夢には味というものがあることを、アルトは父の記憶から教わっている。
幸福な夢は、例えようがないほどの美味で、五感の一つでも触れれば永遠に味わっていたいほどの多幸感を与えてくれる。しかし、所詮は夢で味わうことが出来ても腹を満たすことはない。だから、人はそれを永遠に味わうために努力すると親子共に自然と理解したものだ。
アルトはこれまで二度の眠りで幸福な夢を味わっている。
自分が誕生して暫くした後に見た夢は、『大御母様』と『叔母様』がいて今はもう跡形もない離宮で手を振って自分を……いや、父を呼ぶ光景だ。
学園長室に連れて来られ菓子を食べつくし眠った時には、あの居心地の良かった学園で黒髪の少年、金髪の会長、赤毛の戦友など生徒会と呼ばれるメンバーたちが父を誘って学園行事を行う光景。
夢の中にアルトはいない。呼ばれてもいない。存在していない。しかし、それらの夢が幸福と感じられるのは父の記憶を持っている故か?……それでも構わない。夢は見るだけタダだ。誰もが夢を見る機会は平等にある。自分がいない夢に幸福を感じられているのは確かなのだ。
反対の悪夢というものは最悪な味。血のように生臭く、焼け焦げた肉のような味。食感はこの世の全ての不快と思わせるものを煮詰めたようなものだ。悪夢を見ていると、そんなものが口や鼻孔、全身から絶えず身体の中に染み込んでくる。
アルトは初めて見る悪夢によってその味を噛み締めていた。
悪夢によって映し出された場所は、脱衣所も兼ねたシャワールームだ。
その場所をアルトは知っている。それ故にこの悪夢が作り出す過去、その結末を理解した故に歯と歯が軋み合う。
悪夢の中に一人の青年の姿が現れる。
ライだ。
彼はちょうどシャワーからあがったばかりで、火照った体に下着のみの格好で、濡れた銀髪を荒い手つきで拭いていた。一通り、作業を終わらせると、役目を終えたタオルをそのまま首に巻く。
洗面台の前に立ち、鏡の向こうに立つ彼の表情は正しく鉄面皮。これまで最強の騎士として八千万人を虐殺した悪鬼の顔とはまた違う、あらゆる感情を封殺して主の命令を遂行する完璧な執行者となっていた。
シャワールームに備えられたテレビから報道ニュースが流れる。
『――こちらスペイン上空です。この光景をご覧下さい。何物かがスペインを統治するマリーベル皇女殿下率いる大グリンダ騎士団と交戦状態に入っております。狙いはダモクレス要塞の破壊なのでしょうか――』
テレビの画面には全長3kmを超える要塞のダモクレスにカールレオン級浮遊航空艦――グリンダ騎士団旗艦のグランベリーが突き刺さり、その周囲の夜空にKMFの戦闘によって小さな光球が爆ぜていた。
「あちらも始まったか……」
その一言だけでライはテレビのチャンネルを変える。
あちらのことは全てマリーベルにルルーシュが任せている。ならばライがすることはない。だが、マリーベルはルルーシュに似ている。だからきっとあちらの戦いの結末は泣く者が生まれるだけだろう。
『――間も無く神聖ブリタニア帝国第九十九代唯一皇帝陛下にして黒の騎士団CEO、超合衆国第二代最高評議会議長であらせられるルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様による、愚かにもルルーシュ様に反逆した者達の公開処刑が行われます――』
運命の時間。
奇跡の体現者である黒い怪人の復活。千人の中の千人が、万人の中の万人が憎悪する『魔王』を討って『英雄』が誕生する――ゼロレクイエム。
その締めくくりまでとうとう一時間を切った。『英雄』となる彼からはその役割を為す冷徹さが満ちている。
そんなライの姿を見て、アルトの歯が砕けんばかりに軋み合う。
――なんで、なんでそんな顔が出来るんですか……!!
吼えた。激怒に染まった真っ赤な叫びだ。アルトにとって生まれて初めて抱いた身を焦がさんばかりの咆哮だった。この時のライの心境を記憶を有するアルトは痛いほど解る、解ってしまう。
――殺したくないはずでしょ……!?
『魔王』――ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを殺す。彼と父の関係は共犯者、主従、パートナー、友達。それらの表現を一つに纏め、筆舌にし難いほど強く固く結びついている。そんな『魔王』を、情の怪物といえる父が出来るはずがない。
――『大御母様』と『叔母様』のこともあったのに……!!
大切な二人を壊したあの悲劇、そこで受けた心の喪失は父にとって一生消えることのないトラウマとなっている。それに匹敵する傷をこれから作ろうとしている……。
――やらなきゃいいんですよ……。
――友達なんでしょ?大切なんでしょ?もう失いたくないんでしょ?
――苦しみたくないなら殺さなければいいんです。
父の心境を知る身として思わざるを得ない。だが、もう手遅れだ。人を、国を、世界を徹底的に破壊し尽してここまで来てしまった。もう後戻りできる道などとうにない。そんなことは解っている。解っているのだ。
――あの時、はっきりと嫌だと言っておけば……。
先帝シャルルが行おうとした『ラグナレクの接続』。それを阻止した黄昏の間でゼロレクイエムを行うと誓ったルルーシュに父は騎士として誘われ……無二を言わずその手をとった。
友がまだ戦うと言っている。ならば自分だけ戦わないわけにはいかないだろう。こんな自分を、彼にとって友と言ってくれるならなおさらに。
――その先に幸福がないというのに。
二人は『ラグナレクの接続』の崩壊の際、こことは違う次元、『
ライが存在せず、ルルーシュが枢木スザクと共にゼロレクイエムを行う世界。
ルルーシュの妹、ナナリーがギアスの力を有して友達である一人の少女と共に歩んでいく世界。
シャルルがシュナイゼルに暗殺され、不老不死を得ようとする彼をルルーシュとスザクが止めようとした世界。
他にも自分たちの世界とは近いが、限りなく違いが存在する世界を見た。……無論、ゼロレクイエムが失敗する世界、ルルーシュが死んだ後再び戦争が行われる世界も。
そうならないよう平行世界で崩壊の火種となった者たちを徹底的に潰した。利用価値のある者はコントロール下に置いた。あの扇要を総理大臣の要職につけたのも国民の不満が高まったとき、処罰して不満を収める。そのために用意された贄だ。
ルルーシュが死んでもライの手腕なら少なくとも五十年は世界平和を続けられる。
完璧だ。完璧に整えられた世界平和への道だ。
しかし、
――そこに父さんの幸福はない。
黄昏の間でゼロレクイエムを行う決意をした時点で、もうあの学園には戻ることはできない。あの優しい友人たちとは、ライとして会うことは出来なくなってしまった。
夢の中の父が動く。
携帯型電子端末を手に取り、かつてルルーシュから渡されたマイクロチップを挿入。液晶画面を触れ、チップの中身を開封する。
そこには皇歴2017年から2018年の“ゼロ”の活動内容。更には作戦を行った場所、使用した物資、時間、人員などが綿密に記録されている。これから“ゼロ”を演じていく上で自身の所業を知っていなければ当然ならない。
それだけでなく、
――なんて恐ろしい人……いえ、まさしく『魔王』。
ライの記憶を持っているが故に、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの才能は知っているがここまでいくと本当に人間を超越した存在ではないのかとアルトは戦慄した。
ゼロの活動記録の他にあったのは、二十年後までの世界動向のシミュレーション記録だった。何百、何千通りも優に超える観測記録はこの記録通りに行動すれば誰でも世界のリーダーとして振舞うことが可能なほどに完璧だった。
何故、彼がこんな“攻略データ”をライに託したのか。
友の才覚に不安を感じたのか、それともただのお節介か……。
ライは画面に表示された観測記録を無視して画面を下へスクロールする。高速で流れていく画面が止まり、一番最後のデータに辿り着く。
それは写真ファイルだった。そのアイコンにタッチしようとした指を一瞬止めるが、意を決したように力強くアイコンに触れ画面一杯に写真が映し出される。
――ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアッッッ!!!
その写真を見て、アルトはライへの怒りなど凌駕する怒りとあらん限りの憎悪を込めて『魔王』の名を叫んだ。
写っているのはアッシュフォード学園の生徒会メンバーたちだ。
ルルーシュやカレン、スザク、ナナリー、ミレイ、リヴァル、シャーリー、ニーナ……そしてライ。恐らくメンバー全員が揃って写るのはこの一枚だけだ。
シャルル皇帝の記憶操作のギアスや機密情報局によって、2017年の記録は全て改竄、または破棄されてしまっている。なのに何故こんな物をあの魔王は持っていたのか。機密情報局を無力化した際に得たのか……いや、そんなことは今はどうでもいい。こんな、こんな黄金のような思い出を今、ライに見せたら……。
――駄目っ……!
制止の声を叫んでも意味はない。
ライは、写真を画面から消すと、端末からマイクロチップを抜き取り、口に入れた。右の奥歯に挟み、力を込めて、一瞬で噛み砕いた。歯が痛みそうなものの、ライはマイクロチップ一つを完全に砕き、呑むところまでを完遂させた。
――ああ、ああああ…………。
アルトの口から悲嘆が零れるように漏れる。
捨ててしまった。夢も幸福も思い出も全て捨て去ってしまったことが理解できてしまった。
ライを
『俺を――殺せ』
彼からの勅命がライの脳内でリフレインする。
友を、ルルーシュを殺す。躊躇いはこの地下で別れた際に零した涙と共に消え去った。
血と肉と何かで出来ていた心が、打ち上げられ、鍛え上げられ。漆黒の鋼へと変容していく。
固く。硬く。堅く。
強く。靭く。剛く。
揺れ動かない、鉄の塊。
『魔王』を討ち取る『英雄』――ゼロがここに完成した。
全身を漆黒の衣装で身を包み、漆黒の仮面と外套で更に包み込む。
地上へと向かう足取りに迷いは……なかった。
「駄目です!行かないで!」
アルトは思わず叫び、遠ざかる父親に手を伸ばす。
その手が不意に温かい感触を握り、はっとしてアルトは目覚めた。
――◆◆◆◆◆――
右手に掴む温かく柔らかい感触にアルトは飛び起きていた。
荒い息のまま右手を見れば、自分の手は、白く細い女の手を握っていた。
「…………」
視線を動かして女性の顔を見る。
桃色の髪を持った妙齢の女性、レリィ・アイングラムだ。
彼女は床に両膝をついて、心配そうな顔をアルトに向けていた。
「大丈夫?酷く、うなされていたわよ」
「……すみません」
そう言おうとして、アルトは声が出ないことに気付いた。喉が渇き切っている。最後に水を飲んだのは、確か自分が目覚めた遺跡から出発した時だ。そしてまだ自我が幼子状態でクッキーなどお菓子をたらふく食べて、今現在シャツが重く感じるほどの汗をかくことになった親子闘争を行った。渇き切っても不思議ではない。
「……あ、まずはお水ね」
アルトはコクコクと頷く。
レリィは、アルトの手からするりと離れると立ち上がった。行く手を見れば、廊下とアルトがいる部屋を仕切る黒い鉄格子があった。開き切った扉のすぐそばの床にサンドイッチやスープといった食事を載せたトレイがある。
そこでアルトは自分がどこにいるのか把握した。
ここは学園の敷地内にある地下牢だ。
今朝、自分がルクスを発見し、その壁を破壊した場所。その証拠にアルトがいる牢屋の反対側には、自身が両手で曲げた鉄格子があり、自身が《ヴィンセント》で破壊した壁の外から夜の帳が丸見えだ。
半日眠ってしまったか、と血が乾いたことで固まった髪を弄る。
借りた制服も汗で重くぐしゃぐしゃで今すぐにも風呂に飛び込みたい気分だ。
レリィは持ってきたトレイの上の水差しから、グラスに水を注ぎ、どうぞと差し出す。
アルトの渇いた喉がグラスの中身に思わず鳴る。それを受け取り、行儀が悪いと思いながらも一気に飲み干す。喉がゴクリ、ゴクリと耳に気持ち良く鳴る。キンキンに冷えた水は本当にありがたかった。思わず涙が出そうなほどに。犯罪的に美味しく、体へと染み込んできた。
「ま、行儀の悪い」
グラスを空にしたところで、レリィが苦笑する。
分かっていたことだが、改めて言われると恥ずかしい。すると、レリィが手を出したので空のグラスを渡すと何も言わず再び水を注いでくれた。
再び一気に飲み干すと、アルトは深く息を吐いた。そこでまたも行儀の悪さに口を覆うとレリィは気持ちのいい飲みっぷりね、と笑顔で空のグラスを受け取った。
冷水のお蔭か、ようやく身体が覚めた気がする。そして、今、自分がどうなっているのか確認するため、立ち上がって体を軽く動かしていく。
自分が気を失うまでの記憶もあるし、ライの記憶もある。ワイアードギアスの存在と発動、幻獣神化にも問題はない。《ザ・ゼロ》も消えずにあるが、紋章を浮かべる程度で無効化できるほどには回復していないのが感覚でわかる。
そこで凝った首を解そうと軽く回したところ、硬質の冷たい感触があった。それに触れると首に金属で出来た首輪が掛かっている。
「あ、それにあまり触れない方がいいわよ。『縛輪』って言うらしいわ」
「ああ~~、まぁ当然の処置ですよね」
自分の都合で父親に喧嘩を売って
アルトは『縛輪』を撫でた。
この『縛輪』は父が眠っていたギアス遺跡から発掘した代物だ。無理に外そうとしたり、ポインターを四つセットして、恐らくこの牢屋の四隅に、その四方の範囲から出ようとすれば強力な電熱が流れる仕組みだ。
命令に逆らった相手を、電熱で死に至らしめる『楔』という物もあるらしいが古文書で確認しただけで父も実物を目にしたことはない。
――となると、父さんは私より先に目が覚めたということですね。きっとまだ気絶している私を身動きできないようにしようとしましたが、レリィさんに止められてこの『縛輪』と地下牢で妥協したという所でしょうか……。
そんなことを顎に手を当てながら考えていると、
「本当にライの娘なのね……」
「え……?」
レリィの顔を見ると懐かしむようで、過去の光景を自分に重ねていることが一目でわかった。
「ライから聞いたわ。貴女、ライの記憶を持っているのよね」
「ええ、はい。……信じるんですか?娘の話や記憶を持っているなんて話……」
「信じるわよ。貴女は私とライが
「……もしかしたらってことは考えないのですか?」
「ええ」
レリィは笑顔で即答した。
それだけ彼女は父のことを信頼しているのが伝わってきた。
「初めて会った時から、帝都から突然去ったこと以外、彼は私の信頼に応えてくれて、それを裏切ったことはないわ」
そもそもライの記憶から分かっているでしょう、とレリィの信頼に満ちた笑顔に父の記憶がフラッシュバックする。レリィからの依頼や頼み事を成した後の感謝された時の光景を思い出すとアルトの胸に不思議な熱が湧き上がる。熱は炎のように猛るものではなく、日向のような心地よさ温かさだ。
――愛や恋……ではないですね。
アルトは熱が灯る胸に思わず手を当てながらも、身に宿る熱を分析していた。これは自分のものではなく、父の記憶に引っ張られた結果だと。
父にとって情は切っても切り離せないものだ。それこそ、あの情深き父に情を封殺させた、情のままに世界を変えようとしたあの魔王と同等に。
そんな父は愛と恋を経験したことがある。
愛は家族に。恋はあの戦友の少女に。
その記憶の中の二つと今宿る熱を比べるが両方とも当てはまらない。
レリィ・アイングラムは
ならば、この熱は――
「……ああ、なるほど」
父の記憶を漁ればすぐに解った。
レリィ・アイングラムには笑顔がよく似合う。哀しみや悲嘆といった表情は似合わない。
そう父は思っているのだ。だからこそ、彼女の笑顔にこんなにも熱を――安心感と満足感を覚えるのだ。……あの生徒会長のように。
――けど、無茶をしてレリィさんを心配させてしまいますから、本当に父さんは不器用ですよね。
これまで父が無茶をしてレリィを何度も心配させて、怒られて最悪泣かれたことも思い出したアルトは胸の熱を吐き出すように一息つく。
「覚えているかしら。私とライが初めて言葉を交わしたのが――」
「――牢屋でしたね。レリィさんたちを襲った軍人崩れの盗賊をボコボコにしましたが、熱で倒れて所持していた宝石で泥棒と勘違いされてぶち込まれました」
「すぐに誤解は解けたわ。宝石は私たちのじゃないって目録で確認したし、全てに施された加工技術、素手じゃ到底無理だと私の目からも鑑定できたわ」
レリィはそう言った後、頭を下げた。
「あの時はごめんなさい。父も盗賊に襲われた直後だったから……」
「いいんですよ。レリィさんとフィルフィさんは命の恩人として最初から信じてくれたじゃないですか。それに高熱の父さんに医者を派遣してくれました。もしそのまま熱が悪化して死んでいたら、私も目覚めてませんし、
――ただの過労とストレスでしたし、父さんが『あちらの世界』のことを放置したまま死ぬなんて到底思えませんけど……。
「こっそりと牢屋に眠る彼を覗いた時があるのだけど、うなされてたわ。とっても苦しそうに。その姿とさっきまでうなされてた貴女……本当にそっくりだったわよ」
「……まさかそれで私が娘だと?」
「それとこれまでの仕草ね。水を飲む姿勢や顎に手を当てる姿とか、ほんの短い間だけど貴女からライの面影がはっきりと伝わってくるのよ。そっくりな容姿に加えて些細な動作からライの面影が重なっちゃえばライの子供って納得するしかないわよ」
「そう言うものですか……」
アルトは別に父の動きを意識して出していない。ただ、記憶と感覚に引っ張られて無意識に動いてしまっているだけだ。
先の父との
そんなことを考えているとアルトの腹からグウゥ~とアルトの腹が鳴った。
腹の中、空腹のイメージが急速に現れた。情けない、と片腹を押さえるも、先程飲んだ冷水のせいでよりイメージが強烈となってアルトの腹を攻め立てる。
再び腹の虫が鳴る。それもより大きな音で。
情けなさに加えて羞恥から顔を俯けると、レリィが微笑を浮かべて牢屋の外に置いてあった料理が置いてあるトレイをアルトの方へと優しく差し出す。
なんの変哲もない、トマトサンドやハムサンドなどのサンドイッチとジャガイモと人参、玉ねぎが浮かんだスープといった夕食というよりは夜食に近いメニューが並べられていた。
「これぐらいで足りるかしらね……」
レリィが申し訳なさそうに言うも束の間に、アルトは手を合わせて料理へと飛び掛かった。水を飲んだ際に行儀の悪さについて脳裏に浮かべたが、今のアルトにそんなものは吹き飛んでしまっていた。ただ、空腹に押されるまま派手な音を立てて料理を胃へと放り込んでいく。
「どう?味の方は?」
アルトは口にサンドイッチを頬張りながらコクコクと頷く。
素朴だがどこか懐かしさを感じさせる味だ。
「そのサンドイッチ、作ったのライなのよ」
思わず喉を通っていたサンドイッチを噴き出しそうになった。
流石にリバースは不味いと思い、水で胃袋へ流し込む。
何とか落ち着き、クスクスと笑顔を浮かべるレリィを睨む。
「……また父さんに夜食を作らせましたね、レリィさん」
「学園長室前であんな騒ぎを起こしたんだから、減給と壁や床の修理ついでにね。味はそこそこだけど、頑張って料理しているライの姿がとっても可愛くて」
笑顔にほんの少し嗜虐的な色を見せるレリィに、料理を作らされるライの苦労を記憶で理解してしまうアルトはため息をついた。
「……あんまりハードルの高いメニューは勘弁してあげて下さい。父さん、料理は出来るといえば出来ますけどレパートリーも少ないですし、雑系で大量生産型が基本ですから」
「けど、無理と言わず必死に作ろうとするのがいいのよ」
レリィはふぅ、と満足気な吐息を漏らした。
きっと彼女の脳裏には料理本片手に内心ひーひー言いながら若干ハードル高めの料理を作らされているライの姿が浮かんでいるはずだ。そして、そんな難題をこれからも続けるつもりと理解できた。
「ライってお任せで頼むとサンドイッチを作ってくるけど得意料理なの?」
「得意といえば得意ですけど好物とかではないですね。……適してるからです」
「適してる?」
「片手でペンや本、手綱、そして剣を握ったまま食べられるからです」
「合理的ねぇ……」
「あっ、ならこのサンドイッチ、レリィさんの……?」
気付けばトレイの上のスープは飲み干され、サンドイッチはもう一口くらいの大きさくらいしか残っていない。
「いいの、いいの。そもそも貴女の為に用意したものだから」
「え?」
「貴女に持っていくって正直に言ったらライは作りそうもなかったし、だから私の夜食ってことで作らせたわ」
だから気にしないで、と言うレリィにアルトは頭を下げた。
そして、もう一口サイズとなったサンドイッチを口に放り込む。
ライが、父親が作ったという事実を加えた料理は先程抱いた懐かしさから変わって、一言で言い表せない不思議な味になっていた。
「ごちそうさまでした」
そのまま味の正体も解らぬまま完食し、手を合わせる。
正直、満腹にはまど遠いが自分の今の状況でそれを口にするには厚かまし過ぎる。
レリィはトレイを牢屋の外に片付けると、椅子を持ってきてアルトを見下ろすように座った。
「さて、お腹も膨れたようだし――そろそろ質問に入ってもいいかしら」
レリィからこれまでの柔らかい雰囲気が消え去った。
その表情と視線は断りを許さぬ迫力と如何なる嘘も見逃さない鋭さを以ってアルトを射抜く。
王国有数の大財閥の長女、商人特有の人の腹の底を覗こうとする顔つきだ。
アルトはライの記憶を持っている故にレリィの変貌に驚愕はない。寧ろ、見下ろすレリィに対し、制服の皺を手で直し、正座の姿勢を正して顔を上げて向き合う。
父は彼女には笑みが似合うと思っていたが、この表情も嫌いではなかった。
――父さん、できる人間嫌いじゃないですしね。
「構いませんよ。ならば、父さんも呼んだ方がいいんじゃないでしょうか?今日は色々あったのでもう休んでいると思いますが、レリィさんが後で伝えるにしても、そっちの方が手間がかかりますよ」
「ライを呼んだら貴女が挑発をする可能性があるわ。ライ自身も今は挑発されて抑えられる自信がないって」
「挑発……ええ、しますね。『縛輪』で黙らせられようが私は父さんを煽ります。そうなったら私を嫌悪する父さんと争いになって、学園長室の二の舞で話が進みませんね」
アルトはその光景を脳裏に浮かべてくすくすと笑う。
「それじゃ最初の質問をするわ」
一息。
「貴女はどうしてライをそう挑発するの?――憎んでも、嫌っているわけでもないのに」
――◆◆◆◆◆――
レリィはアルトが何故そうライを挑発しようとするのか尋ねた。
本来なら他に優先すべき質問があるのだろうが、どうしてもそっちの疑問が気になってしまったのだ。それに彼女は学園長室で言っていたではないか。
ライの知っていることは知っていて、知らないことは知らないと言った具合、と。
一先ずはその言葉を信じるとして、最初に出会った際の精神幼児状態についてもアルトより数時間前に目覚めたライからほとんど考察に近い説明を受けている。
ライの記憶をコピーする前に下地となる人格が用意されていたのだろう、と。
その用意された人格があの無垢な幼児のような性格、と。
その人格とライの記憶が名を付けたことで何等かの反応を起こし、『アルト・ランペルージ』として覚醒した、と。
そう説明するライの顔は苦虫を数百匹噛み潰した表情を浮かべていた。アルトを含めて、そう考察できる過去の情報に本当に忌々しさと嫌悪がありありと見えていた。
だから、レリィは目の前の少女、アルト・ランペルージについて学園長室での突然の覚醒からこの牢屋での僅かな会話で感じた違和感を口にした。
――この子はライをなぜそう挑発するのか?
この少女とライの話題をさりげなくしてみたが、彼女からはライへの怒りや憎しみ、侮蔑といった負の感情というものは見当たらない。商人と学園長という人の内面をよく見てきた自分には解る。
ならば何故彼女はライに挑発するような真似をする?
レリィの質問にアルトは目を点にしたが、すぐに困ったような苦笑を浮かべた。
「……怒っても憎んでもいないってどうしてそんなこと言えるんです?私は父さんの記憶を持っているんですよ。レリィさんも知らない、これまで行った悪鬼の所業についても知っています。そんな父さんを侮蔑して神経を逆なでしてもおかしくないでしょう?」
「――いいえ、貴女はライを憎んでも侮蔑もしてないわ。それとは別の何かを抱いているのを感じるわ。ほんの短い間だけど、それだけは解るのよ」
「……なぜそう言えるんです?」
「ライに似ているからよ」
レリィはアルトを見て思う。
――この子は本当にライに似ているわ……。
外見だけではなく内面すらもと確信している。
だから、あの激情家のライの分身のような存在が、もし憎悪などを抱いていれば、朝の戦いはあんなもので済むはずがなく、こうして穏やかに大人しくしているはずがない。
そう言うと、アルトは再び困ったような苦笑を浮かべた。
「……参りましたね。どうも娘の私もレリィさんを相手にするのは不利なようです」
アルトは観念したように一息入れてポツリと呟く。
「私は、父さんに恨まれたいんです」
《アルトの夢・要約》
「なんで敢えて不幸な道選んでるですか父さん!人一倍皆といるのが好きなくせに!それを解っててあの体力無し皇帝!あっ、父さん!ちょっと、こっち向いて、行っちゃダメっ!ねぇ、ちょっとぉっ!」