銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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月面戦争 ⑤ 「戦争、ダメ、ゼッタイ。」

 

 

 

 

 

 体が砕け散りそうだった。

 神降ろしは大なり小なり器となる依姫の体に負担を掛ける行為だが、やはりこの神の場合ともなれば一頭地を抜いている。戦を司る神たる所以か、凄絶かつ暴力的な力の奔流は、己の肉体の中で戦が繰り広げられているかのようだ。しかも、藤千代に勝ちたいという依姫の願いを聞き届けてくれたらしく、過去に一度だけ呼んだときより明らかにみなぎる力が強い。少し気を緩めるだけで呑み込まれてしまいそうになる。

 苦笑した。

 

「……まったく。本当に、途轍もないほどの御力です」

 

 建布都神(たけふつのかみ)――またの名を建御雷神(たけみかづちのかみ)。戦を司る神として、恐らく彼の右に出る者はあるまい。

 依姫の見据える先で、藤千代が柳眉を上げて感嘆した。

 

「まあ……凄まじい神格ですね」

「自分でもそう思います。……今までは戦のためにあるわけではない神の御力を、無理やり武器として使っていただけに過ぎませんでした。ですがこれは、正真正銘戦神の御力です。格が違いますので、ゆめゆめご油断なさりません様」

 

 剣を握る己の手が白い。肌も髪も服もすべてが淡い白の光を帯び、稲光のように走る煌きを散らしている。建布都神とは、戦神であり、また神鳴り(・・・)の神。彼の神の御霊を宿すことは、すなわち神鳴り(・・・)の力を宿すことでもある。

 剣がカタカタと震えている。依姫の武者震いではない。戦神が放つ桁違いの神格についていけず、共鳴を通り越して悲鳴をあげているのだ。試すつもりはないが、一度振れば最後、依姫の力に耐え切れず木っ端微塵に砕け散るだろう。

 呼んだ。

 

「――布都御魂(ふつのみたま)

 

 愛刀が依姫と同じ白の光を帯びる。それは、建布都神が携える神剣の名――戦神が振るうにふさわしい格をまとったことで、波紋がやむように愛刀の震えが消えた。

 これでいい。

 あとは、斬るだけ。

 

「――よろしいでしょうか」

 

 藤千代へ、問うた。

 藤千代は、答えた。

 

「ええ、いつでも」

「――参ります」

 

 そして初めの一手で、依姫は藤千代との彼我の距離をゼロにした。

 

「む」

 

 藤千代が少し眉を上げた。その瞬間には、依姫はすでに神剣を振り下ろす動作へと入っている。雷の神、建布都神――その太刀筋は閃く雷光の如し。

 しかし、敵も()る者。依姫が間合いを詰めた瞬間には、藤千代の右腕もまた動き出していた。指先に妖力が集中する。これまで幾度となく、依姫の斬撃を親指と人差し指の二本で受け止めた動きである。

 甘い。

 言ったはずだ、ゆめゆめ油断するなと。

 

「……!?」

 

 藤千代が初めて表情を変えた。笑うときも驚くときも、攻めるときも守るときも、いついかなるときも決して途切れることのなかった彼女の『余裕』が、この刹那をもって完膚なきまでに崩れ去った。

 見事な判断だったとしか言い様がない。

 

 

 ――ふ つ、

 

 

 雷霆(らいてい)が走る。依姫が神剣を振り下ろした瞬間、太刀筋の延長線上に伸びる大地が、地平線の彼方まで真っ直ぐに一刀両断された。

 

「……!!」

 

 建布都神が名に持つ『布都(ふつ)』とは、物を断ち切る音を文字に表したものである。そして神が己が名として携える文字は、その神が持つ力そのものを示すものでもある。

 すなわち物を断ち切る『布都』の文字を持つ建布都神は、その太刀筋をもって万象一切を一刀両断する。

 藤千代の回避は、指先の薄皮一枚で間に合った。白い肌についた一本の赤い線から、珠のような血がたった一滴だけ浮かぶ。それは紙で擦って切ってしまったかのような、怪我のうちにも入ることのないつまらない切り傷だった。

 でも、それでも。

 

「ようやく……!」

 

 幾百の斬撃を重ね、それでも傷ひとつつけることができなかった少女に、

 

「――ようやく届きましたよ、藤千代!!」

 

 紫電が閃く。横に飛んだ藤千代の足が地に着くよりも速く。止めることなど許さない。この一閃は、立ち塞がるありとあらゆる障害を等しく一太刀で斬り捨てる。防御は不可能、この距離、この速度、この状況なら回避もさせない。今度こそ、今度こそ依姫の一閃が、地上世界の古今無双をふつと断ち切る、

 はずだった。

 

「なっ――」

 

 目を疑った。藤千代は右腕を少し前に出し、今までとなにも変わらない二本指で、迫り来る神の雷を受け止めようとした。

 いや――回避など許さない必殺の距離だったのだ。むしろ、それが已むを得ない判断だったのかもしれない。

 

「んっ……!」

 

 無事で済むわけがない。藤千代の指先が神剣の刀身に触れた瞬間、着物の袖が無惨なボロ布と化して千切れ飛び、彼女の全身に無数の裂傷が刻み込まれた。飛沫のような鮮血が飛び散る。傷は頬、胸、腹部、脚にまで及び、右腕などもはや目も当てられなかった。妖怪の体がどこまで丈夫なのかは知らないが、少なくとも人間であれば、向こう数年は使い物にならないであろう有様だった。

 

「――」

 

 しかし。

 止められた。

 止められていた。あらゆるものを一刀両断するはずの一閃が、この期に及んでなお。

 少女の、小枝のような、たった二本の指で。

 馬鹿な――と目を剥いて愕然としたのはほんの一瞬だった。すぐにその考えを振り払う。いや、なにを驚くことがあろうか、この少女に依姫の常識が通用しないのは()うにわかりきっていたことではないか。止められない斬撃を止める程度、彼女ならやってのけたってなにもおかしいことはない。

 想定の範囲内。そう思え。

 だが依姫とて、必殺の一撃をむざむざ止められたわけではない。ひと目見ればわかる、藤千代は間違いなく軽くない傷を負った。建布都神の御力は、間違いなく通じる。依姫の剣は、間違いなく届く。ようやく、ようやくこの少女と対等に戦うことができるのだ。追い縋れ。喰らいつけ。あと少し、あともう少しで自分はこの少女を超えることが

 

 

「――ふふっ」

 

 

 小さな鈴を転がしたような、あどけない愛らしい笑みの声だった。

 全身の鳥肌が立った。直感に体を突き動かされ、依姫は『雷光の如し』の速度で後ろへ跳んだ。

 

 藤千代が、変質した。

 

 そのとき依姫の脳裏を過ぎったのは、何百年も昔に師の永琳から聞かされた些細な雑学だった。笑顔という表情の起源を辿ってゆくと、やがては威嚇という真逆の行動へ行き着くという。

 特に興味もなかったので当時は聞き流していたが――なるほど。

 全身に浅くない裂傷を負い、右腕など使い物にならぬほど血塗れになって。

 それでもなお陶然と笑みを花開かす常軌を逸した姿は、依姫の心を確かな怖気で震わせた。痛みで気が狂ったっておかしくないはずなのに。藤千代くらいの少女なら、泣き叫んだって然るべきなのに。

 この鬼には、痛覚がないのか。そう思う。

 自分だって人からよく戦闘狂扱いされる身だが、さすがに右腕を潰されて笑うなんて無理だ。戦に狂うとは、こういうことを言うのだ。依姫の目の前にいる少女は、間違いなく狂っている。

 

「……ふふふ」

 

 それだけでも、もう腹が膨れるほど信じられなかったのに。

 

「……!?」

 

 目を疑うなんてもんじゃなかった。意味がわからなかった。藤千代の血にまみれた全身が、まるで時を遡るような速度で回復を始めた。

 三秒。右腕以外の傷が塞がるまでに掛かった時間である。

 そして右腕まで含めすべての傷が完全再生するのには、たったの七秒だった。

 

「……ははっ」

 

 あんぐりと開いた依姫の口から、痙攣に似た乾いた息がもれた。長い長い崖を死力を尽くして這い上がり、頂に手を掛けた瞬間突き落とされた。そんな気分だった。そして同時に、自分の中でなにかが吹っ切れたような感覚も覚えていた。

 剣を握る手に、痛みすら覚えるほどの力を込めた。

 

「――本当に」

「ふふふ……」

 

 この少女は、どこまで依姫の上を行ってくれるのだろう。どこまで次元が違うのだろう。どこまで途方もない化物なのだろう。

 衝撃でも悲嘆でも絶望でもない、ただただ純粋な理解の感情。

 わかっていたはずだ。

 目の前の少女は、まだ全然、ちっとも、本気なんて出してくれてはいないのだと。

 

「本当に……っ!」

「うふふふふふっ……」

 

 だから。

 だから依姫もまた笑みを花開かせ、叫ぶのだ。

 

 

「――本当に最高ですよ、藤千代ッ!!」

「――あははははははははははははははは!!」

 

 

 圧壊。天上天下古今無双の戦は、もはや力の放出だけで世界の姿を変える。桁違いの神力と妖力は龍が如き暴風を生み、粉塵を巻き上げ月の星空を覆い隠す。一秒で一度大地が裂け、次の二秒で三度割れ、更に二秒で五度砕け散る。白い大地と満天の星空だけが果てまで広がる、寂しくもどこか幻想的だった月の世界は、そうして虚無の空間へと作り変えられていく。

 自分より遥か高みの強敵へ、死に物狂いで立ち向かうこのひとときが。

 快楽とも呼べる狂気となって、綿月依姫のすべてを呑み込んでいく。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「「「いいいいいやああああああああああっ!?」」」

 

 そして戦場は地獄と化した。

 それは災害であった。敵味方の区別などなくすべてを等しく呑み込む天災であった。真っ白く広がる月の大地を、渦巻く桁外れの力が圧壊し、超長距離射程の斬撃が斬り刻み、超高密度の拳圧が砕き飛ばす。それが雷光すら置き去りにする超速度で戦場を蹂躙し、龍が空へ昇るような逆巻く烈風を生み出すのである。ある妖怪はこれを天変地異と捉え、ある玉兎はこれを空爆と捉えた。文化の違いより生まれる相違はあったが、この災害を前にして取った行動は誰しもが一致していた。

 

「総員退避ぃぃぃぃぃ!!」

「逃げろおおおおぉぉ!!」

 

 喧嘩なんかしてる場合じゃねえ――満場一致の逃走劇である。敵味方を区別しない災害相手に、もはや彼らにも互いの区別など必要ではなかった。皆が戦意をかなぐり捨て、武器を放り投げ、どこにあるのかもわからない安全を求めて逃げ惑う烏合の衆を化す。惨たらしく変わり果てていく月の大地、飛び合う怒声、悲鳴、絶叫。その光景は、まさにこの世に顕現した阿鼻叫喚の地獄である。

 誰かが叫んだ。

 

「紫様あああっ!! 賢者様あああああっ!! お助けええええええええ!?」

 

 そのとき戦場の遥か後方で賢者は、

 

「」

「しっかりしてください紫様っ! 寝てる場合じゃないです! 大変なことになってますってばあっ!?」

 

 白目を剥いて口から魂を吐いていたため、従者から大変キレのある往復ビンタを喰らっている最中だった。しかしそれでも正気に返らないので、この賢者、役立たずである。

 となれば、妖怪たちは自分でなんとかするしかない。

 

「きゃあああああ!?」

「あぶねええええええええっ!!」

「ふわっ――あ、ありがとうございます……い、いや、なんで敵の私を助けて」

「うっせぇなどうだっていいよそんなの!? とにかく逃げるぞおおおおおっ!!」

「はっ、はいいっ!!」

 

 地獄の様相を呈する戦場では、逃げ遅れた玉兎を助ける妖怪の姿があった。

 

「ちょっと待ってえええええ! 誰か、誰かこの御札剥がしてえええええ!?」

「っ……ああもう、世話の焼ける!」

「お、おお……悪いな、助かった」

「妖怪の礼なんかいらん。さっさと逃げるぞ!」

 

 逆に、御札を貼られ動けなくなっている妖怪を助ける玉兎の姿もあった。

 

「ぎゃあーっ!?」

「ひえええええ!?」

 

 逃げ切れず粉塵で覆われた空を舞う者も、少なからずいた。

 ともかく、ともに逃げ延びようと必死に足掻く中で、妖怪と玉兎の間に奇妙な一体感が生まれ始めていた。嘘か真か、対立する二つの勢力を和解させるためには、その二勢力に共通する新たな敵を与えるのが効果的であるという。月の大地に顕現した地獄を前にして、敵も味方も、妖怪も玉兎もありはしなかった。人間離れした身体能力を持っていても、優れた武装で身を固めていても、彼らは必死に逃げ惑う矮小な一生命でしかなかった。

 彼らはひとつになっていた。

 ひとつになった心で、叫ぶのだった。

 

「「「藤千代サンの馬鹿ヤロオオオオオォォォ!!」」」

「「「依姫様のバカあああああぁぁぁ!!」」」

 

 叫んでなにかが変わるわけではないと当然わかってはいたけれど、それでも叫ばずにはおれなかった。

 すべてを等しく噛み砕く戦の牙、斬り裂く戦の爪。粉塵を巻きあげ変わり果てる大地、悲鳴とともに逃げ惑う力なき人々。

 それはまさしく、月面戦争なのだった。

 

 

 

「――紫様っ! 起きてください紫様ぁっ!!」

「へぶっ……ら、らんぶっ、ちょっちょっとやめえぶっ」

「藍殿、それ叩きすぎて逆に起きなくなるやつです」

「……ハッ!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……もおどーにでもな~あれ~」

「豊姫様っお気を確かに!?」

 

 そして戦場の片隅ではトンガリが、虚ろな目で現実逃避し始めた上官を懸命に揺さぶっていた。目が死んでいる豊姫はされるがままで無表情に笑う。

 

「なんなのよこれぇ……ここまでしなきゃいけないなんて、依姫は一体なにと戦ってるのぉ……」

 

 見渡す限りの戦場では、世紀末もかくやの天変地異が繰り広げられている。迸る神力と妖力が暴風を巻き起こし、雷が走り抜けては大地が砕け、けたたましい轟音が響き渡っては世界が揺らぎ、トンガリの視界を正視も憚る地獄へと変貌させていく。巻き込まれている玉兎と妖怪の阿鼻叫喚が聞こえる。桃の皮剥きをさせられたときは「なんで戦場でこんなこと……」なんて疑問を抱いていたトンガリだけれど、今は心の底から豊姫の部下でよかったと涙していた。あんなのに巻き込まれるなんて絶対に御免だ。桃の皮剥きマジサイコー。

 ハッと正気に返った。

 

「ってか豊姫様、あなたあの神様のこと知ってたんじゃなかったんですか!? なんであなたが一番ショック受けてるんですか!」

「知ってたわよぉ……でも昔依姫が呼んだときは、もちろんそのときもすごい御力だったけど、でもここまでじゃなかったの。こんなの私も知らないわよぉ……もう意味わかんないぃぃ……」

 

 意味がわからないのはトンガリも同じだ。依姫は一体なにと戦っているのか。一体どんな化物が相手であれば、あそこまでの天変地異を引き起こさなければならないのか。しかし間違いなく言えるのは、このままでは月の地形が変わるということである。ということはお偉方に怒られるということである。すなわちお偉方にガミガミ言われてストレスMAXな綿月姉妹――特に依姫(バトルジャンキー)――が、特訓という名目でまたトンガリたちをボコボコにするのである。己の平穏な未来を守るため、トンガリはなんとしてでも豊姫を正気付けねばならぬ。

 

「豊姫様っ、とにかくあれは絶対にダメなやつです! なんとかしてやめさせないと!?」

「やだ。とよひめここでつくみさんたちとおはなしするんだもん」

「幼児退行してる場合じゃねえええええ!! またお給料カットされて美味しいもの食べられなくなりますよ!?」

「――さて、なにか策を練らないとね」

 

 豊姫が突然キリッとした。この状況ですらぱくぱくもぐもぐ桃を食べ続けている亡霊と比べれば霞むが、豊姫もこれで結構な食いしん坊なのだ。食べ物を餌にされると案外すんなり動く。

 彼女は扇を広げ口元を隠し、それらしい雰囲気を漂わせながら細い視線で戦場を見つめた。

 

「依姫は私がなんとか止められると思うけど……問題は妖怪の方ね。あなたたち、できる?」

「むりですいやですだめですしにますおうちかえります」

 

 トンガリは幼児退行した。他の玉兎もすごい勢いで首を横に振った。豊姫はため息、

 

「そうよねえ……ほんとどうしましょう、このままじゃ私の美味しいご飯が……」

「私が止めようか?」

 

 物珍しそうな顔でフォークを観察していた狐が、独り言かと思うくらい何気なく、かついきなりそう言った。お陰様で、トンガリや豊姫が驚いて振り返るまで数拍の間が合った。

 豊姫が目をしばたたかせ、

 

「つ、月見さん……今なんて」

「ああ……ごめんごめん」

 

 狐はフォークを置き、

 

「断言はできないけど、私ならなんとかできると思う」

「……つ、月見さん、お強いんですね」

「いや、どっちが強いかといえば向こうだよ? いくらなんでもあれに勝つのは無理だ」

 

 苦笑、

 

「けど……相性というやつなのかな。勝つのは無理でも、止めるだけなら。お前だって似たようなものだろう?」

 

 確かに、豊姫と依姫のどちらが強いかといえばほぼ間違いなく依姫の方だろう。しかし、かといって普段の上下関係まで妹に軍配が上がるわけではない。むしろ『姉』と『妹』の違いというのはなかなか絶対らしく、妹はいつも姉のペースに乗せられて苦労している。正座して姉に説教されている妹の姿も、トンガリは何度か目撃している。

 それと似たようなことが、この狐と藤千代なる化物にも言えるのだとしたら。

 

「……充分です。お願いしてもよろしいでしょうか」

「ああ」

 

 フォークで桃を一切れ頬張ってから、狐は立ち上がった。それから、桃を貪るように食べている亡霊を見下ろして、

 

「幽々子はここで待ってるように」

「この桃を食べ終えるまでは動きませんわっ」

「あなたたちは、ここで幽々子さんを守ってあげて」

 

 豊姫の指示に、トンガリたち玉兎は五回くらい必死に頷いた。ありがとうございます、ついてこいとか言われたらマジどうしようかと思ってました。

 

「こちらへ」

 

 豊姫に促され、狐は彼女とともに前へ出る。

 

「私の能力が、わかりやすく言うところの瞬間移動であるのはすでにお見せしたかと思います」

「ああ」

「ここからでは遠すぎて詳しい状況がわからないので、まずは巻き込まれない程度に接近します。その後、隙を見て月見さんを、依姫と戦っている妖怪の前まで転送します。そこからは……お願いします」

 

 狐が首肯する。豊姫もまた頷きを返す。トンガリは生唾を呑み込む。亡霊は桃を食べ続ける。

 それは奇妙な、月人と妖怪の、味方と敵の共同戦線だった。月の命運が、豊姫と、敵であるはずの狐の手に委ねられている――とまでいうのはさすがに大袈裟だが、トンガリたち月の使者の命運くらいは握っているはずである。

 このまま月の土地がメチャクチャになれば、間違いなくお偉方から特大の雷を落とされる。お給料だってきっと減らされる。その前に止めなければならない。もうとっくに手遅れな気もするが、ともかく、今止めればまだなにかが変わるかもしれない。

 淡い光の粒子を散らし、豊姫と狐の姿が掻き消える。

 トンガリは両手を組んで合わせた。豊姫様、狐のお兄さん。

 

「――どうか、御武運を」

 

 暴れ回る天変地異を白目で眺めながら、ほんとお願いしますマジで、とトンガリは神にも縋る気持ちで祈った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 数字にしてみれば、二分にも満たない白昼夢のような時間だったはずである。

 そのたった百余秒足らずで、依姫と藤千代は無数の交錯を繰り返した。幾百建布都神の御力を振るい、幾百藤千代から拳を叩き込まれ、いつしか依姫の肉体は本当に砕け散ってしまいそうになっていた。藤千代の一撃を神剣で受け止め、受け止めきれず弾き飛ばされ、着地しすぐさま前に出ようとしたその刹那、依姫は天地がひっくり返るほどの吐き気に襲われ片膝を折った。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 神降ろしの副作用だ。建布都神の御霊は藤千代と渡り合えるほどの力を依姫に与えたが、同時に使うたびに体を蝕む毒でもあった。きっと、今日一日で何十もの神々を降ろし続けたせいもあるのだと思う。ともかく人外の力を長く体に留め続けたせいで、依姫は肉体的にも精神的にも限界を迎えつつあった。

 

「……大丈夫ですか?」

 

 依姫の苦悶が己の打撃によるものではないと察すると、藤千代は追撃ではなく距離を取ることを選んだ。ここで畳みかければ間違いなく勝てるというのに、なんとも彼女らしい選択だと思う。

 いつからだったろう。藤千代の目的が依姫に勝つことではなく、依姫が限界を迎え動けなくなるまで、ただひたすらに戦い抜くことだと気づいたのは。

 この少女は、勝つためではなく、戦い続けるために戦っているのだ。幾度となく依姫の斬撃を受け止めたことで、着物はさんざ千切れ飛んで、もう隠れるべきところが辛うじて隠れているだけのような有様だけれど、体はまったくの無傷である。最後の交錯で剣先が掠めた左腕の傷は、もうとっくの昔に再生を終えてしまっていた。

 わんわん頭が揺れる感覚の中で、依姫は深呼吸を繰り返す。まだ立ち上がるのは無理だが、とりあえず声は出せた。

 

「……何度見ても反則的な再生速度ですね。そういう能力をお持ちなのですか?」

「あ、これはただの気合です。こう……ふんすっ、て」

 

 もう驚きもしなかった。むしろなにもかもが規格外な彼女らしくて、自然と笑みがこぼれていた。

 握り拳ひとつで大地を砕く途方もない膂力(りょりょく)と、幾百の交錯を繰り返しても息ひとつ乱れない底なしの体力と、頭を割っても倒せないのではないかと思わしめる常識外れの再生力。まさに、この戦場において、藤千代は戦い続けるためだけに存在する化物だった。

 

「……残念ですが、もう限界が近いようです。さすがに神を降ろしすぎました。恐らく、あと一分ともたないでしょう」

 

 明日は全身筋肉痛だろうなと、そんなことをふっと思う。

 

「そうですかー。残念です、もっともっと戦っていたかったですけど」

「私もです。まったく、底なしの体力を持つあなたがた妖怪が羨ましいですよ。……まあ、ないものねだりをしても仕方がないので」

 

 深く息を吸い、依姫は折れた膝に枯渇寸前の力を込めて立ち上がった。段々目眩が引いてきた。しかし、どのみち戦うのはもう無理だと思う。本能が言っている、これ以上足を動かせば今度こそ依姫はぶっ倒れる。

 だから、最後に、たった一度だけでいい。

 全力で、剣を振るうくらいは。

 

「これで最後です。……私の全力、受け止めてください」

 

 藤千代は、迷いなく頷いた。

 

「ええ、喜んで」

「……ありがとうございます」

 

 頷いてくれたことにではなく、こうして出会い、戦ってくれたことに礼を言って、依姫は神剣を腰の鞘に収めた。右足を前に、左足を後ろに。柄を握る手が藤千代から見えなくなるまで、低く落とした体をひねり、そのまま一切の動きも呼吸も止めた。

 居合い。間合いなど関係ない。依姫がひとたび神剣の鯉口を切れば、依姫の視界に映る一切を、地の果てまで、空の果てまで、剣を振るった軌跡の通りに等しく一刀両断するはずである。

 藤千代を除いては。

 きっと藤千代は、それすらも凌いでみせるだろう。限界だった。もう今の自分では、藤千代に勝つ未来をどう足掻いても想像することができなかった。

 だからこそ、依姫は次の一瞬に、限界を超えて己のすべてを注ぎ込むことができるのだ。

 

「……ではでは私も、ちょっと本気です」

 

 そう言って藤千代は、依姫と似たような体勢を取り始めた。鏡で映したように左足を前、右足は後ろで腰をやや落とし、左手は手前で緩く開いて、右手は固い拳に変えて後ろへ引く。

 なんてことはない、右の拳を打つための構え――だが、依姫は感じた。桁外れを誇る藤千代の妖力が、すべて、恐ろしい密度で右の拳に収斂(しゅうれん)されていく。

 

 ――もしもこの場に月見がいれば、血相を変えてやめさせたはずだ。

 なぜならそれは、かつての大和と洩矢の戦で、緑が茂る戦場を一瞬で荒野に変えた技なのだから。

 

 依姫の全感覚から、藤千代以外の存在が消失した。余計なものは見ない。無関係なものは聞かない。邪魔なものは感じない。自分のすべてを、藤千代という名の、賞賛すべき強者のために。

 

 少しの間、静寂があった。

 

 極限の戦闘を繰り広げる者のみが可能にする御業か、依姫と藤千代は言葉でも視線でもなく心で通じ合った。行こう、と、二人の心が同時にそう言った。だから二人はその言葉に従い、片や居合いの刃を抜き、片や拳の妖力をすべて波動に変えて放つはずだった。

 現実はそうならなかった。

 コンマ何秒かという奇跡的な差だった。

 

 

「――依姫のおバカあああああぁぁぁっ!!」

「へぶうっ!?」

 

 

 突然目の前に現れた少女から痛烈なビンタをもらい、依姫は為す術もなく吹っ飛ばされた。

 そこから、依姫の意識は少しばかりの間途切れる。目が覚めたのは、地面に倒れて頭を打った痛みからだった。横倒しになった視界の中には誰の姿も映っていないが、依姫は自分の足元あたりで巨大な存在感が膨れあがっているのを感じた。

 依姫の全身に、無数の脂汗が玉となって浮かびあがった。それは日頃の生活の中で依姫の潜在意識に刻み込まれた、一種の防衛本能ともいうべき反応だった。藤千代を前にしたときの畏怖とは明らかに違う、恐怖という名の、生物が持つ原始的な感情のひとつだった。

 依姫がこの世で恐れる存在は、たったひとり。

 

「――よ り ひ め ?」

 

 怒ったときの、お姉様。

 依姫はふるふる震えながら顔を上げた。自分のすぐ足元のところに、怒ったお姉様こと豊姫が満面の笑顔で立っている。とてもステキな笑顔である。ステキすぎて、依姫は姉の背後に、女子供も構わず喰らい尽くしそうな恐ろしい般若の面を幻視した。

 というか。

 依姫は、建布都神の御霊を体に降ろしている。当然身体能力は極限まで強化され、物理的な衝撃に対する防御力も上がっている。加えて、月の最新技術を投影した戦闘服をまとってもいるから、今の依姫は藤千代と肉弾戦を演じることができるし、彼女の拳を喰らったってちょっと飛ばされる程度で済んでいるのだ。

 なのに、姉のビンタをもらった瞬間、束の間ではあるが体だけでなく意識まで飛んだ。もちろん、完全な不意打ちであったことと、脳の近くを殴られたことが大きかったのだろうが、どうあれ普通の月人にできる真似ではないわけで。

 依姫は、恐怖に震えながらぎこちなく笑った。

 

「さ、さすがですねお姉様。見事な一撃でした」

「あら、ありがとう。でもね、それはどうだっていいの。依姫、あなた」

「――って、ちょっと待ってください!?」

 

 姉の言葉を遮って依姫は跳ね起きた。ビンタのダメージが脳から抜けたことでようやく思い至った。姉に殴られる直前まで自分がやろうとしていたこと。そして、今ここに姉がいるということ。それはつまり、

 

「お姉様っ、私はまだ一騎打ちの途中です! 危ないから離れて、」

「ああ、それだったら大丈夫よ。ほら」

 

 豊姫が半分後ろを振り返りながらなにかを指差した。ちょうど姉の体に隠れていたので、一歩横にずれて見てみると、

 

「ほーら千代ー、もふもふの尻尾だぞー。好きなだけ触っていいぞー」

「わーいっ! もふーっもふーっ!」

 

 狐と思しき男の尻尾にじゃれついて、藤千代が子猫みたいに地面をゴロゴロしていた。

 依姫の全身からどっと緊張が抜けた。

 

「……えぇ」

「まったくもう、ほんと危ないところだったわ。……月見さーん! ご協力ありがとうございますー!」

 

 ……月見?

 確かそれは、『藤千代を倒したたった一人の妖怪の名』ではなかったか。なるほどあの男が、と依姫は興味深く月見を観察した。妖狐、というのは予想外だった。あまり戦闘が得意な種族ではなかったはずだが、中には『白面金毛九尾』の名を響かす大妖怪もいるというから、彼もその類なのかもしれない。

 狐らしからぬ綺麗な銀色の尻尾を一本だけ垂らし、狩衣を更に動きやすく簡略化したような質素な和服で着飾っている。体格は和服の上からではわかりづらいが、少なくとも筋骨隆々の大男ではない。顔立ちも精悍と柔和を足して二で割った具合なので、正直あまり強そうには見えなかった。

 もっとも、それは依姫にも藤千代にも言えることだ。自分は『一歩も動かず黙っていれば普通の女の子』なんてあんまりな評価をもらうこともある身だし、月見の尻尾をもふもふする藤千代に至っては完全に幼子である。

 妖怪の実力は、外見からは計れない。戦うことで初めてわかる。いつか彼とも戦えるだろうか。戦いたいなあ。強い男の人っていいよなあ。

 しかし、そんな月見と姉が仲良く手を振り合っているということは、

 

「お姉様、あの狐の方と知り合いになったので?」

「あっ、そうそう! 妖怪だけどとってもいい人なのよ! さっきまでずっとお話してたのっ!」

 

 いつものお転婆な調子に戻った姉を見て、そうですか、と依姫は苦笑した。あの狐、まさかとは思っていたが、本当に姉と仲良くなってしまっていたとは。温厚そうな見た目通り、争いを好む性格ではないのだろう。でもお願いしたら戦ってくれないかなあ。戦ってみたいなあ。

 

「――さて、依姫」

 

 なんて考えていたら豊姫がこっちを振り向いて、また例の、背後に般若の面が見える微笑みを咲かせた。依姫の口から「ひぇ」と変な声が出た。

 

「ねえ。お姉ちゃん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「な、なんでしょう」

「ちょっと周りを見てみて? なにか気づくことはない?」

 

 依姫は言われた通りにした。当然ながら豊姫と藤千代と月見がいるのだが、それ以外で特に目につくものはない。せいぜいズタボロになって変わり果てた月の大地と、遠くの方で転がっている玉兎や妖怪が見えるだけで――

 

「……」

 

 そして依姫は、本当の意味で正気に返った。戦の興奮で頭から抜け落ちていたあんなことやこんなことを、青空が広がるように豁然とすべて思い出した。

 

「ねえ、依姫?」

 

 ふるふる震える依姫に、豊姫は般若の笑みを深め、

 

「今日の戦で、いくつか私と約束したことがあったわよね? なんだったかしら」

「…………」

 

 依姫は怖くてなにも言えない。

 

「あなたは強力で危険な能力を持ってるんだから、使うときはみんなを巻き込まないように注意するはずだったわよね? そのための『なにがあっても近づくな』だったのよね? なにあなたの方から近寄って巻き込んでるの?」

「………………」

 

 泣きそうになってきた。

 

「あと、このへんの土地がメチャクチャになっちゃってるんだけど、どうするのこれ? あなたが直すの? ねえ?」

「……………………」

 

 涙が出てきた。

 

「それと、建御雷神。昔、危なすぎるから使わない方がいいって、私や八意様と約束したわよね? ねえ、あなた今日でいくつ約束破ったの?」

「……………………ぐすっ」

 

 ち、違うんですお姉様、藤千代という望外の強敵が現れた影響でつい頭から抜け落ちてしまってて、決して忘れていたわけでは、いや忘れてましたけど、ともかく故意に約束を破ったのではなく事故にも等しい不可抗力であって今では反省していますごめんなさいだから少し落ち着いてくれませんかほっほらお姉様はやっぱり明るく笑っている姿が一番でそんなドス黒く微笑むのはどうかと

 ――パチン。

 豊姫の扇をたたむ音、

 

「依姫」

「……、」

 

 そして姉から、笑顔が消えた。

 

「――ちょっとそこに正座ァッ!!」

「は、はいぃっ!!」

 

 怒った姉には逆らえない。

 怖いお姉ちゃんを持った妹の、足掻きようのない宿命であった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――戦争は終わった。

 

 かつて、『白面金毛九尾』の二つ名を世に知らしめた、玉藻前という名の妖狐がいた。妖狐の中では歴史上に最も深くその名を刻み込んだ、藍にとっては大先輩にあたる偉大な大妖怪である。

 しかし実のところ藍は、そんな偉大な大先輩をまったくもって尊敬していないし、それどころか軽く軽蔑している。

 なぜなら彼女は、かつての印度では『華陽夫人』の名で、中国では『妲己』の名で国の王を誑かすことで、私利私欲に千人以上の人々を――歴史に名を残す妖怪の中では最も多くの人間を虐殺した、極悪中の極悪妖怪だからだ。

 生きるためではなく、己が愉しむためだけに人間を殺し続けた異常者。藍はどちらかといえば平和主義な妖怪なので、玉藻前の悪逆非道の数々は天地がひっくり返ったって尊敬できないのである。

 なぜ彼女のことを思い出したのかはよくわからない。けれどもしこの場に玉藻前がいれば、つまらない、興醒めだと言って慨嘆しただろう。そして自分は今、この程度で済んでよかったと心の底から安堵している。そう感じることができる自分を、少しだけ幸いだと思った。

 割れ、砕け、原型を留めていない月の大地。傷つき、疲弊し、意気消沈して動くことができない妖怪と玉兎たち。戦が終わったあとに残されたのは、見る者すべての言葉を封殺する、惨たらしいまでの虚無の空間だった。

 幸いにも死者がなく、巻き込まれた者たちも大したことのない怪我で済んだからよかったものを。

 これがもし本当の意味での戦だったなら、今頃一体どうなってしまっていたのか――やはりたとえ已むを得ない事情があったとしても、戦なんてやるものではない。争いは罪だ。そう藍は強く思う。

 しかして、この惨状を生み出した張本人である二人の少女は、

 

「――ねえ依姫、ほんとどうするのこれ? 上の連中から絶対あーだこーだ言われるわよ? あなたがどうにかして能力で直すってことでいい? 大地を司る神くらいいるでしょう?」

「……お姉様。正直申し上げますと、今日はもういろいろな神を降ろしすぎて限界で」

「え、なに聞こえない。もう一度、言えるもんなら言ってみて頂戴」

「……………………なんでもないです」

 

 片や依姫という少女は、地べたに正座で姉から説教を喰らい、

 

「藤千代のバカッ、バカッ!! ウソつき!! わからずや!! おたんこなすっ!! あんぽんたんっ!! すっとこどっこい!!」

「ごめんなさいー……」

 

 片や藤千代も地べたに正座し、藍の主人から癇癪を起こした子どもみたいな罵倒をもらっていた。

 

「月見もぉっ!! こんな御札まで作って、そこまでして月に来たかったの!? 月見、月人になにされたか忘れたの!? なんで私が黙ってたかわからないの!? バカッ!! おたんこなすっ!! あんぽんたんっ!!」

「……悪かったよ。ごめん」

 

 そして藤千代の横では月見が正座し、

 

「そして幽々子っ!! 月見にこのこと教えたの幽々子でしょ!? 私、絶対黙っててって言ったわよね!? 約束したよね!? 幽々子を信じた私がバカだったの!?」

「ご、ごめんね、紫~……」

「バカッ!! すっとこどっこいっ!! すっぽんぽんっ!!」

「すっぽんぽん!? ゆ、紫、それ違うから落ち着いて~!」

 

 幽々子も正座し、

 

「あ、あのっ、小父貴! どさくさに紛れて儂まで正座する必要はないと思うんじゃけど、そのへんいかが!?」

「どうですか、晒し者になった気分は」

「儂、放置ぷれいってあんまり好きじゃな――ゴミを見る目ヤメテ!?」

「お嬢……いえ、駄嬢。いろいろ終わってますねあなた」

「誰のせいでこうなったと!?」

 

 ついでに操も正座していた。

 もちろん、戦に直接は参加せず、危ない目にも遭わなかった藍だからこそ言えることだとは思う。けれど月見や藤千代たちが揃って正座しガミガミ説教される姿は、なんだか微笑ましくて、本当にこの程度で済んでよかったと藍は痛感するのだ。

 それにしても、まさか月見が隠形の御札までこしらえてこっそり参加していたとは予想外だった――いや、今になって振り返れば、頭のどこか片隅でひょっとしたらという思いはあった気がする。月見には月人から瀕死の傷を受けた過去があると聞くが、そんな連中の住む世界になんの物怖じもなく入っていけるところはなんとも彼らしいと思う。そして、それで綿月豊姫なる月人の少女と仲良くなってしまうあたりも。

 しかし、そんなのは紫にとっちゃあどうでもいいわけで。

 

「月見いいいいいっ!!」

「いだだだだだ!?」

 

 激怒する紫は月見の耳をぐいーっ! と真上に引っ張り、

 

「月見のバカバカバカバカバカバカバカバカッ!!」

「ゆ、紫、痛い、いだだだ」

「そんなの知らないっ!! 月見っ、わかってないでしょ!? あのとき(・・・・)、わ、私が、どれだけ! どれだけ怖かったか、ぜんぜんっ、わかってないでしょ……っ!?」

 

 肩で息をする紫の瞳が、あっという間に涙でいっぱいになった。なにか言おうと必死に口を動かすけれど、言葉はちっとも出てこなくて。

 観念したように息をついた月見が、真上から見下ろす紫の襟元を軽く引いた。それだけで紫の体はあっさりと崩れ落ち、月見の腕の中で、紫はそのまま、目の前の肩に顔を押しつけて、少しの間だけ頑張って嗚咽を噛み殺そうとしていた。

 そのとき(・・・・)のことを藍は詳しく知らないし、あまり知りたいと思える部類の話でもないので、今の紫の心を一から十まで推しはかることはできない。しかし仮に、藍の目の前で月見が殺されかけたとすれば、それは藍の心に底知れぬ恐怖を刻み込むだろう。だから、藍よりずっとずっと月見を強く想っている紫は、藍の想像よりずっとずっと恐れているはずなのだ。

 月見は、紫に黙って勝手に月までついてきた。どさくさに紛れて、用意周到な隠形の御札まで貼っつけて。それはつまり、紫にバレたら怒られるとわかっていたのであり、わかった上でやられた(・・・・・・・・・・)という事実の、紫にとってどれほど口惜しいことか。

 恐らく月見は、幽々子に焚きつけられたのもあって、ちゃんと謝って埋め合わせすればいいとでも考えていたのだろうが。

 結局、甘かったのだ。

 もちろん、ちゃんと謝って埋め合わせをすれば紫は月見を許すだろう。ただし、埋め合わせの量は半端では済まない。これから当分の間、月見は紫の傍から離られなくなるはずである。きっと朝から夜まで、何日も何日も。少なくとも、冬がやってきて紫が冬眠するそのときまでは。

 足腰に力が入らない紫を月見が両腕でしっかり支え、さすがに反省したらしい幽々子が、震える背中を優しく撫でて慰めている。紫が泣き出したことで説教を続けるような雰囲気ではなくなったらしく、豊姫も『犬走』もやれやれと片笑みながら舌鋒を収めた。すっかり意気消沈していた周りの妖怪や玉兎の空気も、少しばかり弛緩したように思えた。

 豊姫が言った。

 

「それにしても、土地がズタボロになった以外は大したことなくてよかったわ」

 

 間髪を容れず、一匹の玉兎が鋭く手を挙げて叫んだ。

 

「豊姫様ぁっ! 私たちの心もズタボロでーっす!」

「大丈夫大丈夫、死ななきゃ安いわ」

「自分がずっと安全なところにいたからってーっ!!」

 

 玉兎からの激しいブーイングをさらりと無視し、豊姫はパンパンと両手を叩いて、

 

「はい、それじゃあ戦はおしまいっ。みんなもう充分でしょう?」

 

 明確に言葉を返す者こそいなかったが、途端に湧き上がったグダグダな空気こそがなによりわかりやすい返答だった。

 その中で依姫がぽそりと、

 

「お姉様、まだ藤千代との決着が」

「ごめん、あなたには訊いてないの。黙ってなさい」

「……はい」

 

 依姫はそろそろ涙目だった。

 藤千代が微笑み、

 

「大丈夫ですよ依姫さんっ。とっても楽しかったので、またいつかやりましょうね!」

「っ……はい、是非!」

 

 もちろん、妖怪と玉兎は全力で叫んだ。

 

「「「絶ッッッ対に御免じゃあああああ!!」」」

 

 戦争、ダメ、ゼッタイ。

 天上天下古今無双の戦はみんなの心にとっても大切な教訓(トラウマ)を刻み込み、恙無(つつがな)く終了と相成ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後は、妖怪も玉兎もへとへとに疲弊してしまったことと、すっかりいじけた紫が「かえるっ!! おうちかえるっ!!」と癇癪を起こしたこともあって、グダグダな空気のまま解散の運びとなった。月見はまだ残って豊姫と話をしたい風だったが、今のご機嫌ナナメな紫には逆らえない。藍が少し助け舟を出していなければ、彼もまた、『犬走』に襟首を掴まれ連行されていく操のようになっていたかもしれない。

 このまま限界まで月に居続けるのは論外だが、お別れの挨拶だけはさせてもらえることになった。寂しげに眉を下げた豊姫が、顔半分だけの力ない微笑みで言った。

 

「行ってしまわれるんですね、月見さん。残念です。姫様のこと、いろいろとお聞きしたかったんですけど」

「私も残念だよ。……でも、この通り怒らせちゃったからね。もうワガママは言えないさ」

「う――――――――…………」

 

 月見の左腕には紫がひっついていて、泣き腫らし赤くなった目で、低く唸りながら豊姫を睨んでいる。今の紫にとって、月見と接触してくる月人は一人の例外もなく最大限の警戒対象だ。たとえ月見が大丈夫だと認めた相手でも、絶対に気を許しなどしない。

 

「あ、あの、そんなに睨まなくてもなにもしな」

「う――――――――…………っ!」

 

 その姿はさながら、大好きな飼い主を守ろうと頑張って敵を威嚇している小動物の類だろうか。もしも紫に尻尾がついていたならば、その毛並みはピンピン逆立って天を衝いていたに違いない。大妖怪の名を体現する恐ろしさはなく、ただひたすら微笑ましいばかりである。紫様、またひとつ賢者の威厳を失いましたね! と藍は思った。

 なぜ紫にここまで警戒されているのか、なんとなく心当たりはあったようで、豊姫は寂しげながらも迷うことなく手を引いた。

 その横では対照的に、すっかり意気投合した藤千代と依姫が固く握手を交わしていた。

 

「藤千代、あなたと会えて本当によかったです。これで、きっと、私はまた強くなることができる」

「また、どこかで会えるといいですね」

「ええ。……そのときは、今度こそ、あなたに本気を出させてみせます。待っていてください」

「ふふ。じゃあそのときは、私も、今よりもっと強くなってお待ちしていますね」

 

 藍は笑顔で思う。とっても素敵な約束ですけど、やるなら地上以外の誰もいない世界でやってくださいね。お願いですから。

 夜空に浮かんでいる星を適当にひとつ見繕って、戦場として与えてやればいいのではあるまいか。どうせこの二人なら、空気がなくたって気合でなんとかしてしまえるだろうし。

 というか、「今よりもっと強くなる」とか言ったかこの鬼。

 

「豊姫さん、おみやげありがとうございます。美味しくいただきますわね~」

 

 幽々子が、月の桃が十個ほど詰まった袋を抱えながらうきうきと言った。いいえ、と豊姫は首を振り、

 

「それしか用意できなくてごめんなさい。時間さえいただければ、箱でいくらでも持ってくるんですけど」

「う――――――――…………っ!」

「……とまあ、この通りみたいなので」

 

 うーうー唸って豊姫を威嚇するだけの小動物と化している紫に、みんなが揃って苦笑した。

 

「……では、皆様。気をつけてお帰りくださいね」

 

 そう力なく言う豊姫が、本当に名残惜しそうだったので。もしここで自分たちが「やっぱり帰らない」と心変わりすれば、彼女は満面の笑顔で歓迎してくれるのだろうと藍は思う。意外だったし、不思議な感じもした。月人という存在を紫の話でしか知らなかった藍は、やはり彼女らを妖怪に非友好的な種族だと思っていたから。こうもわかりやすく別れを惜しまれると、なんだか尻尾の付け根あたりがムズムズしてくる。

 いや、多分藍の考えは間違っていない。月人は間違いなく妖怪には非友好的であり、豊姫と依姫が例外中の例外なのだろう。理由は知らないが、ともかく、どこの世界にも変わり者はいるのだ。その変わり者をこの戦で引き当ててしまう月見と藤千代の、なんと運の強いことか。

 

「また、どこかでお会いできることを願っています」

「ああ。縁があればまた」

「月見いいいいいっ!!」

「いだだだだだ」

 

 紫がすごい勢いで月見の耳を引っ張って、そのままスキマの方へ引きずっていってしまった。月見と豊姫がいかにもお互い通じ合った風だったから、我慢の限界を迎えたらしい。「月見はぜんっぜんわかってないっ!」とか「月人と仲良くするなんて絶対にダメなんだから!!」とか「ズルいズルい私だって月見といっぱいお話したいのにっ!!」とかムシャクシャ吐き捨てている。怒りの矛先がズレてきているように見えるのは気のせいだろうか。

 紫が飛び跳ねながら叫んだ。

 

「ほらみんなもお! 置いてくわよもーっ!!」

 

 やれやれと、そんな小さな笑みの息をついて、藍たちは紫を追いかけた。その背に、

 

「さようならーっ!」

 

 豊姫と依姫が、大きく手を振ってくれたので。

 まず月見がすぐ手を振り返し、幽々子と藤千代も続いて――そして少し悩んだ末、藍もまた、控えめではあるけれど三人の真似をしてみた。

 月の世界には、笑顔で藍たちを見送ってくれるようないい月人もいる。

 いろんな意味でひどい戦だったけれど、最後は少しだけ、穏やかな気持ちになれた。

 

 

 

 

 

 ――ちなみに、この戦が終わってからのことだけれど。

 今回の戦を通して争うことの虚しさを知った大半の妖怪たちは、「平和な生活サイコー」とめっきり大人しくなり、闇雲に人間を襲うことはなくなった。

 無論皆が皆そうだったわけではないが、ほどなくして人々を苦しめ続けた疫病と飢饉が去り、魔の存在への恐怖が和らいだことで、力を抑えられず暴れてしまう妖怪もいなくなった。

 世界は平和になったのである。

 

「……あっ! 紫さん、私いいこと思いつきましたよ!」

「……ロクな予感がしないけど一応訊いてあげる。なに?」

「今回の戦で物足りなかった方、きっといますよね? そんな方は是非是非私にかかってきてください! いつでもどこでも好きなだけお相手いたしますよっ」

「「「…………………………」」」

 

 平和になったのである。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「斬る」

「うおっと!?」

 

 そして月見が慌ててしゃがむと、まるで容赦のない銀閃が耳の毛先を掠めた。

 

「待て妖忌、落ち着け」

「うるさいっ! 幽々子様から聞いたぞ、やはり貴様が幽々子様を!」

 

 鬼と化した、魂魄妖忌であった。

 悪い予感というのは得てしてよく当たるもので、月から帰ってきた後日、幽々子の屋敷にやってきた月見を歓迎してくれたのは妖忌の斬撃だった。なんとなく襲われる気がしていたから躱せたものの、そうでなかったら耳が落ちていたかもしれない。月見は妖忌から距離を取りつつ言う、

 

「こら、幽々子から話を聞いたならわかるだろう。幽々子はあくまで自分の意思で抜け出したのであって、」

 

 妖忌は月見を追いかけつつ叫ぶ、

 

「黙れっ、貴様が幽々子様を誑かしたのだ! おのれ妖怪め、今日という今日こそ成敗してくれるっ!!」

 

 予想通りの反応で逆に安心した。

 では月へ行く前に見た未来の通り、池に叩き込んで無理やり冷却してやろうと、

 

「妖忌っ、やめてっ!!」

 

 月見が尻尾を動かそうとした瞬間、屋敷から颯爽と飛び出してきた幽々子が妖忌を後ろから抱き締めた。「おほう!?」と妖忌が変な声を出した。

 幽々子は、自分の体を全体的に押しつけて、

 

「やめて妖忌っ、私のために争わないでっ!」

「ゆ、ゆゆ、幽々ゆゆゆ幽々ゆゆ幽ゆ々幽」

 

 それは、月見の目からでもよくわかるほど見事な密着具合だった。死地へ赴く恋人を引き止めるようにぐいぐい行っている。そのお陰で妖忌は、怒りとはまったく別の感情で顔を真っ赤にしながら、ガタガタと剣を落としそうなほど派手に痙攣していた。

 もちろん妖忌は、『堅苦しい武士』の印象をまったく違うことなく、女性からの身体的接触に対しまったく免疫がない。ましてや相手が敬愛する主人で、女としての発育具合も見事の一言となれば、

 

「お」

 

 破裂寸前一秒前の顔、

 

「――おおおおおおおおおおおおおおお!?」

 

 そして爆発した妖忌は幽々子を振り切って庭を突っ走り、あろうことか自分から、魚が水へ帰るように迷いなく池に飛び込んだ。

 

「……」

 

 派手な水飛沫が収まると、妖忌が背中でぷかぷかと浮かびながら小さなあぶくをあげている。月見は無言で幽々子を見る。幽々子はぴくりともしない妖忌をしばらく見つめ、それから自分の胸に両手を当てて、

 

「――いいですわねこれ。今度から妖忌を黙らせるときはこうしてみましょう」

「……そうか」

 

 まあ、わざとやってるんだろうなとは薄々感づいていたけれど。

 とりあえず月見は、謹厳実直で穢れない青年の、それ故に災難な未来を憂い、心の中で合掌した。

 頑張れ、青年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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