ゼルダの伝説 虚無《ゼロ》の少女と時の勇者   作:すもーくまんじゅう

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虚無の曜日に④ 写し絵に残る景色

 ギーシュとの初めての稽古も終わってから──デルフリンガーの興が乗ってしまったこともあって、ギーシュ当人からしてみれば当初考えていたものよりも相当大変なものになってしまっただろうが──リンクは片膝を立てるようにして、草地の上に腰を下ろしていた。広場の中央で随分と楽し気にはしゃいでいるルイズたちからは少し距離をとっていて、リンクは耳に届いてくるその声を聞きながら、時折短い草の葉と一緒に髪を揺らして吹き抜けていく心地の良い風に身を任せていた。

 その傍らにはエポナがいた。稽古が終わって剣の打ち合う音が止んだのを耳聡(みみざと)いことにどうやら聞きつけたらしく、主の元へ厩舎(きゅうしゃ)の方からとことことやってきたのだ。今はそういう気分なのか、エポナに触れていた手を離すとその度に、『もっと撫でなさい』とでも言わんばかりに肩先をくいくいとはんでくるので、リンクは半ば顔を抱くようにしてその鼻先を右手で撫でてやっていた。

 

「ほらほらー、撮るわよー!」

 

 一際弾んだ、明るい声を上げているのは、キュルケだった。彼女は、大きなガラスの窓がくっついた箱を持っていて、それを周りにいるルイズとモンモランシー、それからシエスタの方に向けては、ポーズをとるように三人へ忙しく指示を出している。その張り切った声に彼女たちは、背中が熱くなるような、どこかむずむずするような思いを感じながらも、飛んでくるその声に合わせて姿勢と、見せるその表情を変えていた。

 遠慮のためだろうが最初は乗らずに、勢いよく左右に手を振って離れようとしたシエスタだったのだが、押しの強いキュルケの声と、気恥ずかしさに道連れの手を決して離そうとはしない、頬に赤みの差したルイズとモンモランシーとによって、真っ先にポーズをとらされることとなってしまった。二人から追い立てられ、退路を断たれてしまったメイドは顔から火が吹き出そうな思いをしながらもなんとかそれをこなし、羞恥が一周回って半ばやけくそとなったことで今度は彼女の方が思い切り背中を押してきた二人に逆襲を果たそうと攻めかかることとなった。結果として三人は勢いそのまま身を任せ、箱を構えたキュルケの前で様々な姿を見せていた。

 はしゃいでいる彼女たちの様子に、なんだか微笑ましい気分になって、リンクは自然と一人笑みをこぼした。あれほど楽しそうにしているのを見ると、こちらとしても貸した甲斐(かい)があるものだと思えてしまう。

 キュルケが構えている、大きなガラスの取り付けられた箱のような道具は『写し絵の箱』と呼ばれるもので、リンクの持ち物だった。箱の覗き窓から見える景色や風景をそのままに写し取った『写し絵』を作り出してくれる不思議な道具だ。タルミナからハイラルへ戻った後に特別な改造を受けていて、最初に手に入れた時とは違い、フルカラーになった写し絵が出てくるようになっている。

 何日か前、秘宝として学院に収められていた父の剣と盾のこと、そして赤ん坊の自分と両親の写し絵を収めた銀のペンダントについて、リンクは大体のいきさつをキュルケとタバサの二人には話していた。一緒にフーケ討伐という危険を冒してくれた者に対して、きちんと話すことが礼儀だと彼には思えたからだ。

 二人とも思いもよらない話に驚いたためか、しばらくは言葉を失っていたが……それでも、両親の顔と名を初めて知ることが出来たと話すリンクに、キュルケは優しく微笑み、タバサは無言でいたが、奥底に感情を秘めているように思える瞳をじっと向けていた。

 その時に見た写し絵と、ちらりと話の端にあがった写し絵の箱のことが印象に残っていたのだろう。手持無沙汰(てもちぶさた)になったキュルケは、リンクの首にかかった銀の鎖がたまたま目に入ってそのことを思い出したのか、ペンダントの事情を知らない者の耳には入らないよう気を付けて、リンクの耳元でこっそりと写し絵の箱を使ってみたいとお願いをしたのだ。

 快く応じて頷いたリンクは、面白い道具があるから暇だったら遊んでみれば、と皆に呼びかけて懐から写し絵の箱を取り出したのだった。

 キュルケに手渡して撮り方を一通り教えてやってからは、自由にさせてやっていた。とはいっても、それほど難しい操作や使い方はない。覗き窓から写したい景色を眺めて、自分の好きなタイミングでただボタンを押すだけだ。動力源である部品や、写し絵を描き出す紙巻も、いくつも予備が荷物の中に入っているので、ちょっとやそっと遊んでいるくらいでは困るようなこともない。

 ただ、箱自体に保存してある写し絵があって、それを消してしまう特別な操作をするためのボタンについては、触らないように一言だけ注意しておいた。撮った時に出てきた写し絵そのものはちゃんとしまってあるので、本当に失ってしまうようなことはないのだが……まあ、その辺りは自分一人で写っている訳ではないという事情もあったりする。

 

「はいっ、モンモランシー! そこでくるっと回ってキメっ! あらあら……もっときりっとしないと! まだまだね!」

「そんなことっ、いきなり言われたって、難しいわよっ」

 

 回転の勢い余って身体がふらついてしまい、モンモランシーは巻き髪を揺らしてそう言葉を返す。続いてキュルケはすぐにルイズの方へ向き直った。

 

「じゃあ次はルイズ! ほらっ!」

「えぇっ!?」

「いいじゃない、私だってやったんだから、次はルイズの番よっ!」

 

 突然の注文にルイズはたじたじとなった。自分一人では済まさまいと、モンモランシーはルイズをけしかけている。あはは……と、苦笑いを浮かべながらも、次はもしかして私の番かしら、と内心で思ってしまうシエスタ。果たして、その予想は数十秒後に現実のものとなり、彼女はエプロンスカートの裾を(ひるがえ)すこととなるのだ。

 そんな風にして、居住(いず)まいを正してきりっと凛々(りり)しい表情を浮かべてみたり、物憂(ものう)げな流し目を送りながら大げさにしなを作ってみたり、はたまた笑顔と愛嬌(あいきょう)に溢れるおどけた仕草をとってみたり……彼女たちが表情を変えるその度に、キュルケはそちらに箱を向けて覗き窓からその姿を捉えては撮影用のボタンを押していた。その度にジー、と小気味の良い音がするとともに、箱の正面下部のスロットからはすぐに紙が吐き出されてきて、彼女たちはそれを見て感心するやら、気恥ずかしさに頬を染めるやら、はたまたおかしそうに噴き出すやら、楽しそうにしていた。

 ちなみに、シエスタを(おとり)にすることで気配を消すことに成功していたタバサはというと、キュルケの後ろへ座って、しげしげとその様子を眺めていた。 

 

「あら、なかなかいいじゃない! ほら、見て?」

 

 新しくスロットから吐き出されてきたものにキュルケは目を見張ると、ポーズをとっていたシエスタへと微笑みながら差し出した。シエスタが受け取った写し絵へと視線を落とすと、そこにはホワイトブリムへ両手をちょこんとやって、にっこりと笑みを浮かべている自分の姿が描き出されていた。

 

「まあ、ほんとね!」

「さっきの変なやつよりずっといいわ……」

 

 ルイズが明るい声を上げ、モンモランシーは若干の恨みがこめられたような感想を漏らした。シエスタは耳が熱を帯びたように感じて、はにかみながら二人に返事をした。

 

「あ、ありがとうございます……だけど、やっぱり恥ずかしいですね、こうも鮮明に自分の顔が描かれているのを見ると……」

 

 シエスタはほう、と小さく息を漏らして、姿を鮮やかに写し出した紙を吐き出してくる、不思議な箱へと視線を向けた。

 

「……ぷっ! あははっ!! ちょっと、ルイズ! あなた、思いっきり半目になってるわよ! 面白いわ! 見てよ、これ!」

 

 続いて吐き出されてきた、ルイズの写った一枚を見て、大笑いのあまりに目尻へ涙を浮かべたキュルケはそれを彼女へ差し出す。ルイズは思わず抗議の声を上げてそれを半ばひったくるようにして受け取った。

 

「ちょっと、なによそれ? 私じゃなくて、あんたのタイミングが悪いんでしょ! わっ、なんでこんなの撮るのよ!?」

 

 写し絵を一目見て目を丸くしたルイズの反応に、モンモランシーとシエスタも横から顔を覗きこませ、予想以上のその威力に肩を震わせて噴き出してしまうのを必死に抑えた。そこには(まばた)きの一瞬を捉えられたせいで、閉じかけの(まぶた)の隙間から瞳がわずかに覗いている、起き抜けのように眠そうな表情でありながらも身体はしっかりとポーズをとっているルイズの姿があった。

 

「見せて見せて……ぶふっ、ほ、ほんとだわ……ひどい顔!」

「すみません、私にも……っ、ふっ、ふふっ……ご、ごめんなさい、っ、でも、これは、確かに……っ」

 

 頬を真っ赤に染めたルイズは写し絵をくしゃっと丸め、目尻を吊り上げた。

 

「もー! 撮りなおしてよーっ!」

「あっはっはっ! ごめんごめん、ちゃんと撮ってあげるわ! ほら、もう一回さっきのポーズっ!」

 

 ルイズの残念な瞬間を偶然にも捉えてしまったその写し絵を受け取って杖を一振り、火の粉と(かす)かな灰に変えたキュルケは、笑って再び写し絵の箱を構えた。ふん、と鼻を鳴らして、じーっと鋭い視線を送っていたルイズだが、笑うキュルケになだめられてもう一度ポーズをとる。頬には赤みが差していて、同じポーズであってもさっきより愛らしく感じられた。

 キュルケはボタンを押して、吐き出されてきた写し絵を改めてルイズに手渡し、むーっと(うな)りながらも文句は言ってこないのを見て、にこっと笑みをこぼした。

 彼女はそれから今度は写し絵の箱を足元へと向けていた。といっても、それは穏やかに揺れる草の葉が映し出す風の姿を写し絵に収めたい、という感慨に打たれた心情の発露によるものでないことは、その口元ににんまりと描かれている弧がありありと物語っていた。

 彼女が狙っているのは、初めての稽古に全力で取り組んだ結果、精魂尽き果てぐったりとしているギーシュだった。じーっとその覗き窓から彼の様子を伺い、捉えるべき瞬間が訪れるのを待つ。

 デルフリンガーになけなしの体力を持っていかれたギーシュは、彼の使い魔であるジャイアントモールのヴェルダンデの背に乗せられていた。倒れ伏した主人を心配したヴェルダンデが土の中から顔を出して頼もしい表情を浮かべ、疲労の極致にある彼の手足の代わりを買って出てくれたからだ。感動に震えるギーシュはいつもの調子で抱き着こうとしたが、身体が思い通りに動きやしなかったので、愛しい使い魔の揺れる背の上でゆるゆると頬擦りをするに留めていた。

 ふと、向けられている覗き窓越しの視線に気づいたのか、むっくりと首を持ち上げて気の抜けた顔を向けてきたギーシュを、キュルケはぱしゃりと写し絵に捉えた。ぽかんと口を開けていたギーシュだったが、果たされた彼女の目論見(もくろみ)を察すると、むぅっと眉を曲げて、渋面(しぶづら)を作ってみせた。

 

「どうせ残すならもっとかっこいい姿にしてくれよっ」

「あら、記念すべき姿だと思うわよ」

 

 そうして声だけは勇ましく上げるギーシュに、キュルケは浮かべた笑みを深くしながら続けてボタンを押していく。疲労に気の抜けた表情を浮かべている一枚と、それから抗議の表情にはなるが相変わらずヴェルダンデの上に寝そべられたままでいる一枚を並べてみて、ルイズとシエスタは思わず揃って噴き出していた。

 ギーシュは何とか格好のいいポーズをとってやろうと身体に力を込めてみるが、残念ながらぷるぷると手足は震えるばかりで思ったようには全くいかず、相変わらずヴェルダンデの背に倒れていた。そんな彼の背中を、ちょっと意地悪な表情でモンモランシーはここぞとばかりにうりうりと指先でつついていて、そんな二人をキュルケはぱしゃぱしゃと写し絵に収めている。

 皆のやりとりを遠くで眺めていて、リンクは小さく笑い声を上げた。

 

「ははは……ギーシュの奴、ちょっぴり可哀そうかもな……でも、なんだかんだで楽しそう、かな」

「こんにちは、剣士さん。お隣に座ってもよろしいかしら?」

 

 背後から届いてきた柔らかな女性の声に、リンクが振り向いてみると、そこにはマチルダが微笑みを浮かべて立っていた。綺麗な長い緑の髪がさらさらと風に揺れている。

 

「もちろん。どうぞ、ミス・ロングビル」

 

 リンクが笑顔で声を返すと、彼女は唇を尖らせてほんの少し拗ねたような表情を見せた。

 

「……もう、マチルダ、って、名前で呼んでよ。周りで聞いている人だって、今はいないんだから良いでしょう? あなただって、ちゃんとわかってるでしょうに……なんだか、ちょっぴり傷ついた気分だわ」

 

 ふいっ、とそっぽを向いて、髪を耳へと掛けながら、マチルダは膝を抱えるようにして空いていたリンクの左隣に腰を下ろした。

 

「あははっ、ごめん、ごめん」

「意地悪ね、あなた」

 

 口ではそんな風にいいつつも、実際には欠片も怒ってなどいないようで、マチルダは明るい微笑みを浮かべてリンクの方へ向き直った。

 

「それで……おっと」

 

 マチルダに声を掛けられた拍子に止まっていた手を催促するように、エポナが小さくいなないたので、リンクは困ったように笑って、また彼女のことを撫でるのを再開した。エポナはそれに満足したのか、すぐに大人しくなった。もし求めに応じずに無視をしていたら、きっと次は肩をもぐもぐやられていただろう。

 

「随分と懐いているのね、あなたの馬……驚くほど」

 

 リンクに甘えているエポナの様子をしげしげと眺めて、マチルダは感心するような調子でいった。 

 

「まあね、暇になったんだから私のことを構え、って言いたいんだよ」

 

 その言葉に呼応するようにエポナが顔を擦り付けてきたので、ぽんぽんと手をやって、それから思う存分、撫で(さす)ってやる。気持ちよさそうにエポナは目を(つむ)ってリンクの手の動きに身を任せていた。

 

「ふふっ、そうなんだ。言いたいことがわかるなんてすごいのね」

「どんな気持ちでいるかはよくわかるんだよ、通じ合ってるから。お互いにね」

 

 なんでもないような、それでいて確信をもった調子ではっきりと言い切るリンクに、マチルダは驚きながらも微笑んだ。

 

「……それで、マチルダは何か仕事?」

 

 エポナを撫でる手を動かし続けながら、リンクは先ほど途中になっていた言葉を続けた。マチルダが左手に持っている巻紙の束に目を留めてのものだ。マチルダは巻紙のうちの一枚を開いて見せて、その言葉に答える。

 

「ええ、実は結構大きい(もよお)し物の変更についての通知を貼りに回っていたのよ。本塔の方を貼り終えて、これから女子寮の塔の方へ貼りだしに行こうと思ってたの。何の気なしに、ふらっとこっちの方から出てみたんだけど……あなたがいるのを見かけたから、つい話しかけちゃった。ふふっ、運がよかったのね、きっと」

「あーっと、うん、そっか」

 

 そういって微笑んでこっちを覗き込んでくるマチルダに、リンクはなぜか気恥ずかしさがこみあげてきて、慌てたように顔を()らした。

 

「……くすっ」

 

 そんなリンクの様子に、マチルダはほんの少しだけ笑みを深くする。

 顔を()らしたその先で、エポナがじーっと何だか言いたげな様子で見つめてくるのに、ほんの少しだけむっとして、指先でつんつんとその頬を突いて返してやってから、リンクは気を取り直してまた口を開いた。

 

「えっと、(もよお)し物って? なにかお祭りでもあるの?」

 

 その問いに、ほんのちょっと空へと目を向けて考えてからマチルダは答えた。

 

「そうね……まあ、お祭りっていうのも近いかもしれないわ。『使い魔お披露目会』っていうのがあるのだけど、それについてのものなの」

「お披露目会?」

 

 リンクの声に、そう、とマチルダは頷いて続ける。

 

「毎年恒例でね、春先の召喚の儀から少し経って主従が互いに慣れたころの時期に、その年に召喚した使い魔をそれぞれの生徒が紹介する行事があるのよ。使い魔の特技なんかを学院の全員の前で見せたりなんかして。私も実際に見たことはないのだけどね。一年前にはまだここにいなかったから」

「へぇ……そんなのがあるんだ」

 

 自分も出し物の一つでも考えなければいけないのだろうか。そんなことを思いながら、リンクは続くマチルダの言葉を聞く。

 

「で、今年の日程については、フーケ騒動……私が原因であるわけなのだけど、あれのゴタゴタのせいで未定のままになっていたのよ。そろそろ落ち着いても来たし、いつやるのかってなったのだけど……」

「それが決まったの?」

 

 リンクの問いかけに、マチルダは首を振って、通知のある部分を指さした。

 

「それがここに書いてあるんだけど……日程は未定、開催が決まったらまた追って連絡する、って書いてあるの。とにかく、延期ってことね。おかげで美人秘書の私はこーんな雑用を(おお)せつかってしまったというわけよ」

 

 おどけた調子でそんな風に言いながら、くるくると巻紙を元通りに丸め直し、マチルダはふっ、と小さく息をついた。

 

「オールド・オスマンがちらっと漏らしていたんだけど、学院内の都合で、ってわけじゃなくって、どうやら王宮の、というよりも、王女殿下の意向によるものらしいわ。なんだかしかめっ面をしちゃって書類に目を落としたまま、『わざわざこんなことを書いてきおって……』とか、なんとか、ぼやいてたから。……気になったのは、随分と気落ちしたような声だったことだけど……それに、なんでまた学院の内々の催し事に王女殿下が首を突っ込んでくるのか、そこがよくわからないわ」

 

 ま、正直にいうと私にはどうでもいいんだけどね、とマチルダは笑って説明を終えた。

 

「ところで……あの子たちは随分楽しそうにしているけれど、いったい何を遊んでいるの?」

 

 先ほどから気になっていた、広場の中央で何やらと騒がしくはしゃいでいるルイズたちの方を見やって、マチルダはリンクに問いかけた。

 

「ん、ああ……このペンダントの中にあるような写し絵を撮る道具のこと、ほら、今キュルケが持ってる箱なんだけどさ、あの話を思い出したみたいで、自分でやってみたいっていうから、貸してあげたんだよ。思ったよりも皆にウケたみたいで、面白がって遊んでるんだ。今はキュルケがずっと撮ってるんだよ」

 

 首にかかった銀の鎖に指をひっかけてちょっと持ち上げて示しながら、リンクは自分も愉快(ゆかい)そうにくっくっと笑いながら答えた。マチルダにも父の剣と盾、それからペンダントのことは、騒動の当事者ということもあって話してある。オールド・オスマン、ルイズ、キュルケ、タバサ、そしてマチルダ。これで事情を知っているのは全員だ。

 

「……なるほどね、あの箱でそんな簡単に撮れるものなのね……それは遊んでみたくもなるかしら」

「俺もあんなに食いつかれるとは思っていなかったけどね」

 

 そういって苦笑し、それでも楽しげにしているリンクに、マチルダはくすりと笑みをこぼした。

 

「……確かにすごいと思うわよ。だって、画家が描くような立派な肖像画より、ずっと綺麗だったもの」

 

 見せてもらったリンクのペンダントの中の写し絵の精巧さを思い出し、マチルダはそういった。それから、ふっ、と小さく息をついたマチルダは押し黙って視線を落とした。

 

「……ごめんね」

「えっ?」

 

 ルイズたちの方を眺めていてマチルダの表情の変化に気付いていなかったリンクは、突然の言葉に振り返った。彼女はどこか思いつめるような、沈んだ表情を浮かべていた。

 

「どうしたんだ、急に謝ったりして……?」

「その……この間は……あなたの話に、言葉が出てこなくて……ちゃんと謝れていなかったから……」

 

 そういってマチルダはしばらくの間、足元に視線を落としていたが、息を小さくついてからリンクに向き直って口を開いた。

 

「ごめんなさい、リンク。私……あの秘宝の箱の中身がそんな大事なものだったなんて、知らなかったとはいえ……あなたのお父さんの形見……それに、ひどい扱いをしてしまったわ……」

 

 秘宝として学院に収められていたあの剣と盾。ガラクタを掴まされたと怒りに任せてどんな扱いをしたか、自分で良く覚えているだけにそれが申し訳なくて、マチルダはリンクの顔を見ていて余計に胸を締め付けられる思いがした。

 

「はははっ」

 

 そんなマチルダの暗い気持ちを吹き飛ばすように、リンクは晴れやかな笑い声を上げた。思わず彼女が飛び上がったようになって目を丸くしていると、リンクは笑顔で答えた。

 

「何のことかと思ってびっくりしたけど、そのことだったか。気にしないでよ。別に壊れたわけでもないんだから。それに、ある意味あなたがきっかけになってくれたようなところもあるんだ。だから、何も気にすることなんてないんだよ」

 

 思ってもよらなかったリンクの言葉に、しばらくの間、マチルダはぱちくりと目を(しばた)かせていた。何度か息を吸って気持ちを落ち着かせてから、おずおずとリンクに言葉をかけた。

 

「それでも……私なんかが、あなたのご両親の話を聞いてよかったのかしら……? 私に、そんな資格なんてないのに……」

「もちろん」

 

 不安げに揺れるマチルダの瞳を、リンクはまっすぐに見つめて、にっこりとほほ笑んだ。その笑みに、ほんの少し、息が止まったような気がした。すぅ、と意識して空気を吸いこむと、締め付けられていた胸にきらきらと光る素敵なものが満ちてくるような気持ちがして、なんだかたまらなくなった。空いていた右手できゅっと胸を抑え、マチルダは微笑んだ。

 

「ありがとう……嬉しい……」

 

 それから二人は無言になって穏やかな風を感じながら、しばらくの間、写し絵の箱で遊んでいる皆の様子を眺めていた。

 今度は写し絵の箱の前に立ってポーズをとっているのはキュルケだった。なんとも妖艶な流し目をガラスの覗き窓へ向けて送っている。ひとしきり自分で撮る側を楽しんだ後、写し絵に撮られる側もやってみたくなったようだ。

 写し絵の箱を構えてぱしゃぱしゃとやっているのはなんとタバサだった。写し絵に撮られる気はないものの、どうやらそれを撮る箱の方には興味があったらしい。座っていたところにキュルケから箱を手渡されると、少しの間(たたず)んだ後、すっくと立ちあがって熱心にボタンを押し始めたのだった。

 ポーズの手本を見せてあげる、というキュルケの言葉に、ルイズとモンモランシーは厳しい視線を最初の内は送っていたのだが、次々に吐き出されてくるキュルケの写し絵を見て言葉を失い、その手は思わず震えていた。その写し絵には、学院の男子たちがもしも譲ってもらえるならば大金を積み上げることに一切の躊躇(ちゅうちょ)もなくなり、そこかしこで決闘が始まってもおかしくないようなくらいに色気が溢れていたからだ。

 偶然にもルイズやモンモランシーが壁になるような立ち位置になっていたため、リンクとマチルダの方から見通すことは出来ていなかったのだが、キュルケは胸元をきわどいギリギリもギリギリのところまで緩めていて、挑発的な仕草を惜しみもなく写し絵の箱の前に見せていた。

 息を呑んでいるルイズとモンモランシーが漏らす呟きと、顔を真っ赤にしているシエスタに、なんとかその写し絵を一目見ようとギーシュは入らぬ力の全てを持って首を動かすが届かなかった。写し絵を諦め、それでは実物を、と標的を変えてヴェルダンデに指示を出そうとしたところで、モンモランシーの鉄拳が頭上から振ってくることとなった。

 

「……私の故郷、アルビオン、なんだけどね……」

 

 相変わらずわいわいと楽し気な──時折は何を叩いたものか察しがつく、激しく痛そうな音も聞こえてくるものの──声を聞いていたマチルダは、不意にぽつりと静かな声を出した。リンクが振り向くと、マチルダは一つ息を吸ってから、意を決した表情で告げた。

 

「私、戻ろうと思うの」

 

 一際、強い風が吹いた。草の葉をざあっと揺らしてそれは広場を吹き渡っていき、やがてまた何事もなかったように穏やかなそよ風に戻った。

 リンクは目を見開いてマチルダを見つめたが、ふっ、と微笑みかけた。

 

「そっか……」

 

 マチルダは吹き抜けた風に乱された髪へ自分で撫でるように軽く手をやりながら、澄んだ空気を胸に吸い込んだ。自分でも意識することがなかった、肩に纏わりついていたもやもやを風が一緒に連れて行ってくれたような思いになって、彼女は自然と柔らかな微笑みを浮かべた。

 目を閉じ、すうっ、ともう一度深く息を吸って、ふわふわと浮かび上がりそうな気持を落ち着かせた彼女は、リンクを見つめ返して口を開いた。

 

「アルビオンのことは、何かあの子たちから話を聞いてたりする?」

 

 その問いかけに対してリンクが首を横に振ると、マチルダは抱えている膝へと頬を預け、首を(かし)げたような姿勢になって言葉を重ねた。

 

「なんとアルビオンはね、空の上に浮かんでいるのよ」

「空に!?」

 

 思いもよらなかった言葉に、リンクは目を見開いて聞き返した。気付かないうちにエポナを撫でる手が止まっていたが、彼女は催促することなく、ただじっと主の横顔を眺めるに今度は留めてあげることにしたようだ。リンクの浮かべた表情にマチルダは顔をほころばせ、くすくすと笑い声を漏らした。

 

「あっ、やっぱり驚いてくれた! ふふっ! こっちにまだ詳しくないあなたなら、驚いてくれるんじゃないかって思ったわ。ハルケギニアに暮らす人にとっては当たり前のことなんだけれど」

 

 得意げな表情を浮かべたマチルダはぴっ、と人差し指を立てて説明の言葉を続ける。

 

「アルビオンはね、地上から遥か上空を周遊する、浮遊大陸に位置している国なの。大陸の下半分はいつだって雲を纏っているから、『白の国』なんて呼び名もあるんだから」

「浮遊する……『白の国』……」

 

 耳へ届いた言葉を呟くようにゆっくりと繰り返すリンクにマチルダは頷いた。

 

「そっ! だからアルビオンとの往来はフネでするのよ」 

「船? 船で、空の上に、どうやって?」

 

 マチルダの言葉の意味を飲み込むことが出来なかったリンクは彼女の方へ半ば身を乗り出すようにして聞き返した。マチルダは小さく首を振り、その美しい髪を耳へとかけながらリンクに笑いかけて答えた。

 

「いいえ、その船とは違うわ。フネってのは帆船に似ているけれど、翼を持っているの。呼び方は一緒だけどね。それで帆を張って、風の力を蓄えた風石を使って浮かび上がり、空を飛ぶのよ。アルビオンとの行き来の玄関口、トリステインの港はラ・ロシェールっていう町なのだけど……いくつも停泊しているフネに、空の彼方から近づいてきて段々と大きくなっていくものもあれば、逆に宙に浮かんで雲の向こうへ遠く消えていくものもあって……なかなかいい眺めだと思うわ。初めて見たら、きっとあなたも驚くんじゃないかしら」

 

 そういってマチルダはいたずらっぽい微笑みを浮かべて、リンクの横顔を覗き込むように小首を(かし)げた。彼は、マチルダの言葉を受け取って、空の向こうへと視線を向けていた。

 

「へぇ……」

 

 心臓が強く脈打つように感じた。感嘆の声と一緒に漏らした息が熱を帯びているように思える。どんな景色なんだろう。想像しか出来ない、まだ見ぬ光景へと思いを巡らせてリンクは瞳を輝かせていたが、隣から聞こえてきたくすくすという笑い声にはっと我に返った。

 声のする方へ振り返ってみれば、マチルダがにこにこと笑顔をこちらへ浮かべていて、その微笑みにリンクは急に気恥ずかしくて、くすぐったい気分になった。

 

「わくわくしてるの? ふふっ、そんな表情になっているあなた、なんだか少し幼く見えて可愛いわ」

 

 マチルダの言葉に思わずがくっとなったリンクは、ほんの少し頬を紅くして、それとなく抗議の意思がこもった、じとっとした視線を彼女へと向けた。しかし、マチルダが返してくる柔らかくて暖かい眼差しを受けると、身体が火照ったようになって、むずむずしてくるように思えて仕方なくなってくる。その優しい視線を真っ正面から受け止めていられたのはほんのちょっとの間だった。

 

「可愛いって……あんまり嬉しくは思わないんだけれどなぁ……」

 

 目を逸らしていったリンクのその声に、ますますにっこり笑顔を深くしたマチルダは上機嫌な調子で言葉を返した。

 

「ふふっ、いいじゃないの。年上のお姉さんには可愛く見られたって。それに、あなたはなんだか年下って感じがあまりしないんだもの……すごく頼りになるから。そうやって、年相応、っていうか、可愛げのあるところを見せてくれるの、私としてはとっても嬉しいわ」

「ははは……」

 

 ねっ、と楽しそうに瞳を覗き込んでくるマチルダに、リンクは苦笑を返すしかなかった。どのような反論を重ねたところで勝ち目は見出せそうにない。彼女の微笑みは深くなるばかりだろう。背伸びするように反発する年下の男の子を微笑ましく見守るお姉さん、という図式はどうあがいても覆すことが出来そうになかった。

 満足げな微笑みを浮かべてリンクの様子をしばらく眺めていたマチルダだったが、ふっと息をつくと空を見上げた。

 

「こうまで早くにアルビオンへ向かおうとは、最初は思ってなかったんだけどね……でも、どうにもきなくさい噂が流れているみたいだから……」

「噂って?」

 

 問いかけたリンクに対して、マチルダは陽の(かげ)ったような表情になり、ため息をついて少し間を置いてから口を開いた。

 

「フーケの今後の手配がどうなるか、王都の酒場に情報収集へ行ってみたのよ……フーケのことは死亡、ってことで触れ書きが回っていて、無事に片付いたみたいなんだけど……その時にアルビオンで反乱が起こってるって話を聞いたの。傭兵の募集もあるらしくて、あちこちから人がアルビオンへ向かってるって話もあったわ。反乱を起こしたって言っても、大した規模じゃなくって、(じき)に王軍に鎮圧されるはずらしいけれど……」

 

 彼女の言葉に、リンクは硬い表情を浮かべて呟いた。

 

(いくさ)か……」

 

 (かげ)りの差した表情のまま、マチルダは視線を落として頷いた。落ち着かない鼓動を立てる胸に手をあて、自分に言い聞かせるように声を出した。

 

「うん……大丈夫だとは思っているのだけどね。ティファニアのいるあの場所は、大きな街からも、街道からもずっと離れた、深い森の中だから……軍だって、あんな森の中をわざわざ進むことなんてないでしょうし……。だけど……それでも、やっぱり心配で……」

 

 リンクは彼女の声に、深く頷いた。マチルダは微笑みを浮かべてリンクの方へ顔を向けたが、それはどこか弱々しいもののように思えた。

 

「だから……出来るだけ早くアルビオンへ戻ろうと思ったの……。場合によっては、アルビオンへ向かうフネに乗り込むんじゃなくて、非番の竜騎士でも雇って送ってもらおうかと思っているのよ。その方が適当な便がなくって、港で待ちぼうけを食らう可能性だってないし……あなたのおかげで、お金のことは考えなくても大丈夫だから。……本当に、ありがとう、リンク。フーケのことも、お金のことも……戻ることなんて出来るはずのなかった私が、あなたのおかげで、っ、あの子に、会いに行ける、っ……」

 

 思いと感情と、そして大切な記憶からティファニアの笑顔が不意に心の中に甦ってきて、胸を衝いた。ぐっとこらえるが、最後はほんの少し、震えかけたようになって、声が詰まった。

 微かに深くした呼吸を繰り返している彼女に、リンクは少しの間を置いてから微笑んで声を返した。

 

「……気にしないで。あなたの役に立てたのなら、それだけですごくうれしいんだ。……アルビオンへ向かうってことは、もうオールド・オスマンに辞めることも?」

 

 マチルダはこくんと頷いた。再び口を開いた時には気持ちが落ち着いたのか、その声に震えはもうなかった。

 

「うん……伝えたわ。もう二、三日もあれば区切りもつくから、そうしたらすぐにアルビオンへ向かうつもり」

「そっか……寂しくはなるけれど、あなたが無事に妹さんと会えることを心から願うよ」

 

 リンクの真剣な声とその眼差しに、マチルダは胸の奥がじんわりと暖かくなってくるように思えた。脈打つ拍動がその熱を全身にゆっくりと運んできて、ずっと浸っていたいと思ってしまうほどに心地よかった。

 

「あなたは優しいわね……本当に……」

「あはは……そんなことないよ」

 

 照れたように苦笑するリンクを見つめて、マチルダはほのかに頬を染めて、柔らかく微笑んだ。ずっとその顔を眺めていたくて、とくん、とくんと鼓動が鳴っているのをマチルダは感じた。

 

「……いつか、ティファニアにも会ってほしいわ。自分と母親以外の、耳の長い人と顔を合わせることになったとしたら、きっと驚くと思うから。あの子は、ティファニアは……あの日以来、自分の住むあの村から外へ、一度だって出たことがないから……」

 

 そう言って、マチルダはリンクに柔らかな眼差しを向けた。その表情は、それまでとは何となく違った雰囲気を(まと)っているように感じた。きっとマチルダは、その視線の向こうにずっと長い間会うことの出来ていない、大切な妹の姿を思い描いているのだろう。

 

「そっか……そうだね、俺もぜひ会ってみたいよ」

「……ふふっ」

「……どうかした?」

 

 不意に顔をほころばせたマチルダに、リンクは首を傾げて問いかけた。彼女は笑顔を浮かべたまま、小さく首を横に振った。

 

「ううん、なんだか不思議だなぁ、って思っただけ」

 

 そう呟くように言ったマチルダはほんの少しの間、目を(つむ)って心の中に浮かんできた光景を見つめて、それから再び口を開いた。

 

「ティファニアのことを除けば……アルビオンには正直、良い感情なんて何にも残ってなかった……大切な家族は突然殺され、たった一人の妹は森の奥深くに閉じ込められたような暮らしを強いられて……そして私は、そのティファニアからも離れざるを得なかった。しかも、この手にはどんなに洗ったって落ちない汚れがもう染み付いてる。荒れ果てて空虚なこの心の中に残ってたのは……いつだって身を(さいな)む悲しみと、行き場もなく吹き(すさ)び続けるだけの暗い怒り……そんな感情だけ」

 

 自分の手のひらを眺めていたマチルダはふっと息をつくと、リンクに振り返って微笑んだ。

 

「けど、あなたがいつか来てくれるかも、会いに来てくれるかも、ってそんなことを考えると……私の故郷は、あなたが行ってみたいと思ってくれるような場所なのかも、って……そう思うと……なんだか悪くもない場所のような、そんな風に思えちゃう」

 

 不思議でしょ? とマチルダは小首を傾げてにこっと笑った。その笑顔に胸を衝かれたようになり、リンクはなんと返せばいいのかわからなくなってしまって、ただ呆けたように彼女のことを見ていることしかできなかった。

 だが、彼女にはそれで十分満足だったようだ。マチルダはその笑みを深くして、朗らかで明るい、可憐(かれん)な笑い声を上げた。

 そうして笑っていたマチルダだったが、ふとなにやら、じーっとこちらを見てくるような視線を感じて、そちらの方へ彼女は首を向けた。果たしてそこにはこちらを覗く写し絵の箱のガラス窓があって、思わず目を丸くした自分の顔が反射して映りこんでいた。

 

「あらー、お二人さん、一枚いかがかしら?」

 

 マチルダに気付かれるまではじっと写し絵の箱を構えていたのだろうキュルケが、面白がっているような、とても弾んだ声でそう聞いてくる。タバサからいつの間に箱を受け取って、近くまで寄ってきたのやら、ばっちりの位置でキュルケは箱のボタンに指をかけていた。

 

「へっ? い、いや、そんな、急に言われても!」

 

 わたわたと慌てふためくマチルダだったが、キュルケは肩を組むようにすぐ傍へさっと近づくと、一枚の写し絵を彼女の右手へと握らせた。

 

「なんてね、実はもう撮ってるの。はい、どうぞ」

 

 リンクには聞こえないように囁く小声でそれだけを告げると、ぱちんっとウインクをして、キュルケは再び広場の中央へと足取りも軽く離れて行ってしまった。

 

「はあ? どういうこと……って、は、はあああ!?」

 

 彼女の行動の意味を測りかねて眉根を寄せていたマチルダだったが、右手の中に握りこまされた写し絵をちらりと見ると、素っ頓狂な声を上げると同時に、かあっと頬を紅く染めた。開きかけていた右手を大慌てで戻す。

 

「……撮らなくて良かったのかな?」

 

 既に撮られていたことに気付いていなかったリンクは、キュルケが戻っていってしまったことを不思議に思ったのか、素直にマチルダへ問いかけた。

 

「ふえっ! い、いいの、大丈夫、大丈夫! そうだっ、わ、私、仕事に戻らなくっちゃ! ほ、ほら、私はもう行くから、あなたもあの子たちのところに行ってあげなさい! はい、行った! 行った!」

 

 慌てて立ち上がったマチルダはつっかえつっかえながらもそこまで一気にまくしたて、無理やり追い立てるようにリンクの背中を押して送り出した。たたらを踏むようになりながらも歩き出したリンクの横に連れだって、エポナも(ひづめ)で草を踏みしめてとことこと歩を進めだしていく。

 釈然とはしない思いは持っているかもしれないが、それを表には出さずに笑顔でこちらへ手を振ってくれたリンクに、マチルダもあはは、と笑いながら巻紙を握る左手を小さく振り返してぱたぱたと早歩きで女子寮の方へと向かっていった。もちろん、写し絵を握った右手は服のポケットの中へと隠すように突っ込んで──。

 ……渡り廊下を横切り、リンクたちの姿が見えなくなっても、彼女はその長い髪をたなびかせながらずんずんと足早に歩き続けた。女子寮にたどりつき、入り口の扉の取っ手をひったくるような勢いで掴んで開けると、マチルダはその隙間から急いで身体を滑り込ませた。きょろきょろと辺りを見渡して、誰もいないことを確かめると、思わず安堵の息が漏れた。走ってなんていないのに、疾走した後のように心臓はどきどきと鼓動を打っていて、息が上がっていた。

 一人きりの女子寮のホールで、彼女はこっそりと右手を開き、キュルケに渡された写し絵をじっと眺めた。

 そこに描き出されているのは座り込んだリンクと自分だった。優しく笑いかけてくれるリンクに、微笑み返してその顔をじっと見つめている自分。隠し切れない嬉しさが溢れ出すように微笑んでいる、乙女そのままのようなその表情。

 見ていれば見ているほど、ばくばくと心臓の鼓動は早くなっていく。きゅーっと胸は締め付けられて、なんだか息までしづらくなってくるように思えた。うずくまり、小さく叫んだ。

 

「もうーっ! なんて所を撮ってるのよ、あの子ったら!」

 

 にまにまと笑みを浮かべてこちらの様子を眺めていたであろうキュルケの顔が容易に想像できた。

 恥ずかしくて頬は火が出ているように熱い。だが、不思議と悪い気分ではない。写し絵を眺めては恥ずかしさに顔を逸らし、また眺めるということを悶えながら繰り返すこと五回。マチルダは自分に言い聞かせるように独り言をつぶやいた。

 

「ま、まあ……? せっかく撮ってもらったものだし……? 捨てるのも悪いものね……し、仕方ない……そう! これは仕方ないのよ! 仕方ないから、これはきちんと取っておくことにしましょう……! ……それにしても、よく撮れてるわね……えへ……えへへ」

 

 仕方ない。にやーっと口元が勝手に動いてしまうのだって、仕方のないことなのだ。そう自分に言い聞かせてマチルダは写し絵を大切に胸元へしまって立ち上がった。通知の巻紙を貼る仕事があるのだから。いつまでもこうしてはいられない。

 それでも、熱なんて帯びているはずがないのに、写し絵のあるポケットに触れている場所が火照ったような感覚になって、それがまた気恥ずかしさを加速させて、どうしてもにまにまとしてしまう。この気分のままで居られるのならば、今日はオールド・オスマンにだって優しくできそうだった。

 

 

 

 

「あら、リンク! ミス・ロングビルのお相手はもういいのかしら?」

 

 写し絵の箱を構えようとしていたキュルケが、広場の中央へと歩いてきたリンクに気が付き、にまっと笑顔を浮かべて声をかけた。

 

「うん、仕事に戻らなきゃ、っていってた」

「……」

 

 そう答えたリンクだったが、キュルケの後ろに立っていたルイズからはなんだか冷たい視線で迎えられてしまって、はたと歩みを止めた。彼女は無言のまま、両手を腰に当ててじーっとこちらへ物言いたげな視線を送ってくる。

 

「ルイズ? 何か怒ってる?」

「いいえ、まさか、決して、そんなことはありませんことよ? 楽しそうにしていらしたのだから、もっと存分にお話していらっしゃればいいのに、切り上げてしまったのは残念なことと思っただけですわ」

 

 リンクの問いかけに対して、やけにご丁寧な物言いでお返事をくださった親愛なるご主人様は、ふん、とちいさく息を吐くと、その桃色がかった金髪を手の甲で払って風にたなびかせ、そっぽを向いてしまった。

 

「えーと……」

 

 何といったらいいものか上手い言葉が浮かんでこず、リンクは苦笑いを浮かべて頬をかいた。

 

「ほら、ルイズ! むくれてないでこっち来なさいよ!」

「別にむくれてなんてないわよ! ちょっと、もう、引っ張らないで!」

「はいはい、わかってる、わかってる。あ、そこで止まって! リンクはここね! あら、良いわよ~! はい、一枚! 次はこっちから! うんうん! 絵になるわ~!」

 

 突っ立っていたルイズを無理やり引っ張ってリンクの横に立たせたキュルケは、興が乗ってきたのか撮る位置をあちこちへ変えて、次々と写し絵の箱のボタンを押していく。

 

「ふん……」

 

 周囲を周ってぱしゃぱしゃと写し絵を撮っているキュルケの声にも答えず、ルイズはつんと澄ましていた。だが、キュルケにポーズの要求をされて、困ったような、照れたような笑顔を浮かべているリンクの顔を横から眺めていると、自然と笑みがくすりとこぼれてきた。

 ──まっ、いっか。心の中で呟いたルイズはそれから、もう少し、ほんのちょっとだけリンクの傍に身を寄せて、理由の分からない(かす)かに浮き立つように思われる感情の心地良さを感じていた。

 

「……あっ! あの、ミス・ツェルプストー! ミス・ヴァリエール! わ、私も、その、リンクさんと一緒に撮ってもらえたいですっ!」

「わっ、シエスタ!?」

 

 しばらく、ぽーっとルイズたちの様子を眺めていたシエスタだったが、彼女は意を決すると勢いに身を任せ、リンクの傍に駆け寄ってその手を取ってぎゅっと握った。突然のことにリンクは驚いた声を上げて彼女の方へ振り向いた。

 シエスタはなぜか恥ずかしくて、その顔を見返すことが出来ずに、目をぱちくりしているキュルケの方へ顔を向けていた。普段の自分だったらこんな大胆な行動をとることはないだろう。きっといつもでは決してやることのないポーズをとってどこか高揚したような気分のせいだ。ほっぺただってなんだか紅くなって火照ってる気がするけど、きっとそれも舞い上がった気分のせい。

 

「別に私は……」

 

 シエスタの行動に引き戻されたルイズは一瞬むっとしそうになったが、思いとどまって視線を泳がせた。ただ、視線を戻すと、シエスタは深々と頭を下げていて、歯切れの悪い返事をしてしまった自分にばつの悪さを感じ、二人から数歩の距離を取って小さくため息をついた。

 キュルケも思わぬことにぽかんとなっていたが、にこっと笑顔を浮かべるとシエスタに頷き、写し絵の箱を構えた。

 

「はいはい、もちろんいいわよ! ほら、二人ともこっち見て! まずは一枚! ……はいっ、シエスタ」

「わぁっ……!」

 

 ぱしゃり、と写し絵を撮ったキュルケはそれをシエスタへと手渡した。手渡されたそれに視線を落とすと、シエスタは目を輝かせて思わず声を上げた。

 そこにはどこか戸惑ったように眉を下げながらも穏やかな微笑みを浮かべているリンクと、ほんのりと頬を紅くしながら緊張した面持ちでそのすぐ傍に立つ自分とが描き出されていた。つい勢いで握ってしまっていたリンクの手は、写し絵の中で自分と繋がれたままになっていて、どきりと心臓が強く跳ねた。

 

「あ、ありがとうございますっ!」

「まだまだ撮るからね! あっ、もちろん、その後はこの私ともよ、リンク? 順番なんだから! それに、皆との写し絵だって撮りたいもの!」

「ははは……うん、わかったよ」

 

 満面の笑顔となって再び写し絵の箱を構えるキュルケに、リンクは覗き窓越しに苦笑を返した。流れに身を任せる以外、選択肢はなさそうだ。それに……こうして今、この瞬間を残すことだって、もしかしたら大切なことなのかもしれない。いつか、最後に自分が必ず選ぶはずの、その選択のことを思えば──。

 とりとめもなく心の中に浮かんできた、感傷にも似た思いを感じていると、不意にひょいっと帽子を持ち上げられた感覚がした。見上げると、少し離れていたはずのエポナがすぐ後ろにいて、コキリの帽子の先端を唇で器用に挟んで持ち上げていた。

 

「エポナ!?」

 

 主の驚いた声にも動じることなく、エポナは帽子をくわえたまま首を上げ、するっとコキリの帽子をリンクから脱がせた。

 

「あら、いいわね!」

 

 ぱしゃり、とキュルケはその瞬間を逃さずに写し絵へと収める。

 

「……ふふっ、エポナもあなたと写りたいみたい」

 

 様子を眺めていたルイズは口元へ手をやり、顔をほころばせていった。いたずらを完遂させたエポナはリンクの間近へ顔を寄せ、澄んだ瞳で見つめてきて、ふんすと鼻息を漏らす。リンクは思わず吹き出して、その顔にぽんぽんと手をやった。

 

「ぷっ、はははっ! わかった、わかった! 順番な!」

 

 それから、たくさんの写し絵を撮った。緊張の色を浮かべつつも段々と朗らかに笑ってくれたシエスタと。緑の帽子をくわえたまま、澄まし顔になっているエポナと。はしゃいでにっこり笑いながら腕に抱き着いてくるキュルケと。笑顔のまま腕を静かにつねってくるルイズと、もう一度。そして、キュルケと代わりばんこで、皆で集まった写し絵を……。

 そうして楽しい時間は、箱に元々入れていた原料の紙巻一セットがなくなり、蓋を開けたところにたまたまコルベールが通りかかるまで続いた。どんな原理で動いているかもわからない、初めて見る不思議な道具に、いつもの穏やかな振る舞いはどこへやら、コルベールは大興奮してしまい、眼鏡の奥の瞳を輝かせて鼻息も荒くリンクに詰め寄ってきたのだった。

 どうにか分解させてもらえないかコルベールは懇願するが、流石にそこまではリンクとしても首を縦には振れず、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。自称天才発明家に写し絵の箱を好き勝手に改造、(いじく)りまわされたその時の記憶が頭を(よぎ)ったのだ。結果的には写し絵がフルカラーになったり、箱の中に保存しておける枚数が増えたりといいこともあったが、随分と面倒ごとにも巻き込まれることになったものだった。

 コルベールには写し絵の箱を(いじ)る代わりに、自分の持っている道具をどこかで紹介する約束をして、この場をどうにか引き下がってもらうことにしたのだった。

 ──ちなみに、その日の夕食、ヴェルダンデに運ばれてなんとか食堂へとたどり着くことが出来たギーシュだったが、あいにくなことにナイフどころかパンすらも腕がぷるぷる震えて持つことが出来なかった。

 がっくりとヴェルダンデの背に寝そべる不憫(ふびん)なギーシュだったが、幸運なことに彼には救いの手が差しのべられた。慈悲深く、思いやりに溢れるモンモランシーの手だ。そうしてギーシュは、彼女に料理を刺したフォークを目の前に運んでもらい、あーんとされながらもぱくっ、と食べられるというご褒美を受けることとなった。

 ギーシュの友人である太っちょのマリコルヌは、自分のスプーンを持ち上げて固まったまま、離れた席からその様子を血走った眼でじーっと睨んでいたが……幸いなことにギーシュが気付くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同じ日、トリステイン魔法学院からは遥か離れた、浮遊大陸。アルビオン王国の北方に位置するある町は、安息の虚無の曜日にはまったく似つかわしくない喧騒(けんそう)に包まれていた。箱に詰め込まれた武器や砲弾、金属製の鎧がぶつかりあう、がちゃがちゃという耳障りな音に、硬い軍靴の底と荷馬車の車輪が石畳を叩く雑多な音、兵たちを統率する指揮官から次々に下される、厳峻(げんしゅん)な号令、そしてそれに混じって時折聞こえてくる、傭兵同士のいざこざを示す怒号……町に響き渡っているそれらの音は、平穏などとは程遠い、戦乱の真っ只中にあってその戦備を進めていることを如実(にょじつ)に物語っていた。

 アルビオン王国に突如として反旗を(ひるがえ)した反乱軍の統治下にこの町はあった。王家に対するその反乱は、初めはごく小さなもので、頼りない一本立ての燭台の灯火(ともしび)のようなものだった。しかし、すぐに吹き消されるはずだったその種火は野に放たれるとあっという間にその火勢を増して、アルビオン全土へと広がっていくこととなった。

 マチルダが遠く離れたトリステインで仕入れた噂は反乱の勃発(ぼっぱつ)したごく初期のもので、その情勢を詳しく伝えるものではなかったのだ。既に反乱軍は簡単に制圧することは不可能な勢力となっていた。最初のうちは楽観視して余裕を見せていた王軍だったが、近頃では制圧どころか続けざまに敗走を見せていて、徐々に天秤は反乱軍の方へと傾きを見せ始めていた。

 反乱軍は自らを『レコン・キスタ』と称していた。掲げているのは腐敗した王家を打倒し、貴族による共和制の統治をもたらすこと。そして──かつてエルフに奪われた『聖地』の奪還。この大義が貴族たちの心をつかみ、いくつもの有力な貴族がレコン・キスタへの支持を表明して、その勢力へと加わっていった。(くす)ぶらせていた権力への野心などおくびにも出さず、王家への糾弾(きゅうだん)と共和制の実現、そして『聖地』を取り戻すという理想を彼らは口々に述べていた。

 古びた礼拝堂の中にある、明かりもつけていない暗い一室から、窓の外を行き交う兵たち、そして空に集う何(そう)ものフネを満足げに見やる中年の男がいた。男の名はオリヴァー・クロムウェル。聖職者にはありがちなカールさせた巻き毛に僧衣、説教に用いるのには向いているだろう低い声。どれをとってみても田舎の司教そのものにしか見えないが、彼こそがアルビオン王国を脅かしている反乱軍レコン・キスタの首魁(しゅかい)であった。

 クロムウェル本人の容姿には目立つ所は何もない。特徴らしい特徴といえば高い鷲鼻(わしばな)をしているくらいで、大多数の人間は印象も残さずに記憶から消し去ってしまうことだろう。

 しかし、彼の説教には不思議と人を惹きつける何かがあった。最初にクロムウェルが王家への反逆とその理想の大義を掲げて見せたのは、ある軍人貴族の私邸の練兵場でのことだった。

 その貴族に仕えている私兵たちは、突然理由も告げられずに例外なく全員が集められ、大いに困惑していた。それは大して信心深い訳でもない当主が、冴えない中年司祭を招き入れ、閲兵台へと登らせてみせると抑えようのないざわめきとなって広がった。

 しかし、どういう訳か、クロムウェルが口を開き、説教の言葉を出し始めると、ざわめいていた兵たちはたちどころに水を打ったようにしんと静まり返り、耳を揺らしてくるその声を一言たりとも聞き漏らすまいとでもするかのように熱心に聞き入った。

 静かな熱は徐々に伝染し、声にならない興奮と熱狂が徐々に広がっていき、説教が佳境に入ると、聴衆は感動のあまり静かに涙を流すほどだった。

 最後の言葉を伝えてクロムウェルが説教を締めくくると、静まり返った練兵場はすぐに理想の体現者として万雷の拍手と喝采を彼に浴びせかけ、虜になったように熱狂の歓声を上げ続けた。

 そうしてクロムウェルの掲げた、理想の実現というレコン・キスタの大義は徐々に、ある時点からは急速に広がりを見せ、そして浸透していった。それは明確な力を持って反乱軍という形となってまとまり、さらにその強大さを日毎に増していて、今、アルビオン王家に対する確かな脅威となっているのだった。

 鷲鼻(わしばな)を漂ってきた硝煙と火薬の匂いがくすぐり、クロムウェルは満足げな鼻息を吐き出し、皺の浮かんだ顔を歪めて、両手を胸の前で揉み手をするかのように擦り合わせた。

 万事、滞りなく進んでいる。先刻出した命令は迅速に遂行され、王軍に対してさらなる攻勢をかけるための戦備が着々と整っていることをクロムウェルは理解した。

 レコン・キスタの勢力は拡大の一途をたどっている。最近では勝敗の匂いに敏感な傭兵たちを、敗走の続く王軍から取り込み始めてすらいた。首都ロンディニウムを陥落(かんらく)し、王家をその居城から追い落とすこともそう遠くない日のはずだ。

 来るその日を脳裏に思い描き、クロムウェルはほくそ笑んでいたが、彼を現実へと引き戻すように部屋の扉を叩く硬い音が不意に響いた。

 

「入りたまえ」

「失礼いたします、閣下」

 

 扉の向こうから返ってきたのは精悍(せいかん)な男の声だった。クロムウェルからの許可を得て、扉を開けて入ってきたその男は、部屋の中ほどで深く一礼をすると、衣擦(きぬず)れの音を立てながらゆっくりと顔を上げた。

 男はぎょっとするような姿だった。全身を覆っているローブは闇に溶けるように思えるほどの漆黒(しっこく)で、近づこうとする者に対して明確な拒絶を示していた。さらに、目深(まぶか)に被ったフードの下には顔を覆い隠す無機質な仮面を着用している。その仮面の隙間からわずかに覗く目は何の情も感じることが出来ず、ただ凍てつく氷のように冷たい光を帯びていた。

 

「おお、君か! 待っていたよ!」

 

 それが(まと)っている不気味な雰囲気などまるで取るに足らないことのように、クロムウェルはその姿を一目見ると相好(そうごう)を崩して、立っていた窓の傍から男の方へと歩み寄った。

 

「このような格好でお目にかかり、失礼をお詫び申し上げます、閣下。私の姿を人目に(さら)すことはまだ避けねばなりません故、どうかお許しをいただきたく」

 

 胸に手を当て深々と頭を下げた仮面の男に対して、クロムウェルは高らかな笑い声でもって応えた。

 

「はっはっはっ! もちろん構わないとも! そのような格好など、君が我々に対して果たしてくれているいくつもの重要な働きに比べれば、何の問題にもなりはしない! そうだな、君がそのように仮面で顔を隠している時は、私も君の名前を呼ぶことは()しておこう。親愛なる君の名を呼ぶことが出来ないのは残念なことだが、折角(せっかく)の君の配慮を私が台無しにしてしまっては申し訳が立たないからな」

「お心遣い、痛み入ります」

 

 くっくっ、と心底愉快(ゆかい)そうにクロムウェルが告げると、仮面の男は身体を戻して礼を言った。

 

「しかし、たとえ何者かに正体を暴かれそうになったとて『遍在(へんざい)』の君のことだ。その場で風となって跡形もなく消え去ることが出来るのではないのかね?」

 

 クロムウェルの質問に、仮面の男は少し間を置いてから冷たい声で答えを返した。

 

「……確かに閣下のおっしゃる通りです。しかし、それでは任務を途中で放棄することになってしまう。それよりも、私は近づいてきた者を(いかづち)で貫くことを選びます」

「……ふふふ、聞くまでもない、不躾(ぶしつけ)な問いだったな。どうか気を悪くしないでくれたまえ。君の覚悟を疑ったりしている訳では毛頭ないのだ」

「はっ、ありがたく存じます」

 

 にやりと笑ったクロムウェルに、仮面の男はもう一度礼をした。それから仮面の男は懐へと手をやって一枚の丸めた羊皮紙を取り出し、クロムウェルへと差し出した。ここを訪れた理由、任務の遂行報告のためにだ。

 

「次の攻撃目標である砦に対して、その南方の土地を治めている伯爵との接触、内通工作は完了しました。我々の攻撃が開始されるのに呼応(こおう)して、奴らの背後から火の手が上がると同時に、伯爵麾下(きか)からあの砦に派遣されている兵が門を開放する手筈(てはず)になっています」

 

 クロムウェルが渡された羊皮紙の封蝋(ふうろう)へ目をやると、確かにその伯爵家の家紋が記されていた。中を開いてみるとその言葉通りの内容が簡単に列挙されていて、署名と花押(かおう)がなされている。直に訪れる、炎と黒煙に包まれた砦の愉快(ゆかい)な光景を思い浮かべ、獲物を前に舌なめずりする猛獣のようにクロムウェルは酷薄な笑みを浮かべた。

 

「前後の挟撃のみならず、内部から食い破られるということだな。実に素晴らしい。任務を果たしてくれて感謝するよ。これで我々の勝利は約束されたようなものだ」

 

 クロムウェルの言葉に男は仮面の下で笑みを浮かべた。

 

「お褒めの言葉に預かり光栄です。しかし、ありがたいことに今回の任務はさほど難事(なんじ)というほどのものではありませんでした。向こうも我々と手を結ぶ機会を伺っていたようで、接触してみれば渡りに船と言わんばかりにすんなりと話が進みましたから。その書状の花押(かおう)封蝋(ふうろう)にしても、印すことに一瞬の躊躇(ちゅうちょ)も見せませんでしたからね。小心者とは感じたが、よほど勝ち馬に乗りたいらしい」

 

 わずかに(あざけ)りの色を(にじ)ませたその声色に、クロムウェルは同意するかのように頷いて見せた。

 

「ははは、中にはそのような者もいるということだ。周囲の旗色を伺い、己の身の振り方のみにしか取り柄もなく、保身だけにしか関心のないような奴が。理想の実現に燃える君のような者からすると腹立たしいかもしれないが、時としてそのような奴とて役に立つこともある。今回のようにな」

「おっしゃる通りです。我々の勝利の(いしずえ)となってもらいましょう」

 

 クロムウェルは仮面の男の言葉に不敵な笑みを浮かべて頷き、書状を僧衣の懐へとしまって再び窓の傍へ立って空を見上げた。悠然といくつものフネが浮かぶその空には雲の欠片もなく、太陽が輝いていた。

 

「休息を謳歌(おうか)するはずの虚無の曜日だというのに、王軍の連中はなんと不憫(ふびん)なことだろうな。安らぎと平穏はもはや奴らの胸中にはあるまい。この晴れ渡った清々しい空を見上げても、我らレコン・キスタの軍艦が姿を見せてはいないかと、猛禽(もうきん)に怯える鼠のように目を走らせるばかりだろう」

「これまで自分たちの所業を(かえり)みることなどなく、王座でふんぞり返って権勢を誇ることしかしてこなかった連中です。虚無の曜日、たった一日程度で(あがな)えるような罪ではありますまい」

 

 仮面の男の吐き捨てるような口調でいった言葉にクロムウェルは唇を歪め、肩を小さく震わせた。

 

「ふふふ、まさに。君の言う通りだ。暗澹(あんたん)たる思いを抱えて破滅することこそが彼らには相応(ふさわ)しい。その光景を目の当たりにする時が実に待ち遠しいものだ」

「……しかしながら、我々は続けざまに勝利を収めてはいますが、忌々しいことにまだ王軍に対して決定的な打撃を与えられている訳ではありません。王家が誇る、アルビオン王立空軍もその艦隊自体にはほとんど損害はない。確実に勢いは我々のものであり、その戦力を拡充し続けているとはいえ、客観的に見て彼我の戦力差はまだまだ大きなものがあります。勢いに任せて進むだけでは局地的な勝利を重ねることは出来ても、やがて押し返されることにもなりかねません」

 

 懸念を表明した仮面の男に振り向いたクロムウェルだったが、その表情にはさして気分を害した様子もなく、ゆっくりと頷いた。

 

「……君は実に正確に物事を捉えている。確かに、ただ進むだけではアルビオン王家を破滅に追いやるには程遠いだろう。人の噂には誇張(こちょう)がつきものだが、その例に漏れず我々は(ちまた)で言われているほどの戦力を誇っている訳ではない。現状の我々では、奴らを叩き潰すには未だ程遠い。その実現のためには一手が必要だ。盤面を一変させてしまう、まさに魔法の一手が」

 

 そう告げて窓の外に向いて黙ったクロムウェルが再び口を開くまで、仮面の男はじっと待った。底知れないこのレコン・キスタの盟主が何をその打ち手として持っているのか、興味があった。

 

「時に、君は軍人という人種をどう思うかね? 君もまた広義の上では軍人ではあるだろうが、私が今、主題としているのは(いくさ)働きこそを己が信条とその()り所としている、生粋(きっすい)の軍人たちのことだ」

 

 しばしの沈黙が流れた後、窓の外を見やったまま、クロムウェルは問いかけた。仮面の男はその問いが意味するところを(かい)せず、怪訝(けげん)に思いつつも口を開いた。

 

「人種、とおっしゃいますと、その性質や気質といったところを意味なさっているのでしょうか? そうであるならば、思い浮かぶのは、命令に対する忠実さ、己の身を惜しまぬ献身、国のために尽くす愛国心……そういったものでしょうか。もっとも、それらは理想だけであって、必ずしも現実がそうだとは申しませんが」

 

 クロムウェルは仮面の男の言葉に頷いた。

 

「軍人というものは実に忠実だ。下される命令に対して異を挟むことなく服従し、それを遂行すること。それこそが彼らの絶対の規律であり、美徳。そして……最も愚かしいところでもある。なぜならば忠実に従うことは思考の放棄に他ならないからだ」

 

 窓の外で整列し、上官の峻厳な命令に従って一糸乱れぬ行進を見せている兵たちへとその視線を向け、クロムウェルは続けた。

 

「集団として動く際、個というものは得てして邪魔になる。だからこそ軍人とは指揮、命令に絶対服従し、遂行することを骨の髄まで叩き込まれる。頭脳が下した命令に反して、手足があらぬ方向へ勝手に向かってしまっては、身体がどこにも行くことは出来ないのと同じだよ。ならば、その頭脳さえ抑えてしまえば盲目(もうもく)白痴(はくち)となった忠実なる手足を(ぎょ)すことなど容易い。たとえ目を覚まし、疑義を唱える者があったとしても、それはあくまで少数に過ぎない。数を増やさぬうちに、異物として排除する管理を怠りさえしなければそれで済む」

「……では、その手を既に閣下は打たれているということでしょうか? そのようなこと、人間の中身をそっくり取り換えるようなことでも出来なければ、とても実現するとは……」

 

 胸中で声高に主張し続ける動悸を表に出さないように、抑揚のない声で仮面の男は問いかけた。クロムウェルがいっているのは、軍の指揮官を意のままに操るということだ。そのようなこと、その指揮官の人格そのものを書き換えでもせねば、到底出来るはずがないと思えた。

 クロムウェルはゆっくりと男の方へと振り向く。その顔には、ぞっとするような笑みが浮かんでいた。人を人とも思わぬような、血の通っていることを欠片も感じない酷薄な笑顔。

 仮面の男はそれを見て、背筋が凍るように思えた。走る悪寒が不穏に胸をざわめかせ、気が付けば口の中は一気に渇いて舌が貼りついていた。

 男が仮面の下で動揺の色を浮かべていることを見透かしているかのように、仮面のわずかな隙間から覗かせているその瞳を、クロムウェルはじっと見つめた。

 

「……もはや奴らの思う通りに手足は動かない。杖を振るはずの手は既に腐り落ちているということに、奴らは気づいてはいないのだ。逃げ出すための足もまた、深い泥濘(ぬかるみ)の中にはまり込み、毒に侵されつつあることも。そして、それはやがて全身に回っていく」

 

 クロムウェルが言葉を切ると重い沈黙が流れた。仮面の男は、目の前に立つこの人物が、自身とはまるで違う存在かのように思えて戦慄した。沈黙を楽しむかのようにしばらくしてからクロムウェルは口を開いた。

 

「そして、それはアルビオンに限ったことではない。徐々に浸透していく埋伏(まいふく)した毒、それは王家を(むしば)んでいっている。奴らの怠慢(たいまん)、思い上がりに鉄槌を下し、我らの理想を実現するために。そうではないかね?」

 

 クロムウェルの問いかけに、仮面の男は震えそうになるのを何とか抑えて、首肯(しゅこう)した。

 

「王家の時代は終わるのだ。彼らには消え去ってもらわねばならない。我らレコン・キスタの新しい、輝かしい未来のために、正しい理想の実現のために、彼らには歴史の表舞台から退場してもらわねば。出番が終わったのにいつまでも舞台上にしがみついて残っている役者など、見苦しいことこの上ないのだから」

 

 はっきりと言い切ったクロムウェルは再び仮面の男へ問いかけた。

 

「さて、君のもう一つの任務、そちらの方の首尾はどうかね?」

 

 ひりつくように思える口を何とか動かし、仮面の男はその問いに答えた。 

 

「……当然、抜かりはありません。奴らは私を信用しきっています。秘密裏にことを起こそうとするならば、第一義に私が選ばれるよう、常に手は打ってあります」

「くっくっく……まさに埋伏(まいふく)しているということか。結構、結構! 君は本当に素晴らしいよ! 万事順調に進んでいて、私は実に晴れやかな気分だ。そして誇らしい。我らの同志が理想に向かって邁進(まいしん)していることに、それは他ならないのだから」

 

 上機嫌なクロムウェルの声に、仮面の男は小さく頭を下げた。

 

「お褒めに預かり、光栄に存じます」

「それでは、いくつもの任務を与えていて申し訳なく思うが、『あれ』を確保するための準備についても君は進めたまえ」

 

 その言葉を聞いて、返す仮面の男の声に初めて(かす)かな緊張の色が走った。

 

「閣下が『あれ』とおっしゃるのは……」

「そうだとも。君がもたらしてくれた『あれ』についてだ。確保するために必要となる人選やその備えは君に任せる。金に糸目はつけん。君の好きに使いたまえ。我々には果たすべき数多(あまた)の目的があるが、その中でもとりわけ重要なのが『あれ』なのだ」

 

 その問いに首肯(しゅこう)したクロムウェルの声は、低く、重々しいものだった。その声が帯びる厳然(げんぜん)たる響きに、仮面の男は(ひざまず)いた。

 

「仰せのままに。閣下のお力添えをいただけるのであれば、これに勝るものはありません。必ずや閣下の期待に応えて見せましょう」

「結構。私がやるべきことを粛々と進めていくように、君も着実に任務を遂行してくれるということだ。君には感謝する。そして、それ以上に期待を。君以上に相応しい者はいないのだ。誰よりも我らの理想に共感し、その実現のために果たすべき役割を、誰よりも理解している。そして、そのために必要な能力を兼ね備えている、それが君なのだから」

 

 満足げに息を吐いたクロムウェルに、仮面の男は(ひざまず)いたまま礼をすると、立ち上がって次の任務へと向かうために(きびす)を返した。

 

「……君には期待している。そう、大いに期待しているとも……!」

 

 去り際にクロムウェルから声を掛けられ、振り返った仮面の男は身の毛がよだつように感じた。クロムウェル以外には存在しないはずのその部屋の暗がりに、(うごめ)く何かを見たからだ。しかも、それはねっとりと粘性を帯びているようにも思える、吐き気を(もよお)すような視線でこちらを覗いているように思えた。

 悟られぬように男は視線を走らせたが、ただの錯覚に過ぎなかったのか、そこには何も存在していることはなかった。胃袋の下にぬらりとする異物を流し込まれたような不快感が胸を突き上げてくるようで、仮面の男は敬礼だけをクロムウェルに返して、足を早めて立ち去っていった。

 

「……ふふ……君のもたらしてくれた情報は実に貴重なものだ……! 高貴なる血を引きながらにして、魔法を使うことの出来ない少女……! 彼女は大いなる力を秘めている……! 」

 

 一人きりになった部屋で、クロムウェルは小刻みに身体を震わせ、引き()るような声を上げながら、唇を歪めた、異様な笑みを浮かべていた。見る者の十人が十人、背筋を凍らせるような、おぞましいものだ。

 クロムウェルは狂気じみた光を帯びた、爛々(らんらん)と輝く瞳で左手にはめた指輪を見つめた。一つは神秘的な輝きを帯びた、深い青紫色の宝石が銀の台座にはめ込まれたものだった。窓から差し込むわずかな光を幾重にも反射して、きらきらと星のように輝いている。

 そしてもう一つは、思わず怖気(おぞけ)だつような雰囲気を帯びた黒い指輪だった。その黒い指輪には暗い紫の結晶がはめ込まれていて、見るものを飲み込んでしまいそうな、ぞっとする深みを(たた)えていた。

 それからクロムウェルは両手を広げ、暗い部屋の中をゆっくりと見渡した。彼以外には誰もいないはずのその部屋には、暗がりの中から怪しく光るいくつもの不気味な目がこちらを見返してくる、おぞましい光景が広がっていた。

 

「我が神から(たまわ)りしこの力……この力さえあれば……王国を滅ぼすことなど造作もない! そして、私は新たな王になる……!! そうだ……! 私は神に選ばれたのだ! わはは……わははっ……! わーはっはっは……!!」

 

 自分は王となるのだ。片田舎の小さな教会の司教など、遠い過去のこと。いや、違う。あれこそが夢で、この瞬間こそが現実なのだ。週に一度の安酒二杯をひっかけるのが唯一の楽しみだった、しょぼくれた人生などもうどこにも存在しない。神に選ばれた新たな王として、自分こそが王座に相応しい存在なのだ。クロムウェルのおぞましい高笑いは暗い礼拝堂の一室に響き渡り続けた。




穏やかな時間の裏で、不穏な影はゆっくりと広がり始めているようです。

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