ以上の問答など必要ない。

 充分だった。プライベートの回線で通信を入れた。

 

「お姉様、聞こえますか」

『……はいはい、どうしたの依姫』

 

 返事はすぐ返ってきた。用件のみを簡潔に告げる。

 

「私の部隊ですが、私を除いて全滅しました」

『……は!? ちょっと待って、それどういう』

「問題ありません、敵は一人です。なので私が相手をします。姉様は、皆へ念のための注意喚起をお願いします」

 

 一息、

 

「――なにがあっても足手まといだから近づくなと」

「……ふふ」

 

 鬼の少女が、笑う。

 答えが来るまで、少し間があった。

 

『……わかりました』

 

 いつもお転婆な姉にしては、珍しく固い声音だった。

 

『一人で、大丈夫なのね?』

「私で駄目なら、他の誰がやっても駄目ですよ。……それでは」

 

 通信を切る。心配してくれた姉には申し訳ないが、長話をしたい気分ではなかった。

 だって私はもう、一秒でも早く目の前の少女と戦いたくて、疼いて疼いて仕方ないのだから。

 体が震えている。ああこれが武者震いか、と依姫は思う。生まれて初めての武者震いは、剣の道を生きる者として光栄ですらあった。

 

「――私は、綿月依姫」

 

 勝手に動き出してしまいそうな体を懸命の理性で抑えつけて、依姫は名乗る。

 

「自分で言うのもなんですが、月の民最強の剣士です」

「はじめまして」

 

 少女も名乗る。

 

「私は、藤千代」

 

 依姫と、同じ言葉で。

 

「自分で言うのもなんですが――最強の鬼です」

「……!」

 

 ああ、もう、我慢できない。

 挑みたい。全身、全霊、自分が持ちうるありとあらゆる力を懸けて。

 依姫の居合いをたった二本の指で完璧にヘし折り、

 指一本触れることなく玉兎を遥か彼方へ打ち飛ばし、

 ほんの少しの妖気を開放しただけで依姫を震えさせる、

 なにもかもが桁違いな、この少女に。

 

 戦は続いている。敵味方を問わず怒号めいた喊声が響き、大気が震え、大地が揺れている。数多くの妖怪が倒れ伏しており、劣勢に追い込まれている味方も何人か目に入る。

 もうどうでもいい。

 邪魔な思考をすべて脳から叩き出し、依姫はありとあらゆる感覚を目の前の少女だけに注ぎ込む。自分自身を一振りの剣と化すように。心を炎と変えるように。少女だけを見て、少女だけを聞いて、少女だけを感じる。

 始まる。

 戦が始まる。

 他の誰でもない、依姫だけの戦が。

 

 

 

 

 

 後に、ある玉兎はキレながら語ることとなる。

 なにがあっても近づくなとは言われたが。

 

 ――そっちから近寄ってこないでくださいよ!? マジで死ぬかと思ったんですからね!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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