仕事って大変ですね。
ちょっとした豆知識だが、スコットランドヤードはスコットランドにはない。
最初に建てた庁舎がイギリスはロンドンにあるグレート・スコットランド広場(ヤード)に面しているというのが名前の由来であったからだ。
そこから移転をして、ボクの曾お爺様がシャーロック卿とパートナーを組んでいた時期には、テムズ河畔のウエストミンスター橋の近くにある赤レンガの建物に。
現在の庁舎である三代目は、ウエストミンスターのブロードウェイ街にニュー・スコットランドヤードと銘打たれたビルディングが建設されており、ボクとアレクサンダーが向かったのもその場所だった。
愛車のカレラ911を転がしてそこに行くと、アレクサンダーは裏の駐車場に停めるように指示をした。
裏口近くの道端に止めると、彼は一人車を降りて裏口へ向かう。
警備員室からひょっこりと顔をのぞかせる恰幅のいい警備員と一言二言話すと、持っていた細長い紙袋を彼に渡した。
そしてこちらに向かって手招き。
どうやら交渉は成立したようだ。
ボクも続いて車から外に出る。
「賄賂かい?」
「ああ、彼は酒好きでね」
「その酒好きに助けられてんのはどこのどいつだよ」
「感謝してるさ。だから毎回こうして持ってきてるだろう?」
警備員としては失格だと言うべきか、はたまた彼の交友のなせる技と言うべきか。
「まあ、ゆっくりしてけ。いつも通り、長くても二時間までだ。署長が帰ってくるからな」
「ああ、気を付けておくよ」
中に入ると、勝手知ったる他人の家という感じで、ずんずんと進んでいく。
デスクは課ごとに透明なアクリルボードで作られたスケルトンの壁で仕切られており、内部の様子は見えるが、なにを話しているかまでは分からない。
いくつかの部署を横目に、廊下の突き当たりにあるエレベーターにたどり着いた。
エレベーターの前で待っていると、ボク達の背中に視線が向けられているのを感じる。
そっと振り返ると、その場にいたほとんどがこちらを見ていた。
二割はボクへの好奇の視線、そして残りの八割はアレクサンダーに向けられた嫌悪の視線だ。
……これが、彼を取り巻くイギリスという国なのか。
アレクサンダーは全く気にする様子はない。
これだけの圧力の中で平然としているとは随分肝が据わっている。
ボクはというと、さっきから背中にちくちく突き刺さる視線がむず痒く、もじもじと体を動かしていた。
ちーん、という軽い音とともに、ボクは視線から逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
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「お、来たか」
ボク達がやって来たのは広い会議室だった。
どうやらここが捜査本部らしい。
その部屋の一番前、ホワイトボードの目の前のデスクで無線に指示を飛ばしていたのが、グラハム・レストレード警部その人だった。
「メールでも伝えた通り、被害者の身元が分かった。ヘレン・トンプソン。三十三歳。ロックス・ウッドの出身だ。二年ほど前に転職して、銀行の窓口勤務になった。性格は真面目で勤務態度も良かったらしい」
「履歴書のコピーはあるかな?」
「ああ、これだ。結構良い大学を出てるな」
レストレード警部は紙束の中の一枚を差し出した。
「ロンドン大学か……。他の遺体の履歴書も頼む」
「そう言うと思って封筒にまとめておいた。学校を訪ねるのか?」
「ああ、そのつもりだよ」
「関係があるとは思えないんだが、お前がそういうならそうなんだろうな」
アレクサンダーは被害者の経歴に疑いを持っていた。
だが、彼が真剣に見つめる履歴書の中には、怪しい要素は無い。
何が隠されているのか見当もつかないが、怪しい所が無い方がやばいとも言っている。
ボクにはどういうことなのかさっぱり分からない。
そういえば、現場から何か見つかってないだろうか。
「鑑識からの報告は出ましたか?」
「被害者の体表から手袋の痕が出た。どうやら手袋をした状態で脱がせたらしいが、大した証拠じゃないな」
証拠はこれだけか……。
推理するにも材料がなくちゃどうしようもない。
「でも新しい物証がある」
「何かな?」
「服だよ。テムズ川から発見された」
レストレード警部は足元のダンボールから大きな黒い袋を取り出す。
中からは胸元に夥しい量の血痕がついた女物のスーツが出てきた。
「すでに鑑識には調べさせたが、特に証拠は出てきてない」
スーツは全面が大きく斬られており、脱がせるために切り開いたようだ。
「……ああ、やはり」
アレクサンダーが小声で呟いた。
「ありがとう、グラハム。こちらはこちらでやってみるよ」
「とか言いながら解決しちまうくせに。何かあったら連絡をくれ」
そう言って出て行く彼の背中を追った。
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そう言えば、今回の事件でボクはほとんど役に立っていない。
元々戦闘と医療が専門だからとはいえ、こんなんで良いのだろうか。
「キミは転科してまだ二日だ。それに勉強というのは将来できるようになるために行うものだ。今はまだ吸収の時期だよ。気にする必要はない」
スコットランドヤードから被害者の仕事先へ向かう。
道は少々混んでおり、到着までは長そうだ。
「……アレクサンダーは、被害者が別人になっているって言ってたよね。でも、履歴書には変なところはなく、変なところがない方が最悪とも言ってた。ということは、今は最悪のケースというやつなのかい?」
「かもしれないが、そうじゃ無いかもしれない。まだ絶対の確証は無いからね」
そう言いながらアレクサンダーは携帯を取り出す。
どうやら携帯電話は使えるようだ。
国から嫌われた、と言っていたから、携帯電話ですら例の対象だと思っていたが違うらしい。
それとも莫大な電話料金を払っているんだろうか。
「……その視線は見覚えがある」
「え?」
「聞いたんだろう?リバティー・メイソンの情報担当かどこかから。どこまで聞いた?」
彼はスコットランドヤードで受けた視線を完全に無視していた。
疑問だった。
なぜ彼が何もリアクションを起こさなかったのか。
彼と組むのが初めてだからボクは振り返りもした。
背中に突き刺さる視線に耐え切れず反応した。
でも、彼が初めてのはずないじゃないか。
「私のミドルネームのことは?」
それは答えだ。
彼の全てが分かるキーワード。
「………………いや、聞いてないが、言わなくてもいい」
「ほう、気にはならないのか?」
「気にならない、といえばもちろん嘘になる。多分君の先祖は善悪はともかく、有名人なんだろ?」
「……ああ、誰でも知ってるさ」
「でも、そんなことは今は関係ない。君は名探偵、ジーニアス・アレクサンダーであり、ボクはその相棒のエル・ワトソンだ。なら、やることは一つ」
彼の背中を突き刺したあの視線。
あの中に加わるなんて絶対に嫌だ。
断固拒絶する。
過去の人物のせいでボク達の生き方まで干渉するなんて、バカバカしいじゃないか。
ボクは男装している女だ。
それも元を辿れば血筋に絡む問題だった。
今はもうほとんどなんとも思ってないが、やり始めた当初は不満を日記に書き殴ったものだ。
家のためというのも理解している。
でも、ボクは、思ってしまうんだ。
普通の女の子に、と。
「……捕まえよう、アレクサンダー。それがボク達の使命だ」
アレクサンダーは車の天井を仰いで大きく深呼吸した。
まるで緊張状態から一気に解放されたみたいに、すごくほっとしたかのように。
肩書きに似合わず、繊細な人だ。
「そうだな、その通りだ」
何度も確かめるように小さく呟く。
「それじゃあ答え合わせをしに行こう、ワトソン。この先に答えはある」
その一声には、今まで見えなかった彼の感情が顔を出した気がした。
あまり進んでないですね。
少し短いですがキリがいいのでこの辺で。
次回こそは推理を少し見せれると思います。