半分の月がのぼる空・二次創作短編集   作:土斑猫

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―蛍煌―

                 ―蛍煌―

           

                           

                  ―1―

 

 

 暗い。

 とても暗い場所に、あたしは立っていた。

 ここは、何処なのだろう。

 辺りを見回す。

 何もない。

 誰もいない。

 皆はどこに行ったのだろう。

 たった今まで、近くで騒いでいた筈なのに。

 彼は・・・?

 ふと気付く。

 いつもそばにいてくれる筈の、彼の姿も見えない。

 「裕一・・・?」

 周囲の闇に呼びかける。

 だけど、返事はない。

 だんだんと湧き上がってくる、不安。

 もう一度、今度は大きな声で呼んでみようとしたその時―

 おいで・・・。

 声が、聞こえた。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 ・・・どこかで、誰かが呼んでいた。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 闇の中、どこからともなく、聞こえてくる声。

 それはとても優しく、そして甘い。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 その声が、呼んでいる。

 呼ばれている。

 ああ、行かなくちゃ。

 なんの疑問もなく、そう思った。

 呼びかけられるまま、“そこ”に向かう。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 声が呼ぶ

 甘い響き。

 誘う、声。

 誘われるまま、あたしは歩く。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 どれ程、歩いただろう。

 いつしかあたしは、一つの棺の前に立っていた。

 それは、水の様に透き通った、ガラスの棺。

 透して見えるその中には、何もない。

 けれど―

 おいで・・・。

 その“声”は、その棺の中から聞こえていた。

 おいで・・・。

 おいで・・・。

 さぁ、おいで・・・。

 呼ばれるまま、あたしは棺に近づく。

 蓋を開けようと手を伸ばしたとき、その上に何かが乗っているのに気付いた。

 見れば、それは小さな揺り籠だった。

 中を覗くと、小さな、とても小さな赤ちゃんが、スヤスヤと寝息をたてていた。

 おいで・・・

 おいで・・・

 相変わらず、声はあたしを呼び続ける。

 だけど、それに答えるには、棺の蓋を開けなきゃならない。

 蓋を開けるためには、揺りかごをどかさなきゃならない。

 揺りかごを動かせば、きっと赤ちゃんは起きてしまう。

 だから、あたしは蓋を開けられない。

 おいで・・・

 おいで・・・

 響く声を聞きながら、あたしは一人、暗闇の中で立ちつくしていた―

 

 

 「おい、里香!?里香!?」

 自分の名を呼ぶ声に、あたしはハッと目を覚ました。

 見れば、“彼”が心配そうにあたしの顔を覗き込んでいた。

 「裕一・・・?あれ・・・?」

 辺りを見回す。

 見慣れない、カーキ色一色の風景。

 ここは、何処だっけ。

 「何かうなされてたぞ。大丈夫か?」

 「裕一・・・あたし・・・。」

 横たわったまま、ボーッとしているあたしの頭を、裕一の手がクシャッと撫でる。

 「おい、ホントに大丈夫か?」

 クシャクシャと、頭を撫でる手。日に炙られたのか、いつもよりも少し強い熱感を伴ったそれが、徐々にあたしの意識をはっきりさせていく。

 ああ、そうか。ここは・・・

 カーキ色の壁が、ジャッという音を立てて開いた。

 そこから、一人の女の子が顔を覗かせる。

 「裕ちゃん、里香、大丈夫?」

 女の子―みゆきちゃんは、心配げにそんな事を言いながら、裕一の肩越しにあたしの顔を覗きこんできた。

 開いたカーキ色の壁―テントの入り口からは、世古口くんと山西くんが、みゆきちゃんと同じ様な目であたしを見ている。

 ―ああ、そうか。ここは―

 「あ、ん、大丈夫。ちょっと、変な夢見てただけ。」

 あたしはそう言って、ニコリと笑って見せた。

 

 ここは町の郊外にある、小さなキャンプ場。

 夏休みの始め、山西くんが受験勉強が本格化する前に、何か高校生活最後の思い出を作ろうと言い出して(もっとも、裕一曰く、単に現実逃避したいだけだろうという事だったけど。)、それに裕一やあたし、みゆきちゃんや世古口くんも誘われた。

 司くんやみゆきちゃんも思いは同じだった様で、二つ返事で了承した。もちろんあたしも異論はなかった。裕一はあたしの事を心配してか、今一つ乗り気ではなかったけれど、あたしが行きたいと詰め寄ると、渋々と頷いた。

 内容は、皆で都合出来るお金の都合から、フリーサイトのキャンプに決定。

 後は、男性陣が近場で手頃なキャンプ場を探した。

 裕一が出来る限り町に近い方が良いと主張し(たぶん、万が一の事を考えて。)、町からバスで30分程度の山の麓にあるこの場所が決まった。

 一番の問題はあたしだったのだけれど、それも決して無理をしないという条件付で病院から許可がもらえた。

 許可をもらいに行った日、偶然谷崎さんに会ったら、

 「なになに?一緒にキャンプだって?いいねぇ~。若い者は。一応言っとくけど、“ほどほど”にしときなよ?」

 などと言われて、ククク、と笑われた。

 一体、何が“ほどほど”なのだろうか?

 一緒に来ていた裕一に、「何の事だろうね」と訊くと、急に真っ赤になって「さ、さぁ・・・?」と顔を逸らされた。

 ホントに、何の事だったのだろう。

 そして待望のキャンプ初日、皆でテントを張り終わった時点であたしがダウンし、今に至るという訳だった。

 

 「・・・ちょっと、はしゃぎ過ぎだぞ。お前。」

 そう言って、裕一は横になっているあたしの傍らに腰を下ろした。

 声音が、少し怒っていた。

 「・・・ごめん。」

 裕一の言うとおりなので、ここは素直に謝っておく。

 「今後は、ちゃんとセーブする事!!」

 「・・・はい。」

 「今度具合悪くなったら、オレ達だけで帰るからな!?」

 「えー・・・」

 「からな!?」

 「・・・はい。」

 どうも事が事だけに、裕一に頭が上がらない。

 何という屈辱。

 この借りは、いつか必ず返してやろう。

 ネチネチと続く裕一の小言を聞きながら、あたしはこっそりそう決意した。

 

 「じゃあ、オレ、晩飯の準備手伝ってくるから。」

 そう言って、裕一は腰を上げた。

 「具合悪くなったら、すぐ呼ぶんだぞ?」

 「うん。」

 「我慢するなよ?」

 「うん。」

 「ホントだぞ?」

 「分かったってば!!」

 あたしが怒鳴ると、裕一はこっちを気にしいしい、外に出て行った。

 「まったく・・・」

 かけられていたタオルケットを直して、あたしはまた横になる。

 さっきまでの不調はもう消えていたけれど、今は少し慎重になった方が良いだろう。

 無理をして、このままとんぼ返りなんてなったら、それこそ身も蓋もない。

 外からは、皆が夕食の準備をする音と、楽しげな声が聞こえてくる。

 「・・・いいな。」

 ポソリと、そんな言葉が漏れた。

 こんな時、正直自分の身体が煩わしく思える事がある。

 皆と同じ事をして、だけど皆と同じ様には出来ない。

 それがとても煩わしくて、悔しい。

 入院していた頃は、こんな事を思う事はなかった。

 理由は簡単。

 あたしが、あの世界しか知らなかったから。

 白一色の部屋。何も変わらず、淡々と過ぎる日々。

 その区切られた世界の一部として、存在する意味もなく、ユラユラと揺らぎながら生きていたあの頃。

 あたしは全てを諦観し、悟りきった気になっていた。

 だけど、あたしは知った。

 この世界の本当の色を。日々色を変えていく、この世界の美しさを。

 そしてそれは、耐え難い衝動となって、今のあたしの中にある。

 もっと知りたい。

 もっと感じていたい。

 世の中を。この世界を。

 望めば望むほど、もどかしく思う、この身体。

 けど、どうにもならない、この身体。

 ふと、テントの隙間から外を見る。

 チラリと見える、"彼"の姿。

 あたしに、この世界の色を教えてくれた人。

 あたしに、この世界にいる意味を与えてくれた人。

 だけどこんな時、その存在がひどく遠くに思える事がある。

 明るい日の下にいる彼と、薄暗いテントの中のあたし。

 それはそのまま、彼とあたしの住む世界の違い。

 こんな事を言ったら、彼は怒るかもしれない。いや、間違いなく怒るだろう。

 でも、今のあたしにはその想いを振り払う事は出来なかった。

 外から聞こえる彼らの声を遮る様に、あたしはタオルケットの中に顔を埋めた。

 

 おいで・・・

 おいで・・・

 ああ、またあの声が聞こえる。

 おいで・・・

 おいで・・・

 呼ばれるまま、歩く。

 気付くと、あたしはまた棺の前に立っていた。

 ただ、前と違って、棺の上にあった揺りかごは消えていた。

 その代わり、少し大きくなった赤ちゃんが棺の上に坐ってた。

 近づいて見下ろすと、赤ちゃんは大きな瞳でわたしを見上げた。

 緑色にボンヤリ光る、大きな大きな、まあるい瞳。

 おいで・・・

 おいで・・・

 声が聞こえる。

 それに応えるには、棺の蓋を開けなきゃならない。

 蓋を開けるためには、赤ちゃんを抱いて下ろさなきゃならない。

 抱き上げようとすると、赤ちゃんはいやいやと緑の瞳を潤ませた。

 わたしは、蓋を開けられない。

 

 「里香・・・里香・・・」

 名前を呼ぶ声に、あたしははっと目を覚ました。

 薄暗くなったテントの中で、傍らに座った裕一があたしの肩を揺すっていた。

 「夕飯、出来たぞ。」

 いつの間にか、また眠っていたらしい。

 テントの外からは、香ばしいカレーの香りがふんわりと漂ってきていた。

 その香りに、思い出したかの様にお腹が小さく、くぅと鳴った。

 「大丈夫か?起きれるか?」

 心配そうな、裕一の声。

 無理もない。結局今日一日、あたしはほとんど寝たきりで過ごしてしまったのだから。

 少し、自分の身体と相談してみる。

 充分睡眠をとったせいか、昼間感じていた疲労感というか、だるさは消えていた。

 「うん。大丈夫。」

 あたしはそう言って身を起こした。

 

 「里香ちゃん、本当に大丈夫?」

 夕食のカレーライスのお皿を渡しながら、世古口君が訊いてきた。

 あたしは「大丈夫だから。ありがとう。」と言いながら渡されたカレーライスを頬張った。

 「わぁ、美味しい!!」

 あたしの感嘆の声に、世古口君が微笑む。

 「そうでしょう?これ、世古口君が作ったんだよ。ちゃんと、ルーから作って。すごいでしょ?」

 まるで自分が誉められたみたいに、嬉しそうにそう言ってくるみゆきちゃん。

 「そ、そんな事ないよ。ただ、小麦粉を炒めてカレー粉を混ぜるだけだから・・・」

 「いやいや、そんな事ないぞ。オレ、こんな本格的なカレー、初めて食った。」

 「ああ、うめぇよ。ホント、うまい。」

 裕一や山西君にも口々に賞賛の言葉を贈られ、世古口君は照れ臭そうに微笑んだ。

 

 食事が終わる頃には、長い夏の日もすっかり暮れていた。

 「あ~あ、せっかくのキャンプなのに、寝てるだけで終わっちゃった。」

 「しょうがないだろ。調子悪かったんだから。下手に無理したら、残りの時間もおじゃんだぞ。」

 皆が焚き火を囲む中、ぼやくあたしを裕一がたしなめてくる。いつもどうりの、労わりの言葉。

 だけど、今はそれが妙に癇にさわる。

 だから、ついあたしは「余計なお世話よ!!」なんて憎まれ口を叩いてしまった。

 「な、何だよ!?オレは心配して・・・」

 「それが大きなお世話なの!!」

 また、怒鳴る。

 その言葉に、裕一がむっとした顔になる。

 何か、本気で怒らせてしまったようだ。だけど、もう引っ込みはつかない。

 睨み合う、裕一とあたし。

 世古口君はオロオロし、みゆきちゃんは心配そうな、困った様な顔をしている。

 場の空気が、どんよりと重くなりかけたその時―

 「はいはーい!!そんな里香ちゃんにご朗報ー!!」

 その重苦しい空気を吹き散らそうとするかの様に、山西君がそう言って立ち上がった。

 「?」となる皆。

 視線が集まる中で、山西君は背後に広がる林の方を指差した。

 「あの林の奥に、大きな池があるんだよ。」

 「それが、どうした?」

 「その池の周りに、この季節になるとたくさんの蛍が出るんだってさ。」

 「蛍!?」

 思わず、弾んだ声が出る。

 「そう。何でかここ数年見れなかったらしいけど、去年からまた見れる様になったんだってさ。里香ちゃん、見たい?」

 「うん、見たい!!」

 山西君に向かって弾んだ声を出すあたしを見て、裕一が面白くなさそうに鼻を鳴らしたけれど、気付かないふりをした。

 「だけどよ、ただ見に行くだけじゃつまらないだろ。」

 「どういう事だよ?」

 不機嫌な声で、裕一が訊く。

 「このキャンプ地、安いのに妙に客が少ないと思わねぇ?」

 「そう言えば・・・。」

 周りを見回してみると、あたし達以外にいるのは遠くに見える2組だけだ。

 シーズン真っ盛りで、この人入りは確かに少ない。

 あたしが「どうして?」と訊くと、山西君はニヤリと笑って両手を前にだしてプラプラさせた。

 「出るんだってよ。“コレ”が。」

 「出るって何だよ?タヌキか?」

 「そう。月夜に出てきてポンポコポンのポン・・・って違うだろ!!こういう時に出るって言ったら“コレ”に決まってんだろ。」

 そう言って、改めて両手をプラプラさせる。

 「・・・お化け・・・?」

 みゆきちゃんが、心持ち潜めた声で、そう言った。

 「そう。オレが聞いたところによると・・・」

 そして、山西君はゆっくりと話し出した。

 

                             

                    ―3―

 

 

 「何でも、数年前にその池の辺りで女の人が一人、行方不明になったんだと。池の周りは見ての通り林だけど、迷うほどじゃない。それなのに、その女の人はそこに行くって言ったっきり、戻ってこなかった。」

 「あ、それ覚えてる。ニュースでも少しやってたし、新聞にも載ってた。」

 みゆきちゃんの言葉に山西君は、わざとらしく、ゆっくりと頷く。

 「んで、心配になった家族が警察に言って、辺りを捜索すると、池の辺で女の人の荷物と遺書が見つかったんだ。それで、池の底を片っ端から浚ったんだけど、結局、遺体は見つからなかった。」

 そこで山西君は、あたし達を見回した。あたし達は誰も何も言わず、黙って山西君を見ている。山西君の顔には焚き火の明かりが下から当って、妙な迫力を出していた。

 あたし達が何も言わないのを確認すると、山西君は改めて言葉を紡ぎ出した。

 「それからさ・・・。夜になると、その池から声が聞こえるんだと・・・。優しく、だけど寂しげな声で、『・・・おいで・・・おいで・・・』って・・・。それで、世間の人達は言ってるのさ。あれは、池の底に沈んだままの娘さんが、一人じゃ寂しくて仲間にする人を呼んでるんだろうって・・・」

 山西君が、凄味を効かせてそう言った時、

 ヒー ヒョー

 突然、林の方からそんな声が聞こえて、ザワッと木の梢がざわめいた。

 そこにいた全員がビクッとする。ちなみに一番ビックリしてたのは当の山西君だったりする。少し、地面から飛び上がってたし。

 「な、なな、何だよ!?今の!!」

 気の毒なほどテンパる山西君。

 「と、鳥だよ。(トラツグミ)。父ちゃんの田舎で、聞いた事ある。」

 世古口君の言葉に、あからさまにホッとする山西君。ホッとした後、ばつが悪そうにコホンコホンと咳払いなどしている。何か、色々台無しだ。

 「で、結局何が言いたいんだよ?お前。」

 目を半眼にした裕一が、山西君に言う。

 「つ、つまりだなー。ほら、あれだ。肝だめし。」

 「肝だめしぃ~?」

 裕一が、呆れた様に言った。

 山西君曰く、

 「これから男女でペアを組む。そして林を通り抜けて、池まで行って、池の周りを一周してくる。そして戻ってくる時に、池まで行った証拠として蛍を一匹捕まえてくる。」

 との事だった。

 「裕一は、どうせ里香ちゃんと一緒だろ。時間もったいないから、先に行け。」

 山西君はそう行って、追い払う様にピラピラと手を振った。

 だけど、裕一は動こうとしない。

 「どした?早くいけよ。」

 「・・・オレと里香はいいよ。お前と、司達だけで行け。」

 その言葉に、あたしの心が嫌な感じに疼く。

 「は?何で?」

 「何でって、里香は昼間寝込んでたんだぞ。それを、こんな夜道を歩かせるなんて、出来る訳・・・」

 「何よ!?それ!!」

 裕一が言い終わる前に、あたしは怒鳴っていた。

 皆の目が、驚いた様に集まる。

 「な、何だよ?どうしたんだよ?里香。」

 裕一が、訳が分からないといった様子で聞いてきた。

 その様子が、ますますあたしを苛立たせる。

 「どうしたじゃない!!それじゃ何!?裕一はここまできて、あたしにずっと寝てろって言う訳!?」

 「だ・・・だってお前・・・」

 「もう大丈夫だって、さっきから言ってる!!」

 「で、でもさ・・・」 

 「うるさいうるさいうるさい!!もう、いい!!あたし、一人でいく!!」 

 内に溜まっていた苛立ちを全部吐き出す思いで喚き散らすと、あたしは件の林に向かって、ズンズンと歩き出した。

 

 戎崎裕一は唖然としていた。

 何しろ、秋庭里香の先の様な態度は、退院して以来、久しくお目にかかった事がなかったのだから。

 しかも、その原因が彼女を案じての言葉ときている。訳が分からない。

 秋庭里香にもっとも近しい立場にいる彼でさえ、その様な有様だったのだから、他のメンバーも言わずもがなである。

 ポカンとしている一同を尻目に、秋庭里香の姿はグングン遠ざかり、林の中へと消えていく。

 一番最初に我に返ったのは、水谷みゆきであった。

 「あ、ちょっと、何してんの!?裕ちゃん、早く追いかけないと!!」

 「!!」

 その言葉に、戎崎裕一が弾けた様に走り出した。

 「待てよ!!ほら!!」

 山西保がそう叫んで、懐中電灯を投げた。

 戎崎裕一は振り返ってそれを受け取ると、秋庭里香の後を追って林の中へ消えて行った。

 「大丈夫かな・・・。」

 世古口司が心配そうに呟く。

 「・・・うん。里香ちゃん、きっと寂しかったんだよ。あたし達、ちょっとはしゃぎすぎたかな・・・?」

 そう言って、水谷みゆきもはぁ、と溜息をつく。

 しかし、そんな二人に向かって、山西保はカラカラと笑って言った。

 「なーに。大丈夫だって。何のためにオレがこんな提案したと思ってんだよ。いくら気が強くたって、里香ちゃんも女の子だぜ。こんな夜の林で、平気な訳ないだろ?戎崎が追いつけば、怖かったーって抱きつくに決まってる。帰ってくる頃には、二人は元通り。ぺったりくっついてくるって寸法さ。」

 自信満々といった態で胸を張る山西保を見て、水谷みゆきはまた、はぁ、と溜息をつく。

 「そんな簡単にいけばいいけど・・・。」

 しかし、そんな水谷みゆきの心配などよそに、山西保は「ほらほら、他人の心配してる場合か?次はお前らの番だぞ。」などと言っている。

 そんな山西保に、ふと世古口司が問いかけた。

 「だけど・・・大丈夫なの?」

 「何だよ、世古口。お前も心配性だな。大丈夫だって。オレを信用しろ!!」

 「いや、そうじゃなくて・・・」

 「ん?」

 「その組み合わせだと、最後は山西君一人で行く事になるんだけど・・・?」

 「・・・・・・え・・・・・・?」

 凍りつく山西保と皆の間を、季節外れの涼しい風がピゥーと通り過ぎていった。

 

 

                  ―4―

 

 

 気付けば、そこは辺り一面の闇だった。

 ・・・ああ・・・?

 ここは何処だろう・・・?

 暗い・・・。

 暗い・・・。

 とても、暗い・・・。

 何も無い・・・。

 誰もいない・・・。

 分からない・・・。

 思い出せない・・・。

 どうして、

 あたしは、

 ここにいるの?

 

 林の中は、思ったよりも明るかった。

 見上げてみると、空には満天の星と大きな半月。

 そこからふり注ぐ明かりが、辺りをボンヤリと照らし出していた。

 林の中には一本の小道が通っていて、それが件の池へと続く道なのだと分かった。

 その道を進みながら、あたしは胸の内で荒ぶっていたものが、だんだんと静まって行くのを感じていた。

 何で、さっきはあんな事を言ってしまったのだろう。

 彼が、裕一があたしの心配をするのはいつもの事ではないか。

 そして、その心配が決して杞憂のものではない事を一番知っているのは、あたし自身な筈だ。

 なのに―

 謝らなければならない。

 彼に。

 裕一に。

 だけど、その心に反して、あたしの足は止まらない。自分の持ち前の気性が、彼の元に戻る事を許さなかった。

 身体どころか、心までも自分の自由にならない。

 滑稽だったらありゃしない。

 ちょっとだけ、後ろを振り返る。

 薄闇に沈む小道。

 彼の姿は、なかった。

 

 ・・・ここにはいない。

 誰も、いない。

 あたしは一人。

 たった一人。

 寂しい・・・。

 寂しい・・・。

 一人は、寂しい・・・。

 寒い・・・。

 寒い・・・。

 一人は、寒い・・・。

 ああ、お願い。

 お願い。

 誰か。

 誰か、気づいて。

 あたしは、

 あたしは、

 ここに、いる。

 

 「おーい、里香ー!!」

 呼びかける声に、答えは帰ってこない。

 月明かりに浮かび上がる小道を懐中電灯で照らしながら、戎崎裕一は先刻から夜闇の中へと呼び掛ける事を繰り返していた。

 「あいつ、何処まで行ったんだ!?」

 懐中電灯の光が照らす数メートル先にも、件の少女の姿は見えない。

 自分が林に入ったのは、彼女の姿が見えなくなってからさほど間を置いていない。

 秋庭里香は走れない。無理をすれば、その心臓がどうなるか分からない事は、誰でもない。彼女自身が一番よく知っている。

 なら、もういい加減追いついても良い頃合の筈だ。

 なのに、その姿は一向に見えない。

 嫌な考えが、脳裏を過ぎる。

 先程の秋庭里香の様子は、どう見てもおかしかった。

 明らかに、感情の制御が出来ていなかった。

 普段の彼女からは考えられない事だが、それが事実である。

 もし、あの勢いのまま、感情の荒ぶるままに足を速めていたら―

 戎崎裕一は、慌てて道の脇を懐中電灯で照らす。

 秋庭里香が、何処かに倒れこんでいないかと思ったのだ。

 しかし、やはり電灯の光の中に、求める姿は見えなかった。

 

 ああ・・・。

 聞こえる・・・。

 聞こえる・・・。

 声が、聞こえる・・・。

 楽しそうな声・・・。

 明るい声・・・。

 生きた声・・・。

 生命(いのち)の、声・・・。

 行きたい・・・。

 行きたい・・・。

 あそこへ、行きたい・・・。

 だけど・・・

 ああ、だけど・・・

 

 月明かりの中を一人歩きながら、あたしの心はどんどん冷静になっていった。

 ここに来てからの自分は、何かおかしかった様な気がする。

 皆の様に振る舞えない自分が、今までにないほど煩わしく思えた。

 自分を残してはしゃぐ皆が、酷く疎ましく思えた。

 皆と同じ世界を見たい。皆と同じ世界を感じたい。

 それは確かに、心に持ち続けている想い。

 けど、それがこんなにも心の中で荒ぶった事はない。

 あの時、まるで自分一人が別の世界に取り残された様に感じて、 終いには裕一に嫉妬に近い思いすら覚えていた。

 一体、あたしはどうしてしまったのだろう。

 

 ああ、明るい・・・。

 明るい・・・。

 あそこは、明るい・・・。

 眩しい・・・。

 眩しい・・・。

 眩しくて、行けない。

 あたしには、行けない。

 

 夜闇の満ちる林の中を急ぎながら、戎崎裕一は考えていた。

 秋庭里香に、世の中に対する強い願望がある事は知っていた。

 その証拠に彼女は心配する自分を他所に、思いきった事に手を出す事がままある。

 神社でバイトをしてみたり、演劇部の代役を務めてみたり。

 正直、ヒヤヒヤさせられた事が幾度もある。

 しかし、それを誰よりも分かっているのは他でもない。秋庭里香自身の筈である。

 彼女は自身を理解し、その限界を知っている。

 だからこそ、彼女は常に”それ”より前のラインで踏み止まっていたし、自分を案ずる他者の言葉に過剰に反応する事はなかった。

 そんな秋庭里香の様子がおかしくなったのは、いつからだっただろう。

 ここに到着した時、彼女は移動の疲れからか気分を悪くしていた。そのため、大事をとってテントの中で休んでいたのだが、その際何か夢を見たらしく、うなされていた。

 その時は体の不調から、嫌な夢でも見たのだろうと思っていたが、よくよく考えてみれば彼女の様子がおかしくなったのはその時からだった様に思える。

 どこか心あらずで、浮ついた様子だった。そこにきて、あの感情の爆発である。

 戎崎裕一は思う。

 秋庭里香は、一体何を夢に見たのだろう。

 

 ああ、だけど。

 一人は、嫌だ。

 一人は、寂しい。

 そうだ。

 なら、呼ぼう。

 あたしがあっちに行けないのなら、向こうからこっちに来てもらおう。

 ほら、丁度、狭間に立っている子がいる。

 ここと、あっちの狭間。

 境目。

 あの子を呼ぼう。

 あの子なら、きっとあたしの事を分かってくれる。

 あたしと一緒に、いてくれる。

 

 ・・・あたしはまた、後ろを振り返った。

 やっぱり、彼の姿はない。

 彼の性格なら、すぐにでも追いかけてきそうなものなのに。

 やはり、怒らせてしまったのだろうか。

 心の何処かが、チクリと痛む。

 傷つけてしまったのかもしれない、とも思う。

 当然かもしれない。

 気遣った相手に、あんな態度を返されたのだ。

 傷つかない方が、どうかしている。

 彼の、しょぼくれた顔が頭に浮かんだ。

 ザザァ・・・

 木々の梢が、夜風に鳴る。

 たった一人の夜道。

 彼がいない。

 いつも側にいてくれる、彼がいない。

 チクリ、チクリ、心が痛む。

 足が、止まった。

 戻ろう。

 戻って、謝ろう。

 そう決意して踵を返そうとしたその時―

 

 ・・・おいで

 

 "それ"が聞こえた。

 

 おいで・・・

 おいで・・・

 こっちへ、おいで・・・。

 

 耳に聞こえる声じゃない。

 それは、頭の内に直接響く様な奇妙な声。

 男とも、女とも知れない。

 若いとも、老いているとも知れない。

 けれど、あたしは知っている。

 この声を、知っている。

 ああ、何故?

 何故この声が、今ここで聞こえるの?

 だって、だってこの声は・・・。

 

 おいで・・・

 おいで・・・

 

 声が、招く。

 甘く、優しく。

 

 あなたはこっちにいるべき子。

 だって、ほら。

 そっちにいたって、あなたは一人ぼっち。

 だから、おいで。

 こっちへおいで。

 

 甘い。甘い。

 甘い、声。

 頭の中が、霧が立ちこめる様にぼやけて行く。

 

 さぁ、おいで・・・。

 

 その声を最後に、あたしの意識は白濁の中へと沈む。

 ヒー ヒョー・・・

 何処かで、鵺が鳴いた。

 

 

                    ―5―

 

 

 気がつくと、あたしはまたあの棺の前に立っていた。

 おいで・・・

 おいで・・・

 清水の様に透き通った棺。そこからは、相変わらずあの声が聞こえてくる。

 だけど、その棺の上にもう赤ちゃんはいない。その代わり、小さな女の子が一人、眠っていた。

 棺の上で身体を丸め、両膝を細い腕で抱える様にして、女の子はすやすやと静かな寝息を立てていた。

 おいで・・・

 おいで・・・

 声が呼ぶ。

 その声に答えるには、棺の蓋を開けなきゃいけない。

 あたしは棺に近づいて、眠る女の子を見下ろした。

 手を延ばして、女の子を揺すってみる。

 だけど、女の子の瞳は閉じたまま。

 女の子は小さい。

 試しに、そっと抱き上げてみる。

 酷く、軽い。

 あたしの力でも、簡単に持ち上げられるほどに。

 おいで・・・

 おいで・・・

 早く・・・

 早く・・・

 声が急かす。

 あたしは女の子を起こさない様に、そっと傍らに寝かした。

 早く・・・

 早く・・・

 ああ、そんなに急かさないで。

 今、すぐに“いく”から。

 そしてあたしは、棺の蓋に手をかけた。

 

 「くそ、一体どうなってるんだよ!!」

 戎崎裕一は焦っていた。

 彼がいる林は、さほど大きなものではない。木々の密度もさほどではなく、その中に通された小道は懐中電灯で照らせば数メートル先まで見通す事が出来た。

 なのに。

 それなのに。

 いくら走っても、秋庭里香の姿を見つける事が出来なかった。

 それどころか・・・

 「何だよ・・・これ・・・!?」

 戒崎裕一は目の前の木を見て、呆然と呟いた。

 見覚えのある枝ぶり。見覚えのある幹の傷。

 最初は、気のせいだと思っていた。

 夜の薄闇の中で、その様に見えるだけなのだと。

 しかし。

 だけど。

 もう間違いはなかった。

 それは、数分前確かに通り過ぎた筈の道程に生えていたもの。

 それも、一度ではない。

 もう何度も、目にしていた。

 枝ぶり、幹の傷、その全てを見覚えてしまうほどに。

 同じ道程を、迷い巡っている。

 その事実に、戎崎裕一は愕然とした。

 道は一本だった筈なのに。

 迷う事など、あり得ない筈なのに。

 何かがおかしい。

 何かが狂っていた。

 荒い息をつきながら、戎崎裕一は求める少女の名を呼んだ。

 「里香ーっ!!」

 叫ぶ声は、林の薄闇の中へ虚しく響いて消えていく。

 ヒー ヒョー

 何処かで鵺が、嘲笑う様に鳴いていた。

 

 

 チャプンッ

 「―――っ!?」

 不意に足に走った冷感が、あたしを我に返した。

 「な・・・何!?」

 見れば、足元が揺らぐ水に浸っている。

 「え・・・ここって・・・!?」

 周りを見渡すと、辺りに茂っていたはずの木々がない。

 代わりに目に入ったのは、夜闇の中、ゆらゆらと揺れる広い水面。

 ―あの林の奥に、大きな池があるんだよ―

 山西君の言葉が、脳裏を過る。

 そう。あたしはいつのまにか、大きな池の瀬に足を浸して立っていた。

 「池・・・?あたし、いつのまに・・・?」

 分からない。

 思い出せない。

 呆然と佇むあたしの足元に、チャプリチャプリと池の水が当たる。

 辺りは、真っ暗だった。

 空を見ると、さっきまで辺りを照らしていた筈の半月は、厚い雲に覆われて隠れてしまっていた。

 辺りには、山西君がいると言っていた蛍の姿もない。

 ただ深々と広がる夜闇の中に、暗く沈んだ水面だけが揺らめいている。

 ―なんでも、数年前に女の人が一人、その池の辺りで行方不明になってるんだと―

 山西君の言葉が、頭の中でリピートされる。

 ―池の底を片っ端からさらったけど、遺体は見つからなかった―

 チャプ チャプ

 足に、水が当たる。

 昼間の日で、温まっていてもいいはずのそれは、だけど酷く冷たく感じた。

 ―それからさ・・・。夜になると、その池から声が聞こえるんだと・・・。優しく、だけど寂しげな声で、『・・・おいで・・・おいで・・・』って―

 足に感じる冷感が、そのまま背筋を這い上がってくる。

 背骨を直接氷で撫でられる様な悪寒に、あたしは身を震わせた。

 戻ろう。

 皆の所に。

 あたしが踵を返そうとした時、それは聞こえた。

 

 おいで・・・

 

 跳ねる心臓。

 踏み出しかけた、足が止まる。

 嘘・・・。

 だって。

 だって。

 今の、声は・・・

 

 おいで・・・

 

 声が、繰り返す。

 空耳である事を願い、耳を凝らす。

 だけど―

 

 おいで・・・

 

 聞こえる。

 確かに。

 そんな、馬鹿な。

 この声は、

 この声は―

 ―池から声が聞こえるんだと・・・。優しく、だけど寂しげな声で、『・・・おいで・・・おいで・・・』って―

 頭の中でリンクする、夢の声と、山西君の言葉。

 背筋を走る悪寒が、その冷たさを増す。

 駄目だ・・・。

 頭の隅で、本能が警鐘をならす。

 ここにいちゃ、駄目だ。

 だけど、その意思に反して、あたしの足は動かない。

 まるで、冷たい水の中で、凍りついてしまった様に。

 ああ、何で、ここの水はこんなにも冷たいのだろう。

 まるで、池の中に大きな氷でもあるかの様だ。

 氷?

 いや、違う。

 あたしは知っている。

 この冷たさを。

 この、空虚で哀しい、冷たさを―

 「―里香、パパに、お別れをしなさい―」

 そうママに言われ、そっと触れた、パパの頬。

 その時に感じた、あの冷感。

 人が、生き物が持つとは思えない、あの冷たさ。

 そう。これは、この冷たさは―

 身体がガタガタと、瘧にでもかかったように震え始める。

 この震えは、身体を犯す冷たさのせいか。それとも―

 

 おいで・・・

 

 また、声が聞こえた。

 最初、声が聞こえた時、それは池の中ほど辺りから聞こえていた。

 それが、今ではずっと近くから聞こえてくる。

 ―近づいてきていた―

 駄目だ。

 駄目だ。

 心は必死にそう叫ぶ。

 だけど、足が、身体が動かない。

 

 おいで・・・

 

 声はもう、目と鼻の先。

 そして―

 

 ・・・・・・

 

 声が、途絶えた。

 まるで何事もなかった様に、辺りが静まり返る。

 「・・・・・・。」

 あたしは息を呑んで、気配を探る。

 だけど、さっきまで周囲を満たしていた異様な気配は、嘘の様に消えていた。

 ・・・終わったのだろうか?

 あたしがそう思い、息をついた次の瞬間―

 ガシッ

 冷たい何かが、足首を掴んだ。

 グイッ

 「―――っ!?」

 驚く間もなく、足が引かれる。

 物凄い力。

 あたしはなす術も無く、池の中へ倒れ込んだ。

 悲鳴を上げようと開けた口に、たくさんの水が流れ込んでくる。

 むせ込み、もがきながら岸に這い上がろうとする。

 だけど、足を掴んだ“それ”は、あたしを離してはくれない。それどころか、グイグイと池の深みへとあたしの身体を引き込んでいく。

 必死で岸辺に生えるアシやヨシにしがみつくけれど、掴んだそれらも“それ”の力に耐えきれずブチブチと根こそぎ抜けて剥がれてしまう。

 「誰・・・か・・・」

 何とか絞り出した声も、しぶく水音に掻き消される。

 「は・・・はぁっ!!」

 両手で上半身を持ち上げ、何とか息をついたあたしは、ある事に気付いてさらに総毛立った。

 さっきまで、足首を掴んでいた筈の“それ”の感覚が、いつのまにか腰に移っている。

 それどころか、その感覚はまるで蜘蛛が這う様に、上へ上へと上がってくる。

 ズルリ・・・

 ズルリ・・・

 そう。“それ”は、あたしの背を、身体を這い上がってきていた。

 「何・・・?何だっての!!」

 “それ”を振り払おうと、がむしゃらに腕を振る。けれど、それはただ空を切るばかり。

 ピチャン・・・

 湿った音を響かせて、“それ”の手が、ついにあたしの肩にかかった。

 このままでは、“それ”の姿が視界に入る。

 せめて、その姿を見ないように、ギュッと目をつぶる。

 真っ暗に閉ざされた視界。

 耳に、冷たい吐息がかかった。

 そして―

 

 ・・・さぁ、一緒に、“逝こう”・・・

 

 耳元で響いた声に、あたしは今度こそ、声にならない悲鳴を上げた。

 

 

                   ―6―

 

 

 ゴボッゴボゴボゴボ

 口の中に、たくさんの水が流れ込んでくる、。

 もがく手。

 だけど、空しく宙をかく。

 身体に密着する、“それ”の感触。

 身体を包む、水のそれよりもなお冷たい。

 “死”の冷感。

 “それ”があたしの身体を掴み、グイグイと池の深みへと引き込んでいく。

 もの凄い力。

 抵抗も出来ない。

 耳のそばで、それが囁く。

 

 おいで・・・

 おいで・・・

 こっちへ、おいで・・・

 

 水の中なのに、妙にはっきりと耳朶に響く“その声”。

 女の様な、男の様な、若い様な、老いた様な、奇妙な声。

 その声が囁く。

 

 行こう・・・

 行こう・・・

 一緒に、”逝こう”・・・

 

 グイッ

 身体がいっそう深く引き込まれる。

 苦しい。

 苦しい。

 いっそ、このまま身を委ねてしまった方が楽になれるかもしれない。

 そんな考えが頭を過ぎった時―

 「里香ー!!」

 聞こえた。

 はっきりと。

 彼の。

 彼の声。

 耳朶に纏わりついていた、“それ”の声がかき消える。

 萎えかけていた身体に、もう一度、命の火が灯る。

 途端、

 ドボンッ

 何か大きなものが、飛び込んでくる気配。

 そして―

 

  ―それより少し前の、林の中。

 「ちくしょう!!またここかよ!!」

 そんな叫びとともに、木の幹に拳が叩きつけられた。

 拳の主、戎崎裕一は焦っていた。

 固い幹を叩いた拳がビリビリと痛むが、その痛みすらも気にならない。

 何度歩いても。

 どれだけ歩いても。

 ぐるぐる同じ場所を巡るだけ。

 酷く、嫌な予感がしていた。

 今だに、秋庭里香の痕跡すら見つけられていない。

 何か。

 何か取り返しのつかない事が、起ころうとしている。

 そんな予感がしていた。

 「くっ!!」

 その予感を振り払おうと、もう一度踵を返したその時―

 フワッ

 視界の端を、何かが過ぎった。

 「え?」

 反射的に目がそれを追う。

 それは小さく淡い、黄緑の光。

 「・・・蛍・・・?」

 呟く戎崎裕一の前を、一匹の蛍が舞っていた。

 それは明滅を繰り返しながら、彼の目の前を飛び回る。

 鬱陶しく思って振り払うが、不思議と逃げようとしない。

 時折つい、と遠ざかり、そのまま消えるかと思いきや、くるりと回ってまた目の前を舞う。

 その動きに、戎崎裕一はふと意図を感じた。

 「・・・ついて来いってのか・・・?」

 本来なら、馬鹿げた話である。虫が、何らかの意図を持って人間を誘うなどありえない話だ。

 しかし、今の戎崎裕一は文字通り藁にもすがりたい思いであった。

 ものは試しと、光が誘う方へと足を向けてみる。

 すると、己の意図が通じた事を喜ぶ様に明滅し、蛍は道の奥へと飛んでいく。

 戎崎裕一が後を追うと、光はその先を飛び、足を止めると光も止まり、急かす様に明滅する。

 もう、間違いはなかった。

 戎崎裕一はその淡い光を見失わない様に、懐中電灯の明かりを消すと、足を速めてその後を追い始めた。

 蛍の後を追い始めてしばらく、戎崎裕一は周囲の風景がさっきまでとは違い始めている事に気がついた。

 はまり込んでいた林の迷路を抜けている。戎崎裕一がそう気づいた瞬間―

 バサッ

 突然目の前が開けた。

 それまで続いていた木々の列が途切れ、広い水面が広がっている。

 「池・・・だ・・・!!」

 戎崎裕一がそう言って、乱れた息を整えようとしたその時、

 バシャバシャッ

 突然聞こえた激しい水音に、戎崎裕一は驚いてその方向を見た。

 池の辺で、激しい水しぶきが立っている。

 「な、なんだ!?」

 懐中電灯を点けて、そこを照らす。

 明るい光が、飛び散るしぶきを照らし出す。

 その光の中に、見覚えのある黒髪が見えた。

 「――っ!!」

 それが何かを察した瞬間、戎崎裕一は弾かれた様に飛び出していた

 「里香―っ!!」

 叫びながら、池に飛び込んだ。

 激しいしぶきの中、水の中を手探りで探す。

 指の先が、柔らかいものに触れる。

 戎崎裕一は、迷う事なく、しっかりとそれを掴んだ。

 

 “彼”だ。

 “彼”が来てくれた。

 視界もろくに効かない中で、不思議とその事がはっきりと分かった

 あたしは夢中で、自由になる手を振った。

 それが、何かに当る。

 それまで身体を包んでいた冷たさとは違う、確かな熱を持った感触。

 無我夢中で、それを掴む。

 掴んだ手が、しっかりと握り返される。

 温かい腕が、身体に回される。

 力いっぱい、引かれる感覚。

 そして―

 ザパァッ

 身体が水の上へと引き出された。

 

 「ゲホッゴホッ、ゴホッ・・・」

 裕一に岸に引き上げられたあたしは、激しくむせ込みながら水を吐いた。

 「だ、大丈夫か?里香。」

 えずくあたしの背をさすりながら、裕一は心配そうにそう訊いてきた。

 「けほ・・・けほ・・・。」

 ひとしきり水を吐くと、呼吸は随分と楽になった。あたしは顔を上げて、裕一の顔を見る。

 そして―

 ドスンッ

 あたしは、身体を投げ出す様にして裕一に抱きついた。

 「うわっ!?」

 驚く彼の声。

 構わず、裕一の身体を抱き締めた。

 裕一の、生きた人間の温もりが、“あれ”の冷たさに犯された身体に染み込んでくる。

 あたしはそれを貪る様に、裕一の身体を抱き締め続けた。

 「大丈夫、もう大丈夫だって。里香。」

 あやす様にそう言いながら、裕一も力いっぱいあたしを抱き締めてくれた。

 その腕の中で、あたしの身体の震えは少しづつ収まっていく。

 やがて、はぁ、と大きく息をつくと、あたしはようやくその身を裕一から離した。

 もっとも、手は裕一の服を掴んだままだけど。

 「里香、大丈夫か?身体、おかしくないか?」

 あたしが落ち着くのを待って、戎崎裕一はそう訊いてきた。

 左胸に手を当ててみる。

 まだ動悸は速かったけれど、それ以外に違和感は感じなかった。

 「うん・・・。大丈夫みたい・・・。」

 あたしがそう答えると、裕一は安心した様にはぁ、と息をついた。

 「一体どうしたんだよ。こんな池にはまるなんて、お前らしくないぞ?」

 「違う・・・。違うの・・・池の、池の中に何か・・・」

 怪訝そうに訊く彼に対し、答えるあたしの声音は今だに震えが収まらない。

 「池の中・・・?」

 裕一がそう言って池の方を見た時―

 

 行 かな  いで・・・

 

 「!!」

 「!?」

 池の中から、“それ”が聞こえた。

 幽かに、けれどはっきりと。

 ビクリと竦み上がるあたし。裕一も、驚いた顔で池を見つめている。

 あたし達の視線が、池の方へと向けられる。 

 空の月は、厚い雲に隠れたまま。

 辺りを覆うのは、じっとりと重い沈黙と、湿った様に粘つく夜闇。

 ピチョンと音を立てて、大きな波紋が水面に広がる。

 「・・・・・・。」

 「・・・・・・。」

 その闇の中で、あたし達はどちらともなしにまた抱き合った。

 そうやってお互いの存在を確認していないと、不安で仕方がなかった。

 ピチョン・・・

 また水音が響く。暗い水面に広がる大きな波紋。

 「り・・・里香、お前、さっき、何て言おうとしたんだ・・・?」

 裕一が訊いてくる。

 「そ・・・それは・・・」

 あたしは、自分に起こった事を彼に伝えた。

 夜闇の中でも、彼の顔が青ざめるのがはっきりと見えた。

 「ま・・・まじで・・・?」

 「こんな時に、冗談なんか言う訳ないでしょ!!」

 ピチョーン

 また、音。

 だんだん、その頻度が多く、そして近くなってきている様な気がした。

 裕一が、ゴクリと唾を飲んだ。

 「逃げた方が、いいか・・・?」

 「う・・・うん・・・。」

 あたしがそう言うと、裕一は当たりをキョロキョロしだした。

 「どうしたの?」

 「いや、懐中電灯持ってたんだけど、さっきのゴタゴタでどっかやっちまった・・・。」

 「ええ、何ソレ!?こんな真っ暗なのに、灯りなしでどうすんのよ!?」

 「しょ、しょうがないだろ。さっきはあんな非常時だったんだから・・・」

 しどろもどろになる裕一。あたしがもっと食ってかかろうとしたその時―

 ピチャンッ

 また、水音。

 だけど、今度はさっきまでと違う。

 ずっと岸の近く。それも、誰かが水を踏んで立てる音の様に聞こえた。

 あたし達は思わず、池の方を見る。 

 上も下も、闇色に満たされた池。

 その暗い水面が、音もなくスゥーと持ち上がった。

 

 

                   ―7―

 

 

 「「・・・・・・!!」」

 お互いに、息を飲むのが分かった。

 ポタッ

 ポタッ

 パチャンッ

 “それ”から滴る水滴の音が、妙に大きく聞こえる。

 濡れた藻の湿った匂いが、風に乗って流れてきた。

 「裕一、何だろ・・・あれ・・・?」

 「さ、さぁ・・・?」

 厚い雲の下、一切の光がない闇の中、暗い池の中から浮かび上がってきたもの。

 それは、大量の藻の塊の様に見えた。

 どうやら、何か枯れ木の様なものに、たくさんの藻が絡み付いているらしい。

 それが、プカリプカリと水面を漂っている。

 訳の分からない状況で現れた、訳の分からない代物。

 あたしと裕一は、あっけにとられた様に“それ”を見つめる。

 ―と

 ズチャッ・・・

 突然、それまでとは違う水音が響いた。

 あたし達の心臓が跳ねる。

 音にではない。

 あたし達を驚かせたのは、もっと別のもっと忌わしい事象。

 「ね・・・ねぇ、今、“あれ”、動かな・・・かった?」

 「お、お前にもそう見えたの・・・?じゃ、オレの気のせいじゃなかった訳・・・」

 ピチャンッ

 再び響く水音。

 あたし達は再び飛び上がる。

 もう、間違いはなかった。

 “それ”は動いていた。

 ゆっくりと、緩慢に。だけど確実に。

 “それ”はあたし達に向かって動き出していた。

 ズチャッ・・・

 それは、“それ”が皆底を這いずる音。

 ピチャン・・・

 それは、“それ”が動く度、纏わりつく藻から落ちる水滴の音。

 ズチャッ・・・

 ズチャッ・・・

 ピチャン・・・

 ピチャン・・・

 “それ”が水底を這いずる音と、水滴が滴る音が夜闇に響く。

 ズチャッ・・・

 ズチャッ・・・

 ピチャン・・・

 ピチャン・・・

 ゆっくりと、だけど確かに、“それ”があたしと裕一に向かって近づいてくる。

 「裕・・・一・・・。」

 あたしは震える手で、裕一の服を握り締めた。

 濡れた布地を通して、彼の震えと鼓動が伝わってくる。

 その生命(いのち)の感触にすがる様に、あたしは握る手に力を込めた。

 ズチャッ・・・

 ズチャッ・・・

 ピチャン・・・

 ピチャン・・・

 “それ”の歩みは酷く遅くて、逃げようと思えば逃げられる筈だった。

 だけど、あたしは動かなかった。

 いや、動けなかった。

 足の、いや、体中の筋肉が弛緩してしまった様に、身動きが取れない。

 ああ、これが「金縛り」というやつか。

 恐怖に麻痺しかけた思考のすみで、あたしはそんな事を考えた。

 「・・・里香。」

 裕一が、あたしを庇う様に抱き締めてきた。

 でも、その腕には力がない。

 ああ、彼も同じなんだ。

 いつもより早い彼の鼓動を聞きながら、あたしはボンヤリとそう思った。

 ズチャッ・・・

 ズチャッ・・・

 ピチャン・・・

 ピチャン・・・

 “それ”はもう、池の岸辺近くまで来ていた。

 ああ、“これ”は一体何なのだろう?

 池に沈み、藻が絡まった朽木?

 だけど、朽木がこうやって動く筈もない。

 じゃあ、何?

 これは、何?

 麻痺した思考は、グルリグルリと同じ所を空回る。

 ズチャッ・・・

 ズチャッ・・・

 ピチャン・・・

 ピチャン・・・

 “それ”は、もうすぐそこ。

 曖昧だった輪郭が、夜目にもはっきり見えてくる。

 ビシャンッ

 とうとう、“それ”の片手が岸にかかった。

 闇に慣れた目に映る、その形は―

 「―――!!」

 体中が総毛立つ。

 蘇る、足を掴んだあの、冷感。

 そんなあたしの思考を読むように、俯く様に垂れていた“それ”の頭らしき部分がグリンと持ち上がった。

 そして―

 

 オ゛ォ オ オォ アァア

 

 夜闇を震わせて響いた声が、今度こそあたし達の心臓を鷲掴みにした。                    

                          

 

                  ―8― 

 

 

 本当に恐ろしい時、人間は声も涙も出ないものだと、初めて知った。

 冷たい汗が、滝の様に肌を濡らす。

 目を離したいのに、離せない。

 あたし達に出来るのは、ただ互いの身体を抱き締めあうだけ。

 そんなあたし達の前で、“それ”は池の中から這い出そうと、ビチビチともがいている。

 飛び散る飛沫が、顔にかかる。そんな距離。

 

 オォ゛ァアァアア

 

 もがきながら、“それ”が叫ぶ。

 泣く様に、嘆く様に、呪う様に。

 藻にまみれた手。そこからのぞく白いものが、掻き毟る様に地面に痕を残す。

 あの藻の奥にあるもの。それを思う度、たとえ様もない怖気が走る。

 

 オオ゛ゥィイイイ゛ィイイイ

 

 聞き取りようもない、呻き声。

 

 オォ゛ィイ ヴィイ

 

 それが、

 

 オ゛ォオ イィ ヴィイイイ

 

 形を成していく。

 

 オォ イ イィデェエエ エエ・・・

 

 「―――っ!!」

 それは紛れもなく、あの冷たい水の中で聞いた声。

 固まるあたしの目を見つめる、藻の隙間にポカリと開いた空ろ。

 

 オイィデ・・・

 オイで・・・

 おいでぇ・・・

 

 幾重にも纏い付き、たっぷりと水を含んだ藻の衣装を引きずりながら、それは真っ直ぐあたしに向かって這ってくる。

 

 お い で ・・・

 お い で ・・・

 お い で ・・・

 

 今や、はっきりと形を成した“それ”の声。

 女とも男とも、若いとも老いているとも分からない、濁った声。

 だけど―

 「女・・・の子?」

 そう。不思議とあたしにはその声が女性、それも女の子のものだという事が分かった。

 

 お い で ・・・

 お い で ・・・

 お い で ・・・

 

 声が響く。

 酷く濁って、おぞましく。だけど、今聞くそれは、同時に違う響きも持って聞こえた。

 そう。それはとても寂しげで。

 切なげで。

 そして悲しげで。 

 ただただ、必死に何かを求める声。

 いつしか、あたしの思考は酷く冷静に回り始めていた。

 ああ、そうか。

 この声は。

 この“娘”は。

 波だっていた心が、静まっていく。

 少し落ち着いた目で、“その娘”を見る。

 “その娘”は未だ、池の岸辺でもがいていた。

 何かを求めて、手を伸ばして、だけど届かなくて、ビタビタと藻と泥に塗れて、もがいていた。

 

 おいで・・・

 

 切なく響く声。

 

 おいで・・・

 

 何に向かって?誰に向かって?

 

 おいで・・・

 

 あたしを見つめる、空ろな眼窩。

 

 何もない。そう、この“娘”は何も、持っていない。

 

 おいて・・・

 

 友達も、仲間も、そして、自分さえも。

 

 おいて・・・

 

 だから、呼んで。だから、求めて。

 

 ―おいて、いかないで・・・

 

 そう。その声は確かに、あたしに向かってかけられていた。

 いや、考えれば、ここにきた時からあたしは彼女に見初められていたのだろう。

 だってほら、呼びかけてくるあの声は、あの夢の中と同じ。

 “この娘”を苛むもの。それは孤独。孤独という名の、絶対の闇。

 あたしは知っている。そのその切なさを。そして、その空しさを。

 だから“この娘”はあたしを選んだ。

 自分の持つその切なさを、空しさを知っているあたしを選んだ。

 でも、だからと言ってそれに応える事など出来る筈もない。

 彼女の願いに応えるという事は・・・

 そこまで考えた時、あたしはもう一つの事に気づいた。

 それまで感じていたものとは全く別の、もう一つの恐怖に。

 ”彼女”は固執している。

 仲間を、自分の孤独を癒す存在を得ることに。

 だからこそ、こんな世の理に反する存在になってまで、それを求め続けている。

 それこそ見境なく、がむしゃらに。

 見初めたあたしだけでなく、その手が届く全ての人間を引き込もうと願う程に。

 あたしは、あたしを抱き締めている裕一を見上げる。

 汗まみれになって青ざめた、情けない顔。

 だけど、あたしを抱きしめる腕の力は、微塵も揺るがない。

 さっきから、震えっぱなしのくせに。

 あたしは苦笑すると、彼の腕から、スルリと抜けた。

 「里香!?」

 裕一が、驚いたように叫ぶ。

 さっきまで動かなかった身体が、そうと決めたら途端に動くようになった。まったく、都合良く出来てるものだ。

 「里香、何してんだよ!?動けんなら、早く逃げろ!!オレの事は・・・んぅ!?」

 しばしの間。そしてあたしは、裕一のそれを塞いでいた唇を、そっと離した。

 「裕一、もういいよ。」

 そう言って、微笑む。

 「さっきはゴメン。それから、ありがとう。」

 万感の想いを乗せて、抱き締める。

 訳がわからないといった顔の裕一を、ジッと見つめる。

 ”彼女”に連れて行かれる、その扉の向こう側で、こぼれないように。消えないように。

 その顔をしっかりと瞼に焼き付けると、あたしは背後で蠢く”彼女”に向き直った。

 「欲しいのは、あたしでしょ!?いいわ。付き合ってあげる。その代わり、裕一は見逃して!!」

 あたしの言葉に、彼と”彼女”の双方が固まった。

 「ばっ・・・お前、何言って・・・」

 

 あ・・・ああああああ・・・!!

 

 裕一の言葉を待つことなく、地べたを這っていた”彼女”が、歓喜の声を上げながら起き上がった。

 顔に、池の水がしぶく。

 湿った藻の匂いが強く匂う。

 あたしを池に引き込もうと、藻に塗れた手を伸ばしてくる。

 あたしは黙って手を差し出す。

 ”彼女”の手が、あたしの手に触れようとしたその瞬間―

 ドガァッ

 そんな音が響いて、”彼女”が池へと倒れ込んだ。

 驚いて振り向くと、そこには”彼女”を蹴り飛ばして肩をいからせる裕一の姿。

 「お前、っざけてんなよ!!」

 裕一は、今まで見たことないくらい怒った顔で怒鳴った。

 「里香はな、オレのなんだよ!!お前みたいな化けモンに、やる訳ねえだろ!!」

 らしくもない啖呵をきる裕一。 

 「裕一・・・動けるの!?」

 「知るか!!んなもん!!」

 唖然とするあたしにも、裕一は怒鳴ってきた。

 「だいたいな、お前もお前なんだよ!!何だよ!!『その代わり、裕一は見逃して!!」って。何か!?お前囮にしてオレだけ逃げろってか!?ふざけんな!?」

 本当に、本当に怒った顔だった。

 言葉を失うあたしに向かって、裕一は怒鳴り続ける。

 「いいか!?お前はオレが守るって決めたんだよ!!相手が人間だって化けモンだって、関係あるか!!それを勝手に・・・」

 裕一が、そこまで言った時―

 ズルリッ

 突然そんな音がして、裕一の姿があたしの視界から消えた。

 「う、うわ!!こいつ!?」

 響く裕一の悲鳴。

 慌てて見ると、”彼女”が裕一の足にしがみつき、引きずり倒していた。

 ズルッ

 ズルッ

 ズルッ

 ”彼女”はそのまま、池の方へと裕一を引きずり始める。

 「うわっ!!うわっ!!」

 「裕一!!」

 あたしは慌てて裕一の手を掴む。

 だけど、”彼女”は委細構わず裕一の身体を引きずっていく。

 物凄い力。

 あたしの力では抗う事も出来ず、一緒に引きずられてしまう。

 「里香、離せ!!このままだとお前まで・・・」

 裕一の叫びに、だけどあたしはかぶりを振る。

 「馬鹿いわないでよ!!自分だけ良い格好しないで!!」

 言いながら、そこらの石を掴んで”彼女”に向かって投げ付ける。

 「離せ!!この馬鹿!!」

 鈍い音を立てて、石が”彼女”に当たる。

 けれど、”彼女”は微塵も怯まない。

 ズルリ

 ズルリ

 為す術もなく引きずられるあたし達。

 ついに、裕一の足が池の中に引きずり込まれる。

 「この・・・」

 無駄と知りつつ、あたしがまた投げ付けようと大きな石を掴んだその時、

 ポウ・・・

 淡い光が、視界の隅を横切った。

 

 

                   ―9―

 

 

 最初、あたしにはそれが何か分からなかった。

 暗闇の中で光る“それ”は、あたし達の目の前で踊る様に飛び回る。

 漆黒の闇の中、淡く、それでもはっきりと浮かび上がるその光は、暗闇に慣れた目に強く焼きついた。

 「・・・蛍だ・・・。」

 「・・・蛍・・・?」

 今の状況にはそぐわないほど呆然とした裕一の言葉に、あたしはも場違いなくらい間抜けな調子でそう呟いた。

 蛍はあたしの目の前をしばし飛び回ると、そのまま裕一の足を掴んでいる“彼女”の元へと向かった。

 蛍が、“彼女”の目の前を舞う。

 すると―

 

 ア・・・アァァアアァア・・・!!

 

 “彼女”が呻きとも、悲鳴ともつかない声を上げた。

 途端、それまで強い力で引かれていた裕一の身体が急に軽くなる。

 彼女が裕一の足を離したのだ。

 裕一の足を放した彼女は、いやいやをするかの様に蛍の光から離れようとしている。

 「裕一!!」

 「お、おう!!」

 訳が分からないまま、それでもあたしと裕一は慌てて池から這い上がった。

 ア、アァアアアアァア!!

 それを見た“彼女”が、あたし達に追いすがろうと手を伸ばしてくる。

 その時―

 ポウ・・・

 ポウ・・・

 ポウ・・・

 辺り一面を覆っていた暗闇の中に、次々と光が灯る。

 池の淵の葦原に。

 周囲を囲む林に。

 足元の草むらに。

 あたし達に手を伸ばしていた“彼女”が、まるで火にでも触ったかの様に慌てて手を引っ込める。

 次の瞬間、

 パァ・・・

 地に散らばっていた光が、一斉に舞い上がった。

 黒一色だった世界が、見る見る螢緑の光に彩られて行く。

 「何だよ・・・これ・・・?」

 「凄い・・・。」

 その光景に、あたし達は今の事態も忘れて、魅入ってしまう。

 そして、それに圧倒されていたのは、あたし達だけではなかった。

 

 アァ、アァアァアア・・・

 

 光の世界の中に響く、呻き声。

 舞い踊る光達の中で、“彼女”が苦しげに身悶えしていた。

 蛍達に追いやられる様に、その姿は岸から離れていく。

 「蛍を・・・光を、怖がってる・・・?」

 呆然とするあたし達を残して、“彼女”は見る見る遠ざかっていく。

 

 アア・・・

 アア・・・

 

 聞こえる。

 彼女の声が。

 

 やめて・・・

 やめて・・・

 

 酷く苦しげに。

 そして酷く悲しげに。

 

 やめて・・・

 やめて・・・

 眩しい・・・

 眩しい・・・

 

 蛍が燃やす、生命(いのち)の光。

 それが、“彼女”の持つ死の闇を追いやって行く。

 “彼女”は哀願とも懇願ともつかない声で泣くけれど、蛍達はそんな事知った事かと言わんばかりに“彼女”を追い詰めていく。

 とうとう、“彼女”は池の真ん中まで追い詰められた。

 周りはもう、上も下も光で埋め尽くされている。

 “彼女”の頭が、グリンと動いてあたし達の方を向いた。

 幾重にも重なった藻の奥の、空ろな眼差し。

 それが、すがる様にあたしを見る。

 だけど・・・

 だけど・・・

 あたしは、自分の手の中を確かめる。

 そこにあるのは、確かな重み。

 確かな温もり。

 確かな鼓動。

 あたしの腕の中、確かにある彼の存在。

 ―「里香はな、オレのなんだよ!!お前みたいな化けモンに、やる訳ねえだろ!!」―

 ―「いいか!?お前はオレが守るって決めたんだよ!!相手が人間だって化けモンだって、関係あるか!!」―

 確かに胸に響いた、彼の声。

 ・・・やっぱりあたしは、まだ、“ここ”にいたい。

 この重みを、温もりを、鼓動を。

 彼を、感じていたい。

 あたしはゆっくりと顔を横にふる。

 “彼女”の空ろな目に、はっきりと浮かぶ悲しみの色。

 それでもまだ、諦めきれないと言う様にあたしに向かって手を伸ばす。

 だけど、それも舞い飛ぶ蛍達に阻まれる。

 “彼女”が叫ぶ。

 

 行かないで・・・!!

 行かないで・・・!!

 

 親を呼ぶ子供の様に。

 恋人を呼ぶ少女の様に。

 “彼女”が、叫ぶ。

 だけど、あたしは応えない。

 ただただ、ギュッと、腕の中の“彼”を抱き締める。

 もがく“彼女”。

 まるでとどめを刺す様に、“彼女”の周りを渦を巻いて乱舞する蛍達。

 

 ・・・おいて、いかないで・・・

 

 最後に響く、悲痛な声。

 そして、“彼女”はゆっくりと暗い池の中へ沈んで行った。

 

 

                   ―10―

 

 

 秋庭里香はまた、あの場所に立っていた。

 彼女の前には、やっぱり件の透明な棺。

 しかし、あの声はもう、聞こえない。

 彼女が開けようとしたした棺の蓋は、今はピッタリと閉じられている。

 そして、その上に座るのは赤ん坊でもなければ少女でもない。一人の若い女性だった。

 黒い服に長い黒髪、朱いつけ襟を着けたその女性は、棺の上で足を組み、目を瞑りながらうんざりした様な表情で溜息を吐いた。

 「”あんた達”には、ほとほと呆れるわ。」

 女性が言う。水の玉が転がる様な澄んだ声。

 「自分で捨てておいて、いざそうなってみたら今度はそれが寂しいなんて、どうしてどうして、笑わせてくれるじゃない。」

 自分の座る棺をコンコンと指先でつつきながら、「それにしても」、と女性は続ける。

 「ただでさえ有限なのに、”あんた達”は何でそう無駄に出来るかね?全く、理解不能なんですけど?」

 女性は言いながら、閉じていた瞳を開ける。

 現れた瞳は、淡い緑色の光に彩られていた。

 女性は顎杖をつきながら、螢緑の瞳で秋庭里香を見る。

 「”私ら”よりずっと永い時間をもらえてるのに、それを持て余すってか?随分と、贅沢な話じゃないの。」

 非難とも、嘲笑ともとれる口調。

 「それなら、それ、”私ら”によこしなよ。”あんた達”よりよほど有意義に使ってあげるけど?」

 そして、女性は秋庭里香の左胸を指差す。

 「あんたのも随分と継ぎ接ぎだらけみたいだけど、それでも”私ら”よりはずっと永いっしょ。」

 冗談の様に言いながら、その螢緑の瞳は笑っていない。

 まるで 、舌舐めずりする様な視線。

 それは、先ほどに秋庭里香が見た、あの空ろな眼差しとは違う、暗く燃える焔に彩られた眼差し。

 「ねえ。良いでしょ?どうせ、”あんたら”の事だから、ろくな使い道もないんだろうし。ならその時間、”私ら”に頂戴。」

 あの時とはまた違った怖気が、秋庭里香の背筋を伝う。

 それは、何よりも生きる事に執着する目。他者を犠牲にしてもなお、貪欲に生を求める目だった。

 女性の持つ生への執着が、蛇の様に秋庭里香を飲み込もうとする。

 けど。

 それなら。

 ―負けはしない―

 後ずさりそうになった足に力を込めると、秋庭里香は女性の目をグッと見返した。

 秋庭里香の視線が、女性の螢緑の瞳とぶつかり合う。

 しばしの間。

 そしてー

 「あは、あはははは!!」

 女性が突然、笑い出した。

 「冗談冗談。んなこと、出来るわけないっしょ!?」

 ケタケタと笑いながら、そんな事を言う。

 「”私ら”は”私ら”。”あんた達”は”あんた達”。お互い与えられた分を素直に受け入れときゃ、それでいいのさ。」

 そうやってひとしきり笑うと、女性はまた指先でとんとんと棺をつつく。

 「まぁ、とにかくあんたは”こいつ”とは違うわけだ。それが分かれば結構だよ。残された分、せいぜい大事に使えばいい。」

 そう言うと、女性はよっと棺の上に立ち上がった。長い黒髪がさららと舞う。

 「まあ、機会があったら他の奴らにも言っといてよ。やるなら他に迷惑かからない場所でやれって。”私ら”、”あんたら”のとばっちり食うのはもう結構なんで。」

 忌々しそうに足元を見やる女性に向かって、秋庭里香は問う。

 貴女はいったい何なのかと。

 それを聞いた女性は、少しポカンとした顔をして、それからケタケタと笑った。

 「失礼だねえ。仮にも命の恩人に向かって。」

 そう言って、ケタケタ笑った。

 「”私ら”はねぇ・・・。」

 喋る女性に、異変が起こる。

 今まではっきりしていたその輪部が、崩れて始めたのだ。

 その顔が、髪が、手が、足が、まるでモザイクの様に崩れていく。

 思わず後ずさる秋庭里香の前で、ワシャワシャと蠢く塊になった女性。

 やがて、そのあちらこちらに螢緑の光が灯りー

 パッ

 女性だったものは、無数の光の玉となって宙に散った。

 視界いっぱいに舞い飛ぶ、光の玉達。

 その正体に気づくと同時に、秋庭里香の意識は暗転した。

 

 目が覚めた途端、視界いっぱいに裕一の顔が飛び込んできた。

 反射的に手が出る。

 バチン

 「イッテッ!!」

 顔のど真ん中に、張り手をする形になった。

 起き上がるあたしの前で、裕一は痛い痛いと喚いている。

 相変わらず、痛みには弱いらしい。

 見回すと、周りにはカーキ色の壁。

 どうやら、テントの中らしい。

 「何すんだよ!?急に。」

 鼻の頭を押さえながら、裕一がそんな事を言ってくる

 「目の前に顔突きつけてる方が悪い!!気持ち悪いじゃない!!」

 「お前な、それが昨夜助けに行ってやったやつに言う言葉か!?」

 裕一のその言葉に、あたし達の時間が一瞬止まる。

 「あれ・・・夢じゃなかったんだ・・・。」

 「・・・みたいなんだよなぁ・・・。残念ながら。」

 呆然と呟くあたしに、裕一は頭をかきかきそう答える。

 その頭には寝癖がついていて、胡坐をかくその下にはあたしと同じ毛布が敷いてある。

 どうやら、彼も今まで眠っていたらしい。

 と、裕一の後ろのファスナーがジャッと開いた。

 差し込んでくる朝日が眩しい。

 「裕ちゃん、里香、目覚めたの!?」

 「二人とも、大丈夫!?」

 「里香ちゃん、裕一に変な事されなかったか!?」

 皆が、次々と顔を出す。

 皆、一様に心配顔だ。(山西君は裕一に、手元にあった懐中電灯をぶつけられてたけれど。)

 皆の話によると、いつまでも戻ってこないあたし達を探して池まできてみると、池のほとりで抱き合って気絶しているあたしと裕一を見つけたらしい。

 そのままあたし達は昏々と眠り続け、今に至るらしい。

 

 「一体、何があったの?」

 朝食の席を囲みながら、みゆきちゃんが訊いてくる。

 「言っても、信用しねえよ。」

 裕一がぶっきらぼうに答えるが、皆がそれで納得する筈もない。

 仕方なく、あたし達は昨夜起こったことの一部始終を話した。

 だけどー

 「・・・あのね、あたし達真面目に訊いてるんだけど!?」

 少し怒った調子でみゆきちゃんが言う。

 「そうだよ。皆心配したんだよ!?」

 世古口君も、珍しく少し怒っている様だ。

 「やっぱり、二人で変な事してたんじゃ・・・うべぁっ!?」

 山西君はまたそんな事を言って、裕一にお皿をぶつけられていた。

 ついでに、あたしもぶつけておいた。

 懐疑と非難の視線に晒されて、あたしと裕一は溜息をついた。

 二人で、自分の足に手を伸ばす。

 あたしは履いていた靴下を、裕一はズボンの裾をめくった。

 「「「ーーー!?」」」

 それを見た瞬間、皆の顔色が変わる。

 全く、百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。

 そう。あたしと裕一の足首には、紫色の手の跡がしっかりと残っていたのだから。

 

 

                   ―11―

 

 

 あの池に行ってみたいと言ったのは、あたしだった。

 裕一含め皆は一様に嫌な顔をしたが、(当然か)あたしは皆を説き伏せて件の池へと向かった。

 あの暗闇の中では無限に広く見えたその池は、日の光の下では酷く小さく見えた。

 澄んだ水にはいくつも水蓮が浮き、可憐な花を咲かせている。

 時折、銀緑色の蜻蛉がキラキラと煌きながら飛び交っていた。

 「裕一、ここ・・・。」

 「・・・ああ・・・。」

 あたしが指差した場所は、池の縁が大きくえぐれ、千切れた草や藻がたくさん散らばっていた。

 昨夜、あたし達がもがいた跡だ。

 「なあ、山西・・・」

 「な、何だよ!?」

 その跡を気味悪そうに見ていた山西君が、裕一の声にビクリとしながら応えた。些か怯えすぎではないだろうか。

 「お前が話してた女の人、見つかってないんだったよな。」

 「あ、ああ、警察や消防団が洗いざらいさらったけど、結局見つかんなかったって・・・」

 裕一は頷いて、池を見る。

 「・・・そんなに大きな池じゃないのにな。」

 「こんなに澄んでるのにね・・・。」

 あたしはそう言って、池に手を浸した。

 冷たく澄んだ水は視界を遮る事はなく、浸した手が揺らめきの中に見えた。

 だけど・・・

 「・・・でも、中心の方は随分深いみたいだよ。」

 みゆきちゃんがそう言って、池の奥の方を指差した。

 そこは、昨夜”彼女”が泣きながら沈んでいった場所。

 確かにそこは、急に深みになっているらしく、澄んだ水の色がそのまま濃い藍色に変わり、底が見えなかった。

 透明なのに、見えない。

 ああ、そうか・・・。あの夢に出てきた棺は・・・

 一人合点しながら、あたしはそこに目を凝らす。

 藍色の闇が満たす中、かすかに揺らめく藻だけが見えた。

 その後、あたし達は予定のバスの時間まで思い思いに好きな事をして過ごした。(もっとも、例の池がある林には誰も近づかなかったけど。)

 テント近くの原っぱで、世古口君と山西君がキャッチボールしている。

 あたしはそれを眺めながら、地面に腰を降ろしていた。

 「おう、何してんだ?」

 そんな声とともに、裕一が隣に腰を下ろしてきた。

 「ん、ちょっと考え事。」

 「そうか。」

 「うん。」

 しばしの間。

 「あのね、」

 「あのな、」

 声が重なった。

 「な、何よ!?」

 「そっちこそ、何だよ!?」

 「そっちから言いなさいよ!」

 「お前から言えよ!?」

 あたし達はしばし、うーと睨み合う。

 「じゃ、ジャンケンな!?」

 「いいよ。一発勝負ね。」

 ジャンケンポン。

 あたしはグー。裕一はパー。

 あたしの負けだ。

 仕方なく、あたしは話し出した。

 他の皆には言っていない事。昨日の、そしてその前に見た夢の話だ。

 話を続けるうちに、裕一の顔色が変わってきた。

 どうしたのかと思っていると、「その女の夢、オレも見た。」なんて言ってきた。

 あたしが「ええ!?」と言うと、今度は裕一が話し出した。

 裕一がその夢を見たのは、昨夜。あたしと同じ様に、透明な棺に座った黒装束に長い黒髪、朱いつけ襟の女性に、散々文句を言われたそうだ。

 そして最後に、「つがいの相手くらい、変なのに引っ張られない様にちゃんと見張っとけ!!」と言い残して・・・

 「光になって、散っちゃったんだ・・・。」

 「ああ・・・。」

 また、しばしの間。

 と、あるものがあたしの視界に入った。

 「蛍・・・」

 「え?」

 あたしが指差した先には、草先に止まる一匹の蛍。

 眠っているのか、風に揺れる草の上でジッと動かない。

 「ねえ、裕一。」

 「ん?」

 「あの娘に池に引っ張り込まれそうになった時、蛍が助けてくれたでしょう?」

 「ああ・・・何だったんだろうな。あれ。」

 「あれ、あたし達を助けた訳じゃないんじゃないかな?」

 「どういう事だよ?」

 ?という顔をしている裕一に向かって、あたしは続ける。

 「山西君が言ってたよね。あの池、何年か蛍が見れない時期があったって。」

 「ああ、確か言ってたな。そんな事。」

 「知ってる?蛍の幼虫って、水の中で育つんだよ。」

 「へえ。そうなのか?」

 「うん。」

 そう。蛍は水生昆虫。成虫は陸に住むけれど、幼虫は綺麗な水の中で貝などを食べて育つ。だから、蛍は綺麗な水のない場所では生きられない。

 つまり―

 「あのさ、裕一・・・。」

 「ん?」

 「人間って、水に沈んで見つからないと、どうなるのかな?」

 「どうなるって、そりゃお前・・・!!」

 あたしが言いたい事を悟ったのか、裕一が息を呑む。

 「あたしが見た夢・・・」

 おそらく、あの池の象徴だった透明な棺。

 その上に居座り続け、あたしが棺の蓋を開けるのを邪魔し続けたあの娘達。

 揺り籠に入った赤ん坊は卵。幼女は幼虫。眠っていた少女は蛹。そして、最後に現れた女性は―

 蛍は卵のうちから、その身に光を纏うという。

 そう、彼女達はあたしを守っていたんじゃない。自分達の生きる場所を守っていたのだ。一度人の血肉に汚された池の水が、再び汚される事のない様に。文字通り、その一生をかけて。

 あたし達を助けたのは、あくまで結果論。

 それでも―

 「ありがと・・・」

 あたしの言葉が聞こえているのかいないのか、草の上の蛍はただウトウトと眠り続けるだけだった。                         

 

 

                   ―12―

 

 

 夕方、皆で帰りのバスを待っていると、山西がちょいちょいと肩をつついてきた。何かと思って見ると耳を貸せ、のジェスチャー。

 仕方ないので、耳を貸す。しかし、男の吐息が耳にかかるのは正直気持ち悪い。

 「あのさ、昨夜は里香ちゃんも聞いてたから言わなかったんだけど・・・」

 そこで口ごもる。何処か言いづらそうな口調。

 何なんだよ、鬱陶しい。話したくないなら離れろ。気持ち悪いんだから。

 僕が離れようとすると、山西は慌てて僕の肩をつかんで止めた。

 「あの池で自殺したっていう娘さん、どうやら心臓の病気だったらしいんだよ。」

 その言葉に、僕は眉をひそめる。

 「手術して、一応成功はしたんだけど、完全には治らなくて余命数年って宣告されたらしい。」

 「・・・・・・。」

 「それを悲観して、自殺したらしいんだけどさ・・・」

 「何が言いたいんだよ・・・?」

 「似てると、思わねえ?」

 何が、とは訊かなかった。

 「それで?」

 僕の言葉に、山西はおずおずと答えた。

 「里香ちゃん、そのお化けに取り憑かれたりしてないよなぁ?もしかして、また引っ張られたり・・・」

 最後まで聞く前に、僕は山西の足を思いっきり踏みつけた。

 「いってぇー!?」

 山西は悲鳴を上げながら、ピョンピョンと飛び跳ね回った。

 「何すんだよ!?オレは心配して・・・」

 涙声で訴える山西に、僕はフンと鼻を鳴らした。

 「そんな事、ある訳ねえだろ。」

 「なんでだよ!?だって昨日は実際に・・・」

 「とにかく、ないんだよ!!」

 そう。僕には妙な確信があった。

 ”彼女”は、あの池から出られない。

 なぜなら、それを蛍達は許さないからだ。

 蛍達は、自分達の聖域が汚されることを二度と許さない。

 だから、”彼女”はあの池に他の誰かを呼ぶ事は出来ない。

 どんなに寂しくても、どんなに求めても。

 同情しようとは思わない。

 『自分で放棄しておいて、いざそうなってみたら今度はそれが寂しいなんて、どうしてどうして、笑わせてくれるじゃない。』

 頭の中に、夢で聞いた蛍達の言葉がリフレインされる。

 蛍の寿命は、卵から数えても一年ほどらしい。

 自分達よりも長い命を約束されながら、それを自ら捨て去る人間の姿は、蛍達にはさぞ滑稽に見えた事だろう。

 そう。どんな事情があったにしろ、手に入れられた筈の時を、自分で放り出したのは”彼女”自身なのだ。

 だから、今のその在り様を、”彼女”は受け入れなければならない。

 それが、どんなに孤独なものでも。どんなに悲しいものでも。

 きっとそれが、”彼女”の生を願っていた人達を裏切った事に対しての罰なのだろう。

 例えどんなに残された時間が限られていたとしても、生き物は輝く事が出来る。

 そう。それこそあの夜見た蛍達の様に。

 そして、里香の様に。

 ・・・そう言えば、僕も蛍達に言われていたっけ。

 『つがいの相手くらい、変なのに引っ張られない様にちゃんと見張っとけ!!』

 ・・・上等だ。

 僕は林の方を振り返ると、口の中でそう呟いた。

 

 突然変な声が聞こえたので振り返ると、山西君が痛い痛いと言いながら足を押さえて飛び跳ねていた。

 どうやら裕一に踏まれたらしい。二人で何を話していたのだろう。まああの二人の事だから、どうせくだらない事だろうけど。

 そんな事を考えているうちに、バスが来た。

 プシュー

 バスの戸が開く。最初にみゆきちゃんと世古口君が、次に山西君。あたしと裕一が乗ろうとしたその時、

 

 おいて、いかないで・・・

 

 かすかに、だけど確かに聞こえた。

 思わず、あの池の方向を振り返る。

 林の奥にあるあの池は、ここからはもう見えない。

 ”彼女”はあのまま、あの池の底にい続けるのだろうか。

 蛍達の光に囲まれて。

 たった一人で。

 いつまでも。

 

 いかないで・・・

 

 微かに疼く、憐憫の思い。

 ”彼女”はあるかもしれなかった、あたしのもう一つの未来。

 あたしももし、彼に会わなかったら・・・。

 だけど、あたしは彼に会った。

 自分の光を見つけた。

 なら、あたしは蛍になろう。

 たとえ、永い時ではなくとも、精一杯に輝いて生きよう。

 「里香、どうした?」

 彼が、繋いでいた手に力を込めてくる。

 温かくて強い、生命(いのち)の感触。

 そう、これがあたしのいる場所。

 あたしが、選んだ場所。

 あの、冷たい池の底じゃない。

 だから、

 だからー

 

 いかないで・・・

 

 ごめん。

 あたしは、いけない。

 貴女の所には、いけない。

 あたしはその声を振り切る様に前を向き、バスへと乗り込んだ。

 プシュー

 ドアが閉まり、バスが動き出す。

 見つめるあたしの視界の中で、あの林は見る見る小さくなって見えなくなった。

 

                                                                         終わり

 

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