スッパァァーンッ! と実に素晴らしい音がした。
先生が攻撃を喰らって横に吹っ飛ぶのを見るなんて、進化の家で阿修羅カブトと戦っていた時以来だ。
しかもあれは何かに気を取られて茫然としてた時であって、これも予想外とはいえまさか真正面からエヒメさんのビンタをああも綺麗に喰らうとは、先生自身も想像していなかっただろう。
それぐらい、完璧で強烈なビンタだった。
後ろでバングが「素晴らしい」と呟くのも無理はない。あの靴下だけという状態かつ、砂利だらけの地面だというのに完璧なバランスで腰を落としてひねり、全身の体重をかけて勢いをつけて、軽傷とはいえ俺の所為で火傷も負っている手で、まさに渾身の一撃が炸裂した。
さすがは先生の妹…………いや、違う。
ついあまりに素晴らしい一撃に見惚れてしまったが、この感想は違う。
「エヒメさん!? 何やってるんですか!?」
今にも倒れそうな顔色でフラフラになりながらも、サイタマ先生を探しに行こうとしていたエヒメさんが、まさかの見つかった兄に向って、最強と名高い本物の実力者である武道家のバングに称賛されるほどのビンタを喰らわせたことに、俺は驚愕の声を上げる。
先生の方も、エヒメさんの一撃で吹っ飛んだ体を起こして「いきなり何すんだ!?」と怒鳴る。
けれど、俺の声も先生の声も、一瞬で掻き消された。
「――――お兄ちゃんの、バカァァァァァァッッ!!」
エヒメさんの涙ながらの叫びが、全てを吹き飛ばした。
* * *
あまりの剣幕で叫ばれ、先生は殴られた怒りも忘れて唖然とした顔でエヒメさんをただ見上げている。
俺もバングも何も言えず、周りの混乱して暴動を起こしていた連中も何事かとこちらの様子を窺い、辺りが急に静かになる。
そんな異様な空気も無視して、エヒメさんはゼイゼイと肩で息をしながら先生を涙目で睨み付けて、再び叫ぶ。
「お、お兄ちゃんのバカ! バカバカバカっ! 大バカ!
ハゲ! もうお兄ちゃんなんて頭皮も禿げろバカァァーッ!!」
「恐ろしいこと言うなよお前!! 何なんだよ!? 何をそんなに怒ってるんだよ!?」
エヒメさんの怒涛の叫びに無理やり割り込んで、先生は訊く。先生も、彼女がここまで怒っている理由はわからないようだ。
エヒメさんは、少し間を置いた。落ち着いたわけではなく、ただ息を整えるだけの間であることは、燃え滾るような瞳とその目たっぷりにため込んだ涙が如実に語っている。
「…………約束……破った」
「え?」
ぼそりと呟いた言葉が聞こえなかったのか、それとも意味が分からなかったのか、先生が訊き返す。
しかしそれもまた、エヒメさんの逆鱗だった。
「お兄ちゃん、自分で言ったじゃない!!
絶対に、『いってきます』って言うって!!
俺がいってきますって言ったら、絶対に、どんなに遠くても、どんなに強い怪人でも、どんな怪我をしても絶対に帰ってきて、『ただいま』って言うから、だから私は待ってろって言ったじゃない!!
その約束、破った!!」
地面を踏み鳴らし、先生に向かってエヒメさんは叫んだ。
その言葉で、思い出す。
先生は必ず、どんなに急いでいてもエヒメさんにいつも「いってくる」など、「いってきます」に類いする言葉をかけて出かけていたことを。
そしてあの隕石破壊では、言っていなかったことを思い出した。
「……あー……」
先生も思い出したのか、気まずげに目をそらしてぎこちなく言葉を続ける。
「……いや、でもすぐに終わると思ったし、ほら、怪我せず戻ってきたじゃん。こんなのいつものこ「うっさいだまれハゲ!!」
先生の言い訳は、いつもの彼女からは決して出てこないぐらい乱暴な言葉でぶった切られた。
「いつもの事じゃない! 隕石なんて初めてだし、それに怪人でも犯罪者でも何でも同じ敵なんかいない!!
いつもお兄ちゃんが無事なんて保障、どこにもない!!
だから……私はいつも怖いのに、お兄ちゃんが帰ってこないのが怖くて、お兄ちゃんが私の知らない所で死んじゃうのが怖くてたまらないのに、お兄ちゃんはいつも勝手に行っちゃう!!
……だから……約束……お兄ちゃんがした……約束を……信じてたのに……なのに…………なのに……お兄ちゃん、約束破った!!」
エヒメさんの目からため込んだ涙が零れ落ち、それでも彼女は叫んで訴えた。
自分の不安を、恐怖を、どれほど先生と昔、交わした約束が大切な拠り所だったかを。
そこまで叫んで、エヒメさんはその場に座り込んで子供のようにひたすら声を張り上げて泣いた。
泣きながら、「お兄ちゃんのバカぁぁぁ!」と叫び続けた。
「……これは、言い訳できんのう」
バングが困ったような、少し面白がるような声音で言う。
その通りだった。これは俺でも、先生を庇えない。
いや、俺も先生と一緒にエヒメさんに謝らなくてはいけない。
俺は先生を尊敬し、憧れて、何より負けたところなど見たことがない。
それゆえ、本来なら根拠といえないそんな根拠で「先生にかなう敵などいない」と思っている。
それとは逆にエヒメさんは、先生が弱かった時期を知っている。
だから、彼女は先生がどんなに強くなっても、不安を消すことなどできない。
彼女にとってはたとえ相手が災害レベル狼以下でも、自分から最愛の兄を奪うかもしれない恐ろしい敵なんだ。
それでも先生は、決して立ち止まらないから。
必ず、立ち向かうから。
それを止めることなどできないし、したくないと思っているからこそ、彼女は先生との約束を信じ、それを自分の世界の支柱にして先生を見送り、帰りを待ち続けていた。
……どれほど、不安だったのだろう?
「いってきます」を言ってもらえず、先生が隕石に飛び込んでいった時、彼女の不安と恐怖は俺には測りきれない。
彼女の不安も恐怖も何も想像できず、先生は無事だと信じ切って、エヒメさんが先生を探しに行こうとしていたのを止めた、数分前の自分を殴りたい。
彼女は俺の望みを叶えてくれたのに、どうして俺は彼女の不安を少しでも和らげてやることも、同調してやることも出来なかったんだ。
後悔がとめどなく湧き上がるが、いくら悔やんでも彼女の涙は止まらない。
先生は膝立ちになって、もう声を張り上げて文句を言う体力もなくなった、それでも俯いて泣きじゃくるエヒメさんの頭に、手袋を脱いだ手を乗せて、優しくなでて言う。
「……俺が悪かったよ、エヒメ。
もう絶対に、二度と約束は破らない。必ず言うし、必ず帰ってくる。
だから、もう泣くな」
先生は自分の非をすべて認めて、エヒメさんの頭を撫で続ける。
「……嘘つき」
それでも、先生はエヒメさんに許してもらえず、彼女は辛辣な一言を吐いて意識を手放した。
しっかり、兄の方に自分から倒れこんだ。