正規空母加賀の朝は早い。
まだまだ未熟な後輩達の育成と、自身の義手を用いたリハビリで忙しいからだ。
日常生活で使う分には、義手の扱いには慣れてきた方だ。
右腕が無かった頃に比べて、朝の支度もかなり早くに終わる様になった。
義手を付けたことで、以前と体のバランスがまた変わってしまったので
当初はややよろめきながら移動していたが、それももう無くなった。
手早く着替えも済ませて、写真立てに向かう。
「赤城さん、今日も行ってきます」
朝の日課を終えて、加賀は自室を出て行く。
射場へと到着すると、左手で弓を持ち右手を弦に伸ばす。
そのまま胸の筋肉を意識して、右手の義手に力を込めて弦を引く。
まだ完全に引き絞る事は出来ないが、
右手に力を込められかった当初よりも大分進歩したと実感する。
弦を離せばそれが風を切る心地好い音が静寂の中に鳴り響く。
加賀は瑞鶴達が来るまでこれをずっと繰り返す。
(この弦が完全に引き絞れる様になれば、やっと弓を取る事が出来る)
右腕を失ってから加賀は自分の存在理由に苦悩していた。
瑞鶴や葛城と居るとそうでもなかったが、
二人が出撃するとやはり艦娘なのに出撃が出来ない事が歯痒い。
もしも、二人がそのまま海へ帰ってしまったら……
そんな縁起でも無いことを考えてしまう。
それはきっと、また自分だけが取り残される恐怖だろう。
何とも無いように取り繕うが、無意識の内にそう感じて意識的にそれを否定している。
(もし、仮にこの腕がまともに動ける様になったとして
私は以前の様に弓を取る事が出来るのかしら……?)
こんな雑念だらけな状態では矢を射てたとしても、まともに当てられる気がしない。
(やはり艦娘としての私はもうあの時に死んだのかもしれない)
嘗ての栄光にすがる様な状態だが、赤城と共に海を征く加賀は強かった。
弱いままでは赤城の隣に立つ資格などない。
強くなる為ならどんな過酷な修練でも耐えて来た。
それだけの情熱と渇望が、果たして今の自分にあるのか?
思わず加賀はそう自分自身に問いかけた。
(この鎮守府の皆と一緒に戦いたい気持ちに偽りは無い。
けれども私の隣にあの人が居ない……)
ただそれだけの違い、けれども加賀にとってはとても大きな違い。
義手が無かった頃は我武者羅に早く戦場に帰りたいと渇望していたが、
そこに手が届きかけると躊躇してしまう。
これではただの口先だけの状態だと自己嫌悪に陥る。
集中力の切れた状態からか、引き絞っていた弦が不意に指から離れてしまう。
弦の空を切る音も、過去に比べてかなり濁った音を立てる。
すると射場の入り口から物音がするのが聞こえる。どうやら瑞鶴か葛城が来たらしい。
二人にはこの事は悟られまいと加賀はいつもの様に、寧ろいつも以上に無表情に徹する。
―此処は私が最初に目に映した場所―
―空は無く、海も無く、気が付けば私は其処にいた―
―自分の形を認識するように、私は両の手で頬をなぞる―
―私という形がどういったモノなのかが分からないので、それで確認するしか無いからだ―
―顔だけは分からないが、凡そ私の形は両手に両足のあるものであることがわかる―
―特にする事も無く、どれほどの時間が経っただろうか―
「おはようございます。具合はどうですか?」
―声を掛けられた事に当初気付かず、私は戸惑った顔をしたのでしょう。その女性は苦笑した―
「えーと、私は明石です。何処か体調が悪い部分はありませんか?」
―明石と名乗った女性は、私の体を気遣ってくれる。そう言えば私の名前は何だったかと尋ねる―
「ふむ、此処まで自我が形成されたのなら平気そうですね。貴女の名前は―――」
午前の鍛錬が終わり、瑞鶴と葛城は今回は遠洋航海に出ることになる。
つまり、今から丸一日彼女達が鎮守府を留守にすることになり、加賀は暇が出来てしまった。
余り一人でいる時間が長いと今朝の様に思考が後ろ向きになってしまい勝ちなので、
その分を鍛錬に回して雑念を追い払おうとする。
けれどもどれだけ自分の肉体に鞭を打っても、取り残される恐怖を振り払うことが出来ない。
どうにも鍛錬をしても気分が晴れないので、鳳翔さんのお店へ行くことにする。
店は閑散としており物音と言えば鳳翔さんが、夜に向けて仕込みをしている音だけだった。
先日の怪我も入渠で修復された鳳翔は忙しなく動いていたが、加賀の姿を見ると手を止める。
「あら、いらっしゃい。昼間から来るなんて珍しいですね」
「こんにちは、一杯貰いたいのですけれど」
「ふふ、ありがとうございます。
それでは一杯目はお注ぎしましょうかね」
有無を言わせずにそう言うと鳳翔は奥へと入り、
カウンターに座った加賀にお猪口と徳利を持って来る。
「自分でやりますから」
「普段のお勤めがありますから、
最初くらいはお酌をしますよ」
嘗て鳳翔の教え子だった加賀は恐縮してお猪口を持つ。
昔から鳳翔には頭が上がらないので、彼女の言う事には逆らえない。
お猪口にお酒を注がれた加賀は返礼代わりにそれを一気に飲み下す。
「普段は少しずつ呑むのにどうかしましたか?」
口調や物腰は丁寧ながら、鳳翔から探る様に聞かれると加賀は身構える。
彼女に下手な嘘は通用しないと諦めて、加賀は今の自分の悩みを吐露する。
「お恥ずかしい話ですが、
最近また私だけが取り残されてしまうのではと悩んでいます」
加賀は子供が叱られながら話す様に、おどおどしながら言う。
「今の私はとても中途半端な状態です。
片腕が無い訳ではない、さりとて戦える状態でもない。
私が弓を取るのに焦心苦慮している間にも
あの子達は前を進み、何時か私の声は届かなくなるのではないかと」
鳳翔が相手なので加賀は素直に自分の心情を吐露することが出来た。
加賀は誰かに話せた事で気持ちが落ち着けるかとも思ったが、余りそうでもない。
自分の悩みが具体的になったことで余計にそれを意識する。
「置いていかれる事の辛さは私にも解っているつもりです。
昔はいつも見送る事しか出来ませんでしたから」
鳳翔の艦暦を思い出し、加賀は心の中で下手を打ったと後悔する。
人も艦も時代もこの人はその目で見て、その目で見送って来たのだ。
加賀はまさに昔の鳳翔と同じ苦しみに対面していた。
「見送る事しか出来ないと思って居ましたが
それは違っていたんです。
全てが終わって新しい時代になる時に
私は取り残された人達を迎えに行く事が出来ました」
少し俯いていた鳳翔の表情が、とても明るい物になる。
虚勢などでは無く、心の底から胸を張っていることが伝わる。
「だから、最後まで諦めなければ道は開けます。
ひょっとしたら今までとは全く違う道になるかもしれません。
それでも貴女が生きる限り、行きたい場所があれば道は続いているものです。
ましてや今の私達は艦娘という存在、戦うことだけが存在意義では無いと私は思います」
戦場で生きることしか出来なかった加賀には、鳳翔の言っている事を理解するのは難しい。
だが目の前の鳳翔を見ていると、その未知の世界でも怖くはない。
不思議と加賀はそう思う。
「それでも戦列に復帰しようとしている加賀さんを私は応援しますよ。
応援と言ってもこうして話を聞くぐらいの事しか出来ませんが」
「ありがとうございます。それでも十分嬉しいです」
この鎮守府で素直に自分の弱さを出せるのが立場上、鳳翔さんしかいないので加賀には有難い。
その後もついつい話し込んでしまい、気が付けば夕暮れとなる。
加賀は今日は何時ぞやの飲み比べ勝負の時とは違い、ちゃんと自室に戻って一日を終える。
翌日、加賀は提督に執務室へと来るようにと呼び出しを受けた。
特に何か失態を犯した訳でもなく、瑞鶴と葛城は遠洋航海中なので二人の事ではないだろう。
心当たりの無い加賀は言い知れぬ不安を覚える。
赤レンガの建物内にある執務室では提督が執務机に座って、秘書艦の金剛がその傍に控えている。
「航空母艦加賀、只今参りました」
「ご苦労、早速なんだが今日はお前に伝えなければならないことがある」
いつもの様な抜き身な態度ではない提督の口調に、加賀は緊張感を覚える。
提督の表情は引き締まっており、珍しく真面目な話であることを予感する。
「それは何でしょうか?」
「うむ、本来ならお前には真っ先に伝えなければならなかった事だったんだが……
一度会ってもらった方が話は早いだろう。もうすぐ此処へと来る筈だ」
提督がそう言うと、確かに扉からノックの音が会話の間に入って来る。
提督から入室の許可を貰うと扉が開かれた。
そこに立っていたのは、加賀にとってずっと忘れずに居た人だった。
決して見間違えることはない、それが例え同名の別人であったとしても。
まるでこの場所だけが、加賀の右腕を除いて過去へと巻き戻された様な錯覚に陥る。
そう、そこに立っていたのは……
「航空母艦赤城です。どうぞよろしくお願いしますね」
第二部はこれにて終了です。