銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色
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第94話 「しばし遠い春を想う」

 

 

 

 

 

 なんとも勿体ないことに、この世は過ごしやすい季節ほど早く過ぎ去るようにできている。

 もちろん、所謂『楽しい時間ほど早く終わり辛い時間ほど長く続く』という心理が作用している可能性は否めない。しかしそれを差し引いても、やはり冬の足音は随分と近づいてくるのが早いと月見は感じる。夏の暑さが和らいだのがつい一週間ほど前で、肌寒くなり始めたのが昨日一昨日の話のように思える。恵みの秋はあっという間に終わりを迎え、幻想郷を小手調べの寒波が覆い、本格的な冬の到来を住人たちに予感させていた。

 まだ雪は降っていないが、それも今だけだろう。朝は思わず身震いしてしまうほど冷えるし、出掛ける際は襟巻きや手袋が手放せなくなりつつある。多くの生命にとって最も過酷な辛抱の数ヶ月。月見が幻想郷に戻ってきてからはじめて迎える、白の季節だった。

 そんなあの日の冷えた朝方、起きがけの月見は寝室から一歩出た瞬間スキマに落下した。

 声をあげる暇もなかった。まだ完全に起ききっていない頭と体では、咄嗟に飛んで回避することもできなかった。襖を開けて一歩目の足元で待ち構えるなんて卑怯ではないか。月見は数秒の間、無数の瞳が蠢く赤黒い空間を漂い、ほどなくして何処かの畳にべしゃりと背中から叩きつけられた。

 コフ、と一瞬呼吸ができなくなる。そんな月見にお構いなく、すぐ傍から降ってくる明るく元気な声、

 

「おはよう、月見っ」

「……ああ」

 

 そこにいたのはうきうき笑顔の紫であり、落ちた先は、今となってはすっかり見慣れた八雲邸の茶の間だった。

 呻く月見は畳の上に大の字になって、

 

「……朝っぱらから突然なんだい。心臓に悪い」

 

 彼女の行動が唐突なのは今に始まったことではないけれど、それでもなにも言わずスキマで強制搬送というのは珍しい。いつもなら天井から降ってきて、これこれこういうわけで連れて行くけどいいかと確認くらいはするはずなのに。

 紫はうきうき笑顔のまま膝を折り、月見の脇腹をツンツンとつついた。

 

「残念ながら、あなたは私に捕まってしまいました」

「なんだって、それは本当に残念だ」

「そこは嘘でも肯定しないで!?」

「冗談だよ。はい、続き」

 

 むう……と紫は口をへの字にしながらも、空咳ひとつで気を取り直して、

 

「月見には、今日一日私と一緒にいてもらいます。拒否権はありませんっ」

「それは……構わないけど」

 

 これといって、急ぎの用事があるわけでもない。

 

「しかし、一体なんの用で?」

「……なんだと思う?」

 

 わからないから訊いているのだけれど。

 

「ねえ。……月見は、覚えてる? それが答え」

「……」

 

 それでも一応、考えてみることにした。

 随分と思わせぶりな質問だ。そういう訊き方をしてくるということは、もちろん紫は覚えていて、同時に月見にも覚えていてほしいと願っているのだと推測できる。それが、彼女にとってとてもとても大切なことだから。だから月見が出かけてしまう前に、もしくは水月苑に誰かがやってきてしまう前に、朝一番で月見を誘拐した。そしてその上で、月見に要求するのは『今日一日一緒にいること』と来ている。

 紫と一緒にいてあげなければならない、大切なこと。

 月見は記憶を遡る。決して最近とは限らない。もしかすると、月見がかつて幻想郷で生活していた頃、幻想郷がまだ完成していなかった頃、もしくはそれ以上の過去まで遡るのかもしれない。例えば昔のちょうど今頃の季節、月見と紫はなにをしていたか。そういえば、あの頃も紫に問答無用で拉致されていたような気がする。その理由は確か――

 

「――ああ」

 

 考えてみれば、簡単なことだった。

 起き抜けを前置きなくいきなり強制搬送されたのにも、ぜんぶ納得がいった。

 

「そうか。……もう、そんな季節なんだな」

 

 こく、と紫は頷いた。それから、月見が思い出してくれたことを喜ぶように、にへ、と小さく笑った。

 月見はまぶたを下ろし、深く息を吸って、もう一度その言葉を繰り返した。

 

「……そうか」

 

 不思議な感覚だった。月見にとっては何百年振りにもなる話だからか、頭ではわかってもまるで実感が湧かなかった。なんの根拠もないのに、これからも同じ日常が続いていくのだと疑ってもいなかったのだ。

 紫が、言った。

 

「そう。……だから、ね? いいでしょ?」

「ああ」

 

 月見は起き上がり、ちょっぴりだけ寂しそうな紫の瞳を、まっすぐに見返した。

 あの頃と、同じ言葉で。

 

「そうだね。今日くらいは、一緒にいようか」

「……!」

 

 途端に花開く、眩しく愛くるしい、少女の満点の笑顔。

 

「――うん!」

 

 それと同じタイミングで、廊下の方からぱたぱたぱたーっと元気な小走りの音が聞こえてきた。

 

「……あ、月見様! おはようございます!」

 

 転がり込んできたのは橙だった。かわいらしい花柄のエプロンを着て、ぴっしりと三角巾を被っている。藍と一緒に朝食の支度をしているのだろう。普段は『マヨヒガ』という化け猫の里で暮らしているが、こうしてしばしば八雲邸にやってきては、率先して藍のお手伝いをしているとてもよい子なのだ。

 

「おはよう。こんな朝からお手伝いなんて偉いねえ」

「えへへ……待っていてくださいねっ、もうすぐ支度ができますから!」

 

 忽然と現れていた月見を前にしても、橙は驚きもせず、疑問符のひとつも浮かべなかった。座敷の真ん中までトテトテと駆けていき、瞬く間に整理したテーブルの上を布巾でテキパキ拭きながら、

 

「月見様の分の朝ごはんも、ちゃんと用意しましたので!」

「ありがとう。……どれ、私も皿を運ぶくらいは手伝うよ」

「いえいえ、大丈夫です!」

 

 立ち上がろうとした月見をすかさず制して、彼女はまばゆい笑顔で言うのだ。

 

「月見様は、紫様のお傍にいてあげてください!」

 

 紫が顔を両手で押さえてぷるぷる震え、「天使……っ」と小さい声で呟いている。そうなってしまうのも無理はない、本当に思いやりあふれる眩しい言葉だった。さすが、橙の純粋な性格と藍のまっすぐな教育がよく表れている。

 台所の方からその藍の呼ぶ声がして、元気に返事をした橙がまたぱたぱたぱたーっと駆けていく。月見は健気な少女の背中を見送って、

 

「将来は立派な子に育つんだろうなあ……。さすが、いい教育してるよ」

「ふふふ、それほどでもないわ」

「え? お前のことは言ってないけど……」

「なんで!? わ、私だっていろいろ教えてるもん!」

「……そうなんだ、すごいね」

「本当だってば!」

 

 普通に意外だった。てっきり橙の教育も家事と一緒で、ぜんぶ藍に放り投げているものだとばかり。

 しかし、そうと知ったら途端に不安になってきた。もちろん紫だって、こんなナリでもいっぱしの大妖怪なのだから、妖術呪術の方面でその気になれば教鞭を執ることもできるのだろう。更には『妖怪の賢者』の二つ名らしく、様々な学問に精通しているという意外な一面も持つ才媛である。

 だが、技や知識に収まる薀蓄(うんちく)を語るだけが教育には非ず。むしろ、技でも知識でもない、生きとし生けるものとしての心を育むことこそが本懐。教科書を読ませるだけで立派な子どもが育つなら、誰も子育てや教育で苦労などしないのだ。

 こいつ、絶対余計なこと教えてる。ドヤ顔で教えてる。間違いない。目に浮かぶようだ。

 そして橙に吹き込まれた余計な知識を、あとで藍がその都度修正しているのだろう。幻想郷に紫Jr.が誕生していないのは、ひとえに藍の努力の賜物。やっぱりあいつの教育はさすがだなと、月見は噛み締めるように思うのだった。

 橙と藍が座敷に入ってきた。二人とも両手に木目豊かな折敷(おしき)を持っていて、藍は組んだ九尾の上に更に二膳を載せている。「朝からそんな気合入れなくても……」と呆れるほど見事な朝食である。八雲藍は、とりわけ料理に対して妥協という言葉を知らない。

 

「おはようございます、月見様」

「おはよう。また随分気合入れて作ったねえ」

 

 折敷の上で、藍特製の朝食は光を放たんばかりだった。このまま料亭の懐石として出しても通ってしまいそうだ。ご飯に汁物に焼き物、煮物、揚げ物、蒸し物、和え物、果物――この朝早くに合わせてここまでの品を仕上げるためには、夜空が白み始めるのと同時に起床しなければならないのではないか。

 料理をテーブルに並べた藍は、胸に手を遣ってちょっぴり得意げな顔をした。

 

「月見様に下手な料理はお出しできませんから。気合入れましたっ」

 

 紫が半目で、

 

「ねえ藍、それってつまり私には出せるってこと? こんなに豪華じゃないわよねいつも」

「……さあ配膳できましたっ。冷めないうちに食べましょう!」

 

 藍は笑顔でスルーした。

 紫が頬を膨らませ、月見の袖をぐいぐい引っ張った。

 

「月見っ、どう思うこれ!? ご主人様への敬意が足りないんじゃないかしらっ」

 

 だったら普段から、敬意を払ってもらえるようなカリスマある行動を心がけてごらんよと思う。

 もっとも、

 

「そうかな。真面目が服着て歩いてるような藍が、あんな態度をするのってお前くらいだろう? それは裏を返せば、お前のことを気が置けない家族だと思ってる証拠じゃないか」

 

 前提として、藍が紫を主人として尊敬しているかはわからないけれど、家族として愛情を寄せているのは間違いない。夏の異変のとき、彼女はひたむきに紫を想い、月見と戦うことすら厭わなかったのだから。そうでなかったら、紫の顔面にはとっくの昔に辞表が叩きつけられている。

 そして、好きな相手を雑に扱うというのはすなわち、「この人なら大丈夫」という掛け値のない信頼の裏返しなのだ。肩肘を張らず、体面を繕わず、変に気を遣わず、ありのままの自分を見せられるほど心を許しているという言い逃れのできない証拠なのだ。

 

「そっか……そうね、そういう考え方もできるわね! もぉー藍ったら素直じゃないんだからっ」

 

 あっという間に丸め込まれるチョロい紫を、微笑ましい気持ちで眺めながら。

 けれど、決して間違ってはいないはずである。

 他でもない月見自身もまた、そうなのだから。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 特にこれといったこともなかった。予定らしい予定を立てることもせず、月見は紫たちと、その場の思いつきに任せてのんびりゆったり時を過ごした。

 

「――月見月見、尻尾出して! 毛繕いしてあげるっ」

 

 食後しばらく。紫がブラシを片手にきらきらした目で詰め寄ってきたので、月見はやらせてみることにした。もちろん普段なら素気なく断っているところだが、今日くらいは特別なのだ。

 

「「……」」

「……お前たちもやってみるか?」

「「はいっ」」

 

 じーっと月見の尻尾を凝視していた藍と橙も、どうせだからと誘ってみたら二つ返事だった。

 毛が抜けても大丈夫なよう、紫がスキマからチェック模様のレジャーシートを引っ張りだして畳に広げる。尻尾をすべて出すのは、夏の異変以来の数ヶ月振りだった。月見が十一尾をシートの上に乗せると、ちょっとした銀のもふもふクッションが出現した。

 というわけで、ブラッシングである。人にやってもらうのは一体何百年振りなのだろう。「これは……夏より更にもふもふになってる! なんてこと!」「もう冬ですからね」「藍様も、一段ともふもふになりましたよね!」と他愛もない雑談で盛り上がりつつ、少女たちが思い思いのやり方でブラシを動かしていく。月見はされるがままになりながら、テーブルに頬杖をついてぼーっと庭の景色を眺めている。

 背中に、紫の楽しそうな声が掛かる。

 

「どう月見、気持ちいい?」

「ああ、もちろんだとも」

 

 月見はそれから少し悩み、

 

「……でも、紫が一番下手だね」

「うそぉ!? なんでどーして!? こんなに愛情こめてやってるのに!」

「紫様、いいことを教えてあげます。気持ちをこめるだけで上手くいくなら、誰もなにも苦労なんてしないんですよ」

「う、うぐぐぅ……!」

 

 藍は言うまでもなく上手い。この少女は本当に、なにをやらせても高い水準でそつなくこなす。月見にもプライドがあるのでやらないが、狐の姿でぜんぶを任せたらさぞや天国のような心地になれるはずだ。

 橙も意外と上手い。藍と比べれば子どもらしいたどたどしさが否定できないけれど、気持ちをこめてくれているのが伝わってくるし、それがよく手つきに表れている。明らかに場慣れしている。きっとマヨヒガでは、たびたび仲間たちの毛繕いをしてあげているのだろう。

 そして紫。もちろん、下手というのは藍たちと比べればの話で、決して壊滅的な腕前をしているわけではない。気持ちだって、もしかすると三人の中では一番よくこめてくれているかもしれない。しかし少々空回り気味というか、縦横無尽にブラシを動かすものだから毛先が絡まってだいぶ痛痒い。ってかいま明らかに「ブチッ」っていったんだがお前。

 しかし、まあ。

 

「み、見てなさいよー。すぐに一番上手くなってやるんだから!」

 

 藍と橙の手元を盗み見つつ、あれこれ試行錯誤しながら一生懸命頑張る紫に、これ以上を言うのも野暮だと思った。気持ちだけですべてが上手く行くとは限らないけれど、心さえこもっているのならいくらでも伸び代はあるのだ。またブチッといったが気がするが、ともかくそういうことだから好きにやらせてみようと思うのだ。

 そしてだんだんと、紫のブラシで毛を抜かれる痛痒さがクセになりかけてきた頃だった。

 

「さあ月見、選んでっ。誰と誰にやってほしい?」

 

 月見の尻尾は十一本あるので、三人で均等にブラシをかけていくと二本余る。もちろん藍も橙もはじめは主人に譲ろうとしたが、なぜか紫が「月見に選んでもらわないとダメなのっ」と変な意地を張って聞かなかった。つまり、最後には誰か一人が諦めなければならないのであるが、

 

「……っ」

 

 紫がものすごい眼力で月見を凝視している。真剣に、必死に、けれどどこか不安げに。自分を選んでほしいと願いつつも、一番下手だし選んでもらえないだろうなあ――そんな諦めも混じっているように思える。

 だから、というわけではないけれど。

 月見は藍と橙を見た。まさに同じことを考えていたようで、アイコンタクトだけで月見たちは通じ合っていた。藍と橙がお互い頷いて意見を確認し合い、最後に藍が月見へ向けて首を縦に振る。だから、月見も同じ動きを返して微笑んだ。

 

「……じゃあ、二本とも紫にやってもらおうかな」

「……へ?」

 

 紫の目が点になった。

 

「あ、えっ、二本とも? で、でもでも私が一番下手だし……」

「関係ないよ。私は、お前にやってもらいたいんだ」

 

 単純な腕の良さで選ぶなら、紫の予想通りに藍と橙に頼むのが筋なのだろう。しかし、繰り返しになるが、今日だけは特別なのだ。紫が喜んで、楽しんでくれるのならそれが一番いい。

 別に、藍と橙の毛繕いは、これからも頼めばやってもらえる。

 けれど紫の場合は、違うのだから。

 

「ダメかな」

「ぜ、ぜんぜん!?」

 

 紫はわたわたして、

 

「ほ、本当に私でいいのね!? あとでやっぱりって言ってもダメよ!? 最後まで私なんだからね!?」

「ああ。お願いするよ」

 

 夢じゃないんだ、ほんとに月見が私を――そんな顔で紫が押し黙る。しかし状況が飲み込めてくるにつれて、次第に頬がだらしなく弛んでくる。それを唇に力を入れて支え、ほんのりと赤らみながら、彼女はやがて笑顔の大輪を咲かせた。

 

「まっかせて! 愛情だけなら誰にも負けないんだからっ」

 

 そのとき月見と藍と橙は、きっと同じ顔をしたと思う。『妖怪の賢者』の呼び名らしからぬ、幼くて、無邪気で、お調子者で、垢抜けなくて。

 しかし、そういう彼女こそが。自分たちは、なによりも好きなのだという顔を。

 

 

 

 

 

 ちなみにこのあと、藍の尻尾も毛繕いしようということになって、

 

「どうだい藍、心地の方は」

「え、ええ、とても気持ちいいです。……でも、やっぱり紫様が一番下手ですね」

「うぐぐぐぐぐ……!」

 

 やっぱり、愛情がすぐさま実を結ぶほどこの世は甘くなどないようだった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、博麗霊夢は雷鳴のような腹の虫を響かせた。それを否応なく目の前で聞かされた霧雨魔理沙は魔導書から目を上げ、女としての自覚が決定的に欠けている友人に向けて顔をしかめた。

 

「おい霊夢、お前さっきから一体なんなんだ。いくらなんでも腹減りすぎだろ」

 

 一度ならまだしも、今のでもう何度目になったのやら。ぐぐううう、と霊夢は腹で返事をした。器用すぎてイラッとした。

 もともと魔理沙は博麗神社の常連客だが、とりわけ冬の間は、ほとんど毎日をように鳥居をくぐるのが毎年の恒例行事だった。

 なぜか。

 炬燵があるからだ。

 炬燵はいい。人類が生み出した最高級の叡智の結晶だ。炬燵を超える発明品は、魔理沙が学ぶ魔術界隈にだって転がっちゃいない。炬燵を発明した人類は間違いなく優秀な種族であり、その端くれに自分如きが生を賜ることができたのは、魔理沙にとってほんのささやかな誇りでもあった。

 特にこの、博麗神社母屋に置かれた炬燵。なんでもこれは電気炬燵というやつで、人里でちらほら見かける囲炉裏や火鉢を使った炬燵を進化させた最強の炬燵らしいのだ。事実、魔理沙にとっては満場一致で最強の炬燵だった。スイッチをカチッと入れるだけでアラ不思議。暑くなったら簡単に消せて、寒くなったらまた簡単につけることができて、火を管理する手間なんて一切ナシ。最強である。

 だから魔理沙は毎日頑張って冬の凍える空を飛び、博麗神社の母屋に居座るのだ。

 なぜ年中無休で素寒貧の博麗神社にそんな高級品があるかといえば、それは霊夢が、八雲紫にとって娘同然の存在であるからという一言に尽きる。この炬燵は紫が外の世界から持ち込んだものだし、電気を供給するためのコードが伸びる先は、小さなスキマでつながれた何処とも知れぬ外の世界である。かわいい娘には暖かく冬を越してほしいという、八雲紫の粋な計らいなのだった。

 なんといっても、魔理沙の体を直接、均等に、まるで包み込むように優しく温めてくれるのがいい。これは暖炉や囲炉裏では到底及ばないこたつだけの御業だ。この犯罪的な心地良さを知ってしまえば最後、もう今までの生活に戻ることはできない。我が家の暖炉も暖かいことには暖かいので冬の間は重宝するが、それでも炬燵が秘める驚異的なポテンシャルには遠く及ばない。

 しかし、それは裏を返せば。

 人間を堕落させるあまりに強力、かつ危険な毒である。事実魔理沙の目の前には、さながら溶ける蝋人形と化してテーブルに突っ伏し、最低限の空腹を満たすことすらやめてしまった人間の成れの果て(はくれいれいむ)がいる。向かって右手には、こたつに首までもぐり込んで、二度と目覚めないのではないかと思うほど爆睡している妖怪の成れの果て(いぶきすいか)がいる。二人とも炬燵により精神を破壊され、二度と訪れることのない人生の大切な一分一秒を、ただドブに捨て続けていくだけの無為な生命体と化している。それは炬燵に心を喰われた者が最後に行き着く、哀れで愚かな堕落と退廃の究極型だった。

 人としてこうはなるまい。心の底からそう思う。

 だから魔理沙はこたつに入る際はいつも大量の魔導書を持参し、ダメ人間(れいむ)ダメ妖怪(すいか)の姿を反面教師としつつ、過ぎゆく一分一秒を決して無駄にせぬよう、こたつの毒牙に喰われぬよう、至極真っ当な勉学に励んで己を研鑽しているのである。

 ――ぐぐぐうううぅぅぅぅぅ。

 

「……なあ、お前ちゃんと昼飯食ったのか?」

 

 霊夢は炬燵に突っ伏した恰好のまま、目も合わせずに答える。

 

「食べてないわ。朝にご飯とお味噌汁かっこんだきりよ」

 

 こいつ、遂にここまで……と魔理沙は末期患者を見た医者の心地で思う。

 

「……なあ霊夢よ、なんで私がこんなこと言わなきゃならんのかわからんけどな。お前、このままじゃ本気でぶっ倒れるぞ? やめてくれよ、炬燵から抜け出せなくて餓死とか同情も――」

「なによそれ」

 

 魔理沙の言葉を遮り、霊夢が横倒しになっていた頭を縦にした。テーブルに顎をつけ、そんな風に思われるのは心外だと言わんばかりの仏頂面で、

 

「あのね、いくら私でもお腹空いたら炬燵から出てご飯の用意くらいするわよ」

「現にしてないじゃないか」

「話は最後まで聞きなさい。今日のお夕飯は、紫とか月見さんと一緒に宴会――ってほどでもないか。ま、ともかく鍋囲むことになってんの。そんとき心の底から思う存分食べるために、わざとお昼は抜いてるってわけ」

「あー?」

 

 宴会って。

 

「なんだそりゃ。なんかめでたいことでもあったのか?」

「めでたいっていうか……」

 

 霊夢は眉を寄せ、

 

「あれ? あんたって知らないんだっけ」

 

 話が見えない。

 

「あーそっか、ここしばらくは紫んトコでやってたしね」

「なんの話だってば」

「毎年やってんのよ。だいたい今くらいの時期に」

「宴会を?」

「そう。紫たちと一緒に」

 

 確かに、初耳だった。魔理沙は好き好んで夜歩きをしない。特になにもなければ、月が出る前には帰宅するようにしている。夜が人間の時間でないのはわかっているし、日が沈んでからは家でやりたいことをやるのが日課だし、実家にいた頃は門限が厳しかったからその名残なのかもしれない。

 しかし、

 

「ふふふ、霊夢よ。その話を聞いた私がどうするか、わからないお前じゃないよな?」

 

 紫と一緒にやる宴会というなら、料理を作るのは藍で間違いないだろう。あの狐の腕前は天下一品だ。タダで味えるチャンスを逃すなんて馬鹿のやることである。

 だが、参加者が増えればその分一人当たりの食い扶持は減るから、お腹ペコペコの霊夢は確実に渋ってくるだろう。はてさてどうやって納得させたものか――。

 

「いいわよ別に。食べたきゃ食べてけばいいわ」

「あれ、」

 

 拍子抜けした。

 

「いいのか? 鍋だってんなら、その分お前の食える量が減るぜ?」

「大丈夫よ、一人増えた程度でどうかなるほどチャチな料理は出てこないわ」

 

 無駄にカッコいい。

 

「それに、余ったら余ったで幽々子のとこに差し入れすればいいだけだってあの狐言ってたし」

「あー……じゃあいくら余しても大丈夫だな」

「そゆこと。食べきれないくらい出てくるんだからいっつも」

 

 だったら話は早い。歯噛みする――ちくしょう、こうなるんだったら私も昼抜きゃあよかった。

 それにしても。

 

「食べきれないくらいねえ。んな豪勢な宴会を毎年やってるなんて、なんでまた? なんかの記念日か?」

「なんでって、そりゃああんた、」

 

 いきなりだった。部屋の隅の、魔理沙がやや見上げるくらいの位置にスキマが開いて、月見がほとんど胸から畳に落下してきた。その背中には笑顔の紫がひっついていて、潰された月見は「ぐえ」と蛙みたいな声をあげた。紫が絡みついてくるせいでバランスを崩してしまい、上手く着地できなかったのだと思う。合掌。

 続いて現れた藍は、まるでお手本のように颯爽と着地した。そして頭上のスキマに両手を伸ばすと、それに抱っこされる恰好で橙まで出てきた。

 

「なんだ、八雲一家勢揃いか」

 

 魔理沙がそう言った瞬間紫が飛び起き、

 

「えっ! 魔理沙、それって私と月見が家族みたいって言ってる!?」

「あ、なんでもないんで黙ってどうぞ」

 

 しまった余計なこと言った、と魔理沙は己の軽率な発言を悔いた。月見と一緒にいるときの紫は年中頭の中がお花畑なのだと、わかっていたはずなのに。

 もちろん紫は聞いちゃいない。

 

「ねえ月見聞いたっ!? 魔理沙には私たちが家族に」

「それより重いからどいてくれ」

「重」

 

 胸を押さえた紫が転げ落ち、月見がやれやれな感じで立ち上がった。さすがこの狐、紫相手にはまるで容赦がない。

 藍が致命傷を負った主人に見向きもせず言う。

 

「霊夢、約束通り夕飯を作りに来たよ」

 

 霊夢は腹の虫で返事をした。

 

「お腹空いた~……」

「……また昼を抜いたのか?」

 

 ぐぐううう、と大変元気な返答に、さしもの藍も苦笑いだった。「また」と言っているあたり、霊夢が昼食を抜いて腹の虫を轟かすのは毎年恒例らしい。

 

「待っててくれ、腕によりをかけて作るからね」

「わ~い……あそうだ、今日は魔理沙も食べてくって」

「ああ、いいよ。材料は使い切れないくらい買ってるからね」

「ごちそうさんだぜ」

 

 萃香が起きた。

 

「ふあ……、……おー、みんな来たかー。あれ、なんで紫はしんでるの?」

 

 乙女の心を抉られた紫は天に召されている。

 月見が答える。

 

「気にしなくていいよ、いつものことだ」

「ふーん。じゃあいいや」

 

 こいつら本当に容赦ないな。

 萃香がよっこらせと体を起こしながら、

 

「ちゃんと酒は買ってきたかー?」

 

 藍が、

 

「呑みきれないくらい買ってきたよ」

「よろしいー。今日は呑むぜ!」

「いつもたらふく呑んでるだろうに」

「……今日も呑むぜ!」

 

 霊夢の、雷鳴の如き腹の音。

 

「……じゃあ大急ぎで作ってくるから。霊夢、土間を借りるよ」

「よろしくぅー……」

「藍、私も手伝うよ」

「私も手伝いますっ」

「え……橙はともかく月見様は」

「人手は多い方がいいだろう。霊夢が死にそうだ」

 

 ぐぐううう。

 

「ですが……」

「藍様、私は賛成です! 家族が増えたみたいできっと楽しいと思いますっ」

 

 橙の純粋無垢な発言に、藍が大きく目を剥いてよろめいた。そうだ、なぜそれに思い至らなかったんだ――と言うように戦慄いた彼女は、打って変わって突き抜ける笑顔で、

 

「わかりましたっ。三人で一緒に作りましょう!」

「ああ」

 

 一瞬かつ軽やかに掌を返し、三人仲良く家族みたいに土間の方へ出て行った――と思ったら少ししてから藍だけ戻ってきて、

 

「紫様っ、いつまで寝てるんですか! さっさとスキマから買ってきた食材出してください!」

「うう、最近みんな私の扱いが雑だよぅ……」

「自業自得ですっ。ほら早くしてください、紫様がシャキっとしないとなにも始められないんですから!」

「うええ……」

 

 いじける紫の襟首を鷲掴みにし、ずりずり引きずってあっという間に立ち去ってしまった。

 小さな嵐が去った空気を感じつつ、魔理沙は改めて思う。

 

「あいつら……なんか賑やかになったよなあ」

 

 八雲紫と八雲藍だ。以前の紫にはどこか得体の知れない雰囲気を醸し出している一面があったし、藍は決して、ああやって橙のように笑う女ではなかった。それが今年になってからめっきり変わった。具体的には春――月見が幻想郷にやってきたあたりから。

 霊夢が言う。

 

「もともとあんな感じではあったわよ。私とか萃香とか幽々子とか、付き合いあるやつの前でしか見せなかったってだけで。……でもそうね、最近ますます拍車が掛かったってのはあるかも」

「月見が出てってから、いろいろ落ち着いちゃってたからねえ」

 

 炬燵の掛け布団に首までくるまりながら、萃香もそう続けた。

 月見がやってきてから――そう記憶を遡ってみると、様々なことを思い出す。

 

「紅魔館に本借りに行くと、たまにフランと会うんだけどさ。あいつ、この頃は至って普通の女の子って感じだよな。狂気に侵されてるとか聞いてたけどなんだったんだろ」

「レミリアのやつも、今までなんだったんだってくらい丸くなったわよねー」

「パチュリーも前は随分根暗っぽくてさ、いかにも本の虫のひきこもりって感じだったんだ。でも、なんかこの頃いつも清潔ってか、香水とかつけてちょっと洒落た雰囲気になってるし」

「咲夜も前は愛想悪いってか、なんか近寄りがたい雰囲気あったけど、今はそんなことないわよね」

「あとはそうだな、この頃輝夜のやつをよく外で見かける。ひきこもりが随分アクティブになったもんだ」

「不老不死っていえば、妹紅って最近なんか楽しそうにしてるわよね。前はいろいろ退屈そうにしてたけど」

「ルーミアが釣りにハマってるらしい。どういうことだ」

「早苗がケモミミとかいうのにハマってるって。でもあのハマり様はちょっと引くわ……」

「この前チルノとフランが一緒に遊んでた。幻想郷でなにが起こってるんだ……」

「いつだったか妖夢と幽香が里でお茶してたわよ。なによあの組み合わせ、妖夢とかまっさきに泣かされそうなもんなのに」

「人里っていやあ、阿求のやつこの頃すげえ元気になったよな。前はなんか悩んでる風だったけど、月見のお陰で吹っ切れたとか」

「そういえば天子も、今の私がいるのは月見のお陰とか言ってたなあ……」

「知ってるか? 里で買い物するとき、『月見のお使いだ』って言うと嘘でも割引してもらえる」

「知ってる? 月見さんがよく買い物で使ってる店、売上が五割増しになったそうよ」

「月見がやってきた瞬間タイムセールを始める店があるというウワサが」

「あ、それマジよ」

「マジなのかよ」

 

 萃香がからからと笑いながら付け加えた。

 

「ぜんぶ月見のせいだったりして」

「「……」」

 

 魔理沙と霊夢は肯定も否定もできなかった。それはさすがに大袈裟でしょ、と笑い飛ばす一方で、ないとも言い切れない気が……と唸る自分も片隅にはいた。

 なんというか、

 

「月見さんが来てほんの半年でこれかあ……来年の今頃にはどうなっちゃってるのかしらね」

「まー、今より更に賑やかにはなってるんだろーなあ……」

 

 魔理沙の知らないうちに、知らない人間や妖怪が我が物顔で増えているのだろう。水月苑の池で生活し出す人魚が現れたくらいだし、来年あたりにはいよいよ屋敷で同棲を始めるやつが出てくるのかもしれない。

 銀毛十一尾。行く先々で知人友人を増やす不思議な狐。幻想郷唯一の温泉宿の若亭主。

 幻想入りしてたった半年ちょっとの新参者が、今やすっかり幻想郷の中心なのだった。

 とそのとき、紫がしょぼくれた顔で戻ってきた。

 

「わ、私も手伝うって言ったのに追い出された……。ねえ霊夢、私の存在意義ってスキマだけなの!? スキマだけの女なの私!?」

 

 あー、と霊夢は面倒くさそうに目を逸らし、

 

「…………………………そんなことないわよ、多分」

「わーいありがとうっ、最初のなっがい間と最後の余計な一言消して、私の目を見ながら言ってくれたら嬉しかったなーっ!」

「紫からスキマ取ったらなにが残るってのさ」

「ちょっとここにトドメ刺しに来る鬼がいるんだけどおおおおおっ!!」

 

 うわあああん!! と泣き崩れた紫に生温かい視線を送りながら、魔理沙は心の底から疑問に思った。

 誰なんだろう。こいつを一番はじめに『妖怪の賢者』とか呼び始めたのって。

 

 

 

 

 

 

 

「――ハッ!?」

 

 そして魔理沙は目を覚ました。

 目の前に広がっているのが知っている天井だとかそうでないとか、そんなことを呑気に考える余裕もなく、飛び起きた魔理沙はキョロキョロと自分の居場所を確認した。

 博麗神社の、母屋の座敷。

 その隅っこに暖かく敷かれた布団で、どうやら自分は眠っていたらしかった。

 

「……んん?」

 

 首を傾げる。しばらく考え、

 

「……あー、呑みすぎて眠っちまったのか」

 

 多分そのはずだ。痛みこそないが頭は重いし、体が半分鉛になったような倦怠感もある。今立ち上がればきっとふらつくだろう。深く息をしてみると、口の中で酒の香りが瞬く間に甦った。

 みんなで炬燵と鍋を囲み、いただきますをしてから一時間分くらいの記憶は残っている。久し振りに食べる藍の手料理はやはり格別だった。お陰で、肉の塊を巡って何度霊夢と争奪戦を繰り広げたかは覚えていない。おまけに酒も、やたら高級そうで旨いものばかりが揃っていたから、食べる手も呑む手もさっぱり休むことを知らなかった。

 だからなのだろう。記憶を失い酔い潰れてしまうほど、羽目を外してしまったのは。

 

「……う~ん、おにく~……」

 

 と、そんな声が聞こえたので魔理沙は横を見た。隣で敷かれた布団にくるまり、幸せな夢を見ているらしい霊夢がだらしなく頬を弛ませていた。彼女は寝言で言う、

 

「えへへぇ……このおにくはだれにもわたさないわよ~……」

 

 あんだけ食っといてまだ夢の中で食ってんのかこいつ。心の中で、明日体重計に乗って絶望する呪いを掛けておく。

 炬燵では萃香が品もなく大の字で、橙が猫らしく丸くなって眠っていた。テーブルの上はすっきり片付いていて、月見と紫と藍の姿はどこにもなかった。

 少し、外の空気を吸いたいなと思った。冬の夜風は刺すように厳しいかもしれないが、酔った体にはかえってちょうどいいだろう。

 廊下に出ると、土間の方から洗い物をする音がするのに気づいた。藍が片付けをしてくれているのだと思う。もしかすると月見も手伝っているのかもしれない。……あれ、だとしたら紫はどこに消えたのだろう。あいつが家事を手伝っている姿は想像ができない。風呂か。

 まあ、いいか。

 玄関から外に出た。外は少し風が吹いていて、やはり刺すような冷たさだった。生き物の声がまるで聞こえない、世界でひとりぼっちになってしまったかのような、暗く寂しい冬の夜だった。

 もっとも皓々と輝く月明かりのお陰で、歩くくらいの光には困らないけれど。酔い覚ましに、このまま境内をぐるりと散歩しようと思う。白い息をくゆらせ、石畳に沿って神社へ歩いてゆく。

 ――拝殿の下に、誰かがいた。

 驚いた魔理沙は咄嗟に神木の裏に隠れた。完全な不意打ちだったせいで心臓がバクバクいっている。こんな夜更けにこんな山奥で参拝なんて、どう考えたって普通じゃない。すわあれが丑の刻参りか、いやいや丑三つ時にはまだ早いだろ、やっべー油断してた見つかったかもしれん私もここまでかと焦りながら顔を出してみると、

 月見と紫だった。

 拝殿の階段に並んで腰掛け、タオルケットを羽織りながら、何事か一緒に話をしている風だった。

 心臓のバクバクが一発で引いた。

 

「……?」

 

 なんだ、あれ。そう思う。月見と紫が話をしている。見ればわかる。だがなぜわざわざ、肌寒い外のあんな場所で。

 普通に考えれば。

 部屋の中で炬燵にでも入りながらすればいいものを、いちいち外に出るのは人目を避けたからに他ならない。つまり月見と紫は今、人に聞かれると困る秘密のオハナシをしている。一気に好奇心が湧き上がり、魔理沙は近年稀に見る集中力で耳をそばだてた。しかし距離が遠く二人の声も小さいため、「なにか喋っている」くらいのことしかわからない。ええい焦れったい、どうにかしてもっと近づけないか、もしくは上手く盗み聞きできないかと考えていると、

 

「――こらぁ、盗み聞きはダメだよ魔理沙」

「――っ!?」

 

 変な声が口から飛び出そうになった。もし足元が玉砂利だったら、じゃらじゃら派手に音が鳴ってしまっておしまいだったはずだ。どうして物音を立てずに済んだのかが自分でもよくわからない、己の無意識が起こした奇跡だった。

 それくらいびっくりした。振り返ると、やはり伊吹萃香がそこにいた。

 

「す、萃香……おま、いつの間に」

 

 萃香はにんまりと笑って言う。

 

「やだなあ、私の能力知らないわけじゃないでしょ?」

 

 ということは、体を霧状にして飛んできやがったのかこいつ。いや、当然だ、そうでなければ体につけた鎖が音を鳴らすはずで、月見と紫にも気づかれてしまう。物音ひとつ立てず背後を取られたのなら、つまりはそういうことだ。

 胸を撫で下ろした魔理沙は深呼吸をして、声をもう一段階小さくした。

 

「……寝てたんじゃなかったのかよ」

「半分ね。でも魔理沙がふらーっと出てったからさ、あーこれもしかしてあれかなーと思って追っかけてみたら案の定」

 

 どこからどう見ても爆睡だったような気がするが……まあ妖怪だし、そのあたりの感覚は人間よりずっと鋭いのだろうと納得しておく。

 

「で、話戻すけど。邪魔はダメだよ、今日の月見と紫は二人にしてやんないと」

「あん?」

 

 魔理沙は眉をひそめて黙考した。それではまるで、今日は特別な日と言っているかのようではないか。

 するとやっぱり、今日の宴会も。

 

「……なあ、萃香」

「うん?」

「霊夢が言ってた。今日の宴会は、毎年決まってやってるんだって。一体なんの記念日だってんだ?」

 

 尋ねた瞬間、え? と萃香が呆気に取られた顔をした。

 

「……もしかして魔理沙、わかってなかったの? わからないで参加してたの?」

「おう。まあ、タダ飯ごちそうさんって感じで」

 

 霊夢に同じ質問をしたときも、紫がいきなり降ってきたせいで答えは教えてもらえなかった。

 萃香は少し考え、やがて腑に落ちた様子で片笑み、

 

「――ま、そっか。あんま気にすることもないよね普通は」

「だからなんの話なんだってば」

「では問題です」

 

 鎖を鳴らさないよう注意しながら人差し指を立て、

 

「今の季節はなんでしょう?」

「は?」

 

 自分はからかわれているのかと思うが、とりあえずは答える。

 

「……冬だろ、んなもん」

「せーかい。では二問目」

 

 萃香は次いで中指を立て、

 

「冬の間の紫は、いつもなにをしているでしょう?」

「なにって……」

 

 いくら魔理沙でもそれくらいは知っている。いかんせんそういう(・・・・)生態らしく、冬が本格的になると紫はいつも決まって、

 

「……ああ」

 

 ようやく、合点が行った。そう考えれば毎年宴会をやっているのも、月見と二人きりにしなければならないのも、ぜんぶ水を吸うように理解することができた。

 

「……そうか」

 

 魔理沙は冬の星空を見上げて、誰に言うでもなくささやいた。

 

「もう、そんな季節なんだな」

「そーゆーこと」

 

 八雲紫は、冬眠をする。

 つまりは、今年みんなと過ごせる最後の時間も、もう残り少ないのだろう。だから、みんなで集まって宴会をして。

 ああして月見と、二人きりで話をしている。

 ぜんぶ、納得が行った。

 

「……確かにそりゃ、邪魔するのは野暮ってもんだな」

「お、魔理沙のくせに空気読むじゃん」

「なんだよそりゃ。私だってそんくらいの気配りは心得てるぜ」

 

 萃香が牙を見せ、いしししと笑った。

 

「えらいっ。じゃーほら戻るよ。私たちがこんなトコにいちゃあ、二人もゆっくり話せないだろうしね」

「おう」

 

 二度も驚いたお陰で、酔いもそこそこ楽になっていた。

 萃香の姿が霧となって消える。魔理沙は神木の陰から体がはみ出ないよう気をつけて、慎重に来た道を引き返していく。

 そして無事玄関まで戻ってきたところで、ふと疑問に思った。

 

「……なあ」

『んー?』

 

 姿は見えないが、萃香の声はしっかり返ってきた。誰もいない宙空に向けて問う。

 

「お前さ、『私たちがこんなトコにいちゃあ二人もゆっくり話せない』って言ったけど」

『うん、言ったー』

「それってまるで、二人が私に気づいてたみたいに聞こえるよな」

『……』

 

 少し呆けるような間を置いてから、萃香は言った。

 

『……えっ、魔理沙気づいてなかったの? バレバレだったよあんた』

「えっ」

『えっ』

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「……どうやら行ってくれたみたいだね」

 

 魔理沙の気配がしっかり母屋に消えたのを確認して、月見はため息をつくようにそう言った。

 『素敵なお賽銭箱』の裏から拝殿へ続く、たった数段だけの小さな階段に腰掛けて、月見と紫は冬の夜空の下にいた。あいもかわらず空は高く、月は白く、星は眩しく、そして空気だけが刺すように冷たい夜だった。月見はタオルケットを一枚軽く羽織っているだけだが、寒いのが苦手な紫は三枚も被って、月見に寄り添いながらぎゅーっと縮こまっている。

 紫は白い息を吐きながら、

 

「ふふふ、これはあれかしら。さすがの魔理沙も空気を読まざるを得ないくらい、私たちがいい雰囲気だったってことかしら」

「……どうだろうね」

 

 魔理沙なら、むしろ面白がって積極的にブチ壊してきそうな気がしてならない。そうでなくとも、じっと息をひそめて盗み聞きしまくるとか。ひょっとすると、気配は感じなかったが萃香か藍が気を遣って、魔理沙を戻るよう説得してくれたのかもしれない。

 紫がくしゃみをした。

 

「くちっ」

「寒いか?」

「ちょっと……いや結構……くちっ」

 

 ずずっと鼻をすすり、大袈裟なほど震えながらまた一層縮こまる。紫は昔から、寒いのだけは本当にダメなのだ。この程度の寒さはほんの序の口、まだまだ冬はこれからなのに、まるで北極南極に半袖で放り込まれたような有様である。

 それもまた、彼女が冬になると長い眠りにつく理由のひとつなのだろう。一人一種族の妖怪として、そういう生態に生まれてしまった(さが)とでも言おうか。

 それでも紫がこうして、寒いのを頑張って我慢して、博麗神社の下で、月を見上げて。月見と二人きりで話をしてくれるのは、そうするに足るだけの価値を、この場所と月見に認めてくれているからなのか。

 ……だから、何度も言うが、今日だけは特別なのだ。

 

「紫」

「ぁい……って、え?」

 

 鼻声で変な返事をした、紫の震える体を。

 毛繕いしてもらって間もない十一尾で、ふわりと包み込んでみた。

 

「……へ? え?」

 

 紫が目を白黒させている。月見は言う。

 

「これなら、ちょっとはあったかいだろう?」

「う、うん、すごくもふモコだけど……え?」

「今年、最後くらいはね」

 

 そう。もう来年の春まで、紫とこうして話をすることもないのだ。

 

「いらないならしまうけど」

「ぜ、ぜんぜんいります!? しっしまわないでよ、ほんとにとってもあったかいから!」

 

 紫は慌てながら、月見の尻尾を一本、小さな掌でぎゅっと握り締めた。月見に尻尾を動かす気配がないとわかると、そのままほうと柔らかなため息をついた。

 もう、震えてはいなかった。

 

「……ねえ、月見」

 

 ぽつり、と、

 

「私が寝てる間に、どっか行っちゃったりしないでよ」

「……」

「そんなの、絶対に、ダメなんだから……」

 

 月見は、答える。

 

「行かないさ」

 

 いつか、外の世界が恋しくなるときは来るのだと思う。しかしそれは『いつか』であり、今ではない。個性的で賑やかな住人たちと過ごす日々は本当に有意義だし、月見にはまだ、この世界でやらなければならないこともある。

 それに、幽香に怒られてしまったのだ。勝手に出て行くような真似だけは、絶対にしない。

 だから、

 

「一足先に、春で待ってるよ」

 

 そして紫が見せた表情を、月見はきっと春まで忘れることはないだろう。

 寒さにやられて赤くなった頬で。

 襟巻きのように掛かった月見の尻尾を、胸の前で握り締めて。

 月見の腕に、少し、体重を預けながら。

 

 春まで会えなくなる寂しさにも負けず、にへ、と笑った。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 

「……そう。あのスキマは、眠ったのね」

 

 輝夜の反応はあくまで淡々としていた。喜ぶのでも悲しむのでもなく、今にも大きなため息のひとつでもつきそうな、つまらなそうな口振りだった。月見と目を合わせることもせず、炬燵の掛け布団に肩までくるまって、むすっと愛想のない仏頂面をしている。

 紫が眠ってから、早いものでもう三日が過ぎていた。月見の幻想郷生活における最大のトラブルメーカーが眠りについたことで、この水月苑も少し物静かになったような気がした。もちろん、あいかわらず個性的な少女たちがしばしば遊びに来る場所だし、月見の生活が賑やかなのも変わらないけれど、それでもなにかが物足りないと感じる。目の前で騒がれると頭が痛くなるのに、静かになればなったでなぜか寂しく感じてしまうのは――まあ、きっと、ご愛嬌というやつなのだろう。

 

「あー、なんだか清々したわ。これからはもう、いつここに遊びに来てもあいつに邪魔されることはないのね」

 

 或いは、輝夜も同じだったのかもしれない。

 紫が眠って清々したのだったら、もう少しそれらしい顔をすればいいのに。やっぱり彼女は明後日の方向を向いて、つまらなそうに唇を尖らせている。

 だから、月見は薄い笑みとともに問うた。

 

「本当に、そう思ってるのか?」

 

 こっちを見た輝夜の柳眉が、不快げに歪む。

 

「当たり前でしょ? あいつと会ったって、いっつも喧嘩吹っかけられるだけなんだもの。会わずに済むならそれに越したことはないの」

「その割には、あまり嬉しそうに見えないけど」

「ギンが変なこと訊くからでしょっ」

 

 また、ぷい! とそっぽを向いてしまった。それがおかしかったので声を殺して笑ったら、次の瞬間にはぷくーっと頬を膨らませていた。

 輝夜と紫は、仲が悪いのだろうか。

 水月苑で出会えばいっつも喧嘩ばかりしているし、良いか悪いかでいえば間違いなく悪いのだろう。しかし、ではお互いがお互いを嫌っているのかといえば、それは違うような気がするのだ。

 もしも、本当に嫌いなのだとすれば。

 喧嘩にすらならないのではないかと、月見は思う。生憎ながら誰かを嫌うという感情に縁遠い月見だけれど、もし自分にそういう相手がいれば、きっと喧嘩をすることはないのだろうと思う。喧嘩なぞにかける時間すら勿体なくて、触らぬ神に祟りなしとばかりに極力接触を避けるはずだ。

 けれど輝夜と紫はもう半年以上も、接触を避けるどころかむしろ積極的に突っかかっていって、ぎゃーぎゃーと元気に頭を叩いたりほっぺたを引っ張ったりしている。

 確かに仲は悪い、けれど。

 もしかすると輝夜と紫は、そうやって気兼ねなくぶつかり合える好敵手の存在を、満更でもないと思っているのではないか。

 

「……まあ、でも」

 

 だから。

 強情だった態度を少しだけ崩して、輝夜はこんなことを言ったのではないか。唇をすぼめ、ぽそぽそと気恥ずかしそうに、

 

「早く春になればいいのに、とは、思うわ」

「……」

「べっ、別に! あいつが早く起きればいいとかそんなんじゃなくて、その……私は寒いのが嫌いだから! だから早く春になればいいって、それだけのことよ! あいつがいなくてなんか物足りないとか、そんなのぜんぜん、ちっともさっぱり思ってないしっ!」

 

 いろいろと言うことはできたと思う。下手な言い訳をしているのも照れ隠しをしているのも、慌てるあまり盛大に自爆しているのも明らかだった。けれど月見はなにも余計をことを言わず、ふっと微笑んで、こう返すことを選んだ。

 

「きっと紫も、そう思ってるよ。……早く春になればいいのに、って」

「…………ふんだ」

 

 自分にはあまり、春を待った記憶というのがない。寒さには強い方だし、冬には冬でしか味わえない魅力があるとわかっているから、思う存分堪能するまでは春になってくれるなと考えることすらある。

 少なくとも外で生活していたこの500年の間は、ずっとずっとそうだった。

 

「……そうだね」

 

 けれど、この時ばかりは。

 この時ばかりは、久し振りに──

 

「早く春に、なるといいね」

 

 ──久し振りに、しばし訪れぬ春の時を、待ち遠しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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