桜が咲く。
可憐に。
輝き。
今、自分が在るこの時を、歓びの歌で祝うため。
桜が舞う。
優しく。
軽く。
今、自分を包むこの世界。
それを愛しく抱くため。
桜が散る。
儚く。
切なく。
それでも気高く。
移り過ぎ行く時の先。続き続く、遠い明日。それを想い、見つむため。
それを信じ、願うため――
輪舞 ―Rondo of Lives―
―1―
その日は、久しぶりにこれ以上ないってくらいの晴天だった。
長かった冬があけて、春が来て、さらに数ヶ月がたった今。
例年通り、律儀にやって来た低気圧の団体が湿った空気と鬱陶しい雨を振りまき続ける、梅雨の頃。
その合間に束の間顔を覗かせた空は、この前見た時とは少しだけ、けれど確かに、その様を変えていた。
そこに湛えられていた色が、うすぼけた春のそれから、より深い清冽な青へと変わっていた。
浮かぶ雲が、その白さと密度を増して、空の端から綿菓子の様に膨らむ準備を始めていた。
それらの中心に座する太陽が、身に纏う熱を幾ばくか強め、穏やかだったその輝きが、今は少しばかり目に眩い。
―仰望に広がる、半ば衣替えを終えた空の彩。
そこにはもう、春の稚さはなくて。
それでも、夏と言うには、まだまだ厳しさに欠けていて。
ゆっくりと、いろんなものが剥けかける季節。
曖昧な、けれどだからこそ、何かの期待を抱かせる季節。
そんな曖昧な期待でいっぱいに彩られた空の下を、僕は自転車で駆けていた。
カラカラッカラカラカラカラッ
錆だらけの筈のペダルが、妙に軽やかに歌っている。今日の空に合わせたのか、いつもの重い軋みが嘘の様だ。
カラカラッカラッ
日の光のせいで穏やかに温んだ空気を、駆ける自転車はサクサクと切り分ける。その度に辺りに満ちる日の匂いが風に変わり、涼やかな感触を残して後ろへと流れて行く。
その感覚がひどく爽快で、心地いい。
キョッキョ、キョキョキョキョッ
回るペダルの音に合わせる様に、何処からともなく軽快な声が響いてきた。
毎年、今頃になると聞こえてくる声。多分鳥なんだろうけど、その姿を見た事はない。何なんだろうな、あれ。
ペダルをカラカラ漕ぎながら、ぼんやりそんなことを考えていたら、
「――ホトトギスが鳴いてる。」
後ろからそんな声が飛んで来て、いささかギョッとした。まるで、僕の思考を読んだ様なタイミングだ。
・・・まさか、気付かないうちに独り言言ってたわけじゃないよな?それじゃ、ちょっと傍目にハズいぞ。
などという下らない心配をしつつ、そっと後ろを見やる。
廻った視界に、風になびく綺麗な髪が踊った。
荷台にちょこんと座った少女―里香は、その長い髪を揺らしながら、視線を遠い空へと泳がせていた。
こっちを気にしてる様子がない所を見ると、僕のささやかな心配は杞憂だった様だ。いささかほっとしながら、その横顔を改めて見つめる。
注がれる日差しが眩しいのか、宙を仰ぐ瞳が細められている。その頬は注ぐ日の光に薄朱く染まり、長い髪が風に揺れる度、白いうなじが露になる。
不意に目に入った艶かしいラインと白さに一瞬見入っていると、視線を察したのか不意に彼女がこちらを向いた。その目が、怪訝そうに細まる。
「何?」
「あ、いや。」
「運転中に、よそ見しない!!コケたりしたら、どうする気?」
うわ、やばい。声が怒ってる?
「だ、大丈夫だって。このくらいで・・・。」
「大丈夫じゃない!!」
慌てて出した言い訳も、にべもなく一蹴される。
「コケたら、あたしも巻き込まれるんだから!!」
「いや・・・」
心配ないって。お前を乗せてる時は、どんな事があったってコケたり・・・
「前!!ちゃんと見る!!」
「う、うす!!」
・・・格好もつけさせてもらえません・・・。
「怪我してから後悔したって、遅いんだからね!?」
「・・・うぃ。」
キョキョキョッ、キョキョッ
「あ、また鳴いてる。」
軽く、速く、転がる様なテンポで紡がれる、夏告げの歌。
それは、季節の交代を知らせると言うよりも、次に控える夏を、早く早くと急かしてる様だ。
その歌に後押しされて、僕はさらにスピードを上げる。
「ねぇ、裕一。」
また、後ろから声がかけられた。
そこに、もう怒りの気配がない事にほっとしながら、僕は声を返す。
「何だよ?」
「あの“子”どうしてるかな?元気に、してるかな?」
その声にはほんの少し、不安そうな響きが混じっていた。
「そうだな・・・。」
呟く様にそう言うと、僕は視線を前に戻した。
―あれは、ちょうど二月ほど前―
―2―
キィ・・キィ・・
薄暗い空気の中に、錆びたペダルの軋む音が響く。
その音を聞きながら、僕と里香は夜闇の落ち始めた家路を“ゆっくり”と急いでいた。
その日は里香の定期検診の日で、僕も彼女に付き添って病院に行っていた。
行ったはいいが、検査が長引いた。やたらと長引いた。
どうやら、検査の途中で担当医が里香の機嫌を損ねてしまったらしい。
すぐに分かった。
何しろ、検査室の扉越しに医師を罵倒する物凄い声が聞こえたから。
はは。あの調子では、検査が順調に進む道理なんてありゃしない。そもそも、里香は夏目の後に担当になった医師とは折り合いが悪いのだ。いつぞやみたいに、血の滴るチューブをぶら下げたまま、帰ると喚き出さないだけマシというものだ。
「もう!!こんなに遅くなっちゃった。あのバカ医者、ホントにグズなんだから!!」
後ろでは、今だ憤激収まらずといった調子で里香が毒づいている。かなり、怖い。
全く、この里香に敵視されるとは件の医師も酷い災難だ。
亜希子さんに聞いたところによると、里香の検査の後、時折件の医者の姿が見えなくなる事があるらしい。そんな時は決まって、薄暗い職員用トイレの奥からブツブツとうわ言の様に呟く声が聞こえてくるとか。
・・・気の毒だ。本当に、気の毒だ。
彼の精神が、担当が替わるその日まで健常であり続けられる事を切に願わずにはいられない。(・・・すでに駄目そうだけど。)
治まる気配のない罵詈雑言を聞きながら、そんな事を思って僕は苦笑した。
キィ・・キィ・・
錆びた声が、里香の声と一緒に耳に響く。
夜はだんだんと濃くなってきていたけれど、進む事に不便はなかった。
川沿いの土手道。所々に古びた外灯がまばらに立っているだけの、寂れた道。それが、今は空から落ちてくる淡い煌に満たされて、ホンノリと明るい。
落ちてくる煌を追って、空を見る。
見上げた先には、夜の色に満たされた空。そしてその真ん中で、何時の間にか浮かんだ大きな半月が、煌々と輝いていた。
本当は、こんな道は普段の通院では使わない。
けど、僕は今日あえてこの道を選んだ。
実は、ちょっとした“目当て”があったのだ。
「へぇ、いいね。ここ。」
里香が周りを見回しながら、そう言った。
僕らが進む道には、それに沿う様にして桜が何本も植えられていて、それらが周囲を可憐な春の色に染め上げていた。
「だろ?」
少し得意になって、僕は言った。
「うん、すごいね。」
里香にしては、素直に感心した様な声。
うはは、ちょっと、いやかなり気分がいい。
ここは、以前里香に話した河原沿いの桜並木。
去年はああ言いながら、結局花見に行ったのは五十鈴川の方だった。だから、こっちは今年改めて、と言うわけだ。
「きれいだね。」
改めて、里香が言う。
「盛りはちょっと、過ぎてるけどな。」
「でも、きれいだよ。」
微笑みを、そのまま音にした様な声。それが、耳に心地良い。
僕が言った様に、盛りは少々過ぎていた。それらの姿は幾分痩せ、中にはもう次の季節を飾るための新芽を膨らませている枝もある。けれど、残った花々はまだまだ密に茂り、その身を可憐に飾り立てていた。
自転車の車輪が回る度、積もった花弁が舞い上がり、枝から舞い散る花と共に周囲を踊る。それらが降り注ぐ月明かりを受けて輝く様は、なかなかに幻想的で、素敵だった。
「昼間の桜もいいけど、夜桜もいいね。」
「そうだな。」
「これ見ながら赤福食べたら、美味しいだろうな。」
「何だ?結局、花より団子かよ?」
「桜も見るってば。」
「ホントかぁ?」
「何よ、裕一のバカ!!」
「うわ、痛っ!こら、叩くなって!!危ないだろ!!」
里香が、僕の頭を後ろからペシペシと叩いてくる。痛い痛いと痛がる僕を見て、里香は「あはは」と笑った。
その声を聞いてると何だか嬉しくなってきて、僕も痛い痛いと言いながら、「うはは」と笑った。
「裕一変なの。叩かれてるのに笑ってる。」
そう言って里香がまた、「あはは」と笑う。
そうだな、変だな。と僕もまた、「うはは」と笑う。
「あはは」、「うはは」、と僕達は笑いあった。
錆びたペダルも、カラカラ笑う。
―と、
「――?」
それまでほんのりと明るかった道が、急に暗くなった。
上を見ると、何時の間にか流れて来た厚い雲が、そこに浮かんでいた筈の月を覆い隠していた。
世界が、夜の色に満たされる。
まぁ、外灯の光や自転車のライトの光があるので、進むこと自体にはさして支障はないのだけれど。 それでも念のため、僕は自転車のスピードを少し落とした。
「裕一、止めて。」
里香がそう声を上げたのは、その時だった。
「何だよ?急に。」
「いいから、止めて。」
わけが分からないまま、それでも僕は彼女に従って路肩に自転車を止めた。里香が荷台から降り、そのまま土手を降り始める。
「おい、暗いぞ!!足元、危ないって!!」
「わかってるから。大丈夫。」
慌てて声をかける僕を振り返りもせず、そう言って里香は暗い河原へ降りて行く。
ああ、もう。ほんとにわかってんのかよ。
溜息を一つついて、僕は里香の後を追った。
-3-
若芽の匂いの漂う土手を星明りだけを頼りに下ると、土手と河原の堺にある草むらで、里香が佇んでいた。
「なぁ、一体どうしたんだよ?」
「裕一、これ。」
追いついた僕に向かってそう言うと、里香が前方を指差した。
その指が指し示す先。そこに、夜闇の中に浮かぶ様にして、一本の桜の木がポツンと立っていた。
「何で、この桜だけこんな場所に生えてるんだろう?」
「さぁ・・・。」
彼女の疑問に対する答えを持っている筈もなく、僕は曖昧にそう言って首を傾げる。里香も、別に答えを期待していたわけではない様で、それ以上追求してこようとはせず、その視線をまた目の前の桜に戻した。
「小さいね。この桜。」
「・・・だな。」
確かに、土手上の並木から外れた場所にポツンと生えたそれは、他の桜に比べると随分と小ぶりだった。背の高さも、幹の太さも、二回り以上小さい。歳が若いのが、一目で分かる。ひょっとしたら、他の桜と同時期に植えられたものではなくて、後になって落ちた種から自然と生えたものかもしれない。
見上げてみる。背が低いせいで、広がった枝はすぐ目と鼻の先だ。淡い春の香りが、幽かに舞った。
「花は、ちゃんとつけてんだな。」
「うん。でも・・・」
里香がそう言って、また桜を見つめる。何か腑に落ちないものを探る様に、しげしげと。
そして、一言。
「何か、変じゃない?」
「・・・・・・?」
その言葉に、改めて目の前の桜を見つめてみる。
・・・なるほど。
花はつけている。けれど、そのつき方が妙にまばらだ。散って減ったという感じじゃない。最初っから、咲かせた数自体が少ないという感じだ。それどころか、よくよく見れば花どころか、次に開かせる筈の葉の芽すら付けてない、骸骨の様な枝も何本もある。
確かに、おかしい。
この季節の植物特有の、勢いというものがない。他の桜に比べて若い筈のその身は、線が細いと言うか、酷く儚い感じがする。
まぁ、もともと桜っていうのは儚いイメージが在るけれど、この桜から漂ってくるのは、そういう“儚さ”とは違う。そう、もっと別の・・・。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
いつしか、僕も里香も黙り込んでいた。
何か、嫌な感じだった。
それは、いつか何処かで感じた感覚。
冷たくて暗い、虚ろで重苦しい、その感覚。
これは、何だろう。
と、里香の身体がすすっと動いた。
長い髪が、さらさらと揺れながら桜に近づいてゆく。
そして、間近から桜の幹をじっと見つめ、そして、
「あ・・・!!」
そう言って、手を口元にあてる。
「どした?」
里香の隣に並ぶ様に、近寄ってみる。遠間からでは夜闇に沈んで幽かな輪部しか分からなかった幹が、凝らした視界の中で露わになった。
「う、わ・・・!!」
目に飛び込んできたものに、思わずそう言って僕は顔をしかめた。
―それは、“闇”だった。
-4-
件の桜の幹。その中心。人に例えたら丁度、胸に当たる様な位置。そこから根元までを縦に引き裂く様にして、大きな“闇”が口を開けていた。
「酷い・・・。」
里香の口から、そんな呟きが漏れる。
僕は幹に顔を寄せ、中を除き込んでみた。夜闇の中に口を開けた、さらに濃い闇。中は、全く見えない。
手を入れてみる。とはいっても、何も見えない中に深く突っ込むのも怖い気がするので、とりあえず指先だけ。何か、変な毒虫でもいたら困るし。
何の抵抗もなく、スルリと入る。中は、すっかり空洞になってしまってるらしい。探ってみると、指先が幹の内側に触れた。軽く撫ぜると、その部分がボロボロと崩れ落ちてしまう。指を出して先に付いたものを見ると、それは木屑と言うよりむしろ土の様で、幹の中がほとんど腐食していることを如実に教えていた。
木に大きな傷が付くと、そこから菌が増えて、内側から木を腐らせてしまう事があるらしい。僕も、歳をとった木で見た事があるけど、こんな若い木がやられるとは思わなかった。
この桜に勢いがない理由は、これだったんだろう。木という生き物の要である幹。それを、ここまで食い荒らされてはたまったものじゃない。この桜にはもう、生きる勢いを示す力なんて残されていなかったのだ。
これが人に植えられた木なら、同じ様に人の手で治療をしてもらえたりもするのかもしれない。けれど、こんな場所に人知れず生えてきた様な木ではそんな事、望めるはずもない。道端に生えた雑草の花に、お金や手間をかけようなんて人がそうそういやしないのと同じ事だ。
風が吹く。ボロボロになった幹が、それだけでギギィと悲鳴の様な軋みを上げた。まるで、今にも倒れてしまいそうだ。いや、例え今倒れなくても、いずれ“その時”が来る。侵食を続ける闇に食い尽くされて、朽ちて倒れるのが先か、大地との繋がりを断たれ、枯れ果てるのが先か。どちらにしろ、この桜にもう、先はない。
―そう。先は、ないのだ―
病に侵され、身体の内側から朽ちてゆく桜。
その様は、死という闇に食われる命の姿そのものだった。
「・・・裕一。」
里香が呟く様に言う。
「この桜、もう駄目かな・・・?」
何かを求める様な、すがる様な声。
「枯れちゃうのかな・・・?」
僕は、答えなかった。
この娘の前で、里香の前で、その答えを口にするのが嫌だった。
どうしようもなく、嫌だった。
僕が答えないので、里香もまた黙ってその視線を桜へと戻した。
軽く俯いた顔。夜風に弄られた黒髪の合間から、憂いを含んだ瞳が覗く。
その横顔を見ながら、僕は思った。
里香はどうして、この桜に気付いたんだろう?
僕は、生まれた時からこの町で暮らしてきた。この道も、何度も通った。
けど、僕はこの桜を知らなかった。
見つけられなかった。
今まで。ずっと。
なのに。どうして、里香は見つけられたんだろう?
こんな暗闇の中で。こんな外れた場所に。
この桜を、見つけられたんだ?
さっき、この桜から感じた嫌な感覚。
それが何なのかは僕にももう、分かっていた。
そして、里香にはもっと、はっきり分かった筈。
―そう。あれは、“死”の気配。
かつて里香の傍らに常に佇み、そして今も息を潜めて佇み続ける、それ。
深く冷たい、その闇の気配を、今この桜も纏っている。
里香と、同じ様に。
・・・だからだろうか。
だから、里香はこの桜に気付いたのだろうか。
自分と同じものを纏っているから。
その事を、感じたから。
里香は、気付いたのだろうか。
引かれたのだろうか。
・・・それとも。
呼んだのは、闇の方だろうか。
今、目の前で口を開けるこの虚ろが、この“闇”が、里香を呼んだのだろうか。
一度、遠間に離れた獲物。
それをもう一度、手元に手繰り寄せるために―
里香が、桜を見つめる。
そこに在る、“闇”を見つめる。
黒い瞳がそれを映して、より深く暗く、輝いている。
その様を、僕が見つめる。
そこに浮かぶ、“光景”を見つめる。
―桜に開いた、命のほころび。
その隙間から、一本の手が伸びる。
そこに佇む、里香に向かって。
絶望の様に、終りの様に、暗い、暗い、闇色の手だ。
ゆっくりと爪を開いたそれが、小さな身体に絡みつこうとする。
求める様に。慈しむ様に。愛でる様に。
もう、逃がさないとでも言う様に。
そして、そして――
「――っ!」
腕を伝わる、息を飲む気配。それが、幻想の光景から僕を引き戻した。
下げた視線が、戸惑いの色を浮べてこちらを見上げる黒い瞳とかち合う。
―何時の間にか、僕は里香を背後から抱き締めていた。
「・・・裕、一?」
腕の中で、里香が驚いた様な顔をして、僕を見ている。
迫る闇色の手は、もう見えない。いや、端っからそんなもの、在る筈もない。
桜の中の闇は、変わらずそこに佇んでいるだけ。
けど。
けれど。
「どう、したの?」
頬をほのかに染めて、里香が訊いて来る。
僕は答えず、腕に力を込めた。
里香の口から、あ、と小さく声が漏れる。
細い肩が何かに緊張する様に震えるけれど、構わずに僕は腕に力を込めた。
抱き締めた。
里香のこの温もりが、存在が、命が、今ここに在ることを確かめる為に。
そして何より、あの見えない闇の手が、里香に届く事のない様に。
―里香を、連れて行ってしまわない様に―
僕の顔を見ていた里香が、何かを察した様に目を伏せる。小さな両手が上がり、僕の腕にそっと絡む。力が、篭る。まるで、胸に押し抱く様に。自分の鼓動を、命を、僕がより強く感じる事が出来る様にとでも言う様に。
だから、僕もより強く、彼女の身体を自分の身に押し込める。
―そう、渡さない。渡す、ものか―
腕の中の存在を確かに感じながら、僕は目の前に佇む“そいつ”を見据えた。
風が吹く。
桜が舞う。
闇が、揺れる。
「・・・里香。」
少しの沈黙の後に、僕は口を開いた。
「なに・・・?」
「・・・少し、冷えてきた。」
実際、夜が深まるにつれて、川面を渡ってくる空気はその冷たさを幾分増してきてはいた。でも実の所、こうして身を寄せている僕らには大した問題じゃない。
むしろ、お互いの体温が交わって、身体は心地良い熱ささえ感じていた。
川面を渡る風が里香の髪を揺らし、僕の頬をくすぐる。
フワリと漂う、甘い香り。胸の奥が、ジンと疼く。
本当はもっと、いや、ずっと、こうしていたかった。この熱さを、香りを、腕の中に納めていたかった。
だけど。
ふと、視線をあげる。
“そいつ”は、やっぱり、そこにいる。
腕の中の幸福と、ほんの少し視線をずらしただけのその場所に。
近づくでもなく、消えるでもなく、ただ、冷たい沈黙とともに、佇んでいる。
「・・・冷えると身体、良くないぞ・・・。」
だから、僕は言う。
「・・・そろそろ、戻ろう。」
その言葉に対する後悔はない。
ただ、里香をここから遠ざけたかった。
“そいつ”の、この“闇”の前から遠ざけたかった。
―そう、里香はここにいちゃいけない。
いるべきじゃ、ない―
「・・・うん・・・。」
ほんの少しの間の後、里香がそう言って頷いた。
それに応じて、僕も腕の力を抜く。
里香の身体がスルリと抜ける。腕の中から、彼女の髪が甘い香を残して逃げていった。
最初にああは言ったものの、やっぱり少し、名残惜しい。その気持ちを誤魔化す様に、僕は、ほっとわざとらしく息をつく。
ふと見れば、里香も同じ様に息をついていた。
彼女がついたその息には、どんな意味が込められているのだろう。ひょっとしたら、僕と同じだったりするのだろうか。もしそうなら、嬉しいのだけど。
-5-
「ほら。」
そう言って、僕は当たり前のように手を差し出す。
その手を、里香がやっぱり当たり前の様に取る。
手の中にすっぽりと納まる、小さな、けれど大きな存在。
しっかりと、握り締める。
「手、離すなよ。」
僕が言う。
「うん。」
返る、声。
「土手上がるの、結構キツイぞ。」
「うん。」
「足元、暗いし。」
「分かってる。」
「転ぶと、危ない。」
「分かってるってば。」
「嘘つけ。さっき、さっさと一人で降りちまったの、誰だよ?」
「うるさいなぁ。裕一のクセに。」
ギャアギャア言いながらも、繋いだ手は離れない。
「行こう。」
「うん。」
手を引いて、歩き出す。
歩きながら、里香がちらりと後ろを振り返った。
そこに立つ小さな桜に、別れを告げようとでもするかの様に。
その、瞬間――
不意に世界が、色を変えた。
モノクロの闇が薄らぎ、全ての光景に淡い色彩が戻る。
見上げると、いつのまにか空を覆っていた雲が流され、隠れていた半月が再びその顔を出していた。
「・・・あ・・・!!」
横から聞こえる、里香の声。何事かと振り返る。
振り返ったその先で、あの桜がその姿を変えていた。
いや、姿そのものが変わったわけじゃない。
幹に開いた空洞も、所々突き出した白骨の様な枝も、まばらにしかついてない花も、そのままだ。
けど、違う。
その身に、逃れ様の無い死を穿たれた桜。未来も無ければ、明日もない。ただ今をも知れない時間を漂うだけの、脆く儚い存在。
だけど今、淡い光の中で見るそれは、そんなか細い存在ではなくなっていた。
骸骨の様に痩せた枝。その所々に、まばらについた花の群。
さっきまで、か細さを強調するだけだった筈のそれらが、今は落ちる月明かりを受けて、燦然と輝いていた。
数の少なさなんてまるで問題にしない、むしろ、周りの桜達の方が色褪せて見えてしまう程の、強い輝き。
そこに咲く花は、深い夜闇の中でこそ分からなかったけれど、一輪一輪が他の桜達とは一線を駕する程、鮮やかで深い色を湛えていた。
それはまるで、数を引き換えに持てる力の全てを凝縮したのではと思わせる様な、鮮烈で凄絶な麗彩だった。
「―すごい・・・。」
里香が、呟く。
「綺麗・・・!!」
「きれい」ではなく、「綺麗」。
感嘆の思いをその言葉に込めながら、里香は桜を見つめていた。
まるでその姿を、輝きを、余す事無く自分の内に焼き付け様とでもするかの様に。
ただ一心に、見つめていた。
と、その視線が止まる。
一瞬の間。そして、その手が僕の手からスルリと離れた。
逃げてしまった温もり。それを切なく感じる僕を残して、里香は再び桜へと歩み寄る。
さっきと同じ様に間近から桜の幹を見つめ、そして、
「・・・あれ?」
そう言って、首を傾げた。
「・・・これ、何・・・?」
「・・・・・・?」
里香の声に、僕も近寄ってそれを見る。
僕らの視線が注がれるのは、桜の幹に開いたあの空洞。
注ぐ月明かりに洗われて、ほんの少しだけ薄らいだその闇の中に、何かの影が見えた。
ついさっき、暗闇の中で手を入れた時には気付かなかった。いや、そもそもこの空間の中に、何かが“在る”という可能性自体に思い至らなかった。
そう。それは何もない筈の、何も在り得ない筈の、虚ろの空間。絶対の無である筈の、死という名の虚無。
なのに、そこに影があった。
闇に潜む様に。けれど、決して呑まれる事なく。
確かに何かの影が、何かの存在があった。
淡い月明かりを頼りに、目を凝らす。
―“それ”は、唐突に突き出していた。
ポッカリと開いた空洞の、丁度天井の部分。まだ、かろうじて侵食を逃れているそのわずかな部分から、本当に唐突に、突き出す様に伸びていた。
突き出して、そのまま真っ直ぐ、真下の地面に突き刺さっていた。
そう。まるでそこに巣食う空虚を、闇を、死を、刺し貫く様にして――
一瞬、“それ”が何か分からずに佇む僕の横で、里香が言う。
「・・・“根”だ。」
―6―
そう。それは、“根”だった。
太くもなければ、細くもない。
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに伸びた、それは、一本の“根”だった。
「根っ子・・・?こんなとこから?」
僕は手を伸ばし、それに触れてみた。
硬く、ざらついた感触。その身が纏う儚さとは相反する様な、荒々しい触感。その下から、ヒャッとした冷感が伝わる。それは辺りに流れる夜気とは違う、柔らかな温もりをはらんだ冷たさ。人間や動物とは違う、生きた木の体温だ。
手に力を込め、揺さ振ってみる。
・・・ビクともしない。
本体の方は、ちょっとした風で軋みを上げる有様だというのに。
それだけ深く強く、それは地面を穿っていた。
まるで朽ちかけの幹の代わりに、その身体を、命を、大地に縫い止め、繋げ、支えようとするかの様に。
視界の隅から、白いものがそっと伸びてくる。それが、僕の手に半ば重なる様にして根に触れた。
里香の手だった。
温かい彼女の体温と、冷たい桜の体温。
違う形の、二つの命。それらの熱が、僕の肌へと染みていく。
「戦ってる・・・。」
根の肌を撫でながら、里香がポツリと呟いた。
「戦って、るんだ・・・。」
・・・そう。
桜は、戦っていた。
それは、抗うとか、しがみつくといった受けの姿勢ではなく。
牙をむき、爪を突き立て、真っ向から挑みかかっていた。
自分に巣食う闇。それを突き刺し、貫き、磔るために。
自分を蝕む死。それを抉り、引き裂き、噛み砕くために。
ギシギシと、朽ちかけの幹が軋む音が響く。
さっきまで悲鳴にしか聞こえなかったそれが、今は別の意味を持って耳に届く。
それは、鍔競りの音。
貫かれ、縫い止められて、それでも食い尽くそうとうめく死と。
蝕まれ、食われながら、それでもねじ伏せようと吠える生と。
二つの力が、攻めぎ合う。
ギシギシ、ギシギシと軋みを上げて。
僕は根から手を離すと、もう一度桜を見上げた。
天頂に浮かんだ半月から降り注ぐ、澄んだ煌。満月の様に強くはない。闇を薄めこそすれ、打ち消すには及ばない。淡く、儚い煌。
けれど、それで充分だと言わんばかりに、壮麗の華は輝きを放つ。その様はまるで、その身に燃え盛る焔を纏っている様で。
―いや、それは正しく、炎だった。
淡い。儚い。けれど、気高く眩い、命という名の炎。
それが、燃えていた。
煌々と。
炎々と。
風が吹く。
輝く花弁が、無数の燐光となって宙に舞う。
瞬く煌の風が、闇に満たされた夜の世界を可憐に彩る。
まるで、世界を満たす闇を、その傲慢を、せせら笑う様に。
僕は、ただ黙ってその光景を見つめていた。
死にかけの桜が放つ、その輝きの強さ。眩さ。
それに圧倒されていた。
いや。
魅せられていたんだ。
ふと、視界を黒い帯が泳いだ。
風に乗って流れるそれに導かれる様に、僕は視線を横に泳がせる。
その先には、その黒髪の主である里香がいた。
その姿を視界の中心に収めた途端、僕は心臓が止まるかと思った。
舞い踊る、桜色の煌。
その中で、彼女はその光景に見入っていた。声をかけるのも躊躇われる程に。
長い髪を、花弁と共に躍らせながら。黒い瞳を、桜の煌に染め上げながら。
まるで、今の光景を、この桜の姿を、自分の内に焼き付け様とするかの様に。
とても、とても真剣な眼差しで。
その姿は、綺麗だった。
目の前の桜に負けない位に。
本当に、本当に綺麗だった。
桜色の風に舞う髪も。注ぐ月明かりに浮かぶ肌も。その世界を映す瞳も。
その全てが、この光景の中に溶けていた。
まるで、ここに在ることが当然のことみたいに。
まるで、里香自身が、この桜の化身であるみたいに。
この光景の中に、溶けて、交ざって、綺麗に、可憐に。
輝いていた。
そうさ。
本当に。
本当に。
輝いて、いたんだ。
僕は自分の迂闊さを呪った。
ああ、何で僕はこの場にカメラを持って来なかったんだろう。文字通り、至高のシャッターチャンスだってのに。
カメラは今、上に止めてある自転車のカゴの中だ。慌てて里香を追ってきたせいで、つい置いてきてしまった。
僕の馬鹿。
どうしようか。急いで取りに行こうか。
僕は少しの間悩み、躊躇した後、結局それをあきらめた。
この光景は多分、世界が起こした、ちょっとした気紛れ。
諸々の、危うい均衡と調和の上に生まれたほんの束の間の、淡く美しい幻想。
きっと、少しでも目を離せば、その間に消えてしまう。
いや。
それどころか、もし今ここで僕がカメラを取りに行くために動いたりすれば、それだけで全てを崩して、台無しにしてしまう気さえする。
それはきっと、酷くもったいなくて、罪深い事に違いない。
だったら、せめて。
僕は息を殺すと、里香の気を引かない様に、ちょっとだけ後ろに下がった。
この場の空気を、均衡を乱さない様に、極力の注意を払って立ち位置を調節する。
・・・よし。
狙い通り、少しだけ下がったその場所からは、件の桜とそれを見つめる里香とを、絶妙のバランスで視界に収める事が出来た。今のこの光景を一望する、ベストアングル。
そう。僕も焼き付ける事にしたのだ。
今、里香がしている様に。
記憶に、網膜に、僕の内に、焼き付けよう。
今のこの光景を、彼女の姿を、輝きを。
決して。決して、消えない様に。
見つめよう。
時が、この刹那の夢の存続を許すまで。
世界が、この泡沫の幻想に飽きるまで。
無事に陣取りを終えた僕は、改めて目の前の光景に目をやった。
そこでは里香が、相変わらずその瞳を輝かせて桜に見入っている。桜の方も、まるでそれに気を良くしたかの様に、キラキラと煌く花吹雪の大盤振る舞いだ。
歴代あらゆるジャンルの芸術家達が、そろって裸足で逃げ出しそうな、究極の幻想美。
僕はそれを傍らから、ただ黙って見つめ続けた。
この光景を、一人占めに出来る事。
そんな幸福を、しっかりと噛み締めながら――
ふと空を見ると、そこには半分の月が浮いていた。
まるで、今己の下に流れるこの時が、せめて少しでも長く続くを願う様に。
満ちる闇を淡く、それでも確かに照らして。
それは優しく、とても優しく、輝いていた。
―風が歌う。
煌が舞う。
焔が踊る。
燃える。
燃える。
命が、燃える―
―7―
―あの夜から、二ヶ月。
また、あの桜に会いたいと言い出したのは、里香だった。
もう、花なんて付いてないぞ?
僕の言葉に、それでもいいからとせがむ彼女を連れ、僕は再びその場所に向かって自転車を走らせた。
二ヶ月ぶりに訪れたその場所は、すっかり様変わりしていた。
並木の桜達は、そろって身に纏う衣を春色のそれから深緑の夏服へと替えていた。土手を覆う草達もその丈を順調に伸ばし、合間合間にアクセントとして顔を覗かせる小柄な花々も、以前来たときとは丸々その面子を変えている。川面を渡ってくる風に冷たさはなく、流れる水は真上に広がる空を映して、青く、青く輝いていた。
春は過ぎ、いつしか夏の気配が微かに漂い始めていたその川辺に、果たして、件の桜は変わる事無く立っていた。
骸骨の様に細枯れた枝も、幹に穿たれた穴もそのままだ。けれどその変わりに、他の枝にはキラキラと輝く新緑の葉をいっぱいにつけ、幹の洞を貫き通す根も幾分太くなっている様だった。
まるで自分に巣食う死をせせら笑う様に、青い空の下、その桜は凛と立っていた。
「良かった。」
里香はそう言って、桜の幹を愛しげに撫でる。
それに答える様に、桜はその葉をサヤサヤと風に鳴らす。
そんな様子に、ふと僕は思い立った。
里香は、願っている。
限られた時間の中で。擦り減っていく時間の中で。
少しでも多く。少しでも長く。
この世界を見つめていたいと、感じていたいと、願っている。
そして、この桜もまた、願っている。
区切られた時間の中で、削り取られていく時間の中で。
少しでも多く。少しでも長く。
この世界で咲いていたいと、輝きたいと、願っている。
そう。
里香とこの桜は、同じなのだ。
限られた時間の中で。
少しでも多く、世界を見つめようと願う事。
少しでも長く、世界で輝こうと願う事。
それは等しく、少ない時を少しでも、世界と共に在ろうと願う事。
だから。
渡る鳥が、旅する仲間を求める様に。
可憐な蝶が、可憐な花に引かれる様に。
里香はこの桜に引かれて。
そして、桜はそれに答えて。
きっと、そういう事なんだろう。
だから、彼女達は今、こんなにも綺麗なんだ。
こんなにも、輝けるんだ。
一人納得する僕の横で、不意に里香が声を上げた。
「裕一、見て。実がついてる!!」
言われて見て見ると、なるほど。葉の茂った枝の所々に黒く色付いた、小さな実がついていた。触れてみると、熟しきったそれは、指の先に紫の跡を残した。
「ねえ、裕一。」
実を手に取り、しげしげと眺めていた里香が声をかけてくる。
「ん、何だ?」
「これ、食べてみようよ。」
唐突に、そんな事を言い出した。
「え、ええ!!何言ってんだよ!?」
とんでもない提案に驚く僕に、里香は繰り返して言う。
「だから、食べてみようって言ってるの。」
その顔は、何故かひどく真剣だ。
「よせよ。腹壊すぞ。」
「大丈夫だよ。ほら。」
情けない顔をする僕に、里香は土手沿いの桜並木を指差した。
そこは静かなここと違って、にぎやかな喧騒に包まれていた。
その原因は鳥。
沢山の鳥が集まって、盛んに桜の実を啄ばんでいた。見れば、普段木の実なんて食べない筈のスズメまで、その小さな嘴でチマチマと実を齧りとっている。
「鳥が食べてるんだから、大丈夫だよ。」
いやいや、その理屈はおかしいぞ。鳥が大丈夫だからって人間も大丈夫とは・・・。
僕がそう言おうとするのを、里香が遮る。
「鳥はね、運び屋なんだって。」
「へ?」
訳が分からない僕に向かって、里香は続ける。
「鳥は木の実を食べて、そのお礼に、種を遠くに運ぶんだよ。動けない、
そう言って、里香は僕をジッと見つめた。
ああ、そうか。
里香の心意を察した僕は、黙って桜から良く熟した実を一つ、摘み取った。
里香もそれに倣って、実を一つ手に取る。
小指の爪程の、小さな実。それを鼻に近づけると、微かに嗅ぎ覚えのある香りがした。
ああ、さくらんぼの香りだ。
なるほど。確かにさくらんぼは食用の桜の実だ。それならこれも広義でのさくらんぼという事になる。
不思議なもので、そう思うと実に対して持っていた警戒心が少し緩んだ。
もっとも、だからといってすんなり口に入れられる訳でもない。
躊躇しながら横を見ると、ああは言ったものの、里香も本音は同じなのだろう。手の中の実とじっとにらめっこをしている。
「どうしたんだよ。早く食べろよ。」
「ゆ、裕一こそ、早く食べてよ。」
「言いだしっぺはお前だろ!?」
「何よ。人に毒見しろっていうの!?」
言い分が滅茶苦茶だ。
僕達はしばらくギャーギャーと言い合ったが、らちがあかない。
「ようし。よく分かった。それならこうしよう。1、2の、3で一緒に口に入れる!それでいいな!?」
「う、うん。」
里香が頷いた。決まりだ。
「いいか?1、2の、3、だからな?」
「分かったってば。」
「それじゃ、いくぞ!!」
「1、」
「2の、」
「3!!」
それと同時に、僕は目をつぶって実を口に放り込んだ。
噛み潰す。
口の中に広がる、さくらんぼの香り。とりわけ甘いわけでも、酸っぱいわけでもない。何だ。どうって事ない。そう思いかけた途端、強烈な渋みが舌の上に広がった。
「うぇっ!!ぺっぺっ!!」
堪らず僕は口の中の種を吐き出した。酷い味だ。何でこんなもん、鳥達は平気で食ってんだ?
これじゃ、里香も大変な事になってるんじゃなかろうか。
「おい、里香、大丈夫・・・か・・・?」
里香は僕の方を見て、ケタケタと笑っていた。
その手の中には、まだ実が握られたまま。
「あは、は、裕、一、酷い、顔!!アハハ・・・」
・・・この女。
僕が睨むと、里香はゴメンゴメンと言いながら、ようやく自分も実を口に含んだ。
しばしの間。そして、
「― 美味しくないね。」
軽く顔をしかめると、里香はそう言って微笑んだ。
綺麗に、可憐に、微笑んだ。
そして彼女は、僕が吐き出した種と、自分が出した種をハンカチに包んだ。
大切に、本当に大切そうに、それこそ愛しい子供でも包む様に、優しく包んだ。
―8―
それから少し後、僕らはまた自転車に乗ってある場所を目指していた。
ギコ・・・ギコ・・・ギコ・・・
一漕ぎする度に、自転車のペダルが軋んだ音を立てる。
車輪が石を咬む度、ぼろい車体がバラバラになりそうなくらい跳ね上がった。
「裕一、大丈夫?」
里香が後ろから、心配そうな声をかけてくる。
「な・・・なんの・・・コレくらい、どうって事・・・ないぞ・・・。」
そう言いながら、僕は息も絶え絶えでペダルを漕ぐ足に力を込める。
「そうじゃなくて、転ばないでよ。いつかみたいに。あたしも怪我するんだから。」
・・・あぁ、そうですか。
僕は汗で霞む目で、道の先を見据えた。
道程は、まだまだ長い。
僕達は、砲台山の登山道を上がっていた。
いつかの夜、原付バイクで登ったあの道だ。
あの時は原付だったけど、今は自転車。正直少し・・・いやかなりキツイ。
とはいえ、こんな上り坂を里香に登らせる訳にはいかない。
僕は転ばないように細心の注意をはらいながら、慎重にペダルを漕いでいた。
・・・しかし、キツイ。里香は最初、自分が乗っかった自転車を、僕が手押ししながら登る事を提案したのだが、それじゃ時間がかかるといって、僕が漕いで登る事を主張したのだ。・・・したのだが、余計な格好つけをしなければ良かったかもしれない。
「ねぇ、裕一。」
自転車の頭がグラグラし出すにいたって、ついに里香が声を上げた。
「降りて押した方が良いんじゃない?」
「・・・はい。」
もはや僕に選択の余地は無かった。
格好悪い事、この上もない・・・。
それからしばらく後、僕らはようやく頂上である駐車場に着いた。
「はぁ、はぁ・・・」
「ほら、裕一。早く行こう。」
汗だくで息を切らす僕を労わるでもなく、里香はしゃあしゃあとそんな事を言う。
「う・・・うぃ・・・。」
僕はそこに向かうため、鉛の様に重い足に鞭打って立ち上がる。
僕達が目指す場所。そこはこの山の本当のてっぺん。大砲の台座が座する広場だった。
しばらくぶりに訪れたその場所は、以前来た時とはまるで違っていた。
あの時は春の始めで、山の木々や草は芽吹いたばかりだったけど、今は初夏だ。木々はすっかり緑の衣に覆われ、鬱蒼と茂った下草は、一度足を踏み入れれば膝下までを覆ってしまう程に伸びている。
当然、登り難さも倍増。
僕は里香の手をしっかりと握って、山道を登っていた。
「里香、足元、気をつけろよ。」
「う・・・うん。」
いつも強気な里香も、今回に限っては不安げに足元を気にしている。何か潜んでいそうで、怖いらしい。こういう所は、やっぱり女の子だ。
僕はそんな里香の不安を少しでも払拭しようと、行く手の草をなぎ倒しながら進んでいた。
―と、
「キャアッ!!」
里香が突然悲鳴を上げて、抱きついてきた。
「ど、どうしたんだよ?」
突然の事態にドギマギしながら訊くと、里香は右手の茂みを指差しながら喚きたてる。
「何かいた!!あっち、ガサガサって!!」
見てみると、なるほど。向こうの茂みが揺れている。
「んー。何だほら、ヘビでもいたんじゃないか?」
何気なく口にした言葉に、里香が「えっ!?」と声を上げた。
「ヘビがいるの!?」
「そりゃあ、こんな山の中だし。いるだろ、ヘビくらい。」
ところが、それが里香にとっては最大の脅威だったらしい。里香はますます僕にしがみついてきた。華奢で柔らかい身体が、ピッタリと密着してくる。
「お、おい!!そんなにくっついたら歩きにくいだろ!?」
「いいから!!早く行こう!!」
結局、僕達はくっ付いたまま、その後の道程を行く事になった。
ヘビ、グッジョブ!!
僕は心の中でヘビに賛辞を送った。
山頂の砲台は、あの時と同じままでそこに座していた。
当たり前と言えば当たり前だけど、そんな言葉では片付けられないくらい、ここは僕達にとって大事な場所だ。
あの夜、僕はここで里香に想いを告げ(無意識だけど)、あの日、ここで僕達はお互いの隙間を埋めた。
誰にも、たとえ神様にだって奪えない、僕と里香だけの時と場所。
感慨に浸りながら下に広がる伊勢の風景を見下ろしていると、横で同じ様に町を眺めていた里香がおもむろにポケットからハンカチを取り出した。
里香の指が、丁寧に畳まれたハンカチを開いていく。
その中には、肌色をした小さな粒が二つ。さっき、二人で食べた桜の実の種だ。
「裕一。」
そう言って里香が差し出したそれを、僕はそっと指で摘んだ。
―それは昔、里香が父親から聞いたという話。
曰く、木が実をつけるのは、それを鳥に食べてもらうためらしい。
実と一緒に食べられた種は鳥といっしょに長い距離を渡り、遠く離れた場所で地に落とされてそこで芽吹く。
もしこの仕組みがなければ、種はただ親木の根元へと落ちて、生えた苗は日光も養分も十分に得られず枯れてしまう。
だから、木は実をつける。自分の命を、果実へと変えて鳥に与える。日々の糧を与え、その代価として自分の子供達を生きるべき場所へと連れて行ってもらうために。
言わば、これは木々と鳥達の契約。
自分の証を後の世に残すため、木々が鳥に仕掛けた命の約定だ。
里香と僕は、その契約にのった。
あの桜の、強く燃える命の力を分けて貰う代わりに、その子供達を新天地へと連れて行く。
そして、桜はもう自分の役を果たしている。だから今度は、僕達の番。
僕と里香は手に桜の種を持つと、それぞれ砲台の両脇に分かれた。
今だ口の中に残る、渋い味。苦いけれど力強い、命の味。
僕はそれを確かめながら、指で地面に穴を開けると、その中に桜の種を入れた。その上に土を被せ、ポンポンと軽く叩く。
これで、約定は完了だ。
ホッと息をついて立ち上がると、砲台の反対側から里香が歩いてきた。
「済んだのか?」と僕が尋ねると、「うん」と笑顔で頷いた。
―9―
里香が、砲台の上に上がりたいと言ってきた。
望む所だ。
以前誓った通り、日々の筋トレは欠かさず行ってきたのだ。
今度こそ、僕の力だけでお前を台座の上に上げてやる・・・筈だったのだが。
「相変わらず、力がないなぁ。裕一は。」
・・・はい。出来ませんでした。結局途中で力尽き、里香を自分で這い上がらせる羽目になった。
あの汗にまみれた日々は何だったんだ・・・。
一人凹んでいる僕に、台座の上から里香が「何してるの?早く上がってきたら。」と声をかけてくる。
しばしほっといてくれ、などと言う事も出来ず、僕は黙って台座へと上がった。
草いきれでムッとしていた下と違い、台座の上は涼しい風が通っていた。
座っていると、掻いていた汗もスーッと引いていく。
「涼しいね。」と里香が言った。僕はそれに「おぅ。」と返す。
しばしの間。そしてまた、里香が口を開く。
「・・・芽、出るかな?」
それは少し、心配そうな声だった。
「何でだよ?」
「だって、こんな山の中だよ。他の草や木に、負けちゃわないかな?」
そんな里香の言葉に、だけど僕は妙な確信を持って即答した。
「出るさ。」
「どうして、分かるの?」
聡明な里香にしては、珍しい愚問だ。
だって、あの桜の子供だぞ。その身を死に食われても、なお平然と牙を立て返す様な親の子供だぞ。そこらの雑草や雑木になんか、負ける筈ないだろ。
僕がそう言うと、里香は少しキョトンとしてから、「そうだね。」と言って微笑んだ。
「珍しいね。裕一がそんな気の利いた答え方するなんて。雪でも降ったりして。」
「何だよそれ、ひでぇな。」
「だって、そうだもん。」
そう言って里香は「アハハ」、と笑った。
つられて僕も、「ウハハ」と笑った。
「アハハ」、「ウハハ」、と僕達は笑い合う。
そう。負ける筈がないんだ。あの桜の、燃える様な命を受け継いだ種達が。
そして、それはその命の炎を分けてもらった僕達も同じ筈で。
そう。僕達は負けない。これから先、どんな事が待ち受けていたって、牙をむいて立ち向かってみせる。あの桜が、そうした様に。
あ、と里香が言った。
今度はなんだよ、と僕が言うと、
「裕一の舌、紫色になってる。」
だと。
指で舌を拭ってみると、なるほど、濃い紫の跡がつく。
さっき食べた、桜の実の色が写ったのだろう。
里香は「かっこ悪い」とか「変なの」とか言いながらケラケラと笑っている。
でも、それなら。
「お前もそうだぞ。」
僕がそう言うと、里香は「え!?」、と言って自分の舌を拭う。
そして「ホントだ」、と言ってまたケタケタと笑い出す。
僕も負けずに、笑ってみせる。
アハハ。
ウハハ。
僕達の笑い声は初夏の空に流れ、遠くへと消えていった。
・・・その夜、僕は夢を見た。
それは、今からずっと未来の夢。
里香も、僕もいなくなった、それくらい先の頃の夢。
場所は砲台山。
そこには今と変わらずに、草木に囲まれてコンクリートの台座が鎮座していた。
でもただ一つ、変わっていた事があって。
・・・砲台を挟む様にして、大きな二本の桜が生えていた。
二本は寄り添う様に枝を交わし、その枝にいっぱいの華をつけていた。
そこに咲く華はとても色濃くて、日の光の中で一際強い輝きを放っている。
ちょうど、あの桜の様に。
そして、その桜の根元には、一人の女性が立っていた。
黒く艶やかな、僕の良く知る色の髪を腰まで伸ばした女性。桜を見て微笑むその顔は、良く知っている様で、知らない顔。
と、後ろの方から小さな女の子が一人、その女性に向かって駆けてくる。女性と同じ、長い黒髪をなびかせながら。自分の足に纏わりつくその子を、女性が笑いながら抱き上げる。そろって桜を見上げる二人の顔は、やっぱり僕の知る面影を残していて。
風が吹き、桜の花弁がふわっと散る。散った花弁がクルクルと舞い、自分達を見つめる二人を包む。女性から降りた女の子が舞う花弁を追いかけて、これまたクルクル走り回る。それはまるで、桜といっしょに
・・・そんな、幸せな夢だった。
廻る 廻る
命が廻る。
踊る 踊る
絶える事なく、止まる事なく
廻る命が
を踊る ―
終わり