液晶が光り、筐体が振動を始める。
その刺激に、少女はハッとした。危うく手にしたそれを取り落とし、溶液の中へ沈めてしまうところだった。
震えるスマートフォンの画面には、しっかりと『真部 暁』の字が。
「あ…………」
まるでバイブレーションが伝染したかのように、少女のか細い指が震える。奥歯がカタカタと響いている。
少女は、ひどく怯えていた。
確かに自分から青年へ電話を掛けたのだ。彼が
けれど、少女は熱に浮かされていた。――それはうだるような、ねちっこく陰湿なものであったけれども。
こうして自己の突発的な行いを冷静に見つめさせられると、ひどく動揺せざるを得なかった。
彼女は自分が、実に独善的で衝動的なものだと思い知らされた。
そんな浅ましい自分が厭になった。
それじゃあまるで、母と同じだ――と。
「お嬢様」
柔らかな布で、目元を静かに拭われた。
自分は涙を流していた事に少女は気付く。彼女と同じ目線に膝をついた世話役・宮野は、慈しみを持った目で微笑んでいた。
「お出になられないのですか?」
「でも……っ」
少女が悲痛に瞼を閉じ、新たな雫が零れる。
そんな彼女を宮野は、服が濡れることもいとわずに抱き締めた。
「――大丈夫。その人は、きっと貴女を拒みません」
「ちがう……違うんです……。ぼくが……わが、っまま……だから」
「――――いいのよ。私も、きっとその人も。わがままだもの」
ホテルコンシェルジュ兼使用人――宮野ゆりは、少女から身を離して手を取った。もっと少女を甘やかしてあげたいのは山々だが、流石に電話が切れてしまう。
少女の時間も、余裕がないはずだ。
「…………は、ぃ」
未だ震える手を宮野に支えられながら、少女は液晶をタップする。繋がった。
「もしもし――」
声を出すのが、こんなに切ないと感じたのは初めてだった。
『……おー、繋がった。取り込み中だった?』
スピーカーを介してではあったが、確かに彼の声は少女の耳朶へと触れた。
瞬間、少女は胸の奥がぎゅっと締め付けられる錯覚を覚えた。熱い――しかし決して不快ではない感情が、血液と混じり合って身体中を巡っている気がした。
「あ、き……さん」
『おーよ暁さんですよー。……って、どした。泣いてんのか?』
涙していることを看過され――と言ってもすすり泣く声を聞けば誰もが感づいただろうが――、少女は慌てて目元をこすった。
「ひぐっ……はい。でも、へーきっ、ですよ」
時々声を裏返しながら、ごまかしはしなかったが、少し強がった。
『フー……そうか。あんま無理すんなよ』
そうすれば電話の向こうの彼は、何らかを慮って優しい声を掛けてくれる。
それが少女には、嬉しかった。
「はい……っ。声が、聞けてっ良かったです」
『オイオイ、もしかしてそれが用件? オッサン嬉しいわー。すふー』
冗談めかした彼の声音と吐息から、少女が脳裏に青年の姿を描くのは難しくなかった。
現実で顔を合わせたのは、せいぜい数時間。
けれど少女は、
「たばこ、吸いすぎはだめですよー……ひくっ」
『怒られちゃった。俺、実はそんなに吸ってないんだけどなぁ』
暇さえあればいつでも煙を吹いているくせに――とは言わなかった。
「ありがとっ、ございます。……落ち着き、ました」
『そっか。……お耳の恋人テレフォンアキちゃん、いつでもお気軽にご用命を!』
「えへへ……なんですか、それっ」
大仰な口調で寒い冗句を連ねる暁に、少女は苦笑する。強がりだった平静は、気付けば本当の事になっていた。
――このまま、取り留めのない会話を続けたい。少女はそう願った。
けれどそれは、今スピーカーの向こうでケタケタと笑う青年を裏切る行為だ。
そして、自身が築いてきたものも――。
「……すみません、急にお電話して。予定とか、大丈夫ですか?」
『いいっていいって。……ま、悪いんだけどちょっと急ぎの用があってさ。そろそろ待ち合わせがなぁ』
「待ち合わせ……?」
ここで探りを入れてしまう自分を、少女は恥じた。これでは日常会話を装った探りだ。
『ああ、ちょっとした大会……ていうか、何というか趣味の競技会……的な? 45分にエントリーなんよ』
少女が一瞬スマートフォンを耳から離して画面を確認すると、時刻は13時30分を過ぎていた。
「それ、間に合うんですか……?」
『ヘーキだよ。……あー。もう、会場の近くだし? 待ち合わせに遅刻してる仲間もいるっぽいし』
「……その人、ちょっとどうなんですか? 大事な、大会ですよね? きっと……」
(――――暁さん、ごめんなさい)
少女は、罪悪感に押しつぶされそうになりながらも青年を試すような真似をした。
一つ。
二つ。
三つ。
暁は、一拍置いて息を吐いた。
その意味なき音が、思考を意味していないのは、少女にも分かった。答えるまでもない、とでも言いたげに青年は煙を吐いたのだろう。
『こらこら、あんま知らない人を悪く言うもんじゃないぞ。……アイツはマイペースで、口数足りないから時々何考えてるかわかんねーけどさ』
うぐ、と喉から声が漏れそうになった。かろうじて飲み込む。
『ふー……なんつーか、俺が知る限りじゃ、あれだけストイックな奴は居ないんじゃねーかな。色んな所を良く見てるし、腕も良い。俺にはできないことを、アイツは色々できるよ』
憧憬するような口調だ。少女は不意打ちのように放たれた絶賛に、思わず耳まで真っ赤になった。
「え、えと……」
『んで、俺はアイツに出来ないことをやるわけで。そういう意味じゃ、結構良いチームだと思う。……とにかく、信頼してるよ』
「ぅ…………!」
死ぬほど恥ずかしかった。
暁からすれば友人に第三者の話をしているだけであったが、それ故に少女には素直な言葉を囁かれているに他ならなかった。
『そんで最近分かったんだけど、アレで案外可愛げもあってさー。こないだタンデムした時とか――』
「うぅ……! 暁さん!」
『えっ。……お、おう?』
これ以上はもう、色々とダメだ。時間もないし、暁も無関係な人間(だと思っている)に情報を蒔きすぎだ。
なにより、少女の心臓が保たない。
「すみません。……お急ぎなんですよね?」
『うお、そうだったわ。いかんなぁ、楽しいとつい時間を忘れる』
仕方がない事であるが、しれっとまた脈拍に加速を催促してくる暁を、少女はちょっとだけ恨めしく思った。
「……あの、ひとつだけ、言っておきたいことがあります」
『おう。なんだい』
変わらずに低いトーンの声で促される。暁は必要以上に饒舌であるが、人の話は口数少なく良く聴いてくれる事が少女には分かってきた。
気付けば煙を吹く吐息はなくなっていた。
「……この間ぼく、『嘘を吐いている』って言いました」
『そうだな。覚えてるよ』
「きっと、本当の事を言ったら……暁さんは、ぼくを軽蔑します。卑怯な人間なんだって、見る目が変わります」
『……かもな。大方、笑って許すだろうけどさ』
そこで安易に「そんな事はない」と言わない彼に、少女は安堵した。
きっと今から言う口約束なんて必要ない。けれどこれは、ケジメというか区切りを付けるというか――ともかく、少女が青年の関係に必要だと感じるのだ。
「実はぼくも、ちょっとした挑戦をするんです。近々」
『へぇ。奇遇だな』
嘘を吐いている事をダシに、更に嘘を重ねる。
暁は否定するだろうが――少年を演じる少女は、自分がたまらなく汚らわしく思えた。
けれど、打ち明ける足がかりが必要だ。
――いつか、このお人好しの青年に全てを打ち明けたいという願望も込めての嘘だった。
「はい。――きっとそこでいい結果を残せたら、勇気を出せると思います」
『なるほどね。んじゃ、その為にも俺が先んじて成果を出さなきゃなぁ』
「えへへ……そうしてもらえると、嬉しいです」
回りくどいようで実に単純、そして実に希薄な契約が、ここに結ばれた。
『ま、その為にはまず出場しないとなぁ。そろそろ行ってくるよ』
「はい、お気をつけて。長く引き留めてごめんなさい」
『おーよ、また電話でもしような。デートも随時受け付け中』
「でっ……!?」
『ってヤロー同士じゃデートって言わんか。ハハハ、んじゃまたなエミル』
走り気味に告げられた別れの後に、すぐ通話終了を告げる電子音が聞こえてきた。
去り際にプラズマグレネードを
頭がぼんやりする。耳鳴りすら聞こえてきそうだ。
「お嬢様」
「ぅえ……っ!? あっ、はい。済みません急ぎます!」
いつの間にか自身の頬に息が吹き掛かるほど顔を近づけていた宮野が、半眼で少女を睨んでいる。慌ててスマートフォンを差し出すと、目線はそらさず丁寧にそれを受け取った。
「お顔が赤いようですが」
「えと……た、体調に異常はありません」
じろ、という擬音が実にしっくりくる視線は、少女の表情と身じろぎする生まれたままの肢体をねちっこく見回してくる。……女同士であるのに、何かイケナイことでもしている気分だ。
「うぅ、そんなに見ないで……」
「――男?」
「ううぅぅー…………!」
更に熱を帯びる顔を手で隠そうとしたが、絶妙なタイミングで被せられたヘルメット状のマシンに阻まれた。
没入型バーチャルリアリティゲームデバイス《ナーヴギア》――これより
「時間がないわよ。がんばって」
「……心拍数過剰で切断されたら、ゆりさんのせいです」
「その人、近い内に連れてきなさいね」
砕けた口調にやや人の悪い笑い方。今の宮野は世話役としてではなく、少女と長く親しんだ姉のような女性・ゆりとして接していた。
「た、ただのお友達ですよ……!」
「あら、
「むぅ……!」
言葉で丸め込まれながらアイソレーションタンクに押し込まれる。
最後に宮野はとびきり良い笑顔でニカッと笑い、ふてくされた表情で溶液に浮かぶ少女を見送った。
すぐにタンクの蓋は閉ざされ、少女の周囲は一切の光と音――重力さえも、消失した。
「――――リンク、スタートッ」
少女にしては語気の強い没入であった。
――――今なら、全力以上に戦える気がした。
「ただいまァー! あっぶね時間ギリギリだ!」
光のポリゴンが男を形作りながら着席したのは13時43分。《ドミネイターズ》参加者エントリー2分前を切った所であった。
事前エントリーを済ませてあるとはいえ、どんな理由があっても大会開始15分前にこの酒場に居なければ転送が行われないのだ。
ファイヴの視界の中央には転送までの時間を示したデジタルカウントが表示されている。本当にギリギリだった。
「遅ぇッスよファイヴさん! 何してたんすか!」
「スマン、ちょいと雉を撃ちにな……」
「ああ……まぁ間に合って良かったッス」
「一時はどうなることかと思いましたよ……」
「サーセン」
居ても立ってもいられずにおろおろとしていたシカゴは、やれやれと言いたげに席に腰を下ろした。アイリスも両手で持ったコップを落ち着かない様子で触っていた。
ファイヴも慌てていたのか、嘆息しながらそそくさと襟を畳んでジッパーをあげる。ジャケットに備えられた、本来は防風用のフラップを閉めるのが、ファイヴの中では
一息ついたファイヴは、共に戦うアバター達を見回した。
先ほどまで冷や汗を掻いていたシカゴも、愛らしい顔つきのアイリスも。すっかり
――が、テーブルを挟んだ向かいの人物だけからは、顔色が読みとれない。彼女は普段から目深くフードを被っている上、今は何だか普段より俯きがちだ。
「のべ助」
「!? なっ、なに……?」
呼びかけたが、やはり目は合わせてくれないようだ。
「結局俺が最後だったわ。ごめんな」
「ん。平気」
「がんばろうな。やれるとこまでは、殺ろう」
「…………うん。絶好調」
「そういや願掛けの話聞いたか? 俺まだ保留中なんだけど」
「聞いた。もう、決めた」
「マジ? 何すんの」
「! な、内緒……っ」
「えー?」
大会に緊張している訳じゃなさそうだ――フードの裾を抑えて更に顔を隠すのべ助を見て、ファイヴはそう判断した。
また何かしでかしたかとも考えたが、心当たりはない。
「……ん、なんだよ二人とも」
隣に掛けるシカゴ、そしてはす向かいのアイリスがどうにも締まりの悪い表情をしていた。
「いえ、何つーか……良いッスねーそういうの」
「ドラマチックです……」
「はぁ? お前らの方が、それこそドラマみてーな出会いしてんだろ」
イマイチ要領を得ないファイヴが、頭上にクエスチョンマークを浮かべかねない思いで首を傾げる。
二人はのべ助の『やりたい事』を聞いたはずだから、その関連の話だろうか。
「だって、なぁ?」
「ですよねー。青春って感じですー」
「それきっとのべ助関連の話だろ。俺関係ねーじゃん」
「いや、何というか」
「流石にこれは、察するなって方が無理ッスよ」
「ほーん……?」
顎に手をやり、再びのべ助へ視線を戻すファイヴ。
一瞬フードの奥で、彼女と目が合った気がした。――が、彼女はすぐにそっぽを向く。
「……別にいっか。んじゃま、いっちょ派手にブッ殺しに行こうかぁ」
「ウーッス」
「はい」
「……おー」
全く締まらないかけ声を上げながら、しかし相貌を殺意にたぎらせながら、4人は光の粒子となって酒場から消えた。