―子守唄 ・Song to sing for you―
1
「裕一、何でいるの?」
「え?だ、だって・・・」
「今日、学校休みじゃないよね?」
「そ・・・そりゃ、まぁ・・・。」
「馬鹿じゃないの!?」
「は・・・はぃ・・・」
里香の怒声に、正座をした僕は、ただただ小さくなるばかりだった。
里香が熱を出した。
時は6月。梅雨の真っ只中。
蒸し暑かったのが、雨が降ると急に冷え込んだりして、寒暖の差が激しかった。
常々自分の身体には気をつけている筈の里香だったが、それでもこの落差が地味に応えたらしい。
昨日、授業中に身体のだるさを覚えて保健室に行くと、7度5分の微熱があった。 保健の先生に進められ、学校を早退して病院に行くと、とりあえずはただの風邪なので、家で大人しくしている様に言われたそうだ。
夏風邪は馬鹿がひくものだと思っていたが、最近の風邪は人を選ばないのだろうか。
熱は次の日(つまり今日)になっても下がらず、里香は結局休む事になった。
その話を僕が聞いたのは、今朝の事。
家におばさん―里香の母親から電話があったのだ。
昨日、早退した事は知っていたし、帰りに家にも寄って様子も見てきていた(結構、元気だったので安心した)。けれど、熱が二日越しで続いているとなると、いくら微熱とはいえ気にかかる。
大丈夫だろうか。
そんな事を考えながら、いつもの道を学校に向かって自転車を漕いでいた僕は、はたと思い当たった。
今日は平日である。当然、おばさんも仕事がある。それも、昨日は里香を迎えに来るために仕事を早退したらしい。
大人の世界は厳しい。
一人に課せられる責任が重いぶん、僕ら学生の様に、そうそう簡単に早退や休みをとる訳にはいかない。
おばさんだってそうである。いくら里香の事が心配でも、昨日の今日で仕事先が休みをとる事に良い顔をしてくれる可能性は低い。
と、いう事は・・・
その可能性に思い当たり、僕は自転車を急旋回させると里香の家に向かって走り出していた。
何?学校はどうしたって?知るか、んなもん!!
里香の家に着くと、案の定おばさんが出かけるところだった。
おばさんは僕の顔を見ると、驚いた様に「学校は?」と問いかけてきた。
当たり前だろう。
僕が「いいんです。」と言うと、少し怒った様な、困った様な顔をした。それでも大汗をかいてゼェゼェ言っている僕を見ると、やがてしようがないと言った風な苦笑いを浮かべて、「よろしくね。」と言ってくれた。
それで、話は冒頭に戻る訳だ。
「裕一、留年してるんだよ!!」
里香はまだ怒っていた。
布団の上に身を起こして、僕の事を睨んでいる。
着ているのは、淡いブルーのパジャマ。この姿を見るのは、退院して以来だ。何か、感慨深い。
正座しながらそんな事を考えていたら、「話聞いてるの!?」とまた怒鳴られた。
「は、はい!!」
慌てて、姿勢を正す。
「こんな事で無断欠席なんかして!!また留年なんてなったら、どうするつもり!?」
ふむ、確かにそれは困る。里香と同級生になるのは良いが、今の年下連中に追い越された挙句、さらに下の連中と同学年になるというのは、精神的にかなりキツイものがある。
「分かった!?」
里香が言う。
僕はただ、首を縦に振るばかり。
「なら、今すぐ学校に行きなさい!!」
しかし、僕は今度は首を縦ではなく、横に振った。。
「分かってないじゃない!!」
里香がまた怒鳴る。
だけど、今度は僕も引かない。
どっしりと腰を据えて、里香を睨み返す。
そう。こればっかりは引く訳にはいかないのだ。
しばし、里香との睨み合いが続く。
そして、折れたのは里香の方だった。
「・・・勝手にしたら。」
大げさに溜息をつきながら、そんな事を言った。
「おう、勝手にする。」
僕は心の中で、ガシッとガッツポーズを決めた。
2
「もう、裕一のせいで疲れちゃった・・・」
里香がそんな風にブーたれた途端、
ケホン、ケホン!!
咳き込んだ。
「お、おい!!大丈夫か!?」
僕は慌てて里香の背中をさする。
ケホッ、ケホン
さする背中は、とても小さくて華奢だった。その背中が、咳き込む度に震える。
その感覚に、僕は例え様もなく不安を感じた。
「・・・も、だいじょぶ。ありがと・・・」
里香はそう言うと、ハァ、と大きく息をついた。
「いいから、寝てろよ。」
僕が促すと、里香はそれに素直に従い、布団に横になった。
仰向けになった里香の額に、そっと手を当てる。
うっすらと汗ばんだ皮膚を通して、ほんのりとした熱感が伝わってくる。やっぱり、まだ熱があるのだ。
僕が手を離そうとすると、急に里香が「離しちゃ駄目。」と言ってきた。
「裕一の手、冷たくて気持ち良い・・・。」
「・・・そうか?」
僕は離そうとしていた手を、再び里香の額に押し当てた。
その感触を愉しむ様に、里香が薄く目を閉じる。
「ねぇ・・・裕一・・・。」
「ん?何だ?」
「駄目だからね・・・。」
里香の言葉の意味が、僕には分からなかった。
「何がだよ・・・?」
「あたしの為だからって、全部捨てちゃ、駄目・・・」
「・・・!!」
「裕一は、裕一を大事にしなくちゃ、駄目・・・。」
何か、鼻の奥がツーンとなった。里香を、この娘を、力いっぱい抱き締めたい衝動が、身体の芯から湧き上がってきた。
その衝動を誤魔化す為に、僕は里香の頭をクシャクシャと撫でた。
「何、馬鹿な心配してんだよ。いいから、黙って寝ろ。」
返事はなかった。
いつしか、里香はスヤスヤと寝息を立てていた。
僕はしばしその寝顔を見つめた後、本棚から一冊の本を取って、布団の傍らに胡坐をかいた。
里香が目を覚ましたのは、それから数時間後。もうじき、昼食の時間になろうかという頃合だった。
「ん・・・」
布団の中でもぞりと動いた里香が、薄っすらと目を開ける。
「お、目、覚めたか?」
僕が顔を覗き込むと、里香はぼんやりとした眼差しで、僕を見上げてきた。
「あれ・・・裕一、また、抜け出してきたの・・・?」
ん?何を言ってるんだ?
「熱・・・あるんでしょ・・・ちゃんと、寝てなくちゃ・・・」
熱があるのは、お前のほうだろ。
「また、谷崎さんに怒られる・・・」
そこまで言った所で、それまでぼんやりしていた里香の視線の焦点が、パシッと合った。
「え・・・ここ・・・あ、そっか・・・!!」
慌てた様にそう言うと、気まずそうな、恥ずかしそうな顔をする。
その様子を見て、僕ははたと思い至った。
「お前、ひょっとして寝ぼけてたのか?」
熱でほてった顔が、ますます赤くなる。
「なるほど。お前でも寝ぼけたりするんだ。そーかそーか。」
鬼の首でも取った様に笑っていたら、
「うるさい!!裕一のバカ!!」
と、枕元にあった本を投げ付けられた。
太宰治全集。
やたらと分厚いそれが、僕の額にジャストミートする。
ちなみに角。痛かった。
「飯、どうするんだ?」
僕が訊くと、里香は「ママが、お粥作っておいてくれてるけど・・・」と言ったまま、何か渋い顔をしている。どうやら食欲がないらしい。
「駄目だぞ。ちゃんと食わないと、良くならない。」
僕がそう言うと、渋い顔のまま、コクンと頷いた。
里香の部屋のある二階から降りて台所に行ってみると、なるほど、お粥の入った片手鍋がおいてあった。傍らには、カレイの煮付けと梅干し、冷凍蜜柑も置いてある。鍋の下には、紙が一枚。
『ちゃんと食べる事!』
と、おばさんの字で書いてあった。
僕は鍋をコンロにかけると火をつけた。お粥が温まるあいだに、カレイの煮付けもレンジにかけて温める。
やがて、温まった鍋がコトコトと音を立て出した。
蓋を取ってみると、フワリと湯気が立つ。素朴で優しい、お粥の香りが鼻をくすぐった。おたまでかき回して、底の方まで温まっているのを確認すると僕は鍋を火から下ろした。
同じ様に温まったカレイの煮付けや梅干しと一緒にお盆に乗せ、茶碗と箸とれんげをそえて二階に持っていった。
「里香、準備出来たぞ。」
そう言って部屋に入ると、里香は布団から顔を半分だけ出して、「ムー」と唸った。
「ほらほら、んな顔してないで。ちゃんと食べる。」
お粥の乗ったお盆を枕元に置いたが、肝心の里香が布団から出てこない。
「どうした?起きろよ。」
僕がそう言うと、里香が布団の中から手を伸ばしてきた。
「ん?何だ?」
「起こして。」
・・・は?何で?
「お前、さっきは自分で起きてただろ?」
「いいから、起こして!」
「お、おぅ・・・。」
差し出された手を取り、背に手を回して、僕は里香の上半身を起こしてやった。
「ほら、これでいいだろ。」
「うん。」
僕は茶碗にお粥をよそうと、里香に差し出した。
「ほら、食べろよ。」
「・・・・・・。」
だけど、里香は茶碗を手に取らない。
「どうした?食べろってば。」
「・・・て・・・」
何かモゴモゴと言った。
「・・・は?」
「・・・せて・・・」
何か顔が赤い。何だ、また熱でも上がってきたのだろうか。
心配になった僕が額に手を当てようとすると、唐突に里香が大声を上げた。
「食べさせて!!」
「はぁ!?」
突然の、それも思いがけない注文に、僕は唖然となった。
3
「ほら、あーん。」
「ん。」
皆にも覚えはないだろうか。風邪をひいて気が弱くなっている時など、妙に誰かに甘えるというか、頼りたい気分になった事は。
どうやら、今の里香がそれらしい。
最初の方こそ持ち前の気丈さで気を張っていた様だが、何かの拍子にたがが外れてしまった様だ。
境目は多分、先にあった睡眠の時間。
何か夢を見ていた様だが、それが原因だろうか。
何て事を考えながら、僕はれんげでお粥をすくっては里香の口に運んでいた。
「熱ッ、ちゃんと冷ましてよ!!バカ裕一!!」
「あ、わ、悪ぃ!!」
でもまぁ、こんな風に甘えられる事事態は悪い気はしない。
何ていうか、この娘は僕のものだという実感というか、独占欲みたいなものが満たされて、妙な充足感がある。
・・・何か少し、危ない思考かもしれないが・・・。
「ちょっと、バカみたいにお粥ばっかりよこさないでよ!!ちゃんとオカズも食べさせて!!」
「・・・は、はい!!」
・・・いや、やっぱり僕がM気質なだけかもしれない・・・。
「もう、いいのか。」
「うん。」
里香は鍋の3分の1ほどのお粥を食べて、箸を置いた(いや、箸持ってたのは僕の方だけど)。
けどまぁ、カレイの煮付けも半分食べたし、良しとしよう。
「食器、台所に片付けておいて。」
「分かった。」
言われたとおり、食器を片付けて戻って来ると、里香が布団の中で何かモジモジしている。
ん?何だと思っていると、唐突にこんな事を言ってきた。
「裕一、本が読みたい。」
「え、あ、本か?どれだ?」
「『失われた世界(ロスト・ワールド)』。」
言われた題名を、本棚から探す。
「何してんの?」
「いや、だから本を・・・」
「ある訳ないじゃない。持ってないんだから。」
・・・どういう事だ?
「借りてきて。」
「は、はぁ!?」
「図書館に行って、借りて来てって言ってるの。」
「いや、だってオレはお前の看病を・・・」
里香が、布団の中からギロリと睨んでくる。
う・・・この目は、まずい!!
「何よ。病人の頼みを聞くのも看護人の役目でしょ?それとも、嫌だって言うの?」
視線の剣呑さが増してくる。これ以上逆らったら、家から追い出されかねない。
「わ、分かったよ!!」
僕はそう言うと、重い腰を上げた。
本の題名が書かれたメモ用紙を受け取りながら、里香の携帯を彼女の枕元に置く。
「いいか、何かあったり、具合悪くなったりしたら、直ぐ連絡するんだぞ?」
「うん。」
「遠慮すんなよ。我慢するんじゃないぞ?」
「うん。」
「ホントにホントだぞ!?絶対に我ま・・・」
「分かったってば!!早く行って!!」
そんな声といっしょに、冷凍蜜柑が飛んできた。
「いた!!いたた!!分かった!!分かったって!!」
僕は慌てて部屋の外に出ると、「行ってくる!!」と言って戸を閉めた。
「やれやれ・・・。」
僕はぼやきながら、自分が携帯を持っている事をしっかりと確認して、家を出た。
図書館は、里香の家から見れば僕らの通う高校よりは近い位置にある。
つまりは、自転車で行けばさして時間のかかる距離ではないという事になる。
それでも、図書館でご注文の本を探す時間なんかを考えれば、やはりそれ相応の時間はかかるだろう。
少しでも早く戻れる様に、僕は足に力を込め、ペダルを踏む速さを上げた。
景色がだんだんと、見覚えのある風景へと変わっていく。
「・・・なんか、懐かしいな・・・。」
回りの景色を眺めながら、僕は妙な感慨を覚えていた。
里香と出会ってまだ間もない頃、僕は彼女の命令でこの道を病院から歩いて図書館に通った。
病院と図書館の距離は、里香の家と比べれば近い。
だけど、あの時僕は入院中。当然、今みたいに自転車なんてものはなく、僕は徒歩で図書館に向かった。凍てつくような冬の冷気の中で、その道程を酷く長く感じたものだ。
ついでに言えば、その際に借りてくる本を間違えるなどという失態を犯し、もう一度図書館にリターンさせられるという憂き目にあっている。全く、病人相手に酷い話もあったものだ。
もっとも、今となっては何もかも皆懐かしい記憶ではある。
そういえばあの日、図書館との往復で晩飯を食べ損ねた僕のために、里香が食事を取っておいてくれたのだった。いつもはまずい病院の食事が、その時に限ってはひどく美味く感じた。あの時、息もつかずがっつく僕の頭を撫でる里香の手の感触を、今でも昨日の事の様に思い出せる・・・。
と、そこまで考えて、僕はあっと声を上げた。
「昼飯、食うの忘れてた・・・。」
気付いた途端、空っぽの胃袋がぐぅと鳴った。
4
自転車のお陰で、思ったよりも早く帰ってくる事が出来た。
肝心の本も、パソコン検索ですぐに見つけることが出来たし、全く文明の利器ってのは素晴らしいものだ。
「ただいまー。」
空腹も手伝って気が急いていた僕は、ろくに確認もせずに部屋の戸を開けた。
途端―
「―――!!」
「―――!!」
目に飛び込んできたのは、淡いピンクの下着と雪の様に真っ白い肌。
・・・里香が上着を脱ぎ、タオルで身体を拭いていた。
「・・・・・・。」
「・・・・・・。」
里香はポカンとし、僕は目の前の光景に釘付けになった。
一拍の間。
そして―
「――――――っ!!!」
盛大に響き渡る悲鳴。
それと同時に、機関銃の如く飛んでくる本や蜜柑やその他諸々。
僕は再び額に太宰治全集のジャストミートを受け(やっぱり角)、その場に崩れ落ちた。
「も、もう。ノックくらい、してよね。」
着替えたパジャマを整えながら、里香は熱とは別の意味で顔を赤くしていた。
「す・・・すいません。」
額に出来たたんこぶを擦りながら、僕は平謝りに謝った。
「ま・・・まぁ、いいわ。今度から気をつけてよね。」
数分後、やっと出たお許しの言葉に僕がほっとしていると、
「それはそうと、“遅かった”わね。」
里香がそんな事を言ってきた。
「え?そ、そうか?」
そう言って、僕は時計を見た。自転車のお陰で本を探す時間込みで数えても、時間は2時間くらいしかかかっていない。それなのに、「遅かった」と言うか。この女は。
見れば、里香は憮然とする僕を見ながらニヤニヤと笑っている。
その顔を見て、僕はふと思い至った。
さっき、道中で僕が思い出した様に、彼女も“あの頃”の事を思い出しているのかもしれない。
「本、あった?」
やっぱり、“あの時”通りの言葉。
なるほど。それならこちらも合わせよう。
「あったよ。」
僕も、“あの時”の言葉を繰り返しながら本を渡した。
本を受け取った里香が、クスクスと笑う。
つられて、僕もうはは、と笑った。
もっとも、何もかも前回と同じという訳じゃないぞ。同じ愚を二度繰り返す程、僕は愚かじゃない。今回は、所望の本を間違いなく・・・
「・・・何、これ?」
・・・へ?
里香の言葉に、僕はキョトンとなる。
何だ?何もそんな所まで再現しなくても・・・などと思いながら見ると、里香はジト目で僕を睨んでいた。
「何、これ?」
また言った。
先と違って、声が明らかに不機嫌だ。
な、何だ?何がまずかったんだ?
「な、何って・・・頼まれてた本・・・」
「何言ってんの!?」
怒鳴られた。
「これ、マイケル・クライトンの『ロスト・ワールド』じゃない!!」
「え?だって『ロスト・ワールド』だろ?読みたいっていったの。」
「これは『ジュラシック・パーク』の続編!!あたしが読みたいって言ったのはコナン・ドイルの『失われた世界(The Lost World)!!全然違うじゃない!!』
え?ええ!?何だ、それ!?
「そ・・・そんな事言われたって、同じ題名のがあるなんてお前・・・」
「メモに作者名も書いてたでしょ!?」
・・・はい?
慌ててメモを確認する。
本当だ。ちゃんと『作者 コナン・ドイル』って書いてある。
題名にばかり気をとられて、見落としていた。
里香がはぁ、と大きな溜息をついた。
「もう、全然成長してないじゃない。裕一のバカ。」
・・・返す言葉もありません。
しかし、という事はこの後くるのは・・・
「ちゃんと借りてきて!!」
ですよね・・・。
とりあえず、昼飯食ってからでいいか?なんて訊ける筈もなく、僕は空きっ腹を抱えたまま、もう一度図書館へ行く準備を始めた。
だけど―
「・・・と思ったけど、いいわ。」
「へ?」
意表をつかれた僕は、ポカンとして里香の顔を見た。
「いいって言ってるの。今から行き直してたら、夕方になっちゃうじゃない。裕一、お昼も食べてないでしょ?」
そう言って、里香は布団の中に潜り直した。
「はぁ・・・。」
拍子抜けした僕は、ただそう言うだけだった。
5
結局の所、里香は汗ばんだ身体が気持ち悪かったので、身体を拭いて着替える間、僕をどっかにやっときたかっただけらしい。
・・・そんなに信頼がないのか。僕は・・・。
などと、凹んでる暇などなかった。
何しろ、その後の里香は我侭のし放題だったのだから。
やれ部屋の空気が悪いから入れ替えろだの、やれ喉が渇いたからジュース持って来いだの、薬が苦手な粉薬だから飲むの手伝えだの。
正直、昼飯などいつ食べたのかも思い出せない。
本当に、まるで“あの頃”がまんま戻ってきた様な忙しさだった。
里香もそれなりに元気で、もう風邪などどこかに飛んで行ってしまったかの様に思えた。
・・・けど、それも夕方までの話だった。
「う~ん。8度1分、か・・・。」
僕は手にした体温計の数値を読み、顔をしかめた。
日が暮れるにつれ、里香が寒気をうったえ始めていた。
それで熱を測ると案の定、昼間なりを潜めていた熱が再び上がり始めていた。
「寒い・・・。」
里香がそう言って、布団の中でもぞりと動く。
「ちょっと待ってろ。」
僕は押入れを開けると、中から新しい上掛けを一枚引っ張り出した。
「人ん家の押入れ勝手に開けないでよ。エッチ。」
「そんな事、言ってる場合じゃないだろ。」
言いながら、上掛けを里香の布団の上に被せる。
ケホ、ケホ
里香が、か細いせきをする。
「大丈夫か?」
そう言いながら背をさすると、里香はコクンと頷いた。
「寝ろよ。」
里香の肩に布団を掛け直しながら、僕はそう言った。
「風邪には、寝るのが一番だぞ。」
僕の言葉に頷きながら、だけど里香は目を閉じようとしない。
「どうした?おばさんが帰って来るまでいてやるから、安心して寝ていいぞ」
「ねえ、裕一。」
「ん?」
「何か、あの時と逆だね。」
目を気だるそうに潤ませながら、里香がふふっと笑う。
「あの時?」
「ほら、二人で病院抜け出して、砲台山行った後。裕一、熱出したじゃない。」
「ああ、あの時か?」
「うん。あの時、裕一ったらフラフラなのに、病室抜け出してあたしの所に来たよね。」
そう。そして里香に怒鳴られ、強引に彼女のベッドに寝かされたのだ。その時、里香は脇のパイプ椅子に座って僕を睨んでいた。
確かに、今とは立場が逆かもしれない。もっとも、僕は里香を睨んだりしてないけど。
「昼間ね、夢で見たの。」
「え、ああ、あの寝ぼけた時か?」
「うん。」
昼間の様に恥ずかしがらず、里香は小さく頷いた。
「でもね、本当は、もっと前から見てたの。」
「前?」
「うん。裕一と一緒に砲台に登って、裕一が倒れた時から。」
「つ、つまんない事、夢に見るなよ。」
全く、あの時はしまらなかった。格好つけて病人を連れ出しておいて、自分が倒れてちゃしょうがない。
渋い顔をしている僕を見て、里香はまたフフッと笑う。
「それでね、聞いたの。」
「聞いたって、何を?」
「あの、言葉。」
「!!」
里香の言葉の意味は、すぐに分かった。
聞いた途端、顔が赤くなるのが分かる。
それこそ、あの病室の中で、熱に浮かされながら交わした会話の時の様に。
「ちゃんと、聞いたよ。」
見れば、里香の顔もほんのりと染まっている。
熱のせいだろうか。それとも、僕と同じ理由だろうか。
「・・・嬉しかった。」
え、と僕は聞き直した。
「嬉しかった。また、聞けて。」
熱で浮ついているせいだろうか。里香はいつもより饒舌だった。
「目がさめても、どきどきしてた・・・。」
三回目なのにね、と言って里香はクスクスと笑った。
ああ、それでか。
だからあの夢の後、里香はやたらと甘えてきたのか。
何だか、嬉しいような、くすぐったい様な気持ちになって、僕は里香の髪をくしゃっと撫でた。
あの図書館に通った夜、夕食を貪る僕に彼女がした様に、優しくクシャクシャと撫で続けた。
ケホン
里香がまた、咳をした。
撫でる手に伝わる熱が、少し熱くなった様に感じる。
また、熱が上がってきたのだろうか。
少し、話しすぎたのかもしれない。
僕は里香の髪から手を離すと、その肩に改めて布団を掛け直した。
「いいから、もう寝ろ。」
僕がそう言うと、里香はじっと僕の顔を見て、おもむろにこう言った。
「子守唄、歌って。」
「え?うぇえ!?」
突然の提案に、僕は驚いた。焦った。
「歌ってよ。子守歌。」
そんな僕の反応を面白がる様に、里香は繰り返す。
「いやいや、無理だから!!」
「何で?」
何でもかんでもない。僕は音痴なのだ。人に聞かせるものじゃない。
「何でって、オレ、音痴なんだぞ!?」
「いいから、歌ってよ。」
「いやいや、無理だから!!」
「歌って。」
「無理!!」
「歌え!!」
とうとう、命令されてしまった。これ以上拒むと、本気で怒り出しかねない。
それでまた、熱なぞ上がられても困る。僕は渋々頷いた。
それを見た里香が、にっこりと笑う。
「あのな、ホントに下手だからな。」
「うん。」
「笑うなよ?」
「うん。」
「絶対の絶対だぞ?」
「分かったから。早く歌って!!」
僕は溜息をつくと、声を出しやすい様にキチンと座り直した。
里香が「わー♪」などと言いながら、パチパチと拍手をする。
全く、人の気も知らないで・・・。
いや、知っててやってるんだな。この女は・・・。
拍手が終わるのを待って、大きく息を吸い込んだ。
「♪ね~んね~ん、ころ~り~よ、おころ~り~よ♪」
・・・初っ端から音を外した。
それを聞いた途端、里香がぷっと吹き出した。
「あははは、裕一、ホントに下手。」
こ・・・この女は・・・。
「こら、だから笑うなって言ったろ!!歌うの、止めるぞ!?」
「ごめんごめん。続けていいよ。」
あからさまに笑うのをこらえながら、里香はそんな事を言う。
「全く・・・。」
僕は気を取り直して、続きを歌い出した。
「♪里~香~は~良い~子~だ~ねんね~し~な♪」
歌っていると、不意に手に温もりを感じた。
見ると、里香が布団の中から手を出して、僕の手に乗せていた。
いつもより少し高い体温が、肌を通して伝わってくる。
僕は歌いながら、もう片方の手を、その里香の手にそっと乗せた。
僕の体温が、里香の手を包む。
里香は満足そうに微笑むと、そっと目を閉じた。
そしてほどなく、小さな寝息をたて始める。
僕はその小さな手を包んだまま、子守歌を歌い続けた。
いつまでもいつまでも、歌い続けた。
6
おばさんが帰ってきたのは、夜の8時も半ばを過ぎ、もう9時も近くなるという頃合いだった。
おばさんは、まず僕にお礼を言い、そして帰りが遅くなったことを詫びた。
話を聞くと、どうやら、頑張って仕事を明日の分まで片付けてきたらしい。
お陰で、上司は明日おばさんが休みを取ることを許してくれたそうだ。
つまり、明日里香は僕がいなくても一人にはならないという事だ。
それを聞いてホッとする僕と、安らかに寝息を立てている里香を見て、おばさんは「すっかり甘えちゃって・・・」とか言いながら、どこか嬉しそうだった。
その後、帰ろうとすると、おばさんに夕食を食べていくようにと引きとめられた。
遠慮しようとした途端、グウと腹が鳴ってしまった。本日二度目。おばさんが笑っている。全くもって、締まらない事この上ない。
結局、僕が夕食をごちそうになっていると、その間におばさんは僕の家に電話をして、事の次第を説明してくれた。
お陰で、僕は家に帰ってもお目玉を食わずにすむことになった訳だ。
電話の向こうの僕の母親に、「本当にお世話になりまして」などと頭を下げるおばさんを見て、勝手に押し込んできた身としては非常に恐縮だった。
夕食を食べ終わって、今度こそ僕が帰ろうとした時、里香が起きてきた。
「起きてきて、大丈夫なのか?」
「うん。寝たら、少し楽になった。」
そう言う里香の顔色は、確かに少し良くなっているように見えた。
「裕一、帰るんだ。」
「ああ、明日も学校だし。流石に、二日続けてサボる訳にはいかないからな。」
「・・・だよね。」
そう呟くと、里香は寂しげに顔を伏せてしまった。
思いがけない反応に、僕の方が焦ってしまう。
「何だ?ひょっとして寂しいのか?」
照れ隠しにそんな事を言うと、今度は里香の方が焦ったらしい。
「そ、そんな訳ないでしょ!!」
「うはは、いいぞ。照れなくても。そーかそーか。オレがいないと寂しいか。」
「うるさい!!調子にのるな!!バカ裕一!!」
顔を真っ赤にして喚き散らす里香。この調子なら、明日一日休めば完全回復だろう。
「分かった分かった。それじゃ、帰るから。」
「・・・うん。」
「ちゃんと、夕飯食べるんだぞ?」
「分かった。」
「しっかり寝ろよ。」
「うん。」
「オレがいなくても、泣くんじゃないぞ?」
「もう、うるさいから!!さっさと帰れ!!」
僕はうはは、と笑いながら、苦笑いしているおばさんに挨拶すると玄関の戸を開け、外に出た。
外に出ると、梅雨の合間か空は晴れ、たくさんの星と大きな半月が浮かんでいた。
そんな空の下、のんびりと自転車を流していた僕はふとさっきの里香の態度を思い出した。
今まで、例えば学校の帰りなんかで僕と別れる時なんかには、あんな顔をした事はない。
それが、今日はいったいどうした事だったのだろう。
まあそれに限らず、今日一日の里香はずっとそんな調子だったのだけれど。
午前中の、あのまどろみの間に見た夢の後から、里香はまるで入院していた時に戻った様だった。
随分と戸惑わせられたものだけど、考えてみればそれは僕も同じだったかもしれない。
今日、里香に"あの頃"の様に散々わがままを言われて辟易しながらも、僕は心の何処かで嬉しかった。
それこそ、さっきおばさんに明日は来なくて大丈夫と告げられた時、ホッとした反面、どこか残念な気持ちを覚えるくらいに。
振り返ってみれば、僕らが退院して以来、こんな形で二人きりの時間を過ごすのは初めてだった。
僕らの気持ちの何処かに、"あの頃"を懐かしむ気持ちがあったのかもしれない。
確かに、"あの頃"は毎日が恐怖に近い不安の連続だったし、戻りたいかと訊かれれば、正直御免だ。
里香だって、そうだろう。
だけど、こんな事言うと不謹慎かもしれないけれど、“あの頃”の僕達は今とは違った意味で一つだった。
学校や、家などに隔てられる事なく、一つの空間の中で一緒に過ごしていた、あの時間。いつ訪れるかも知れない破滅に怯えながら、それでも世俗から切り離された時間の中で、里香は子供の様に僕に甘え、僕はただ、彼女の事だけを考えていた。
・・・甘かった。
そう。確かに、あの時間は甘かったのだ。
それこそ、今日里香が微熱に浮かされながら見たという、あの夢の様に。
微熱という不安定に浮つく世界の中で、まどろみながら見る夢。
あの時間は、そういう時間だったのだ。
僕がそう思った瞬間、
ポツリ
額に冷たい感覚が走った。
まるで夢から引き戻されるかの様に、僕は我に返る。
見れば、さっきまで大きな半月が浮かんでいた筈の空は、いつしか厚い雲に覆われ、そこから大粒の雨が落ち始めていた。
ポツリ ポツリ ポツリ
まるで、愚考を抱いた僕を殴りつけるかの様に、雨は見る見るその強さを増してくる。
ザァアアアアアアー
「うひぃいっ!!」
瞬く間に滝の様になった雨の中、僕は慌てて自転車を漕いだ。
7
「―で、こうなった訳?」
「え、あ、まぁ・・・」
布団に横になった僕の傍らに座りながら、制服姿の里香は呆れた様に溜息をついた。
「だから、早く帰れっていったのに。本当、馬鹿なんだから。裕一は。」
「あ、あのなぁ・・・。そういう言い様はないだろ?そもそもオレはお前のために・・・ッゲホッゲホゲホッ!!」
そこまで言った所で、僕は盛大に咳き込んだ。
「ああ、ほら。大人しく寝てなさいよ。馬鹿裕一。」
そう言いながら、里香が僕の背中をさする。
ピピッピピッピピッ
脇の下から響く電子音。挟んでいた体温計を取り出してみると・・・
9度3分。
微熱どころじゃない。立派な高熱だった。
里香の方はあれから順調に熱が下がり、三日間の休みの後には、普通に通学出来るまでに回復していた。
その代わりと言ってはなんだけど、それと交代する様に今度は僕が熱を出してぶっ倒れた。
原因は里香にうつされたのか、それとも雨の中ずぶ濡れで帰ったせいなのかは定かではない。
ただ、僕の方は里香のそれよりも重症で、9度台の高熱が続いていた。
ううむ。これはあの時不謹慎な事を考えた罰かもしれない。
熱で煮立った頭でそんな事を考えていると、不意に額が冷たい感触に包まれた。
「うわ、あっつい。」
僕の額に手を当てた里香が、そんな声を上げた。
「薬、飲んだの?」
「さっき、飲んだ。」
「じゃあ、寝なよ。寝れば、そのうちに薬が効いて楽になるから。」
汗ばんだ額を撫でながら、里香が言う。
「熱っぽくて、寝れないんだよ・・・。」
僕が情けない声を出すと、里香がはぁ、と溜息をついた。
「仕方ないわね。じゃあ、子守唄歌ってあげるから。」
はい?
ポカンとする僕に、里香が言う。
「子守唄。歌ってあげるって言ってるの。」
「え?あ、い、いいって!!そんなの!!」
「何で?」
「何でって、その・・・何かかっこわりぃし・・・」
「そんな事、言ってる場合じゃないでしょ。」
そんな言葉とともに、視界が暗く閉ざされる。
里香の手が、アイマスクの様に僕の目を覆っていた。
火照った身体に染みる、彼女の体温。
それを冷たく、心地よく感じるのは僕の体温が高いからだろうか。
「ほら、大人しくしてなさい。」
暗く閉ざされた視界の中で、里香の声が聞こえた。
そして、その声がゆっくりと歌を紡ぎ出す。
「♪・・・ゆりかごの歌を カナリヤが歌うよ・・・♪」
暗い視界の中に響くその声は、気のせいかいつもよりも透き通って聞こえた。
「♪ねんねこ ねんねこ ねんねこよ・・・♪」
涼やかな歌声が、熱に茹だった頭を癒していく。
「♪ゆりかごの上を びわの実が揺れるよ・・・♪」
やがて、それまで苦痛でしかなかった熱感が、心地よい陶酔へと変わり始める。
甘い、この上もなく甘い陶酔だ。
それは、里香の歌のせいなのか。
それとも、薬のせいなのか。
「♪ねんねこ ねんねこ ねんねこよ・・・♪」
・・・いつしか、僕の意識は白いベッドの上に横たわっていた。
里香と“あの頃”を過ごした、若葉病院のベッドだ。
「♪ゆりかごの綱を きねずみが揺するよ・・・♪」
ベッドの上でまどろむ僕の傍らには、椅子に座った里香がいる。
まるで、“あの時”の様に。
「♪ねんねこ ねんねこ ねんねこよ・・・♪」
他に誰もいない、僕達だけの空間。
優しく響く、子守唄。
意識が、その声へと溶け始める。
甘い、甘い陶酔。
・・・この時を、愛しく思う事は罪だろうか。
「♪ゆりかごの夢に 黄色い月がかかるよ・・・♪」
許される事ではないかもしれない。
けれど、今この時だけは、この甘さにおぼれさせてほしい。
眠りに落ちる瞬間、僕は薄っすらとそんな事を考えた。
・・・場所は戎崎家。戎崎裕一の部屋。
その真ん中に敷かれた布団の中で、戎崎裕一は静かな寝息を立てていた。
「♪・・ねんねこ・・ねんねこ・・ねんねこよ・・・♪」
その寝息に寄り添う様に響くのは、涼やかで優しい歌声。
昏々と眠る戎崎裕一の頭を撫でながら、秋庭里香は子守唄を歌っていた。
誰も聞く者がいなくなった部屋の中。
それでも、秋庭里香は歌い続けた。
まるで、それを止めれば彼の夢が覚めてしまうとでも言うかの様に。
秋庭里香は歌い続けた。
いつまでもいつまでも、歌い続けた。
終わり