Tales of Vederia ~偽りの絆を越える物語~ 作:歩凛
ダナドと別れたジュストの脚は、一心不乱に屋敷への道を駆けていた。近づくにつれ、胸の奥で鈍く脈打つ不穏な予感が、次第に形を持ちはじめていた。
ペランディアの象徴とも言える広壮な邸宅、ベルクール家の居城。その門前には、普段ならば整然と立ち並ぶ
だが──そこに人の気配はない。草木の揺れる音すら、耳に届かない。沈黙は、あまりにも異様で。
門が、開きっぱなしだ。
更に速度を上げた。ざわつく胸を宥める余裕もなく、焦燥だけを頼りに中へと飛び込む。視界に映ったのは、紅。そこかしこに滴る、べったりとこびりついた血の跡。
どうやら犠牲になったのは、戦う力を持たない使用人だけではないらしい。日々鍛錬を重ねた腕の立つ瞳の番人までもが、適わなかった。
その身体には、目を背けたくなるような裂傷が走っていた。まるで何かに切り裂かれたような、鋭く乱雑な痕。顔を横たえたその眼窩は、ぽっかりと空いていた。
──狙われたのは、“瞳”。
瞬間、肌が総毛立つ。血が凍るような感覚が背筋を貫いた。見知った顔が、次々と崩れていく。みな同じように、片目を抉られ、冷たく転がっている。
この惨状は、ジュストにとって初めてのことではなかった。もう数年の月日が経っているというのに、脳裏には鮮明にあの日の景色が蘇る。
「まさか、そんな……また……」
我に返ると、自らが忠誠を誓う少女ミアリシュレの部屋へ急ぐ。この時ほど、屋敷の広大さを恨むことはないだろう。長い廊下、階段の一段ですらも煩わしい。
「お嬢!!」
勢いよく扉を開く。だがそこに
ミアリシュレの死体はない。幸か不幸か、窓から逃げ果せたのだろうか。そう信じたい──信じるしかない。
静寂に満ちた邸宅は、もはや死の匂いしかしない。これほどまでに広かったこの屋敷が、いまは棺のように閉ざされ、ジュストをひとり飲み込もうとしていた。
────
どうして、こんなことに──ミアリシュレは幾度となく考えたが、ただただわからなかった。せっかく見栄えの良いお気に入りの服は、もう誰のものかわからない血で余分な模様が描かれている。
そして、突如として襲い掛かってきた家族。恐怖を思い出しては視界が滲んだ。
始まりは唐突だった。自室にてくつろいでいる最中、突如使用人達が血相を変えて押し寄せて来た。皆口々に叫ぶのは「逃げろ」。何とも穏やかでない声。状況を理解出来ず眉を顰ひそめるミアリシュレの前で、使用人の一人が胴体に大穴を開けて死んだ。
命を刈り取ったのは、忠実な島の守り人である瞳の番人の見廻りの者達だった。一人、また一人。自身を庇うように立ちはだかり、使用人達が次々と凶刃に倒れていった。その顔に恐怖と驚愕を顕にしたまま。あの一瞬で何度夢であって欲しいと願っただろうか。
ミアリシュレが愛した家族の裏切り。信じたくはないが、脳裏にこびりついた屋敷の惨状は現実から目を逸らすことを許さなかった。酷く鼻をさすような鉄の臭いも、まだ記憶に新しい。
(パパ……ジュスト……)
父は、従者の彼は、無事でいるだろうか。まだ会えていない二人の顔と、過ごしたかけがえのない日常を思い出してはまた静かに涙した。
「お嬢様」
どこか緊張を孕んだ可憐な声が、少女を我に返らせた。倒れゆく使用人の血に濡れながら呆然としていたところを、屋敷から連れ出してくれた側近──トリータのものだ。ルビーのような丸い紅玉の瞳が、ミアリシュレを心配そうに見つめている。どうにか気丈に振る舞おうと、ミアリシュレは乱暴に目を擦った。
「な、なに?」
「……胸中お察し致します。怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません」
髪色と同じく透き通る薄緑のドレスはミアリシュレを庇う度に大きく裂け、目を背けたくなる程に色が変わってしまっている。自身も心身共に疲弊しているというのに、気を遣わせてしまった。トリータのなんと気丈なことだろう。
せめて治癒術が扱えれば──ミアリシュレはこの時程、自身に
「何、言ってるの……私よりあなたが」
その時だった。不意に近くの茂みが揺れ、二人の間に緊張が走る。魔物か、それとも誰かに見つかってしまったのか。
ぴょこんと現れたのは、何とも愛くるしい兎だった。
「? こんなところで何してるの、危ない……」
「っ、なりません!」
ミアリシュレは戸惑いつつ、手を伸ばそうとする。しかしトリータは顔を強ばらせて叫び、ミアリシュレの手を引っ掴んだ。
兎の皮を食い破って現れたのは、かまきりのように鋭利な両腕が特徴的な規格外の大きさを誇る生物。身を纏うオーラと同じく蒼く透き通った身体は、普通の生物ではないことがひと目でわかる。
「これって……!」
「ええ、まさか
自ら宿主を選びその瞳に宿る不思議な生命体、聖瞳霊。ペランディアにはこの聖瞳霊を宿す者が数多く住んでいる為、比較的メジャーな存在であるが、ミアリシュレはこんなにも禍々しい雰囲気の聖瞳霊を目の当たりにするのは初めてだった。圧倒される彼女の前に躍り出たトリータは、迷うことなく魔眸術の詠唱を開始する。
「爆ぜ散れ焔──フレイムドライブ!」
聖瞳霊を包み込むように凝縮された複数の炎が一気に集束し、爆発した。だが致命傷には至らず、不気味に煌めく鋭利な鎌が振り下ろされる。
トリータはミアリシュレを庇いながら
「……っ!」
再び振るわれる冷たき刃。トリータは避け切れず、無慈悲にも柔肌を切り裂かれた。暗闇に散る紅、更に深く染まりゆくトリータのドレスを目の当たりにしたミアリシュレに戦慄が走る。
魔眸術を使用する上で欠かせない
更に彼女達の絶望は続く。聖瞳霊の前に突然一人の男が現れた。姿こそ見覚えのある瞳の番人のそれだが、その眼差しは屋敷でも散々見てきたまるで心を失ったかのように冷ややかなもの。その片方は白銀のように淡く輝いているが、そこに温もりは微塵も感じない。その瞳は間違いなく、体内に聖瞳霊を宿す者の証であった。
男は何も語らずに剣を抜き、聖瞳霊と共に静かにミアリシュレとトリータに詰め寄る。ミアリシュレが思わず意図を問い詰めるも、やはり答えは返ってこなかった。
「聖なる鉄槌──フォトン!」
刹那、眩くも柔い光が爆ぜる。だが、迫る脅威は消えない。少ない燿眸力を絞り出したトリータの渾身の魔眸術を喰らっても尚、平然と迫り来る。彼女は、静かに決断した。
「何!?」
突然身を纏った淡い光に、ミアリシュレは怯んだ。目の前の景色、そしてトリータと聖瞳霊、男が随分と薄く透けて見える。しかし、現実は
「……申し訳ございません。構築するための燿眸力が少ないので、島外への座標の指定は難しいようです」
トリータの足元には術法陣。彼女が何をしようとしているのかは容易に想像出来た。決死の覚悟だろう、だがミアリシュレはそれを認めたくはなかった。
「待って、待ってよ……駄目、こんなのって……!!」
「不甲斐なきわたくしを……どうか、お許しください」
獲物が一人遠のきつつある聖瞳霊は、標的をトリータに絞った。焦ることなく、彼女は冷静にミアリシュレに最後の言葉を紡いでいく。光が一層強く輝いた。
「ミアリシュレ様。貴方様の行く道に、この楽園の加護があらんことを」
「ふざけないでっ!! 嫌よ、トリータ……! トリータァアアアァっ!!」
光と共にミアリシュレを見届けると、まるで待っていたかのように一面かき曇っていた空が決壊し、涙のように零れ落ちた。
勇敢な従者はゆっくりと振り向く。執政者よろしくその首を刈り取らんと、聖瞳霊の鎌と男の剣が迫っていた。もう燿眸力は底を尽いている。恐怖に慄くことも、叫ぶこともしない。その艶やかな唇に花が咲くような微笑みを浮かべ、彼女は全てを受け入れた。
空虚の中に、ぽつりと光が灯った。明滅を繰り返しながら広がっていくそれは、乳白色の霧を湛えたような、朧げな明るさを帯びている。空間の綻びから漏れ出たように、輪郭の曖昧な光がじわり、じわりと膨れあがっていく。
やがてそれは、人ひとりが通れるほどの大きさになった。瞬間、きゅうっと空気が引き絞られるような音と共に、ぴしゃんと何かが弾ける。
「きゃっ……!」
高く、戸惑いを孕んだ少女の悲鳴。その声が響いた直後、霧の中心から桃色の髪がふわりと舞い現れた。
眩しさが弾け、霧がはらりと散っていく。そこに膝をつくようにして現れたのは、ミアリシュレ。
薄い唇をわずかに震わせながら、彼女は困惑に揺れる瞳で辺りを見回していた。
「……ここは……?」
石造りの床に、ほのかに冷たい感触が滲んでいた。高い天井の向こうから、わずかな光が差し込んでいる。染みついた祈りの残滓が、空気に淡く漂っていた。
見慣れた──けれどどこか遠い。ミアリシュレは自分のいる場所が礼拝堂であると気づいた瞬間、心の奥で何かが軋む音を立てた。
──見慣れた? 本当に?
確かに感じた。だが、幼い頃の記憶を引っ張りだそうとしても、どうにもそれは見つかりそうにない。もどかしさから撫でた花びらは、すっかり乾いていた。
礼拝堂には、誰の声も響いていなかった。聖歌の残響も、祈りのさざめきも、今はただ虚ろに凍っている。
ミアリシュレは静かに立ち上がると、冷たい床をそろそろと歩き出した。
高窓から差し込む光に照らされて、埃の粒が舞っている。このような状況でなければ至って普通の光景でしかないが、今はどうにも異様に感じられた。
そのとき──
「……っ……う、ぁ……」
低く、呻くような声が奥から聞こえた。
ミアリシュレははっとして、祭壇の裏手へと足を向ける。胸の奥に広がる、いやな予感を振り払うように。
そして、見つけた。
燃え盛る焔に似た色の、彼の髪は乱れ、背中を丸めてうずくまっている。
肩は不自然なほど大きく膨らみ、呼吸も荒い。何かが、彼の中で崩れ、変わりかけていた。
「……っ、お前……ミ、ア……?」
振り向いたメオンの右目は、なんとも不気味で禍々しい光を放っていた。ミアリシュレは既視感を感じる。そうだ、突然襲いかかってきた瞳の番人と同じだ。しかしメオンには、微かに知性が残っていた。
「メオン……あなたその目……」
ミアリシュレは声を震わせながら、一歩、彼へ近づいた。
だがその瞬間、メオンの足元から──まるで影のように、黒い瘴気がふわりと立ち上った。
「……なに、してん……だよ! なんで……来てんだよぉ……っ!」
顔が苦悶に歪んでいる。悲痛な叫びは、人のものではなくなっていく。ミアリシュレは、立ち尽くすしかなかった。
────
屋敷を飛び出したジュストは、狂ったようにペランディアの大地を駆けていた。命の灯火を吹き消され、濡れた地面に転がる島民達には目もくれずに。
あては無い。思い当たる場所は全て巡った。手がかりを聞こうにも、これまでの道程で生存者には出会えなかった。それでもジュストは少女の名を胸に刻みながら、濁った水溜まりを踏む脚を止めない。
──そして。
曇天の下、人気のない山道を歩く脚が、ふと止まる。小高い丘の中腹に差し掛かったところだった。
片手で数える程度だが、見知った場所だ。昔の名残で遺っただけで何の変哲もない、小さな石造りの礼拝堂。だが今日に限って、視界の端にそれが引っかかる。引き寄せられるように、視線が釘付けになった。
「こんな所で道草食っている場合か……」
己に呆れつつ言い聞かせるように零す。何があるわけでもない筈の礼拝堂に、なぜか胸がざわつく。
気がつけば、重たい扉に手をかけていた。ぎぃ、と音を立ててわずかに開かれた隙間から、古びた香の匂いが鼻をかすめる。
刀の柄に手をかけるわけでもなく、ただ静かに、礼拝堂の中へと慎重に足を踏み入れる。
──そして、その奥。
沈んだ空気の中で、二つの息遣いがあった。