北の盾たる己が身を 作:黒頭巾
「まず、袁紹のとった手から説明します」
一枚一枚、障害を取り除いて己の防壁に変える。
敵を称えるような質ではない彼にも、今回の戦略は見事の一言に尽きるものだった。
「まず、彼女はどのような人間だと思われますか?」
「まず、直情的で気が短い。思慮が浅くて尊大で、自らの意思に反するものを排除するところ執拗な、阿諛追従を好む人間じゃないのか?」
つまり、感情的になりやすい短気というたちであり、馬鹿で傲慢。暴君めいた気質を備え、佞臣を招きやすい。
公孫瓚が言った印象の正確さは友として散々迷惑を掛けられてきた経験によるところが大きく、よく見てこざるを得なかったからだと言える。
しかし、傍から見た李師の印象はそれとは違っていた。
「短絡的で直情的な人間ではありません。いや、普段はそうかもしれませんが、怒れば驚くべき遠大さと生来の気宇の壮大さを、自分の意思に沿う進言を積極的にとることで凄まじいまでの推進力を得ることになるのです」
「いやに高い評価だな」
決して自分に向けられることのない彼の激賞に嫉妬を覚えながら、公孫瓚は僅かな棘を含ませて呟く。
それは彼女らしからぬ毒であり、目敏い単経たちを喜ばせるものだった。
「彼女の多くある短所は、この際董卓陣営に対してなんら益を齎していません。人と人とが戦う時はその者が持つ長所のみでなく短所が勝因となることもあることは歴史が証明していますが、この目で見ることになるとは思っていませんでした」
噂という無形の刃を董卓陣営に対して突きつけ、民の意思という無形の味方をつけ、諸侯がそうなるように誘引する。
短気で我儘な彼女は、今や稀代の謀略家となっていた。
「無形の刃、無形の味方。それが実を誘引し、目的を達成させる。見事なものです」
「……で、私に麗羽の方につけ、と言いたいのか?」
腕を組んで考えながら、公孫瓚は李師を見据える。
彼が戦になると異様なまでの冷淡さを発揮するのは知っていたが、いざ大義や正義と言うものを踏みつけている自覚もなしに蔑ろにしているところを見ると、彼女は心穏やかに入られなかった。
「そちらの方が賢いと思います」
「だが、私は何の罪もない人間を袋叩きにする企てに嬉々として参加する気にはならない。董卓陣営につきたいし、できなければ中立がいい」
模範的な優しさと寛容さを持つ彼女からすれば、常識的な反応を取らざるを得ない。
即ち、袁紹の私欲から発した軍旅に加担し、無実の少女を殴りつけたくはないという善性の発露が、彼女の言葉の根幹にある。
「ですが現実面、抗しても術がありません」
「黙れ李仲珞!」
あくまで国家を運営し、一州の兵権の全てを掌る者としての最適な判断を期待する李師には、李師なりの考えがあった。
正直なところ、彼は己の手の長さというものを見切ろうとしている質なのである。
つまり、幽州の民を守ると言うのならばそれだけに専念すべきだろうという目的意識が道義的・感傷的な感情を否定した。
だが、他の人間から見たならばそれはただの非情に過ぎない。やらねばわからないことをやろうとしない臆病と怠惰と、自己保身から出たものだと見える。
「貴様には正義と言うものを尊ぶ意志がないの!?
情も正義もない貴様にはわからんだろうが、人には守るべき道理があるのだ!」
単経の言う、正義。正義という言葉が今まで何百万人の標として死へ誘ってきた。
彼には正義と言うものが殺人の方便に聞こえる。
他人を殺して守るべき道理があるのか。殺さずに済む他者を殺し、己の自尊心と良心を満たすことが、どれほど愚かしいことか。
或いはそれは、己に向けたものかも知れなかった。
彼も他人を殺し、数多くの物を守ってきている。その守ってきたものが正義という実益を伴うものでは無いだけで、本質的にはわからない。
こちらが数年の平和を得る為に、何万人を殺したことか。
己が無意識に嫌悪を向けたのは、もしかすると己なのかもしれない。
己の取る行動が、己の嫌悪に値する。
(……私が言うべきことでもないな)
それに、単経が言う様に公孫瓚の行動も正しいのだ。人は基本的には公人としての職務に個人の都合と心情を加味させるべき時以外には加味させるべきではないが、この局面はただ一人を大勢が壮大な謀略と武力を以って嬲ろうとしている非常時。
軍が民の虐殺を命令されたら、その将は良心に沿ってその命令を受けぬべきだろう。
この場合も、そうは言えるのではないか。
「公孫幽州殿、あなたが正しいのかもしれません。この場合は、判断に人の情が介在すべきだとは、私も思う」
その上で自分は、幽州のみをとって他を切り捨てた。守れるものには限りがあるし、人の手には届く範囲というものがある。
自分ならば、そうはしない。自分の両手を合わせても、幽州の民と董卓陣営を抱えることはできないのだから。
しかし、彼女ならばわからない。
「後の憂いを断つためにも、旗幟は鮮明になさるべきでしょう。旗幟を曖昧にして良い目にあった者はいないと、歴史が証明しています」
「……いいのか?」
単経の激論によってもたらされていた沈黙を破り、公孫瓚はすまなさげに問うた。
君主としての自信のなさが、ここにもある。
「あなたが慰撫し、慕われている民でしょう。問うて、説得し、意識を共有すれば或いは軍を動かせるかもしれません」
袁紹の工作によって彼女の意思の通り以外に軍を動かすことは極めて困難となっていた。
民は董卓こそが悪の首魁だと思っているし、将兵もそう思っている者が多い。
公孫瓚や上層部が董卓こそが正義だとわかっていても、その意識が末端まで共有され、納得させなければどうにもならない。
軍を動かすには、兵の士気と民の支持が要る。
それを失った軍隊が勝ちを収めた結果は歴史になかった。
「では、勝算はあるか?」
「董卓が内部の不穏分子を処理しきれば、二割。このままでは一割」
「そ、そんなに低いのか?」
「外から圧し潰される公算の方が高いのですから当たり前です。因みにこれは馬騰が連合に参加すれば更に確率が落ちますから……まあ、実質は不穏分子を処理しきって一割でしょうか。頑張って下さい」
私はやらん。
言外にそう漏らした彼の肩を、二人の手が掴んだ。
「李師殿、逆境はあなたに不思議と似合う。腕の見せ所ですな」
「李師。すまないが、働いてくれ」
「…………」
完璧に喜んでいる趙雲と、気に病んでいるような公孫瓚。
李師は単経らの鋭利な視線と肩の重みに耐えかねて肩を落とし、思わずといった形でため息をつく。
彼の頭は、逆境に陥ったことを機敏に察知していた。
そして皮肉なことに、この時既に彼の頭は怠惰を貪る堕落形態から勝率を必死に上げるべくシミュレートに勤しんでいたのである。
「……まず、敵を減す」
「誰を?」
議場での会議が終わり、数日後。
趙雲を招いた彼は、いきなりポツリと喋りだした。
「私はなるべく戦いたくない。だが、相手が闘争を欲している以上それは無理だ。なら、せめて楽をしたい」
道理だな、と趙雲は思った。
懇願して翻意するような相手ではないし、第一翻意するような相手ならばここまで周到かつ深遠に用意をしないであろう。
世に出る原因も、袁紹。
今働いている原因も、袁紹。
袁紹という存在は、彼にとっての鬼門らしい。
「幸いにして各村の代表を集めた集会で公孫瓚が説き伏せてくれた為、軍は動かせる。これを利用しない手はなかったから、勝率は現在無いわけではなくなっているわけだ」
(幸いにしてと思うあたり、戦いたくないという己の願望を他者の懇願で押し込めているのでしょうなぁ)
案外と冷淡さを見せるところもあるが、本来この男も相当なお人好しなのだ。
その内面の複雑さを好意を含んで見てきた趙雲は、僅かな憐憫と敬意を以って彼を見ていた。
「子龍」
「は」
「連合の中で最も手強いのは袁紹だ。二番目は?」
相変わらず高い袁紹の評価に驚きつつ、趙雲は顎に手を添えて思考を巡らす。
彼女も馬鹿ではない。寧ろ目端の利く方だった。
彼女の判断は、案外と頼りになる。
「さぁ……袁紹の智嚢である曹兗州殿か、彼女の従姉妹である袁豫州かのどちらかでしょうな」
曹兗州こと曹操の英明さ、覇気の強さは天下に鳴り響いているし、戦も上手い。内政もうまく、何より無類の戦略家である。
袁豫州こと袁術は大兵力という巨体に孫家という牙爪を備え、その武威は揚州をも切り取らんとしている程だった。
「間違いなく曹兗州の方だろう。私の母・李瓚は私に『世の中は今に乱れるだろう。天下の英雄のなかで曹操に過ぎるものはいない。張孟卓は私と仲が善いし、袁本初はそなたの親戚ではあるけども決して彼らを頼るな。必ず曹殿に身を寄せよ』といい残された。曹兗州とはことを構えたくはない」
「………ん?」
少し面白いことに気づいた趙雲は、顎に手を添えたそのポーズのまま何事かを考えた後に、軽い調子で問う。
「……袁家と血の繋がりがお有りで?」
「私の父方の祖父、つまり祖母・李元礼の夫が袁家一門だった。祖母とは仲が良いとは言えなかったらしいが、それでも二人は夫婦の務めを果たして父・李瓚を儲けた。そしてその父の子である私もまた袁家の血を引いていると言えなくもないんだ」
中々に選良と言っていい―――いや、貴門と言って差し支えない血だと、趙雲は面白味を感じながら頷いた。
だがしかし、その選良同士の血から産まれたのがこの怠惰な男なのだから、貴門の血というのも案外宛にならないのだろう。
「貴門の血は退廃と怠惰を呼ぶ。それはあなたに於いても同じですが、どうやら変わり種のようだ」
「人類上の変わり種である君には言われたくないな、子龍」
言葉と共に突き出された竹簡を受け取り、趙雲はくるりと宙に放った。
ジャグリングでもするかのような軽業は見事なものであったが、彼女が持つ物はジャグリングに使われていいようなものではない。
「で、これはどうするので?」
「曹兗州を封ずる一書だ。丁重に、且つ厳重に送り届けてくれ」
あの短時間で封ずる一手を思いついたのかと驚きつつ、まあさもあらんと納得するような気持ちも、彼女の中にはある。
ジャグリングを止めて竹簡を左手に掴み、趙雲は軽く肩を竦めながら皮肉を吐いた。
「私にとって伝騎は、ちと荷が軽すぎますな。単経や田偕ならば、適任でしょうが」
「ならそうしてくれ。私はいつになく忙しいし、何より両者とはあまり関わりたくはない」
「よーく、わかりました」
単経も、田偕も、心の底からどうでもいい。
そういう気持ちが手に取るようにわかる彼の反応に、大仰な手振りを帯同させながら頭を下げる。
(皮肉も通じないほど無関心というのも、如何にもらしいというか……まあ、仕方ないのでしょうな)
人間関係に無関心と言うのか、あくまで受動的に徹すると言うのか。
こちらから寄っていけば基本的には拒まないが相手に拒まれた時にその相手との関係を無造作に捨ててしまうようなところが、彼にはあった。
現に近寄った己はその毒棘のある人格も含めて許容され、端から嫌悪があった単経・田偕の類は人格的にはまず平均と言っていい人間であるが、完璧に彼の積極性と興味を失わしめている。
人格的には己よりはるかにマシであろうと思われ、事実そうなのにそうなった。
(難儀なことだ)
軽くため息を付きながらも含みのあるような笑みを絶やさず、趙雲は公孫瓚の元へと向かう。
無論、この竹簡を適当な人物に授けて曹操に届けさせるようにと言うのが目的だった。