半分の月がのぼる空・二次創作短編集   作:土斑猫

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―ハッピークッキング―

             ―ハッピー・クッキング―

 

 

                  ―1―

 

 

 ガタガタ・・・ゴトンッ・・・ドン、ガタッ・・・

 耳に聞こえてくる、妙に騒がしく、そして妙に重い音。

 それを聞きながらまんじりともせず、戎崎裕一は座布団の上で正座をしていた。

 日は5月も半ばの日曜日。

 時は昼間の11時。

 場所は秋庭里香の家。

 そして戎崎裕一が座っているのは、その茶の間の一席。

 件の物音は、茶の間に隣接する台所から聞こえていた。

 一体、何が起こっているのか。

 答えは簡単。

 秋庭里香が料理をしているのである。

 何故か。

 それも簡単。

 戎崎裕一に食させるためである。

 一人の少女が、恋人に食させるために料理をしている。

 なんら、不自然な事ではない。

 むしろ、男にとってはこれ以上ない、幸福なシチュエーションの一つであると言えるだろう。

 にも関わらず、戎崎裕一の心境は穏やかではなかった。

 その額には脂汗が浮き、強張った様に正座した膝に添えられた手は、カタカタと小刻みに震えている。

 その様はまるで、刑の執行を待つ死刑囚の様である。

 ガタンッ

 台所で、また大きな音がした。

 戎崎裕一は、思わずビクリと飛び上がった。

 さて、何ゆえこの様な事態におちいっているのか。

 話は一週間前の日曜日にさかのぼる。

 

 その日、戎崎裕一は自分の家で、秋庭里香といっしょにテレビを見ていた。

 何の変哲もない、ありふれたホームドラマである。

 戎崎裕一と秋庭里香は、何時も通りに会話を交わし、時にドラマの内容に突っ込みを入れながら穏やかな時を過ごしていた。

 しかし、突如その空気が一変した。

 原因は、戎崎裕一の何気ない一言。

 ドラマで、主人公の恋人が主人公に夕食を作ってあげるシーンが流れたのである。

 それを見た戎崎裕一は一言、「いいなぁ・・・。」と漏らした。

 別に何か他意があったわけではない。

 ただ何となく、視覚から入った情報が漠然と抱いていた願望を口から押し出しただけである。

 しかし、それが秋庭里香の耳に入ってしまった。

 「裕一、ご飯作って欲しいの?」

 「え、あ、いや、別にそういう訳じゃ・・・」

 咄嗟に口をついて出た言葉が、さらにまずかった。

 「何、それ?あたしじゃ出来ないって言うの!?」

 秋庭里香の語気が、あからさまに剣呑なものになる。

 こりゃいかんと思ったが、もう遅い。

 「いや、そういう訳でも・・・」

 「じゃあ、どういう意味!?」

 秋庭里香に迫られ、戎崎裕一はしどろもどろになった。その態度が、さらに秋庭里香の神経を逆撫でする。

 「やっぱり、出来ないと思ってるんだ・・・。」

 「いや、だから・・・」

 “いや”ばかりを連発する戎崎裕一に、ついに苛立ちが頂点に至ったのか、秋庭里香はグワッと立ち上がった。

 「分かった!!それじゃあ、作ってあげる!!」

 呆然と見上げる戎崎裕一を見下ろしながら、秋庭里香は高らかにそう宣言した。

 

 

                  ―2―

 

 

 その後、何やかやがあって、Xデーは一週間後の日曜日という事になった。

 何の事はない。その日の昼間が双方の親が不在であり、お互いの昼飯時が空いていたからである。

 秋庭里香の機嫌を損ねてしまった事を悔いつつも、戎崎裕一の内心は浮き立っていた。

 当然かもしれない。

 たった二人で恋人の手料理を食するなど、およそ男性にとっては嬉しい事この上ないシチュエーションの一つである。

 瓢箪から駒とは、正にこの様な事なのだろう。

 何だかんだ言いながら、その点においては戎崎裕一はハッピーだったのである。

 “その日”が来るまでは・・・。

 

 “その日”、戎崎裕一は親友である世古口司から呼び出された。

 大事な話があるというのである。それも、ただ“大事”なのではなく、“重大”な話だと言う。

 話を聞いた時、正直戎崎裕一は気が乗らなかった。

 理由は簡単。

 戎崎裕一本人の気が滅入っていたからである。

 その理由も簡単。

 今週に入ってから、放課後に秋庭里香と一緒の時間を過ごしていなかったのだ。

 一緒に帰ろうと誘うと、用事があるからと断られてしまう。

 それじゃ付き合うと言うと、ついて来ないでとつっけんどんにされる始末である。

 どうした事だろう。

 何か気に障る事でもしただろうか。

 何しろ、相手はあの秋庭里香である。

 一体、何で鼻を曲げられるか分かったものじゃないのである。

 あれよこれよと考えるのにいっぱいいっぱいで、正直これ以上厄介事を背負い込みたくはなかったのだ。

 これが同じ“重大な話”でも、もう一人の友人の山西保の話であれば、どうせくだらないものだと蹴っ飛ばす事も出来る。というか、間違いなくそうする。

 しかし、今回の相手は世古口司である。

 彼が“重大”というからには、本当に“重大”なのだ。

 彼は大事な親友である。

 その頼みを無下に断る訳にもいくまい。

 少なからずの嫌な予感を覚えながら、戎崎裕一は促されるまま世古口司についていった。

 

 階段の踊り場の、人気のない場所まで来ると、世古口司は戎崎裕一に向き直った。

 世古口司の目が、伏目がちに戎崎裕一を見つめる。

 真剣な表情であった。

 悲壮感すら感じさせる表情であった。

 世古口司はしばし無言で戎崎裕一を見つめていたが、やがて何かを決心したかの様にこんな事を切り出した。

 「裕一、里香ちゃんの事、好きなんだよね!?」

 「・・・は?」

 戎崎裕一は呆気にとられた。

 どんな大事を告げられるのか緊張して来て見れば、今更何を言っているのだこの男は。

 しかし、世古口司は依然として真剣な表情のままである。

 「好きなんだよね!?」

 彼にしては珍しく、語調を強めて再び訊いて来た。

 戎崎裕一の肩をガシッと掴み、顔を寄せてくる。

 世古口司は大きい。その温厚な性格故いつもは目立たないが、いざこんな風に迫られると凄い迫力と威圧感である。

 そこらへんの格好だけの不良なら、目を合わせて10秒も持たずに逃げ出すだろう。

 「お、おう。あ、当たり前だろ。」

 その迫力に押される様に、戎崎裕一はそう答えた。

 それを聞いた世古口司はホッとした様で、それでいてどこか悲しげな眼差しを戎崎裕一に向けた。

 「な・・・何だよ?」

 「裕一、落ち着いて聞いてね・・・。」

 そう言うと、世古口司はポケットから何やらガサゴソと紙を取り出した。

 それは数枚のコピー用紙であった。

 それを無言で、戎崎裕一に渡す。

 見てみると、それには何やら画像がコピーされてあった。

 恐らく、携帯で撮った写真をパソコンに取り込み、プリントアウトしたものだろう。

 しかし、これは何だろう。

 テーブルの上に、一枚の深皿が置いてある。

 それは分かる。

 問題は、その中身だ。

 深皿の底に鎮座し、湯気を立てているそれは、実に奇怪な物体だった。

 色は一言で言えば、黒である。しかしただの黒ではない。色の濃い場所薄い場所。青味がかかった場所もあれば紫っぽい場所もある。

 形状は何とも形容しがたい。強いて言えば、瓶詰めの海苔の佃煮が一番近いかもしれない。しかしそれを言えば、海苔の佃煮の方が憤慨のあまり卒倒するだろう。

 全体的にベチャッとした印象かつ、妙なネトネト感が見て取れ、箸を突き立てたらそのまま立っていそうだ。所々、妙な突起物がピョンピョンと飛び出しているあたりが、見た目の気味の悪さに拍車をかけている。

 ・・・総じて言えば何と言うか、本能的に強い忌避感を覚える様な代物であった。

 「・・・何だよ?これ・・・。」

 「・・・の・・・だよ・・・。」

 戎崎裕一の問いに、世古口司はボソボソと答えた。

 妙にくぐもった声であり、よく聞こえない。

 「は?何だって?」

 戎崎裕一はもう一度訊いた。

 「・・・の・・った・・り・・・だよ・・・。」

 まだはっきり聞こえない。

 何か、口にする事すら躊躇している様な感じである。

 「は?」

 戎崎裕一の再三の詰問に、世古口司はついに決心した様に、声を大にしていった。

 「里香ちゃんの作った料理だよ!!」

 世古口司の言葉は、そのまま稲妻の如き戦慄となって戎崎裕一の身体を貫いた。

 

 

                  ―3―

 

 

 「え!?な!!?うぇえ!!!?」

 「裕一、落ち着いて!!」

 事態を把握出来ず、狼狽する戎崎裕一を何とか落ち着かせると、世古口司は事の次第を話し始めた。

 曰く、今週の初め、世古口司は秋庭里香から料理の教授を依頼されたらしい。

 それ自体は、懸命な選択であると言えるだろう。こと料理に関しては、秋庭里香や戎崎裕一の知人において、世古口司の右に出るものはいない。事実、両者の母親の作ったものよりも、世古口司の作ったものの方が美味かったりする事があるほどだ。

 秋庭里香が料理の指南役として選んだのも、納得のいく所である。

 世古口司の方としても、その事に関してはやぶさかではない。元来の優しく、人の良い性格も手伝って、快くその願いを聞き入れた。

 以来、秋庭里香は毎日世古口司の家に通い、料理の指南を受けていたらしい。

 どうりでここ2,3日、付き合いが悪かった訳だ。

 とりあえず目下の心配事が解消され、内心ホッとする戎崎裕一だったりする。

 しかし、その安堵も新たに目の前に現れた問題に容易に踏み潰されてしまう。

 最初の一日目は、世古口司が模範演技を見せた。秋庭里香は熱心にメモを取っていたという。

 二日目、手伝う形で秋庭里香を介入させた。少々煮崩れしたものの、まぁ何とか形になった。

 三日目、そろそろいいだろうと、秋庭里香だけで料理をさせてみた。その結果が―

 「“これ”・・・か・・・!?」

 戦慄きながら写真を見つめる戎崎裕一に向かって、世古口司は沈痛な面持ちで頷いた。

 「ちなみに訊くけど、“これ”、何なんだ・・・?」

 世古口司の返答は、驚くべきものだった。

 写真に写っている物体は、「ひじきと油揚げの煮物」だと言うのだ。

 戎崎裕一は再び戦慄した。

 ひじきと言えば、伊勢ひじきとして赤福や伊勢うどんと並ぶ伊勢の名産ではないか。

 それを、油揚げというごくありふれた食材と煮付けて、何でこんな未知の物体へと変貌させる事が出来るのだ。どこでどういじれば可能な所業なのだ。

 ・・・訳が分からない。

 軽い目眩を感じながら、残りのコピー用紙に目を通す。

 鍋の中に湛えられる、泡立つヘドロの様な色をした味噌汁。

 何故か焼く前より生々しい、妙な光沢を放つ焼き魚。

 暗いレンガ色に灼熱する、火山弾の様な塊はハンバーグだろうか。

 「・・・マジか?これ・・・。」

 まるで救いでも求めるかの様に、戎崎裕一は世古口司へと問いかけた。

 嘘だと言って欲しい。これは何かの冗談だと。ちょっとしたジョークだと。

 しかし、現実は冷酷だった。

 「・・・うん・・・。」

 世古口司の返答は、もはや悲痛さすら感じさせるものだった。

 今度こそ、本気で目の前がクラクラした。

 次の日曜日。あと三日後に、自分はこれら“物体X”を食さねばならないのだ。

 正直、腹を壊したとか何とか言って、約束を反故にしようかという考えも頭を過ぎった。

 しかし―

 「・・・里香ちゃん、一生懸命なんだよ。」

 世古口司の言葉が、その考えを一撃で粉砕した。

 「里香ちゃん、本当に一生懸命なんだ。絶対に裕一に美味しいって言わせてみせるって。」

 そうである。

 秋庭里香が、そうまでして頑張っている理由はただ一つ。

 戎崎裕一のためである。

 愛する者を喜ばせたい、その一心である。

 その心を、頑張りを、己の保身のために一方的に反故にするなど、一人の男として決してあってはならない事であった。

 戎崎裕一は手にしたコピー用紙を握り締め、頷いた。

 それは、全てを達観した顔であった。

 正しく、(おとこ)の顔であった。

 愛する者、守るべきもののために、全てを投げ打つ覚悟を決めた、(おとこ)の顔であった。

 それを見た世古口司は、戦場に行く友を励ます様にがっしりと戎崎裕一の肩を抱くのであった。

 

 残り三日。何とか出来るだけの事をしてみると、世古口司は言った。

 戎崎裕一は一言、「頼む。」とだけ言って、自分の教室へと帰って行った。

 その背中を見送りながら、世古口司はポソリと小さく言葉を漏らした。

 微かに聞こえたその声は、確かにこう言っていた。

 「裕一、ごめん・・・。」と。

 

                           

                  ―4―

 

 

 世古口司は悩んでいた。

 この世に生を受けて18年。これ程までに悩む事があったろうかと思うくらい、悩んでいた。

 今、彼の目の前には、奇々怪々な物体がズラリと並んでいる。

 どれもこれも、およそ人間の持つ言語では表現しきれない形状のものばかりである。

 恐らく十人に十人が見た途端、これらが何であるか悩み、悩みぬいた挙句その答えに到達出来ずに挫折するだろう。

 そんな代物である。

 しかし、現実はさらに恐ろしい所にある。

 これらは、料理なのである。

 人が食するための存在なのである。

 これは、「食」を愛し、その道を志す世古口司にとって、余りにも残酷な現実であった。

 在らざるべき事象であった。

 自分の愛する“食”が、愛しい食材たちが、こんなにも恐ろしい変貌を遂げようとは。

 そう。それは彼にとって、正に恐怖以外の何物でもなかった。

 否定したかった。

 こんな事は間違っていると、心の底から叫びたかった。

 しかし、それは出来ない。

 今、彼の目の前では一人の少女がキッチンに向かい、一心に料理を作っている。

 真剣な面持ちであった。

 これ以上ないくらい、一生懸命な面持ちであった。

 その額には汗が浮き、疲れたのであろう。時折しぱしぱと目をこすっている。

 それでも彼女はその手を止めない。

 目の前の、キッチンとの格闘を止めようとしない。

 当然であろう。

 彼女は恋人のために、この場に立っているのだ。

 最も大事な人に、自分の想いを捧げるために、汗を流しているのだ。

 その心根を知ればこそ、それを否定する事など出来はしなかった。

 目の前の少女と、テーブルの上に並ぶ“それら”を見て、世古口司は三つのものを呪った。

 彼はまず、現実を呪った。

 現実とは残酷なものとはいえ、何ゆえかくも非情な運命を彼女らに強いたのか。これはもはや残酷を超えて、非道というものではないか。

 そして次に神を呪った。

 天は二物を与えずとは、誰の言葉であったか。確かに、彼女には人より秀でたものが幾つかある。しかし、それに比例してまた多くのものを失っているのだ。なのに、何故それ以上のものを彼女から奪ったのか。いかに神といえど、許されざる所業というものはあって然るべきではないのか。

 そして最後に、世古口司は自分自身を呪った。

 例えて言おう。数学教師にもっとも向かない人物はどの様な人物か。答えは“当たり前の様に数学が出来る人物”である。

 当たり前に出来るが故、人に教える際、相手が“何故分からないのかが分からない”のだ。

 今この場においての世古口司が、まさにそれであった。

 彼の料理の腕はずば抜けている。もちろん、彼自身の努力もあってこそのものであるが、天性の才もないとは言えないだろう。

 故に、かの少女が成す料理の態が、彼には理解出来なかった。(もっとも、では他の人間なら理解出来るかと言えば大変に微妙な所ではあるが。)

 その事が、世古口司には悔しかった。自分の得意な事で友人の力になれないのなら、一体自分の存在意義とはなんなのか。

 さらに言えば、世古口司には後ろめたい事があった。

 実は彼、かの少女の料理を一口も味見していなかった。幾度か依頼はされていたのだが、何かと理由をつけては断っていたのだ。

 世古口司の夢はパティシエである。その道を志すにおいて、味覚の障害は致命的である。以前にもその事を懸念させる事案に遭遇しており、その時も彼としては珍しく、某友人に“それ”を押し付ける結果となっていた。幸い、その時には大事に至る事はなかったが、今回に至っては事態はより深刻である。

 目の前の“これら”を食して、口の中が無事で済む可能性は限りなく低い様に思えた。

 将来の夢を失う恐怖。それが世古口司を、件の料理の味見から忌避させていた。

 味も知らずに、的確な指導が出来る筈もない。

 分かってはいる。

 分かってはいるのだが・・・。

 やはりその一線を越える事は、世古口司には出来なかった。

 「・・・ごめん。裕一。」

 そして世古口司は、今日もその料理の写真を撮る。

 彼の友人に、かの少女の想い人に、せめても心の準備をとらせるために。

 その結果、彼らが負うであろう傷が、せめて少しでも浅くなる様に。

 世古口司は写真を撮る。

 そこにまた、もう一つの“後ろめたさ”を抱えながら・・・。

 

 残りの三日間は、瞬く間に通り過ぎた。

 その間、戎崎裕一は世古口司から極秘報告を受け続けていた。

 秋庭里香の料理の腕に、何かしらの変化はなかったか。

 彼女自身が、自分の作るものの異常性に気付いて、その方向性に軌道変更を試みないか。

 その手が作る“もの”が、せめて未知のものから既知のものになりはしないか。

 残りの三日間、戎崎裕一はそんな奇跡を心密かに祈っていた。

 しかし、現実はどこまでも残酷であった。

 Xデーの前日。その夕方、秋庭里香に最後の教授を終えた世古口司が、戎崎裕一の家を訪ねた。そこで最後の写真を受け取った戎崎裕一は、それを見て深い溜息をついた。

 深い深い、溜息であった。

 分かっていたのだ。奇跡など、起こりはしないと。

 そんなもの、この世には存在しないのだと。

 分かって、いたのだ。

 「裕一・・・ごめん・・・。」

 世古口司は、自分の非力を詫びた。

 何度目かとも知れない、謝罪の言葉だった。

 力なくを垂れるその姿は、大きい筈なのに酷く小さく見えた。

 戎崎裕一はその肩をポンポンと叩き、「ありがとな。」と告げた。

 万感の想いを混めて、その言葉だけを告げた。

 戎崎裕一の部屋の中に、二人の男泣きの声だけが、静かに響いた。

 

 数刻後、世古口司が帰路につく時間が来た。

 家の外に出た後、世古口司は家の入り口まで見送りに来た戎崎裕一を、一度だけ振り向いた。

 「裕一。」

 「ん、何だ?」

 「・・・ううん、何でもない・・・。」

 そう言って悲しげな顔で手を振ると、世古口司は夜の闇へと消えて行った。

 

 ・・・どんな運命の時であっても、時間は変わりなく過ぎていく。

 夜は更け、やがて朝が来る。

 眠れぬ夜を過ごした戎崎裕一のもとにも、その日の朝は変わらずやって来た。

 そう。

 運命の、Xデーの始まりであった。

 

 

                   ―5―

 

 

 「いらっしゃい。」

 「お・・・おう。」

 戎崎裕一が訪れたとき、秋庭里香はすでに戦闘態勢であった。

 白いワンピースに、猫のアップリケの付いたピンクのエプロン姿。

 正直、ときめいたりしてしまう戎崎裕一だったりする。

 しかし、そのトキメキも家の中に入った途端吹っ飛んでしまった。

 家の中は、真っ黒い煙に満たされていたのだ。

 「お、おい!!何だよコレ!?」

 思わず叫ぶ戎崎裕一に、秋庭里香は平然と答える。

 「何って、ひじき煮てるだけだよ。」

 「煮てるだけって、何だよこの煙!!焦げてんじゃないのか!?」

 「焦げてないよ。火焚いたら煙が出るの、当たり前じゃない。」

 何を当たり前の事を言っているのかと、馬鹿を見る様な目で見られて戎崎裕一は絶句する。

 いやいや、ない!!ないぞ!!どこの家でも、台所で火使って黒い煙出るってのは異常事態だぞ!!

 心の中で叫ぶ戎崎裕一だが、当の本人が目の前で平然としている。とても突っ込めない。

 「何してんの?早く入ったら。」

 「は、はい・・・。」

 促されるまま、戎崎裕一は黒煙満ちる家の中へと入った。

 

 「もうすぐ出来るから、待っててね。」

 そう言うと戎崎裕一を茶の間に残し、秋庭里香は黒い煙を噴出す台所へと戻っていった。

 ―そして話は冒頭に戻る。

 ガタンゴトン・・・ジュワジュワ・・・ギィギィ・・・ガタタン

 台所からは相変わらず、料理をしているとは思えない音が響いてくる。

 一体、何をどう料理しているのだろう。気にはなるが、とても覗いてみる勇気はない。

 座したまままんじりともせず、ただ時を待つ。

 もっとも、戎崎裕一とて何もせずにこの時を迎えた訳ではない。

 世古口司から事の次第を告げられてから、彼は彼なりに対策を行っていたのである。

 賞味期限が十日前に切れ、パサパサに干からびた赤福にマヨネーズとケチャップをかけて食した。

 知人らが声をそろえて、“飲めたものじゃない”と言ったジュースに、これまた“食えたもんじゃない”と太鼓判を押したスナック菓子を浸して食した。

 おばちゃんが絶好調時のまんぷく亭の唐揚げ丼に、さらに七味唐辛子を山になるくらいふりかけて食した。

 カップ麺にお湯の代わりに熱した青汁を入れ、それにラー油を一瓶丸々入れて食した。

 等々。

 とにかく考えられうる全ての手段を使って、自分の舌と胃袋をとことん苛め抜く生活をしてきたのである。

 それに加えて、口に入れた物を少しでも美味く感じれる様に、今日は朝から何も食していなかった。

 備えは万全、と自負はしていた。

 どんな料理が出てきても、耐えて見せる。美味いと言ってみせると決意していた。

 それでも・・・

 ゴト・・・ゴトゴト・・・ギィコギィコ・・・ゴボゴボ・・・

 台所から聞こえてくる怪音と、充満する黒煙を見るにつけ、その決意は台風の日の枯れ木の様にグラグラと揺らいだ。

 今や、戎崎裕一を支えているのは、秋庭里香に対する想い。それのみであった。

 一本だけの柱とはいえ、他のどんな物よりも強固なそれは、まさしく最後の要として戎崎裕一をこの場に踏み止まらせていた。

 ・・・その電話がくるまでは。

 チャラチャッーチャラ チャラララララ

 突然響いた着信音に、戎崎裕一は飛び上がるほど驚いた。

 携帯を取り出してみると、世古口司からの電話であった。

 ドクドクなる心臓を押さえながら、電話に出る。

 「もしもし?」

 「・・・裕一?」

 聞こえてくる世古口司の声は、どこか思いつめた様な響きがあった。

 「司・・・?」

 「裕一、ごめん!!早く、早く逃げて!!」

 切羽詰った声であった。勝ち目のない戦に臨もうとしている友人を止める様な、そんな必死さのこもった叫びであった。

 「な・・・何だよ!?どうしたんだよ!?」

 「ごめん!!本当にごめん!!裕一に見せたあの写真、実はみんな“加工”してたんだ!!」

 「・・・は?」

 突然の告白に、戎崎裕一はポカンとした。

 あの料理の写真が、“加工”してあった?

 どういう事だ?

 訳がわからない。

 「あのね、裕一・・・」

 曰く、かの写真は一度パソコンに取り込んだ時、“加工”を施して見た目を変えていたのだと言う。

 そのあまりの凄まじさに恐れ戦いた世古口司が、戎崎裕一に与える衝撃を、せめて幾ばくかでも和らげようと思って行った処置であった。

 しかし、それは戎崎裕一に事前の覚悟を促すという目的には明確に反する行為である。その辺り、世古口司も冷静な判断力を欠いていたのだろう。

 「だから、だから早く逃げて!!裕一・・・」

 戎崎裕一は呆然とした。

 力の抜けた手から携帯が落ちて床に転がったが、それにも気付かない。

 “あれ”で加工してあった?衝撃が少ない様に?

 言葉の意味が、脳ミソに浸透するのにかなりの時間がかかった。

 そして、その意味を咀嚼するのにさらに時間がかかった。

 その結果、理解しえた答えはただ一つ。

 至るべき結論に達した瞬間、戎崎裕一は我に返った。

 そして、見た―

 

 燃え盛る様な紅蓮があった。

 深く水を湛えた湖の様な群青があった。

 可憐に散る花の様な桜色があった。

 固く干割れた大地の様な褐色があった。

 果ては、明る過ぎる水色や、馬鹿の様に白けた緑といった何とも言い様のない色彩のものも。

 

 家内に、充満していた煙の色が変わっていた。

 先ほどまで確かに黒かった筈のそれは、今や幾重もの“色”の混じった、極彩色へと変貌していたのだ。

 戎崎裕一は絶句した。

 何だこれは!?何なのだ!?一体何をどうしたら、こんな煙が発生するのだ!?これはもはや料理の域を超えて、材料と材料が何か奇怪な化学変化を起こしたとしか考えられない。

 戎崎裕一は、明確に生命の危険を感じた。

 逃げよう。

 それはもはや道理ではなく、本能的な衝動であった。

 条件ではなく、反射であった。

 しかし、腰を上げかけた戎崎裕一を、本能に押し潰されそうになっていた理性が呼び止めた。

 ここで逃げていいのか。

 逃げれば、間違いなく彼女を傷つかせる事になる。

 それでいいのか。

 彼女はお前のために、この一週間頑張ってきたのだ。 

 その想いを無碍にするなど、そんな事が男として許されると思っているのか。

 本能的な忌避感と、秋庭里香に対する想い。

 二つの力は、ほぼ同等。

 拮抗する二つの感情に板挟みになり、戎崎裕一はそれ以上の行動を止れないでいた。

 そして―

 「お待ちどうさま。」

 破滅の声が、茶の間の中に響いた。

 

                   

                   ―6―

 

 

 今、秋庭家の茶の間は色とりどりの彩色に鮮やかに彩られていた。

 茜、青、黄色、枯草色に菖蒲色。爛れた赤銅色に、錆びた青銅の様に不気味な緑青色。

 別に、部屋が花か何かで飾られている訳ではない。

 別に、何か変な“術式”が起動している訳でもない。

 驚く事なかれ、“これら”は湯気である。

 テーブルの上にズラリと並べられた出来立ての“それら”から沸き立つ、正真正銘の”湯気”であった。

 「さ、どうぞ。」

 テーブルに差し向かいで座った秋庭里香が、そう言って促してくる。

 もはや、逃げ場はない。

 「・・・お、おう・・・。」

 戎崎裕一はそう言って、震える手で箸を取った。

 しかし、どれを選べばいいのだろう。

 どれもこれも、原型が分からない。そして、何より色が凄い。焦げているとか生焼けとか言うレベルの話ではなく、全てが鮮やかな原色に染まっている。世古口司が写真を加工したくなったのも頷ける。最初からこれをそのまま見せられたら、その時点で戎崎裕一の心は折れていてしまったかもしれない。

 しかし、こうして時は来た。やはり、これは運命だったのだろう。

 とりあえず、一番手近にあった深皿を手に取る。中には濃い紫色をした、ドロリとした物体が入っていた。立ち昇る湯気は、臙脂色である。

 色はともかく、この形状には見覚えがあった。たしかこれは、戎崎裕一が世古口司に一番最初に見せられた写真、「伊勢ひじきと油揚げの煮物」だった筈である。

 正体がわかるだけ、なんぼかマシというものかもしれない。

 「い・・・いただきます・・・。」

 声の震えを押さえながら、皿の中に箸を差し入れる。

 ニチャッという気味の悪い手ごたえが、箸を通じて伝わってきた。

 そのまま一すくい。

 口元まで持っていく。

 不思議と、匂いはそう悪くはなかった。

 チラリと前を見る。

 秋庭里香が、こちらを見ていた。

 真剣な表情であった。

 不安と期待が入り混じった、今までに見た事がないほど真剣な瞳であった。

 その瞳が、最後の一押しだった。

 戎崎裕一は大きく息を吸った。目をギュッと閉じた。そして、深皿の中のものを一気に口の中にかき込んだのであった。

 

 

                  ―7―

 

 

 戦いは終わった。

 結論から言おう。

 

 ―美味かった―

 

 そう。いかなる神の悪戯か、かの料理達、味は至極真っ当だったのだ。

 ひじきの煮物はちゃんとひじきの味がしたし、焼き魚はちゃんと魚の味がした。

 そうと分かった途端、朝飯抜きの胃袋が本領を発揮した。

 食べた。

 息もつかずに食べ続けた。

 気付けば、戎崎裕一はテーブルの上に並んでいた食器の全てを空にしていた。

 最後の一口を飲み下し、ふぅ、と一息ついて食器をテーブルに置くと、その様子をずっと見つめていた秋庭里香が訊いて来た。

 「・・・どうだった?」

 彼女にしては珍しく、ひどくおずおずした様子だった。

 そんな秋庭里香に、戎崎裕一は満面の笑みを浮かべて答えた。

 「すっげー、美味かった。」

 それを聞いた秋庭里香は、フワリと笑った。

 本当に、本当に嬉しそうに。

 それまで戎崎裕一が見た中でも五指に入る、そんな、最高の笑顔だった。

 

 「ふぁ・・・」

 戎崎裕一が欠伸をした。

 昨夜ろくに眠れなかった事と、数日続いた緊張が解けた事に加えて、充分な満腹感を得た事が、彼に急激で猛烈な眠気をもたらしつつあった。

 「裕一、眠いの?」

 「ああ・・・んぁ、ちょ、ちょっと・・・。」

 食器を片付けながら、そんな事を訊いてきた秋庭里香に答えると、戎崎裕一はそのままテーブルに突っ伏してしまう。

 「ああ、もう。そんな寝方しちゃ駄目だよ。」

 秋庭里香は座布団を二つ折りにして枕を作ると、そこに戎崎裕一の頭を乗せた。

 「ほら、これでいいでしょ?」

 「ああ・・・わり、里香・・・」

 それだけ言うと、戎崎裕一は瞳を閉じた。

 眠りに落ちる一歩手前、戎崎裕一は微かに聞いた。

 「ありがと・・・裕一。」

 照れくさげにお礼を言う、秋庭里香の声。

 そして・・・

 頬に感じた、甘い感触は夢か現か。

 その区別もあいまいなまま、戎崎裕一の意識は深く安らかな眠りに落ちていった。

 

 夕方、秋庭里香の母親が帰宅した時、茶の間では戎崎裕一と秋庭里香が頭を並べて眠っていた。

 それを見て一瞬、良からぬ可能性が頭を過ぎったが、その心配は二人の姿を見るとすぐに氷解した。

 戎崎裕一に寄り添うように眠っている秋庭里香は、エプロン姿のまま。

 無造作に投げ出された戎崎裕一の左腕を枕にして、自分の左手は彼の胸に乗せて。

 そんな娘の穏やかな寝顔を、秋庭里香の母親は優しい微笑みを浮かべながら見つめた。

 ・・・穏やかな、春の夕暮れだった。

 

 ―その後、戎崎裕一から報告を受けた世古口司が、己の不明を大いに恥じるとともに、それまで持っていた“料理”に対する概念を根底から打ち崩され、しばらく立ち直れないでいたというのはまた別の話。

 

                                                                          終わり

 

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