和食屋さんのカレーは美味い、という説がある。
暁はその意見に対して、少々懐疑的な思考の持ち主だった。
確かに、ダシというのは和食の十八番であるし、それ故に和風カレーの旨味というは理解できる。
だがしかし、カレーにだってブイヨンは使われるし、その研鑽を行うのは洋食であっても同様なはずだ。
「ひと味違う」からといって、それが比較して和風カレーの方が旨いというのはおかしいのではないか。
概ね「和食屋さんでカレー」というゲテモノ感と、それを上回るクオリティーのまとまりが、予想を良い意味で裏切っているからそのように感じるんだ――彼はそう考えている。
「あ、うま。美味いわ」
青年は、大事な事を二つ忘れていた。
一つは、カレーは元々インド料理であること。
もう一つは、彼がダシとブイヨンの違いを明確に理解できるほどの舌を持っていないことだ。
「エミルも、遠慮なく食って」
「は、はい。いただきます」
暁の向かいに腰掛けたエミルの手元には、カラッと揚がったカツがあった。
彼らは、新宿にある東京都庁――その地下に構えるオーソドックスなトンカツ屋に訪れていた。
外食としてはそれなりのお値段になかなかの味。気が向いた時に訪れては、暁の胃袋を満たしてくれる店であった。
平日の、それもディナータイムの外れという事もあって、60ほどあるテーブル席はどこもかなり空いている。暁とエミル以外の客は、サラリーマンの少数団体が2つ。
「あ、おいし……ですね」
「だろ?」
西洋よりの見た目とは裏腹に、エミルは綺麗な箸使いで一切れのロースカツを食した。
それに応じる暁は、カレーのトッピングであるチーズインメンチをスプーンで割り、ライスとルーを一緒にして頬張った。
「……あの」
「ん?」
「洋食、好きなんですか……?」
双方が半分ほど食事を片付けた辺りで、エミルがおどおどと縮こまりながら、蚊の鳴くような声で暁に質問を投げかけた。
質問の意図が見えずに暁は少し考え――向かいの少年は、慣れないなりに怯えながらも会話をしたいのだろうと察する。
暁も以前は極度のあがり症であった事と、最近似たような口下手と接していたのが功を奏した。
「ああ、まあ……何て言うかな。和食も嫌いじゃないんだが、どうにもご飯とおかずをバランス良く食うのが面倒で」
「めんどう、ですか……」
「おう。そんなんだから、頭使わずに食えるカレーやパスタばっか食っちまう」
「……個性的、ですね」
「別に『変なヤツ』って言って良いぞ。自覚はある」
「いや、そんな……」
会話が途切れると暁は自然に食べかけの飯に手を着け、エミルもそれに習うように茶碗を持つ。
そのテンポがどうにも無理に暁にあわせているように見え、暁は今度は適当に自分から話を振ることに決めた。
「……確か、高校生って言ってたよな。今いくつ?」
「…………!」
「焦って飲み込まなくて良いぞ」
エミルが必死に口内の物を飲み下そうとするのを制して、慌てさせないためにも暁は再びカレーを一口掬った。
「……じゅう、ろくです」
「そうか。……じゃあ、2年か」
「…………」
エミルは押し黙った。
少年の纏う雰囲気から、暁は「じゃあ青春真っ盛りって感じだな」とデリカシー皆無の発言を回避したが、どうやら気に障ってしまったようだ。
「俺は22だな。んで、大学3年」
「……え?」
「一浪一留。同級生の中には、もう社会に出てるヤツも居るってのになぁ」
なるべく冗談めかした様子で、暁は肩をすくめる。
自分をクズだと軽蔑してくれても良い。「こんな人間よりマシ」と少しでも自信を持ってくれればいいという、少々おざなりなアクションであった。
「そう、ですか……」
「おう。そんなんでも、図々しく生きてる」
「――大変です、よね」
だが、暁の想像と少年の反応は異なった。
控えめな上目遣いで交錯した視線は、思っていた以上に真っ直ぐで――諦観を帯びていた。
「……ん、まぁ、そうだな」
――一回り小さなガキと、傷の舐め合いをする事になるとは――暁は妙な安心感を感じてしまい、それが余計に情けなかった。
「いや、俺の話なんてどうでも良いんだ。俺は大人だから、勝手に自分でどうにでも出来る」
「そう、ですか……?」
ちっぽけなプライドと義務感と、エミルに対する言いようのない庇護欲のような物が、青年に虚勢を張らせる。
「おうよ。それなりにキツい事もあったけど、俺の場合は自業自得だったしな」
言い切って、暁はケラケラと笑った。
本人もマズいと思うくらい、乾いた笑いしか出なかった。
「…………」
エミルは、そんな暁を真っ直ぐに見ながらも、その瞳は僅かに揺れ動いていた。
どうにかしたいが、掛ける言葉が見つからない――アレはそういう表情だと、暁は知っていた。
「メシ、さっさと食っちゃおう。あんまノンビリしてると冷めちまう」
「……はい」
返事をしたエミルが、食事へと目を向けて漬け物へと箸を伸ばす。
また食べる事にエミルが意識を向けたことを確認した暁は、安堵し――それが尋常でなくやるせなかった。
酒を煽り笑い騒ぐサラリーマン達の声が、どこか遠くの物であるかのように聞こえた。
「たばこ、吸うんですね」
「ん。よく似合わないって言われる」
食事を終え、エミルがお手洗いに言っている間、暁は地下施設の喫煙所に足を運んでいた。
数分前までは、先に用を足し終えたエミルがガラスの仕切りの向こうで煙を吹く暁を興味深そうに観察するという、若干シュールな光景が繰り広げられていた。
「別に律儀に待たなくても良かったろうに。クセェだろ?」
「いえ、平気です。……そ、それに」
「うん?」
「…………とも、だち。ですから……」
帽子の鍔を押さえながら、エミルは耳まで真っ赤にして俯きながら言った。
「…………おう。そうだな」
そのあまりのいじらしさに、暁の脳が数秒焼き付き反応が遅れた。
(これもうヤバいな俺。人間として終わりかもしれん)
早鐘を打つ自身の心臓に頭を抱えながらも、暁は手首を傾けて時計を見る。ちょうど、午後の8時であった。
「さ、さて。そろそろ帰るか?」
「……はい」
話題転換程度の軽い気持ちで暁は訊いたが、彼の言葉はエミルの肩を下げさせた。変声期前のように高い声のトーンも明らかに落ちている。
「……あのさ」
「はい……」
「別に、嫌なことは嫌って良いんだぞ。友達じゃんか」
暁も別に本気で帰りたかった訳ではなく、単純に話題の転機が欲しかっただけだ。帰るかどうかは実のところどうでも良く、まだまだ時間は有り余っている。
「あの、でも……」
「迷惑、じゃないぞ」
何となく、この少年との付き合い方が分かってきてきた――暁はそう感じながら、エミルの肩に両手を置いた。
「どっか行くか。そうだな、俺の好きなところで良い?」
その手でポンポンと薄い肩を軽く叩く。暁は、少年の着込んだ衣類の厚さに少し驚いた。
「……あの」
「おう」
「お願い、します……」
「おっけ。高いトコ、平気か?」
「あ、はい。お金、少しあります」
エミルが小さく頷くと、暁は軽く笑いながら少年の手から肩を離した。
「いや、そういう高いじゃないんだよ。金は掛からん」
「……?」
高いというのは、高度の話であった。
平成三年より新宿に鎮座する、高さ243メートルに及ぶ双頭の高楼。
その45階。地上202メートルの、都庁第一本庁舎展望室だ。
「んく。そろそろ着くな」
エレベーターに乗り込んだ暁は、唾を飲み下してから隣のエミルに語りかけた。
「は、はい」
両者の肩は、少し身じろぎすれば触れ合うほどに近い。
エレベーターがそれほど広くないのと、結構な数の同乗者と共に箱詰めされているためだ。二人の周囲には40代くらいの夫婦だとか、バックパッカーと思しき家族連れの外国人観光客の団体だとかが
「もう少し待ってくれな。狭いトコはダメだったか?」
「……いえ。平気、です」
空間に対して少々騒がしいエレベーター室内では、エミルの声が暁に届かない。身長差があることを考慮して腰を折ることも出来ないので、暁は聞き返すことはしなかった。
「お待たせしました。45階、第一庁舎北側展望室です」
それから十数秒して扉が開くと、制服を着た中年の女性が笑顔で客達を迎え入れた。展望
「わっ……」
周囲の人が思い思いの場所へと散ってゆくと、視界が晴れたエミルは感嘆の声を上げる。その声を聞き取った暁は、腕を組んで得意げな顔になりながら前方を見やった。
広大なワンフロアグルリと巨大な窓ガラスが囲む。二人の視線の先には、東京の夜景が広がっていた。
「暇な時は、いつもこういう所にいるんだ。馬鹿と煙は、ってヤツだな」
「そんな、バカって……」
「ハハ、五流くらいの大学行ってるからな」
穏やかな口調で冗句を交えながら、暁はエミルを先導して一つのガラスの前へとゆったりと移動する。
「ホラ、あそこ。見てみな」
「……? はい」
窓際の壁に寄りかかった暁が手招きすると、エミルは言われるがままにガラスへ近づいて彼の指さす方を見やる。
彼らの目線の先には、複雑なテクスチャで構成された葉巻のビル。コクーンタワーと呼ばれるそれであった。
「改めて見ると、すげーカタチしてるよな」
「は、はい」
「あの地下に本屋があるんだよ。思ったより距離あるよな」
周囲の建造物と道路を行き交う車、それから奥手の一際明るい駅の照明に照らされる幾何学的な塔は、暁に仮想世界のランドマークを思い起こさせた。
暁がタワーの下方を見やるのに倣い、身長が150センチに満たないエミルは窓枠に手を突いて乗り出しながら、ガラスにおでこを押しつけていた。
「……あ、見えました。あそこの下、ですね」
懸命につま先立ちになって背伸びをし、少し声を震わせながらも無邪気におでこをガラスに押しつけるエミル。
その姿は暁に、所謂『萌え』という物を覚えさせた。ついでに、罪悪感と自己への嫌悪感も。
「……オイィ? お前それでいいのか?」
「えっ……ぼく、何かしましたか……?」
「ああいや! 別に何も悪くないぞ、独り言」
「…………?」
暁に向き直って小首を傾げるエミルに、彼は頭を振りながらも苦笑いで応じた。
ごまかしついでに、暁は遙か遠方に見える青白い塔を指差す。
「ほら、あそこ。スカイツリー」
「あ……ほんとだ。よく、見えますね」
「アレが出来たのも……えーと、2008年だから、もう18年くらい前か。道理で俺も年を食った訳だ」
「ぼく、その時まだ生まれてない、です」
計算すれば分かることであったが、現在16歳のエミルは少なくとも2009年の5月1日以降の生まれであるのは明白だ。
遂にジェネレーションギャップを感じる程度には生きてきたのだな、と暁はしみじみ感じた。
「ていうか、そもそも日本生まれじゃないか?」
「はい。生まれは、オーストリアです。母が、日本人で……」
「ふーん、そっか。……じゃ、グロックとステアーの国か」
「えっ?」
「ああいや、何でもない。聞き流してくれ」
ついヲタ臭い発言をしてしまったと暁は苦笑う。誤魔化し代わりに、適当に見て回ろうとエミルに言い聞かせて。
せっかくのパノラマ展望台なのだ。一つの窓からの景色ばかり見ていては、もったいない。
それからは、周囲の建物をぼんやりと眺めたり、地上の車の小ささに感銘を受けたり。
飽きは来ないにしても既にルーチンと化していた光景の変化に、暁は如実にエミルを感じられたのだった。
二人がゆっくりと
「そろそろ、帰るか」
断続的で取り留めの無いやりとりに、暁は終止符を打った。
それはエミルにとって、薄ぼんやりとした泡沫の夢の終わりを意味していた。
「…………はい」
いつかは時間が過ぎ去る事は理解していたが、エミルの声は本人の意志とは裏腹に明らかな落胆を伴っていた。
「……まぁ、保護者同伴って事でも良いんだがさ。別に、進んで帰りたいって訳でもないし」
自虐的な溜め息を吐き、エミルに振り向いた。
そこで、暁の表情が凝固する。
「――どうした、大丈夫か?」
翠の瞳から、緩やかに光の筋が滴り落ちていた。
「え……?」
当の本人は自分が涙を流していた事に気づいていなかったようで、頬に触れてからはっとしたような表情になる。
「あ、あの……これ、は……その」
そこからは、加速度的に少年の声が湿気を帯びてゆく。
「あの、あのっ……!」
「――大丈夫だ」
エミルの切羽詰まった言を遮り、暁は少年の細い身体を抱き寄せる。他人からの目は痛かろうが、青年にとってはどうって事無い。
彼はこんな状況を経験済みで、慣れっこだった。
「特に何ともなくってもさ、色々と限界になる事、あるよな。大丈夫だ」
エミルが唐突に涙を流した理由は、暁には分からない。
それでも、年齢不相応に哀愁を帯びた表情で静かにすすり泣く少年を前に何もしないなど、暁の善人性が許さなかった。
「あきっ、あき、さん……が」
「俺が何かしちゃったか。ごめん」
「ちが……迷惑、じゃ……」
「まさか。友達じゃないか」
思えば、どうにも損というか、改めておかしな人間だな――暁はそう自己評価する。
友達になったとは言え、まだ2回出会っただけの少年を抱きしめて慰めるなど、普通じゃない。
そんな普通じゃない自分が、青年は嫌いではなかった。
「落ち着くまで、こうしていよう。無理しなくて良い」
少年からの返答は無い。声を抑えるので精一杯なのだ。
それ以上の言葉は互いに無く、暁はエミルの後頭部に手を添え、ゆっくりと撫ぜる事だけをしていた。
「……ごめんなさい。もう、大丈夫です」
腕の中の震えが止まってから、しばらくして。
すっぽりと収まっていたエミルの声がハッキリと聞こえたのを合図に、暁は己から少年を解放した。
展望室からは、もう随分と人がまばらになっていた。
「……ごめんな。嫌じゃなかったか?」
「いえ……ありがとう、ございます」
エミルの目の周りは、泣き腫らすとまではいかないものの赤くなり、頬も心なしか上気している。
暁の方もいきなり相手に泣かれて余裕が無かったのか、今更になって人目のある所でとんでもない事をしただとか、あーやっぱり良い匂いだったなぁだとか様々な思考が錯綜して頭を抱えたくなった。
「ご迷惑、お掛けしました……」
「良いんだよ。俺、大人だし」
「優しい、ですね」
「まっさかぁ。俺のモットーは自分に甘く、他人に甘く。それだけだって」
窓に映るペイルオレンジの東京タワーを遠い目で見やりながら、表情とは一致しない口調で暁は言った。
「お前はまだ、子供だからさ。モラトリアムの間は、周りの大人が責任を取ってくれる。今の内に甘え倒した方が得だぜ?」
言葉とは裏腹の、自分への言い訳を兼ねた仰々しい嘯きであった。
「暁、さんは」
「うん?」
薄っぺらい笑みを顔に張り付ける暁に対して――エミル・マンリッヒャーの瞳は、弱々しいながらも真剣そのものだった。
「――甘えさせて、くれますか……?」
その視線が、その声音が暁の
弱みを隠す薄氷のようなメッキが、音を立てて剥がれ落ちるのを青年は自覚せずにいられなかった。
「――ああ。任せておけ」
不自然に吊り上げていた口角が下がり、声のトーンが落ちて抑揚が
――どうにも、調子を狂わせられる――暁は、不甲斐なさに肩を落とした。
真部暁は、一挙一動から少年の抱える
恐らくエミルの周囲には、力を貸す味方が居ない。助けを求めて応えてくれる人が居ないのだろう。
だとしたら、自分はどうであるか。
自分には、赤の他人を助けるだけの能力も権力も無い。
更に言えば、そういう類の問題に、青年は全く以て役立たず。
優しくはない、甘いだけ。
つくづく自分の言葉が返ってきて刺さる――暁はそんな現状をどうにも出来ず、なればこそ歯痒かった。
「……ま、甘やかすのは得意分野でな。存分に甘えたまえよ」
「そう、します」
今の暁に出来るのは、この非力な少年に仮初めの安息を与えるだけ。
ならばその役割だけにとどまろう。彼は決意した。
「……お願いが、あります」
「おう、なんぞ」
どんと来いという風情で腕組みをする暁に対し、エミルは帽子の鍔に手を掛けて俯きながらも、何らかの確信を持った調子でハッキリと告げた。
「もう、一度だけ。撫でて、くれませんか」
決心の度合いにしては、随分と小さな欲望であると暁には感じられた。
「お、おう。……んじゃ、失礼」
それ故に少々ひるんだが、暁は迷わずにエミルの白い頬に手を伸ばす。頭を撫でるには、大きな帽子が邪魔だ。
一切の力み無く、エミルの頬に暁の手のひらが触れる。そこから流れるように撫で、指先にまで流れたら一度離れてまた触れる。……エミルの耳が赤くなるように、暁には見えた。
(しかしまぁ、ちゃんと甘えられるだけ
少々感心しながらも、青年は出来る限り優しい手付きで頬を数回撫でた。ひょっとしたら、くすぐったかったかもしれない。
「……はい。ありがとうございます」
「おう、もう良いのか?」
「はい。……もう、わかりましたから」
顔を上げたエミルは、先刻の哀しい表情が嘘のように微笑んでいた。何かを悟ったかのような伏し目がちの瞳は、色気さえ含んでいるように暁の目に写った。
「お、おう。……って、分かったって何が?」
「えと……その、ひみつ、です」
不思議そうに顎に手をやる暁に、エミルはやや物憂げな表情に戻って付け加える。
「代わりに……っていうのも、おかしいですけれど。ぼく、暁さんに……嘘を吐いてます」
「そうか。別に気にしてないから、続けて」
「はい、ありがとうございます。……秘密の代わりに、暁さんに、それを知ってもらいたいです」
どうにもおかしな理屈であったが、暁は即座に頷いた。
「オッケーだ。俺もお前に話していない事が、山ほどあるしな。ギブアンドテイクで――ってのもおかしいが、まぁよろしく」
「はい。暁さんの話、ききたいです」
いよいよもって、展望室には暁達以外の客は見えなくなってきた。別れのワルツが流れ出す。そろそろ閉店の時間だ。
「……また、今度も、会ってくれますか?」
特に飾った言葉は必要なかった。
暁は素直に、心を音にする。
「ああ。また、一緒にどっか行こう」
2026年、4月30日。
ガンゲイル・オンライン日本サーバー限定個人協賛大会《ドミネイターズ》開催の三日前。
午後10時を越しても尚、東京の夜景は煌びやかであった。