翔鶴ら第二遊撃隊が呉鎮守府から出発した後、大規模な作戦展開もなくいつもの日常が戻る。
朝早くから加賀は体をのっそりと起こし、まだ目が覚めきっていない両頬を叩こうとする。
ふと、右腕がないことを思い出して顔の横まで上げた左手をキュッと握りしめる。
我ながらまだまだ寝ぼけていることを自覚した加賀は、そのまま洗面所へと足取りを運ぶ。
片腕だけで器用に顔を洗い、身なりを整えて出かける準備を済ませた。
いつもならばこの段階で射場へと向かうのだが、本日は工廠の方に用事があった。
久し振りに工廠の方まで来ると、その重苦しい雰囲気に圧倒されそうになる。
ゲートを潜って中に入れば、ほぼ密閉された空間に息が詰まりそうな感覚を覚えた。
その雰囲気に似つかわしくない朗らかな声が加賀の耳に飛び込んでくる。
「どうもー、お待ちしてましたよ加賀さん」
「おはよう、明石。頼んでいたものが出来たと聞いたのだけれども」
「おはようございます!正確には頼まれていたのが形になったのでテストをしようと思いまして」
明石の作業台の上には真っ黒な人の腕が置かれていた。
肘まであるそれは、加賀の為に今まで作成が進められていた艦娘用の義手だった。
「こんなに時間が掛かってしまって、更にテストまで突き合わせて申し訳ないですが」
「問題ないわ、この工廠は本来なら軍備を整えるためのものであって、
リハビリ用の器具を作る場所ではないし」
「うぅ……本当にすみません。
大規模作戦が何度かあると工廠は装備開発とかで忙しいだけでなく火の車なんですよぅ」
呉の工廠は特に兵器開発が盛んな土地柄でもあるので資源は慢性的に枯渇しているのが常だった。
それが義手の開発への大幅な遅れへと繋がった結果だろう。
加賀も加賀で瑞鶴達の鍛錬や主力艦隊へのヒアリング、時には秘書艦代理と多忙でもあった。
いい加減に休暇を取れと提督に言われて漸く、工廠へと向かう時間も出来たぐらいだ。
「気にしないで頂戴、私の義手は元々二の次でという話だったのだから」
「でも時間を頂いた分、いいものが出来たと自負してます」
いわゆる只の見せかけではなく関節をある程度、動かすことが出来る様になっている。
これには妖精さんの補助を受けて行うことが出来るので、実質艦娘だけに適合する代物だ。
「ただ試運転がまだなので、まだまだデータが足りない状態でして」
「というと?」
「残念ながら、この義手で出撃することはまだ出来ないですね。
日常生活でも問題なく出来るかもわかりませんから、それだけは守って下さいね」
「そう。出撃出来ないのは心苦しいけれども良いでしょう」
加賀は自分が出撃出来なくとも、瑞鶴や葛城が居れば問題はないと信じていた。
まだまだ改善の余地はあるが、十分に主力として胸を張っても問題はない。
出撃できない悔しさよりも、教え子の成長を確信出来て一時でも嬉しく思える。
「それでは義手の試験運用及び取り付ける為の改装をしますけれどもご注意を、
これは妖精さんを介して神経を繋ぐようなものなので、少し痺れを感じると思います」
「ええ、覚悟しているわ」
人間で言うところの外科手術を行わなければならないので、二人は診療台へと向かう。
艦娘に対して外科手術を施すということは前代未聞だった。
改二改装とは訳が違う、艤装ではなく艦娘の体そのものに改装を施すからだ。
またしても明石は経験の無い案件だったが、加賀の為にも失敗は許されない。
加賀も恐怖心が無いと言えば嘘になるが、これに成功すれば戦列に復帰出来る可能性も出て来る。
艦娘として現世に顕現したのならば、やはり戦うことこそが己の使命というのは代わりなかった。
教え子達がいるので、復帰の時期に焦りはないが加賀はある思いから戦場に帰りたかった。
上半身の衣服を脱ぎ棄て、診察台へと体を横たえると左腕に麻酔の点滴を打たれる。
麻酔が全身に回った時には、加賀の意識な深海の様な暗闇に沈んで行った。
本日は稽古がないので、瑞鶴は暇を持て余していた。
出撃もないので実質休暇の様な状態になっていたので演習場に来ていた。
演習場とは鎮守府の湾内にあり、瑞鶴たちがいつも水上訓練をする場所と近かった。
主に此方では砲撃、陣形を組んでの航行訓練を行うので広く取られている。
そこで暇そうな瑞鶴を見つけた駆逐艦初月から声を掛けられた。
「瑞鶴、暇してるんだったら艦載機を飛ばしてくれないか?
陸からだと此処まで来るのに待たされるんだ」
「えー……、まぁ良いけれどもね。
その代わり、私の艦載機のペイント弾が被弾したら間宮羊羹奢って貰おうかなー」
「良いだろう、その代わり僕に一発も当てられなかったら僕の頼み事を聞いて貰うぞ」
陸から出撃すればいいとも考えたが、日々の練習が大事と瑞鶴も発艦の練習と思い承諾する。
瑞鶴と初月は十分に距離を取り、お互いが向き合って暫し睨み合う。
演習とは言え、瑞鶴は手を抜くつもりは全くなく、実戦で挑むように殺気を矢に込めた。
ペイント弾とは言え当たりどころが悪ければ怪我をしてしまうかもしれない。
だが手加減をしたところで、その演習内容が実戦で役に立つとは瑞鶴には思えない。
どうせやるのならばなるべく実戦に近い形式がお互いの為になると、加賀のようなことを考えた。
その瑞鶴の気持ちが伝わったのか、初月は凄味のある笑みを浮かべて迎撃体制に入る。
初月の電探に感が入り、彼女の脳裏に自分を中心とした上空の艦載機の位置が送られる。
彼女の両脇に誇らしげに屹立している長10cm砲が斉射を始める。
その弾道は艦載機の動きを読み切っており、次々と瑞鶴の艦載機に撃墜判定が出る。
全滅を免れたが艦載機は初月に満足に近づくことが出来ず、
初月の体にペイントが付着することはなかったので、この演習は初月の勝利となった。
新鋭の防空駆逐艦の前に、瑞鶴は文字通り一矢報いることが出来なかった。
「やるじゃない、流石は防空駆逐艦ね」
「姉さんの方が凄かったぞ、ところで約束は覚えているかい?」
「頼み事だっけ、いいわよ。約束だし何でも言ってみなさいよ」
初月は少々大人びた口調をしているが、駆逐艦なのでおやつでも奢れば良いだろうと
この時の瑞鶴は高を括っていた。後にこの余計な一言を後悔する羽目になる。
「よし、それじゃあ」
初月は少しだけ戸惑う素振りを見せて、意を決して言った。
「僕とデートして欲しいんだ」
「……は?」
見知らぬ天井の下、とある一室に備えられたベッドの上で加賀は目が覚める。
その右肩には艦娘の艤装の様に鉄で覆われた肘上まである腕が取り付けられていた。
酷く冷たいそれは凡そ生身の肉体である艦娘であっても違和感がある。
明石の施術は成功したのだろうか、とぼんやりと考えていると部屋に明石が入って来る。
「おはようございます、加賀さん。右肩に違和感は……ありますよね」
「そうね、やはり鉄の部分は冷たいわ」
上体を起こすとやはり右側に重心が寄っていて、
片腕での生活に慣れつつあった加賀はバランスを取るのが難しい。
「違和感以外に体の不調を感じるところはありますか?」
「正直、フラフラするのが重心が安定しないのか違うのかわからないわね」
「そうですか、本日はもう実験を中止するか
少し様子を見てから義手の接続をしてみましょうか?」
「様子見でお願いするわ。片腕での生活に慣れたせいかもしれないし」
やや不機嫌そうに言い放った加賀だったが、すぐに目を見開く。
「その……嫌味で言っているのではないわよ?」
加賀の細かな気遣いを感じた明石は苦笑して了解と言って部屋を後にする。
残された加賀はベッドに座り直して新しい右腕を擦る。
艤装を触ったような感触が自分の肌に直に繋げられている状況に予想以上の異質さを感じる。
今までで艦娘に外科手術を施して体の一部を機械化したという前例はない。
その事実だけでも異質だったが、自身の肉体の感覚にも異質さを痛烈に刻み込んでくる。
自分は今、常道から外れた行為、存在となってしまったという事実を
(今更悔恨の念を抱くなんてね、やっぱり心というのは理解するのが難しいわ)
以前に明石に迷いなく腕の作成を強請ったというのに、いざ右腕の状態を見ると動揺してしまう。
先駆者のない道を歩くことが加賀にとっては初めての出来事だからだ。
艦載機による戦闘方法の確立も、鳳翔という先駆者が居たから先頭を歩いていた訳ではない。
自分はその鳳翔から続く轍を歩いて進んでいただけに過ぎなかったのだ。
ただ今の自分は前例もない、自分以外に誰も隣を歩く者のいない道の一歩を踏み出した。
その事実にも眩暈を覚える。
これからの戦いに自分が付いていけるのかも不安はあったが、
それでも加賀は戦場に、
空母寮の自室に戻っていた瑞鶴は何も見ていない様に呆けていた。
初月との約束が未だに頭の中に残っている。
「どうして私とデートなんてしたいの?ふざけてるの?」
「ふざけてなんていないよ、僕はただ君とデートがしたいだけなんだが……駄目か?」
真剣な初月の眼差しに瑞鶴は何も言えず、ただ頷くことしか出来なかった。
それを確認した初月は満足げに頷いて休みの日程を確認し合ってそのまま演習場で別れた。
瑞鶴はそのまま空母寮に帰って来て今に至る。
相手が真剣であることはわかっているが、どうして相手が自分なのかがわからなかった。
素直に初月の言葉を受け止めるのならば、初月は瑞鶴のことが好きということになる。
翔鶴以外に此処まで露骨に好意をぶつけられたのは初めてだった。
(瑞鶴は葛城からのあれはただの先輩への憧れとしか思っていない)
「うぅ……これ当日まで初月とどう接していいのかわかんないんだけどぉ」
今まで全く意識していなかっただけに、初月のデートの誘いは瑞鶴を混乱させた。
そもそも女性同士……という建前も瑞鶴は考えたが、自分も翔鶴に対する想いは大概だと気付く。
一先ず、女性同士という建前を放置して初月のことを考える。
見た目も駆逐艦に似つかわしくない長身で、その鋭い眼差しは格好良くさえ見える。
普段の言動もとても大人びていて、駆逐艦とは思えない魅力を彼女は持っていた。
(待って!一瞬でもちょっとカッコイイかもって……私は馬鹿か!?)
相手は大人びているとは言え駆逐艦、艦歴においても艦娘としての顕現した時間も此方のが長い。
つまりは人間で言うところのそれなりの年の差を抱えた間柄ということになる。
手を出してしまっては、普通に自分の世間体が悪い。
(いやいや、相手は真剣に聞いてきてるのよ?
世間体ばかり気にして断るのは不誠実じゃない)
悩み続けていつぞやの如く思考がループを初めてしまう。
一しきり思考がランニングを終えた後に
(どっちにしろ、賭けに負けたんだから私にデートの拒否権はないわよね)
こうなればもうデートの日に考えるしかない。
瑞鶴は問題の先延ばしにしかならないが、初月の話しも聞いてから判断することにした。
その後暫くして加賀の眩暈が止まってから義手の接続が始まった。
神経を接続する際に体に電流が迸るような感覚から加賀は顔を顰める。
「これで理論上は義手を動かせるようになりましたが……どうでしょうか?」
明石にそう言われて、加賀は腕があった時のように腕を動かすイメージを脳裏に浮かべる。
具体的には肘を曲げ切るつもりであったが、実際は右肩のみが少し動いたぐらいだった。
しかし、何度かそれを繰り返すと漸く肘が少しだけ動いた。
まるでギプスか何かで固定でもされているかのように、腕は自由には動かない。
「神経が繋がっているのは間違いないわ」
「そうですね。後はリハビリを繰り返して、動けるようにする必要がありますねー」
「そんなに上手いこと行くものではないわね」
無理に腕を動かそうとした反動からか、思い通りに行かない苛立ちからか
加賀の表情は少々歪んでいた。
「艦娘でも腕や足を再生させたら少しリハビリが必要な状態になりますから」
戦闘で四肢を失うこともままあることなので、それは加賀にもわかってはいた。
再生した体が馴染むまでに掛かる時間は個人によって異なる。
故に加賀のこの義手が馴染むまでにどれだけの時間が掛かるのかは誰にもわからない。
「右腕なんですけれども、
何度も神経接続を繰り返すのと負担になるでしょうからこのままにしましょう」
確かに、あれを何度も繰り返すのは気が重かったので加賀はこのままでいるのを承諾する。
自室でもリハビリは出来るので、その方が早く腕を動かせるようになるかもしれない。
ちなみに指の方はほぼ動かせることが出来ず、まだ日常生活で活用出来るレベルではなかった。
瑞鶴達には義手を付けるということは知らせているので、そこまで突っ込まれないだろう。
まずは重心の違いに慣れる為にも杖を借りて加賀は工廠から自室へと帰路に就く。
自分がいた工廠内で、極秘事項が進められていることを加賀はまだ気付いてはいない。
今回は特に蛇足はないです