北の盾たる己が身を   作:黒頭巾

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袁紹につくか、董卓につくか。


情報

幽州の騎兵は、精強である。

光武帝が冀州南戀県で王郎率いる邯鄲の兵と戦った時、そのあまりの兵力の強大さに敷いていた鶴翼の陣の両翼がポキリと折れた。

 

遂には首にあたる中央部までが潰されかけていた時、遊兵となっていた幽州上谷郡の騎兵七百と歩兵三百が矢の如くなって突撃することによって戦況を覆し、後漢書に『死傷する者従横たり』と記されている。

 

この場合の従横とは『足の踏み場もないほど』と言い換えても良いから、足の踏み場もないほど邯鄲の兵たちは殺戮された、と考えてもいい。

 

それほどの強兵が死ぬような戦を重ねているのである。天下のどの諸侯も公孫瓚を無視できないし、彼女を無視できてもその兵卒の勁烈さを無視することはできなかった。

 

「義勇軍も去り、食うに困って攻めてきた黄巾も土に還るか帰順するかを選び、再びの平和。そうなるとやはり、李師殿は怠け始めるわけですか」

 

「まあね」

 

祖母から戴いた史記をペラペラと捲りつつ、紅茶という名称が決定された茶を啜る。

交州方面から来たと言う茶葉は河水の運用網を使用されて幽州に至り、彼の手に収まっているわけだった。

 

「知っているかい、子龍。この茶と我々が飲んでいる茶は、元を正せば同じ物らしい」

 

「橘化して枳となる、というやつですか」

 

「だろうね。まだ何が違うかというところまでは、訊き出せていないが」

 

橘化して枳となる。春秋戦国時代の斉―――今で言う徐州・青州あたり―――の国の名宰相、晏嬰を源とする慣用表現である。

 

彼女が楚―――荊州・揚州・交州あたり―――の国に使者として赴いた時、意地の悪い楚王は晏嬰の目の前に、一人の罪人を偶然を装いながら引き連れてきた家臣を見て、問うた。

 

『この者は何をしたのだ?』

 

『この者は斉人で、盗みを働いたのです』

 

予めそう言うように言い含めておいた家臣の答えに満足した楚王は、更に晏嬰の方へ振り返って言った。

 

『どうやら斉人は盗みがうまいようだな』

 

この底意地の悪い問いに対して答えられなければ世に斉人というものの悪徳が広まってしまうし、晏嬰も所詮はそれまでの人としか史書に記されることはなかったであろう。

 

しかし彼女の弁舌の陰影と機知は尋常一様なものではなかった。

 

『聞き及びますところによると、橘という木は江南に植えれば橘であるが、 江北に植えると枳となるそうでございます。 葉の形はよく似ているが、その実の味は全く違うということです。 どうしてでございましょうか。これは水と土が違うからでございます。

さすれば、この斉の者は斉では盗みをしないのに、楚に来たら盗みをするようになったのは楚の水と土がその者に盗みをさせたということでございましょう』

 

この鮮やかすぎる答えを元とした故事成語たる一言をサラリと言えるあたり、趙雲はただの武一辺倒な武人ではなかった。

 

「兵の具合は?」

 

「工兵五百、歩兵二千、騎兵千に弩兵千五百。いずれもなかなかの仕上がりぶりですぞ」

 

前までの千から、一気に五千。この五倍にも達する膨張ぶりほど、公孫瓚の領土の飛躍と配下の増加を如実に示すものはないであろう。

 

一郡から、一州へ。仕事も増えたが兵も増え、権限も広がった。

一州を統括する者が刺史から牧へと変わったのは名称のみではなく、一人に任せられる権限の範囲が多量になっていたのである。

 

故に公孫瓚陣営はかねてから逃げてきていた人材を大量に吸収し、トップである公孫瓚の仕事も幾分かマシな状態になっていた。

 

「で、君はただ駄弁を重ねに来たのかい?」

 

「それも悪くはありませんな。しかし、予想通りに違います」

 

安楽椅子の上で読んでいた史記を閉じ、傍らにある机に置く。

代わりに目を向けられたのは、趙雲。青い髪と白い着物の如き服を着た美女だった。

 

「何があったんだ?」

 

「色々ありまして」

 

まず、義勇軍のこれまでの働きに報いる形で降伏してきた黄巾兵の一部を吸収して兵力を回復させ、丁重に送り出した。

謂わば、正規兵でもない為に常に先鋒や賊狩りの当て駒として使ってきた時には価値のあった義勇軍が平和と共にその価値を失った為、体よく厄介者を押し付けて追い出したのである。

 

李師としても正規兵になる気配のない勢力を留めおくのは危険であることはわかっていたし、こういう軍政のようなことを取り仕切るのは公孫瓚ら内政関係の官吏であることを推奨していたから特に反抗はしなかった。

 

そして、単経・田偕ら能力には欠けるが古参である将を各郡に振り分け、その上に行政官の側面が強い郡太守を例の逃げてきた名士に任せ、私兵といいつつ主力な李師の軍を増員した訳である。

 

無論公孫瓚直属の白馬軍を公孫越と厳綱の元に付けさせたが、それはあくまでも非常用でしかないものだった。

 

尚、正式に任官した趙雲や厳綱・単経・田偕らは皆等しく階級を上げたが、李師に沙汰は下っていない。

 

単経・田偕らの反対があったのが主原因だと言われるが、実際のところは彼自身のものであることは言うまでもないだろう。

 

「一州で二万、外に動かせる兵力がその内一万、自由に動ける兵力がその内五千というあたり、経済力があまりあるとは言えませんな」

 

「まあ、屯田をはじめてから一年も経っていない。仕方ないさ」

 

黄巾賊を五万人ほど民として加えたとはいえ、彼等に与えられたのは荒れ果てた土地。耕さねば何物も生み出せない。

結果を出すにはあと一、二年の歳月が必要だった。

 

「あと一年あれば、兵も更に精強になったでしょうに……残念ながら、平和は終わりです」

 

「……袁紹が董卓を討伐するとでも言い出したのか?」

 

「驚きましたな。その通りです」

 

「そりゃあわかるさ。私は怠け者だが、見える物を理解する程度の頭はあると自負している」

 

つまり、現在の状況から自然と察せられる事象の推移は順序立てて予想することができる。

 

「檄文が届き、伯圭殿は私を召し出した。しかし嫌われ者の私の元へ赴こうとする者がおらず、奇特者の子龍が来た。違うかな?」

 

「合っております。では、そのままでもよろしいから登城なさるよう」

 

儀礼には最低限の気しか使わぬ街の隠者というべき格好を上から下まで視線を移動させて視認しつつ、趙雲はくるりと身を翻した。

 

言うだけ言って颯爽と去っていく趙雲の後を追うように李師が立ち上がり、呂布もまたゆっくりとそれに続く。

 

向かうところは、州府。幽州の軍政両輪の中心である、小振りな城だった。

 

「……お、来たな」

 

「まあ、来いと言われれば来ますよ」

 

郡太守の時は怪しかったが、流石に州牧に対しては敬語を使わざるを得ない。

そんな認識とともに、彼らしからぬ敬語つきの言葉が飛び出した。

 

「そこに座ってくれ」

 

示された席は、公孫瓚のすぐ近く。即ち、かなり上席と言えた。

 

(参ったな)

 

軍権を縮小された古参の将や、逃げてきた名士たちに純粋な能力の差から本来得るべき地位を奪われた官吏からの視線が痛い。

自分がどういう状況下にあるかは知っていたが、嫌っている人間を解きほぐそうとも思っていない彼の弱点が、この場では露骨に出ている。

 

名士とそれ以外との地位的格差はだいたい能力的格差と同一だと言えたが、それに比例して確執も大きい。

彼女等には元々公孫瓚に仕えていたということから生ずる縄張り意識が強すぎるのかも知れなかった。

 

「で、この度麗羽―――あ、袁紹。袁紹から董卓打倒の檄文が届いた訳だ。これについてどうするか、諸君の意見を聴きたい」

 

「考えるまでもないでしょう。あの涼州人が悪政を敷いているならば、それを除いて糺すのが漢の臣下というものです」

 

単経の言った言葉は、その場のそれ以外の意見を封じ込めるが如く鳴り響く。

確かに、董卓が悪政を敷いているという事実はこの幽州にまで聴こえていた。これを交通の要衝で情報の入りやすい冀州を領有している袁紹が掴んでいないわけがないし、掴んでいるならば何事かの行動を起こさないはずがない。

 

「少々よろしいですかな?」

 

「なんだ、子龍?」

 

「いや、董卓が悪政を敷いているというのは事実なのかと。そう思いましてな」

 

会議開始から半刻保たずに突っ伏して睡眠形態へと変化している李師以外の全ての参加者がその前提を崩すような言葉に顔を見合わせ、唸りを上げた。

噂による下地と、袁紹の檄文による盛り付け。この二つによって、この会議はそもそも『董卓は悪政を敷いているか』ではなく『悪政を敷いている董卓をどうするか』という方向へと向かっている。

 

この辺りに、趙雲はきな臭いものを感じていた。思考の方向を操られ、固定されたような気がしたのである。

 

「悪政を敷いている董卓の姿を直接見たわけでもないのに噂だけで『悪政を敷いている』と決定づけるのは如何なものかと」

 

「しかし、善政を敷いているとの噂もない。もしも何者かが噂を巻いているとするならば、両者が混在してしかるべきだろう」

 

情報操作をするならば、操作されそうになったもう一方も自然動くものだ。

混在してしかるべきではないかという意見は、まったく間違っていないといえる。

 

「あれな言い方ですが民は常に順当さを好みます。田舎者が善政を敷いているというより悪政を敷いていると言った方が順当ですし、何より広まりやすいのではありませんかな?」

 

これに対して趙雲が言ったのは、善政を敷いているとの噂は有るには有るが過小に過ぎているのではないか、ということだった。

実際のところは、これが正しい。あるにはあるが、覆い潰されていたのである。

 

「だからこそ、混在してしかるべきではないかと言っているのだ。全く善政を敷いているとの情報がないのは、それが事実でないからとしか思えぬではないか」

 

「それが逆に妙ではありませんか?」

 

「妙?」

 

諸事婉曲的な発言でやり込めることを好む趙雲は、更に頭を巡らせて攻め方を変えた。

 

理論から感覚へ、である。

 

「そうです。本来ならば事実はどうあれ董卓は悪政を敷いている噂をなかったことにしたいはずではありませんか。善政を敷いていると噂を流すとか、口封じをするとかやりようはあるでしょうに、悪政を敷いている噂のみが蔓延している。これは都合よく情報が封鎖されているのではありませんか?」

 

「馬鹿な、そんなことできるわけがないであろうが」

 

「我らは袁紹陣営の領土に他の領土との交流を遮られている。充分に有り得る線だと思いますが」

 

ちなみに、これも正しかった。実際に袁紹は情報を遮断し、幽州に向かう商人たちに噂を広めるように申し伝えていたのである。

 

もっとも、この戦法は袁家の金があればこそのものだったが。

 

「……李師、どう思う」

 

「あぁ?」

 

寝ぼけ眼を擦りながら、吃驚したのと何なのかを問うのを混ぜたような言葉が口から漏れ、李師は突っ伏していた姿勢から軽く上体を起こした。

 

「……うん?」

 

「お前はこの檄文に対して何を思う?」

 

帽子を外して頭を掻きながら、辺りを見回す。

完璧に寝ぼけている彼に対して公孫瓚はあくまでも怒らず、繰り返し声を掛けた。

 

「正しい事実に沿った行動が正しいとは限らない、ということでしょう」

 

起きて三秒くらいで、李師の意識は覚醒した。

これは後ろに立つ呂布が驚くほどの好タイムであり、普段寝起きと寝る前は何を言ってもいまいち鈍いような反応しか返さない彼からすれば有り得ないようなことなのである。

 

無論、公孫瓚が知る訳もないが。

 

「正しい事実とは何だ?」

 

「董相国が悪政を敷いていないということですよ」

 

「どうやって確かめた?」

 

「百聞は一見に如かず。元部下の娘を洛陽にむかわせました」

 

直接見させた、ということだった。

このものぐさが己から遠く洛陽くんだりまで行かせたことに驚き、公孫瓚は顎に静かに手を当てる。

 

「……正しい事実に沿った行動が正しいとは限らない。つまり、董相国に与するのはよろしくない、と?」

 

「民はあくまで悪政を敷いていると思っているし、董相国は内外に敵を抱えた状態です。純戦術的に見ても勝てるとは思えませんし、戦略的に見れば既に負けています」

 

あまり気の進まなそうな李師の弁論が、会議の場を一気に白けさせた。




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