Tales of Vederia ~偽りの絆を越える物語~ 作:歩凛
海、そして人を暖かく照らしていた陽は沈み、やがて深い漆黒が楽園と謳われるこの島『ペランディア』全体を覆い始めた。海は波一つ立てず張り詰めたように鎮まり返り、街の喧騒は徐々に闇へと溶けていく。
一太刀の裏切りと緋色から始まった絶望。
この赤を包み込むように映える黒。混ざり合うことのないそれを、決して忘れはしない。
【Tales of Vederia】
己の影を作り出す月明かりに異変を感じた少女は、その時日課となりつつある幼なじみとの廃坑探検の帰り道だった。見上げた空には鏡のように澄んだ、心を奪われる美しさは微塵もない。代わりに存在を示すのは、巨大な異形。
雪のように淡い白を基調とし、いかにも女性が好みそうな甘いピンクのフリルをふんだんに使用したワンピース。ふわふわと雲のようにウェーブがかった、艶やかな光を孕んだ桃色の長髪。頭頂部は軽く編み込まれており、それを留める可愛いらしい花の髪飾りも、何もかもが紅く照らされている。
底から湧き上がってくる形容しがたい恐怖に瞳を揺らしながら、少女は血のように妖しげな光を放つ月を、食い入るように焼きつけていた。
「おいミア……何してんだ。今日はいつもより遅くなっちまったから、急がねぇと怒られんぞ」
足を止めた幼なじみであるミアリシュレ・ベルクールに、先を進んでいた少年が焦りを含んだ声音で急かす。若干の苛立ちからか、異様な空には目もくれていない。
「メオン、見て。今日の月……」
「はぁ? 月なんて今どうでもいいだろ。別にあぁなることくらい、珍しくもねぇしよ」
「そう、だったかしら……それはいつ? どんな時に? どうしてあんなことになるわけ?」
ミアリシュレが迫ると、言及されるとは予想していなかったメオンは、しどろもどろになりながら引き剥がした。その顔は火照ったようにほんのりと赤いが、暗闇と興奮でミアリシュレが気がつくことはない。
「え〜っと……その、あれだ。かなり前でもう忘れちまった……気がする」
「へ〜え?」
あまりにもわかりやすすぎた。好奇心を隠しきれない少女の羨望の眼差しを落胆に塗り変える。一瞬の内に変わった空気にメオンは内心冷や汗を流しつつなんとか誤魔化し、急いで帰路へとつかせた。また明日、そう約束をして。
ペランディア随一の広壮さを誇り、どこか風格漂う邸宅。統治者たるベルクール家の住まいであり、島の秩序と安寧を守る自警組織『
「あぁ、良かった……お帰りが遅いので心配しておりました」
怪我がないかを入念に確かめ胸を撫で下ろしたのは、端整な顔つきと、親しみを覚える紅玉のような大きいたれ目が印象的な女性。優秀なベルクールの使用人達の中でも一際質の高い仕事をこなし彼らを纏めあげる傍ら、ミアリシュレの教育係をも受け持つ。綺麗に伸ばしたライムグリーンの長髪は、やはり例外なく紅い輝きを反射していた。
「またメオンですね? こんな時間までお嬢様を連れ回すとは……。申し訳ございません、あの子にはよく言って聞かせます」
困ったように笑う女性は島の孤児院を頻繁に手伝っており、身寄りがなく孤児院に住むメオンは非常に良く懐いていた。メオンのみならず、彼女は島の誰に対しても平等であり常に慈愛の心を忘れない。仕事面だけではなく、人格も含めた上で高く評価されているのだ。
「待って、トリータ。メオンだけじゃないの」
「……と、言いますと?」
「引き止めちゃったの。月、初めて見たから」
使用人トリータ・フォン・エッケンシュタインは釣られて空を見上げ、あぁと納得したように零す。
「確かに物珍しい現象ではございますね」
「そうでしょ、でもメオンったら酷いの。あんなもの珍しくもなんともないなんて言うのよ。夢がないったら」
眉を釣り上げるミアリシュレに、トリータは小首を傾げる。
「メオンが? その言い分ですと、まるで過去に見たかのような……しかし、それはまたおかしな話ですね。あの子より幾年も早く生を受けたわたくしですら、目にするのはこれが初めてだと言うのに」
いたずら好きのメオンは普段から意地悪な冗談を言っては、からからと笑い声を上げていた。そしてプライドが許さないミアリシュレがそれに憤慨。二人の間では日常茶飯事である。
ミアリシュレは今回もその類であると静かに察した。堪えようとする程身体はわなわなと震え、連動するように眉がどんどん釣り上がっていく。
「また……! やられたわぁっ!」
「あの子は見栄っ張りですから、恐らくいい格好を見せたかったのでしょう……お嬢様には、特に」
表情の変化が面白かったのか、トリータがくすくすと控えめに笑う。だがミアリシュレはトリータがさり気なく呟いた一言が気になって仕方がない。
「私には? ……どういうことよ」
「まぁ、これはこれは……。お喋りが過ぎましたね、ここから先はメオンとの誓いがございますので」
口元に人差し指を当ておどける姿と、無邪気さを含んだ笑みはどこかメオンを連想させる。結ばれた絆故に自然とお互いに似たのかもしれない。心に絡みつくこの感情が嫉妬であるとミアリシュレが気がつくのは、まだ先の話のようだ。
「ちょっと、私だけ仲間外れなわけ? 納得いかない、私も混ぜなさいよ!」
「あらまぁ、なんてこと。……レディたるもの常に余裕を保っておりませんと」
大袈裟に嘆くトリータに、ぐっと言葉を詰まらせる。ミアリシュレは齢十四でありながら年相応に見られることを嫌い、常に大人同様の扱いを望んでいた。常日頃傍に仕えるトリータはそこを突き、一瞬の内に撃沈させて屋敷へと手を引いたのであった。
月は、ただ静かに見守っていた。
──────
受け身を取る間もなく、吹き飛ばされた青年は広がる血溜まりの中へと身体を打ちつけ無様に転がった。幾度も斬られあちこち破れた漆黒のスーツに、髪と瞳とよく似た美しい空色のネクタイ。その下から顔を覗かせるベストには身の毛もよだつようなおびただしい量の鮮血がこびりついており、シャツに至っては元の色がほとんどわからない。
同じように転がる死体はどれも片目がくり抜かれており、ぽっかりと空いた
瞳のない死体、島中を残酷に彩る血の華、泣き叫ぶ声、目前に迫る刃。全てが昨日のことのように蘇る。正に悪夢の再来だった。心臓が忙しなく鼓動する。一筋の光も見えない谷底に突き落とされたかのような深い絶望からは、青年──ジュストは逃れる術を知らなかった。唯一光を移すこの左目ですらも闇で覆われてしまえばいいのにと、愚かな望みを抱いてしまう。
雨音に紛れつつも確かに聞こえる足音。物思いに耽っている余裕はない。疲労困憊の身体に鞭打ち、ジュストは錆びたロボットのようにぎこちなく立ち上がった。刹那、心臓目掛けて突き出された剣がジュストを襲う。力の入らない右手で刀を操りなんとか受け流すと、すかさず後方へと飛び退き距離を取る。
「……っ、なんでこんな……」
答えが返ってくることはないと理解していても、やはり問わずにはいられなかった。ジュストと対峙する剣士。彼もまた、ジュストと同じくこの離島ペランディアの安寧と秩序を保ってきた自警組織、
突然人が変わったかのように豹変し、住民や仲間達を無差別に襲い始めたのである。背筋の凍るような冷たさを宿す銀と焦げ茶の瞳、声音には、どれも強い殺意が込められていた。そしてその殺意は、深い傷となってジュストの身体に
男が再び動き出し、ジュストは心の底で密かに燻っていた迷いを即座に切り捨てた。かと思えば、ふぅ、と一呼吸を入れて刀を鞘に納めてしまった。迫り来る男からは一瞬たりとも目を離さず、待つ。ただその時を静かに。
「──
たった一振り。刀は既に鞘の中。しかしタイミングが速すぎたのか、男にはあと一歩届かない。何も無い空間を虚しく斬っていた。だが、突如虚無から無数の斬撃が生み出され、突進してきた男の身体を深く抉る。男は速度こそ僅かに落ちたものの、止まりはしない。
「
ジュストは再びの抜刀と共に華麗に翻し、男を上空に打ち上げた。ここでようやく僅かな隙が出来る。
男を追うように跳躍し、地面に叩きつける勢いで刀を振り下ろした。鮮血が地面を濡らし、肉を斬り裂く感覚が刀を通して嫌でも伝わる。今度は男が地を転がる番となった。
しかし、致命傷を負わせたはずの男は奇妙な動きで立ち上がり、両の脚で不安定ながらも血の広がる大地を再び踏みしめていた。
(殺す気で斬ったのに……!)
男は白目を剥いていて、恐らく意識はない。まるで第三者に無理やり身体を動かされているかのようにさえ見えた。ふらふらと安定しない速度と動きが読みづらく、なかなか得意とする間合いを維持することが出来ない。しばらく攻防が続いたが、埒が明かないと判断した。ジュストは更に神経を研ぎ澄ませ、同時に男の身体のある部分に意識を集中させる。
腕を斬られながらも、捉えたのは心の臓。持てる力全てで刀を更に押し込む。今度こそ命を終わらせるつもりで。吐き出された男の血がジュストの肩を冷たく濡らす。剣が手から抜け落ち、力を失った身体は重力に従ってゆっくりと倒れた。瞳から光が消え失せていく。灯火は、もうまもなく闇と同化する。
(あの左目、やけに輝いて……)
男を看取る中、不自然な程に眩い光を放つ男の瞳に眉をしかめる。銀色の瞳は、自ら宿主を選びその瞳に宿る不思議な生命体、
瞳の輝きが一層強くなると同時に、男の身体が激しく痙攣し始めていた。やがて信じ難いことに、心臓を刺された男は震えながらもゆっくりとその身を起こしたのだ。そして瀕死とは思えない速さで剣を──ダーツの如く投げた。
(まだ、生きて……)
ジュストの脳は、身体への命令を下せていない。剣はもう目前まで迫っていた。
「眠れ、赦せとは言わん」
静かな声と共に撃ち出された銃弾は剣を弾き、その同じ軌道を縫って二発目が男の左目を貫いた。止まない雨が男に血の涙をとめどなく流させる。男の身体は暫し硬直した後、再び仰向けに倒れた。
「……ボス」
「無事か」
顔の右側を隠すように伸ばされた、柔らかい金糸の髪が月のように映える。ペランディアを統治するベルクール家当主、ダナド・ベルクール。部下であると同時に家族でもある男を撃ったのは、彼だった。
まさかこの場に現れるとは、ジュストは微塵にも想像していなかった。驚きつつ人形のようにぎこちなく頷く。ゆっくりと男の元へ歩み寄り、男の身体が完全に沈黙したことを確認したダナドは、その場に跪き、己の桃色の眼に男の瞳を映す。
「お前に、一体何があった」
問いかけるダナドの声は、いつにも増して低く、重たく響いた。対する答えが聞こえてくることはもう、ない。男の瞳からは生命のエネルギーである
「これは……」
「聖瞳霊に“喰われた”のだろう。いや、喰われかけと言ったところか」
“喰う”、即ち聖瞳霊が宿主である男の心に巣食う黒く醜いものを認めたということ。ジュストは息を呑む──言い伝え通りなら、魔物化の一歩手前。話も通じず正気とは思えない男の様子にも、それなら納得がいく。間近に見るのは初めてだった。やがて男は聖瞳霊の光を完全に失う。
ダナドは立ち上がり、夜空の向こうを睨んだ。
「……あの日と同じ嫌な月だ。信じたくはないが、再び始まったのかもしれん。お前は“あいつ”の元へ行け。屋敷からそう遠くは離れていない筈」