銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第87話 「その夢と因果」

 

 

 

 

 

 ああ、私、ここで死ぬんだ。

 そう覚悟したのは、後にも先にもあの一度だけだ。

 

 森の中を走っていた。幾本もの木々の間を駆け抜け、茂る枝葉が生み出す影を乗り越え、足元で咲く花を踏み潰し、息が枯れるのも構わずがむしゃらに走っていた。

 逃げていたのだ。

 古明地さとりは、森の中を逃げ惑っていた。

 背後から情け容赦なく迫ってくる、怖気立つほど冷たい、刃物のような気配から。

 

 この頃はまだ、さとりは太陽の光の下で息をしていた。それと同時に、他種族との関わりが今まで以上に上手く行かなくなり、次第に住む場所を失い始めた頃でもあった。

 予兆はあった。予想もしていた。だから遂に、来たるべき時が来てしまったのだと、それだけのこと。

 古明地さとりは――もう間もなく、人間たちの手によって退治されるのだ。

 

「ッ、ハッ、ハ……ッ!」

 

 体が重い。息が冷たい。氷の塊を背負い、鉄の塊を引きずりながら走っている気さえする。ロクに呼吸をすることもできないし、意識だって半分飛びかけている。確かに随分と長い距離を走りはしたが、しかしただ走っただけでこうはなるまい。

 掠れた視界で、己の体を見た。

 赤黒い服を着ている。

 早いものだ。ついさっき見たときは、多少なりとも青い布地が残っていたはずなのに。

 これだけ血を流してしまえば、いくら妖怪とはいえ、体の自由も利かなくもなろうか。

 思わず笑った瞬間、声が聞こえた。

 

「まったく……さっさと諦めれば楽に終わらせてあげるのに。追っかけるこっちの身にもなってよ」

 

 これだけ血を失ってもなお、その声を聞いた瞬間に全身の体温が落ち、肌が粟立つ。

 ため息の音を聞いた気がした。

 

「──封魔針」

 

 もはや、どこをやられたのかもわからなかった。さとりの意思に反していきなり膝が折れたから、恐らく脚なのだろうとは思う。さとりの体はあっという間に前へ傾き、そのまま為す術もなく崩れ落ちた。

 

「……ッ!」

 

 枯れた喉では悲鳴も出てこない。

 たった一本の糸でつながれていたさとりの肉体と精神が、完全に途絶した。頭はすぐさま起き上がるべく命令を飛ばすのに、肝心の体がまったく反応しない。羽を切られた虫のように、ただその場で身をよじることしかできない。

 

「やれやれ。やっと捕まえたわよ」

 

 悶えるさとりを侮蔑するように、覇気のない気怠げな声だった。積もった落ち葉をゆっくりと踏み鳴らし、足元の方向から近づいてくる気配がある。さとりは必死の思いで倒れた上体を起こし、やっとの思いで振り返る。

 腋のない巫女服。

 さとりの命を狙う死神は、呆気にとられてしまうほど色鮮やかで、美しかった。

 

「無意味な追いかけっこも終わりよ。神妙にすることね」

 

 温度のない目をしている。慈悲があるわけではなく、かといって冷酷に閉ざされているわけでもない。そのどちらでもない虚無の瞳を覆っているのは、混じりけのない憂鬱ただひとつのみ。

 さとりの能力が、否応なく巫女の思考を読み取る。

 ――さっさと帰りたい。

 ――さっさと帰ってお夕飯を食べたい。

 ――なにを食べようかな。

 巫女は、さとりを見ているのにさとりを見ていなかった。視線はまっすぐさとりへ向いているのに、映っているのはさとりを退治した先の未来だった。まださとりはこうして生きているのに、巫女の頭の中では、すでにさとりは生きてなどいなかった。

 歯牙にもかけないとは、こういうことを言うのだ。

 打ちのめされる。怒りも悲しみも悔しさも通り過ぎ、もうなんの感情も浮かんでこない。強いて言うなら諦観だ。逃げ続けるだけの気力もなく、立ち向かうだけの勇気もなく、命乞いをするだけの執着もない。

 いつしか、言葉がこぼれていた。

 

「どうして……」

「仕事だからよ」

 

 血も涙もない即答だった。

 

「私に依頼してきた人がいたの、あんたを退治してくれってね。……だったら私は、巫女としてそれを全うするだけ」

 

 一息、

 

「──私があんたを退治する理由なんて、それで充分」

 

 さとりだからこそわかる、それは嘘偽りのない巫女の本心だった。そう行動することだけを義務づけられた式神のような、無機質すぎるまでの使命感だった。

 妖怪にとってどこまでも無慈悲で、人間にとってどこまでも正しい。ほんの数度足を動かすだけで事足りる距離なのに、さとりには目の前の少女が、絶望的なほど遠くかけ離れた存在のように見えた。

 

「さて、最期に言い遺すことでもある?」

「……」

 

 さとりは心の中で小さく笑った。いきなり襲いかかってきたやつが随分な言い草だ。遺言なんて、前々から死期を予想していた者が、前々から準備していたからこそ遺せるものだろうに。

 案の定、これといって浮かんでくる言葉もない。まあ、それほど親しい知人友人もいないし、一番大切な妹は無事に逃がすことができたのだし、別に遺言なんて遺さなくても――

 

「──お姉ちゃん!!」

 

 血を失い冷たくなった体が、それ以上のすさまじい悪寒で襲われた。

 巫女から逃げる間感じていた焦燥や恐怖とは、比べるのも馬鹿らしくなるほどの絶望だった。巻き込みたくなくて、守ってやりたくて、自分が囮になることで遠くへ逃がしたはずの、

 

「こいし!?」

「お姉ちゃん……っ!」

 

 横の茂みが動いた。全身木の葉だらけで、泥だらけで、枝で切ったのか膝や腕から血まで流して、古明地こいしが猫のように飛び出してきた。

 飛び出し、巫女の目の前に両腕を広げて立ちはだかった。

 驚愕なんて言葉では到底足りなかった。

 

「な、なんで、どうして来たの!? 早く逃げてっ!!」

 

 全身の血が、残らずぜんぶ抜け落ちた心地になる。

 さとりは、元々非力な覚妖怪の中でも輪をかけて運動が得意ではない。だからこうして人間相手に簡単に追いつかれ、追い詰められている。一方で妹のこいしは、ズバ抜けて秀でてこそいないものの、姉と比べればずっとずっと運動神経がよかった。

 姉の言いつけを守り真逆の方向へ逃げた振りをして、あとから追いかけることだってできるだろう。

 だが、可能不可能を論じるのと、実際にやるかどうかは話が別だ。さとりは咄嗟に立ち上がろうとする。しかしその瞬間、駆け抜けた激痛に呻いて膝から崩れ落ちる。今更のように、右脚が針と呼ぶには太すぎる凶器で貫かれているのに気づく。

 こいしが叫んだ。

 

「お願いっ、お、お姉ちゃんを、退治しないでっ……! お願いだから……っ!」

 

 よほどなりふり構わず走ってきたのか、ロクに喋れもしないほど喉が枯れている。その必死の言葉に胸を打たれた風でもなく、巫女は両目をすっと無感動に眇めた。

 

「……あんた、後ろのやつの妹ね。なに、わざわざ追いかけてきたの? あんたを守りたいっていうお姉さんの意思に免じて、見逃そうと思ってたんだけど」

 

 余計な仕事が増えた――そんなどこまでも鬱陶しげなため息をつき、こいしへ札を突きつけて、

 

「邪魔するんなら、あんたもまとめて退治するわよ?」

「ッ、ダメ……!」

 

 最悪だった。さとりは浅はかな己を責めた。こいしを無事に逃がしたかったのなら、もっと周到に手を尽くすべきだったのだ。最後かもしれない姉の願いなら素直に聞いてくれるはずだと、こいしという妹を信じすぎていた。

 動かなくなった脚を引きずって、せめて一歩、一歩でもと、こいしの背中に縋りつこうとする。

 

「こいしっ! 馬鹿なことしてないで、逃げてっ!!」

 

 こいしだって、姉と同じで戦いは得意ではない。たった一人の人間とはいえ相手は妖怪退治の専門家なのだ、こいしがひとりで勝てるくらいならとっくの昔に自分が追い払っている。

 だから、このままではこいしも――退治されてしまう。

 

「こいし! こいしっ!!」

 

 さとりは懸命に妹の名を呼んだ。そのたびに全身が苦痛で悲鳴をあげた。……そしてこいしは、それでも巫女の前から動こうとしなかった。

 

「……そう」

 

 巫女が、諦めるように首を振った。

 

「それが、あなたの望みってことなのね。……だったら、願いを叶えてあげるわ」

 

 例えば大妖怪が全妖力を開放したときのような、派手な烈風と重圧は感じなかった。かといって、取るに足らない貧弱な霊力だったわけではない。

 研ぎ澄まされすぎて、大気が荒立たない。重圧も生まれない。しかしその圧倒的な力の存在感に、全身の肌が粟立つのは変わらない。

 こいしの片膝が突然折れた。人間離れした巫女の霊力に呑まれたのだ。

 しかし、それでも、彼女は巫女の前から動こうとしない。……いや、もしかしたらすでに、動くこともできなくなってしまっていたのかもしれない。

 

「こい、し……!」

 

 役に立たない脚のことなどもう知らない。さとりは腕の力だけで懸命に体を引きずって、遂にこいしを後ろから抱き締めた。もちろん、自分にできることなんて、たったのそれっぽっちだったけれど。でも、だからって、なにもしないわけにはいかなかったから。

 

「……一応、さよなら、とだけは言っておくわ」

 

 あいもかわらず心を揺らした素振りもなく、巫女は吐息した。

 そして紡がれた言葉は、巫女が誇る最強の術式の宣言だった。

 

「神霊──」

 

 こいしはなにも言わなかった。なにも言わず、たださとりが回した両腕にそっと己の手を重ねた。

 さとりもまた、なにも言わず──たった一人の家族を抱き締める両腕に、自分にできるありったけの想いを込めた。

 

 声。

 

 

「──『夢想封印』!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。

 そこは闇で、自室のベッドの上だった。

 

「ッ、ハッ……! ハッ……!」

 

 息が干上がっている。全身が脂汗でまみれている。まるで、本当に死ぬ直前だったように胸が苦しい。軋む体でゆっくりと大きく息を吸い、古明地さとりはようやく、自分の身になにが起こったのかを理解した。

 また、あの夢だ。

 昔から、もう数え切れないほどうなされている。

 

「っ……」

 

 寒い。今はまだ、秋になったばかりのはずなのに。

 ロクに力の入らない手で布団を手繰り寄せ、顔を埋める。しかしその瞬間、闇の中で再びあの光景が浮かびあがりそうになって、慌てて布団を剥ぎ取った。

 ──やはりしばらくの間は、寝つけそうにない。

 唇を噛み、さとりはベッドを抜け出した。ホットミルクでも飲んで、タオルで汗を拭こう。自室を出て、暗がりの廊下をおぼつかない足取りで歩いてゆく。

 余計なことは考えない。下手に頭を動かせば動かすほど、呪いのようにあの悪夢を思い出しては辛くなるのだ。人のトラウマを読んで戦う妖怪が、自分のトラウマで泣くなんて笑えもしない。

 悪夢にうなされた夜はいつもこうして、心を無にしながらキッチンへ向かうようにしている。

 だから、さとりは気づかない。

 地霊殿の廊下の、さとりが進む方向とは逆側の闇の奥──そこから自分の背をじっと見つめる、悲しげな瞳があることに。

 今も昔も、気づいていない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 案の定、そのあとはなかなか眠れなかった。いっそこのまま起きていようかとも思ったが、しばらくして気持ちが落ち着いてきたらほんのりと眠くなってきたので、さとりはもう一度ベッドに戻って今度こそ寝た。

 悪夢は、見なかった。

 よって寝坊した。

 昼夜の区別がない地底で寝坊というのも奇妙な表現だが、ともかく普段起きる時間になってもさとりは眠ったままだった。誰も起こしに来てはくれなかった。いや、誰かしら様子を見には来たはずだが、よく眠っているさとりを見て、寝かせてあげようとでも考えたに違いない。ペットたちは皆かしこく、さとりがおらずとも自立的に雑務をこなしてくれるし、妹も妹であちこちを好き勝手に放浪している。さとり一人が寝坊したところで、地霊殿の日常にはこれといった支障もないのだ。

 だから誰もさとりを起こそうとすることなく、さとりはすやすやと眠り続けた。

 夢から戻ってくるきっかけとなったのは、部屋のドアがノックされた音だった。

 

『さとり様ー、さとり様ー。起きてますかー?』

「ぅ……んん……」

 

 さとりはぼんやりと目を開けた。見慣れた自室の天井。寝起きで頭が働かず、十秒ほどぼけーっとしていると、

 

『さとり様ぁー』

「……あ。ご、ごめんなさい、お燐」

 

 ようやく覚醒した。今の自分の状況が、いっぺんに頭に入ってくる。お燐がこうして起こしに来てくれているということは、さとりがよほど手酷く寝坊したか、ペットたちだけでは対応できない緊急事態が発生したかだ。

 さとりはベッドから抜け出しつつ、

 

「ごめんなさい、寝坊してしまったかしら」

『それは大丈夫ですよ、あたいも起こさなかったんですし。……開けても?』

「ええ、どうぞ」

 

 そっとドアが開き、その隙間からお燐が顔を覗かせる。さとりは大急ぎで寝間着から普段着に着替えている。

 

「あ、そんなに慌てなくても大丈夫ですよー」

「? なにかあったんじゃないの?」

「あったにはあったんですけど、緊急事態というわけではないので」

 

 確かに、お燐に慌てている素振りはない。けれど、どうしたものかと弱っているようには見える。

 

「ただ、ちょっと困った事態といいますか……」

「……一体なにがあったの?」

 

 お燐はへにゃりと耳を垂らして、すっかり困り果てた様子で苦笑した。

 

「実はこいし様が、おにーさん――月見を連れて帰ってきちゃって」

「……は!?」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「いやあ、びっくりしたよ。風呂場の掃除をしようと思ったら、かごに女の子の服が入ってたんだから」

「えへへー」

 

 月見曰く。

 朝の掃除をしに風呂の脱衣所へ向かうと、なぜかかごに女の子の服が入っている。帽子と服の色合いからすぐにこいしだと気づき、名前を呼んでみると、風呂場の方から元気な返事が返ってくる。なにゆえ彼女が自分の屋敷で、しかもちゃっかり風呂に入っているのかはさておいて、地底の妖怪が地上まで出てきているのはマズいのではないかと思い、温泉上がりのこいしを連れてここまでやってきた――というのが、事の顛末であるらしい。

 当然、

 

「も、申し訳ありません! ウチの妹がとんだご迷惑を……!」

 

 さとりは、先ほどからずっと月見に頭を下げっぱなしだった。人の屋敷に無断侵入したのみならず、お風呂まで勝手に使ったとなれば、怒鳴られたって文句は言えないしさとりの教育を疑われたってぐうの音も出ない。

 しかし当の月見はさして気分を害した風でもなく、ソファに浅く腰掛けて、いつも通りのゆったりとした物腰だった。心を読んでみても、どうやら本当に怒っていないようだった。さとりとしてはありがたいやら申し訳ないやらなのだが、

 

「……というか、こいし! 月見さんから離れなさいっ」

「えー」

 

 月見の背中とソファの間に入り込んだこいしが、後ろから彼の首に両腕を回している。だから月見はソファに背中を預けられないのだ。

 こいしは唇を尖らせ、

 

「いいじゃない、月見だって嫌がってないもん」

「だからって……!」

「いいんだよ。娘というか孫というか、ともかくそういうのが増えたみたいで満更でもないもんさ」

 

 さとりの第三の目が月見の心を読む。――なんでも月見には、彼を父親のように慕い、また彼自身にとっても娘同然な吸血鬼の子がいるそうだ。こいしと同じくらいの、笑顔が愛くるしい女の子だった。

 だからだろうか、下心なんてものはちっともなく、それこそ本当に新しい娘でも持ったみたいに、こいしを優しく想ってくれているのが伝わってくる。なんだか月見さんらしいなあと、さとりはすっかり肩の力を抜かれてしまった。

 

「……わかりました。ありがとうございます」

 

 だが、自分勝手が過ぎる妹に半目を向けるのは忘れない。

 

「……それで? こいし、どうして勝手に地上まで出て行ったりしたの?」

 

 地上と地底は今のところ不干渉の約定が結ばれていて、原則として双方への往来は厳禁だ。破ったところで別に罰則があるわけではないけれど、世の中には面子とか世間体などというものがある。月見の真似をしたのかもしれないが、彼の場合は八雲紫や藤千代の旧友だからこそであり、要するに例外中の例外なのだ。

 こいしは左右に揺れながら、

 

「だって月見、こっちまでぜんぜん遊びに来てくれないんだもん。だから私の方から遊びに行ったの」

「それは仕方ないでしょ? 月見さんには地上の生活があるんだから、いつでもこっちに来られるわけじゃないのよ」

 

 はじめて出会った梅雨のあの日以来、月見はだいたい月に一度程度の割合で、この地霊殿まで遥々顔を見せに来てくれている。さとりはそれだけでも恐縮な思いだったが、月見に心底懐いてしまった妹にとってはちっとも満足できなかったのだ。第三の目を閉じてからというものすっかり気ままな性格になってしまって、思い立ったら即行動、やりたいことをやりたいままにやるのがポリシーになってしまったのは困り者だ。

 

「だいじょぶだいじょぶ、バレなきゃ問題ないでしょ?」

「あのねえ……」

 

 確かにこいしの能力があれば、誰にも気づかれず地上に行って帰ってくることもできるだろうけれど。

 月見がこいしの手の甲を諭すように叩いた。

 

「こいし、あまり家族を困らせるものではないよ」

「……むー」

「これから、もっとちゃんと顔を見せに来るから。それで手を打ってくれ」

「本当っ?」

 

 こいしがころっと笑顔になって、

 

「じゃあ我慢するっ。約束だよ!」

「ああ」

「じゃあねー、指切りしよ!」

「つ、月見さん……」

 

 なにもそこまでしていただかなくても――と申し訳なくなったさとりは口を挟もうとしたが、いいんだよ、と月見の心の声に制された。

 ――大丈夫だよ。面倒だったり迷惑だったりするんなら、誰もこんなことしないだろう?

 本日二度目、さとりはまた肩の力を抜かれた。これが月見さんなんだな、という実感だった。人と友誼を結ぶ努力を惜しまない――いや、本人からすれば努力という意識すらないはずだ。息をするように人と関われる。お人好しすぎるほど面倒見がいい。過去の一件を引きずり地霊殿に閉じこもりがちな自分とは正反対で、さとりの目には少し、月見の姿が眩しく映った。

 ふと、この世にもう少しでも月見のような妖怪が多ければ、なんてことを考えた。もしも本当に世界がそんな風だったなら、さとりが地霊殿に閉じこもることも、そもそも地底に移り住むこともなかったかもしれない。太陽の光が当たる場所で、それなりに上手く折り合いをつけてもらいながら、のんびり平和に暮らしていたかもしれない。

 そう夢想することに、意味などないけれど。

 

「――指切ったっ」

 

 仲良く指切りしている月見とこいしを見ていると、思わずにはおれない。

 ひょっとすると月見はそう遠くないうちに、この地霊殿のみならず、地底そのものにまで新しい光を差し込ませてしまうのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見にとって、古明地こいしとフランはとてもよく似ている。

 どちらも明るく元気いっぱいな女の子だし、背格好がちょうど同じくらいだし、なにより月見によく心を開いてくれている。どちらも洋館で暮らしているし、心配性なお姉さんを持っているし、同じ屋根の下で暮らす家族からよく慕われてもいる。だからだろうか、月に一度の地霊殿訪問を重ねるに連れて、段々と娘が増えたような心地になってきている自分がいる。

 

「ほらほら月見ー、早く早くー」

「わかったわかった。そんなに引っ張らないで」

 

 月見の手をグイグイ引っ張り先へと急かす姿なんて、まさしくフランではないか。ご機嫌なリズムで揺れるこいしの背に、月見は七色の宝石を吊り下げる吸血鬼の翼を幻視した。

 地霊殿の長い廊下を歩いている。先ほどまでさとりとのんびり世間話をしていた月見だが、今は飽きたこいしに彼女の部屋まで連行される途中だった。口よりも手足を動かす方が好きな子なので、月見が話ばかりしているとすぐこうなるのだ。

 はてさて今日はどんな遊びに付き合わされるやらと思いながら、月見はなんとなしに、窓の向こうで広がる地霊殿の中庭へ目を向けた。綺麗に手入れされたガーデニングと、灼熱地獄跡へと続くステンドグラスの天窓が見える。この景色を前にすると思い出す少女の名があるのだが、今はそれらしい姿は見当たらない。折悪しく――いや、彼女の場合に限っては、折よくというべきなのか。

 ちょうど、こいしも同じことを考えたらしかった。

 

「おくういないね。でも、いない方がいいのかなあ」

 

 月見を見上げ、

 

「ごめんね。おくう、月見にいっつも意地悪なことばっか言ってるよね」

 

 灼熱地獄跡の温度管理を役目としている霊烏路空は、月見が――というか地上の妖怪全般を毛嫌いしているようで、知り合ってからこの方、その絶対零度の瞳が和らいだためしは一度もない。もしかするとかつての文を超えるかもしれない、月見の人生史上最大の強敵だった。

 ただ、

 

「本当はすごく優しくていい子なんだよ。でも、ちょっと意地っ張りで」

 

 何度か見かけたことがある。さとりやこいしを前にしたときのおくうは、見ているこちらにまで伝染(うつ)ってしまうくらいのとても素敵な顔で笑っている。それがおくうの本来の姿なのだろうと月見は思う。だからこそ地上の妖怪に向けるおくうの感情が、嫌悪を超えて憎悪とすらいえるものであることを認めざるをえない。

 霊烏路空は主人想いな優しい妖怪であり、故に地上の妖怪を毛嫌いするのだ。おくうにとって地上の妖怪とは、かつて主人たちを拒絶しこの地の底まで追いやった上、その事実を忘れ、太陽の下でのうのうと平和な日々を過ごしている『敵』に他ならないのだから。

 

「あ」

 

 中庭へ目を戻したこいしが、ふと小さな声をあげた。月見がつられて同じ方を見ると、いつの間にか開け放たれていたステンドグラスの底から、黒い翼を羽ばたかせておくうが飛び出してきたところだった。

 今回は、頭をぶつけたりはしなかったようだ。

 あー、とこいしがため息をついたような声で、

 

「おくう、機嫌悪そうだなー」

「そうなのか?」

「うん。ああいう風に勢いよく飛び出すのって、大抵イライラしてるときなの」

 

 おくうは月見たちに気づいていない。遠目だが、両脚で荒っぽく着地してみせたおくうは、なるほど唇をへの字に曲げてなんとも不機嫌そうに見える。軽い気持ちで声を掛けようものなら、返ってくるのは射るかの如き視線と抉るかの如き罵倒の一択だろう。

 

「「……」」

 

 言葉など一言も必要ではなく、月見とこいしは一瞬のアイコンタクトだけで通じ合った。頭の中では同じ言葉が浮かんでいるはずだ――『触らぬ神に祟りなし』。おくうがこちらに気づいていないのなら、このまま立ち去ってしまった方がいい。抜き足差し足で慎重に、かつ迅速に廊下を渡り切ろうとする。

 運がなかったのだろう。

 

「――あっ、お前! また来てたの!?」

 

 あー。そんな顔で月見とこいしは足を止めた。

 覚悟を決めて外を見る。案の定、眉を逆立ててズンズン接近してきているおくうがいる。勝手口を蹴飛ばす勢いで開け放つ。一歩を進めるごとに表情がどんどん険しくなっていく。月見はとりあえず、

 

「……やあ、空」

「気安く話しかけないで!」

 

 話しかけてきたのはそっちだろうに。

 おくうはそのまま月見の胸ぐらに掴みかかるかと思われたが、こいしがすかさず割り込んだ。

 

「こらおくうっ、いつまで月見のこと『お前』なんて呼んでるのっ」

「っ……こいし様」

 

 足を止めたおくうは一瞬戸惑ったが、すぐに鋭い眼光を甦らせて月見を睨む。

 

「こいつは、地上の妖怪じゃないですか」

「『こいつ』じゃないってば。月見だよ」

「名前なんてどうだっていいです!」

 

 まったく取りつく島もない。口を開くべきでないのは一目瞭然なので、月見はなにも言わずに黙っている。さすがのこいしも頭を痛めた様子でため息、

 

「あのねー……月見は大丈夫だって何回も言ってるでしょ? 私にも、お姉ちゃんにもひどいことしないよ? いっつも遊んでくれるんだよ?」

「……」

 

 が、もしおくうがこの程度で考えを改めるのであれば、月見は彼女ととっくの昔に和解している。おくうはこいしの言葉には答えず、代わりにまた月見を睨んで、

 

「そうやってこいし様たちに尻尾振って、なにを企んでるの」

「……おくう、いい加減にしないと怒るよ」

 

 こいしの声音に明確な怒りが宿った。月見を庇ってくれるのは嬉しいのだが、しかし待ってほしい、それでは火に油を注ぐばかりで、

 

「こいし、落ち着いて。喧嘩はダメだよ」

「月見……」

 

 だから買い言葉はやめて、ここは上手くやり過ごそう――そう言外に言ったつもりだったのだが、上手く伝わらなかったらしく、

 

「ねえ、おくう。これでもまだ、月見が悪い妖怪だと思う?」

「……」

「おくうだけだよ、そんなこと言ってるの」

 

 閉ざされたおくうの唇が、怒りを噛み締めるように震えた。

 

「……私は、絶対に信じません」

 

 泣きそうな声で、腕を振った。

 

「だいたい、さとり様とこいし様をここまで追いやった地上の連中が、今更なんの用だっていうんですか!? 知らないからそんなことができるんです! さとり様は、さとり様は、昨晩だって(・・・・・)──」

「おくうっ!!」

 

 その怒号の主がこいしだったのだと、月見はすぐには理解することができなかった。こいしの小さな体の、一体どこからそんな大声が出てきたのか――そう思わしめるほどに、それはあまりに強烈で容赦のない叫びだった。

 おくうが悲鳴のように息を呑み、それっきりすべての動きを止めた。

 こいしはゆっくりと長く深呼吸をし、きつく絞り出すような声で言った。

 

「……私、言ったよ。いい加減にしないと怒るって」

 

 おくうの表情が、崩れた。

 最悪だった。おくうもおくうだが、こいしもこいしだった。触らぬ神に祟りなしだとわかっていたはずなのに、結局こいしは、触るどころか相手を思いっきりぶん殴ってしまった。それはおくうにしてみれば耐えきれないほどに苛立たしく、悲しく、そして残酷な拒絶に他ならなかった。

 泣いていたはずだ。

 

「っ……!」

 

 こいしに背を向け、翼のはためく音と力なく舞い落ちる黒の羽根だけを残して、おくうの姿は灼熱地獄の底へと消えた。

 羽根がすべて床に落ちると、こいしが月見のお腹に飛び込んできた。突然の行動に驚いたのはほんの一瞬で、抱き留めたこいしの肩が震えていると気づいたから、月見は膝を折って彼女の背中を優しくさすった。

 頭が冷えて、だんだんわかってきたのだろう。自分が一体、家族になにをしてしまったのか。

 

「……大丈夫だよ」

 

 必死に声はあげまいとするこいしをあやしながら、月見は言った。

 

「空があんな風に私に言ってくるのは、お前のことが大好きだからさ。地上の妖怪が嫌いっていうのもあるんだろうけど、それ以上に、お前が心配で心配で仕方がないんだ」

 

 すん、とこいしが鼻をすする。

 

「私はまだ無理そうだけど、お前ならすぐ仲直りできるよ。……自分がなにをしたらいいか、わかるな?」

 

 こくん、と頷く。

 

「私がいるとまたややこしくなるだろうから、お前ひとりでやるんだ。できるな?」

 

 こくん。

 

「いい子だ」

 

 背中をさする恰好のまま、月見はこいしを抱いて立ち上がった。こいしがひゃっと小さな声をあげ、その拍子に月見とまっすぐ目が合った。

 

「ぅ……」

 

 泣き顔を見られたのが恥ずかしかったのか、こいしはすぐさま月見の肩に顔を埋めた。月見は微笑み、震えの止まったこいしの背中を優しく叩いた。

 

「でも、謝りに行くのはお互い落ち着いてからね。まずは部屋に行って休もう」

 

 こくん。

 

「……月見さん? なにかあったんですか?」

 

 月見の肩に顔を埋めたままなこいしをあやし続けていたら、ふと背後から名を呼ばれた。今の騒ぎを聞きつけたのだろう、お盆の上にジュースのコップを乗せたさとりが、早歩きで突き当たりを曲がってきたところだった。

 或いは、こいしが怒鳴ったのは正解だったのかもしれない。それでおくうが逃げ出していなければ、さとりまで巻き込んで、事態は目も当てられないほどややこしくなっていたはずだから。

 月見が答えるより先に、彼女は月見の心を読んで――もしくはあたりに散っている黒の羽根を見て――途端に腑に落ちた顔をした。

 

「……おくうですか。すみません、あの子はきっとまた失礼なことを言いましたよね。あとでよく言って聞かせますので――」

「よしてくれ。ますますややこしいことになっちゃうよ」

 

 さとりが不思議そうに眉を寄せた。月見は中庭を――おくうが消えていったステンドグラスを眺め、

 

「こればっかりは、今すぐ言ってどうこうできる問題じゃないよ。私を庇ってくれるのは嬉しいけど、これじゃあ空が可哀想だ。あの子は、本気でお前たちを心配してるんだから。なのに怒られるなんて、空にしたらきっと堪ったもんじゃない」

 

 むしろ、褒められないことをしているのは自分なのかもしれない。さとりやこいしをはじめとして、勇儀やパルスィ、聖輦船の面々など、月見と好意的に接してくれる者たちは多いけれど、それでも地底は過去の後ろめたい因縁から生み出された世界なのだ。紫や藤千代から許可をもらっているとはいえ、会いたがってくれる人がいるとはいえ、そうそう軽い気持ちで足を踏み入れていい世界ではないのかもしれない。

 だから、押しつけてはいけない。

 

「ゆっくり時間を掛けるべきだと私は思うよ。私の友人に言わせれば、あらゆるものは常に変化していくそうだ。焦らずじっくり構えていれば、不思議とそのうちに、わだかまりが解けるいいタイミングが巡ってくるものさ」

 

 文のことを思い出す。仲直りをしようと、特別月見が意識していたわけではない。けれど妙な巡り合わせで突然酔った彼女が降ってきて、一晩屋敷で休ませてやるうちに、あんなに嫌われていたのがすっかり過去の出来事となっていた。

 時間がすべてを解決してくれる、というわけではないけれど。でも、焦ることで見失うもの、あえて時間を掛けることで見えてくるものはあるはずだと月見は考える。

 

「逆効果だから、空を叱らないこと。私なら大丈夫だよ。急がないで、もう少しどっしり構えてみよう」

 

 そして聞こえたのは、一息をつくような呟きだった。

 

「……やっぱり、月見さんは月見さんですね」

 

 さとりが、微笑んでいた。

 

「ありがとうございます。正直私、とても不安だったんです。おくうが、月見さんから嫌われてしまうんじゃないかって。このまま仲良くなんてできないんじゃないかって」

「おや、随分と短気な妖怪だと思われてたんだね」

 

 ごめんなさい、と苦笑し、

 

「でも今の月見さんの言葉を聞いて、考えが変わりました。いつか絶対、おくうもわかってくれるはずです。月見さんなら、大丈夫なんだって」

「……そうなればいいね」

「なりますよ、きっと。案外、私たちの誰よりも仲良くなっちゃったりするかもしれませんよ?」

「想像できないなあ……いて」

 

 突拍子もなく、こいしに首の皮をつねられた。あいかわらず月見の肩に顔を押しつけたままの彼女だけれど、なんとなく、「また月見はお姉ちゃんとお話ばっかして!」と怒られたような気がした。

 バッチリ見ていたさとりが、

 

「こら、こいし……」

「あんまり立ち話するなってさ。じゃあ、行こうか」

 

 よっとこいしを抱き直し、彼女の部屋まで向かう道を再開する。その後ろをさとりが、コップのジュースをこぼさぬよう慎重な足取りでついてくる。

 月見はもう一度だけ中庭を見た。灼熱地獄跡へと続くステンドグラスは、すべてが固く閉ざされている。

 今はまだ、月見の存在を拒絶するように。

 

 

 

 結論をいえば、月見とさとりの予感は当たっていた。幻想郷が真っ白く染まった冬の季節に、『タイミング』は巡ってくることとなる。

 ただしそれは、単なるタイミングと呼ぶにはあまりに大きく険しい、異変という名の試練だったのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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